今、二十代中盤。
いまだに精神的にはガキのままだ。
中学くらいから、ずっと、正義とか、真理とか、真実とか、何の得にもならないことを考えて来た。
哲学にかぶれたり、倫理学に手を出したりもした。科学にそれを求めたこともあった。
疑いようのない、絶対的な一つの指針みたいな物を、ずっと探してた。
三十歳が見えてきた今も、それはまだ見つかっていない。
二十歳を過ぎた頃からだろうか。そんな絶対的な物なんて、なくたっていいじゃないか、と思うようになってきた。
みんな、そんな物なくたって立派に暮らしているだろう?
そんな物なくたって、幸せになれるだろう?
そう考える度に、それは妥協だと、自分に言い聞かせてきた。
どんなに自分が幸せを感じたって、豊かな人生を歩んだって、それを計る指針がなければ……。
死に際になって突然、「あなたはこれをするために生まれてきたのだ」と神から教えられたとして、それに背いた生き方をしてきた自分は、「満足のいく人生だった」と納得できるか?
もちろん神だなんてのは物の例えだ。
けれど、何でも良いから心の底から宗教を信じられれば幸せだったかも知れないとも思う。
疑いようのない、確かな物を持っているというのは、それだけでとても凄いことだと思う。
今、歳を重ねるにつれ、昔抱いていた疑いようのない確かな物への憧れは、徐々に薄れて来ている。
それが当たり前なんだと思う。
みんなそうやって生きている。それで何も困らない。
けれど、自分の中の一部がそれを否定する。
このまま、妥協して生きていきたくない。
けれど、それを見つける術は、まだ見つかっていない。求めれば求めるほど、それは存在しないのではないかと思えてくるほどだ。
華厳の滝はやめとけ。二番煎じだから。真剣な奴は生きるべきだ。 生きるんなら好きなだけ悩んでくれ。それはともかく、この世はおもしろいぞ。
本質主義?とはまた違うのかな。 この世には絶対的なものなんかない。多元的に「真実」は存在するのだ。 だからあなたはあなたの真実を探すために、 挑戦し、挫折し、そこから学び...
世の中の複雑さ(あらゆる価値観のレイヤーが複合的に折り重なっていること、あるいは、「世界」の運行は一個人の意思とは無関係であること)に気づくことと、単に無原則に妥協を重...
仕事はなにやってんの?
疑いようのない、絶対的な一つの指針みたいな物を、ずっと探してた。 俺はそれを10台で見つけたよ。 「永遠に死にたくない」 が俺の人生の真理だ。 でもそれを追求する方法も才...