物心ついたころには、もう弟が生まれていて、私は「おにいちゃん」と呼ばれていた。
弟は名前で呼ばれる。
しかし私はお兄ちゃんと呼ばれた。
母から、祖母から、父から、祖父から。
家庭の中で名前で呼ばれることはなかった。
私の名前を言いつけていないので、私を他人に紹介するときに弟の名前で紹介してしまうほどだ。
弟が生まれて20年以上経った今ですら。
一樹と大輝、のように韻を踏んだ名前であるのも混同の原因ではあるのだが。
学校では、家の名前で呼ばれるのが普通だった。同じ名字の者は居なかったから、当然とも言える。
でも、お兄ちゃんと呼ばれないことが、今考えると嬉しかった。私の名字は私自身を示す記号だったから。
部活で部長をやっていたけど、部長と呼ばれるのは少し嫌いだった。厄介ごとが起こる徴でもあったし。
役割で呼ばれると、義務を負っていることを否応もなく思い出させてくれる。
兄であれ。長男であれ。気を張っていろ。親戚同世代の先頭を行け。年長なのだから。男子なのだから。期待がかかっているのだ。金もかかっているのだ。ずいぶんと時間も投資したのだ。今日の成果を見せてみろ。明日の成果を出してみろ。
しかし、私はひとつの役割を演ずる装置だった。
独り立ちをして、私は私の記号としての名字をまた手に入れた。しかし、この記号は仕事のアウトプットに付いた記号だ。
やはりこれは役割だ。
さて、このネットという文字の大海に、今私はひとつの無個性な文字列として在る。
自分が役割ではない。装置にならなくて良い。このことが、どんなにもうれしいことか。
私が誰でもないことの開放感といったら!
でも、もうネットで遊んで10年。そろそろ、この希薄な自分にも飽きてきたかも知れない。人間に戻る頃合いかも知れない。
願わくば、私を、私自身を示す名を、私だけのために呼んで、私をひとりの人間に戻してくれる、そんな人を見つけることができますように。
今日からキミを増田と呼ぶことにするよ