悪いけど前世なんてものはない。
すべてから縁を切ってみればいい。
まわりの人としても、君に死なれるよりは
行方不明になるほうがずっとマシだ。
縁を切れば生きる理由はなくなるが、死ぬ理由もなくなる。
人間関係がほしくなったならそこからやり直せばいいだけさ。
人生は長い。
自殺だけは絶対にやるな
って言われても、
自殺をする人は前世でも自殺してるし
前世から決まってたんなら、俺がやめようと思ってもやめられないですやん…
敵対者とみなしたものに攻撃性を示すのって古今東西あらゆる個人や組織に当てはまることなんじゃないかな。それを寝投与とかはてな左翼の特質(共同性?)であるかのように言うのはやはり違和感がある。
生きるのが苦しくても自殺だけは絶対にやるなって神主だったじいちゃんがよく言ってたよ。
自殺をする人は前世でも自殺してるし、来世でも自殺する事になる。
自殺すると一生同じ輪廻を巡ることになる。
埔里クラというより彼氏のブログに成功をほのめかしたり、おたを馬鹿にする記述があったのが駄目なのでは?
増田を書くことを生業としてると、
細かい事実誤認にイチイチ突っ込む習慣がついてしまう。
ネットの上では重宝(?)するこのスキル、
リア充社会では単なるウザいやつと思われてしまうようだ。
もう少し脳ミソの回転が早ければ対応できるんだろうけど、
四六時中脳内でエントリがグルグル回ってる状態。
布団の中ではノーパソを横向きに立て、
電車の中ではケータイから増田チェックする。
ブロガー気質に少しでも理解がある人(主にはてなー)なら
その辺をくみ取ってくれるんだけど、
mixiなんかでは単なるKYだ。
「じゃあスムースな会話をするためにはどうしたらよいのか」
なんて更に小難しいことを考えてしまうようじゃ、だめなんだろうな。
本当に悩ましい。
しぬー。
っていうか日本共産党は外国籍の党員を認めない民族主義政党じゃなかったっけ。
生きなきゃいけない理由を考えると途端に死にたくなる。
例えば借金の行方とか親や友達が悲しむとか、自分が死んだ後に残されるはずのものごとについて考えると、当然死んじゃ駄目だと思うのだけれど、だからこそ死にたくなる。生きなきゃならないという事実から逃げたくなる。
生きねばならないという事実が重すぎる。生きねばならないということが希望ではなく絶望だ。
いつ死んでもいいくらいに何もかもと縁をなくしてしまえば、もっと気楽に生きれる気がする。
でもそんな生も絶望なんだろうな。
誰かのため何かのために生きている方、何故それが活力になるのか、どうか教えて欲しい。
ネット上の関係なんだから全員が顔見知りってわけでもないでしょ。何でも。
顔見知りじゃないからこそ、嫌な部分を目にせず付き合えるというのはあるだろうし、
寂しい同士だから、かえってネットを通じた仲間意識みたいなのが強まるわけで、
それが敵対者とみなすや否や魔女狩り的な炎上騒ぎにつながったりする、と。
「宮崎駿」「限界」でググって出てくるようなことを書くつもりはない。
僕は宮崎駿に限界が来て欲しくない派だからだ。
しかし来るような気がする。
何も「崖の上のポニョ」がつまらなかった、とかではない。むしろ大傑作だと思った。
しかし「ハウルの動く城」で僕が初めて感じた宮崎作品への不満が「ポニョ」でも解消されていなかった。
いや、解消どころか、堂々と居座っていた。
その不満とは、食い足りなさである。もっと広がるんじゃなかったの?という。
例を出すならば、「ハウル」ならハウルが戦っている戦争の背景事情、ソフィーが悟るハウルとの因縁など。「ポニョ」ならば町が水没した後。いずれも作品の後半だ。
ちなみに「ポニョ」のそこからのくだりは、素晴らしいクライマックスだったとも言えてしまう。おそらく最後のカットが運命的に素晴らしかったからだ。しかし水没から最後まで、話が省かれ過ぎた感じは残った。
その食い足りなさは監督の意図どおりだという。
いわく、子供なら分かる。大人は理屈で説明されないと分からないようなシーンでも、曇りなき眼で見る子供たちは起きていることをそのまま捉えるので分かるのだ。メディア上の宮崎監督の話を、僕はこのように聞いた。
ここに僕は宮崎駿の限界の予兆を感じた。
結論から言うと、隠れ蓑に思えたのだ。
自らの構想力・創造力の疲労を肯定するのはいい。監督とて人間。脳も体も老いる。
しかし、「子供」なら分かってくれるという言い分は自己完結につながりやすい。
「子供」の純粋な美しさとだけ、付き合いたい。汚い「大人」は対象外だ。監督がこの方向に行きそうな気がする。
宮崎監督が創り出すファンタジーとは、世界を曇りなき眼で見、曇りなき行動を起こしたときに生じるかも知れない奇跡だと言えるだろう。
その意味で、宮崎アニメを渇望しているのは「大人」だ。
実は奇跡がすぐそこにあるのだという信念を欲しているのは、どんどん曇っていく自身の眼に不安を覚える人たちだからだ。
そして、そんなことは監督は重々承知しているはずなのである。
「崖の上のポニョ」のパンフレットの1ページ目に掲載された「監督企画意図」には檄文かと見まがうような熱く、子供向きではない言葉が並んでいる。「少年と少女、愛と責任、海と生命、これ等初源に属するものをためらわず描いて、神経症と不安の時代に立ち向かおうというものである」。
このようにして宮崎駿は闘ってきた。そしてファンタジーという信じられる嘘、つまり奇跡の可能性を物語ってきた。宮崎アニメの絶大な人気の背景には、まさにこのような姿勢に対する「大人」の支持があったはずである。
僕は宮崎駿の創造力の減退が即、彼の限界を意味するものではないと思っている。体力に見合ったサイズで風呂敷を広げ、小気味のいい素晴らしい作品は作れるはずだから。
宮崎駿が自分の父なら何も言わない。幸せになって欲しい。
しかし彼は時代に選ばれてしまった。明らかに時代が欲する、偉大な才能だ。
宮崎監督にはその自覚を持って欲しい。
最後となる作品は、僕らが決める。自分で決められるなんて思わないで欲しい。
そして何よりも、神経症時代との闘いをやめないで欲しい。
「子供」たちの世界の外から「子供」たちを描き続けて欲しい。
おそらく彼は「もうやめたいよ」「汚いこととなんて関わりたくないよ」と愚痴りながら闘う人なのだろう。
僕が限界の予兆としてあげつらった発言も、オリンピックの金メダリストが練習中に吐いた弱音と同種のものなのかも知れない。
いや実際そんな気もしてきた。
だとすればこんな文章はクズみたいなものだし、単に宮崎アニメの典型的な一ファンのファンレターとして読んでもらえればいい。
増田よ、説明してくれ。
「プリクラが流出したこと」が「メンバーとしての自覚に欠けた軽率な行動」なの?
恋人がいた時点でアウトなの?
プリクラ流出したのって本人のせいなの?
終戦の日です。
護国の鬼と化した日本の兵隊さんに感謝するために、靖国神社に参拝してきました。
って何なんだよ。
日本は負けてるんだよ。
護国って何だよ。
国を守りきれてないだろ。
護国の鬼がワンサカいるのに負けたってなんなんだよ。
言ってて恥ずかしくないのかよ。
それとも誰かに恥をかかせたいのかよ。
それとも現実を見たくないのかよ。
とはいえ、亡くなった兵隊さんには合掌。
許してね恋心よ 甘い夢は波にさらわれたの
いつかまた逢いましょう その日までサヨナラ恋心よ
時を重ねるごとに ひとつずつあなたを知っていって
さらに時を重ねて ひとつずつわからなくなって
愛が消えていくのを 夕日に例えてみたりして
そこに確かに残るトリアージ
って確かに聞こえるサウダージ
ずっと誰かが書いてると思ってた。
一応突っ込んどくがそれははてな村民に失礼すぐるだろjk
俺もプログラマだから判る。はっきり言ってプログラマ同士でもお互いにウザく感じるだろ。ミーティングとかで細かい話が延々と続いたりする。
ま、仕事は仕事なんだから、しょーがねぇよな。
だから俺らプログラマは「いろんな自分」を作る。
プログラマである自分、女の子と話してる自分、家でくつろいでる自分。
でもさ、女の子と話してると「プログラマさんっぽい感じがするよ」って言われる。どこか出ちゃってるんだろうな。
たった就任6ヶ月で、道路特定財源一般化と公務員制度改革を成し遂げ、
就任早々から各国との外交を精力的にこなし、
バラマキ族の圧力に負けずに補正予算の執行額を
目標だった1兆円以上の近くで踏みとどめ、
それでいて企業側に非正社員の社会保険と厚生年金の適用を
認めさせ、 児童福祉と子育て手当てとフリーター自立支援を
予算に設けつつ、国債を減らして財源建て直しをスピードアップ、
食の安全をガンガン強化して悪徳業者をガサ入れ、
中山恭子を首相補佐官から拉致問題担当相で格上げて北朝鮮を逆ギレさせ、
労働派遣法を改正して日雇い派遣完全廃止で悪徳派遣業者を締め、
「失敗したら即花道スペシャル」の重圧下でも重要なサミットに成功し、
「竹島教科書掲載見送り」を白紙に戻し、「懲戒解雇職員」を「非正規職員」
に採用しようと提案した社会保険庁のアホな要求を見事に拒否し、
消費者庁を創設し日本国民の利益と消費の安全を守って、
国民の大多数が疑問に感じていた「構造改革」の見直しを明記し、
クラスター爆弾禁止をアメリカに働きかけて、
地球温暖化や環境破壊を食い止める低炭素社会成立に全力をあげた政治家