こういうことあるなー
昔あったなー
いや今でも多分あるだろうなー
とは思うんだけど
しかし真の意味でこういった自尊心ゲームに囚われない、という状態は、そもそも人間に可能なのだろうか?
自分は今は昔ほどこういったゲームに囚われていないと思っているが、おそらくそれでもゼロではない。
そういったちっぽけな優越感だとか自尊心と完全に離されたところにある「本当に好き」などありえるのだろうか?
てか「本当に好き」ってよく言うけどそれは何なのか
自分の優越感や自尊心のために「好き」っていってたとしても全くもって「好き」という気持ちが無い、ということのほうがおそらく珍しい。やはり何割かは普通に好きな面もあるからこそ自分をも騙せて優越感ゲームに使えるわけで……完全に好きでもなんでもなく自尊心や優越感のためだけに言っていたとしたら、そもそもそれでは優越感を得られない気がする。自分では「それが嘘」って完全にわかっちゃってるから。ある程度、自分をも騙せるほどの「真実味」がそこには必要なわけで……
「こんなの好きっていえるオレ・ワタシすげー」でも、やはり数割は普通に「好き」な場合が多いんじゃないかって気がするのだ
そもそも自尊心ゲーム優越感ゲームに囚われることは「悪」なのか?
正直生きて行く以上、どうしようもない気がする。ちゅーか、この域を脱することが出来たらその人ってもう仏陀じゃね?そこまでは言わずとも確実に出家完了してるよな。俗世間を切り離すとか常人に可能なのか?
自分の中のこういった優越感ゲーム的な心情を察知して、ときどき嫌になることは確かにある。けど、じゃあそれを取り除くか、って考えると、なんだかそれもつまらん気がするんだよな。完全には無理とはいえ、そういった感覚を薄めていくことは可能だと思う。「人は関係ないよ。自分がただ好きなだけだよ。それに何の評価もいらないよ」っていう心情はなんとなく凡人からすると「すげえ」って気がするし、確かに実際そういう心境に陥ると楽でもあるんだけど、しかし同時に「つまらん」のだよな。あ、つまらんって思ってる時点でまだまだなのかもしれないけどさ。
なんつーんだろ、結局それって「他者との競争から降りる」ってことなんだよな。
それは確かに楽なんだけど、つまらん。競争は楽じゃないけど楽しいところもあった。
他者の視線など気にせず、自分は自分……てそういう心境は、何より自分が楽なんだよ。ある意味最強の自尊心ゲームなのかもしれない。自分の心を守るのにこれほどうってつけの殻はないっつーか。どんなに自分より凄い人が現れても「他人など関係ないよ」モードだと嫉妬もしなくてすむ、イラつきもしないですむ。一種のライフハックみたいなもんつーか。
もうそういうものに振り回されるのがいやになって、俗世界卒業(笑)みたいな、気分に襲われたこともあったけど、どうなんだろうなそれは。なんだかそのとき俺は自分が、「逃げてる」ような気持ちになった。自分の醜い自尊心だの優越感だのなんだのと真正面から向き合うんじゃなくて封じ込めちゃうところが。といって優越感ゲームをするのが「向き合ってる」ってわけでもないんだけど。
こんなことグダグダ考えたこともなく、本当に最初から優越感ゲームなんて全くしたことないし、自分の好きな物を追い求めてるだけだよ、って人は多分ホンモノなんだろーな(とはいえ、こういう人を発見するのはかなり困難。「自分は全然囚われてないよ?」というところで、「他者が優越感ゲームに苦しんでるところで、そんなものを気にもしない、仙人的なカッコイイ自分」という優越感ゲームをおっぱじめるやつも結構いる)。「素」でそういう人じゃないと無理なのか?
近頃は優越感ゲームに積極的に参加するでもなく、といって、「変わったもん好きなんだな」と言われりゃちょっと喜んでしまうほどのダメオタクメンタリティも持ち合わせつつ、フラフラしている。
自尊心から放たれれば、それがゴールだというなら寧ろ分かりやすい。けど俺が危惧しているのは、それってゴールじゃないんじゃないか、ってことだ。さっきも書いたけど寧ろ逃げに近いものも感じるし、放たれれば楽になれるだろうが、だからといってじゃあどうするんだ、って気もする。俺の下劣な感性が、「他者とは一味違うね」的な評価をされることにより快感を得ることは紛れも無い事実なわけで、それを否定するのか、それとも肯定して積極的に快楽を味わわせてやるのか、どっちが正解なんだ?
分からん。