最後に、これだけは言っておきたい。また「自分」がむくむくと現れる前に。
オレは、親になってからの方が幸せ。
結局それがいいたかっただけかも知れない。
そう思っていた時代が俺のような老人にもありました。子供がいたことは確かに幸せ。息子が産まれた日は俺が生きてきた中で一番幸せな日のひとつだし、中学に入って息子はあまり俺と話をしたくなくなっていたけれど、それでもあいつがそこにいるだけで俺は生きていて、産まれてきてよかったと思ったものだよ。
で5年前、息子は自殺した。
遺書には「何でこんな世の中に産んだんだ」「お前らを幸せにするために産まれてきたのか」とか、俺(と相方)への言葉が綴られていた。その言葉を読んだ時の俺の気持ちは、もう思い出したくない。絶望という言葉ですら生ぬるい、何だかよく分からない感覚だった。それから1年間ぐらいのことは覚えていない。大袈裟ではなく、本当に記憶がないんだ。
何度死のうと思ったか分からない。だが、幸い俺も相方も気が狂うことなく、何とか生きている。だが、俺の魂はあの時に死んでしまったんだ。大袈裟ではなく、今の俺は抜け殻。息子を殺したという、贖いきれない罪を贖うためだけに生きている。死んだ息子の人生を生きている。
「子供を産んだほうがいいよ」と無神経に一般論をかざす奴を見るたびに、俺の中の暗黒が俺の体の中を食い荒らす。「子供の人生は親の人生じゃないよ」と。「不安がることはないよ」と。それは半分間違っている。子供の人格は親の人格ではない。だが、子供の人生は親の人生なのだ。子供を産むということは、人生をもう一本丸抱えするということだ。楽しさも幸せも苦しみも痛みも。無神経に幸せだった俺は、息子の死を通じてそのことを知った。嫌というほど。
……ごめんフィクションだ。忘れてください。
良かった,「死んだ息子」はいなかったんだ。