最近「脳トレ」とか「脳科学」とかが持て囃される状況ですが、その流れを作った一つとして「ゲーム脳の恐怖」の存在があったのは否定のしようが無い。でも、何故ゲーム脳と言うトンデモが支持を受けたのかと色々考えたらこういうことが思い浮かんだ。
90年代は効率化の名の下に様々な業種へのパソコンの購入が急速に進んだ時期だったわけだけど、その導入時期と言えばバブルが崩壊してまさに何処もかしくも企業はリストラと証したクビ切りを行ってた頃だったわけで、パソコンの類が使えない人間は社会不適合者とばかりにリストラ対象者となり追い出されていった。リストラによって生活の基盤を失い家庭崩壊に至った人はかなりの数でいるだろうし、パソコンさえなければ今頃は退職金で悠々自適な生活を送れたのにと思う人は結構いたはずだ。
90年代から今日までの急速なデジタル化は親子関係の逆転すら生んでしまった、これまであったであろう「親が子に教え、子は親に敬う」と言う考えは新しい技術に適応できるか否かでもろくも崩れ去った。つまり、子が親にパソコンや携帯電話の使い方を教え、使えなければ子供にバカにされる状況が出来上がってしまった。これまで「親が偉い」と考えてきた人もたかがパソコンやゲーム機如きで崩れ去るのは全てにおいて非常に耐えられないはずだし、パソコンやゲーム機に憎悪をむけるのもわかる。
3・急速な変化に何らかの暴力を持ってしてもブレーキをかけたかった
結局、生活の場を脅かされ、親子関係に変化しかねない状況ではどういう手段を持ってしてもこの流れにブレーキをかけたいと考える人が増えるのはいたし方の無いのかもしれない、たとえそれが子供に対する暴力であったとしても。
そういう意味では森昭雄の提唱したゲーム脳は変化について来れない彼らにとっては、光であり、正しい暴力であり、救世主であったのだろう。(それも脳トレの普及によって覆されてしまうのだけど)脳に対する運動療法ならいくらでもいい手段があるはずなのに彼が提唱したのは親が子に伝える遊びであった「おてだま」と言う事の真意が読み取れるはず。
なんて言うか小難しい手段で子供からコンピューター類を奪う前に「私たちは時代の変化についてゆけません」と正直に言ってしまえば気持ちいいのにね。
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