というか、「戦争中に人を殺してよい」というのが既に社会制度の面の捉え方になっていないか?
戦争中に人を殺してよい、の「よい」というのは、国から犯罪として罰せられない、ということだろう。このときの「よい」というのが既に社会制度の面から捉えた「よい」なのではないか?
例えばだけども、哲学的な観点から言えば、依然として戦争中でも人は殺してはいけないのかもしれない。(結果的に殺す人がいるのはまた別問題。それは戦争中でなくとも存在するし)
厳密に言えば間違いかもしれないけど、ほとんどの場合そうなんだし、それで通じるならそれでいいじゃん。
いやそうじゃないって
厳密に言えば間違いだが小学生を教えるにあたってはとりあえず便宜的にそういう風に教えるのも一つの手だろう(より詳しいことは後から学べば良い)という事だよ。実際に、数学なんかその手の技法をバリバリ使ってるんだし。最初から全部厳密に教えていったら数学なんざままならんぜ?中学の理科なんかでも平気で「一番小さいのは原子です」とか書いてあったりするじゃん。そんで高校になって「実は中学で原子が一番小さいっていったけどその原子の中にも陽子と中性子と電子があって」とかやる。それと同じ事だよ。まだ知識がおぼつかないころから最初からきっちり教えていったら何も教えられんし子供もパンクしちまうわさ。
そういえば姉妹の百合萌えってあまり見たことがない。気がする。
最近だったらかがみとつかさとか、MEIKOとミクとリンとか、プリズムリバー3姉妹とか、もっと多くても良さそうなもんだけど。
自分が見落としてるだけだったら申し訳ない。
そんなにそっけなかったっけ
普通の対応だったように思うが……
なんか変にテンション高い若い子向けの居酒屋なら君の言ってる対応もするかもしれんけど
ふつうの店ならあんなもんじゃねーの?そんな変に気遣ってもらったり変にテンション上げられても逆に困るし
寧ろその後の二人の「えっ……」っていう表情が気になった
なんか暗に店員責めてるみたいな感じの……
ホッケがないくらいで妙に落ち込んでる感じが妙に気に障った
そんなこといったってホッケがないのは仕方ないんだし、
店員はそれを告げただけだし、店員は目の前にいる客のホッケの会話を知らんわけだし
なんだこの空気……ウゼー…と思ってたが
古い話で恐縮だが、サッポロのCMで、劇団ひとりと西田敏行が居酒屋に入ってホッケを頼むのがある。
もうテレビでは流れていなかったが、最近まで山手線とかの車内テレビ?で流れていた。
問題はその内容なんだが、西田敏行が自慢げに「ここのホッケはうまいんだよなーw」といいながら女店員にホッケを頼む。
ところが、女店員はそっけなく「ホッケ終わりました」と言うんだ。
残念そうな二人は「焼きしいたけはあるの?」と言い、この注文は通り一安心。という筋書きだ。
おれがアレ?って思ったのは、女店員の対応だ。
すげーそっけない。いや、なんというか、ホッケを楽しみにして来た客に失礼だろ。
車内テレビでは音声は出ないが、テレビでやっていたときの記憶によれば、相当つっけんどんな言い方だったはずだ。
飲食店のアルバイトをやったことがあるが、あんな対応したらクレーム付くってまじで。
客商売やってるなら、「ごめんなさーい>< ホッケ終わっちゃったんですよー。でも焼きしいたけとかもおいしいっすよw」くらい言えないのかと思う。
つぶあんとこしあんどっちがいいの!?
いや、全くその通りでほぼ全ての地図には見出しやタイトルがあるし、
中の地名や道路名等の文字もほとんど同一方向に統一されて表記されている。
使用する際に、上下を「無視して」実際の方向に合わせることはあるが、
さすがにそこに疑問を差し挟まれるとは思わなかったなあ。
書評サイトに対する作り手側の視線http://d.hatena.ne.jp/m_tamasaka/20080104
「ダメ書評」に対するマンガ編集者の視線http://d.hatena.ne.jp/m_tamasaka/20080105/1199483357
映画監督の原田眞人監督の日記サイトから抜粋したものを引用しておこう。
2007/8/28より
ネットのおかげで「映画ファン」のスタンダードがどんどん堕ちている。どんなにつまらない感想でもだれかに届く時代になってしまった。幼稚な否定的意見が数値となり記録され作品の「評価」として定着する事態も生まれている。こういう「悪貨」を駆逐することは作り手にはできない。「良貨」、「良識派」といった本物の映画ファンの使命だ。彼らが前へ出て大きな声でものを言うことを時代は要求している。すぐれたものに出会ったら本気で褒める。本気で拍手する。それは、映画作りのプロセスに比べたらそれほどむずかしいことではない。
2007/12/25より
日本人の劣化はいろいろなところで顕著だ。ネットの書き込みに見られる「映画ファンの声」でも良識派は少数。席巻しているのは恐ろしくレベルの低い連中だ。自分の小さな世界にフィットするものが「いい映画」でそれ以外は「ダメ映画」と言葉少なに切り捨てる幼児的な権威主義がまん延している。当然、学ぶ姿勢が皆無だから映画的素養の深い映画というものは全否定してかかる。そういう「縁なき衆生」に「一票の重み」を与えて増長させているネットとはなんなのか。少なくとも英語圏では映画的素養の深い人々によるプロの映画評がどういうものか集めて読ませるROTTEN TOMATOESのようなサイトがある。日本語ではこれに匹敵するものがない。ネットで高得点を弾き出しているのはベタな映画だけだ。マニュアルのごとき情報垂れ流しで見る前からどんな映画かわかっていて見たらそのとおり、なんの発見もない映画が好まれる世界だ。そして、映画界がこういう傾向に迎合して動いている。ヒットする映画はますます公式化して、無能な監督を要求する。ビジネスは成立しても文化は荒廃していく。日本ではとっくに「映画は死んだ」のかもしれない。
2007/12/29より
ヴァーチャル多重人格のテアイの書く「酷評」というのは酷評になっていない。プロの映画評論家の酷評でも作り手にとってどこまで酷評になりうるかという命題を先ず理解しなくてはいけない。作り手をどきりとさせる酷評を書くためには最低でもその作品の背景、技術面をおさえていなければ無理だからだ。
率直に言えば、それは「会社」の問題じゃないと思う。
会社は誰が入っても、誰が辞めてもやってけるようになっている組織だし、そうでなければやっていけないのだから
あなただけが彼らのすべての面倒を見なければならないというのはおかしいし、彼らが辞めるのは彼らの自由。職業選択の自由があるのだから。
だから、あなたがこだわっているのは、彼らとの人間的なつながりなのだと思う。
なぜ信頼に応えられなかったのか、新人の不安に応えられなかったのか、なぜ不安なときに支えられなかったのか。
それならよくわかるし、自分も取り返しのつかないようなことをしたことはあるよ。
彼らの心情が時間がたつにつれて少しずつわかってくる。とてもきつかったと思う。
あのときどうしたらよかったのか、まだよくわからない。あの時ああしないと自分が壊れていた気もするし、やり方次第ではうまくいったのかもしれないと思う。でも違うのかもしれない。
こういうことがまたあるとは思えないのでそれを償いたいと思うが、時間の経過でどうしようもなくなっているものもある。
「一つの直線と、二つの曲線」の間違いではないかと
「福山雅治と付き合ってるって本当ですか!?」
と、わめきだしたから何事かとおもった。
「よし、これで大丈夫。あとで、ブログに、
『一部報道にて伝えられております、福山雅治と付き合っているということは根も葉もない噂でございます。』
って書け。」
あたまいいな & 放送局は強いぜ。
「みなみけ おかわり」1話の、入浴シーンの応酬が許せなかった気持ちに似ている。
おっぱい好きだけど、大好きだけど、「お前らこれが見たいんだろーほれほれほれほれ」と制作者に原画で頬を打たれているような屈辱感。