2007-11-29

不思議歯医者

さいころ、通っていた歯医者は家から遠かった。電車を二回乗り換えて小一時間かかった。

近所にも歯医者があって、というか隣が歯医者だったんだけど、うちもその歯医者も当時でも珍しいくらい結構なボロ家だったので、日常的にドリルの音が聞こえてくるの。キィィィィィンギャーっていう音が。最後のギャーの部分は、言うまでもなく患者の叫び声。昔はどこもそうだったという話だけど、ついついギャーの部分に自分が阿鼻叫喚する姿を重ねずにはいられなかった。夕食の時間になると、キィィィィィンギャーが頂点に達し、決まって母は

「ね、ああいうのになりたくなかったら、ちゃんと歯を磨くんだよ」

と言い、あまり親の言いつけを聞かなかったわたしだったけど、歯磨きだけは毎朝毎晩続けた。しかし、残念ながら、虫歯になるかどうかというのは、歯磨きをするかしないかではなくて、体質が大きく関わるらしく、残念ながら、学校歯科検診でC2(思いの軽いのかは不明だけど、少なくとも痛くはなかった)がどうのこうの言われて歯医者に行かざるを得なくなった。そこで隣の歯医者ではなくて、堀北(←仮名です。ごめんなさい)家が伝統的に通っている歯医者に行くことになった。祖母に連れられ、痛みもしない歯を治すために電車に揺られる。わざわざ痛い思いをしに行くという行為は、当時小学四年生だったわたしにとっては実に理不尽だったのだけど、「痛いのヤダ!」と正直に言えるほど素直な子じゃなかったので、さぞかし不服そうに電車に乗ってたんだろうと思う。

広い通りに入ったり横丁に入ったりして、目が回るほどグルグル歩いた先の歯医者はとても歯医者とは思えなかった。どう見ても民家。しかも建て付けが悪くてすきま風が吹いてそう。これじゃあ歯が治っても冬だと風邪になるんじゃないか?と心配になるくらいだったけれど、軒先に椅子が置いてあってそこに座って待っている人がいるほどの繁盛ぶり。子供だったので、よくわからないけど、歯医者というものは、それくらい混雑するものなのかも、と妙に納得し、小一時間ほど待ったら診察室に呼ばれた。看護婦もいなくて一人で切り盛りしているらしいのだけれど、すごく怖い声で呼ばれたので、歯がなくなるくらいまで削られるのではないかと不安になった。小四にして梅干しみたいな口になるのは嫌だと思った。

呼ばれて入るなり、祖母が

大隅さん、久しぶりだねぇ。今日は孫をお願いしたくて」

と、うれしそうに声をかけた。その大隅という歯医者は、白衣をだらしなく着ていて人相もよくなかったが、とたんに相好を崩した。どうやら常連だったらしい。娘さんがどうのこうのという話をしていた。つまり娘さんとはうちの母のこと。

「ああ、お嬢ちゃん久しぶりだねぇ。今日はお母さんいないの。覚えているかい」

と聞いてきたが、覚えているわけもなく、戸惑っていたら、抱きかかえられて診察台に乗せられた。小学四年といえばもう抱きかかえられる歳でもないので、赤ちゃん扱いされて気分が悪かったのと、タバコの匂いと口臭のひどいハーモニーは今でもよく覚えている。

うちの祖母は、さすがにわたしの物心のついた頃には衰えは隠せなかったけれど、なかなかの美人で、祖父が亡くなった翌年に、お見合いの話が何件も舞い込んでくるほどで、その娘である母も、祖母ほどではないが、どちらかというと美人、そしてわたしは残念ながら十人並みの顔立ちで、いまだに、かわいいと言われるのはわたしが誰かをかわいいと言ったときのお返しとしてだけ。人類というものは発展を繰り返すものだというのは幻想で、堀北家については退化の一途を辿っているようにしか思えない。それはともかく、大隅さんはわたしの方はあまり見ずに祖母の方ばかり見てデレデレと会話しながらわたしの口の中をいじくるので、虫歯の部分に当たったのか、あるいは虫歯ではないところを削ったのかわからないけれど、ひやりとする痛みがやってきて、たちまちわたしは泣いてしまった。

「よしよし。お嬢ちゃんはまだまだ子供なんだねぇ」

子供とか関係ないだろう。大隅さんが藪医者なんだと思うけど、と思ったが、口に器具を入れられて抵抗などできるわけがない。大隅さんはポケットから、細長い鉄の棒を取り出した。これって、「鍼」っていうのじゃない?

大隅さんはわたしの舌を軽く鍼で突いた。ひんやりとした鋭い痛みがゆっくりと熱さに変わって、その熱さが香ばしくて甘い味に変わった。

「おいしいだろ?これでがまんしなさい」

当時は、鍼ってそういうものだと思っていたのだけど、今振り返ってみると不思議な話だ。感覚というものが神経を伝わる信号というのであれば、舌の特定の部位に鍼を刺して、おいしい味を発生させることも可能なんだろうか。とにかく、今までにないおいしい味で、次の日に学校の友達に説明したのだけど、そのおいしさをうまく説明することはできなかった。この前、ベトナムに行ったのだけど、そのときに食べたデザートと同じベクトルで、それをもっとおいしくした味だった。一週間も、あまり仲のよくない女友達との旅で、最後はつまらないことで険悪になっていたのだけど、そのデザートを食べていたときだけは何も考えられず黙って味わっていた。同様に、小四のわたしも痛みそっちのけでその味に夢中になってしまった。なるほど、だからこんな汚い歯医者が繁盛するのか、と妙に納得した。大隅さんのところは、そのあと何回か通って、小六のときにも通った。

それから十年以上経った。去年の年末。祖母が脳内出血で倒れ、よくても半身不随だろうという話を聞いて急いで実家に帰った。久しぶりに親戚がみんな集まっていた。意識が戻ったものの、混濁しているらしく、何を言っているのかさっぱりわからなかった。ただ、大隅さん大隅さんと言っていて、あ、あの歯医者さんねと思ったのだけれど、なぜ生死の境をさまよっているときに、よりによってあの汚い歯医者を思い出すのかと思ったら、母が言った。

「そういえば、おばあさんは、歯をやられたことがないから、わたしやあなたを連れて行くばかりで、大隅さんに見てもらったことがないんだよね」

一番の心残りがあの大隅さんの鍼の味とは!と驚いたのだけれど、今もってあの鍼の味に敵うものはないと体験者のわたしが思っているくらいだから、たしかに死ぬまでに味わいたい味かもしれない。しかも祖母は年老いても女の子。甘い物に弱いんだろうなと思った。急いで大隅さんに電話した。ちょうど日曜日だったこともあり、すぐ来てくれた。

久しぶりに見る大隅さんは変わっておらず、というか、上下揃ったDJホンダと書いてある黒いジャージを着ていて、危篤なんだから空気読めよ、と思った。すでに祖母の意識はなくなっているようだったけれど、挨拶もそこそこに病床の祖母に近づき、ポケットから鍼を出した。久しぶりに見たけど、錆びているように見える。あの頃と同じ鍼じゃないかと思った。自由が聞かない祖母の口を乱暴にこじ開けて鍼を刺した。すると、祖母の口がモグモグと動いたのだった。「おいしい」と言ったに違いない。いや、実際おいしいから。その後数日して、祖母は亡くなった。すごく悲しかったけど、最後にあの味を体験してからでよかったと思う。

お葬式の時の大隅さんは一応黒いスーツを着ていて、やればできるじゃんと思ったのだけど、近づくといやな匂いがするのは相変わらずだった。近いうちにまた会えるよというような意味のことを棺に向かって話していたのだけど、一年くらい経ったときに予定通り(?)大隅さんも亡くなった。息子さん(といってもいいオッサンだけど)の話によると、亡くなる間際には、毎日のように自分で鍼を使って舌を刺していたらしい。

息子さんは、言っちゃ悪いけど大隅さんに輪をかけてマイペースな感じの人だったので、この巧みの技を引き継げたはずもなく、つまりわたしは、女の子だけど、最後の日に味わいたいあの味を体験せずにしななければならないということになる。残念でならない。大隅さんに生き返ってほしい。

  • (前回集計http://anond.hatelabo.jp/20071126102502) 終了。 12月1日に付けられた分のブクマは集計してない。 漏れがあったらごめん。 11/30 崖から落ちそうな人がいました 4users トイレの時代 5users...

    • また何かもめ事? http://anond.hatelabo.jp/20071116082614 http://anond.hatelabo.jp/20071121105040 http://anond.hatelabo.jp/20071126102502 http://anond.hatelabo.jp/20071201012129

    • http://anond.hatelabo.jp/20071116082614 http://anond.hatelabo.jp/20071121105040 http://anond.hatelabo.jp/20071126102502 http://anond.hatelabo.jp/20071201012129

    • タイトル URL id 本当に恐ろしかった匿名オセロ http://anond.hatelabo.jp/20071102124728 objectO 君は実にバカだな http://anond.hatelabo.jp/20071105170133 objectO ケータイ小説を責めない...

      • 第二回ファック文芸部杯参加作品まとめ http://anond.hatelabo.jp/20071204075102 を見ていて不思議に思った。 これらのエントリの中で最も多くブクマを集めているのは、「個人史は終焉しない。続...

        • うーんほんと同じような意見をかつて持って、今は捨てた。 ていうか俺もブクマしたけど、フィクションならブクマしなかったな。 リンク先を読んでみたけど、フィクションですとは...

      • ファック文芸部からはてな匿名ダイアリーの皆様へ感謝の意とお知らせ そして、イベントの滞りない進行には、はてな匿名ダイアリーの皆様の多大なご協力をいただきました。 協力な...

      • まあ、どのくらいの数の増田がそういう彼女をゲットできるかは別にして、 「増田ではまったくないんだが、しかし自分の書き込みを肯定的に黙認してくれて、  その上で全く知らない...

        • なんか最近、上から目線の発言多いねえ…。 という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには 一番よさそうな素材なんじゃないのかな。 な...

        • はてなの裏人気者妖怪モトマスダですが、それにしてもこれと 地雷オタが非オタの彼女に地雷世界を軽く紹介するための10本 http://anond.hatelabo.jp/20080805043250 には正直脱帽です。 この...

          • 「ボードゲームオタが非オタの彼女に世界のボードゲームを軽く紹介するための10本」 したかったなー。終わっちったか。

            • それは俺が見たいから是非やってくれ。 レーベンヘルツとかカタンとかプエルトリコとかあの辺を無理矢理紹介するのはちょっと見たい。 (無論ボードウォーゲームでも可)

              • 報告まだでした。 http://anond.hatelabo.jp/20080805205151 こんなもんでどうでしょうか。 私のこういう意図にそって、もっといい10本はこんなのどうよ、というのがあったら 教えてください。

          • 頑張れ!妖怪モトマスダ! もしかして「軽く紹介するための10本」シリーズは全て目を通しているのか! どんだけオタクだよ!かっこいいな! その二つを書いた人じゃないけど、ネタを...

        • ちょっと前のやつだけど、これ見てちょっと驚いた。 この中の5つのエントリ、自分が書いた奴だった。 地味に嬉しかった。

    • レスありがとう。 と言いつつゴメン、俺には前半部分は詭弁にしか見えません。 単純な話にするね。 例のエントリのブクマコメントを読むと、創作と認定しているコメントはほぼ見当...

      • いや、もちろんわかんないよ。ブクマした人の本心なんて。 私も同意です。 あなたは「ブックマーカーにはいろんな人がいるから、例のエントリへのブクマ数が不正だと思わない」...

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん