2007-11-28

人を信じること

ねえ、人を信じることって大人になればなるほど難しくならないか?

小学生の頃ならなにもなくても相手を信じていた。疑うことをなかなか覚えなかった。

思春期の頃だって、本気で相手を信じる気持ちで女子に恋愛感情を持っていた。不信なんてなかった。

ここで言う信じるとは、相手の気持ちの純粋さを信じて疑わないと言うことだ。ふられる怖さを抱えながらも告白するような、つまり行為としての「信じる」ではない。

兎に角、今のように相手のことをいろいろ勘ぐったりはしなかった。相手に打算があること、何よりも私自身に打算があるなんてことほどんど思わなかった。それに打算なんてしなかった。無意識下ではいろいろな情報計算が行われていたのだろうが。

勿論、そのころの私は純粋な分だけ視野はせまかったと思う。それでも私は一途だったと思う。やっぱりひたむきだったと思う。

私はこれからあのころみたいに人を信じることができるだろうか。

いま自分がすごく不純になってしまった気がしている。だから、周りの人間にも不純を投影して読みこんでしまう。ものすごく悲しい気分になる。大人になることがこんなことなら、私はいつまでも少年でありたかった。

戻りたいよ。帰りたいよ。私がかつていた一途さの世界に。昔のままは戻れなくてもいいし、それは期待していない(が、もしもそれができるなら・・)。打算や勘ぐりを抱えつつ、いつだって人を信じる気持ちのほうがそれらよりもずっと大きい人間になりたい。

ねえ、悲しみがひっきりなしにやって来るんだ。

さっき公園を走ってきた。「どうして俺の人生はこう遠回りでずれているのだ。俺のどこが間違っていたのか」と心の中で絶叫しながら、息が上がって、泣きそうになるのだけど泣けなくて、そのぶんスピードを上げた。体を痛めつけるように。

何にもわからなくなった。人は、また人を信じることは私にとって1つの人生の喜びであり、救いになるはずだった。いつか、心から信じられる人に出会える。心から信じてもらえる。そう言う救済を私は思い描いてきた。さて、いま再び私はそれを願えるだろうか。自分も人も信じられなくなった今、どこへ向かえばいい。

喜びと救済があると思えるなら、それは私の目標地点でありうる。回り道をしたとしても常にそこを目指し続ける到達ポイントだ。

どう進路をとるのか。そのために何に針路をもとればいい。

そして最大の問題は、人生そのものへの違和感だ。信じることによる救済はこの違和感を消し去って、私を満たしてくれるだろうか。

わかんないよ!ちくしょう!!!

神様、いるのなら応えてよ、どうしたらいいのだ。

どんな風に心の持ちようを変化させていけばいいの。

不信を抱えた私でも人と付き合って良いのか。そして、それは善いのか。

タスケテクレ。

ねえ、私は完全に迷子になったんだよ。

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