2007-06-03

ここのところ派手な人死にが続いたからってわけでもないだろうけど、「死ぬ」ことに関連した考えに発想が飛ぶことがいつにも増して多い。

といっても、自分が「死ぬ」ことについてはあまり考えないし、考えられない。

別段死にたいなんて思いはしないし、死ぬのはやっぱり怖いのだけれど、その怖さは多分「死ぬ」ときには何がしかの痛みを感じるだろうな…ってことが怖いということに行き着く。

それより何より恐れるのは、他の人が「死ぬ」ことだ。

少し前になるけれど、ヴォネガットが亡くなったというニュースを知ったときはとても怖かった。

自分は日本に居て、太平楽に『スローターハウス5』なんかを読んでるうちにその作者が死んでいた。その作者が死んでいるかもしれない、なんて頭の隅にさえ浮かばなかった。

この距離がとても恐ろしい。

谷川俊太郎だってやなせたかしだってもう年だ。失礼な言い方だけど、明日の朝刊で死亡記事を見たって何の不思議もない。

いやいや、そういった著名人に限らず、またそこまでの年齢でないような他の人たちだって、今世に出てる人たちはほとんど自分よりも先に死んじゃうだろう。

勿論、明日明後日何が起こるかは誰にも分からないし、自分が死なないという保証だってない。

それは理解してるんだけど、自分が生きているのに他の人たちは死に続けていっている、これがとても嫌だ。

自分は未来永劫に向かって際限なく孤独にさせられていってるのではないか、なんてことも考えてしまう。

これから先、齢をとっていけばまた変わるんだろうか、幸いにして周りの人を余り亡くしていないことが関係しているのか、親の死に目に会う年頃になれば変わるのか。

なんだかグダグダだな…

  • ヴォネガットが逝去したとき、頭に浮かんだのはありきたりだけど「So it goes(そういうものだ).」だったなぁ。 "過去では、その人はまだ生きているのだから、葬儀の場で泣くのは愚か...

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