先日、以前友人だった女の子が自殺していたことを共通の友人から知らされた。彼女とはずっと連絡を取っていなくて、自殺は去年の夏のことらしい。
俺も30歳を過ぎているので、同年代の知人の死は初めてじゃない。小学生の時には同級生が無理心中でいなくなったのをリアルタイムで経験したし、高校の時の友人2人は大学に入ってから交通事故で一緒に死んだ。
でもそいつらと違うのは、彼女と俺がセックスしたことがあるという点だ。何回か成り行きでそういうアレがあって、でも結局それ以上の関係にはならなかった。お互いそのときはフリーだったのだが、状況から考えると俺が振られたと思ってもらっていい。その後は俺の転職とかもあって、連絡が途絶えてしまったというところだ。
なんだそのセンチメンタルと笑われるかもしれない。確かにそれもある。あー、一時であれ(ちんこ含めて)俺を受け入れたあの子は、もうこの世にいないんだなあと思うとしんみりする。なんで自殺したんだろうとかはあんまり考えないし、俺が何かできたんじゃないかなどという思い上がりは全くないが。
しかしそれより大きいのは、彼女と共有した経験をもう誰にも話せないということがすごく重い。共通の友人は誰も、たぶん俺と彼女の間にそんなことがあったのを知らない。今さら「実はこんなことがあったんだよね」などと喋る気もないし、そんな話聞いても誰も楽しくないだろう。
もちろん、彼女と連絡が途絶えた時点で、こんなことは分かっていたはずだ。しかし、改めて彼女の死を知らされると、動かしようのない事実として確定してしまったことに動揺してしまっている。そして、過去のワンノブゼムでしかなかったはずなのに、人間関係の中でやっぱりセックスというものを、どこか特別なものとして自分が捉えているらしいことにも驚いている。
それはセックス云々が主眼ではなく、「俺が振られたと思ってもらっていい」と言ってるように、自分の中に彼女に対する何かしらの想い、感傷的な何かがそもそもあったからじゃねえ...
ちょっと泣けてくんな。
「気持ち」≠「(物としての)ちんこ」 だが 「気持ち」∈「(比喩としての)ちんこ」 だ。 http://anond.hatelabo.jp/20070316111725
もっと良く考えればわかる事なのに、なんでそうなるかな。順を追って説明するから、以下の文章をよく読んで考えて欲しい。ちょっと長いから時間のあるときに読んでね。僕は日本人じ...