その男性は本当につながるの?と確認のため、
で、その足でそのままAUショップに行って携帯電話を解約をしたんだ!
そしてDoCoMoショップに行って新しい携帯電話(新しい番号)を購入したんだ!
わーい!!ピカピカの携帯電話だ。
kanoseのひとのエントリ@ハテナ系なんて、内容がタイトルだけだったりする。それでも十分なんだ。
はてなブックマークは100字制限だけど、これって単発のアイデアを語るには十分な量だ。いや、ハイレベルな文章力や要約力があることが前提条件になってしまうのは残念なことだけど。
ひとつのアイデアを書き付けるという点で、一部ユーザのはてなブックマークコメントと、大抵のblogエントリーは、同程度の内容量だ。違いは冗長さ;言い換えると読み手が理解するに要する読み取り能力の違い、くらいのもの。
出版される本になると、さすがに違ってくる。複数のアイデアや引用された意見などが有機的に結びついている。一部の優秀なブロガーが腰を据えて書いたエントリもこれに近い。
ただ、パンピークラスの人間が書くエントリ(それこそ、この匿名ダイアリーに象徴されるかもしれない)は、2ちゃんねるのひとつのレスと同程度の価値しかなかったりする。
俺ははてなブックマークのお気に入りを読むのが好きなのは、情報の密度が高いからだ。単純に引用してるだけだったり、一言の感想を書き付けているだけのコメントは、当然ながらエンターテインメント性を持たないし、面白みはない。blogのエントリーにして長々書いてしまえるようなネタを惜しげもなく盛り込んでいたり、冗長な文章のエッセンスを100文字でおおよそ要約しきってしまっているようなはてブコメントを、毎日何十も発信していっている人たち。こういう人に俺もなりたいと思う。俺はあんまりメジャーじゃない人たちをお気に入ってしまってるからあんまり具体名を挙げられないが(ググったら俺が誰だかバレてしまう)、あえて挙げるとすれば、やっぱりlsty氏のコメントは小粒でピリリと辛い。
小学生の頃は普通の風景と思ってたけど、今見ると半乞食の流しのネタとか兵隊さんのラッパネタとかは、テレビでやっちゃいけないモノな感覚があった。
イケナイと言うか、え?こう言うの放送してイイの?って一瞬どぎまぎするような。
なんつーか、そう言うものは存在しない事になってるんだよ的に数十年の間で浄化されちゃった様な。
逆に言えばつい2,30年前までは、まだ戦場帰りのじいさんとかああ言う場末の飲み屋とかは身近なもんだったんだよなーと、変な感慨に耽っちゃったよ。
なんだかんだ言って頭のいい人は日本にも相当数は居てインド人に負けていないと思う。
天才の絶対数で言えば日本は中国やインドに適わないかもしれないけど、基礎教育レベルが高いから世に出る才能の数で言えばまだまだ日本の方が多い。
たとえタオルをつくるような生産性の低い産業でもね。ヽ(゜∀゜)ノ生産性つかえた!
NHK:わき上がる頭脳パワー、インドの衝撃みて正直参ったと思った。
野ざらしみたいな教室の端っこで破けたかさで降り注ぐ雨をしのぎながらちびた鉛筆で食らいつくように勉強する若者。
学生時代の苦い思い出がよみがえるなぁ…。
泣きながら友達から電話がかかって来たのは予想通りで
話を聞くだけしかできなかったんだ。
信頼のおけないはてなIDってあるよね。信頼がおけないというのがいい過ぎなら、積極的に関わろうとか、継続的にヲチしようという気持ちがとりたてて起こらないというか。つまり、投げやり感とか、低脳感しか感知し得ないIDたち。
たとえばこんな。
まぁ、あえて実在のIDを出すことはしないけど。
また、はてぶの「このエントリーをブックマークしているユーザー」で、上記したような信頼のおけないIDの者が、キモいプロフ画像・馬鹿っぽいタグ・的外れのコメントとのあわせ技を繰り出してくると、信頼がおけない感がさらに強まっていい感じである。
ベルセルクは?…って、今の漫画じゃないか。そもそも今の世の中でそんな執念ある人がいない気がする。昨日どこかで見た幸せな不幸せって感じで、みんなある程度幸せで穏やかだから幸せではあるんだけど、でっかい事件や戦争が起こらず盛り上がることがないから不幸せと。
テクニックを補ってくれるコンピュータを、さらにどう活用するか、というのはテクニックじゃない?
結局、テクノロジーは必要最低限のテクニックしか提供してくれない。
その「最低限」からどれだけ伸ばしていけるか、が重視されるだろう。
やっぱりテクニックはなくならないと思うよ。
センスこそが絵の本質なのかもしれない。しかし、センスだけではなくテクニックもあってこその絵であってほしいと切に願う。
今まではセンスとテクニックが未分化なものが絵と呼ばれていたけど、これからの時代はテクノロジーの進歩により本来の意味での絵、センスとテクニックが分化し、純粋にセンスだけのものになるって話でしょ。本来の絵というと語弊があるかもしれないから(森さんの言うあるべき方向)、今までの絵、これからの絵と言ってもいいかもしれない。まあ、今までそうであったものが、時代によってそうでなくなるのは、寂しいものであるからわからないでもないけれど、他の例(例えば読み書きなど)を考えるとあるべき方向、理想的な方向へと向かっていると思う。
あえて予言する。
「やるべき事とやりたい事をキチンと管理して、計画的に生きるブーム」だ。
間違いない。
自分のやりたい事だけをやって、30代負け犬になってる人たちを見ている今の若い世代なら、飛びつくのは絶対ここだ。
絵の描画技術も音楽の演奏技術もさ、自分の表現したいものを他の人に伝えるための表現手段にすぎないよね。
言葉と一緒で、どんなに言語を自由に扱えたとしても伝えたいものがなければ何を伝えるというのだ。
伝えたいものがどんなにあったとしても言葉を持っていなかったらどうやって伝えるというのだろう。
技巧は手段。言葉における言い回しに過ぎない。
技巧に特化すれば誰かが伝えたかったもの代弁することもできる。
それを見た人は僕に足りないのは技巧なんだと勘違いする。
http://anond.hatelabo.jp/20070216152428
女子高生に化粧は早い。(と考えられている時代があった
しかし、一部の女子高生は化粧をした。そこにモテ格差が生まれた。化粧をするのが当たり前になった。化粧しない女子高生は落ちこぼれ扱いされるようになった。
ブームの成立は、その「やらないと落ちこぼれる強迫観念」みたいなものから生まれるんだとする。
だとすれば、「高校時代」のとりわけ「女子」が、最もその観念を強く受ける世代だからなんだろうなぁ。
GTDを実行する女子高生が出てきて、その女子高生が、勉強やら部活やら恋愛やら遊びやらをバンバンこなしてて、
後輩:「何でそんなに時間があるんですか?」
GTD娘:「フフ、これよ。(Life Hacks PRESSを取り出す)
一同:「!!」
な状況になれば、何となくみんなLifehacksに夢中になるに違いない。
# GTDで圧倒的な生産性を発揮してる人は自分も見たことないけどね
でも、本当に生産性を発揮出来るスケジュール・タスク管理手法が確立して、それがGeek向けではなく、一般の人にも受け入れられるような手法だったとしたら、
今日はあなたの決戦日ですね。
彼に自分の気持ちを伝える、あなたは私に教えてくれました。
あなたは自分の気持ちを決めたとは言うものの、
伝えるのが怖いと言うので、
どうやったら勇気を出せるかやどうやったら一歩を踏み出しやすいか、
そんなことを私は丁寧にいろいろと説明しました。
最後に、がんばってね、と言うと、
ありがとうおかげでなんとかなるかも、そう答えてくれました。
今にもどこかに消えていってしまいそうだった声が、
何時間かの電話の後には少しはいつもの明るさが戻っていたので
きっと何とかなるだろうと思いましたが、
胸が苦しくて苦しくて勝手に涙が流れ出してきました、
止まらない、止められない、どうして。
決戦の結果がどうなるか、私は知っています。
彼は私の親友だからです。
なぜ私がこんなにも苦しくなるのでしょう。
結果は私にしてみればむしろ喜ばしいことなのに。
何もしないところには何も起こらない、
そう私は言って励ましました。
谷に蹴落としたのは私でしょうか。
祈ります、少なくとも何らかの成功があなたに訪れますように。
そして、全体のレベルが引き上げられて、それが普通になる。これまでやる必要がなかった事でも、やらない人間は落ちこぼれ扱いされる。
女子高生に化粧は早い。(と考えられている時代があった
しかし、一部の女子高生は化粧をした。そこにモテ格差が生まれた。化粧をするのが当たり前になった。化粧しない女子高生は落ちこぼれ扱いされるようになった。
仕事柄、時代を創るガールズ・カルチャーを読んでいて、こうやって時代が変わっていくんだなぁとしみじみ思った。
<追記>
そのうち、GTDが普通になったら面白いんだけど、そこまで生産性あがってる人見たことないので(しかもカッコ良いイメージがまだ無い、カッコ良いってのは時代を作るうえで、生産性以上に大事な事だ)、時代を作るまではいかないな。
絵を描くことについて、ちょっと真面目な話をしよう。
最近ウェブをぶらぶらと散歩していた所、次のような記述を見つけた。
http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2006/10/post_720.php
絵が上手いという場合、それは、頭に思い描いたものが優れていて、しかもそれをキャンバスに写すだけの技巧を持っていた、という2つの要素からなっている。
この言葉は全く持ってその通りだと思う。私自身も、絵はセンスとテクニックの二つの要素から成り立っていると強く感じる。
しかしセンスとテクニックとは何なのか?
センスとテクニックには次のような違いがあると思っている。
テクニックにはおそらくある程度で天井がある。天井があるというよりは、表現をするための十分条件がある、と言った方がいいかもしれない。そして、その良し悪しは絶対的なものだ。
一方、センスは青天井で、その良し悪しは見る人の好みに左右される相対的なものだ。
センスとテクニックには相乗効果がある。センスだけがあってもテクニックが追いついていなければ、イメージの魅力は表現しきれないし、テクニックだけがあったって、センスがなければ絵はつまらないありふれたものに感じてしまうだろう。冒頭の引用文にもある通り、センスとテクニックの二つが合わさって初めて絵がうまいと言える。
センスとテクニックの両方が必要な分野というのは多くあるが、写真もその一つだった。しかし今は
デジカメが登場して、カメラやレンズの設定や現像の技術がなくても、良い写真が撮れるようになった。これからはセンスだけの勝負になる。
とあるように、テクニックの多くが科学技術によって補われ、センスの重要性が従来よりもずっと増している。
これと同じようなことが、絵の世界でも起きつつある。一昔前はセル画調の塗りをするのは訓練を積まなければ難しいものだったが、今はCGソフトを使って簡単にできるようになった。
絵を描くためにとても大事なテクニック、デッサン力についてだって、今後絵を描くためのソフトにデッサン支援のための3Dモデルがつくなどの方法によりある程度科学技術によって補われるようになるだろう。
私自身もCGソフトの使用により、上の世代の絵描きさんたちと比べればテクニック面で非常に楽をさせていただいているというのは自覚しているが、絵はセンスがすべて!テクニックは関係ない!という世界が訪れるのには非常に抵抗感を感じる。それはおそらく、テクニックを駆使する人に対しての畏敬の念があるからだ。すばらしい絵があったとして、その絵を発想したセンス自体にも感動しはする。しかし、私はそれと同等かそれ以上にその絵を表現しきったテクニックやその裏にある鍛錬に脱帽し、ひざまずいてキスをしたくなるのだ。だから、絵を描くという行為からテクニックが抜け落ちてしまう日が来るのは寂しい。
テクニックは関係なく誰でも絵が描ける、という世界は今の3Dグラフィクスの世界を見る限り、もしかしたらそう遠い未来のことではないかもしれないということは思う。
センスこそが絵の本質なのかもしれない。しかし、センスだけではなくテクニックもあってこその絵であってほしいと切に願う。
自分も昔、ファミ通に投稿してました。ゲーム帝国に載ったときは超嬉しかったです。
他のメディアと同様、娯楽の多様化の波に押されてしまったのではないでしょうかね。
残念です。
そのまんま川柳というコーナーがお気に入りです。
http://anond.hatelabo.jp/20070216090443
なんとなく自覚してるだろうけど
思ったことをぶつけ合う深い関係性の2種類があるよね。
相手は明らかに「浅い」友達を要求しているので、お互いのニーズが一致してないんだ。
ぶっちゃけ酷い言い方をすれば「お前重いんだよ」になる。
互いのニーズを一致させる努力が難しいなら、いったん関係を解消するやり方が無難だと思うね。
別に強制的に縁を切らなくても緩やかなフェードアウトとかでもいいと思う。
一度クールダウンしてみれば、何か別なものが見えてくるかもしれない。
時間が解決してくれる保証は何処にもないんだけど、それでも時間に任せたほうが擦り切れるよりマシだと思うんだ。
30代も半ばを過ぎましたが、毎週ファミ通の読者投稿欄を立ち読みしています。ゲームはやらないので、立ち読みですませています。申し訳ない。関係者各位。
読者投稿欄が面白い雑誌って今他にどんなのがあるんだろう。昔は読者投稿だけの雑誌もあったけど、今はなんだか下火な気がするなあ。読者投稿。ネットのせい?
アンタそれ言われたら、その通りに実行出来んの?つーか出来てんの?
私自身、恋愛経験の少ないとき、そういう自分の都合のいいようにしか相手を扱わない男性と付き合ったことがあって、そのときは恋愛経験が少なくて劣等感も持っていたので、自分が悪いのだと思い、同じように傷つけられて泣くことになるだけの関係を続けたことがあるのですが、それから他の人と付き合って、それは自分のせいではないということがわかりました。
今のパートナー(夫ですが)との関係はうまくいってると思いますし、お互い大事にしていると思います。完璧な関係とまでは行かないかもしれませんが、少なくとも相手との関係の中に不安や傷つけあいのようなものは感じません。
抽象化して考える癖があるので、えらそうに書いたつもりはないのですが、偉そうに見えたのなら私の文章のせいだと思うので、謝ります。
別れようと思ったら、その恋人と、何も無かったかのようにスッキリ、抽象化された人間関係モデルのように、何も残さずに、人と縁を切れるっていうわけだ。
それが出来る人間なんだったら、それの具体的な方法を教えてやれよ。
つーか、俺も知りたいし、みんな知りたいんじゃないかな。
縁を切れとは言っていません。まともに付き合わないほうがいい、といったまでです。だから可能な限り距離をおく程度にはできるんじゃないでしょうか。
私だったら、必要以上にこちらからコンタクトを取らないようにするとか、もし向こうから何か言われたら
「あなたに言われたことで実は色々と傷ついていたので、しばらく会いたくない気分です」
と言うかもしれません。
しかし、別にもとの投稿者さんがコミュニケーションが苦手という感じも受けませんでしたので、ご自分で考えられるのではないでしょうか。
みっともなくて苦しくても、物理的な接触を完全に絶つのが一番だよなー
自分大事さに、こっちが一方的に惚れてる半端な関係の相手と
縁を切った経験持ちの人間です。
このまま相手と交流してても、好きな気持ちを断ち切れなくて、
割り切って言えば「次に移れない」からです。
自分はコミュニケーション下手というかコミュニケーション嫌いで、
人を好きになるのも3年に一度があるかないかというダメっぷり、
だからこそ交流してても傷つくだけ(あっちが悪いのではなく自分が一方的にね)の相手とは
物理的に交流を切らないと自分がだめになると思いました。
これが正解なんて思わないけど、
コミュニケーション下手で、数少ない知人だからって、
付き合いを切るなんてとてもできないってことは無いです。
むしろそこに依存してしがみつくほうが自分にとっては恐かった。