2007-02-08

感動するかしないかは問題ではないような話

俺は非オタにエロゲ布教しようとする事が稀にあるのだが、誰もが口を揃えて「遠慮しておく」と言うんだ。

これでも俺は周囲からは読書を嗜む人間としてのキャラ確立し、周囲にもお薦めの本を教えたりしている。それを踏まえた上で俺は自信をもって「これはいい話だぞ」とエロゲパッケージを胸の前に突き出すのだが、誰もが苦笑いを携える。

ちょっと待て、お前ら俺が薦めた本は読めてエロゲはやれないのか?と、訪ねてみると面白い回答が聞けた。

「そこにはオタクとしてのお前の意志が介入している」

パッケージを指差して言われた。なるほど、友人達は俺の読書家としてのアイデンティティを認めつつも、オタクであるところの俺のアイデンティティも見て取っていたのだ。それはつまり、エロゲにおける常人には理解出来ないレベルインタラクティブ性。良い話と思われているものも、理解に及ぶにはオタクとしての因子が必要だと、小難しい話の説法を受けた。

面白いのかもしれないけど、食指を動かすに足る理由がないと。それに見合うだけの良い話はエロゲに求めなくても、いたるところの媒介を通して得られるというのだ。


ふるふると震える腕を支えておくには衝撃が強すぎた。

「だから」と一言添えて俺の肩に手を置く友人は「エロ漫画なら貸してくれよ」

つまりはそういうことだったようだ。

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