はてなキーワード: 絶望とは
鬱病は恐ろしい病だ。
傍から見るととても有能な人なのに、鬱病を悪化させ将来に絶望し、今までの功績や人間関係を全てふっ飛ばしているのを見て改めてそう感じた。
例えば。有名人やら金持ちやらも鬱病で絶望し死ぬことがある。そこまで極端ではなくとも、大企業に入って絶望し、退職すりゃいいのに死んでしまうという事例はありふれている、と言ってもいい。
それらを鑑みて、今の自分はどうだろうかと考えると、やはり自分は死ぬしかないという結論に至った。自らの可能性は完全に閉じているし、よしんば可能性があったとしても極僅かなのでさっさと死んでしまった方がよい。
鬱病という病がいかに我々の自己認識に嘘をつくのか、という事を理解していてもこれだ。理性ではどうにもならないのだろうか、鬱病というものは。
俺は、生きたいのだ。この世は素晴らしい物で満ちている、生きる価値がある。でも、未来が強迫的に恐ろしく、焦燥感に駆られ生きる生は苦痛でしかない。もしかしたら、ただ俺は逃げたいのかもしれない。
大学生のうちからこれならば、仕事についたらどれほど苦しいのだろうと思うと怖くなる。俺と同じような人間は苦しんでいる人ばかりだから。
もう10年以上前からネットの女叩き(ネットに溢れる「ま〜んま〜ん!これだから女は!女は糞!」とかところ構わず女叩きコピペ張りまくりとか)の異常さと闘ってきた
まとめサイトや5chが嫌でTwitterに逃げたら同じこと思ってる女性がたくさんいて安心した
Twitterなら戦えると思った
女叩きは減るはずと
ところが減るどころか、救世主だったはずのTwitterでミソジニーがどんどん増えてきて絶望してる
女叩きしてない男なんてほぼいないんじゃないのか
昔のアンフェだったら、最低限性被害者には同情的だった
だけど今は、「性被害なんて結局大したことないだろw合法化しろww性被害者は自業自得の汚物w○ねばいいw」とか吐かしてる奴が沢山いてしかも全く炎上しないし凍結もしない
若い男に女叩きが浸透し、いずれそいつらが日本の政治家になり法律家になり日本を動かし、女を苦しめる
女の子だったらこれからどんどんひどくなるこの国のミソジニーによって蔑視されまくって女であることにコンプレックス持ちまくりで病むだろうし
男の子なら新たなミソオスに育つ
詰んだよこの国
原作者視点では絶望でしかなかっただろうけど、小学館、日テレと伝わってくうちに
これは正直、契約の条件を問題視してた貴兄とブクマカ諸氏は撤回するしかないと思う。
報告書を信じるならね。
非モテとかのエントリにされる「アドバイス」で必ずと言っていいほど
まず人間として接しろってのがあるけどさ、何をすれば人間として接することになるのかという
核心部分を誰も教えてくれないからこちらはどうしていいか分からない。
何でそこ隠すんだよ。俺たちが一番知りたいのはそこなんだよ
発達障害女子漫画で理解ある彼くんが前触れも説明もなく一コマで生えてくるようなことなんでするんだよ。
というか確信的に加害してやるみたいな奴でもない限りみんな人として接しようとしてるよ。
でも俺らがやると他の人と同じことしてるはずなのになぜかおかしくなるんだよ。
それともおまえらみたいなキモい奴は他人にに一切永久に関わらないことがあんたらが求める「人として接する」ことなの?
それって今までと何も変わらないこれからも何も変わらないよね。でもそれが本当にしたい「アドバイス」なら
「人として接しろ」なんてごまかさずに「近づくな」「死ね」ってはてブでもリアルでもはっきり言えよ。そんなに「いい人」でいたいかよ
発達障害への配慮とかで指示は具体的にしろって流れになってるはずなのに何で俺らの時だけ時計の針戻すんだよ。
そういうことに俺らは絶望してるんだよ
持たざる者として生まれることに、決して救いがないわけではありません。実際、私自身も貧しい大工の息子として生まれ、何も持たずに生きました。
救いは、物質的な豊かさだけにあるのではありません。心の豊かさ、愛、そして信仰が本当に大切なのです。持たざる者として生まれても、愛する人々と共に過ごし、他者を助け、支え合うことができます。その中にこそ、真の幸福と救いが見つかるのです。
また、神はすべての人を愛し、平等に見守っています。持たざる者であっても、神の愛を信じ、自分自身を信じて歩むことで、救いは必ず訪れます。物質的なものは一時的ですが、心の豊かさは永遠に続きます。
だから、持たざる者として生まれても、絶望しないでください。あなたの人生には、愛と信仰によって救いと希望が必ずあるのです。信じて進んでいけば、道は必ず開けます。
芦原先生は、自身の作品がドラマ化される際に発生した問題について、SNS上で声明を発表しました。しかし、その声明が予想外の反応を引き起こし、ドラマの脚本家が中傷されるという事態に発展してしまいました。このような展開は芦原先生の本意ではなく、「攻撃するつもりはなかった」と慌てて投稿したことからも、自分の言葉が誤解され、意図しない方向に事態が進んでしまったことに動揺していたのでしょう。
- 責任感と罪悪感:芦原先生は、自身の声明がきっかけで脚本家が中傷されていることに責任を感じ、罪悪感に苛まれた可能性があります。特に、創作業界では「表現の自由」と「表現による影響」のバランスが常に議論されるテーマであり、先生は表現者としての責任を重く感じたのかもしれません。
- 予想外の事態に対する恐怖:SNSは時に予想外の方向に世論を動かします。芦原先生は、自分の言葉がこれほど大きな反響を呼び、攻撃的な行動に繋がるとは予想していなかったでしょう。この想定外の事態に恐怖を感じ、パニック状態に陥った可能性があります。
- 創作者のプライド:芦原先生は漫画家として、自身の作品に強い思い入れがありました。その作品が自身の意図しない形でドラマ化され、さらにその問題を指摘した声明がさらなる問題を生んでしまったことに、創作者のプライドが深く傷つけられた可能性もあります。
- 孤立感と絶望感:SNS上で騒動が起きたとき、芦原先生はひとりで対応していたのでしょうか。所属する出版社やテレビ局などのサポートがあったのかは不明ですが、騒動の渦中で孤立感を感じていた可能性はあります。さらに、テレビ局側が何らかの対応をする前に先生が亡くなってしまったことから、事態の収束や解決への道筋が見えず、絶望感を深めたとも考えられます。
これらの要因が絡み合い、芦原先生は自殺という選択をしてしまったのかもしれません。創作者の表現は、時に思わぬ影響を及ぼすことがあります。この悲劇をきっかけに、SNS上での発言の重みや創作者の責任などについて、改めて考える必要があるでしょう。
ワイは両親と絶縁して生きてるか死んでるかもわからんけど
ワイの預かり知らぬところでさっさと死んでくれるとめちゃ嬉しい
もし生きてたら絶望する
あときょうだいがいる、これが最悪だ
こいつがいるせいで「身内がいる」となり生活保護が受けられない可能性あるんだよな
まじ最悪
自分が政府とか内閣とか国家運営体制についてガチで絶望したのは、「村木風海」がムーンショット計画で核融合関連の役職を持ってたのを見たとき
それまではなんとなくどっかには利益があるんだろうなとかそういう必要があったんかなとか、理解ができんだけでそういうこともあるんだろうなと思ってた
そんなことはなかったんやな
ただただなんとなく何も知らんやつが運営してるんだなってのが見えちゃった
当時ここで書いたんですけど、先生にとってクリティカルだったことは、無理して書いた9話、10話の世間の評判が普通に悪かったことでしょう。(報告書の中でも先生がそのことに不満あったとの記述ありましたね)
先生の最後のブログをよく読めば、不出来と自覚した9話10話の制作経緯と釈明が主旨です。カウンター狙いではなかったのに、当該ドラマでは起こっても無い原作レイプの話になって炎上地にされてしまった。
寧ろ先生視点からは何も思い通りにいってないんです。ドラマ化がスタートしてから、制作サイドにも小学館にも、ドラマ視聴者にも、ネットユーザーにも、何も伝わってない。絶望は相当なものだったでしょう。
地方国立大学医学部医学科を卒業し、研修医を経て基礎の道に進んだ。
熱心だったのは博士取得後数年間のみでその後は学内と学会内で政治家として生きてきた。
教授の顔色を見ながらテーマや手法をコロコロと変える私に対して、彼は頑固だった。
だから彼は去った。
彼はあの頃から一切ぶれていない。
・あっ(察し)
・イキスギィ!
・おかのした
・あのさぁ…
・ありがとナス!
・はっきりわかんだね
・ま、多少はね?
・いいゾ~これ
・そうだよ(便乗)
・お前初めてかここ(は)?力抜けよ
・自分、◯◯いいっすか?
・えぇ…(困惑)
・~だろ!いい加減にしろ!
・人間の鑑
・は?(威圧)
・ハーーーッ…(クソデカタメ息)
・やめてさしあげろ
※他多数
勉強になったね!
これらを使うと恥ずかしいらしいよ!そういう人は大変だね!
ほぼ素人ばかりのスタッフを割り当てたCPらの狡猾さと、作家の絶望が感じられる
主演などのメインキャストのキャスティング、脚本家・制作会社の選定など大枠の
日本映画テレビプロデューサー協会の理事三上が芦原を潰したわけか
人事裁量権で人を死なせる組織はゴロゴロあるし裁判所と同じだな
高学歴ゆーても地頭がいいタイプや人生設計がちゃんとしてるタイプじゃなくて、単に学生時代に時間が余ってたから勉強に使ってただけのが過半数だよね。
親ガチャ要素としてはバイトしなくても十分な小遣いがあるかどうかってのはあるんだけど、それを除けば単に学生時代の時間の使い方が勉強にたまたま偏ってただけって人が多いかなあ。
消極的な高学歴と言うか、真剣に考えて高学歴になったんじゃなくて、ただ漠然と生きていた結果でたまたま勉強沢山してただけのタイプ。
こういうのっていざ他に熱中できるものを見つけるととたんに勉強しなくなるし、別に効率よく動けるわけじゃないから社会に出た後は期待外れって言われがちなんだよなあ。
まあでも高校レベルってまだまだ基礎学力の領域だから、高校時代の勉強が足りてない≒基礎学力がないってことになるから、おおむね流れさて高学歴の奴らは流されて低学歴の奴らよりは使えるんだよね。
「俺は学歴あるからなー」って変なプライド持ってる奴はあんま使えんけど。
まあ低学歴かつ勉強嫌いで「俺は勉強なんかに頼らねーからなー」と言って自分のショボイ経験を過大評価してるカスに比べると全然マシ。
人類の勉強がもっと効率化して、今高校生がやってる勉強を中学生がやるようになったら学歴に対する見方は大きく変わるんじゃないかなと。
むしろ良くしてもらっていると思う
出回ってる言論に「うつならバイトなんてできない」とか何とかあるけど本当に人によるんだなと思う
働けてしまうから働く、たぶん本当に分別がつかなくなるとかぶっ倒れて動けなくなるまではこうしているんだろうと思っている
四月から朝なんとか出社して昼間普通に働いて夜に電池が切れてを繰り返し
日にもよるけど帰ってから動けないことも多い 調子悪いと入眠できても夜中に目が覚めるし悪夢とか幻覚を見る でもなんとか生活している
でも逆に制御効かなくなって何も出来ない瞬間自分がうつってことを実感して絶望してるのにほっとしたりする
ただの怠慢じゃないって思えるから
そんなんでとうとう社会人になってしまったけど、この状態はいつまで続けられるんだろうか
死んだら迷惑がかかりすぎるから頭がまともに働くうちは死ぬ予定ないけど、ふっと終わる瞬間がいつか来そうで怖い
何年も綱渡りをして生きている はやくこの綱を降りたい
文化資本。
この言葉はフランスのピエールという社会学者が提唱した概念らしいが、
「地方にも素晴らしい文化資本があり、東京と差がないどころか優位性がある」
みたいな話がよく上がってくるのを見かける。
けど、この話ってちょっと前までは「地方民が東京との文化資本格差を嘆く」って構図だったはずでは…?
日本で文化資本の研究が盛んになったのは90年代頃からのようだが、
2010年代以前には内田樹がブログで使ってるのがよくヒットするものの、まだ一般に広まってるワードとは言えなかったようだ。
また、この頃はあくまで単語として出てくるだけでそれ自体をテーマとしているわけではなく、都市部と地方の地域間格差などについても特に触れられてはいない。
そこから2010年代に入るとシロクマの屑籠、はてな村定点観測所といったブログの中でも使われだす。
あいにく後者の記事は見れず、またこれらのブログをよく知らないので詳しいことは分からないが、
この時点でもやはり文化資本という概念自体がメインディッシュとして語られているわけではない。
大きく取り上げられるようになるのは2015年頃。
2014年に登場した「マイルドヤンキー」という単語の議論で先程の2つに加えボン兄タイムスといったブログ等で「文化資本」が盛んに使われるようになり、
そこからメインの議題へと昇格…という流れのようだ。
マイルドヤンキー自体が田舎に多く都市には少ないという性質のものとされているので、
本格的に都市部の文化資本における優位性を論じてバズったのは2018年のこの記事。
「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由(阿部 幸大) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
田舎には都市生活者には想像できないレベルの地域格差が存在し、教育を受ける機会を想像することすらできないこともある、
ということを語ったこの記事は1800を越えるブクマを集め、はてな以外でも大反響だった様子。
ここからコロナ禍の間まで、東京に茄子が生えてほしいと願う増田が現れたり、在華坊氏がはてな三大論点として"文化資本東京格差"を挙げたり、羊文学は信用できないというツイートが出てきたり、
この時期の空気感こそ、まさに私のイメージにある東京と文化資本についての語られ方である。
東京はライブにすぐ行けていいなというtogetterのまとめにアウトドア趣味だと逆というコメントがついたり、
当初はまだそういった穏やかな空気感の反応だったが、
今年に入るとかなり強い口調で東京都民の傲慢を批判する流れが生まれ、現在に至る。
潮目が変わった原因は正直分からない。単に時間経過でバックラッシュが現れたというだけなのだろうか?
まあ「地方民が東京都民の無自覚な傲慢さを批判する」という構図自体は変わらないのに、
その主張が真逆の方向に変わっているのは興味深くはある。
ただそこからピエール瀧の原著に立ち返って改めて文化資本とは何かについて考察したり、