はてなキーワード: 酷評とは
今の朝ドラは、全てを絶賛する人と沈黙する人に分かれている。そしてネットでは少数ながら、匿名で酷評する人がいる。私はAMラジオを好きでよく聴いているが、これまでは雑談ネタとして朝ドラの話題が割とよく出てきたが、今回に関しては非常に少ない印象がある。
個人的にはあまり評価しない立場である。今の朝ドラの何がダメなのかというと、絶賛している人の感想が「わかる、わかる!私も寅子さんと同じ!」みたいなものが多いことに象徴されている。
少なくとも自分が面白いと感じてきたドラマや映画は、自分とは異なる、基本的には想像の外にいる立場の人(たとえば戦場の兵士など)のリアルや心情が理解できるような内容である。これまでの狭かった自分の視野が広がる感覚といって良いだろう。
そもそも親兄弟も含めて、全ての人間は他者である。朝ドラのように80年前の社会に生きていた人間なら尚更であり、「私も同じ」と無条件に共感できるような内容だとしたら、それは質の高い表現とは言えないと思う。異なる他者への理解とは逆の、閉鎖的な視線をもたらしている可能性が高いことは、今回の朝ドラについての絶賛と沈黙の極端な態度にも表れている。
方言がきついと炎上した「Still Wakes the Deep」
https://store.steampowered.com/app/1622910/Still_Wakes_the_Deep/
公式公認の翻訳なのに文句言ってるsteam民。もうこんなの文化弾圧でしょ。
先に結論を言っておくと、こいつらゴミが言いたいことはゴールデンカムイあたりで有名になったアイヌは同じ日本として認めるけど、
マイナーな九州弁なんか知りたくもねーから同じ日本語ではない、の言い換えでしかない。
これを理解しない人間によって今後も乱用され続けると、その内”多様性”という言葉そのものが傲慢な思想の押し付けと同義にされ、それ自体が排斥の対象になりかねない事を理解できないのだろうか。
本来多様性とは個々の性や感性を認めようという寛容を示すものであって、主張し認めない人間を悪と断じる踏み絵ではない。
最初に言っておきますがこのゲームはグラフィックや音楽そして演者共に高いクオリティであり
これによりゲームの雰囲気がぶち壊され没入感が大きく損なわれています。
翻訳者は方言の多様性を訴えてるがこっちはそんなもの求めていない
自分の独善性とエゴは許されると思ってるバカ。押し付けないでください。
日本語の翻訳家は方言での日本語化は多様性といっているが選択肢を与えないホラーゲームとしての雰囲気をぶち壊しにするこの一方的な字幕は多様性とは言わない。ただの押し付け。選択肢を用意してからそのように発言して欲しい。
方言のせいで内容が入ってこない。
自分の無知さを盾にしてるクズ。選択肢がない?オリジナルでプレイしてろ。節穴かよ。
前置きしておくと、私は本作を購入後プレイの前に方言翻訳の問題とその翻訳担当の不遜な態度を先に目にしました。その上で、結論ありきとはならないよう心がけたつもりですが、内容は予想以上に酷かった。主に人物表現とローカライズに関して酷評します。クソ長いです。最後の段落だけ読めば足ります。
...(省略)
独善的な正しさの押しつけ
Steamプラットフォームの対応言語「日本語」の表示に期待されるのは、標準語または標準語でスムーズに理解できる言語のことです。そんなことはいちいち指摘するまでもない。この標準語を期待するユーザーに対し方言を強制すること、そしてその押し付けを受け入れないユーザーは正しさに背く者であるかのように翻訳担当自らがネットでチクチクと後追い示唆を続けるのは、端的に言って独善的で幼稚です。
ここまで示した通り、人物表現でのリアリティの追求、他の方言に翻訳する際の配慮、押し付けではなく丁寧な手段を講じること、検討すべき内容は他にいくつもある。にもかかわらず、それらをなおざりにしたまま方言翻訳で注目を浴び「多様性で御座い」と偉ぶるのはお笑いという他ないのです。最後にハッキリ言っておきますが、こんな目障りな実装なら方言による主張など無い方がマシだった。標準語でも文脈くらいは読み取れますよ。馬鹿にしないでほしい。
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この目で確かめるためとはいえ、正しさごっこに付き合わされた時間は苦痛でした。主張するのならもう少し見識と覚悟と気配りを持つべきというのが私からの評価です。まぁパブリッシャー自身も正しさに浸って気持ち良くなっておられるようなので、少なくとも今は何も耳に入らなさそう。逆にこんなチャチな仕掛けで「わぁ方言翻訳だって!すごぉい進歩的!」などと文化人ポイント稼ぎに乗っかってみせるのも私には難しいですね。恥ずかしくて。
ゲーム部分は歩きとインタラクトの繰り返しで進む、よく言えば雰囲気を味わう、悪く言えば抑揚を欠いた一本道のホラー小説。プレイした範囲では探索も謎解きも勝手に進むので迷うこともなかった。物語もありがちな展開で特にこの先を見たいとも思いませんし、一週間程度様子を見て返金申請します。
自分の弾圧行為を正当化したい糞長レビュー。”Steamプラットフォームの対応言語「日本語」の表示に期待されるのは、標準語または標準語でスムーズに理解できる言語のことです。”>インチキ解釈乙。そもそもオリジナルが標準英語ではない上での翻訳なのを理解してないアホ(そもそも標準英語ってなんだ?って話でもあるが)。アプデで翻訳が追いつかない未翻訳を見つけただけで全否定してきそうなゴミ。多様性や文化を何も理解してない。
普段私は夢見て海外に来るやつに、どこの国も問題を抱えているし予算に喘いでるし大変だ、夢の国ではない、みたいな話ばかりしている。私は別に滞在国を美化しているわけではない。
おそらくお前と私の認識の差は日本に対する評価の差だと思う。お前が日本を評価する1/3くらいに私の日本への評価が低いから相対的にそう感じるんじゃねという感想
企業とかが国の事業の研究成果とかにただ乗りして金は出さないみたいなことばっかやってるのが問題だと思うけどな。民間レベルがナメたことやりすぎ。
具体的に何の話をしてるか分からないのでここは完全な妄想でしかないが
民間が舐めたことをできてしまう制度設計、舐めたことをする民間、それを咎めない国民、全部揃ってるだけだよな
結局は政治を行う日本国民の民度程度に行き着くことが多いんじゃないかと思うよ
お前も私の専門分野から見たら非専門家が揚げ足取ってきてるんだけどな?
議論のやり方を学べない日本語人のTwitterはただの動物園だからな
なぜ、その国は意思決定層に院卒や博士が多くてマトモなのか?というところの話をしてるんだけどね
○冗談抜きで本気で言ってるんならマジで心配なので近くの山にでも登って汗かいて心身共にスッキリしてきたらどうだろうか 妹やら個人情報やらを人質にとられて言わされてるんだとしたら同情するが……
まぁそうかと思ってたらこういう分析があった。(https://x.com/ShinagawaJP/status/1810314800238608440)
もちろん、それぞれの学歴の人がどこに投票したかは不明だが、それぞれの基礎自治体の学歴(大卒比率)別に得票率を出すのは可能って算段だ。
が概ね正しいことがわかる。
おおむねと書いたがたぶん暇空のデータだけ間違ってて(計算ミス?)、安野と石丸の間に入る可能性が高い(細かい計算はしてないが安野の得票率が都心で極端に高いのと、暇空は千代田区などで得票率が少し高くなってるので)。
都知事選である以上、都民の多くの部分をカバーしなければ勝てないのは自明で、それができてるのが小池だけってわかりやすい結果だね
ちなみに内海は面白いことにどの自治体でも同じくらい得票しててほぼ学歴相関が見られない
前回も言いましたが、商業でやる出版社の編集者の承認を通してはじめて実績としての「単著」であって、
金や手続きさえあれば発行できる同人誌は単著って自慢できるものじゃないってのはまだ理解できませんか。
赤の他人に認められた上で出版するってプロセスが単著を立派な出版物たらしめる本質です。
Amazonレビューで酷評されてるような基本的な内容について自画自賛でない客観的な視点が入った上で、出版のプロの目が入って一定の質を担保しているわけです。
ちゃんとした社会人なら当たり前に理解できる内容なのですが、やはりあなたは客観性や社会常識が欠けたままなんでしょうね…。残念です。
https://anond.hatelabo.jp/20240612003341
「1か所2か所ならともかく、本の内容が多岐にわたりすぎて、すべての内容を否定することは絶対にできない(できるもんならやってみろ)」
という内容になってます。
ぼくに10年ぐらい粘着したある人物や、悪い意味で言及した人物が読むことを想定して「重箱の隅をつつくことぐらいなら言えるかもしれんよ?」「でも、本の内容をちゃんと論破しようと思ったら、ぼくよりも幅広い知識と、オリジナリティの両面がある人じゃないと無理(そんなに能力があるならもうお前が電子書籍出せばいいし、俺の論破とかやる暇があったら、もうお前本書いて自分の人生変えたほうがよくね?)」という内容になっとります。
https://www.amazon.co.jp/dp/B0D6NCB574/
本を読み終えて怒りのままレビューしたので長文になってしまっておりました。
端的に申し上げますと
・文章力が低すぎて読みづらい
・著者の境遇と思考が(悪い意味で)特殊すぎ、一般の人には参考にできない
以上です。
「頑張って書いた」とか「(図が)少々見ずらいのはご愛嬌」とか
私も数多くの本を読んできましたが、このレベルの言い訳を著書の中に書くのはプロはおろか、小説サイトにしか投稿しないアマチュアですら見たことがありません。
ブログで読書感想文として書くならこれでも良いのかもしれませんが、さすがにこれを売り物にするのは良心がないのかと言いたくなります。
私の誤算は2つ。
まず、
と思った位置が高すぎた。
「今の時代9割は高校出てるんだから高校生レベルで書けば誰でも読めるぐらいになるかな?」
と思ったけど、これがそもそもの間違いだった
もう1個が完全に計算外すぎて
「ウソでしょ?」
と思ったところで…
自分をよく見せようと思うなら、ダメなところとか書かないのですが…ダメなところとか書いてても自慢話に聞こえる人とかがいたらしくて
「ええ…」
と本気で驚きました
「難しくしすぎない」
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志摩スペイン村の入園料5700円に「安すぎません?」広報直撃! 大盛況報道で生まれた復活イメージに“中の人”が困惑する理由 | 集英社オンライン | ニュースを本気で噛み砕け https://shueisha.online/articles/-/250821
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上記記事に以下のコメントを付けたら、意外と評判良かったので、色々補足しつつスペイン村について語ってみる。
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ここ10年毎年1,2回スペイン村行ってる身からすると、vtuber好きっぽい雰囲気の客が昔の1割、多くても2割体感増えた印象。USJとレゴランドの間くらいのクオリティ。スペイン村は伊勢志摩旅行とセットで良さが出る場所
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## vTuberの影響で増えてるのか?
上記コメントでもあるように、体感では以前よりも1〜2割増えた印象。
id:marilyn-yasuさんがコメントで補足してくれてる。
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id:mak_inさんが書いてることの裏付けとして過去に資料で年間入園数の推移を読んだところ1割強ほどの増加量。コラボ期間が主なので平時から1割とは言わんが無視できないくらいの人数が来てるのは間違いない感じ。
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実体感をもっと詳細に記載すると、コラボ期間に入る前から、ンゴちゃんの言及からのスペイン村ブームになった時点で既に1割くらい増えてた印象で、イベント期間に行った際は2割くらい増えてた印象。
以前から見かけた組み合わせとしては、乳児から小学生くらいまでの小さな子どもを連れた親子連れ、カップル、2-3人での女子旅、たまに大学生仲間っぽい男女、これがほとんどだった。
これがンゴちゃん言及以後、元々いた人たちの数はあまり変わっていないものの、以前はあまり見なかった組み合わせの人たちを見かけるようになった。
総じて、なんとなくオタクっぽい雰囲気に、何らかのvTuberグッズを身に着けてるのでなんとなく分かる。
中高生1人を連れた親子、2-3人男旅、ソロで来てる人(男女ともにいる。ただソロ率は女性の方が高いような……)。
大学生仲間っぽい男女も増えてて、前は比較的陽のオーラ強めの集まりが多かったが、陰のオーラ強めの人が増えてる。
これら以前見なかった属性が増えたことでだいたい1-2割増という感じ。
## なんでそんなこと詳細に体感で分かるんだ?
僕自身が遊園地苦手過ぎて、ワイフや子ども達がアトラクションに並んでいる間、乗り物に乗れない子と待ってるから。
うちは子ども4人で、一番小さい子は常に誰かベビーカーに乗ってて、誰かが乗り物に乗れない。
そうなると、待っている間、特に何もすることなく、ずっとぼーっと園内を眺めてることになる。
ただぼーっと眺めてるだけなので、自然と人間観察とかしてしまう……
## 何故そんなにスペイン村に行っているのか?
子どもが産まれてからは、ワイフの実家によった際には必ずスペイン村に行くことになっている。
これは志摩スペイン村が志摩市民向けに格安のチケットを提供してることが関係してる。
https://www.parque-net.com/ticket/isepassport/index.html
昔はチケットの購入条件が緩く、価格ももっと安かったのでこれを悪用し、スペイン村の近くのコンビニの前で、駐車場の案内みたいな雰囲気でパラレルの下、椅子に座ってるオババがダフ屋みたいなことをやっていた。
10年近く前に対策されて、受付で志摩市民だと証明しないと入場できないようになった。
今このチケットは志摩市民が年間パスポート買ってからでないと別途チケットを購入できなくなったので、子沢山だと知る義父母のご近所さんが、帰省シーズンになるとくれるようになった。
入場の際には、義父母と一緒に受付し、僕らだけ入場するようにしてる。
チケットくれるご近所さんには、こちらのお土産を持っていってる。
## スペイン村の噂: 東京ディズニーランド超えの待ち時間、園内ガラガラ、どっちが正しいのか?
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ガラガラだった志摩スペイン村が客急増でディズニーRより待ち時間長く…なぜ
https://biz-journal.jp/company/post_380711.html
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スペイン村は、単純に敷地がデカく、その割に客が少ないので、一見ガラガラなのは今も昔も変わってない。
先に書いたように増えたのは1-2割なのに、何故激混みの印象を与えるような待ち時間が長い、という話があるのか。
それは、ンゴちゃん言及以前から、スプラッシュモンセラーと氷の城は並んでいたから。
特にスプラッシュモンセラーは回転率がかなり悪い割に、人気のあるアトラクションだ。元々シーズン中は60分待ちとかは普通だった。
これは、スプラッシュモンセラーが必ず1組1台で乗せ、1台辺り2分程かかるので30組いれば1時間はかかるから。
https://www.parque-net.com/attraction/splash_montserrat.html
スペイン村、場所の広さの割に客が少ないだけで、客自体はちゃんといるので、普段からそれくらいかかる。
他は一度に何人も遊ぶので、混むことはほぼない。
ただ今回のイベントで増えた比較的若い層が、とりあえずスプラッシュモンセラーに流れたこともあり、いつもより待ち時間が長くなったように感じる。
先の言及で、ソロで来てる人が増えた、と書いたのは、スプラッシュモンセラーを待ってる間、以前はいなかった一人で乗る人を結構見かけたから。
遊園地を一人で!?と一瞬思ったが、混んでないからか、広いからか、親子が多いからか、何か分からないけど、遊園地はみんなで!みたいな集団圧力みたいなのがココには全く無いので自分の好きなまま楽しめるのは、なんかめっちゃ良いな、と思った。
ちなみにスペイン村で一番有名なアトラクション、ジェットコースターのピレネーは一度も複数人で乗れることもあり、ほぼ待ち無しで乗れる。
そもそもスペイン村に来るような層は、ピレネーはハードルが高過ぎて、スプラッシュモンセラーくらいがちょうど良く、ニーズが少ないのかもしれない。
普通に美味しい。
名古屋スペイン協会の人らと仲良かったこともあり、結構色んなスペイン料理屋には行き色々教えてもらい分かってる方だと思うが、スペイン村の料理はちゃんと作ってあり、遊園地の中であるにも関わらず、外で普通のスペイン料理店で食べるクオリティで出してくれる。
僕が遊園地苦手な理由の一つに、何も彼にも全てが高い割に、だいたいファーストフードにも満たないひどい味だ、というのがある。金払うのは良いけど、払うならちゃんとしたものが食べたい……
外だと普通のものが遊園地の中で食べられるだけで、異常に美味しく感じてしまうかもしれない。
同じ理由で、大人気、ンゴちゃんイチオシの世界一美味しいチュロスは、遊園地の中では世界一美味しいかもしれないと思わせてくれる。
ちなみにレビューとか見ると、スペイン村の中のレストランの中で、いくつか酷評されてる場所があるが、コレは価格が遊園地にしては安く、味が遊園地っぽい場所である。
お財布と好みで選んでもらうと良い。
キャラクターショーが、ドン・キホーテ、チャッキーなどのキャラがパティオの飾りを競うコンテストを行う、という内容だったのだが、バイキンマン的な立ち位置のアレハンドロが優勝して、盛り上がる内容だったこと。
娘のアンパンマン見てていつもバイキンマン可哀想だと思ってたので、何故か無駄に感動してしまった。
https://www.parque-net.com/kids/zukan/arejandoro.html
あと、フリーレンとフェルンのコスプレしてる人がおり、勇者ヒンメルになりたい息子のために一緒に写真を撮ってもらった。
息子は恥ずかしながらも目茶苦茶喜んで、あれから勇者ヒンメルごっこを良くやるようになった。
僕は遊園地が苦手でも家族の希望で連れて行かれる。コロナ明けてから両方に行った。
USJは単純に派手だし楽しめる場所だよ!!という空気感が凄かった。
ただ人気の場所だということもあり、人がとにかく多いのと、それに伴う攻略法を予習してこなしていかないとマトモに遊べないのは正直しんどかった。
一方で、沿道をまわるショーは、スペイン村も遜色ない気はした。
なんやかんや言って、長い歴史と本場スペインダンサー達のパフォーマンスが、資金力の差を埋めてる気がする。
レゴランドは、よく「子ども騙しだ」と言われることがあったが、良くも悪くも大人よりも子どもに刺さるコンテンツが多い気がした。
レゴのアニメや、マイクラ、ロブロックスのおかげで、レゴの世界観は、思った以上に子どもらに刺さったみたいで、大人の満足感の少なさの割に、子どもの満足感がかなり大きかった。
一方、スペイン村はキャラクターショーなどはちゃんとあるものの、キャラクター自身のコンテンツ力が弱いせいか、子どもらの刺さり具合は弱かった。ショーの良さや遊園地全体で挽回、という感じ。
というわけで、レゴランド以上、USJ未満、という感じで、USJでは強すぎ、レゴランドでは弱すぎ、という人にはスペイン村がちょうど良いのかもしれない。
## 実際に自分がやってるまわり方
シーズン中、もうスペイン村には行き慣れてる or 僕のように遊園地のアトラクションが得意でない人は、ムーンライトパスが良いのかもしれない。
16時以降入場だが、物販や代表的なアトラクションはだいたい17時までやってるので、ササッと目的のものだけ消化し、ナイトショーを楽しむ。
ナイトショーは、ショー自体のクオリティも高いが、花火の量も凄いので、価格の割にかなり楽しめる。
ただし、スペイン村は伊勢志摩旅行とセットで楽しむと良さが引き立つ場所であり、伊勢志摩旅行の魅力の大きな点に宿の食事が挙げられるので、スペイン村のホテルでない限り、どちらかを選ばざるを得ないことが難しいところ。
元気があったら、こんな感じで続編として経験談からの伊勢志摩旅行のポイントもまとめるかも……
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追記:
↓
はてな記法で書き換えたんだが、どうも上手くいかず……スマホからだとあかんのか……?微妙に間違えてる??
読みにくいのは承知してますが、仕方なく、Markdownのままにしてます。
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スペイン村だったら、フラメンコショーのことも触れてー!!あれは生で見たら素直に感動する。
↓
評判が目茶苦茶良いことは、噂には聞いてるのですが、常に乳児を連れてる状態だと子どもらが我慢できないので入れなくて、スペイン村20回以上行ってるのに、結局一度も観れてないです。
なので、言及できてないだけです。
逆に言えば、スペイン村の客の大多数を占める親子連れが、うちと同じく、このフラメンコショーには行けてないので、特に事情がなければさっと入れるのでオススメです。
名古屋スペイン協会繋がりで何度かプロのフラメンコショーは見に行ったことあるので、その際にはそこと対比しながらコメントできれば。
中田敦彦のYoutube大学というYoutubeチャンネルが叩かれている。
まず結論を言うと、おれはこのYoutubeチャンネルは消えてほしいと思っているし、 もはや中田敦彦には自殺なり事故なりで死んでいただきたいなと思っている。 こいつが、おれがこの社会をおれのような人間にとって生きにくくしてる元凶だと思うからだ。 こいつは、適合人間の権化だ。害悪である。
中田敦彦のYoutubeの大学について、おれはもともと良いと思っていなかった。
誤っていることが多いからだ。 また、文学を紹介する時にも、著者に対するリスペクトが欠けているなと感じることがあった。
ということでおれは無視していた のだが、中東史のビデオが、それに詳しい人に酷評され、そこから中田敦彦批判が広まっていった。
おれも、彼の新選組のビデオは登場人物の名前はじめあまりに誤りが多く、 おれ自身は以前に話したとおり、麻布学園の自由論文テーマで土方歳三を選ぶほど新選組のことが好きであり、 本来ならば、中田敦彦のような著名人に新選組を広く紹介してもらうことは本意であるべきなのだが、 そのビデオを見た瞬間にチャンネルも登録解除したし、レコメンドも停止した。 気づけば、ディスプレイの中にいる中田敦彦に対して中指を突き立てていた。
それ以外のビデオに関しても、見る人が見れば誤ってるとわかるものが多いようなので、 彼のビデオは結構いい加減ということは言えると思う。
おれが中田敦彦のように、 お金を稼ぐためならば、多くの人に見てもらうためならば何をしてもよいと 考える人間が嫌いだ。
また、それに対して群がる人間も嫌いだ。
ツイッターなどで、何も面白くない、知能指数3くらいの白痴ツイートが 1000Likeを得ていたりすることがあるが、 こういうものにLikeするやつは全員ガス室に送るべきだと考えているし、 当然、ツイートした本人も死刑になるべきだと考えている。
なぜか。
それが、適合するということだからだ。
適合人間にとって真実はどうでもよい。 多くの人が正しいと信じていることであれば、それは正しいということになる。 間違っていることであっても、みんなが正しいと思っているから正しいという人間がこの世には結構いる。
中田敦彦にとって正しさの優先度は低い
中田敦彦にとって、ビデオが正しいことを言ってようが何であろうと関係ないのだ。 ただ小説や歴史をてきとうにおもしろおかしく紹介出来て、それによって自分のチャンネルが肥大して、 多くの視聴数が得られ、高額な報酬が得られればそれが正しいことなのだ。
Youtuberは多くの場合、虚業である。 彼らが提供しているのはエンターテイメントであり、 現代の価値基準でいうと、本来なくても良いものだからだ。
しかし、百歩譲って単なるエンターテイメントであれば問題がない。 それどころかおれは、人間が経済的に豊かになった時代においては、人の心を豊かにする エンターテイメントこそが必要なものになると考えている。
では、中田敦彦のYoutube大学はエンターテイメントなのか? 彼はそのつもりかも知れない。 しかし、見ている人間からするとそうではないのだ。 不愉快に思うこともある。
もちろん、不愉快に思う人がいるからやめろというつもりはない。 なぜならばそれはまさに適合サイドの論理だからだ。 全員が不愉快に思っても、正しいことならばやればよい。
しかし、これを「大学」と名乗るのはやめろ。 大学と銘打つのであれば、提供する内容に専門家のレビューを通すのを最善とした何らかの検査をしろ。 正しいことを伝える最低限の努力はしろ。さもなくば、「大学」と名乗るのはやめろ。
なぜ彼が、正しくないことを言ってるにも関わらずそれを大学を呼んでしまうかというと、 そういうものを大学と呼ぶことに罪悪感がないからに他ならない。 なぜかというと、彼にとって大学ないしは学問というのがその程度のものだからだ。
これは恥ずかしいことだと思っていただきたい。 まともに教育を受けた人間で、中田敦彦のYoutube大学を真剣に見てる人は 誰一人いないと断言出来る。 メンタリストDaiGoなんかも似たようなものだ。
中田敦彦がこのチャンネルを「大学」と呼ぶ背景には、 彼が本当に知識を多くの人に届けていることに正義を感じているかというのもあるだろう。
学校でいじめられて引きこもってしまった子などが、自分のビデオを見て学ぶことに喜びを感じているのかも知れない。 経済的に大学にいけない人に学ぶチャンスを与えたいとか思ってる可能性もある。 というか誓ってもいいが、きっとそういうことを言うのだ。なぜならばそれが適合人間だからだ。
しかしおれはそうは思わない。
歴史上の人物について何かしらの真実を捻じ曲げたりすることは、 生きている人間にとって嘘の情報を流してその人間の社会的地位を貶めることとなんら変わりない。
なぜならば、第一にその人の子孫は今の世の中に存在しているからだ。 これは、不愉快に思う人がいるから正しくないと言ってるのとは違う。 単に、犯罪行為をやめろと言ってるに過ぎない。 しかも悪いことに、登録者は100万人を超え、何万何十万というオーダー の人間に見られてしまっているのだ。
また、歴史というのは生きている人間の共通認識でもあり誇り・財産でもある。 これらを穢すことは当然許されない。 歴史は、空気中に浮かんでいる何かではないのだ。
おれは、中東の歴史については詳しくないので上で挙げたツイートについて それが真実かどうか判断する目を持たないが、 もし真実でないとして、それを中東の人が見たらどう思うのだろうか?
理由その2は、一度誤った知識を身に着けてしまうと、 それをあとで修正することが難しくなるからだ。
小学生中学生の子供が、中田敦彦のYoutube大学を見て 何かを学んだ(?)とする。 そしてのちに学校で同じテーマについて正しい知識を学ぼうとした時に、 正しい知識の方が定着しない可能性がある。
理由は、
1.動画で学ぶことは、退屈な教科書で学ぶことより記憶に定着しやすいから
3.多くの人が見ている動画だから正しいと思い込んでしまうから(適合人間の悲しさ)
「人間だから間違うこともある」というのが適合人間の論理だ。 しかも間違うことを許さないと社会が進んでいかないとか言い出したりもする。 というか中田敦彦はきっとそう言うはずだ。
しかしすでに述べたように、 間違ってると思うのであれば、それを大学と銘打って垂れ流すのはやめろというのが一点だが、 その間違いが単にケアレスミスとかそういうレベルではなく 「そもそも正しいことを広める気がない」という点を問題視していることから 自分に対する批判が始まっていることを認識していただきたい。
もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事の書類ばかりとなった昨今。
でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。
書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。
生まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖の詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。
頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初の感想だった。普通に文章だったからだ。
調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで
「韻」という言葉もその時初めて知った。
井上靖の詩集を手に取ったのは、国語の教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。
というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初の詩集だった。
小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。
季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなものが短歌や俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。
特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平の短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉のニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。
幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。
自分の世界の表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。
例えば、雪という詩がある。
雪
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
みつけた詩だ。雪が降って来ると、
私はいつもこの詩のことを思い出す。
中学生の私は、なるほどと思った。
詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉のなかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。
鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。
当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。
いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。
ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。
山頭火は面白い。普通の俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。
定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌のエントリーポイントとなって、
しかし俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。
いつしか手にしていたのは、興津要の解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。
剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代の言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。
その後は巴毎晩組み敷かれ
木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代の川柳で妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい。
一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。
俵万智のサラダ記念日がベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。
例えば、こんな一首。
あさま山荘事件を起こした連合赤軍の幹部、坂口弘が収監中の東京拘置所から毎週のように短歌を朝日歌壇に投稿していた頃だ。
朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌の表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。
風花って知っていますか
渡辺松男と太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇をリアルにみていた人にしかわからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱が発酵すると詠んだりする太田美和。
実生活で恋をしていた私は太田美和の言葉に自分を重ね合わせた。
でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。
大学を卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。
生活が一変した。
書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。
世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。
山頭火も武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接と資格だ!という日々。
就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。
たまに思い出しては、現代短歌の最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。
若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。
それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。
そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。
思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分が死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。
中年になっていいかげん自分の限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖の感覚がとてもよくわかるようになった。
これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。
詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。
どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。
鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯な子供の姿を思い浮かべる、という
文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワインと食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。
ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種やビンテージ、気候土壌などさまざまな情報がある。
しかしワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのときの話題、体調などに大きく左右される。
水だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。
マリアージュという言葉があるように、ワインは一種の調味料として機能するため、食べ合わせは重要だ。
ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見のワインでしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。
逆に偽の情報を表現豊かに補完してしまえば、コンビニで販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。
ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的な規律として表現することはできない。
詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。
井上靖が「小学校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき、井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。
その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。
どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときのメンタル、いわば偶然の力だと思う。
渡辺松男と太田美和が並んで歌壇に掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。
失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会。
そのときに自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。
ところで、先日、Yahooの芸能ニュースをみていたら、TBSのプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人が俳句の先生から5点と酷評されたと報じていた。
消しゴムが 白き水面に ボウフラを
というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味を説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。
ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人の俳句が酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組の演出・脚本としてはそれがオチなのだろう。
演出もさることながら、これは、他の出演者の俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。
虹の下 クレヨンの箱 踊り出す
天王山 黒ずむ袖に 薄暑光
薫風や 隣の君と 教科書を
こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。
バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージで作品のクオリティが補完されてしまうのだ。
しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校の児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。
消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月の番組で文房具だからまだ気持ちはフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。
ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。
それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。
いいかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。
一方で白い水面(ノートの隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。
ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。
と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ。
ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。
また、どんくさいもの、弱者がボウフラというノート上のより小さい存在に視線をフォーカスする、という手法は小林一茶の方法とも通じるところがある。
番組の評者は、この芸人の俳句を酷評したうえ、次のような添削をしたという。
夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。
しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組だからね。
ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界は一種のルッキズムだ。夏休みとかいって勝手におめかしさせようとするんじゃねーよ。
そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつの動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語や川柳で身につけたものだろうから、ゆりやんの一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。
https://youtu.be/zFD6TujMsj4?si=f1Ax2gNqQpBkwlwc
ダンバインのリブート?再製作?視たけど。なんかピチカート・ファイヴのBellissima!を「仏つくって魂いれず」って酷評した気持ちがわかったような気がしないでもない