はてなキーワード: 言論とは
三菱UFJリサーチが出したサマリレポートにブクマが集まっているのだが、
『地政学リスクの全体像の整理 | 三菱UFJリサーチ&コンサルティング』
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.murc.jp/library/economyresearch/analysis/research/report_240528/
そこで「よくまとまっている」とかコメントしてるブクマカが数人いて失笑するするしかない。なんだよそのエラソーな態度はw
そもそもネットで国際関係に関して調べる時、膨大なゴミ情報が掛かり易いわけだ。だからこういう金融系シンクタンクのレポートが出てくるまで検索を続ける、出てくるまで検索式を変えてみるっていう風に一定の基準とされる事が多いもんだろ。
大学のレポートでどっかのインフルエンサの動画を参照したとかネットで活躍する誰それのメルマガ参照とか書いたらリジェクトされるし、仕事でやったら馬鹿のレッテル貼られて渉外的な仕事からは一生干される。そういう意味で安牌なのがこういう金融系シンクタンクなわけだ。
仮にその予想や分析が間違っていても格好はつく。
特に今回みたいな「地政学リスク」を論じる時には重要だ。何しろこの10年の日本で「地政学」と来たら新聞も読まない馬鹿向けコンテンツとして有名だ。
なんでそうなるかというと、元々日本での地政学アゲの元祖は90年代の福田和也で、反米+知的スノビズムなのよ。
一方で80年代末に急な円高による海外旅行ブームと対米貿易摩擦があった。これに刺激されて「国際的」というのがバズワード化して、多くの大学に「国際学科」なんかが雨後の筍のように出来たのだが、元が必要に迫られた国際化なのでこれ以後特にビジネス教養として国際関係が重要視されるようになった。
この「国際政治と国際経済を中核とした常識化した教養」が無い人にとって「地政学」とやらはもの凄く魅惑的で、それらの踏まえなきゃならん常識を無視して、他国の本質も見えるし物事が明瞭に見える。
なんでそんなに明瞭に見えるかって言えば、白紙だからだ。白紙に線引きゃ明瞭だし自由に引ける、A国の隣にB国がある、とか中国の概要進出をブロックする形で日本列島がある、とかそういう目で見て直ぐに判るような事ばかりで構成される。
「本質が見える」「よくわかる」というのは、単純にその対象の事を全く知らないという事はしばしばである。
でも普通の人にはそうは出来ない。各国の産業の構成グラフとか、輸出入品目の図、国の成長度合いと関税品税率、航路、貿易協定の線とか、世界地図上はごちゃごちゃしてる。そこでカッコ付き「地政学」で使われてる地図図示されても「今は帝国主義じゃねーし」で終わりだ。「中国の海外進出の蓋になってる日本列島」の図を見ても「いや、中国は海洋条約に対して大陸棚方式を主張してるし」とか「11段線の元は民国の9段線とかなんとかでそれを一国主義に基づいて反射的に主張したのが最初だから…」とか余計な事を考えてしまう。
それらの知識に消しゴム掛けなきゃ「地政学」の線を引けないんだが、正直、元の記述より重要なの?この線は?って感じでリーチしないんでありますな。
そもそも現在現役の地政学講座なんかがあるのは多分英国の幾つかの大学くらいではないかな?麗澤大学とかハッピー・サイエンス・ユニバーシティにはあるかもしれないが。
そうなると議論で踏まえるべき「正統」も無いって事になるので、余計に白紙に線を引く自由度は上がる
さて一方で「地政学リスク」というのはシンクタンクや国際政治論なんかの頻出ワードだ。国家間の地理的条件が政治的緊張を産み、戦争リスクや経済リスク、世界的な不安定さに繋がるって意味で、かなりカジュアルに使われる。
こういう地政学リスクを扱う場合、ネットとか本屋の一階、特にマンガサブカルコーナー寄りの平積みとかブックオフの200円コーナーとかで情報誌仕入れようとすると、どうしても俗流「地政学」の方を引いちゃう可能性あるわけよ。
そういう時は検索式を工夫したりして、首記の金融系シンクタンクが出てくるまで頑張るっていうのが恥をかかない為のハウトゥなわけだ。
でもブクマ見ると地政学と地政学リスクを混同している人は結構いるし、それよりも目立つのはウエメセで「よくまとまっている」だ。
あのさ、これってどういう風にまとまっているかって言えば、「ネットのゆっくり地政学とかで言ってる事が書いてある」って事でしょう?そういうのと区別する為に金融系シンクタンクなどを引くものなんだよ??
因みにシンクタンクだけだとこれもダメだ。というのもネットでおかしな言論商売してる奴っていうのはみんなシンクタンク名乗ってるのでな。
はてなのこういう常識が無いせいで間抜けな情報に踊らされてるのに偉そうな態度などは外から見るとかなり目立つし結構滑稽なんだよ。
コロナの初期に社会免疫論デマに乗っかってしまい、内容を理解してないのに「SIモデルがー」と挙って言ってたのも超害悪だったし、その後はPCRデマに乗り換えてウジウジ言い訳してたのも超害悪で溺れる者藁をも掴むの典型だった。
暇コラボ事件では盛り上がったのに暇が全然成果上げないのでいつの間にか女叩きにスライドしていって、数か月間もホッテントリの1/3が扇動的な男女論と女叩き、男性差別論という状態を出来させていた。
で、いつもそんな時にやたらイキってるのが特長で、馬鹿晒してイキってる、というのがはてなのイメージになっている。
もういい加減努力もせずに知的に背伸びしてイキるのは止めるべきだし、ソーシャルブックマークなのだから踏まえるべき基礎的なコンテンツをブックマークするようにせんといかんだろ。
もっと具体的に言えば、統計を「平均」のことだと思い込んで、「分散」を考慮に入れて議論することができないから。
個々のデータと平均値の差の2乗の平均のこと。分散が大きいとデータのバラツキが大きい。
分散の平方根を「標準偏差」という。平均値を50とし、標準偏差を10とするようにスケールし直したデータをおなじみ「偏差値」と呼ぶ。
分布が正規分布に近い場合、凡そ68%が偏差値40〜60の間に収まる。また95%が30〜70の間に収まる。
もともとの日本の「一億総中流」のような、多様性を否定する信仰がさらに「平均以外に意味はない」というバイアスを強めている可能性がある。
日本人にはもともと「普通」を定義しその中に収まるという強い欲求があるために、たとえ義務教育で統計の基礎を学んでいても、その中から「平均」という普通の定義だけを学び、「分散」という多様性の定義を学ばない心理的取捨選択があるということだ。
増田自身、男女の能力差に関して「統計的に考えろ」とここに書いたら、「女は男より(平均で)下だと統計が言ってるんだ」と騒ぐやつばかりで話にならなかったことがある。
統計的に言えば、「普通」と言うのは、例えば偏差値40〜60のように平均以上以下に幅を持って定義しなければ意味がない。平均の周囲どれだけに何%が収まるのかという分散の発想なしに「普通」は本来定義できない。
「生活保護基準」と「相対的貧困ライン」は、それぞれ別の定義で、別の目的で作られた概念だが、結局は同じ層だよねってなることが学術的に知られている。
https://cir.nii.ac.jp/crid/1390853651279758080
相対的貧困ラインは「可処分所得(手取り)」が中央値の半分を下回る水準であり、これは収入格差が大きいほど当然拡大する。
欧州などは10%程度に抑えられているが、日本のように16%もの相対的貧困層がいる場合、「生活保護の本当に必要な人」は1000万人〜2000万人は見積もる必要があると統計を理解していれば必ずわかるのだ。
社会的に弱い立場にあることが多い女性がセクハラ被害等に声を上げても、強い立場にある当事者男性による圧力とか、世間からのバッシングとか、いろんなものによって潰されてしまうことが多い、または潰されることを恐れて声を上げづらい。
なので一緒に声を上げましょう、連帯して支え合いましょうという運動だったと俺は思っている。
だから声を上げた女性に対しては、真偽の究明よりも先に、まず連帯と支援を表明して支え合いましょうとなる。
決して褒められたものではないが、じっくり見定めてたら女性が潰されてしまいかねないという現実を前にした面もあり、一概にダメとは言いにくい。
実際に声を上げたものの支援が足りなかった女性がどうなるかといえば、園子温の一件でグロテスクなほどわかりやすく示されている。
もし訴えが虚偽だった場合、被害者男性に対しても被害者女性に対するものと同じくらいの熱量や物量をもって、名誉や損害の回復に尽力するという姿勢。
連帯を示した当事者として、批判をおこなった当事者として、賛同し声を上げた当事者として、それらに責任を持つという当たり前の覚悟。
ブックマークコメントという形で全世界に意見を発信しておきながら、反論されたら削除申請という形で反対意見を黙殺するなんてダサすぎねえ?
誹謗中傷された訳でもないのに。
「うえええ~ん。ドラえも~ん。ジャイアンに正論で殴られてくやし~よ~。なんとかしてよ~」
ってドラエもんに泣きつくのび太も同然じゃん。
ドラエもんの世界ならのび太は小学生だから保護者同然のロボットに泣きつくのも仕方がないけどね。
でも、いい年した大人が、
むしろ良くしてもらっていると思う
出回ってる言論に「うつならバイトなんてできない」とか何とかあるけど本当に人によるんだなと思う
働けてしまうから働く、たぶん本当に分別がつかなくなるとかぶっ倒れて動けなくなるまではこうしているんだろうと思っている
四月から朝なんとか出社して昼間普通に働いて夜に電池が切れてを繰り返し
日にもよるけど帰ってから動けないことも多い 調子悪いと入眠できても夜中に目が覚めるし悪夢とか幻覚を見る でもなんとか生活している
でも逆に制御効かなくなって何も出来ない瞬間自分がうつってことを実感して絶望してるのにほっとしたりする
ただの怠慢じゃないって思えるから
そんなんでとうとう社会人になってしまったけど、この状態はいつまで続けられるんだろうか
死んだら迷惑がかかりすぎるから頭がまともに働くうちは死ぬ予定ないけど、ふっと終わる瞬間がいつか来そうで怖い
何年も綱渡りをして生きている はやくこの綱を降りたい
デマゴーグのバカを見つけたのでボコボコ叩いてあげてるだけで議論ではないですよ
ゴキブリと一緒でこういうのは見つけたらすぐに叩かないといけないんですね
良い言葉は何度も繰り返し言わなければ簡単に悪い言葉に駆逐されるし、悪い言論は放置すればバカが信じるから放置してはいけない
バカジャップはバカなので綺麗事だとか偽善とか言い出しますが、日本には善の考え方がほとんど定着してないのに偽善偽善言ってるのバカすぎて面白いですよね
「俺を虐げるな」=「無条件で俺を世話して性処理をする女をあてがえ」
そもそも、誰かがそう主張すること自体は自由です。その主張を議論の俎上に載せて対話するのが民主主義です。もちろん、こんな主張を議論に乗せれば、それが通らないことは自明です(1人の人権を保障するために1人の人権を犠牲にするのでは社会にとって問題は何も解決しないからです。一般的に言って、無辜な何者かの生活を犠牲にすることによる解決は、少数意見を尊重する真っ当な民主主義においては認められる主張ではありません)が、それはそれとしてその「主張をすること」は自由であり権利です。逆に、その意見を封殺することは非民主的な行いです。
従って、
という態度は望ましくありません。意見が荒唐無稽だとしても、両者の意見のすりあわせと妥協点を探る(女性を奴隷にせずに、「俺」さんが「虐げられていない」と考える道は本当に無いのか?など)態度が民主主義です。このように、民主主義を標榜するなら「俺を虐げるな」などと言う人と対話しようとする姿勢が必要です。もちろん、相手がマサカリで武装しているなら、対抗言論上多少きつい言葉を使うことも許容されるべきでしょう。しかし、少なくとも人権と民主主義を尊重する近代人のふりがしたいなら、対話すべき相手を人間以前の生き物のようにレッテル貼りして言論を封殺しようとするべきではありません。そういう( 「弱者」男性に対する )マッチョな振る舞いが一部界隈では人気を博すのかもしれませんが、それは人権に名を借りたただの差別主義です。
差別主義とは何か。それは、社会に、本来は存在しない見えない線を区切ることです。そのような見えない分断は多くの人にとってはただ不都合でしかありませんし、特に、その区切りによって不利益を被る側には耐えがたいマイナスですが、その分断を強く主張し主導する人々にとってはそれが権力の源泉となります。たとえばエセマナー講師は、わかりやすいその一例です。奇妙なマナーを提唱して、社会を「"マナー"を知ってその通りに振る舞う人/"マナー"知らずで無礼な人」に区分けする、多くの人にとってはただ面倒が増えるだけですが、マナー講師にとってはその「社会全体の不利益」がそのまま「飯の種」になります。「流行・ファッション」などというのも、多くの場合これです。しかし、流行・ファッションを飯の種にする人は多くいて、そうなるともうこの「流行」なるものは実態のように振る舞い始め、被搾取者だけでなく受益者まで巻き込んで様々な悲喜劇を引き起こします。「文化・伝統」「宗教・信仰」もその類いであることは言うまでもありません(本来は信仰の守り手として受益者であるはずの行為の宗教家が、狂信者となることでどんな悲喜劇を引き起こすことか)。
ここで、しっかりと区別しておきたいことは、私はこのように振る舞うのが「好きだ」、私はこのような服装が「好きだ」、私はこのような文化が「好きだ」、私は神様を「信じている」……それは差別主義ではありません。しかし、人はこのように振る舞う「べきだ」、このような服装をする「べきだ」、このような文化を守る「べきだ」、誰もが私の神を信じる「べきだ」……となると、それはもう差別主義に足を踏み入れています。なぜならそれらは、そうする人としない人を区分けする考え方であり、しばしばまさに「区分けするため」になされる主張だからです。敵と味方にわけて闘うための思考が差別主義です。差別主義は戦いからこそ利益を得るのです。
同じく、私は人権を「大事だと思う」、人権は「大切だと思う」、はただの選好ですが、誰もが人権を「尊重するべきだ」、人権を守る「べきだ」、人権を信じる「べきだ」、人権に則って振る舞う「べきだ」……は、ここで言う差別主義に当たることになります。一見人権を大切にする結構な主張に似て見えますが、それらは社会に分断をもたらすことで結局は全体に不利益を与え、見えない壁を作り、そしてそう主張する者だけがそこから部分的な利益や権力を得る、そんな行いだからです。人権も民主主義も、この社会の構成員全てを等しく扱う考え方であり、「敵/味方」という思考法から最も遠いはずのものですから、「彼らは民主主義の敵だ」とか「我々は人権派だ(あいつらはそうではない)」といった主張は、本来存在するはずがないのです。
私たち一人一人は、弱く愚かです。間違いも犯す。だからこそ、いろいろと問題のある中で民主主義が選ばれ、尊重されているのです。たとえ自分が民主的で人権を尊重する人間であると自負していたとしても、私たちは不断に自らが本当にその名にふさわしい振る舞いをしているか、再確認する必要があるでしょう。人権や民主主義はありがたく飾っておけばすむ錦の御旗などではなく、常に実用の最前線にあり、限りない問いかけと異議申し立ての中で磨きぬかれてきた存在なのです。
米山「党としてはパーティ禁止法案は出しますが、自民以外の政党のパーティは問題とは思いません」
立憲支持者「党内でもいろいろな意見があって、それを競い合わせてよりより政策を取れるのは立憲だけ!」
立憲支持者「枝野は立憲内自民党議員!裏切り者!今すぐ辞めろ売国奴!」
こんなんだから立憲は支持できないんだよな。
自民を攻撃する為にダブスタを導入するのは立憲に限らず野党の伝統芸だからもう許容するとして、
自党内に対してすらダブスタで都合のいいように敵味方設定して内ゲバしてたら、得するのは自民だろ。
執行部絶対体制を取って、異論者には言論リンチも辞さないことで、党としては首尾一貫した姿勢を取れる共産や、
これね、共同通信だけの問題じゃないけど、そういうことだよね。ミスインフォメーション・キャンペーン。
[B! 上川陽子] 【内部文書入手】上川陽子「うまずして」切り取り報道の共同通信「全くひるむ必要は無い」差し替え経緯も判明
共同だけの問題じゃないというのは、共同通信に乗せられたとしても、各社一斉に
「出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘」で揃ったこと。いかにも日本的な乗せられ方だ。
これは欧米でミスインフォメーション・キャンペーンと呼ばれるもので、誤報による世論誘導だ。
ミスインフォメーション・キャンペーンとは、世論や有権者の行動に影響を与える目的で、意図的に虚偽の情報や誤解を招くような情報を流すことを指す。こうしたキャンペーンは、民主的プロセスに対する信頼を損ない、地域社会を分極化させる可能性がある。誤情報は、ソーシャルメディア、マスメディア、口コミなど、さまざまなチャネルを通じて拡散される。フェイクニュースを作成したり共有したり、事実を操作したり、問題を誇張したりして、有権者の間に疑念や混乱を生じさせるような戦術がとられる。
その目的は、選挙結果を左右したり、政敵の信用を失墜させたりすることだが、ひいては選挙制度に対する国民の信頼を低下を招くため、このようなキャンペーンは、選挙結果に対する有権者の信頼や民主主義全体の健全性に影響を及ぼす可能性がある。
これがいかにヤバいことかのメディア自身の自覚のなさが、世界報道自由度ランキング70位という結果にも反映しているんだよ。
今回の場合、完全に誤報を流したというより、もともと解釈に幅がある、どちらにとられてもおかしくない表現だったことが特徴だ。
それは、女性たるもの出産すべし、と解釈できる、そういう解釈しか思いつかない人が一定数いる、というのは、この記事がでてもなお、上川発言に非があるとするブコメが少なくないことでわかる。
上川氏が女性の役割に対して固定観念を持っている、という指摘はありうると思う。ただ、最初からそういう指摘をする報道だったら、ここまで炎上しなかったのではないか。
しかし、これが炎上したのは、実際の各社の報道が「出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘」だったからだと私はみる。
ジェンダーロールの偏見の指摘と弱者への配慮欠如の指摘は必ずしも同一のこととはいえない。
今回のメディアの場合、不妊で悩む女性を主に念頭に置いたのかしらないが、そういう方々が可哀そうだと、感情的な正義に訴えたわけだ。
上川氏の潜在的な差別意識を指摘するのとちがって、この訴え方は、「出産を願ってもできない人」というデカ主語を据えるものだ。
出産困難者というのは、もやっとしたイメージだ。人それぞれ「出産を願ってもできない人」のイメージが違う。
子育て環境の制度的な脆弱さを思い浮かべるひともいるだろうし、家族親族からのプレッシャーとして理解するひともいるだろう。
女性の出産の役割に自己実現の価値を見出している人もそうでない人も含めて、かなり多くの人が感情的共感の網にかかってしまう。
つまり、上川叩きの味方を増やす効果があって、上川氏からすれば、保守からも批判されうるし、フェミからも批判されうるという状況に置かれてしまったことになる。
今回の誤報キャンペーンでは、感情的共感をより広く、網を張り、特定のターゲット層に的を絞らない戦略が功を奏し、同町圧力の強い傾向のある日本で、あとに続くメディアを一斉に吊り上げ、ばっちりと効いてしまったというわけだ。
「出産を願ってもできない人」への配慮、という形で大衆の感情を煽ったのが今回のミスインフォメーションキャンペーンだったといえるだろう。
問題は、これが選挙に影響を与えかねない、ということを報道機関が自覚しているかどうか。
それに対して「全くひるむ必要は無い」というのが、共同通信のスタンスなのね。確信犯であることがよくわかった。
とはいえ、共同通信だけでなく各社報道機関は、「出産を願ってもできない人」への配慮を犬笛として使いたかったのかもしれないが、その副作用についてはやっぱり少しは考えてもらいたい。
「出産を願ってもできない人」への配慮を訴えたつもりでいても、出産を願ってもできない人々を一つのカテゴリーとして固定化することで、そのグループが常に特別な配慮を必要とする、社会的に弱い立場にあることが強調され、固定観念が強化されることもありうる。
これって女性の弱さ傷つきやすさについての別の意味の偏見が強化されるってことでもある。
社会的に弱い立場であるとの認識が広まれば広まるほど、社会的に敏感なトピックになり(タブー化)、それついて話す際に、他者の感情や意見を過剰に気にすることになる。これにより、人々は自分の発言を自己検閲し、無意識のうちに自らの意見を抑制するようになる。
「兵隊さんご苦労さん」みたいな、何気ない表現が大衆を戦争に巻き込むプロパガンダとして一番効果があるのと似た話で、こんな配慮や遠慮、忖度の積み重ねで、誰かが傷つくのを恐れて何もいえない社会にどんどんなってしまう。
これに対して、いやいやむしろ、偏見解消は積極的にキャンペーンをやるべきだ、女性に対する偏見が解消されて、社会全体としてハラスメントが減るならそれは結構な話じゃないか、といわれるかもしれない。
しかし、実際のところ、偏見というのは、配慮すればなくなるというものでもない。
強さや傷つきやすさの男女差というのは、いってみれば偏見なんだけど、悟りを開けば自分の偏見を解消できるわけでもないし、
言論警察よろしく配慮に欠ける発言をバッシングすれば解消できるわけでもない(公言しないようにすることは可能だとしても)。
近代の黎明期に、イギリスから隣国で起きているフランス革命で、反革命派が断罪されている様をみたエンモンドバークは、
なんでも理性的に判断できる、偏見を解消できると考えちゃう傾向はヤバいと考えた。
偏見なんてなくならないんだから偏見をなくそうという発想をやめて、偏見を生かそうという考えを進めた。
それが保守の出発点なんだけど、世の中が保守一辺倒というのもそれはそれでどうしようもない社会だ。伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとだっている。
さすがに、公平性については、制度が、最低ラインとして補助線というか設計図を引かないと、いつまでも伝統的な価値とか懐古的になっててもしょうがないだろう。
ということでまあ、ジェンダー問題は、極力、制度としての公平性、機会としての公平性という観点に限定して話をするように注意しておくのがいいってことかな。
もちろん、制度機会平等を理性的に討議したとしても偏見がなくなるわけじゃない。
偏見はなくならないけど、制度の普及・概念の進歩に伴い、ひとの意識は変わっていくだろうと期待する。それだけでよく、それ以上のことはあえてしないほうがいい。
ひとはすべて進歩した価値観にもとづいて幸福を追求しなければならない、みたいなのは押しつけがましい左翼の傲慢だからだ。
「伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとがいる」一方で、伝統的な価値観で自己実現をしたいひとだっているんだよ。
進歩的な価値観に基づいて偏見を解消しようすると、社会のどこかで肩身の狭い思いをする人が出てくる。
「世の中はいつも変わっていくから頑固者だけが悲しい思いをする」(中島みゆき、世情)というわけだ。
私から言わせると、そういう進歩史観を押し付けようとするところがもっともサヨクのムカつくところなんだよ。
かつて反戦フォークの全盛期、学生運動が最高潮を迎えていた時期、中川五郎の「主婦のブルース」のなかにこんな歌詞がある。
息子は今夜も帰らない 私は心配で眠れない
だけど私は家庭が一番 真面目に生きるのには疲れたわ
おお 人生は悩みよ ちっとも楽しくない 恋なんてしない間にふけちゃった
わびしい夢に はかない楽しみ 思い通りには何もならない
安保世代では親ですら論破すべき守旧派だった。しかし、学生運動は結局、どの社会階層とも連帯できずにスピンアウトしてゆく。1968年に作られたこの歌はそれを暗示しているかのようだ。一方、中島みゆきの「世情(1978)」は、この10年後の70年代の世界がうたわれたもの。ひとつ前の安保世代の情熱が新左翼へと変遷、空回りしてゆくさまを見せつけられたシラケ世代からみると、左翼残党はあたかも守旧派とさして変わらない頑固さでイデオロギー打破を訴えている、という皮肉な構図になる。
今回の場合でも、産みたくても産めない人が可哀そうだなどと感情的正義で持論を補強すると、そうした表現のタブー視が蔓延し、出産に自己実現を見出している人まで遠慮しなければならない、という空気をつくるかもしれないし、他方で、女性の傷つきやすさを過度に強調することで、女性が弱い存在であるという潜在的な差別意識が助長されるおそれだってある、みたいな妙な副作用が現れる。
かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的な正義と感情的な正義を区別し、自分のことでもないくせに感情的な共感によって主語がでかくなるのが感情的な正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのをひさしぶりに思い出した。
たまにはケシカラニズムに陥っていないか自己点検でもするか。フェミニストさんも自分の偏見を認めたほうがいい思うんだよね。
制度的に不幸になっている者は救済する、しかし、偏見ある社会のなかで生きている者の幸せや自己実現は否定しない、という具合のバランスがちょうどいい。
男性社会にあって嫁として母として子供を育ててきた誇りある人生を否定するのがフェミではないと思うし。
そういう意味じゃ、左翼は保守主義のマインドも頭の片隅に入れておく必要があるし、保守派も制度的な公正について左翼の主張に耳を傾ける必要がある、といったところか。