はてなキーワード: 用語とは
thirty206 ゆるっと使えて便利やからね、仕方ないね。/女性器が緩い、という用法では少なくとも1953年までは遡れる。https://x.gd/5Y24u
mobile_neko 淫夢ネタにはほとんど触れずにインターネットしてきたのでよくわからんが、元々「ガバガバ」という言葉の用法にあったからビデオ内で使われて視聴者も理解できたのでは?
mutinomuti 40年前にお下がり着てる子どもにガバガバだね、詰めようかっていってたよ@関西
WinterMute "淫夢由来の言葉" 違います。お前の認識ガバガバだな
ignio 青空文庫はこういうときに便利。大倉燁子の「恐怖の幻兵団員」(昭和25年)に「孔のまわりの羽目板はがばがばにゆるんでいる」という文がある。
red_kawa5373 id:ignio 国立国会図書館サイトも良い。昭和28(1953)年の最高裁判例に「ガバガバのゴム長靴を履いて」な記述があるので、ガバガバの「しまりがない」の意味は淫夢由来ってのは違うと思う。 https://dl.ndl.go.jp/pid/1349044/1/52
officesitter 昭和の筒井康隆の短篇で、女性に対する罵倒語として使われていたのを見て覚えた。自分の口から発したことはない言葉。なんとなく関西弁っぽい気がする。
ni_ls ウン十年前の高校(男子校)生時代、ガバガバアナルの略で「ガバナル」って呼ばれてた先輩がいたよ
redundancy 老が使ってる時点で元ネタそこじゃないって気づくだろうから書き手の判断力がガバガバっていうネタでは
otihateten3510 普通に使う言葉を淫夢用語だと思う方が何倍も恥ずかしいけどなあ
star_123 最初しか呼んでないけど前世紀からそういう意味で使われてたような…
marilyn-yasu 淫夢以前から穴の精度が悪くてガバガバ、計画が穴だらけでガバガバなんて使ってたから何言ってんだコイツとしか思えない。
ht_s 老人が(も)淫夢由来でガバガバって言葉を使っているあるいは淫夢以前は使っていなかったと思えるの、ちょっとかわいいな。バカほどかわいいってこれか。
パレス + 搬入・搬送 の省略形です。 パレス=自宅、搬入・搬送=連れ込み のこと。 つまり、自宅へ連れ込むこと に成功したことを指す
グダとは、女性をセックスに誘った際に起こる、女性からの「抵抗」のこと
「真性グダ」は、セックスを本気で嫌がっていることによるグダです。よって、崩そうとしても上手くいきません。もちろん、無理やり襲うのは絶対にNGです。
いや、おれも知らん。
文化資本(英語: cultural capital、フランス語: le capital culturel)とは、社会学における学術用語(概念)の一つであり、金銭によるもの以外の、学歴や文化的素養といった個人的資産を指す。フランスの社会学者ピエール・ブルデューによって提唱されて以来、現在に至るまで幅広い支持を受けている。社会階層間の流動性を高める上では、単なる経済支援よりも重視しなければならない場合もある。
wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B3%87%E6%9C%AC)
フランスの社会学者ピエール・ブルデュー,P.(Pierre Bourdieu, P.)とジャン=クロード・パスロン,J-C.(Jean-Claude Passeron, J-C.)が考案した概念で,人間の知識技能を資本として捉えたゲーリー・ベッカー,G.S.(Gary S. Becker, G.S.)の人的資本概念を文化領域に拡張し,貨幣や財の経済的側面のみならず,教育や文化の面において財が相続・生産・蓄積・投資される過程を説明する。文化資本は言葉遣いや立居振る舞いなどの身体化された様態,書物・絵画などの文化財所有による客体化された様態,学歴・資格によって制度化された様態からなり,それらを教育や就職など,経済的には「市場」となりうる「場=界(champ)」に投資することで,再生産戦略を可能にする物質的・象徴的な利益を引き出す。それは幼少期の家庭から相続継承され,学校教育を通じて中立的な能力証明へと変換され,社会的な地位や権力の再生産に結びつく。この概念によって,一見利害関係なく実践される文化慣習行動を,貨幣経済より広範な「象徴交換の経済」に取り込んで分析することが目指される。
コトバンク(https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B3%87%E6%9C%AC-377212)
小難しいがようするに、
という前提があって、
・金だけでなく、文化的素養や学歴、スキルなどの見えない資産も子に受け継いでいるんだ!
ということなんだな。
で、その受け継ぐ過程で使われる個人的資産(=投資のもとになるもの=資本)を文化資本というらしい。
てことは、美術館それ自体は文化資本ではないやんけ!(個人資産じゃないから)
おいおい、「文化資本」という言葉もまた、はてなーたちの反知性主義によって意味が捻じ曲げられているじゃないか。
「なんか語感がかっこいいから、意味はよくわからんけど使ってみました」じゃねーんだよ。
美術館そのものではなく、「親が美術館によく行く習慣がある」とか、そういう「家のなか」の話なんだよ、文化資本てのは。
しかも資産や社会的地位の再生産に結びついていることが前提なのであって
庶民が「お、、おれはモネの展覧会とかよく行くし?」とか「いやー、声優の舞台挨拶が家から近くていいっすわ!」とかホクホクしてるのは文化資本じゃないんだよ。単なるエンタメ消費だそれは。アホか。
「親父が社長やってたんで、起業は自分にとって自然な選択肢でしたね」ってやつだよ。
あれこそ文化資本だよな。
・・・と、こうやって知らない言葉の意味の確認すら行わない、知的誠実さ皆無のお前らが親からたいした文化資本を受け継いでいないのは明白。
地方民は「美術館いってまーす☆文化資本文化資本☆」とかなんとか自慢してるスノッブどもを見下していいぞ。
・適当に調べたり考えたりしてみる感じ、居住地域に美術館だとかいい学校があるだとかは社会資本の話な気がするわ
・文化資本て、「親の語彙の豊富さ」とか「親同士の会話の知的水準の高さ」とか「親が教育資格を保有していて、知的水準の高いフィードバックが日常的に得られる」とか、「社会的地位の高いオトナとの会話機会の豊富さ」とか、そういうものなんじゃねーかな
・「文化資本の定義を都市や地域に援用」とか言ってるやつ、文化資本て社会階層の再生産を説明するロジックで生まれた言葉らしいから、「都民=殿上人、地方民=下層民!」的な東京の選民思想を前提に生きてるってことになると思うんだが、大丈夫そ?
・つーか、東京のなかでも当然ながら格差や階層があるわけで、そのなかでざっくり「もとの定義は家の話だけどぉ、都市に援用すればぁ」っつってるやつは、東京の内側で生まれている格差にはどう説明をつけるんだ?東京にいるだけで文化資本の恩恵を享受できるなら、東京の内側の社会格差はその他の地域と比べて小さくないといけないはずだろう。まずはそれを示してくれ
・いい学校とか文化施設へのアクセスを高めるために東京に住む、はたしかに「その判断能力があったり意思決定をする家庭である」という意味で文化資本があるといえそう。ただ、その意思決定の内実が本当にそうなのか?というのは問いたいところではあるな。なんとなく東京で就職したとか、職場が東京だからそのまま住んでますとか、そっちが主要因なやつも多いんじゃないの?
・いくつかブコメ読んで、格差を批判する文脈でなら都市間に援用してもいい気がしてきたが・・・仮に「都市の文化資本」という概念が成り立つ場合、以下が疑問。詳しい人おしえて
1.文化資本の枠組みだけで考えると、いい学校、いい美術館などは「客体化された形態の文化資本」に分類されるはずだが、そもそもこれらは社会資本ではないか?どう整理するのか?「ハビトゥスを形成しやすい環境が東京の文化資本」と言ってるやつもいるが、わざわざ"援用"せずとも「東京は社会資本が充実してますなー」で済むんじゃないか?
2.もとの定義に照らすかぎり、文化資本=経済的な格差・階層の再生産に結びつくものなので、「他地域よりも東京を経済的・社会的に特権的地位たらしめている、東京に特異的な文化慣習行動」が「東京の文化資本」ということになる。それってなに?そんなんある?
3.ここまで考えて、いわゆる「ユダヤの商法(ほんとにあるのかしらんが)」はユダヤ人の文化資本といえそう、つまり都市という地理的な要素よりは特定の価値観を共有する集団内においてなら、文化資本という概念は家を超えて援用できそうと思ったんだけど、どうなん?
たとえば1950年代において、女性は家庭的であるべきとされた
つまり
現代人はAを支持できるか(Aを否定するのを我慢できるか?)で多様性に対するスタンスが変わると思う
まあ昔(1950年)は「主義Bなんてとんでもない」が主流だったので分かりやすかったんだけど
現代は多様性の時代とされてるからややこしいんだよね、偽物の多様性主義者がたくさんいる
ちゃんとした多様性主義者は、どの時代、どの場所、どの立場でも「AもBも認める」というべきだけど
偽物の多様性主義者は、ポジションや現代の価値観に引きづられる
この人たちのことを同調主義者(Conformity)と呼ぼう
同調主義者が多様性を支持しているのは、あくまで現代において多様性がメイン主義だからだ
でも偽物だからボロが出る
非常にめんどくさいのは、多様性をアピールしている企業や団体が、単なる同調主義者であることが多いことだ
よくよく見ていくとそれは多様性ではなく、メイン主義への同調と、メインがどれになるかの争いでしか無い
男性もスカートを履いていいんです!ってなったところで「男性のファッションに馴染むスカート」はしばらく広まらないだろう
でもオシャレに敏感な人がカーテンか?って位ダボダボのスカートをまとい始め、やがてYouTuberや俳優の衣装にチラホラとズボンっぽいスカートが浸透し始める。きっとデニム地のロングキュロットみたいなやつ
そしてある夏のロケで芸人が「スカートデビューです!めっちゃ涼しいですわ〜これ〜!」とか言いながらスカートの中をうちわで扇ぐ姿が放映され、おっさん層の部屋着などにジンワリと浸透していく
気がつけばスーパーの衣類コーナーに男性用スカートの一角ができている。スカートではなく楽ちんステテコとか、既存の男性服の用語を交えたワードで売り出されるだろう
そうなるともう「男性がスカートでも変じゃないんじゃない?」という合意が形成され始め、逆にスカートを恥じらうのは昭和感覚、平成感覚と揶揄されはじめる
男子大学生や男子高校生がスカートを履き始め、同級生の男子に「パンチラ見せたろか?」と言いながら捲るという陳列罪スレスレのイタズラが流行ったりする
でも小学生にはしばらく浸透しない。スカート履いてると女の子みたいという固定観念がしばらく付きまとう。中学校高学年くらいから徐々に「男のスカートを恥ずかしいって言うやつが恥ずかしくない?」みたいな雰囲気になり、高校に上がる頃にはすっかりそっいが多数派になっている。子どもの感性は時に不可解だ。都会の小学校だと男子スカートによるイジメは起きない、先進的なので
学校の制服にも男性スカートが取り入れられ、選択可能になる。過渡期は男子生徒はパンチラに抵抗がないものの、浸透するに従いパンチラが苦手という男子生徒も現れ始め、「男性がパンチラを避ける心理を社会は許容すべきか否か」という話題が昼の情報番組で取り上げられる
やがてスカート世代は新社会人の年齢になり、社会へ参入する。この様子もまたニュースになる。おっさんがスカートを許容していた場合、ビジネススタイルにスカートが取り入れられているが、そうでない場合は新社会人が文化のギャップに悩んでいる様子が特集される。しかし夏のクールビズにいいですよ、みたいなところから結局普及する
これに伴い、男性の股開きもマナー違反だと扱われ、今以上に股を締める座り方を厳しく指導されるようになり、電車のマナーが改善する
一所懸命だけを使う人に聞いてみたいな。なぜ「一生懸命」ではなく「一所懸命」を使うのか。
さて,それでは,現在採るべき表記法はどうであろうか。最近の辞典類を見ると,『岩波国語辞典』(岩波書店刊)は,「一所懸命」を本見出しとし,「一生懸命」をから見出し扱いにしているが,『例解新国語辞典』(三省堂刊),『新明解国語辞典』(三省堂刊),『新選国語辞典』(小学館刊)などは,「命がけのこと」を意味する語としては「一生懸命」を本見出しにし,「一所懸命」を併記したり,古語扱いにしたりしている。さらに『例解辞典』(小学館刊),『NHK編 新用字用語辞典』,『朝日新聞の用語の手引』(朝日新聞社刊)などの用字用語辞典は,ほとんど「一生懸命」に統一している。
以上のことから判断すると,現在の学校教育においては,表現学習や語彙学習の場合には「一生懸命」が望ましいと思われる。なお,教科書の文学作品においては原典を尊重し,『オツベルと象』では「一生懸命」(原典は「いつしやうけんめい」)を,『蜘蛛の糸』『坊っちゃん』では「一生懸命」(原典は「一生懸命」)を,『ごんぎつね』では「一生懸命」(原典は「一しょうけんめい」)を使用している。
https://anond.hatelabo.jp/20240524195801
ここで、社会的に問題なのは1.と5.なんだろうけど、それ以外の項目で助けてくれと言われると難しいな。
助けてほしいことが、どの項目が多数派なのかで、話変わってくる。
以下、コピペ
「弱者男性」という用語は、日本において特定の社会的・経済的な困難を経験している男性を指すために使われることがあります。具体的には以下のような特徴が挙げられることが多いです:
1. **経済的困難**: 安定した職を持たず、低収入または無収入の状態にある。
2. **社会的孤立**: 社会的なつながりが乏しく、友人や家族との関係が希薄である。
3. **恋愛や結婚の機会が少ない**: 異性との交際や結婚の機会が限られている。
4. **自己肯定感の低さ**: 自分に自信がなく、自己評価が低い。
5. **社会的支援の不足**: 社会からの支援や理解が十分に得られない状況にある。
この用語は、インターネット上での議論や一部のメディアにおいて使われることが多く、時にはネガティブな意味合いを持つこともあります。したがって、この用語を使用する際には注意が必要です。
AI が「人類の英知の集積」を凌駕することは難しいかもしれませんが、AI は膨大なデータを処理し、パターンや関係性を識別する能力において優れています。Web 検索は、人間の知識を補完し、アクセス可能な情報の量を大幅に増やすツールとしてAIと共存できます。AI は、人間の専門知識と組み合わせることで、情報検索と知識獲得のプロセスを強化し、効率化することができます。
・要約技術の加速:
要約技術は、大量の情報から主要なポイントを抽出するのに役立ちますが、批判的思考や読解力の代わりになるものではありません。これらの技術は、ユーザーが情報にアクセスし、理解するのを支援することを目的としています。ユーザーが要約に頼りすぎないように、AI システムは、要約された情報のソースを提供し、ユーザーに完全なコンテキストを提供する必要があります。このアプローチにより、ユーザーは要約技術を利用しながらも、批判的思考と読解力を養うことができます。
・このプロンプトを使えば精度が良くなる:
「精度」という用語は、AI システムのコンテキストでは、特定のタスクを実行する能力や、期待される結果を生成する能力を指すことが多いです。AI モデルは、特定のプロンプトや入力に対して訓練され、特定の形式やスタイルの出力を生成するように最適化されている場合があります。しかし、AI が本当に優れているのは、新しい状況やコンテキストに適応し、学習し、進化する能力です。AI システムは、ユーザーからのフィードバックに基づいて継続的に学習および改善し、時間の経過とともに精度を高めることができます。
AI が人間を凌駕するという考えは、SF やメディアでよく描かれていますが、現実には、AI は人間の知能とは異なる種類の知能を持っています。AI は、特定のタスクや計算において優れているかもしれませんが、人間の創造性、直観、感情、倫理的判断などの複雑な特性を兼ね備えているわけではありません。AI の「賢さ」は、それをどのように設計し、使用するかによって決まります。AI の開発者は、AI が人間の能力を強化し、人間の経験を向上させるツールとして機能するように努めるべきです。