はてなキーワード: 死刑囚とは
https://anond.hatelabo.jp/20240506061423
のブコメを読みながら「心情が〜」「我を表現するものが〜」みたいなコメントが気になって
「そんなに心情入れたがるものか?」と思って
心情が無い(?)短歌を探していた
/俵万智
まず心情で思い浮かんだ一首がこれだった
歌集「風のてのひら」の中に収めらたタイトルにもなっている歌。確かにブコメにあった通り、我を表現してはいるが、心情はどこにあるのだろう
この歌に「私はこう思いました」とか「こうだなぁ」とかは一切無いわけで作者にとって四万十を見た光景を切り取ったそれだけの歌である
だがらずっと私はこの歌には心情は無い!
と信じていたのだが俵万智本人は後書きでこう
語る
「川面をなでてゆく風の手のひらは、目には見えないものですが、心には見えるものです。そして心に見えたものが、その時はじめて、歌になってゆくのではないでしょうか」
なんてこった「川面をなでる風の手のひら」自体が心情そのものだったのである
これでまずは一敗
/永井祐
これは流石に心情は無いでしょう。多分
知らない人からしたら「こんなの短歌じゃない!」となるかもしれないからレギュレーション違反?
/穂村弘
もはや「??」としかならない一首
シンジゲートより抜粋したが、穂村弘ワールドに置いては日常的によくあること。
私はあんまり頭が良くないので心情がどこにあるかとかこの歌は分からないけれど、頭がいい人なら分かるのかな
/笹井宏之
もう心情とか探してる内にどうでも良くなって
ただ好きだなと思った一首。
この人の歌は本当に変わった歌が多くて
例えば
「みんなさかな、みんな責任感、みんな再結成されたバンドのドラム」
この歌には「みんな」がいて「私」がいない
穂村弘も
だが、《私》のエネルギーで照らし出せる世界がある一方で、逆に隠されてしまう世界があるのではないか。笹井作品の優しさと透明感に触れて、そんなことをふと思う。とある
違うの?となってくるわけで
そんな時、歌人「井辻朱美」がパン屋のパンセにてこんな事を語っていたのを思い出した
「詩歌とはこんなふうにひとつの窓、フレームを作るところから始まる。雑多な混沌を片寄せて、まず何もない空間をこしらえる。きれいになった場所にモノを置く。そうして初めて、そのモノはちゃんとモノとして見え、意味をクリアに発信する。」と
つまり私がひとつ俳句と短歌の違いとして言いたいのはフレームの大きさの違いである
短歌は31音のフレームに自分が反射してる事もあるし季節が見える事もある。そのフレームの中をどうにか素敵にしたいと奮闘する
必死にフレームに収めようとすればするほど、フレームは歪んでしまうし、収めなければフレームがある意味が無くなる。だからむずかしい
でも楽しいのだ、よく分かってないけれど
/寺山修司
おわり
ニュースを見て。
昔は執行するよって前日に告知してたら死刑囚に自殺されたそうで、
その反省から今は1~2時間前に告知するようになっているらしいです。
へー、人間ってそういう感じなんですね。
そして今、1~2時間前の告知は「不必要に残酷」だから、もっと前に告知すべしという訴訟が起こされてるのだとか。
でも逆に、事前告知が自ら死を選ぶほどの恐怖を与えたと考えたら、
ある意味死刑そのものよりも前日に告知するほうがシビアなのでは?
という気もしないでもないんですが。
恐怖を与えるというより、恐怖を醸成する時間を与える、というか。
なにをもって人道的とするか、ですよね。
それが何日も何年も続けばやがて日常になり、
「執行はとりあえず今ではない。まだ先のことだ」と思い込むようになることで
自我を保てている部分もあるんじゃないでしょうか?
だから執行は直前に告知されるものだとあらかじめ知らされていたほうが、
ある種のあきらめによって執行までの日々を「比較的人道的」に過ごせるのでは?
むしろそんな精神状態から「1日」も死に向き合うのは単純にキツそうじゃありませんか?
などと思ってみたり。
たとえば、「毎日0.01%くらいの確率で執行するかどうかの判定が自動で行われる」とか、
ランダム要素を事前告知してたらどうなるんでしょう?
その判定を機械にやらせて、当たり(?)が出たらゴハンに24時間後くらいに効果が出て、瞬時に死ぬような薬が入るようになるだとかしたら?
それとも飢餓に耐えかねて、毒入りかもしれないゴハンを恐る恐る食べて、やがてそれが日常になるんでしょうか?
そっちのほうがいいという死刑囚もいるのではないでしょうか?
そもそも、宗教者による最後の説教をうけて絞首台にのぼりボタンを押されて死ぬというような
あからさまなクライマックスを用意するのがなぜか当然とされていますが
もともとレールを外れた死刑囚に、さらに「更生ののぞみが皆無だから死刑」なんて処遇を与えておいて、
なぜかその人に自分と向き合い人道的見地を取り戻すようなことをさせる。
というのはとても矛盾だと思うんですが?
死刑囚でなくても、死に向き合うよりも「なんだかよくわからないけど気付いたら死んでいた」ほうがいいという人は多いのでは?
自分に向き合うようなことが苦手だからこそ死刑になるような行為に手を染めた人間なのだし
だから死刑になったのに、この期に及んでなぜ人間らしさを求めるのか。
もう死ぬんだからいいでしょ?これ以上面倒なことはしたくないよ……というのが
そういうやり方を選べるオプションがあったら、
そのやり方は人道的だといえるか?
人道を外れていることを理由に死を与えられる人間に、人道に戻る義務を負わせるのが果たして人道的なのか?
などが気になりますね。
村上龍が言うように、小説家ってなりたがってなるべき職業じゃないと自分も思うんだよなあ
でも、世の中、夢見すぎたドリーマーとかワナビーが多いので、こぞって小説家になりたがって、華やかな生活が送れるとでも誤解してるんだろうけど
13歳のハローワークに村上氏が書いていたように、最後の最後に選ぶべき職業だと思うんだよなあ
というか、自称~なんて、いいかげんな名乗れば本職みたいな職業はみんなそうだろう
周囲の人間からしたら、バカだろうと思われるだろうし、実際馬鹿だから、警察に厄介になっても自称画家とか自称小説家とか名乗るんだよな
医者が小説家になることはできるが、小説家が医者になるのは難しい
人生、いつだって落ちぶれることは簡単だ、這い上がることは難しい
医者になりたくなかったとしても、人生最初は医者を目指すべきだ
医者になって、耐えられなくなって、ドロップアウトしたら、小説家にでも画家にでもなんにでもなればいい、自称で構わないいいかげんな職業を名乗ればいい
自称犬の訓練士みたいなもんだ
死刑囚が小説家になることはできるが、小説家が死刑囚になることは…、いや、これはできるな…
医者がドロップアウトして小説家になり、小説家になった医者がドロップアウトして死刑囚になる…、これは可能だな
すべては重力のなせるわざ
自分の質量を高いところまで引き上げる仕事と運動エネルギーが必要だからな
俺はもう落ちるところまで落ちるべきなんだろう
日本における死刑が行われているが、 その執行は刑務官によって行われている。
死刑囚の首に縄がかけられると、 3人の刑務官が同時にボタンを押す。 こうすると、実際に死刑囚の足元にある床が開き、死刑囚を殺す。
ここで、3つのボタンのうち2つはダミーであり、 1つだけが実際に死刑囚を殺している。 これは、刑務官の心的ダメージを減らすためとされている。
この死刑執行官だが、おれならば一人で淡々と遂行出来ると思う。
よく、おれは他人の気持ちがわからないと言われるが、 実際のところその認識は間違っている。 正確には、おれは他人の気持ちを完全に理解していながら、完全に無視している。 なぜ無視しているかというと、他人の気持ちを汲む価値がないと思っているからだ。
そもそも、おれは中学受験で「気持ちを答えなさい」という問いを何百何千と訓練されたのだ。 その結果麻布中学の難解な国語を突破出来た人間に、どうして他人の気持ちを理解出来ないことがあろうか。
これで、おれが気持ちがわからないのではなく、 わかった上で意図的に無視していることが理解されたはずだ。
ふつうの人間はこうはならない。 他人の気持ちを理解する能力がないがために、それを空気によって察しようとするから、 気持ちが空気を伝わって「感染」してしまう。 そういう人間が死刑執行人なんかしたら、 死刑囚の死にたくないという気持ちに感染してしまって、 精神が壊れるのは当然である。
どうせワクチンだって、他人のためとか本気で信じて打ったんだろう。 おれが打たないのはそもそもそれが毒であることを理解しているからというのもあるが、 もしそうでないとしても打たないだろう。 なぜならば、おれがリスクを負って守るべき他人の命はどこにもないからだ。 他人の気持ちを理解しつつもそれを無視するのと同様に、 他人の命が大事というのは理解しつつもその価値を無視するに決まってる。
だから、おれは死刑執行人をソロで遂行出来る。 なぜかというと、死刑囚の命に価値を感じないからだ。 1時間前に死刑囚と談笑してたとしても、軽くボタンを押せる自信がある。
精神の弱い人を守るために3つもボタンを用意するのは 税金の無駄遣いなので、ボタンを1つにしておれを死刑執行人に任命することを オススメする。
小学校の頃はIQ130あったのに九九覚えるのクラスで下から3番目ぐらいだったから、教師に「お前、世の中舐めてんだろ」って毎日詰められてたりしてよー。
んでまあ俺はこの5日間バキ読んでたわけよ。
ピッコマでシリーズが各タイトル毎1日だけ全話無料ってことでさ。
まあ決着ぐらいは流石に覚えてるんだけど、復習のために読もうかなってことでよ。
そしたらほっとんど話を覚えてないんだな。
ビスケット・オリバがいつ頃登場して、いつ頃誰と喧嘩したのかとか、そういうのが全然分からねえんだ。
最強死刑囚が最後みんな負けるのはかろうじて覚えていても、それがどういう順番でいつ誰に負けるのかとかが完全に忘れてるわけ。
オーガと刃牙の親子喧嘩もエア味噌汁が出てくるのは覚えてたけど、いつ出てくるのかを覚えてねえのよな。
まあゆーて印象的な要素、トリケラトプス拳とかは忘れようがないから完全な初見の気持ちとは違うんだろうけどな。
でもたとえば、グルグルパンチを出す相手が勇次郎なのかムサシなのかピクルなのかとかは忘れてるわけでさ、それなりに驚きを持って読み進めることは出来たな。
俺の記憶力だと漫画の中身覚えてるのは10年20年が限界っぽいわ。
多分ね、もう10年完全に寝かせていたら、ジャック・ハンマーの正体とかさえ覚えてなかったと思うんだよ。
「記憶を消してもう一度味わいたい」を実現するのなんて俺からすりゃ簡単だよ。
30年触れなければいい。
それだけで、簡単に実現する。
忘れるって力が発達してるからね、俺は。
予め言っておくが、自分は「安楽死反対派」である。それもかなり強く反対している。
ネット上ではたびたび安楽死に関する法整備を求める意見が見られる。
経済的な理由による安楽死は論外として、病気による耐えがたい苦痛を避けるための安楽死を求める意見は一定の支持があるようだ。
だが、主張は結構なことだが「国家によって安楽死を認める」ことがどれほど重大なことか理解していない意見が多いように見受けられる。
あくまで自分の意見だが、「安楽死を認める要件」として最低限以下のようなものがあってしかるべきだと思う。
安楽死とは、要するに医師などにより生命活動を停止させること、即ち「殺人」に他ならないのは疑いなく事実である。
即ち、「安楽死を法的に認める」ということは「国家によって殺人を承認する」ことに他ならない。
国家によって認められた殺人と言えば、「死刑」もそれに相当する。死刑の判決を言い渡すのは言うまでもなく裁判所だ。
当然殺人を法的に認める以上、安楽死についても裁判所による手続きがなければならないと考える。
医師によって、患者がもはや死を避けられない状態であることの証明が必要だ。
主治医はもちろんだが、感情的な選択を避けるためには利害関係のない複数の医師による中立的な判断がなければならないと考える。
当然、安楽死を「行う」医師がどれほどいるかという問題もある。
これが難題である。
その意志が、短期的な抑うつ状態や、周囲や「世間」の圧力に左右された一時的なものでないかの証明が非常に難しい。
2019年の透析中止死事件では、透析を続ける苦痛のあまり透析中止を決断したとされるが、終末期に至って透析中止を撤回したいと言いながらも助からなかったとされる。
本人の意志とはこのように揺らぐものであり、かなり長期間の意志確認は必須である。中立の公証人による証明があってもいいかもしれない。
同様に、安楽死を決めたものの直前になって「生きたい」と意志表示したならば即座に安楽死を中止しなければならないだろう。
また、周囲や世間の圧力でないことを証明するためにも、「安楽死」を美談にしないようにマスコミやSNSには厳重な自制と規制が求められるだろう。
特定の病気になったら安楽死するべき、なんて世論が広がることはあってはならない。
なまじハラキリ文化の日本であり、「潔い死」が受け入れられやすい社会的素地があるのはかなり危うい。
「安楽死を法的に認める」ためには、「安易な安楽死は認めない」という国民の意識改革がなければならないという矛盾がある。
これらの議論を進められるだけの十分な社会的な理解が日本にあるかというと、正直言って「ない」と言わざるを得ないのではないかというのが自分の意見である。
特にマスコミやSNSに関しては、現状ではほぼ絶望的なのではないかと思われる。
なお、昨今の安楽死議論の中には「終末期患者を生かし続ける社会的コスト」に言及するものがあるがこれは論外で、
憲法25条の生存権を見れば明らかなように、国民には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」し、
国には「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とされている。
国民が生存を望むならば国は生存を保障しなければならない憲法上の義務が存在する。どれほどのコストを支払ってもだ。
つまり、一番手っ取り早い方法は憲法25条の改正と言うことになる。
当然自分はこのような憲法改正には賛成しないし、国際人権A規約にも反する。ハードルは極めて高いと言わざるを得ない。
いくつかコメントが来ていたので補足。
繰り返すが、自分は「安楽死反対」の立場からこれを書いている。
これくらい厳しく要件を掛けなければ、恣意的に運用されかねないという強い懸念があってのことである。
コメントにあるように「経営者が労働者に家族の安楽死を要求する」なんてことが起こりかねない。
裁判所の決定を要するとしているのも、時勢に強く左右されかねない行政ではなく、常に法の番人たるべき裁判所が決定すべきと言う考えからである。
実際、裁判によって決定した死刑囚の署名を時の法務大臣の意志で停止した過去の例もある。
そしてこの程度の要件をクリアできないのであれば、そもそも安楽死を法制化するべきではないというのが主旨だ。
国民の生存を保障するためにある国家が、それに相反する法制を行うことがどれほど困難なことかということについて、頭の片隅にでも残れば幸いである。
個人的には本人の自由意志が確認できなくなった段階で安楽死を認めるべきではないと考えている。
「本人の自由意志がなければ生存権を行使している」と見なすべきであり、当然国家はそれを保障しなければならない。
この時点で「本末転倒だ」と思われる人は多いかもしれないが、安楽死法制化は終末期医療のコスト削減策「ではない」。
あくまでも本人の自由意志によって死を選択する自由を与えるための法制であるべきであり、
医療コスト削減が目的にすり替わるのであればそもそも法制化の目的を見誤っている。
なお、現行法制でも積極的安楽死ではなく、延命治療終了による消極的安楽死は行われており、この手続きで不備があるとは思えない。
俺は、バカで不細工なおっさんとは付き合いたくないんだよ。でも俺はバカで不細工なおっさんだから、社会ステータスが高い、金あって小ぎれいなアッパーミドルのオジサン達とは仲間になれないわけ。
これ精神病の一種と違う?自己愛性や醜形恐怖症とかその類いじゃねーかな
社会的なステータスはともかくイケメンと友達でありたかった加藤元死刑囚の著者のレビューから転載しておきますね
友人関係の事が良く書かれている
ホスト風のイケメンと仲が良かったという話が印象に残った。どこか被告人がその友達に対して気を使ってるような感じがしてそこが少し気になった。
被告人はホスト風のイケメンの友達と、仲が良かったと強調してるように感じるのですが、二人は合っていなかったのではないかと思った。
その友達と秋葉原に買い物に行ったときに、被告人は色々見せたい店があったようですが、その友達がアダルトビデオ店で真剣に商品を選び出し、
二時間もその店にいたことで、他の店に案内できなかったことや、被告人が一生懸命考えて選んだゲームを、その友達に渡した際の感想が、
自分のパソコンではプレイ出来なかった、という素っ気ない感想だったりということが、どうも余り仲が良かったという風には思えなかった。
被告人はその友達から、事あるごとに色々なエッチな本やゲームなどを選んでくれるよう頼まれていたそうですが、それはパシりなのではないかという気もした。
何か職場では仲が良くても、仕事が終われば全く無縁というのも変な感じもした。
被告人の学生時代の友達なら、そこまで気を使って相手の好むゲームや本を選んだりしなかったのではないかという気もした。
どこか被告人がそのホスト風の イケメンの友達に気に入られようと気を使って接していた事も、被告人の精神状態に余りいい影響を与えていなかった のではないかと思う。
学生時代の友達のように、相手に何かを頼まれても、そんなの自分でやれよ、とか、これくらいのものでいいだろ、と気楽に言える相手 が近くにいたら良かったのではないか。
そういう友達が近くにいれば、例えば、被告人は決行当日、その友達の家を訪れ、色々なグッズなどをプレゼントしたようですが、
そのときに、これからしようとしてることを打ち明けて、踏みとどまれていたのではないか。その友達とは仲が良かったと被告人は強調していますが、
悩みを言い合える仲ではなかったのではないかと思う。