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ノベルスがライトノベルか否かって言われたら雑なノベルス語りをしたくなってきたぜ!!!!!
ということでしていきます
そもそも「ライトノベル」と「ノベルス」を分ける定義の人たちってのは昔から連綿と存在していて、例えばノベルスって言うとどういうものかっていうと以下のようなレーベルです
等々……
さて、ライトノベルとどう違うの?と言われると、ものすごい簡単にいうと「文庫か新書か」という分け方になる
ライトノベルは主に「文庫」で書かれているレーベルを指すことが多く、ノベルスは「ノベルス版(新書版)」と呼ばれるちょっと細長い感じの本で二段組で書かれているものを指す。
違いはそれだけか?と言われるとまあそれだけなんだが、もうちょい踏み込むにはノベルスの歴史を知る必要がある
1950年代ごろだと、そもそも日本における新書サイズの本と呼ばれるものは「岩波新書」に代表されるお堅い学術書が主だったもので、それに対して光文社が「大衆向けのもうちょいわかりやすい教養レーベルを作りたい」として作ったのが「カッパ・ブックス」と呼ばれるレーベルになる
(余談だが著者近影という文化を始めたのもこのレーベルが初らしい)
で、そこから姉妹レーベルとしてフィクションや物語を扱う「カッパ・ノベルス」が創刊された。
カッパ・ノベルスは松本清張や西村京太郎、小松右京など書いた日本のミステリやSF等エンターテイメント小説に多大な影響がある作品を出して大ヒットを飛ばした。
それを見た他の出版社もこぞってノベルスレーベルを立ち上げてそれぞれのレーベルで作品を発表していった。
これが大体1960年から1980年くらいにかけてのものすごい大雑把な流れで、ライトノベルより早い段階で日本のエンターテイメント小説にノベルスは多大な影響を及ぼした
特に、ミステリやファンタジージャンルに関してはこのノベルスの影響度が尋常じゃないほど高く、ミステリだとカッパ・ノベルスや講談社ノベルス、ファンタジーに関してはC★NOVELSなどで有名作品が数多く存在する
じゃあ、なんでライトノベル定義論でノベルス含む含まない論争になるかというと、ここからは若干雰囲気ベースになるが「出自のターゲット層」じゃないかというところになる。
ノベルスは刊行されているものを見てみるとわかるが結構ターゲットの年齢層が高い。ぶっちゃけサラリーマンとかそっちくらい向けの作品群が多いのだ
この辺りはレーベルの当初から社会派ミステリの松本清張などを使っていることからも伺えるだろう
内容としてもハードボイルドや伝綺小説などが多く、いわゆるエンターテイメントの中でも硬派でおじさん主人公のものも結構多い
対してライトノベルというものは、ジュブナイル小説と呼ばれるいわゆる青少年向けの文化に影響を強めに受けていて、ターゲット層的にも青少年ないし大学生くらいが主だったターゲット層になる
この辺りの歴史的経緯から来る文化圏の違いみたいなものが、「含まない」という人たちが多い理由のひとつだろう
では逆に、「含む」派閥がなぜいるのか。というと、そもそもノベルスの歴史を見てもカッパ・ブックスの成り立ちからして、「大衆向け」でありエンターテイメント小説の土壌としてあったのはここまで話した通り
で、ライトノベルも言ったらエンターテイメント小説の集合の一部なわけで、まあ内容的に近しい作品が多いからだ
この辺り、時代を経るにつれライトノベルとノベルスというのは似た成長を遂げた経緯を歩んだところがある
ライトノベルは様々な近傍の文化(漫画やアニメ、ゲーム、ジュブナイル小説)をごった煮でまとめていったというのだけれども、
ノベルスは時代が経るにつれて対象である「大人たち」の変化を受けて、アニメや美少女ゲームの文化、さらにその近傍の文化を取り入れていき、ライトノベルと似たような変遷を辿っていった
特にこれらを取り入れていったのが、講談社ノベルス(及び講談社BOX)とC★NOVELSである
講談社ノベルス(BOX)で言うと、西尾維新や奈須きのこ、佐藤友哉など
上記の作家たちは、ご存知の通り小説もさることながら、アニメやゲーム、漫画などにも多大な影響を与えていった(というか奈須とかに関してはゲームがそもそも出自ではある)
これらの作品群は内容的にライトノベルでも出ていてもおかしくない作風のものもあれど、ノベルス刊行になっている
また、ライトノベルにおいても、「C★NOVELSで出てそう」「講談社ノベルスで出てそう」みたいな作品は結構ある
(個人的には紅玉いづきさんとかはわりとC★NOVELS風味かなと思ったりもする)
実際「ブギーポップ」シリーズの上遠野浩平は講談社ノベルスで「殺竜事件」等の「戦地調停士シリーズ」を書いているし、ラノベ出身の作家がノベルスレーベルで書いている例も多い
こういった経緯で位置としてはめちゃくちゃ近い位置にあれど、しかし、ノベルスをラノベに入れるか?みたいなのがとても別れやすい、という妙な性質がこの二つにはある
個人的には、まあ歴史的経緯もあるし、レーベル史観でいいんじゃね?という意見なのでノベルスはノベルス、ライトノベルはライトノベルでいいかなあと思っている
ただここまでの歴史的経緯を踏まえても、現状似ている作品群も多いというのはあるので、含める気持ちもわかる
なので、もし今後議論する際には内容派閥かレーベル史観派閥かの宣言くらいはしてもいいんじゃねえかなあと思う
ただそれはそれとして、ノベルス、ライトノベル双方に面白い作品はたくさんある
ノベルスが好きな人も、ライトノベルが好きな人もそれぞれお互いに合う作品は結構あるので探してみるのもいいのではないだろうか
24/06/01
指摘があった「ノベルス」と「ノベルズ」の表記ゆれを修正。ちなみに表記は「novels」を日本語読みしたものなのでどっちもあるっぽく、出版社によっても呼び方に揺れがある。(トクマノベルズはズ、講談社ノベルスはス)。自分もなんかノベルスっていったりノベルズと混ざっていってしまうので癖です……
辛い。
俺の給料はもう増えることはない。
こんなにも早く。
今みたいに残業できなくなったら年収は400万円、それよりもっと落ちるんだろうか。
辛い。
他人と比較する機会を極力減らしているが、同級生の結婚式や同窓会でチラホラと分かってしまう。
俺みたいに必死にやりくりしてない。
高い物を食べたり、新しい玩具を買ったり、結婚したり、子供を作ったり、そういった意思決定における金銭的な躊躇の臭いが薄すぎる。
俺からすれば清水の舞台から何度も飛び降り続けるようになる日常を平気で送っている。
人生が違いすぎる。
金のない業界に入ってしまったというただそれだけの選択の失敗。
せめてこの業界が好きなら良かったけど、実際には就活の競争で負け続けて適当にエントリーしまくって受かった会社に入ってダラダラと居続けただけ。
つまらなくて儲からない仕事をずっと続けて、金が無いからと我慢しまくって生きる人生。
厳しい。
本は図書館で借りるものになったし、ゲームは基本無料を無課金で遊ぶだけだし、車は中古車しか買えないし、酒は発泡酒ばかり飲んでる。
2024年の本屋大賞がなにそれに決まりましたなんて言われても、俺が買えない本の話が遠くでされているだけだとしか思えないよ。
5年経って図書館の本棚に一通り並んでからそういうのは決めてくれないかなあ?
温泉旅行の話なんてされても新幹線代で算盤はじいて諦めるだけだし、わざわざ遠征して話題のレストランに行くとかスネ夫が北海道でラーメン食った話かよとしか思えないね。
ははは、金のない人間の虚しい人生、まさかこの俺が送ることになるとは子供の頃は思ってなかったな。
子供の頃親が「この家じゃ一番自由にお金使ってるのはお前かもな」と言ってたけど、よく分かるぜ、なるほど、自分で金を稼いでると文庫の新作なんぞに1000円出すなんて勿体なくて出来なくなってくらあよ。
ひもじいぜ。
この人生がずっとずっと続く。
働くのを辞めたあとの年金ぐらしになったらいよいよか。
ただただ時間を潰すために図書館で延々と新聞を読み漁っているホームレスみたいな臭いのするお爺ちゃん達の懐事情が分かってきたぜ。
辛いな。
これがあと50年か。
頑張って勉強していい大学に入って、せめて年収700万円ぐらいは普通に届くような大企業のサラリーマンぐらいにはなっておいた方がいいよって話だな。
笑えるぜ。
もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事の書類ばかりとなった昨今。
でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。
書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。
生まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖の詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。
頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初の感想だった。普通に文章だったからだ。
調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで
「韻」という言葉もその時初めて知った。
井上靖の詩集を手に取ったのは、国語の教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。
というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初の詩集だった。
小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。
季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなものが短歌や俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。
特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平の短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉のニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。
幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。
自分の世界の表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。
例えば、雪という詩がある。
雪
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
みつけた詩だ。雪が降って来ると、
私はいつもこの詩のことを思い出す。
中学生の私は、なるほどと思った。
詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉のなかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。
鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。
当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。
いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。
ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。
山頭火は面白い。普通の俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。
定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌のエントリーポイントとなって、
しかし俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。
いつしか手にしていたのは、興津要の解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。
剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代の言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。
その後は巴毎晩組み敷かれ
木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代の川柳で妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい。
一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。
俵万智のサラダ記念日がベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。
例えば、こんな一首。
あさま山荘事件を起こした連合赤軍の幹部、坂口弘が収監中の東京拘置所から毎週のように短歌を朝日歌壇に投稿していた頃だ。
朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌の表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。
風花って知っていますか
渡辺松男と太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇をリアルにみていた人にしかわからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱が発酵すると詠んだりする太田美和。
実生活で恋をしていた私は太田美和の言葉に自分を重ね合わせた。
でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。
大学を卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。
生活が一変した。
書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。
世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。
山頭火も武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接と資格だ!という日々。
就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。
たまに思い出しては、現代短歌の最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。
若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。
それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。
そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。
思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分が死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。
中年になっていいかげん自分の限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖の感覚がとてもよくわかるようになった。
これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。
詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。
どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。
鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯な子供の姿を思い浮かべる、という
文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワインと食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。
ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種やビンテージ、気候土壌などさまざまな情報がある。
しかしワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのときの話題、体調などに大きく左右される。
水だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。
マリアージュという言葉があるように、ワインは一種の調味料として機能するため、食べ合わせは重要だ。
ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見のワインでしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。
逆に偽の情報を表現豊かに補完してしまえば、コンビニで販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。
ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的な規律として表現することはできない。
詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。
井上靖が「小学校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき、井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。
その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。
どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときのメンタル、いわば偶然の力だと思う。
渡辺松男と太田美和が並んで歌壇に掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。
失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会。
そのときに自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。
ところで、先日、Yahooの芸能ニュースをみていたら、TBSのプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人が俳句の先生から5点と酷評されたと報じていた。
消しゴムが 白き水面に ボウフラを
というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味を説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。
ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人の俳句が酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組の演出・脚本としてはそれがオチなのだろう。
演出もさることながら、これは、他の出演者の俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。
虹の下 クレヨンの箱 踊り出す
天王山 黒ずむ袖に 薄暑光
薫風や 隣の君と 教科書を
こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。
バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージで作品のクオリティが補完されてしまうのだ。
しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校の児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。
消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月の番組で文房具だからまだ気持ちはフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。
ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。
それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。
いいかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。
一方で白い水面(ノートの隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。
ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。
と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ。
ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。
また、どんくさいもの、弱者がボウフラというノート上のより小さい存在に視線をフォーカスする、という手法は小林一茶の方法とも通じるところがある。
番組の評者は、この芸人の俳句を酷評したうえ、次のような添削をしたという。
夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。
しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組だからね。
ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界は一種のルッキズムだ。夏休みとかいって勝手におめかしさせようとするんじゃねーよ。
そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつの動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語や川柳で身につけたものだろうから、ゆりやんの一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。
まともな本棚を置けない。絵を飾るスペースがない。靴はひとり数足しか保管場所がない。
大きな冷蔵庫を置けないのでヨーロッパや東南アジアの珍味を貯めておけない。
ホームベーカリーを置けない。ピアノを置く場所がない。食器が一家で20枚もない。
子供が学校で作った紙粘土の鳩を飾れない。五月人形やひな人形を飾れない。
結婚式で作ったドライフラワーはクローゼットの奥にしか置き場がない。
ダブルベッドを2つ置ける部屋がない。もう使わないゴルフバッグを念のため置いておける物置部屋がない。
狭すぎて子供を作れない。それでも仕事のために東京にしがみついている。
生殖を制限してまで働いているという意味で、本当の社畜だと思う。
弟夫婦が練馬区に住んでおり上に書いた状況だった。心底気の毒だと思う。
プライベートのかなりの時間は自宅で過ごすのだから、家を文化的にすべきだ。
俺は人口30万人の地方都市に住んでいる。上に書いた程度のことはすべて実現できている。
しかし美術館や博物館は何回も通って飽きた。お気に入りの画集を家に置けば十分だ。
飲食店は多いが、どこもすし詰め状態で居心地が悪い。高い金を払って不健康なものを食べたくもない。
図書館の数や取り寄せサービスは素晴らしいが、借り出し・返却の時間が勿体ないのでネットで買えばいい。
文化都市・東京にあって粗末な家に住む方々は本当に不思議な存在だ。家の中と外とで文化水準が大きく異なることに疑問を抱かないのだろうか。
俺が思う最適解は、東京・名古屋・大阪あたりに本社を持つ大企業の、地方の事業所周辺に住むことだ。
俺が勤務する事業所は3000人以上働いている。近所には大手電機メーカーの1万人近い事業所もある。
こうした町は企業城下町の様相を呈しており生活には困らない。しかも家が広くて安い。
共感するコメント、共感しないコメントを予想外に多く頂けて嬉しい。
共感しない旨のコメントに多いのは、モノを家に集めることは文化ではないという趣旨。
しかし文化は基本的に媒体としてモノを必要としていることを認識してほしい。
二、三例示すると、
たとえば節分の豆まきには鬼の仮面、大豆、大豆をまけるスペース、掃除道具が必要だ。これらのモノ無しに「鬼は外、福は内」を口誦するだけの風習ならとうの昔に途絶えていると思う。現に口誦するだけの文化が身の回りにどれだけあるだろうか? そうした文化は歌くらいだ。
次に、小説などの文学作品は雑誌に掲載されても単行本や文庫にならない。芥川賞を受賞した作家でさえ、そのほとんどは、半分以上が雑誌掲載のみで終わる。その雑誌が電子書籍で出ていなければKindleで読むことは出来ない。ましてや詩歌は99%は雑誌掲載のみ。Kindleで閲覧できる文学作品は実はごくわずかでしかない。
最後に、美術に触れる経験を子供に与えるには画集のように家に置けるモノがあると都合がよい。いきなり美術館へ連れて行っても高い確率でほぼ全部素通り、帰りの外食の方をよほど楽しみにしている。画集が家にあれば日頃から絵画というものの存在を認識するし、すごく暇なときに開いて読んでいることも稀にある。大人が楽しむにも、プロの解説付きの画集は何度も読み返して理解を深めることができる。
以上のように、個人として文化を深く楽しむにはモノが必要だし、それを子供に伝えるにもモノが必要。モノがいつでも目の前にある、手で触れることができる環境は文化への距離を縮めてくれている。だから私は家にモノを置きたい。
本の感想にあらすじ書くなって言われてもな。
逆にあらすじ読みたくないのか?
俺はないと見返すときに、どんな話に対する感想なのか分からなくなるので嫌々書いてるけど。
ていうか、本のタイトルで検索するときってだいたいあらすじ目当てなんですけど。
ぶっちゃけ他人の感想なんかどうでも良いし、そんなのよりファスト映画的にストーリー分かりやすく書いてくれてる方がまだいいよ。出版社のあらすじ?あんなモンあてになるかよ。早川文庫の裏表紙のあらすじと中身見比べて出直してこい。
というわけで他人にとっても自分にとってもWin-Winなんであらすじは書くことにしてる。
面倒臭いが。だいたい読み終わった頃には頭の中には感想しかなく、登場人物名もろくに覚えていないんだ。だから感想用に再度読み直す必要が出てくる。
で、読み返すと記憶と違ってたところが出て、頭の中にキープしてた感想が覆る。
すごい面倒臭いんだよ。
ていうか、読書メーターにあらすじ書いててなんか問題?Twitter並みに文字数制限ある中でわざわざあらすじ書いてくれてるんならむしろ感謝すべきでは?正直、感想書くにすら短すぎるとこにわざわざ字数稼ぎのためにあらすじ書いてるなんて発想するのが不可解だわ。
「20代のうちにこれ読んどけ」とか「本を読んでない俺が薦める本」とか、そんなの見てたら俺も本紹介したくなったからするわ。
1999年に埼玉県で発生した桶川ストーカー殺人事件を追った週刊誌記者のルポルタージュ。事件が事件だけにこういう言い方は不適切かもしれないが本当にとんでもなく面白い。こんな酷いことができる人間が本当に存在するのか、警察はここまで人間の命を軽んじるのか、マスコミは面白おかしく報道できれば事実なんてどうでもいいのか……、とにかく最初から最後までずっと衝撃を受けっぱなし。この世界の見え方がぐわんぐわんと歪み、最終的に気持ち悪くなってくるほどの恐怖や憤りを覚えた。また、文庫版あとがきにも言葉を失った。打ちのめされる読書体験がしたい人は読むべき。
「人間って生き方下手すぎるだろ、ちょっと動物見習ってみろよ」みたいな本。半分漫画、半分解説文で猛烈に読みやすいから気軽に何度も読み返すうちに大好きになっていた。゛「生存戦略」がテーマのビジネス書”と紹介されているが、バリバリのビジネスマンから完全なる無職まで、老若男女誰もが普遍的に楽しめて勇気づけられる内容になっているのがすごい。
世の中なんてクソくらえ、と思っている人にはこれを読んでほしい。世の中には「世の中なんてクソくらえ」と思っている人が割と大勢いて、その中でも哲学者中島義道はかなりクソくらえパワーが強い人間。中島が嫌いなのは「常に感謝の気持ちをわすれない人」や「自分の仕事に誇りを持っている人」、「けじめを大切にする人」など。普通だったら良いこととされる考え方の中にある欺瞞や建前を丁寧にあぶりだしてすさまじく罵倒する。「わが人生に悔いはないと思っている人」に対して「ああ、そう思いたければそう思いなさい!そう思って、さっさと死んでいくがいい!」とブチギレまくっている。中学生の頃にこの本を読んで価値観を根底からひっくり返されるような衝撃をうけた。
はいきました、直木賞作品。小説には゛奇妙な味”という、まあ今ではほとんど死語になりつつあるジャンル?があって、阿刀田高はその名手。なんとも後味の苦いブラックユーモア満載の短編が13話入っているのだけれど、文章とオチのキレがすごい。ありふれた日常風景から導入して途中に「おや?」と思い、その違和感がいつの間にかとんでもない事態になっている。やっぱり短編小説は読みやすいよね。作品世界に慣れて没入し始めた時に終わってしまうので物足りないこともあるけれど、これはどの作品も大体最後は破局的な結末でスパっと終わるので読後感が爽やか。
めっちゃふざけたタイトルだが、中身はめっちゃ理系!マジで想像以上に理系。文系の私にはさっぱりわかりませんし、もはや何が書いてあったのかすら全然覚えておりません!しかし何というか、宇宙人と出会った時に恥をかかないためにはどういう教養を身に着けどんな会話をすればよいのか、その会話の先に何が待ち受けているのか。そんな考えたこともないようなシチュエーションを解説してくれる宇宙会話ハウツー本として不思議な魅力がある。講談社ブルーバックスという自然科学、科学技術系の新書シリーズの中の一冊。
光文社古典新訳文庫。その名の通り『カラマーゾフの兄弟』とか『方丈記』とか古今東西の古典的名著を、今生きている言葉でとても読みやすく出版してる神シリーズがあり、その中から出会った一冊。一言でいえば若い男女が愛の炎に燃えて駆け落ちする話、なのだがとにかくエネルギーがすさまじい。ああ、お互いのことが好きで好きで堪らないけどとにかく金がないから親から金借ります、その金使っちゃったので友人騙して金借ります、だめだ金足りないから詐欺します、どうやら彼女が浮気してるぞこのビッチめ、ごめんやっぱり愛してるよチュッチュ♡、そうこうしてるうちにまた金なくなったから人殺します……、最初から最後までやりたい放題でものすごい疾走感、最高に面白い。驚くのはこれが300年前の小説だということ。
小学生の頃図書館で読んで不思議な気持ちになった漫画。猫と人間が同じことをしゃべる世界で、性格が終わってるデブ猫ヒデヨシとその友達のテンプラやパンツたちの日常の話。最近久しぶりに読み返しているがヤバい、毎回最後のコマで泣きそうになる。降る雪の上を歩ける靴を履いて「ほんとうに・・・粉雪は冬の散歩身だね」って……(´;ω;`)。別に感動的な話ってわけでは全くないんだけれど美しくて。余韻って言葉はこの漫画のためにあるんじゃないのかってくらい、毎話余韻がすごすぎる。
無人島に一冊だけ持っていくとしたらこの本を選ぶ。40年近く前の本だが、この本はそれだけ長い間日本全国津々浦々、大都会の本屋で、片田舎の図書館で、おじいちゃんちの本棚で、様々な人にひっそりとけれど強烈に衝撃を与えてきた名著。「ものぐさ精神分析が本当に面白くて」みたいな話を、全く別々の3人から聞いたことがある。日本人について、歴史について、性について、すさまじい筆力でぐいぐいと独自の理論が展開されていく気持ちよさ。今読み直してもその理論が社会にピタッと当てはまってしまうような鋭さ。今後もずっと読み続ける一冊。
復刊した時に「私はラノベ業界を捨てたのではなく放逐されたのです」と言ってた時は正直被害者意識つえええと思ったけどあの頃はまだまともだったような
「お嬢さまシリーズ」が終わったのは出版社がラノベ事業撤退したからであって別に森奈津子一人が放逐されたんじゃない
ラノベの復刊をハードカバーかつ絵師微妙だったのも良くなかったなあ
文庫サイズで良かったし、大切な設定である「主人公は縦ロール」を古臭いからと薄毛にする絵師はダメだろ
出版社のせいで不当に打ち切り状態だった代表作が復刊したけど泣かず飛ばず、その状況が森奈津子を変な界隈に行かせてしまった最後の一押しだよ
復刊というなら本文だけでなく絵師も古いけど飯坂友佳子のままでよかったんでない
それか、もっとキャッチーな売れっ子絵師使って文庫サイズにしてほしかった
今調べたら復刊って2008年だったのか、復刊した時期ですらもう遠い昔
せめて狂った活動するなら名義変えて別人としてやってほしいわ
蓬莱学園を出してた富士見ファンタジア文庫もAmazonに本を出してるし
にも拘らず中古が2万とか言ってる蓬莱学園のKindle版がないのって
だからさぁ
今回の復刊運動とか
どうも、ピンとこない
https://togetter.com/li/702949
どこでも電子化していいよんみたいに書いてるけど
本当かねぇ?
ってのが正直な感想
名興文庫(まだ非法人だが出版社として法人化を目指している)さんが、下記の他社IP作品を題材にしたチャリティー批判本を出されたようです。
著:理不尽な孫の手
コミカライズ:フジカワユカ、石見翔子、野際かえで、米田和佐、日崖タケ
販売URL:https://www.naocoshibunko.com/00017-2/
価格は\15,000と少しお高めですが、原作者や関係者には無料で提供するとのこと。下記諸注意です。【名興文庫(まだ非法人だが出版社として法人化を目指している)さんの特設サイトからの転用】
・本批評で得た一定期間の収益は、日本赤十字社の令和6年能登半島地震災害義援金に手数料を差し引いた額の全額を寄付します。
・本批評の値段に対しての苦情は受け付けておりません。お問い合わせより連絡があったとしても返信はないものとご理解ください。
・本批評に関する個人的感情の範疇に留まる意見表明に関し、お問い合わせよりご連絡をいただいても個別に対応は致しかねます。お問い合わせの返信はないものとご理解ください。
この機会に、日本赤十字社/義援金等に直接募金しては如何でしょうか。