はてなキーワード: 意識的とは
「相手を人間として尊重しろ」「とにかく数を打て」ってブコメされてるけど、「女性と接するのが怖い」みたいな所に触れてる人がほとんどいないような気がする。異性と接することにトラウマを抱えている人はどうしたらいいの?
私は中学入学直後に、「階段で女子のスカートを覗いている」という根も葉もない噂を立てられた。女子からは露骨にキモがられてバイ菌扱い、カースト上位の男子には殴られるし蹴られるし暴言を投げつけられ、肉体的にも精神的にも辛かった。自分自身がキモいことを受け止め、誰にも加害しないように教室の隅でじっと本を読んでいても、向こうから突っかかって来るから、逃げ場はなかった。
すると、女性に嫌われる=社会的に死んで逃げ場すら無くなる、という思考回路が出来上がる。辛い思いを二度としたくないので、中学時代は徹底して女子から距離を取ってしのいだ。私からは絶対に話しかけない、目を合わせない、とにかく徹底して女子を避け距離を取る。今思えば逆効果だとも思うが、イジメられている状況では距離を取る以外に自衛のしようが無かった。
中学時代、私は異性から人間扱いされずバイ菌扱い、苦痛以外何一つ与えてくれなかった。だから、異性に対して尊重するとは?異性に何を与えればいい?私がしたことを、素直に喜んでくれる異性なんているの???
幸い、高校では男女問わず良い友人に恵まれたのだが、「相手を異性として尊重する」は全く分からないまま。友人として仲良くすることはできても、好きになった女子にどうやってアプローチしたら良いのかが全くわからない。大学も同じく、何をすればよいのか分からないまま、何も起きずに終わってしまった。
とにかく当たって砕けろ、数こなせと思われるかもしれないが、それだけは恐ろしくてできない。私には分からない理由で女子に拒絶され、また根も葉もない噂が立つかもしれない。辛いイジメに遭って、死ぬほど苦しい思いをするかもしれない。そんな生理的に強いブレーキが掛かるので、こんな風に誘えばいいとか、ネットにはこう書いてあったとか、頭で一生懸命考えたりしても、どうにも解決できない。
そうこうしている間に、時間がどんどん過ぎる。回りの友人は当たり前のように彼女を作る。自分だけが取り残される。さらに辛くなる。私のように彼女ができなくてしんどくなってる増田がボロクソに叩かれ、「まさに見た目より中身だよなという感じ。」とかコメントされているのを見て、私も中身がダメダメなんだろうなと思い、自己肯定感は更に低くなる。
「女性に嫌われても大したことは起きない」という体験を得るしかないのだろうか。アレルギーと同じで、摂取しなければ一生治らない。だが、少しでも摂取しすぎればショック死する。ショック死しない微妙な量を、少しづづ我慢しながら経験するしかない。しかし、それは意識的にできるものではないし。
だから、「相手のことを尊重しろ」とか、「自分のことばかり考えるな」とか、「とりまマチアプで数をこなせ」とか有り難いアドバイスを頂いても、やるせなく思うだけで終わってしまう。
逆に聞きたいんだけどそこまで酷い事されて何で女と関わりたいと思うの?
なぜそこまでしてパートナーがほしいのか?
等
誰かに受け入れてもらえる経験に乏しくて、それが羨ましく感じるから。異性として受け入れてくれる恋人の存在はその最たるもので、異性から愛されたことが無いし自分が愛することも許されなかったので、その欲求が人一倍強いのだと思う。
イジメられた中学時代でも、話しかけてくれたり仲良くしてくれた男子が一定数いたので、同性に対しては「酷い奴ばかりじゃない」と心理的に納得できるのが早かった。
しかし異性の場合、相手から話しかけてくれる機会が少ないので、心で納得できるのに時間がかかっている。
高校以後にできた異性の友人は、友人としてふつうに話しかけてくれるので、友人として仲良くなる所までは何とかなった。本当に感謝している。
だけど、自分が異性として見られるような経験は無いので、友人関係から一歩外に出ると未知の世界すぎて怖い。自分が持っている好意が、少しでも相手に知られることはマズイ、という強迫観念にかられて、結局何もできない。
どうしても入りたかった会社に新卒で就職したばかりなのでそれは絶対に嫌。
カウンセリングしたら?
幸い、就職した会社には臨床心理医のカウンセリングを受けられる福利厚生があるので、利用しようと思う。
ただ、勤務時間内に受けなければならず、当分はグループワークの研修などで忙しいので、どのタイミングで利用するべきかは悩んでいる。
その手で吊り革を掴んで、それをまた別の人間が掴んで券売機のボタンやらテーブルやらをベタベタ触って、と考えると暗澹たる気持ちになる。
うんこの方がまだマシで、気持ち的には十分嫌なんだけど、まあ紙越しに拭き取ってる訳だから別に汚物をベタベタと手に付けている訳じゃない。
小の方がタチ悪い。これも気持ち的な問題はさておいて、ちんちんそのものが汚いという訳ではないと思う。何もわざわざおしっこがちょっとついてる亀頭を掴んで用を足す訳でもないし。
それでも立ちションだとおしっこが跳ね返りもするだろうし、さて置いたけどちんちん触ってるのも気持ち的に十分嫌だ。
まあその理屈で行くと、おしっこや下手すればうんこのついたトイレの床を踏んだ靴でそこら中を歩き回る訳だから、土足禁止の場所以外に安全地帯は存在しない事になるけど。
実際おれは地面に座れない。
これは菌がどうこうという訳じゃなく穢れの話であって、気持ち的なものだ。社会性を持った大人なので悪目立ちしてまでポリシーを貫くような事はしないし、マジで我慢すれば別に座れるんだけど、それでもかなり神経は磨り減る。地べたに座ることがあれば必ず帰って即座に服を洗う。
かなりパラノイアめいた所がある自覚はあるし、そういうの考え出すともう呼吸すら嫌になってくるから意識的に忘却しようと努めてるけど。やっぱり嫌なものは嫌だ。強迫性なんちゃらだのとラベルを選んだところで悩みが解消する訳でもない。
人生の全ての問題は面白くない事であり、それもまた更に辿っていけばやる気がない点に問題がある。
面白くないからやる気が出ないし、何か面白いことを探したり実行しようにも、そのやる気がない。そして更に面白くなくなるという悪循環に陥ってる。
この結論はもう大分前から出てるけど、メンクリ行ってもあんまりどうにもならんかった。
最近になって、取り敢えずジョギングでもしてみるかと思い立った。
といってもそれは事後的な意味付けで、シャワーを気持ちよく浴びるために乾いてしまった汗を再度かくために走ったのがきっかけだった。意識的な行動よりも案外偶然の方が強いのかもしれない。
習慣化しつつあるけど、体力ややる気が向上しているのかは分からない。はっきりと分かる変化はただジョギングが習慣化した事と、常にほんのりと脚に痛みを抱えている事だけだ。
ただ映画を観る本数は若干増えた気もする。恒常的な上下の範疇かもしれないけど。
精神の不健康は運動不足による気の迷いだなんて言う人もいるけど、つまんねーなら死んだ方がマシじゃね?という思いが頭の中から消える気配は今のところない。
今までの恋人って俺が好きになったタイプじゃなくて交流の中でなんか良い感じになって「俺のこと受け入れてくれるなら好きになるか」みたいな感じで意識的に好きだと思い込んで付き合うパターンだった
俺から好きになってアタックした相手とは一人も上手くいかなかった
今後ももし結婚とかする時があるとしたらそういう相手になるのだろうか。いや、相手がいるだけでも幸せだと思わなきゃいけないのだろうか
ひっそりとした雑感の追記
こんな適当に書いた文章に思いの外たくさんのリアクションを得て驚いている。
これを狙ってできたらヒットメイカーになれるんだろうけど、狙って書くとこうはいかないんだよな。
無欲の勝利というか、自然に出てきた文章が皆の共感を得るということは、私はやはり庶民なのでしょう。
あまりにも適当に文章を書いたせいで、多くの誤解を生んでいる。
別にいいんだけど。
いい加減に書いたせいで、読んだ人それぞれに色々な読み取り方ができるようになったのが、多く読まれた要因なのかなあ。
いや、どちらかといえば何気なく書いた親父の話がSNSで自分と無関係なニュースに噴き上がっている人たちの姿と重なって見えたのがみんなの共感を生んだのかな。
あと、適当につけたタイトルの引っ掛かりがよかったのかもね。つんくも歌詞に違和感がある方がフックかかるって言ってたし。
「ニュース見るのやめた」とは書いたものの、よくよく思い返せばそれまでだって熱心に世の中の事件を追ってたわけじゃなかった。
自分の関心事については色々考えてたし、そのなかには世の中で話題になってるようなこともあったけど、やはり私は自分に直接的に関係ない、実感を伴わないことについて興味を持つことが苦手なようだ。
そもそも所属サークルの人間関係にすらあまり興味がないので、政治や戦争となるともうダメ。
近代市民社会の一構成員としてはあまりよくない態度であるとは思う。
けど、世の中の9割の人間は早慶に合格する程度の国語や数学ができない人たちなわけで、そんな人間がこの複雑な社会をまともに理解できるわけがなかろうという諦めがあるんだよな。
すぐ話が逸れる。
冒頭に話を戻すと「ニュースを追うのをやめた」というのは、意識の問題で、「追わなきゃ、というプレッシャーから自分を解放した」と表現したほうが正確だったかもしれない。
あ、でもツイッターとかは意識的に目に入れないようになったな。これはニュースというより、知らん人の大喜利とかお気持ち全般だけど。
「一般的に大人が関心を持つべきもの」を見ないだけで、知的好奇心はそれなりに旺盛なので、本も読むしNewsPicksには課金してるし、ABEMAプライムも少し前までは見てた。
老化じゃないのかとのコメントあったけど、まあ良くも悪くもそうかもしれない。
老化という言葉を使うと悪いイメージがあるけど、別にそんな悪いことではないし。今までそれで世界に貢献できてたわけじゃないからね。
ニュースに一家言持つことが世界を良くするよりは、主にSNSによって悪い方に働いてるなと感じたし、そういう人たちもあまり幸せそうには見えなかったので、自分が気楽に過ごせる方に舵を切る方が、世界の総幸福量増大に資するよなってことで。
『日本』はsageずにはいられないけど、『東京』sageには物申さずにいられない『リベラル』を標榜する人達。これかなり面白い現象だよな。
『愛国心』は唾棄すべきものだが『愛郷心』は無条件に尊ばれるもの、と意識的か無意識か知らないが彼等彼女等はそう定義しているということになる。以前ネトウヨの間で「ナショナリズムはダメだけどパトリオティズムなら良い(=愛国主義は正しい)」的な言説が広まってたことがあったけど、それは「言葉遊びに過ぎない」と誰かが喝破していた覚えがある。個人的にはそのことを思い出した。
東京にリベラルの首長がいるとかならまだわかるんだけど、実際はテロサポ発言したウヨ知事が再選されるような感じだしなあ。『愛郷心』の場合は誰が政治の舵取りを担っているかは考慮されないのだろうか。
でもまあ東京は色々な意味で中心地だし、総合的に見れば日本で1番マシなところではあるだろう。ただしそれは東京だけで成り立つものでもないんだよな。顕著なのが出生率で、地方から人材を吸い上げては繁殖しないということを繰り返しているし、電力確保に必要な原発や関連施設は地方の僻地にしかない。
あとは誰もがするわけじゃないんだろうけど地方蔑視なあ。九州とかひどいけど、そもそもあらゆる面で東京並とはいかないのに、現代的な価値観とかは東京基準を求めてくるのおかしいと思うの。
でも興味深いことなのでこれはずっと考えていくべきだよ。
1. 一度は結婚できただけあってまず顔面偏差値のベースが高い。ルッキズムではないが、顔を判断基準の一つに据えることは良い結婚生活を送る上で重要な要素だと思う。好みの顔の系統を自覚して意識的に選ぶってのも含む。
2. 一度男で失敗してるだけあって、男に求めるものの優先順位が完全に整理されている。バツ2にならない為に、自分はこうしてくれたら幸せになれますっていうのを理解しててしっかり押し付けてくれる。とてもわかりやすい。
3. ぶっちゃけ結婚相談所に行く男って、恋愛下手であると言い切っていい(ほぼ100%)と思うんだけど、良い夫になれる人はしっかりいると思う。良い夫になれる人だったらバツイチに選ばれる可能性ある。
4. 結婚相談所にいる未婚の男女はみんなコミュ障だからうまくカップリングするってのはかなり難しい。その点バツイチはコミュ障?むしろ浮気のリスクがなくてありがたいですわ!って姿勢の人結構いる。相手から好意を持たれるのはうまく行く最初のステップとしてかなり重要。コミュ障を気にされなかったらそれだけで嬉しいよな
最近の短歌に関する増田の記事とそれへの反応で気がついたのは、多くの人は歌人が共有する短歌に関する暗黙の考え方を知らないということだ。
短歌詠みの間には短歌に関する決まりごとや規範が暗黙のうちに共有されており、それを念頭に置いて歌を詠んだり、鑑賞したりする。私はこれを「短歌のテーゼ」と勝手に呼んでいる。
あらかじめ言っておくと、このテーゼは必ず守らなくてはならないルールではない。むしろ現代短歌はどうやってテーゼに沿わずして魅力のある短歌を生み出すかを試行錯誤している節がある。
だが、どんな流派であっても優れた歌人はこのテーゼを意識し、従うか対抗するかのスタンスを明確にして歌を詠んでいる。そして、そのスタンスがある程度共通している歌人同士が同じ結社の中で作歌や鑑賞をすることで歌風を確立させて行くのである。
であるから、反例となる名歌はいくらでも挙げられるであろうが、反例があることはテーゼが存在しないことを意味しない。
以下、私はこれが短歌のテーゼだと思うものを挙げてみる。これらは私が歌会での経験や短歌関連の書物を通じて知ったことをベースにした持論であり、歌壇において認められた学説などではないということは断っておく。これらが短歌のテーゼを網羅したものとも考えていない。もしこれも短歌のテーゼなのではないかと思うものがあれば、教えてほしい。
また、この記事を書くにあたって各テーゼに従っている歌と、対抗する歌(=アンチ・テーゼ)を例示しようとしたが的確な歌を全部に配置できないので諦めた。こうした歌の事例もぜひ提案してもらえると嬉しい。(この記事が果たして読まれるのか?という疑念はあるのだが……)
ちなみにこれから挙げるテーゼに対して確信犯的にすべて逸脱しているのが穂村弘である。穂村弘は歌人の中でも一般的に知名度が高く、フォロワーも多いのだが、実のところ短歌のテーゼ的には極めて特異な位置付けにある存在だ。ただし、それは戦後の短歌運動の流れを意識的に継承した、れっきとした文学的試みである。
短歌は本来は歌であり、5・7・5・7・7の韻律を守り、音読したときに美しい調べとなるよう詠むことを求める。句割りや句またがりを多用したり、日本語として音読が困難な言葉を入れてはならない。
歌会などで短歌の詠み合いなどをすると、時々「この歌は"作ってる"ね」と評されることがある。短歌の描写にリアリティが無かったり、やけにドラマティックであるなど、現実には起こったことでない内容であると判断された時にこう言われる。このテーゼにおいては、どれだけ平凡ではあっても日常に実際に起こったことの方がドラマティックな虚構よりも価値があるのである。
"作る"という先ほどの言葉の中には、作為的に言葉を操り、上手く作ろうとする気持ちを戒めるニュアンスも含まれている。日々優れた短歌を鑑賞し、心のうちに誦じて日常を過ごす中で、するっと生まれてくるものを精製するのが本来の短歌なのである。こうした体験なしに、ただ物珍しい言葉をいたずらに組み合わせて面白がられる歌を作ろうとする姿勢は望ましくない。
短歌は日常生活に即した芸術である。その生活感覚は、身体から得られるものであって、生活に根ざしていない社会政治的な話題や、テレビで見たことなど身体を伴わない経験を取り上げるのは望ましくない。
短歌は、風景の描写と心情の表現がセットとなるように構成すべきである。風景はただの現実ではなく、それに対峙する詠み手の心情を象徴するものとして描写されなければならない。
ただものごとを説明するだけの短歌はただごとうたであり、本来の短歌ではない。短歌には詠み手の情念が表現されなければならない。
短歌は日本語を支える伝統文化である。王朝時代以来の和歌の歴史を学び、古典の優れた歌に触れながら、そのような伝統に連なることを意識して歌を詠むべきである。和歌や過去の名歌を鑑賞し、日本文化を象徴するような風流な事物を題材として歌を詠め。
追記:
ちなみに私自身は1・4・5・6に賛同し、2・3はややや否定的であり、7は積極的に否定するスタンスである。7とどう決別するかは、戦後短歌の大きな課題でもあったという認識である。
ながい!
例の如くサンキューGemini
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## 独身で子供に慕われる「おもしろおじさん・おばさん」になるための難しさ