はてなキーワード: 個人的とは
ブサイクでも金がなくても性格悪くてもパートナーは見つけられる。
現実社会を見てみろ。ブサイクだったり貧乏だったり性格悪いやつ同士でムダにくっついてるだろ。
じゃあ何が致命傷になるかというとやっぱり知的障害なんだよ。日常的な悪口としての「バカ」の範疇から病的なほうに少しばかりはみ出てしまうと、途端に個人的な関係を結ぶのは無理になる。
知らないうちに弱者男性というワードがネットミームとして定着したけど、正確な定義がよくわからない。
普通に考えたら「貧困男性」あたりなんだけど、話を聞いてるとみんな一応正社員で働いてるっぽいし、この定義は違うらしい。
じゃあ「モテない男性」という方向もあるけど、それってただの非モテだよね?モテないだけで弱者はないでしょ。
個人的な温度感だと「最低賃金で働いてて女性にも見向きもされない男性」くらいが当てはまりそうだけど、はてなで盛り上がってる人らはもっと緩く線引きしてるっぽくてよくわからない。
創作に政治的な主張がくっついてるやつ、創作が面白いから人がそれを見に来て、ついでにくっついている主張を見て「なるほどそういう考え方もあるのか」とか思って帰っていく、だと効果があると思うんだけれども
主張をするために創作をする、の場合創作そのものに情熱がないから創作が面白くなくて、感想が「主張が強かったな」だけになってしまうのかなと思った
主張ってどうしても誰が言ってるかによって受け取り方が変わってしまうと思うので、創作そのものがしょうもないと「しょうもないやつが主張が強いことを言ってるな」になってしまって、これが「アートに政治を持ち込むな」みたいな感覚になってしまうんじゃないかなと
創作に主張を持ち込むな、とは全く思わなくてそれは個々で好き勝手やればよいと思うんだけど
ただ、創作をピックアップする側が「面白い創作に主張がくっついている作品」を「主張があるから良いのだ」と認識して「しょうもない創作に主張がくっついてるやつ」をピックアップしていった結果「しょうもないものばっかり展示されている」からの「しょうもない展示って主張が強いのばっかりだな」になってしまうのが良くないんじゃないかと
個人的には面白い創作の作者に強い主張がある事自体は創作に対して前向きなことなんじゃないかと思っていて、創作に対して「我が強い人間がこだわって作りました!」みたいな印象を与えるのに効果的だとは思っているんだけど
ただこれってやっぱり創作ありきで、創作である、というところをないがしろにするのはやっぱり違うんじゃないか、という気持ちになった
それはそうとして主張は主張でどんどんしていくべきだと思っていて、芸術の文脈とは関係なくいろんな主張を見れる会、としてなにかやるのは良いと思う
会場でも「このような主張がある」を見せるためにクオリティーを上げようと思っている人たちの展示は良かった
ただこれだとみんな来ないのかもしれないけど
でもやっぱり過去の「情熱のある創作に主張がくっついてるやつ」の肩をに乗って情熱のない創作を垂れ流すと長い目で見たときに過去の貯金が失われていくんじゃないだろうか
全然俺はそうは思わなくてそれを「人間扱いしろ」ってのはコミュニケーション下手だなあと個人的には思うけど
君がそう思うならそれは君の意見なので俺が否定できることじゃないよね
俺の意見としてはホストで女騙すやつとか彼女取っ替え引っ替えで飽きたら捨てる奴とかは「人間扱いしてない」と思うしそれが社会的に一般的な見方だと思うけど
1. 連絡が超マメ
2. 嫌なことを言わない 言う時は狙ってスパイスで使う
これはガチ
暇空のやってる事(住民訴訟)ってざっくりまとめると
何故か従来のリベラル界隈には受け容れがたい発想なのが本当に不思議でしょうがないんだよね。
「ある日、ある一般市民がちょっとしたきっかけである団体の公金不正疑惑に気がつく」
「疑惑を追求しようとした所、団体だけでなく繋がりの深い政治家や政治団体、マスコミ等のバッシングに晒される」
「それに反発した市井の人間が立ち上がった者にエールと支援を送り、巨大な疑獄に立ち向かう」
仮に一般市民が平凡な主婦のH子さんだったら、かのアカデミー賞映画『新聞記者』の続編のプロットになりそうだよね。
望月ライクの主人公が平凡な主婦H子さんに寄り添って共に戦う役回りでさ。
リベラル界隈が異常に反発するのって、その役割をよりにもよって「中年のオタク男性」という
彼女ら・彼らが最も忌み嫌い差別する属性の人間に取って代わられた嫉妬もありそうなんだよね。
とは言え嫉妬は抜きにしてもやってる事はリベラリズムそのものであるにも関わらず
左翼やリベラルサイドの人間は何故か権力者側である被糾弾側に肩入れし、暇空や彼を支持する人間を異様なまでに悪魔化して
一丸となってバッシング・誹謗中傷の限りを尽くしているというのは本当に不思議なんだよね。
えっ?あなた達、弱者や一般市民の味方を標榜したり自認してるし「公金の不正利用・会計疑惑」とか叩く側だよね?
何で政治家や政党のバックを盾にやりたい放題やってる権力者側の肩を全力で持ちまくるの?って。
党派性とか抜きにしてリベラリズムを支持しなきゃいけないんじゃないの?自称リベラルの紛い物じゃないんならさ。
裁判一年やっても未だに領収書すらまともに出せないなんて、一般的に考えれば
or
・領収書を物理的に出せない(まともな会計処理をやっていない、不正の温床)
だったかの二択なんだけど、未だに「女性差別!女性に攻撃するな!」で押し通そうとしてるのも
そんなのを支持しているってのもある意味凄いよ。一般市民の感覚と完全にかけ離れてる。
一体リベラルはどこの上級国民様なんでしょうね?それで「一般市民の代弁者」を自認しちゃあかんでしょ…
仮に杉田水脈や三浦瑠麗が自身の言動や活動、息のかかった団体の公金不正利用疑惑に対し
「批判するのは女性差別!女性達を攻撃するのを止めろ!」って言ったら、一体どうするんだろうね?
絶対に無視するか「言い訳するな!」って更に燃やす人の方が大半でしょ?リベラル界隈は。
杉田水脈や三浦瑠麗が「(私を攻撃するのは)女性差別!」と言った時、
石を絶対に投げないと誓える者だけが、暇空を批判する権利があると個人的には思うよ。
まあ俺は石を投げる側だし暇空も同時に批判するけどね。それがリベラルでありリベラリズムだから。
たまたま自民党系の息がかかった団体じゃなかった、というだけで、リベラリズムを自ら否定して
権力者側についちゃうのは、ハッキリ言ってリベラルじゃないと思うよ。マジでね。
暇空のやってる事に批判があるのも分かるんだよ。
彼は確実に敵を作りまくる側の人間だし過激な発言も多い。批判されるのはよく分かる。
で攻撃する人間が未だに少なくないのはさすがに酷いって思うけどさ。
問題が始まって一年以上も経つのに未だに暇空への解像度が低いってのもどうかと思うよ。
神原先生らがやっている「暇空は温泉むすめを批判した事の恨みで女性支援団体を攻撃してる!」って主張。
俺はてっきり、悪性立証という裁判戦術の一つでやっていると勝手に考えてたよ。
やましい事が無いのなら悪性立証なんて事をせずに堂々と戦えとは内心思ってたけどさ。
でも最近、ひょっとして本気で「オタクの中年が温泉むすめという萌え作品を批判した恨みで攻撃している!」
と考えているのでは?と思うようになってきたよ。
だとしたら未だに解像度も低いし攻撃も頓珍漢で、ギャラリーである我々から疑問符が浮かびまくる様な
戦術で攻撃しているのも納得するよ。いくら何でもレベルが低すぎるーよ。一年以上も何をやってきたのさって。
いくら何でも戦い方も向き合い方も下手っぴ過ぎる。
そりゃ暇空なんかを支持する人間が未だにいるってのも分かるよ。カンパも一億円突破するわなって。
「カンパで儲けてる!」に代表されるデマ連呼(ナザレンコさんに共同通信のデスクがやっていた様なヤツね)
ちょっと党派性が強いメディアによるメディアスクラムから増田への怪文章投下とかいう草の根ネット活動までやっててさ、
これがどう中立層の第三者にどう判断されるのか、マジで分かっていないか、これで影響される様なコア層にターゲット絞ってる確信犯かのどちらか。
もう「こんなのを支持する方がちょっとヤバいかも…」ってなって、元々の支持者側(自分含め)からもドン引きされてるのが現状だよ。
一時期の仁藤さんと一緒でさ、過激な言動で先鋭化してくとマイルドな層って普通に脱落していくのよ。
ただでさえ高齢化で層が薄くなりつつある支持層を更に先鋭化で削っていくやり方に固執するのか、俺には全く分からないよ。
暇空ってさ、あくまでも合法の範囲、正当な手法(裁判)というやり方で決着をつけようとするタイプじゃん?
良くも悪くもルールを厳守しルールの範囲内で暴れまくるタイプに思えるんだよね。
またそれは彼が自認・自称するアスペルガー症候群(発達障害)の特徴でもある。
生きづらい発達障害の人間を集団で攻撃するのって凄い差別的なヘイトだと思うんだけど、ヘイトが嫌いな人達は当然反対だよね?
サッカーで例えるなら、暇空はラフプレー上等でルールのギリギリを突きまくるしカード上等のプレイもするけど
あくまでもサッカーというゲームの中で戦うタイプのプレイヤーなんだよ。
しかし一方で相対する側は、サッカーのフィールドで釘バットとか青龍刀を振りかざしながら
「ピッチャービビってる~ヘイヘイヘイwww」と煽りまくってる輩というね。
で、観客であるお左翼やリベラルの人達がフィールドに向かってゴミや汚物を投げ込んだり
「ヒトラーの子孫は死んで下さい」という垂れ幕を堂々と掲げている様な状況だったりするじゃん?
今日日フーリガンですらそんなマナー悪い事しねーでしょって思うんだけど、清廉潔白とか社会的正しさを標榜している人達が
何故かそういう蛮行をしているか、堂々と支持しているってのが本当に不思議でしょうがない。
君たちのリベラリズムは「自己矛盾」という言葉を捨ててしまったのだろうか?
例えばColaboのバックは共産党系の勢力で、フローレンスのバックは公明党系の勢力だったりする。
本来彼らは対立する勢力なんだけど、対暇空に関しては一致団結しマスコミや政治家の力も使って
ありとあらゆる盤外戦術を取りながら暇空という存在自体を潰そうと協力している様にも見える。
これじゃ暇空のいう「ナニカ」とかいうダサい概念を否定出来ないよね。これが本っ当に気持ち悪い。
いい加減リベラルはリベラルをやってくれよって思うよ。これじゃリベラルを自認してた自分が馬鹿みたいじゃん。
素直に公金を雑な会計でやってる団体は公金事業に関わって欲しく無いし、無駄遣いしてるのなら返金しろって思うよ。
男女平等の観点で言えば、女性支援の異常な厚遇や一切の批判も許されないってのもどうかと思うよ。
ホームレスへの炊き出しとか手伝った事ある?95%ぐらい小汚いオッサンかジジイだよ?
生活困窮者という意味では彼らも助けなきゃおかしいでしょ、ってさすがに思うよ。
批判されにくい女性支援を盾に政治家の権力も使って好き勝手に公金使ってるのなんて、ハッキリ言って市民社会の敵だよ。
何でその対象と一緒になって、批判側を躍起になって攻撃しているのか…
Colaboから端を発した騒動は、左翼とかリベラルと呼ばれていた人達の壮大な自縄自縛の自爆に思えてならないよ。
もう暇空と一緒に左翼の星になって爆散して欲しいとすら思うよ。
いいじゃん超新星爆発みたいでさ。素敵じゃない?
政治家なんてのは権力を手に入れるために必死こいて選挙を戦ってるわけで、一度その椅子に座ったら手放したくないのが本音だ。金や権力を手に入れるためには手段を選ばない奴らが大勢いるってこと。
まず、政治家ってのは特権階級なんだよ。一般市民とは違って、法律の抜け道を知ってるし、影響力も持ってる。そりゃ、甘い汁を吸いたくなるのも無理はない。汚職なんてのはその延長線上にある。金が欲しい、権力が欲しい、地位を守りたい。そんな欲望が渦巻いてるんだよ。汚職なんてのはその結果だ。
「でも、政治家には誠実な人もいるじゃないか」って言う奴もいるだろうけど、それは幻想だ。政治の世界は汚れたもんなんだよ。誠実な政治家がいたとしても、そんなのは少数派だ。結局、大多数は自分の利益を優先する。それに、誠実な政治家が汚職をしないでいられる保証なんてどこにもない。
汚職が発覚したら、「そんなの一部の政治家だけだ」とか「個人的な問題だ」って言う奴らもいるけど、それもおかしな話だ。汚職はシステムの問題なんだよ。政治の世界全体が腐ってるから、そんなことが起こる。個々の政治家がどうこうじゃなくて、システム自体が腐敗を助長してる。
「じゃあ、どうすれば汚職をなくせるんだ?」って反論もあるだろうけど、それも難しい話。監視を強化する、法律を厳しくする、ってのは一つの手だけど、根本的な解決にはならない。政治家自身が変わらなきゃ意味がないんだよ。でも、人間の欲望ってのはそんな簡単に消せるもんじゃない。だから、汚職はなくならない。
結局のところ、政治家が汚職をするのは人間の本性だからだ。権力を手に入れたら、それを守りたいと思うのは当然のこと。金や地位が絡むと、人は簡単に堕ちる。汚職がなくならないのは、そのせいだ。政治家が汚職をするのは、権力と欲望が絡み合うからだってことを理解しろ。現実はそんなもんだ。
だから、政治家にクリーンさを求めるのは無理。システム自体が変わらなきゃ、汚職はなくならない。それが現実だ。まぁ、悲しいけどこれが真実なんだよ。
『セクシー田中さん』報告書、何というかこうありえない箇所が多すぎるのでいくつか抜き書きしてみた。()内は報告書のページ数を指す。
企画書には、企画意図、企画ポイント(①自分を縛る“呪縛”から解放された時のカタルシス、②真反対なふたりの女の友情がスゴい!、③9笑って、1グッとくるドラマ、④あらゆる世代に響く! 60 代専業主婦女性の1歩、⑤田中さんと笙野の恋の行方は!?)、主要想定キャスト等が記載されていた。(9)
あっ……(察し)。TVドラマのスタッフには恋愛脳しかおらんのか?
なお、これらの本件原作者の意見については、A 氏 はコアメンバーに対してはそのまま伝えたものの、本件脚本家に対しては ドラマ化について本件原作者の不満が高まっているという 温度感のみ伝えた。一方で本件脚本家は、 8 話のやりとり あたりから本件原作者の語調が強く、こだわりが強いという印象を抱き始めた。(24)
温度感のみ共有してんじゃねえよ! 具体的な指摘も共有しろよ!
「キツい指摘は見ててつらいから咀嚼して伝えて」という相沢友子の要求は、メンタルケアとしては間違ってないんだけど、それは当然「パイナップルは味の相性が最悪なので絶対に酢豚に入れないで」という要求を「原作者はパイナップルを酢豚に入れてほしくないそうだ」と伝えてほしい、という意味であって、「原作者は酢豚の出来に怒ってるよ」と伝えろっていう意味じゃねえんだよ!
C 氏を通じた本件原作者の撮影シーンに関する問い合わせに対し、 A 氏は既に当該シーンは撮影済みである旨回答を行ったが、実際の撮影は 5 日後に予定されており、そのまま予定通り撮影が行われた。その後、これらの経緯を本件原作者が知ることになった。 A 氏によると、まだ撮影していない旨を回答すると本件原作者か ら撮影変更を求められるのは確実であると思ったが、 A 氏は当該撮影シーンは客観的にも問題ないものだと思っていたこと、及び当該シーンの撮影のために 2 か月にわたって キャスト・スタッフが入念に準備を重ねていたため、撮影変更はキャストを含め撮影現場に多大な迷惑をかけるので避けたいと思って咄嗟に事実と異なる回答をしてしまった。このことは反省しているということであった。(25)
C 氏から A 氏に、 6 7 話の脚本の修正文書、及び「修正について」と題する文書がメールにて送付され、そのメール本文には本件原作者が書き下ろした 8 10 話に関しては、撮影の都合などの理由以外では、出来るだけ改変しないでほしい旨述べられており、 A 氏は C 氏に対し電話でドラマ化の上で改変は発生するので、今まで通りやらせてほしい旨回答した。(29)
何で??? 真剣にホラーだった。TV関係者の認識ってこんななの??? そら、芦原妃名子先生がなに言っても暖簾に腕押しで糠に釘で馬の耳に念仏だわな。
本件ドラマ 5 話のダンスのシーンで使われた音源は、配信 許諾が取れていなかったので、 配信で使用出来る別の音楽に差し替えた。しかし、セリフで「シャー・ルク・カーンの『マルジャーニ・マルジャーニ』!! 」と笙野が叫んでおり、セリフはすでに収録していたため、差し替えることが出来なかった。そのため音楽とセリフの不一致が生まれた。(32)
役者が「モーツァルトの『トルコ行進曲』!」って言ってるのにジャジャジャジャーンって聞こえてくるようなもんだろ。ギャグにしか聞こえんわ。マイナーな音楽ならいいと思ってるのかもしんないけど、そのマイナー音楽が頻出する作品のドラマ化でやることか? 許諾を取るか、セリフ部分だけ収録し直して差し替えるとかしろよ……(アニオタ並の感想)
B氏は日本テレビのライツ部門に状況を共有し、同部門の顧問弁護士である P 氏に本件脚本家の「クレジットの約束が守られないのであれば9,10 話で本件脚本家のアイデアを一切使わないでほしい、それができないのであれば 8 話までの私の脚本を使わないでほし い。」という発言の法的根拠について確認を依頼した。 P 氏の見解は、この時点で脚本利用契約が未締結であるので、脚本家は原著作者であるため二次利用の差し止めは可能であるということであった。(34-35)
この「アイデア」って何を指してるんだろう……そこの検討が必要不可欠じゃない? 相沢友子が何をもって「アイデア」と呼んでいるのかがクリティカルなのにそこを書いてないのは不親切に感じる。もし相沢が「自分が考えた、原作にはないキャラのセリフ」を「アイデア」と呼んでいるなら、確かに相沢には著作権は発生するので彼女の要求は法的に正当なものかもしれないけど、もしも「最後は溶鉱炉に沈みながらサムズアップするんですよ!」みたいな「ストーリーの展開」を「アイデア」だと思っているなら、それは著作権法で保護されるものではないわけで、彼女の要求に法的根拠は一切ないことになる。どっちなんです? 著作権法に詳しいであろう顧問弁護士が「可能」って言ってるってことはマジでセリフをそのまんま使ってたってこと? それとも相沢の言葉通り「アイデア」が使われていただけなの?
原作では朱里が短大に進学した設定があるが、本打ちでは、同設定に関して、「短大に進学するよりも専門学校に進学する方が近時の 10 代、 20 代としてはリアリティがあるのではないか」、(短大進学の原因となっている)「 父親のリストラはドラマとしては重すぎるのではないか」等の議論を経て、 高校受験の際に、父親が勤める会社が不景気になり、母親から「高校は公立でいいんじゃない?」と言われて 本当は友達と一緒に制服がかわいい私立校に行きたかったけど、 「うん、そうだね」と笑って受け入れた という設定に変更する旨のプロット案を送信した。
2023年6月12日、上記プロット案に対する本件原作者の返事として 、かわいい制服の私立高校に行けなくなったことなどは「心底どうでもいい」ことである、原作のジェンダー要素も逃げずに書いて欲しい、制作サイドは短大での設定を避けているのか?といった趣旨の記載がなされた文章が送信された。
その当否は別として、本打ちメンバーが当該原作の設定を変えようと試みたことには、それ相応の議論と積極的な理由があった。しかしながら、本件原作者の上記返信内容をみる限り、本打ちメンバーで議論した内容・意図が十分伝わっているとは思えない状況であったことがうかがえる。(60-61)
「あなたは女の子だから短大でいいよね」という理由で進路を決められたという深刻なエピソードを「あーあ、あっちの制服の方が可愛かったのになー」に変えていいと思う神経が理解できなさすぎてヤバいし、原作者に「議論した内容・意図が十分伝わっ」たからそういう反応になったんじゃないですか??? と思わざるを得ないというか……
芦原先生は真面目で良い人だったんだろうな、と思った。
仮に自分が原作者だとしたら、途中で「もう撮っちゃった? そんなの知らない、撮り直して」とか「ちょっとすぐに解決するとは思えないんで、今週のオンエアはなしで」とか「なんか作品のコンセプトが理解されてない感じ? じゃあもう制作中止しよっか」って言ってただろうな、っていう場面が少なく見積もって1ダースはある。
でもそれをやると方々に迷惑がかかるから、自重して、頑張って耐えてらっしゃったんだろうな……
TV局や俳優なんて、あなたの作品にとって不可欠でも何でもない、添え物以下のどうでもいい無価値な存在なんだから、もっと振り回してやってもよかったのに(それができない人だったから繊細な作品を描けた? それはそう)。
増田は日本の実写化を憎みぬいている勢なので(『天地明察』も『インシテミル』も『ビブリア古書堂の事件手帖』も許してないからな)、実写化に出る俳優にも欠片の同情も感じないんだけど(『咲-Saki-』を汚した浜辺美波は個人的に不買してるし、岡田准一のことも「あっ『天地明察』とかいうクソ映画でゴミみたいな主演してた人だ!」と認識してる)、俳優の苦労とかにうっかり思いを馳せてしまったらそんな要求をするのは難しくなるのはわかるので、やっぱり実写化に出る俳優は(「ひどい実写化だったけど、俳優さんには罪はないよねー」と庇われるんじゃなくて)積極的な共犯としてもっと叩かれてよいのでは、そうすれば俳優の苦労とかを慮って言いたいことを言えなくなってしまうことはなくなるのでは、と思いました。
次元断で上半身と下半身を真っ二つにされたわけだけど、反転術式は丹田ではなく頭で使う術式なので
頭を一撃で叩き潰されたり、首を切断されるなどしなければオートヒール状態というのが作中での説明であり
胴体分断は五条復活フラグというのが読者の見立てだったけど、その展開はなく五条は死亡した。
その後、宿儺が五条の死体の前に立っているコマで五条の頭がある部分から放射状に血が飛び散っていたため
宿儺がとどめを刺すために頭部を破壊したとしか考えられない、という話に落ち着いた。
が実際には頭部は綺麗な状態で残っており、親友の夏油と同じメロンパン入れにされて復活した。
個人的にこの親友同士が同じメロンパン入れになる展開は非常にエモいと思った。
が、結局ちゃんと頭残ってるんだったらなんで反転術式で復活しなかったの?という疑問は残った。
ノベルスがライトノベルか否かって言われたら雑なノベルス語りをしたくなってきたぜ!!!!!
ということでしていきます
そもそも「ライトノベル」と「ノベルス」を分ける定義の人たちってのは昔から連綿と存在していて、例えばノベルスって言うとどういうものかっていうと以下のようなレーベルです
等々……
さて、ライトノベルとどう違うの?と言われると、ものすごい簡単にいうと「文庫か新書か」という分け方になる
ライトノベルは主に「文庫」で書かれているレーベルを指すことが多く、ノベルスは「ノベルス版(新書版)」と呼ばれるちょっと細長い感じの本で二段組で書かれているものを指す。
違いはそれだけか?と言われるとまあそれだけなんだが、もうちょい踏み込むにはノベルスの歴史を知る必要がある
1950年代ごろだと、そもそも日本における新書サイズの本と呼ばれるものは「岩波新書」に代表されるお堅い学術書が主だったもので、それに対して光文社が「大衆向けのもうちょいわかりやすい教養レーベルを作りたい」として作ったのが「カッパ・ブックス」と呼ばれるレーベルになる
(余談だが著者近影という文化を始めたのもこのレーベルが初らしい)
で、そこから姉妹レーベルとしてフィクションや物語を扱う「カッパ・ノベルス」が創刊された。
カッパ・ノベルスは松本清張や西村京太郎、小松右京など書いた日本のミステリやSF等エンターテイメント小説に多大な影響がある作品を出して大ヒットを飛ばした。
それを見た他の出版社もこぞってノベルスレーベルを立ち上げてそれぞれのレーベルで作品を発表していった。
これが大体1960年から1980年くらいにかけてのものすごい大雑把な流れで、ライトノベルより早い段階で日本のエンターテイメント小説にノベルスは多大な影響を及ぼした
特に、ミステリやファンタジージャンルに関してはこのノベルスの影響度が尋常じゃないほど高く、ミステリだとカッパ・ノベルスや講談社ノベルス、ファンタジーに関してはC★NOVELSなどで有名作品が数多く存在する
じゃあ、なんでライトノベル定義論でノベルス含む含まない論争になるかというと、ここからは若干雰囲気ベースになるが「出自のターゲット層」じゃないかというところになる。
ノベルスは刊行されているものを見てみるとわかるが結構ターゲットの年齢層が高い。ぶっちゃけサラリーマンとかそっちくらい向けの作品群が多いのだ
この辺りはレーベルの当初から社会派ミステリの松本清張などを使っていることからも伺えるだろう
内容としてもハードボイルドや伝綺小説などが多く、いわゆるエンターテイメントの中でも硬派でおじさん主人公のものも結構多い
対してライトノベルというものは、ジュブナイル小説と呼ばれるいわゆる青少年向けの文化に影響を強めに受けていて、ターゲット層的にも青少年ないし大学生くらいが主だったターゲット層になる
この辺りの歴史的経緯から来る文化圏の違いみたいなものが、「含まない」という人たちが多い理由のひとつだろう
では逆に、「含む」派閥がなぜいるのか。というと、そもそもノベルスの歴史を見てもカッパ・ブックスの成り立ちからして、「大衆向け」でありエンターテイメント小説の土壌としてあったのはここまで話した通り
で、ライトノベルも言ったらエンターテイメント小説の集合の一部なわけで、まあ内容的に近しい作品が多いからだ
この辺り、時代を経るにつれライトノベルとノベルスというのは似た成長を遂げた経緯を歩んだところがある
ライトノベルは様々な近傍の文化(漫画やアニメ、ゲーム、ジュブナイル小説)をごった煮でまとめていったというのだけれども、
ノベルスは時代が経るにつれて対象である「大人たち」の変化を受けて、アニメや美少女ゲームの文化、さらにその近傍の文化を取り入れていき、ライトノベルと似たような変遷を辿っていった
特にこれらを取り入れていったのが、講談社ノベルス(及び講談社BOX)とC★NOVELSである
講談社ノベルス(BOX)で言うと、西尾維新や奈須きのこ、佐藤友哉など
上記の作家たちは、ご存知の通り小説もさることながら、アニメやゲーム、漫画などにも多大な影響を与えていった(というか奈須とかに関してはゲームがそもそも出自ではある)
これらの作品群は内容的にライトノベルでも出ていてもおかしくない作風のものもあれど、ノベルス刊行になっている
また、ライトノベルにおいても、「C★NOVELSで出てそう」「講談社ノベルスで出てそう」みたいな作品は結構ある
(個人的には紅玉いづきさんとかはわりとC★NOVELS風味かなと思ったりもする)
実際「ブギーポップ」シリーズの上遠野浩平は講談社ノベルスで「殺竜事件」等の「戦地調停士シリーズ」を書いているし、ラノベ出身の作家がノベルスレーベルで書いている例も多い
こういった経緯で位置としてはめちゃくちゃ近い位置にあれど、しかし、ノベルスをラノベに入れるか?みたいなのがとても別れやすい、という妙な性質がこの二つにはある
個人的には、まあ歴史的経緯もあるし、レーベル史観でいいんじゃね?という意見なのでノベルスはノベルス、ライトノベルはライトノベルでいいかなあと思っている
ただここまでの歴史的経緯を踏まえても、現状似ている作品群も多いというのはあるので、含める気持ちもわかる
なので、もし今後議論する際には内容派閥かレーベル史観派閥かの宣言くらいはしてもいいんじゃねえかなあと思う
ただそれはそれとして、ノベルス、ライトノベル双方に面白い作品はたくさんある
ノベルスが好きな人も、ライトノベルが好きな人もそれぞれお互いに合う作品は結構あるので探してみるのもいいのではないだろうか
24/06/01
指摘があった「ノベルス」と「ノベルズ」の表記ゆれを修正。ちなみに表記は「novels」を日本語読みしたものなのでどっちもあるっぽく、出版社によっても呼び方に揺れがある。(トクマノベルズはズ、講談社ノベルスはス)。自分もなんかノベルスっていったりノベルズと混ざっていってしまうので癖です……
事実だとわかるのは、
該当の脚本家は指揮権のあるプロデューサーに困惑や苦い気持ちをSNSで伝えたわけでもなく、
何故か2次創作者の立場でありながら同業者と原作者をSNSで批判したこと、
日テレもプロデューサーも出演者もそれを放置したこと、
ただこれだけだぞ
魚拓より
がら急きょ協力という形で関わることになりました
魚拓より
最終回についてコメントやDMをたくさんいただきました。まず繰り返しになりますが、私が脚本を書いたのは1〜8話で、最終的に9・10話を書いたのは原作者です。誤解なきようお願いします。
(中略・気になるなら魚拓見て)
脚本家の存在意義について深く考えさせられるものでした。この苦い経験を次へ生かし、これからもがんばっていかねばと自分に言い聞かせています。
どうか、今後同じことが二度と繰り返されませんように。
魚拓より
某脚本家
○○さんの一ファンとして悔しいです。🥺
1〜8話で変化、成長していった登場人物たちが、9、
んと描くだろうなと思いながら観ました。
で、その時間経過も描けてなかったですね。。
まったのが残念でした。😢
私もこの事、胸に刻んでおきます。
某脚本家
あろうとです。わたしもいろいろ考えさせられまし
た。ともあれ素敵な作品をたくさんおつかれさ
までした!良いお年を迎えてください
文業の人
はじめまして。毎週楽しみにしてました。
わったので不思議でした💦そして、えっ、
ここでふんわり終わり?と。
でも訳がわかりました。
そして、私も物書きの1人として尊厳を傷つ
素性不明
な?誰かが手を入れたりして現場も混乱した
のでは?
他にもドン引きコメントにいいね❤️推してるのが確認できるので気になるなら魚拓見ようね
せめて下記のように発言すれば、よかったよね、これなら表立っては誰からも責められずに『私が書いたんじゃないから』をできた
『最後の2話は、な…なんと!!!原作者様がご自身で脚本を書いてくださいました!サプライズプレゼント🎁🎄でしたが、原作ファンの皆様にも喜んでいただけるような作品に仕上がったと自信を持ってお伝えできます』
こう言っとけば、ゴタゴタが取り沙汰されても、下記のように言えば全部問題片付いた
『このドラマの製作過程では、チームメンバーの間で様々な意見が飛び交いました。それは、原作のファンやドラマの視聴者に、最高の作品を届けたいという共通の想いがあったからです。原作者の方にも、貴重なご意見やご協力をいただきました。おかげさまで、素晴らしい作品に仕上げることができました。ぜひドラマをご覧になって、製作チームの情熱を感じてください』
それすらもしないで、2次創作者の立場で原作者をドラマ出演者と一緒の写真を添えて非難という傲慢な奇行、そりゃ燃えるよね🔥
どこぞの脚本協会だって、『著作権法第20条』が大事だって言ってるだろうよ
【日本シナリオ作家協会・脚本契約7原則】
(1)「オリジナル企画」および「オリジナル脚本」の脚本家は、原作者として尊重されなければならない。
(2)「オリジナル企画」および「オリジナル脚本」が映像化に至らなかった際は、特段の取り決めがある場合を除き、いかなる場合も著作者である脚本家が任意に利用できなければならない。
(3)企画開発費と脚本料を一元化してはならず、企画段階の企画書・プロット執筆、脚本執筆には、別途ギャランティが支払われなければならない。
(4)脚本料は受注時に取り決め、長期間に及ぶ脚本執筆 の場合は随時支払われるものとし、決定稿を提出した後、速やかに支払いが完了されなけれ ばならない。
(5)企画開発および脚本執筆のために必要とする取材費、資料費、交通費その他の実費については、発注者が負担しなければならない。
(6)氏名表示に関して著作権法第19条の規定を遵守し、宣伝・広告活動の際にも配慮されなければならない。
(7)著作権法第20条の規定を遵守し、脚本家に無断で脚本を改訂してはならない。
依頼された弁護士グループと社内コンプラが社内また小学館側への調査をした報告書をそのまま公開している、という話だ。もちろん調査側は問題点や改善策も挙げられているが、これは日テレの結論ではない
なのでこれが日テレの結論かぁ!怒と言ってる人はそもそもこの調査報告書が何なのかは分かっていないし読解力がないにもほどがある。
要約ではなく全文、長いが、クソ長いが全文を「無責任に言及した人」は読むべきであろうし、当時あの作者の「長文」ブログを読まずに好き放題言った人は数倍になってさらなる「長文(続報もあるのでまだ終わらない)」を受け取ることになったのだと理解してほしい。
本文は何月何日に誰と誰がこのようなやりとりをした。
ということをメールやLINE、消してしまった分は周囲の聞き取り含めて集めて記載しているので、わりと生々しい。
勿論明らかな問題点ははっきりと明記されている。しかしすんなり誰が何をしてこうなったのだ!と言えるものでもない。
人が一人亡くなるともなれば、AだからBになって人が亡くなった。などという簡単な図式ではないだろう。整理しながら読んでほしい。
調査報告書にはこれまで大きく取り上げられていなかった脚本家クレジット問題についてしっかり触れられているのだが、ここはおそらく当事者(達)にとってはかなり辛くなる、追い打ちをかける状況だったと思わざるを得ない。
もちろんそうなる前になんとかしろと言う話だが。
頭を抱えたのが、今回の調査報告書と照らし合わせると「アクマゲーム」で起きていることも予想できてしまうし、果たしてこの改善策だけでアクマゲームは良作になれたのだろうかということだ。
色々と触れたい部分はあるのだが、とりあえずあと一点。
個人的に日テレの気になる点なのだが、よくバラエティあがりの経験のない監督やプロデューサーにいきなり人気枠のドラマを任せており、演技経験のない芸人が多数登場するような低品質の実写化をしょっちゅう見る(ドラマファンの間では日テレはドラマにかける制作費がかなり低いと言われている)
この人事についてはこの報告書にも触れられている。
サポートでクレジットされているようなベテランプロデューサー等が結局参加できるようなスケジュールではなく、業界人で同じ局というだけの、ほぼ素人制作のドラマが乱雑に作られたという話だ。
この乱雑さは「人間関係の構築」部分であると読んでいて認識した。サラリーマンも頭が痛くなる内容だ。
日テレも素晴らしいドラマはあるのだが、キャストスタッフ原作も関係良好の場合が多い。丁寧にすれば作れないわけではないのだ。
日テレは、いやテレビ業界は、あまりにも雑に仕事をこなしていないだろうかと思ってしまう。結果跳ね返ってくる。
小学館はたしかに立ち位置としては一貫して作者側だったようだ。作者のための対応をしていたとは思うが、足りない。全く足りていなかった。
でもどうだろうか。例えば集英社や講談社が契約書を絶対に作らせていたなんて話は聞かないわけで…。
この罪が跳ね返った先にあるのが会社の体面であればいいのだが、人が命を込めて作ったものであるということを忘れてはならない。
『日本』はsageずにはいられないけど、『東京』sageには物申さずにいられない『リベラル』を標榜する人達。これかなり面白い現象だよな。
『愛国心』は唾棄すべきものだが『愛郷心』は無条件に尊ばれるもの、と意識的か無意識か知らないが彼等彼女等はそう定義しているということになる。以前ネトウヨの間で「ナショナリズムはダメだけどパトリオティズムなら良い(=愛国主義は正しい)」的な言説が広まってたことがあったけど、それは「言葉遊びに過ぎない」と誰かが喝破していた覚えがある。個人的にはそのことを思い出した。
東京にリベラルの首長がいるとかならまだわかるんだけど、実際はテロサポ発言したウヨ知事が再選されるような感じだしなあ。『愛郷心』の場合は誰が政治の舵取りを担っているかは考慮されないのだろうか。
でもまあ東京は色々な意味で中心地だし、総合的に見れば日本で1番マシなところではあるだろう。ただしそれは東京だけで成り立つものでもないんだよな。顕著なのが出生率で、地方から人材を吸い上げては繁殖しないということを繰り返しているし、電力確保に必要な原発や関連施設は地方の僻地にしかない。
あとは誰もがするわけじゃないんだろうけど地方蔑視なあ。九州とかひどいけど、そもそもあらゆる面で東京並とはいかないのに、現代的な価値観とかは東京基準を求めてくるのおかしいと思うの。
でも興味深いことなのでこれはずっと考えていくべきだよ。
ユーザー層が入れ替わったのでしょうね
昔のはてなーと現在の対立煽りしているはてなーは別の人種なのでしょう
[B! 教育] どうやって子どもに「文化資本」をプリインストールしていけばよいだろう? | Books&Apps
文化資本とは、語彙力や言葉遣い、学力や教養や美的センスといった、個人的リソースのことを指す。
文化資本は直接的にはお金にならないかもしれないが、地位や人間関係へのアクセスを左右し、巡り巡って経済資本をも左右するという点において、やはり資本である。
この手の話に熱心に参加していたのは子供を持つ親や教育関係者ですね
トピ主さんやしんざきさん、まつもとさん辺りも文化資本関連で何か書かれていそうな気がしますが探すのが面倒になったのでここでやめます
なぜ文化資本という単語が《東京すごいポルノ》に使われるようになったのかよくわかりませんが
本来の意味では住んでいる場所よりも親の方が重要ですし、問題視しているのは貧困の再生産です
今回の調査結果が真実なら、オレは脚本家に謝らなくちゃならない。
オレは、
の言葉を残して去った先生の遺志を組まず、脚本家らを批判してきた。
でも、それは、正義のためだった。『契約で定めた条件』を守らなかったドラマ制作サイドを誰かが勇気出して叱らなければ、と思っていた。
だけど・・・
この文章を書くにあたって、私と小学館で改めて時系列にそって事実関係を再確認し、文章の内容も小学館と確認して書いています。
...
ドラマ化にあたって、
・ドラマ化するなら「必ず漫画に忠実に」。漫画に忠実でない場合はしっかりと加筆修正をさせていただく。
・漫画が完結していない以上、ドラマなりの結末を設定しなければならないドラマオリジナルの終盤も、まだまだ未完の漫画のこれからに影響を及ぼさない様「原作者があらすじからセリフまで」用意する。
原作者が用意したものは原作変更しないでいただきたいので、ドラマオリジナル部分については、原作者が用意したものを、そのまま脚本化していただける方を想定していただく必要や、場合によっては、原作者が脚本を執筆する可能性もある。
これらを条件とさせていただき、小学館から日本テレビさんに伝えていただきました。
...「この条件で本当に良いか」ということを小学館を通じて日本テレビさんに何度も確認させていただいた後で、スタートしたのが今回のドラマ化です。
(小学館側の) C 氏、D 氏の書面回答では、条件として文書で明示しているわけではないが、漫画を原作としてドラマ化する以上、「原作漫画とドラマは全く別物なので、自由に好き勝手にやってください」旨言われない限り、原作漫画に忠実にドラマ化することは当然という認識であるということである。
また、その後の...やりとりにおいても、「なるべく原作の流れを崩さないようにしてほしい」等の要望は記載されていたが「必ず漫画に忠実に」という言葉がドラマ化の「条件」として出されてはいない。
...
D 氏から ...「ドラマオリジナル展開に関しては、本件原作者の方から、脚本もしくは詳細プロットの体裁でご提案
オレは個人的な思いとしては、
二次創作者というものは原作を利用させてもらってる立場なのだから、たとえ二次利用の契約の条件ではなかったとしても、原作サイドの、あらゆる要望に従ってほしい、と願っている。
だがオレの一連の批判コメントでは、あくまで「『契約の条件』を守らなかったこと」を問題視していた。
原作改変自体は、リスペクトがあるべき、と思いつつも、批判では、ビジネス上の契約を破ったことを前提にしていた。
だけど調査結果を信じるなら・・・、何度も確認した条件、などなかった、としか読めない。
小学館側のアンサーを待ちたい。
パリ在住フランス人研究者が「日本語の起源」を追究する理由。文字なき時代の古(いにしえ)の姿はここまでわかった! - 社会 - ニュース
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/wpb.shueisha.co.jp/news/society/2024/05/28/123352/
日本語は、大昔はどのような姿だったのか? 文献の記録がない時代はどんな発音で、どんな単語があったのか? そんな疑問に答える本が出た。
われわれが話す日本語の祖先の姿に迫る画期的な方法をまとめたこの本の著者のひとりは、なんとパリ在住のフランス人、トマ・ペラール氏。
@ThomasPellard
Research scientist @CNRS 🇫🇷 historical-comparative linguistics, archaeolinguistics, phylolinguistics, geolinguistics, endangered languages, languages of Japan.
https://x.com/ThomasPellard/status/1796166752012824685/photo/1
https://x.com/ThomasPellard/status/1796474339052896519
週プレのインタビューがプチバズっていますが、日本語の起源についてもっと知りたい方は
@yosukeigarashi さんとの対談記事「日本語と琉球諸語のルーツをひもとく」もあわせて読んでください⬇️ (こっちはグラビア👙なし)
特集「危機」と「ルーツ」② : 日本語と琉球諸語のルーツをひもとく
https://kotobaken.jp/digest/13-1/d-13-02/
どのような変遷をたどったのでしょうか?
また、それらはどのようにして分かるのでしょうか?
五十嵐陽介さんに聞きました。
ペラール:もともと日本の伝統文化に興味があって、人類学や民俗学をやろうと思っていました。途中で、言語の研究の面白さに気付いたのです。そして、日本語がどのように変化してきたのか、今の日本のことばがどのように成立したかについて研究を始めました。
すると、日本語の歴史を研究するには琉球諸語のデータが絶対に必要だと分かり、琉球諸語の研究を始めたのです。五十嵐さんと初めて会ったのは、フィールドワークで訪れた宮古島でしたね。五十嵐さんは、まだ日本語の歴史については手を付けていなかったと思います。
ペラール:琉球列島で話されていることばは、長い間、日本語の方言と見なされてきました。しかし日本語と通じないほど違うため、現在では日本語とは異なる言語とみなされています。また、琉球列島の中でも島や地域ごとに互いに通じないことばがあることから、まとめて「琉球諸語」と呼んでいます。
琉球諸語につながる言語と日本語は、いつ分岐したのでしょうか。
ペラール:奈良時代(8世紀)以前ということは、研究者の意見が一致しています。
文献から、奈良時代にどのような音の区別があったかが分かります。
さらに、文献にある言語の状態からそれ以前の言語の状態を理論的に推定する「内的再建」という歴史比較言語学の手法を使い、奈良時代以前には音の区別がもう少し多かったことが推定されています。
奈良時代の文献ではすでに失われてしまったがそれ以前には存在していたと考えられる音の区別が、琉球諸語には見られます。
ということは、琉球諸語の共通祖先に当たる「琉球祖語」と日本語が分かれたのは、日本語でその音の区別が失われる前、つまり奈良時代以前と考えられるのです。
稲作が伝わる以前に分岐していたらそうならないので、稲作が伝わった弥生時代(紀元前10世紀ごろ〜紀元後3世紀まで)以降と考えるのが自然です。
ここからは研究を進めているところで、まだ私の個人的な推測なのですが、弥生時代末期から古墳時代あたり(3〜6世紀ごろ)に分岐したのではないかと考えています。
ペラール:弥生時代から日琉祖語の話者が日本列島に移住し、弥生文化の担い手になったと考えられます。
考古学、遺伝学の研究から総合的に見て、日琉祖語の話者は東北アジア、中国北部、朝鮮半島あたりから来たと考えられます。
古代の朝鮮半島の歴史を記録した文献に日本語と音と意味がとても似た地名が見られることから、日本語と系統関係にあった言語が古代の朝鮮半島で話されていた可能性が高いです。
新潟は米も野菜も魚介も肉も、ついでに酒も全部質が高いってイメージがある。
この増田本人では無いので尻馬に乗る感じで申し訳ないけど、ブコメとか見てると未だに理解があやしい人が多い気がする
まず元増田の内容を自分なりにまとめると、「文化資本」に該当するかどうかを計る条件として
の2つの条件が少なくともあり、はてなで言われている「文化資本」の多くはこれに該当しない(そのため、はてなの人達は「文化資本」の意味を理解せずに使っている疑いがある)
特に②についてはそもそも資本とは自己増殖するもので、文化「資本」というからには再生産の要素を含まないと変というのはその通りなんじゃないかなと思う
でその上で、なんだけど
いや美術館が無ければ美術館に行く文化も作れないので「文化を享受できる環境・子に文化を享受させる親の文化」は文化資本なんだが。みんな美術館(物理的な資本)の話じゃなくて美術館に行ける東京の話してるだろ。
例えばこの反応って、①の説明にはなってるけど、②の説明にはなって無くない?何が再生産されているの?
個人的には、文化「資本」を名乗るうえで②の方が重要な気がするので、そっちが片手落ちになっては意味が無いんじゃない?と思ってしまう
上は一例だけど、元増田への反論で②の再生産の部分まで言及できている人が少ないように見える
で、更に、そもそも「東京は文化資本が豊富」と言っている人は、どういう再生産を想定しているんだろう?
ただの資本の場合、単純に金持ちは投資等で更に資本を再生産できる、というよくある話で、これは分かりやすい
対して文化資本は、例えば親が教育の重要性をきちんと理解し、そのおかげで子は十分な教育を経て資産や社会的地位、権力を得られるようになり、それらが再生産される、といったシナリオになる
ただ、「東京は文化資本が豊富」と言ったり、その例が美術館(へのアクセス)だったりする場合、具体的にどういう継承から資産や社会的地位、権力の再生産に結び付く話をしているんだ?
例えば、近くに美術館があってよく通った場合、しかしそれが自身の給料や社会的地位や権力に特に結び付かない事はよくあるし、その場合②を満たさないので「文化資本」とは呼べないよね?
例えば美術に精通する事で上流階級の人とコネが生まれて立身出世の役に立つ、とかだと「文化資本」と呼べると思うけど、現代日本でそういう機会がそもそもある人は(東京内に限っても)何%だろう?
当然、その%が低ければ東京全体でならした時の美術館の「文化資本」寄与率は低くなって、他の寄与から比べると誤差以下になってしまう
という感じで多くの場合②を満たせない割合の多いと思うんだけど、どうだろうか?
具体的にどういう継承・再生産のシナリオで考えているんだろうか?
また、再生産という観点で見た時、そもそも「東京」で括る意味って何?とも思う
例えば「金持ちは文化資本が豊富」ではダメなんだろうか?こちらなら上流階級の振る舞いや教育の重要性の理解等々、再生産に関わる文化資本が豊富なのは頷ける
これに比べて「東京」だと、金持ちでない人も居るし、そういう人が美術館に通っても再生産に繋がらない事が多い
というのも、そもそも機会やノウハウなど、「美術」という文化的素養を資産や社会的地位、権力の再生産につなげるための回路こそ、資産家の親から子へ継承される貴重なものであり、ある意味それこそが「文化資本」だからだ
よって、「東京」という雑多なフレーミングは文化資本を持たないノイズの人達(言い方は悪いけど・・・)を多く含み本質的ではないのに対し、
「金持ち」というフレーミングは再生産に結び付く「文化資本」と本質的につながっているので、より適切なんじゃない?と思えるし、その上で「東京」で括る意味is何?と思えてしまう
「東京は金持ちが多いから、結局文化資本とも相関がある」という人も居るかも知れないけど、それってわざわざ要らない項を噛まして、分かりにくい疑似相関を作ってるだけじゃね?
地方でも金持ちなら教育もするだろうし振る舞いも継承したりコネも引き継いだりするだろうという事で、文化資本と言えるものが多そうだし
結局、文化的ななにかを資産や社会的地位、権力の再生産へとつなげられるかどうかって、住んでる場所より資産や社会的地位、権力に依存するんじゃないかなー、と思うし、それによる寄与と比べると「東京」要因の寄与って誤差に呑まれそうじゃね?と思う
もう一つ大きな、そして根本的な疑問として、元増田の言うように「文化資本」というものが資産や社会的地位、権力の再生産、つまりは格差の再生産を前提とするものだとして、
それが「東京に豊富だ」と言われる事は、その人達にとって嬉しいのか?というのがある
美術なり音楽なりの素養が格差の再生産となるという事は、それなりに差別的な論理が社会のなかに残存しているという事だけど、
そのおかげで得をしている格差の再生産の加担者or受益者と指さされているようなものなので、それ嬉しいか?胸張るような事なのか?と思う
なので、軽々しく「東京は文化資本が豊富」という人は、「文化資本」が前提とする資産や社会的地位、権力の再生産についてよく分かっておらず、つまり「文化資本」の意味をよく分からずに使っているのでは?と思えてくる
ある意味「東京には文化資本による格差の再生産を肯定or容認するような差別的な風潮が残存している」という事でもあるので、本当に意味を理解して使ってる?と疑問