はてなキーワード: ポリコレとは
ポリコレ作品を原作通りにドラマ化しても叩かれない世界だったらそのままやれたんじゃない
でもあれをあのままやってたらお前らが発狂して叩いてただろ
お前らから身を守り放火されないためには、ポリコレ要素を削除してふわふわ恋愛物にするしかなかった
そのままやってたら虎に翼みたいに毎回炎上して、虎に翼の脚本家のように人格攻撃されて火だるまになっていた
正しい知識は繰り返し語らなければアホの作ったデタラメ情報に簡単に駆逐されるし簡単に変な信仰が生まれる
何十年も前の賢い昔の人たちはそれがわかってるからポリコレとかカウンターカルチャーを作ったわけ
社会問題について考えたいなら普通に社会問題についての本を読んだり社会運動をしたりしたほうがいいよね
創作のポリコレとかカウンターカルチャーとかよく分からないのはそこ
数年前まではツイッターの映画好き界隈(今はあまり言わないがクラスタと言われてたやつ)にかなり出入りして毎日映画の感想や議論をしてたのだが、俺の私生活の変化で映画を見る時間が出来なくなってガクっと映画を見る時間が減り、そのまま界隈に積極的に参加することもなくなり、暇な時間に界隈のTLを眺めるだけになっていった。
その結果どうなったかというと、「俺はなんてムダな時間を使っていたんだ」と思うようになった。映画クラスタなんてもう10年くらいやれポリコレだのやれ監督の倫理観だの労働問題だの邦画はカスだの代り映えのない話題をずっと繰り返している。それかバカしかいない。
その間俺は仕事しもっと有意義な時間を過ごし、そのうえで彼らがわざわざ映画越しに学んでいるらしい社会問題や価値観アップデートをちゃんとした本を読んで学んでいる。まるで「麻雀は頭の体操になるんだよ」とのたまうジジイみたいにまるで映画を見るだけで自分が頭よくなってると思ってるバカ共をしり目に、俺は充実した生活を送っている。
映画なんて見なくても人生は充実するし教養は身につくし価値観もアップデートできる。むしろお前たちのほうが退化している。映画なんて気が向いた時だけ見ろ!一回2000円かかる意味を考えろ!!!!
ハッキリ言って、日本でいうバブル昭和時代レベルの文化を基準に考えられた概念をありがたがって、プルデュー()とか言ってる人の時代遅れ感半端ないよね。
いや理系の普遍的な科学理論を基に語るなら理解できるけどさ、昭和の文化的な価値観が現代に通じるわけないじゃん。
ただでさえポリコレだとかフェミニズムでもインターネットでもいいが文化への価値観が正反対になったりしてるわけで
確かに、ポリコレの要素が入ることで物語の自由度が制限されることもあるかもしれない。けれど、それが本質的に作品の面白さを損なうかどうかは、また別の話だ。たとえば、昔ながらの冒険譚に多様なキャラクターを加えることで、新しい視点や深みが生まれることもある。多様な背景を持つキャラクターたちが、それぞれの価値観や経験を持ち寄ることで、物語が豊かになる場合もある。
俺が最近読んだ小説でもそうだった。主役は、障害を持つ探偵と彼の友人であるトランスジェンダーの医師。最初は、これもポリコレかと斜に構えていたけれど、読んでいるうちに、彼らの背景が、物語の中で重要な要素として機能しており、むしろ物語に深みを与えている感じがした。
一方で、ポリコレを意識しすぎて、不自然に感じる作品もある。登場人物がステレオタイプに描かれ、ただの象徴として扱われているように感じる時だ。そんな時、確かにつまらなくなる。キャラクターがただの「役割」以上の存在にならないと、物語は深まらないし、感情移入もしづらい。大切なのは、キャラクターが生き生きとしていて、その存在が物語にとって不可欠であることだ。
結局、ポリコレが作品をつまらなくするかどうかは、作り手の力量にかかっている。キャラクターやテーマをどう描くか、どれだけ物語に自然に溶け込ませるかが肝心だ。そして、受け取り手の気持ちも重要だ。読者や視聴者が作品に対してオープンな心を持っていれば、新たな視点や価値観に触れることで、むしろ作品の楽しみが増すこともある。
たとえば1950年代において、女性は家庭的であるべきとされた
つまり
現代人はAを支持できるか(Aを否定するのを我慢できるか?)で多様性に対するスタンスが変わると思う
まあ昔(1950年)は「主義Bなんてとんでもない」が主流だったので分かりやすかったんだけど
現代は多様性の時代とされてるからややこしいんだよね、偽物の多様性主義者がたくさんいる
ちゃんとした多様性主義者は、どの時代、どの場所、どの立場でも「AもBも認める」というべきだけど
偽物の多様性主義者は、ポジションや現代の価値観に引きづられる
この人たちのことを同調主義者(Conformity)と呼ぼう
同調主義者が多様性を支持しているのは、あくまで現代において多様性がメイン主義だからだ
でも偽物だからボロが出る
非常にめんどくさいのは、多様性をアピールしている企業や団体が、単なる同調主義者であることが多いことだ
よくよく見ていくとそれは多様性ではなく、メイン主義への同調と、メインがどれになるかの争いでしか無い
ゲーマーじゃないよくわからない人たちが主に騒いでて、ポリコレがーって言われてる作品がきっちり数字出しとるからな
海外制作者による日本が舞台で日本人しか出ないゲームといえば、昨年はFading Afternoonが面白かったけどヒットしたという話は特に聞かない
弥助は設定が面白すぎるから、ポリコレ配慮はあるかもしれないが起用したくなるのわかるよ
アサクリ世界では「信長と秀吉は敵側」「徳川はプレイヤー側」ってのが過去作で決まっている設定で
信長の家臣だがプレイヤー側になるっていうのがどういうストーリーになるのか楽しみぞ
「信長が天下統一に近づけたのは古代のアーティファクトである覇王になれる剣のおかげ」という既存の設定がゲームで改めて開陳されたらまた荒れるかもしれないw
ポリコレ嫌いな人たちの考え方は良くわかんないんだよな、個人的には
ゲームのアサシンクリードも最新作の舞台が日本で、主人公が黒人のヤスケだってことでポリコレポリコレ言ってる人もいたけど、おもしろければ手のひら返すのかとか
「ポリコレが作品をつまらなくする原因だ」と考えるバイアスが前提になって、つまらなければポリコレのせい、面白かったら沈黙みたいな、よくわからん考え方
オタクの解釈では、本来は白人の若い美男美女が恋愛したりアクションしたりする美しいコンテンツであったところ、ポリコレ勢力の圧力で誰も望んでない黒人やデブや年増や同性愛者が出るように改変されて絵面が汚くなったってことになってるから叩くんでしょ
絵面が綺麗/可愛ければ黒人でも同性愛でも身体障害者でもなんでも許容できるけど、ポリコレ要素のせいで絵面が汚くなるのは我慢できないのがオタク
でも同性愛や黒人など「ポリコレっぽいもの」が出てくる作品にはクリエイターへの人格攻撃や作品への火付けを積極的に行い「俺が思う正しい表現に変えろ」と迫るんですよね
なおアサクリにはポリコレを盾にキレまくってる模様