この記事に対する反論を書いてみる。
この記事が、「日本人は挨拶ができない」という根拠にするのが、日経新聞の記事のこの記述。
ところが、挨拶と笑顔を出し惜しみする人は多いのです。仕事柄、飛行機の国際便を利用することが多いのですが、朝の便だと乗員が気持ちよく「おはようございます」と迎えてくれます。この時、挨拶を返す日本人は少ないのです。
この記述を根拠に、「日本人は挨拶ができない」、したがって「挨拶ができないイケダハヤト氏は日本人的である」と結論付ける。
しかし、前出の例が示すのは、「日本人は自分より目下の相手には挨拶しない」ということだけである。そして、それは「目下の相手には自分に対する挨拶を求める」ということの裏返しでもある。
この飛行機の例の場合、乗員が挨拶しなかったらクレームの嵐だろう。
前に書いた記事(http://anond.hatelabo.jp/20130415083313)の反論でも、「店員が挨拶しなかったら店が潰れる」という類のものが多かった。
しかし、「店員が挨拶をする/しない」の話はするのに、「自分が店員に挨拶するかどうか」の話はしないのはなぜだろうか。
それは自分が店員に挨拶する必要を感じていないからである。それは店員が自分より目下の存在だからだ。
日本において挨拶をする、されるというのはこういう上下関係の確認、という側面がある。
これは、「店員は挨拶をするが、客は挨拶をしない」場合と「客は挨拶をするが、店員は挨拶をしない」場合を考えてみたとき、後者に非難が集中することからも明らかである。
挨拶が本当に「対等なコミュニケーションの第一歩」であるなら、このような非対称性が存在するのは、奇妙なことだ。(後者の場合なんてありえん、と言っている人は日本から出たことがないんだと思う)
同じように「社員が挨拶するのに、社長は挨拶しない」状況は責められないのに、「社長が挨拶するのに、社員は挨拶しない」は「社会人として非常識」と非難される。
日本人が「自分が挨拶するかどうか」よりも、「自分が挨拶されるかどうか」に対して敏感なのは、それが、「相手が自分を上に見ているか、下に見ているか」という点を顕にすると考えるからである。とりわけ「対等だと思っていた相手に挨拶したのに、相手は挨拶をしなかった」という場合に、自らの社会的ポジションを揺るがす危機的状況をもたらし、多くの人はパニックに陥るのである。
したがって「挨拶の強要は上から目線である」というテーゼは正しい。
「挨拶もできないなんて」という物言いに自分が引っかかりを感じた理由もこれだったんだと思う。対談の場で、ある種の一部の観衆がイケダハヤトにたいして、最後の礼を期待したとき、それはコミュニケーションの入り口うんぬんの話ではなく、「ちゃんと俺たちが目上であることを、態度で示せ」という事だったんだと思う。そしてそういうある種の観客(いわゆる「おぢさん」©メイロマ的ななにか)の態度に対して、自分は違和感を感じた。
その問題と、チャリティ対談を見に来てくれた人に対して、感謝の意を表明しない、ということは、もちろん全く別の問題であるし、その場合彼の評価が著しく低下することも自明だが、ただ、それも彼の選択なのでほっとくべき、ということも言いたかった。
「俺に挨拶をしろ」っていう空気はやっぱりどこか異常だと思う。
もちろん日本の文化は複雑な敬語システムなどに見られるように、その社会的なコミュニケーションの基盤をつねに「上下関係」においてきた。「上下関係」でない人間関係などほとんど存在しないかもしれない。その中で生きのびようとするなら、上下関係を意識して行動することは重要だ。でもそれは、きわめて「日本的」なんだよという視点も、常に必要だと思う。(まあ、「儒教的」と言ってもいいけど)
おわり。