はてなキーワード: web制作とは
小学生の頃からPCを触っていて、小中学校では明らかに同級生よりPCに詳しかったし、実際同級生からも「パソコンの大先生」と認識されていて、長い間自分のことをPCに詳しい人間だと思っていた。
でも、俺も30歳になって、同窓会とか結婚式とかで時たま同級生と会うと、動画制作の仕事してますとかですごい綺麗な動画作ってる奴とか、エンジニアでコードをバリバリ書いてます、Web制作請け負っていますとかいう奴がいて、いつの間にか俺よりも圧倒的にPCに詳しくなって、使いこなしている奴が目の前に現れ、なんだか虚しくなった。
ああ、いつの間にか俺は「パソコンの大先生」ですら無くなっていたのか、と。
子供の頃はパソコンの大先生であることは数少ない、いや唯一の俺の取り柄であったはずなのに、PCを使って価値を生み出しす側になることはなく、今も昔と相変わらず5ch(2ch)とTwitterをして、エロ動画を見てシコるだけの、まさに「何者にもなれなかった者」なんだなって。
うちの会社にマネージメント側にいる40歳後半の人がいるんだわ。
転職してきて、もう8年ぐらい経って、部署を見ているんだけど、びっくりする位仕事ができない。
みたいな話がゴロゴロでてくる。
このヒトをみて「なんであの人であの給料なの?」と辞める人まで出てくる。
ただ、40歳後半で、一回年収がちょっと上がってしまったので、上司に聞いたら「能力的に下げたいけど、下げたら彼の生活がめっちゃ大変になるのが分かってるので、なんとか伸びてもらいたいと思ってるんだよね・・・」みたいな話をしている。
こういう場合って、
ってどっちが正解なんやろ?
しばらく弱小スタートアップなどを転々とした後にどうにかWEB制作の正社員の職を見つけた
そこは正社員とはいいつつ客先常駐の特定派遣で薄給なうえ5年間昇給も賞与もなしで
待遇はひどいもんだったが楽だったし安定はしてたし
しかしコロナで色々な案件がぶっ飛んで、ワークシェアリングの名を借りた減給もあり
アラフォーの管理職経験もなくスペシャリストでもないWEB制作者、俺でも雇わん
それでも数撃ってるうちに良さそうな会社に当たった
もともと印刷物ベースの会社がIT化をすすめるとかで、社内初のWEB担当者を探していると
年収は450万、これは前職の倍近くになり、魅力的だった
何より、小規模でいいから一人で何でもできちゃう人が欲しいということで
分煙が不完全で会議室はタバコの煙で相手の顔が霞んで見えるほどだし、
あと「飲み会での働きが出世にも影響する」ともはっきり言われた
しかもこの会社の飲み会、コロナ前はたびたび救急を呼ぶほどの乱れ方だったらしい
社員たちは野球・競馬・パチンコ・風俗・飲み会の話をずっとしており
若手へのパワハラも横行している
増田は幸い「俺たちがよくわからないネット?関係のことをやってくれる人が来た」
みたいな扱いになってておおむね好意的に受け入れられたので攻撃を受けずに済んだが、
3人いたほぼ同期の新入社員はみんな病んで辞めていった
その結果なのか、年齢層が異常に高い
「盛り上げ役の若手」みたいな立ち位置の社員が50手前という地獄
ここまで読んで既にまともな人間が働く場所ではないと感じた人も多いと思うが
印刷物ベースと書いたが、これは要するに老人の名簿を入手してダイレクトメールを送って怪しい商品を売りつける商売だった
身バレが怖いので商品は書けないが「魔法みたいに病気が治る」系統のものだ
架空の公的機関とか、富裕層の団体とかが登場して「あなたが優遇対象になりました」と言って引っ掛ける
「あなたを助けたくてご連絡しています。今、私の父をはじめ偉い人たちにたくさん声をかけて、あなたに特価で商品をお譲り出来るよう動いています」
と恩を売る
「〇〇さん、優遇対象に選ばれたって本当ですか?羨ましいです」
「△△協会に認められるなんて、未来は明るいですね!早く連絡したほうがいいですよ」
それだけだと当然断られるのだが
「えっ。もう偉い人たちにたくさん動いてもらって、ようやく〇〇さんのために在庫を確保できたんですよ!いらないなんて言われたら、私どうすればいいんですか〜…涙涙涙…」
ととにかく泣き落とし
このやり取りは数日に渡って行われ、雑談から人生相談みたいなことまで話すので情が移るのか、
更にエグいのが、こういう営業活動が二ヶ月スパンのローテーションで行われているってとこ
そう
こんな無情なことある?
そして俺はこのビジネスモデルのWEB版を作ってくれと言われている
無理だろ
※追記
450万で妻子持ちは地獄、流石に嘘だろ?
みたいなのが1番こたえた…俺はこれでも生活が超楽になった〜って喜んでるのによ…
ほんとにみんな高収入なんだな
正直妬ましいよ
地元の高校を卒業した男性従業員が20人ほどと、事務の中年女性が1人居た。
実家に隣接した工場の車庫には祖父が乗る国産の高級車が4台と、父のランクルが並んでいた。
祖父から工場を継いだ父は高校を卒業した一人っ子の俺に会社を継がせようとした。
就活や受験に焦る中、工場の跡継ぎを任された俺は余裕をかまして残りの高校生活を消化していた。
中学校は友人に誘われ野球部に入ったが、運動神経の悪い俺は試合で活躍した経験はほぼなく、
祖父と父に似ず文科系に育った私は工場の体育会系の風土に馴染めず、
工業高校の機械科を卒業し、ExcelなんてSUMくらいしか知らなかった俺でさえ
20人程度の会社の事務職は慣れてしまえばあまりにも簡単な作業で、
パソコンに疎いおじさんばかりで俺が何をしているのか分かっていなかった様子だった。
工場の隅に置かれた、機械油の臭いが漂う事務室でネットサーフィンをするうち
Yahoo!ジオシティーズを使い、漫画の登場人物のプロフィールをまとめ、
興味本位でHTMLとCSSに再度手を出し、WordPressの使い方を覚えた。
サーバーに上げたページを事務所のパソコンでも自分のスマホでも自宅のパソコンでも開いて
何度も上下にスクロールした。架空の地図も拡大して見たりした。
夕食の場で父に話があると切り出し、
「やりたいことを見つけた、俺に工場を継がせることを諦めてほしい」と伝えた。
最初は驚き、複雑な表情をしていたが、
「工場のことはもう気にするな、ただしやりたいことを全力でやれ」と言われた。
しかし田園風景の広がる田舎町、WEB制作の仕事なんて転がっていなかった。
転職サイトで見つけた求人に応募し、何度か片道5時間ほどのバスに揺られ、
たった5人の小さな制作会社だった。給料は19万円スタート。嬉しかった。
「まだ若いし、気合があれば入ってからいくらでも覚えられるから頑張ろう。」と励まされた。
俺は貯金をほぼ全て使い果たし東武沿線で6万5千円の狭い1Kを借りた。
5歳年上のS先輩と、一回りほど上のT先輩と社長が3人でWEB制作をしていたが
T先輩は俺に付き合って毎日遅くまで、日によっては朝まで指導してくれた。
それなのに毎朝俺よりも早く出勤していた。
どれだけ頑張って早起きしてもT先輩の方が早かった。
眠そうな表情は全く見せなかった。東京には化け物が住んでいると思った。
残り二人の先輩は社長の昔の同僚らしいが何をしているか分からなかった。
眠気と分からないコードと戦い、もがきながらしがみつくうちどうにかS先輩と同じくらいのクオリティの作業はこなせるようになった。
jQueryもPHPもフォトショの使い方も覚えた。イラレを使って簡単なチラシも作ったりもした。
お客さんとの打ち合わせもメールもそれなりにできる。
27歳になっていた。給料は25万円に増えた。後輩は2人できて、S先輩は会社を辞めた。
あるアニメイベントがきっかけで2歳年上の同じ趣味の彼女が出来た。偶然にも同郷だった。
ある日退勤中になんとなくメールを開いた。
目ぼしい求人は無かった。
なんとなく、ドロップダウンリストから勤務地の地元の県を選択し、年収欄に400万円と打ち込み、求人を検索する。
「株式会社〇〇 〇〇営業所 システムエンジニア 年収400万円~」
今年31歳になる。
彼女は嫁になった。
地元の駅徒歩18分の場所に駐車場込み9万円で3DKを借りて、駐車場にアクアとN-ONEを並べて一緒に暮らしている。
月に1、2回は父の顔を見に実家に帰っている。
この町の郊外に工場があり、そこから5キロほど離れた営業所でSEをしている。
SEは俺1人で、本社と連携を取りながら工場のシステム周りを担当している。
今扱っている言語は転職前はほぼ扱ったことのないものだったが、
研修制度のおかげもあり、JSやPHPを覚えたあとなら、さほど抵抗なく覚えることができた。
工場のシステム管理とは言え、大枠の部分は東京本社のSEがやってくれている。
俺のやっていることを分かる人間は誰も居ない。
俺のことはみんな「東京から帰ってきて、真っ黒な画面に何かを打ち込んでいるすごいやつ」だと思っている。
こうして業務中にはてなに文章を打ち込みながら転職サイトを眺めている。
それなりに幸せではあるが、今でもTwitterで繋がっているS先輩の仕事を楽しんでいるツイートを見ると複雑な気持ちになる。
俺はこういう働き方しかできないのかと思う。
法学部卒で就活をなめていて全滅し、小さな編プロに入ったものの、ボスもアスペで誰とも仕事が続かない方だったので、私もミッション途中で解雇。
業務委託契約で雇用保険も未加入だったので、日雇いで食いつなぎ、京都リサーチパークの小さなコンサルにアルバイトで入社。
Web制作が商売になり始めた頃でしたので、織物産業系の会社にホームページを売り歩いて実績を積んで正社員になったものの、社長が会社を解散。
その後ポリテクセンターを利用して雇用保険で食いつなぎながら、就活してリクルートの制作会社に入り上京。
でも遠距離恋愛でメンタル悪化して、早々に退職して数年実家で引きこもり。
このままではヤバいと思い、農業実習生に行ってみたけど、休憩時間に水も飲めず挫折。
その後はボランティア活動に参加するようになったら、ITスキルを買われて、研究員として再生可能エネルギーの実証実験に参加。
GISを使った資源量調査の学会発表や共同特許取得の経験を積んだものの、上司と研究データの抽出方法でもめて離職。
しばらく考えて、あえて障がい者枠で福祉施設の支援員になるも、ずさんな経営に憤りを感じて、離職。
文科省のモデル事業でとある学校の支援員をしながら、通信制の専修学校で社会福祉士の勉強をして、合格。
福祉の道を歩もうと思い、福祉施設を立ち上げたいという営利企業に雇われ、作業所を設立。
でも作ってから、運営方針でまた役員ともめてパワハラを受けて、離職。
それならいっそ営利企業ではなく社会福祉法人で働いてみようと、家から近い法人に就職。
相談員の資格を取得したものの、保守的な法人の運営方針と、社会福祉士の倫理綱領との乖離に会社に行くのが辛くなってしまいました。
だって入社式でマスクの色まで指定して、少しでも違った人はその場で交換させるなんて、多様性が重んじられる福祉業界であり得なくない?
毎日仕事のことを考えると歯を食いしばりすぎて、歯神経が痛みを発するようになっています。
抗不安剤を勧められるけど、ベンゾ系の薬は卒業したので今さら飲めず。。。
転職しようにも、地元は田舎なんでほぼ最低賃金に近い仕事しかなくて、福祉でやっていこうと思っていたけど、まともな法人はもう通える範囲で求人がないのが現状です。
お付き合いのある自治体で雇ってくれる話もあるけど、会計年度任用職員なので、これまた最低賃金レベル。
ITに疎い業界だと重宝がられるけど、今さらIT業界に戻ろうとしても、ブランクもあり、厳しいかな。
IT系の資格は取得してないけど、以下のようなしょぼいスペック。
サーバーたてたりはLinuxとかでFTPサーバーやWebサーバーをたてて遊んでいたレベル。古い時代でごめんなさい。
Webはhtmlは読める。デザインもできる。WordPressは分かる。ディレクション経験は大昔ならあり。
経理:売上1億円レベルの小さな企業の給与計算、法人の決算は経験あり。
助成金申請・報告書作成:1,000万ぐらいの案件までなら経験あり。採択実績も複数あり。
法務:名義変更登記とか不動産登記はできる(無資格・図面はイラレで書ける)。
コンサル:福祉事業所の設立や運営のコンサルは単年度で受注実績あり。
でももう福祉系を諦めて、他の士業の資格を取得するのも検討中。
重なると言っても、元増田が言っていることは本当に稚拙というか、そこそこ良い年齢? だと思うんだけど、悔しがり方が子供みたいで、全く擁護する気にはなれません。
じゃあこの元増田の何が問題か。その幼稚性は置いておいて、私なりに考察します。
実は、今も私はテレビ関係のWeb動画に関与しているので、多少テレビ局の人間とも触れ合う機会があります。
そこで思うのは、テレビ業界の人間は、相当世間一般の常識からズレているところがある、ということです。
私はテレビ局の後にWeb制作業界でサイト制作や簡単なWebアプリ構築案件に携わりましたが、基本的にこれらはクライアントワークです。
そのクリエイティブやシステムが欲しくて、お客様企業はお金を払って成果物を手に入れます。つまるところ、単純な客商売です。
しかし、テレビ番組の制作というのは非常に大きな枠組みで作られています。関わる人数も、番組が全国放送だったり帯番組だったりすると、100人を超えることもあります。
そうなると、自分の仕事のパートの前後部分ぐらいしか見えてなくて、他のパートで起きたところとか、自分の関わってない人が言ってたりやってたことは全部伝聞になります。
するとどうなるか。それ以外の仕事が全くできなくなるんです。ディレクションするならディレクションするだけ、撮影するなら撮影するだけ、編集するなら編集するだけ…
普通の客商売であれば、お客様の意向が第一です。予算の中で、その意向ややりたいことをどれだけ実現できるか、それが腕の見せ所だと思います。
テレビ番組を作っていると、誰に向かって仕事しているのかが曖昧です。
当たり前ですが、視聴者から直接顔を合わせて注文を聞いて番組を作るわけではないです。
建前上ではありますが、編集権は制作側にあるので、スポンサーの顔色はみつつも、スポンサーの要望を丸々聞くことわけでもありません。
まして、スポンサーと直接顔を合わせる局側の人間なんて一握りです。
で、元増田が入社した会社や、私が今やっている業務で取引しているのは一般企業な訳です。
テレビ業界では当たり前の視聴者でもスポンサーでもありません。
例えるなら、テレビ番組ってのは、大手住宅メーカーの建売住宅みたいなもん。広い土地にたくさん建物立てて、お客さんが気に入ってくれたら買ってもらえる、みたいなね。
対して、一般企業が金だしてWeb動画を作るのは、自分好みの建物立ててる建築士と工務店にお金払って、ぼくがかんがえたさいきょうのおうち、を注文する注文住宅。
家を買う、ってことは一緒なんだけど、そこへ至るプロセスも、仕上がった家も全然違うよね、この両者。
ここのところを元増田は、根本的に理解していないんだな〜と思いました。
元増田はテレビ局の人間だったという言い方をしているので、良いように理解すれば、放送局の社員ということになります。そうじゃなかったとすれば、放送局の下請けをやっている制作会社の社員でしょう。
まず、テレビ業界と建設業界で全然違うってことを想像できてないのが痛いですね。次に、会社規模も違うんじゃないかと想像します。ある程度役員との距離感が近いようなので、中小企業じゃないですか?
テレビと全く異なるビジネスモデルなので、業界のカラーとか、その会社の業界における立ち位置とか、そういうのも理解してないといけないと思うんだけど、多分そういうのはすっ飛ばしているでしょうね。
社風にもよるだろうけど、中小企業の役員や社長ってのはオーナーだったり資本的なところで関与があったりで、良くも悪くも王様女王様なわけですよ。
私からすれば、役員だったり社長だったりのOKさえあれば、あとはなんだっていいと思うんだけど、最初にそこを握れてなかったのが、元増田の致命的なミスだと思うのよね。
入社面接で「面白い動画いっぱい作ってね」って言われたそうだけど「面白い動画」の定義について、コンセンサスは取れていましたか?
「面白い」って言葉を掘り下げると、英語で言えばfunnyなの? interestingなの? だし、誰がみて面白いか、ってのもあるし。
また、その役員の言う「面白い動画って、実際どの動画ですか? YouTubeのURLを教えてください」とでも言えばいい。
それで上がってきた動画が、どう考えても「面白いけど、この企業に合ってないな」と思えば、その面接の場で言わなきゃいけないよ。そして辞退しなきゃ。
まあ、ミスマッチなコンテンツばかり作らされてきたのは大変で悔しいかもしれないけど、じゃあこの会社に求められてる動画ってなになのかな? 何を作れば、役員は満足して、業界にもインパクト与えて、会社の価値向上に貢献できるかな? っていう視点が欠落してる。多分、役員的にはここから動画の内容をピボットしてがんばれ、ってハッパかけたいんじゃないかな。そういう上司の親心に気づかず、会社のPCで増田書くって、どんだけレベル低いんだよ(ITガバナンス的にも)って話。
私も全国放送のテレビ番組に携わっていた時には、一定の達成感がありました。華やかな芸能人が画面に写っている映像が、全国のお茶の間に流れているんだ〜と思うと、やっぱり大きなやりがいや鼻が高いみたいな実感はあったものです。
ただ、そのワークフローの一部しか知らないのに、成功体験がデカいと、こんな些細なことや、ある種の複雑な人間関係の調整をしないといけない、ってところでポキっと行くのかもしれないな〜 とも思ったり。
それだったら、ずーっとテレビの仕事してたらいいのにな、と思いますよ。多分、安定して笑いと数字のとれるバラエティ番組が作れるディレクターとして、重宝され続けるんじゃないかな?(まあ、それも先行きが不安だから見切りつけたんだろうけど、だとしたらこの程度の試練で挫けるの早すぎ)
もう、言うまでもないけど、バラエティ番組ってことは、一般消費者が視聴ターゲット。建築業界はtoB。もちろん、テレビ番組にもtoBを意識した番組はあるけど、そこでミスマッチじゃないかと気づかないのかな?
面接でチヤホヤされていい気になったかもしれないけど、役員さんたちは、そこまで深く考えてなくて、テレビ作れるんやったらYouTubeも作れるやろ、ぐらいの軽いノリだったんでしょう。
そこを元増田は早めに察知して、例えば「私がやってたのは『今夜比べてみました』です。『ガイアの夜明け』みたいな経済番組じゃないんです。御社でバラエティYouTubeやると、最悪企業イメージを毀損するかもしれません。それでもいいんでしょうか?」ぐらい言って、リスクヘッジするべきだったんだよね。まあ、できてたら今こんなことで悩んでないか。
とりあえず、元増田は世間知らなすぎ。テレビ業界の連中って、ほんと、雰囲気で仕事してる。テレビ番組の制作フローって、もう立派に確立されたもんだから、ある種徒弟制度的に教え込まれて、それさえやっておけば大ジョーブ! みたいなところあるのは事実。もちろん大きなヘマさえなければ、視聴率悪かったとしても、次がんばろうね〜ぐらいでテコ入れしたり番組の看板が変わるだけだから、根本的には何も変わらない。
そういうぬる〜い凝り固まったワークフローの中だけで仕事してたら、そりゃ応用力のない1つのことしかできない人間が出来上がってしまうわな〜、と思う。
当初はWeb制作でJavaのパッケージソフトを動かせるようにということだったが、その後、そのパッケージで扱えない内容をPHPで開発することになった。
しかし、そのパッケージはPHPとの共存を前提にしておらず、ライブラリの競合でなかなか動かせなかった。
それほど有名ではないパッケージソフトで資料も少なく、社内に聞いてもあまり回答してもらえなかった。
頑張って動かしたと思ったが、デプロイ時にうまく動かず、障害が発生してしまった。
プログラマ経験初期の頃で自分の経験が不足していたことも大きいが、早めにできないと言って声を上げるべきだった。
全体的にプロジェクトマネジメントが機能しておらず、ただスケジュールを急かされる中で間に合わせようとして失敗した。
上司に相談したかったが、打ち合わせ等でいないことが多かった。その後、すぐに上司は転職してしまった。転職活動もあって、いないことが多かったのかもしれない。
https://blog.tinect.jp/?p=70708
下手で良いからどんどんアウトプットしろという中国のなんか偉い人の格言だ。
「あ〜これ俺が未だに出来てないやつ、、こんな親が居たらもうちょっと楽に生きれたかな」とちょっと親のせいにした自分に気づいて凹んだ。
訳あってweb制作の勉強を始めて、独学でどうにかこうにか学んでポートフォリオサイトを作るところまで来た。
勉強を始めてから自分の完璧主義を改めて自覚し、修正を試みながら取り組んできたつもりだけど、それが中々上手くいかず、仕事に出来たとしてもこなせるのか不安要素になっている。
数をこなさないと速度も質も上がらない。
遅巧拙速を知ってからそれを散々頭に言い聞かせているのに、いざ制作が始まると、出来るだけ良いものにしたいという意識が段々強くなり、自分で立てた締め切りをぶっちぎる。
記事にもあるような「まずは試作品作るくらいの感覚で作って、見せたりフィードバック得ながら整えようぜ」理論、完璧主義の修正に一番必要な視点だと言うのはよく分かる。
デザインを見せたかったらデザインとして作り切ってないといけないと感じるし、コーディングを見せたかったらコーディングとして機能を作り切ってないとフィードバックをもらう意味がないのでは?と思ってしまう。
見る側も本気で作ったものをレビューしたいはずだし、適当なものを出すのは失礼だと感じてしまう。
自分が納得いっていないものを人に見せる、ということへの抵抗がやたら強いという要素もあるのだろう。
数こなしてない自分の納得感なんて大したものじゃないとこれを書いている今は思うけど、作ってる時はそういう客観性も吹っ飛んでしまう。
結局はバランスで、適当にやりすぎても何も残らないと思うし、良いものを作ろうという気持ち自体は
悪いことでは無いとも思う。
ただ、その気持ちがスケジュールという優先順位を無視し始めることが問題。
毎日継続することだけは出来ているだけに、このバランス感の無さが悔しくて悔しくて悔しくて悔しい。
その割には大したアウトプットにはなっていないのだろう。
有能なはてなの皆さん、お知恵をお貸しください。
私は都内でWEB制作しているフリーランスなんだけど、コロナの影響で得意先のほとんどが広告予算や外注費を抑えるようになってしまったため仕事が激減。今年度の売上は4分の1まで下がってしまった。。
とりあえず、年金と健康保険は一部免除してもらえたものの、昨年度は売り上げが良かったこともあって税金がバカ高く、100万円の持続型給付金は、健康保険料、事業税、都民税など税金の支払いだけで全て消えてしまった。それでもまだ都民税1期分が残っている状態だ。
この残りを1月末に入ってくる売上金で支払う予定だったのに、急きょ、得意先の都合で入金を3月末にしてほしいと相談されてしまった。。貯金はそろそろ底をつき始めているし、外注先への支払いもあるのでかなり痛い。。
とりあえず税金の支払い猶予を相談するべく区役所へ電話したら、支払い猶予は期日前に申請しないといけないらしく時すでにおすしだが、3月中旬までなら延滞金がかからず待ってもらえるとのことで少しホッとした。だけど、あてにしていた入金は3月末。今ギリギリの状態で急な支出が発生でもしたら、その都民税をちゃんと支払えるのかだんだん心配になってきた。。何より事業をやっていて手元にお金が無いのは相当リスキーで、にっちもさっちも行かなくなる状況だけは避けたい。借金にはなってしまうけど、厚労省から緊急小口貸付金を頼ることにした。
ん?わたし今、税金を支払うために国から借金しようとしてる..?
この状況おかしくない..?
確かに持続型給付金はかなりありがたかったけど、全て税金の支払いで消えていったし、んでもってこの受給した100万は今年度の収入にカウントされるから、またこれから税金取られるんだよね。来年度も復活していなくて売上が下がれば、税金を払うためにさらに借金するかもしれないってことか。。コロナが落ち着く保障はどこにも無いし、得意先の経済状況だって良くなる気がしない。それを考えると無限に借金と税金に追われる気がして、いったいこれから私は何のために働いていけばいいのだろうと急に虚しくなってきた。。
そもそも税金って昨年度の所得をベースにするから、これまでは税金高いなぁと思いながらも普通に売上は保てていたし支払えてたから問題なかったけど、コロナの影響で売上が下がっているつーのに、事業税とか都民税なんて一切減免してくれず支払えってのは無理ゲーでしょ。。
あと、私なんてまだマシな方で、これで廃業や倒産に追い込まれている人もいるんだろうなと思うと、今回ばかりはさすがに、税金取るなら粗利補償ぐらいはするべきだと思った。でなかったら最低限、税金免除。欧米ではずっと補償がもらえている話とか聞くと心底羨ましいし、日本人で損した気分にすらなってくる。
あぁ、、何か働くの馬鹿らしくなってきた。どうせ景気はよくならないだろうし国は金出さないし。もう働きたくない。。はてなでもこういう状況に近い人っているのかな。。
30代後半。独身。東京に行くには飛行機を使う必要がある田舎出身。
小さい頃から周りになじめず、またのちに持病だったとわかったが朝起きることが苦手で学校にはほぼ遅刻していた。
孤立は徐々に強まり高校にはほとんど行かなくなり中退してしまった。
親がラジコンやパソコンなどに強かったこともあり、高校生になる頃には十分速いインターネット環境があったと思う。
学校に行かないのでヒマすぎて昼間っからネットサーフィン(死語)をしていた。
趣味の合う掲示板などを見つけてカキコしてるうちに自分もホームページを作りたいと考え最初はgeocitiesでページを作ったと思う。
勉強すること自体は嫌いじゃなかったので「とほほ」を見ながらHTMLを手打ちして、アクセス解析を置いたりKentWebを見ながらPerlの掲示板をカスタマイズしたりしていた。
環境の変化にそれなりにウキウキしたものの、朝の弱さは治るどころか悪化し、結局中退してしまった。
この頃はYouTubeやニコ動、mixiなどがあって、引きこもっていてもチャットなどで人と交流することができ、将来への不安を一時忘れることができた。
バイトはしていたが大学をやめたので東京に留まれる理由がなくなってしまい、仕事をしようとしたが中卒な上に決まった時間に会社に行けないので就職は絶望的だった。
ブログ等が登場したためしばらくWeb制作などからは離れていたが、当時はWeb開発エンジニア系の仕事は未経験でもOKな募集をしていることが結構あり、派遣会社にネット応募してプログラマー見習いになった。
それまでの飲食店系のバイトに比べて、デスクワークで時給が高いことに「天国か?」と感動した記憶がある。
最初はそれなりにキツかったが、ここで挫折すると本当に終わりだ(田舎には仕事ない)と覚悟して頑張って早起きして出社した。
が、やはりつらく1年ほどで鬱になって会社に行けなくなった。未経験ではなくなり職歴もできたのでなんとか転職した。
それから何度かの転職をし、今はそれなりに知名度のある会社でプログラマーをすることができている。
コロナの影響で今は完全リモートワークになり、東京にいる理由もなくなったので一時的に実家に戻って仕事をしている。
裁量労働制のため朝早く起きる必要もない。昼頃までボンヤリうたた寝してモソモソと仕事を始め、夕方家族が帰ると一緒に夕食をとっている。
これまでの人生を振り返って、インターネットが存在しなければどうなっていたか、まったく想像できない。それ以外の仕事を続けられる自信がない。
引きこもり時代に誰かとコミュニケーションすることもできなかったと思うし、実家で孤独な子供部屋オジサンになってたか、行き倒れてたかどちらかじゃないかと思う。
今の会社に入ってくる新卒の人たちは大卒・院卒がほとんどだし、大学でコンピュータサイエンスを学んできた人が多く尊敬する。
こちらはたまたま自分のそれぞれのライフステージでその時その時のインターネット環境に依存してきただけの人間だ。
あの頃「とほほ」がなければ、2chやFlash動画がなければ、mixiやニコ動がなければ、Web開発業界が未成熟でなければ、今の仕事はできていないと思う。
インターネットの発達とともに歩んでこれた人生だからこそ、タイミング・世代が合ったからこそ、精神的にも救われ、社会的にも救われた。
コロナが起きても失職することなく、むしろ自由に仕事をすることができている。もっとも苦痛だった「出社」というハードルもなくなり、その運に感謝している。
一方で、それだけインターネットに救われ、インターネットに依存した人生を送ってきたからこそ、インターネットに対して恩返しができるような仕事ができているのかもしれない、と感じる部分もある。