はてなキーワード: phaとは
Pha「別に仕事をするのが苦にならない人は働いたらいいと思う。けれどもそういうのが辛くて貧乏暮らしが苦にならない人は働かなくてもいいと思う。向いている方を選べば?」
ホリエモン 「好きなこと以外しない。好きじゃないことして生きるとか何が楽しいの」
好きなこと以外をすると蕁麻疹が出るならば、たとえお金が稼げなかったとしてもその道を選んだらいいと思う
ただそこで「好きなことをして稼ごう」と標榜するのはちょっと詐欺的だなぁと思う。
もしその「好きなこと」が大勢の人に認められることが必要ならば、時間を売る仕事とは収入の仕組みが全く異なる。一部の人が大きく稼いで、残りのほとんどが食えないロングテールの世界だ。
ホリエモン が「稼ごう」という趣旨のことを言わないのは知っている。
彼のスタンスは「貧乏でも何かしら食べるものとか手に入れられるし、服なんかただ同然でもらえるからプライドを捨てろ!」というところにある。
しかし彼と同じ匂いのする人たち、たとえばイケハヤ、西野などサロン系のオッサンが「仕事をやめて好きなことをして稼ごう」と煽るのは無責任すぎるよなと感じる。
それに乗っかって貧乏生活するのは本人が選ぶ道だから何とも言えないのだけれども。
phaは自分は仕事をしたくないけれども、仕事が苦にならなくて貧乏が辛い人は働けばいいという。
貧乏暮らしだと子どもを持ったり欧米などの海外旅行に行くことは難しいだろうと「できなくなること」を開示する。
仕事を辞める道にどんなイバラが待っていて、そのイバラが苦になりませんか?と聞いてくれる。
「仕事をやめて好きなことで生きろ」系のオッサンらは、なぜ彼らが標榜するアレ以外の価値観があることに触れないのだろうか。
この世には好きじゃない仕事でもお金がもらえるならそこまで苦じゃないという人もいる。
そのお金でちょっといいお寿司を食べたり新しい春服を買ったり、旅行でちょっと贅沢したり、そういう生活が幸せだという人もたくさんいる。
好きじゃない仕事だとしても辞めたら今享受できる幸せを手放すことになる、そんなの嫌だから真面目に働く、これも立派な生き方ではないのか。
もちろんホリエモン系の「好きなことをして生きてく。そのためには貧乏をいとわない」もアリだし、pha系の「働きたくねぇ。寝て暮らしたい」も大いにアリだ。
なぜ彼らはひとこと「いろんな生き方がありだよね」と言わないのか。
って大変じゃない?
依存先を複数用意することを上手くやれるのって、相当な文化資本とか人脈とか、かなりの「持つ者」にしかできないワケで、「持たざる者」にとっては、やっと依存先を発見すると砂漠の中のオアシスをみつけたかのようにそこにドップリ浸かってしまいがちなのでは?わたしですが・・・
ソシャゲ課金しすぎて破産したり、アイドル声優がご報告したらCDを割るファンがいたり(耳が痛いですが)、奥さんに家事や身の回りを依存しきっていて亡くなってしまったらなにも生活できなくなる昭和おじさんとか、ギャンブル依存症、アルコール依存症、いろいろあるけど。
一つの物ごとに大きく依存しすぎていて、そこからハブられてしまって途方に暮れてるんですけど、いま。その依存先の固め方が甘かった。
まだ自分は、反省して長期的な見直しができるような精神状態じゃないんですけども。緊急避難的に休まなきゃならない状態。とてもつかれてる。
phaさんの書いたどこかの本だったか、なんか書いてあったきがする。
「一人で一生できる依存先」「みんなでできる依存先」「一時的で、何年かでなくなる依存先」みたいに、異なる性質毎に分散依存しておくのが堅いよね。みたいな。違ったかな。どこかで聞いたと思う。誰にも壊されないプライベートで堅い精神的依存先を所有したいよね、それは自己肯定感とイコールかも知れないけども。それを持たざる者は多いので、外に依存先を求めるざるを得ず、人生が不安定になる。
たとえばオンラインサービスの類はいつかはサービス終了があるんで、そのつもりでいなきゃダメだ。しかし、たとえば非電源系ゲームだとか、オフラインで動くゲーム機だとかは半永久的に遊べるかもしれない。バブルシステム基板のグラディウスなんかは危ういですが。
諸行無常。
その点、伝統宗教は優秀だよな。少なくとも自分の人生が終わるまでの期間は存在しつづける期待値が高いもの。まあ、まずサービス終了することは無いでしょうね。そういう安心感がある。
自己防衛。当然だよね。VTuberなんか(人生を賭けた精神的依存先として)あてにしちゃダメ。あてにしちゃうから文句が出る。
発電を核、水、火、風、光、などに分散して安定性を増すのと同じで、人生の依存先も複数用意しないと安定しない。
収入源を会社だけじゃなくて副業にも確保するとかね。それができている人はかなり少ないでしょうけれども。
CD-RやDVD-Rも経年劣化で読み出しできなくなる、むしろプレスROMディスクですら危ういんですよね。だから数年毎に物理的に変えながらHDDバックアップ、というほうが堅いでしょうね。"ハード"ディスクだけに。
インターネットで表舞台に立たなくなってから、もうずいぶんと長い年月が経つんですけど、別にインターネットと縁が切れるわけでもなく、今日も俺は教え子に脅迫されるやつの最新巻を電子書籍で購入してその場で読み、サブスクでアルカテイル聞きながらはてなのトップページ見てるわけなんですけど、俺は冬燕ちゃん派です。おっさんになってくると「家でごはんつくって待っててくれる」みたいな部分に脆弱性が発生して絶望する。
いまやもう大文字の「インターネット」なんてものもどこにあるんだかわからんですが、てゆうかそんなものはもうなくて、世間様だけがあるんですけども、そういう意味で、あれまなめさんだったかな「ツイッターはインフラ」って言ってたの、あれめっちゃ本質だったなあという気がします。
めっきり個人ブログの入らなくなったホッテントリ見てて、俺あんまり感傷ってものと縁のない体質なんですけど、俺かつてここにいたんだよなあ、などと思ったら、なんか遠い気分になってしまった。
それで、俺かつてあの場所でなにやってたんだろうな、なんて考えたんですけど、たとえばブログからは絶対に収入を得ない、だから好き勝手に書く、でも好き勝手に書いてるんだから、せめて読んでる人の暇つぶしくらいにはなりますように、くらいのことは当時でも考えてたんですけど、このあいだPhaさんのインタビューだったかな、あれ見てるときに、不意に思ったことがありまして。
俺ひょっとして「親戚に一人はいる妙な大人」をやりたかったんじゃないかな、と。
というのは、俺にはロールモデルってのがいなかったんですよね。自分が将来どうなっていくのかとか、あるいは将来こうなれって言われるとか。ただ「ああいうふうにだけはなりたくない」というのだけが強烈にあった。その「ああいう」ってのは、つまり俺が子供時代を過ごした1980年当時の「大人」というものだったと思います。
現状の俺がどういう物体であるかはさておき、いま、変な大人、けっこうネット上で見かけるんですよね。それは単純に「俺がイメージする大人」とは違うという意味で。
俺はそういうのすごくいいなあと思うんです。
たとえば30とか40越えてなお「変」でありつづけるっていうのは、これはかなりの難事業だと思うんですよ。なぜ変なのかといえば、自分の内部にどうしようもなく世間と折り合いがつかない部分があるからで、その折り合いをつけないまま生きていくためには「どうしようもない部分」以外の折り合いはつけなきゃいけない。それってかなりの知性が必要な作業で、俺が「いいなあ」と思う変な大人は、みなそれを持っているように見える。変と見られることを恐れていないように見える。
それがね、いいなあと思うんですよね。そういう人が呼吸できる場があるということが。文章なりなんなりを発表できる場所があって、それに共感する人たちがいるということが。ひょっとしたら、変な人が変な大人でありつづけていることで、救われているだれかがいるかもしれない。かつて救われたかった子供だった俺は、そういう人たちを見て「いいなあ」と思うのです。
かつてブログやってたころ、よく「自分もたいがいひどいが、あの人にくらべればまだまし」という扱いを受けることがあって、それって俺にとってはたぶんモチベーションのひとつだったんですよね。どうだ、ひどいだろう。しかし安心していい。それでも死なない。なんとかなる。
ほら、書く人ってよく「十代の自分」を相手に書いてるっていうじゃないですか。当時はそんなこと思ってなかったんですけど、あれはやっぱりそういうことだったのかなあ、なんてもうじき50歳の俺は思います。
この話はフィクションで、俺もこんな職場も存在しないし、出てくる人たちも存在しなくて、これを読んでる君もどこにもいないです。
今から5、6年ほど前に、俺はとある大型事務センターで派遣社員をしていた。
就職できなかったというより、仕事が出来ない無能な上に人中りして人間関係が酷く疲れる気質なので、新卒を短期間で蹴って逃げた俺は正社員として働きたくなかった。あんな思いをしながら生きるぐらいなら、いっその事死んだ方がマシだと真剣に思えた。phaや中島義道や斎藤環の本を布団の中でずっと読んでる様な、そんな時期だった。こんな社会不適合者にとって、ひたすらキーバンチャ―をするだけの派遣社員のこの仕事はまさに天職で、社会に出てからはじめて「俺は生きてても良いんだ。」と思えた。仕事帰りに出かける精神的余裕ができたのもこの時期だったと思う。社会不適合者にとって社会は厳しいけれども、俺でも受け入れてくれるぐらいには懐が広い。そう気づけた。
こういう誰でも出来て、なおかつ多くの人力を必要とする楽な仕事には、時給1000円そこらにも関わらず多くの人間が集まる。
主婦、他に働き口のない年配者、皮膚病がある人、身体障害がある人、精神疾患がある人、売れないバンドマン、社会生活を諦めた人。
みんな彼らを奇異な目で見る事も見られる事もない。若い女の子にちょっかいかけて迷惑がられる中年のオヤジもいたが、主婦層が若い女の子が嫌な目に合わないように囲ってオヤジを寄せ付けないように庇うシーンなんかも観た。
生涯非正規雇用でしか働いたことのない年輩者。漫画や映画のサブカルチャーに異様な詳しさを見せる30後半の男性。キャバクラに費やして借金を500万程背負って自己破産した躁鬱の中年。ネトゲ経由で女子高生と付き合って会うたびにセックスに興じてる話を嬉しそうにする20代半ばの日焼けしてない小太りの男。通信大学で勉強をすることだけを生きがいにしてる勉強好きな人。顔色の悪いその日ぐらしのデイトレーダー。リーマンショックで会社が潰れてからずっと派遣社員をしているこっちが心配になるぐらい優しくて人が良い男性。派遣をしながらアートの勉強をしていたが仕事に結びつかずそのまま派遣を続けてる女性。HSP気質が強すぎて大きな音を聞くだけで目に見えて動揺する女性。借金を抱えている上に子宮筋腫の手術を控えていて頭を抱えながらこれからの先を涙ながらに悲観する中年女性。本当にいろんな人がいた。当欠してもお咎めなし、生産性求められず、社交性無くてもウェルカム!この気楽さと中島らものような門戸と懐の広さに「派遣社員の制度は福祉」だとさえ感じた。もちろん突然消える人も多かった。
そんな中、俺が今でも一番印象に残っているのが派遣社員同士の一組のカップルだった。
彼らとは別の部署で直接接点はなかったが、休み時間に休憩室で勉強しているときに向かいに座っていたカップルの会話が耳に入ってきた。
どうやら二人は同棲しているようで、そろそろベランダのミニトマトが食べれそうだの、そんな話をしていた。
穏やかな口調で静かに話す30前半ぐらい思われるスピッツの草野マサムネに似た男性と、化粧一つしてない新興宗教リトルぺブルのクララさんに似た20後半ぐらいの女性だった。
二人とも素朴な感じで、見栄とか恨みとか憎しみとか、そういうものとは無縁のような、表現は悪いが人畜無害そうな、植物の様な、そんな印象を受けた。二人の間には確かに静かな時間が流れていて、誰も傷つけず、誰にも傷つけられないような、そんな二人が纏う空気が俺はとても好きだった。もしも俺の半径内で彼らに危害を加える人間が居たら全力で守りたい。そんな庇護欲にさえ駆られた。
時給千円だと二人の手取りを合わせて月の可処分所得はおおよそ28万円ぐらいになる。交通費は支給されない。二人が広げる手作りのお弁当を眺めながら、一体、どんな部屋に住んでいて、どんな生活をしているんだろう。と好奇心が湧いた。(が、最後まで接点はなかった。)
何も身につかない職場(しいて言うなら相手の眼を見れば躁鬱かどうかがわかるスキルは身についた。薬のせいか病気のせいか理屈はわからないが、躁鬱疾患者の目には特有のギラつきがある)で過ごし20代の貴重な数年を棒に振った俺は、月の半分が休みのような仕事に正社員として採用されたので、天職だと言えた派遣の職場を去った。
派遣の時代に比べれば可処分所得は倍以上になったが、忙しさや疲労度は増した。仕事帰りに出かける気力もなくなってきた。休みの日が多くなったが、寝ている時間も増えた。LINEは新卒時代に消したままだ。外部との連絡手段はgmailのみ。SNS嫌いの俺にはそれが心地よかった。友人の誘いを断ることが多くなり、連絡も途絶えるようになった。
職場にいるキラキラとした女性たちやイケイケでエネルギーに溢れる男性を目にすると、その表裏を帯びた見栄や世間体を感じてしまい、とても息苦しくなってしまう。息がつまりそうになる。ドッと疲れる。どうしても派遣時代の、良くも悪くも何事に対しても無関心な、山野一の漫画の世界をマイルドにした様なあの雰囲気が恋しくなってしまうのだ。
上司に「お前彼女はいるのか?」と聞かれた。素直に「いないです。」と答えた。
「若いうちに良い女をみつけとけ、ここはキレイどころ多いだろ、金持ってる女も多いしな」と上司は笑った。
もしもここで交際相手を見つけるなら俺は自分をひん曲げてでも人格や気質を変えていく必要がある。しかし、自分をひん曲げてまで彼女が欲しいと思える程のエネルギーは無かった。負け惜しみとかではなくて素直に交際相手が欲しいとは思えなかった。静かに寝ていたかった。
そういう時に、いつも派遣時代のあのカップルを思い出してしまう。
昇給もなく、雇用も切られやすい派遣社員同士で生活していくのは将来不安なことだろう。両親からの容認も難しいだろう。友人からの理解も難しいだろう。きっと「将来どうするの?」とか水を差されたりするんだろう。男性は「もっと甲斐性を持て。給料もらえる仕事につけ。非正規とかやべえぞ」と尻を叩かれ、女性は「そんな将来性のない男と一緒にいるの辞めたほうが良いよ先が無いよ」と窘められるのだろう。それでも二人は一緒にいる事を選んだのだ。そこには見栄も、経済的な豊かさも、時間に追われる事も、仕事のストレスもない。二人でのんびりと過ごせる、二人で居られる時間を選んだのだ。今の職場で働き出して、ようやくそれに気づいた。
「だから彼らは幸せ」というのは些か短絡的ではある。そもそも俺には二人のパーソナル的なものは何一つわからない。ひょっとしたら二人とも重度の精神疾患を患っていて共依存の様な関係なのかもしれない。それでも、様々な障害を差し置いても二人で居られる時間を二人で選べた彼らを、俺は心の底から羨ましく感じた。もしかしたら俺は二人の関係がずっとずっと羨ましかったのかもしれない。どれだけ金を詰もうが、どれだけ自分磨きをしようが、二人の様な関係性は簡単に築けるものではない。少なくとも彼らの人生における彼らの関係性はとても豊かな物だと、俺は思う。
今あの二人がどうしてるのかわからないけど、出来るなら今でも二人で幸せに暮らしていて欲しいと、時々ふと思う。上手くすべてが続いていけばいい。
死ぬほどはただ単にとてもの強調というかふざけた感じで使っただけだけど、何か過剰に存在しないものを読み取ったのかな?
もちろんあの類の記事を消費する人を見下している節は隠さずダダ漏らしているからマウントではあるけど、単に暇人と揶揄してマウントしたかった訳ではない。
ゴシップ好きにしてもネットにはもっと良質なゴシップが山程あるだろうに、なぜあんなネットで有名なだけのおじさんたちの話題を選んでしまうのかなっていうのが疑問なんだよ。
まあ俺たちははてブユーザーで、ホッテントリにあったから、ってのが大方の理由だろうけど、それってよく考えるとひどい構造じゃないか。
はてな界隈では見知った人たち、というくだらないムラ意識を高めることでしょーもない事や人でさえもコンテンツにしてしまう。
そういうことに無自覚だと時間を搾取されまくってしまうんじゃないか。そういう意識を持つべきなのかそうでないのか。
つい思いを馳せてしまうんだよね、俺くらいになると。
まあ俺もちらっとは読んだんだよ。phaさんとかもブクマしてるアイコンがあったから。
でもやっぱくだらなかったわ。あてにならないな。
こんなワンサイドから他人を面白おかしく揶揄する文章を読み物として有難がり愉しむのはやっぱり人間としてどうなんだろう。そういう残念な気持ちがあったんだよ。
今、私は一年前くらいに別れた彼氏からネット上で私の名前を「お前」などと呼び悪口を未だに書かれている。多分裏垢もあって、そこでもっと言われているのかもしれない。
そう思うと、気が弱い私は書かれていることが辛く悲しくとても情けない気持ちになった。「そこまで言われるようなことを私はしてしまったのだろうか」とか「こんなこと気が弱いから言われてしまうんだ」とか自分を責めてしまう感情すらわいてくる。しかし、後述するがそんな風に思わなくていいのである。
私だけではなく、悪口を言われている人はたくさんいるだろう。そして、私自身今後も悪口を誰かから言われるのだろう。そのためにも、悪口を言われた時の対処法は持っておこうということでまとめてみる。
悪口を言い続ける人というのは全く関係のないところでストレスをため、それを自分に向けて発信している可能性がある。何かはわからないが、うまくいかないことがあってなぜか私たちにぶつけているのだ。悪口以外でも、なぜこんなことをするんだろうと疑問に思うときは、だいたい相手の心に問題がある。
よっぽどつらいのだ、かわいそうだくらいに思っておこう。
人の悪口をいう時は、自分がその人を嫌いと言うだけでなく、他人にも嫌いになって欲しいという願望がある。自分が嫌いなだけでなく、周りの人間にもその人を嫌いになって欲しいと願うなンて、人間の器がおちょこなのにも、程があるでしょ。(小池一夫)— 小池一夫 (@koikekazuo) 2017年2月13日
私のように、悪口を言われる自分に非があると考えてしまう人がいるだろう。最近読んだpha著しないことリストhttps://www.amazon.co.jp/dp/B01CCYZV78/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1]で「自己責任は50パーセントでいい」とある。詳しいことは省略するが、自分にも責任があるが、生まれ育った環境とかそういう自分にはどうしようもないことも存在するとったことが書かれている。この考えのいいところは、自分にも他人にも優しくなれるところだ。彼がインターネット上で悪口を書かなければやっていけないような原因があるのだろう。そしてそれは彼がどうしようもできないようなことかもしれない。自分においてもそうだ。
何をやっても感情が落ち着かないとき、最後は時間が癒してくれるわ。
でも、ご心配なかれ。
この助っ人は半端なく強力だから、安心してお任せしていいわよ。— ゲイの精神科医Tomy (@PdoctorTomy) 2019年10月5日
今までの著作でマニュアル的に書かれていた「できないことをできないでいいので、できることでサヴァイヴしていきましょ」と言う趣旨ではなく
俺だってできないことには悩んでるんだ、というエッセイだった。
「がんばらない練習」をしているphaのはなし。他の人は応用できないかもしれないけど、俺はこんなふうにやってきたよという。
phaが受け入れられたのは経済の縮小傾向・緊縮財政・自己責任のなかでどれだけ楽をできるかという部分も強いと思うので
一概に評価はできないんだけど、ガツガツやる人も出来ない人も、お互いできることをやれば良いという諦念の話のような気がする。
「生き残れないやつは死ね」ではなく「なんとか楽な感じで生き残る方法を無理せず考えていこう」という方向性の提示。
お気軽に読めるエッセイなので別にphaのファンとかじゃなくてもウルトラ退屈なときに気軽に読んでみるのにはちょうどよいと思った。