はてなキーワード: 2000年代とは
したがって、高齢化が進むにつれ、現役世代の負担は重くなっていく。
今の老人は、日本の高度経済成長を支えてきたんだから、それに報いなくては、という
論調もあると思うけれど、国の借金を現在の価値で数百兆円も増やして、でしょ?
それだけあれば、ジンバブエでも先進国になるんじゃないかなぁ。
高度経済成長を支えた、どころか、将来を食いつぶしてきただけじゃない?
その報いは受けなくていいわけ?
2000年代は1人の老人を4人の現役が支え
2030年には1人の老人を1人の現役が支え・・・みたいな説明図を見たことがある(数字は適当)。
でもそれって、現役の負担がどんなに重くなろうと、老人は20万/月もらう(繰り返すけど数字は適当)みたいな
いわゆる確定給付の考え方だよね?また将来を食いつぶしてない?
んじゃ、確定給付にしてみたらどうよ?
仮に現役世代の負担を3万円/月とする。で、上の計算にある現役:老人比だとすると・・・
1970年代は、1人の老人に30万円/月支給される。
2030年代は、1人の老人に3万円/月支給される。
でもさ、子供を作って増やすような「よのなか」を作ってこなかったんだからしょうがないんじゃない?
まぁいろいろと問題はあると思うよ。
生活保護が増えるだけとか、
人口が増えるのがそもそもいいことなのか、とか。
でも、少なくともいまの現役世代の一部が感じている不公平感は減ると思うよ。
あなたがもちだす「主婦」対象のアンケート(http://anond.hatelabo.jp/20111231161437)が、
それは、この主婦のアンケート結果から見えるように「女性自身の認識」に縛られてませんか? という主張です。
『「共働き」女性の家事・育児の負担(C)の苦労は違う!』という反論/データの提示はもちろんOKですよ。
「男性への期待は過大である」ことを否定していない私に「今の男性が苦しい思いをしているとは思いませんか」と主張するのは無意味ではないですか?
私はあなたと「水掛け論」をしたいわけではないので、あなたが私の質問の主旨を理解されないのであれば、対話は終了です。残念ながら。
これについては構いませんよ。御自由に。 お返事ありがとうございました。
これに関してもすみません。 あなたの期待には答えられそうにありません。
あなたの期待に私が答えられない理由ですが、個人的には
2003年ころ、「結婚したくてもできない男 結婚できてもしない女」みたいな本が出たころ、
対等な状況になった男女が「男性と女性の両方の苦しみを癒すこと」みたいな議論ができるようになるのかな?
と思っていたんですが、実際にはそうはならず、
実際には女性の上昇婚志向は止まらないままでした。フェミニズムはフェアを求めるがフェアではない。
(全ての女性がそうだ、とは思っていませんよ。自分の給与水準を考慮して相手への理想を下げられる女性も、もちろんおります)
ただ女性観点でみると「結婚を利用しての生活レベル上昇」も失いたくないし、当然、仕事も欲しい訳です(私は女性雇用が悪いとは全く思っていませんよ)
全体としてみると、そういった傾向が見られます。
恐らく、フェミニストの方は1970年代、上記の意識を「男性に向けて」思ったのではないでしょうか?
今もそう思っている方も多数いることでしょう。
私は、男女の関係の「建設的な議論」というものが可能なのであれば、
2000年代前半で結婚観に関して、男女で建設的な議論と落としどころができたんだろーな、と思っていましたが、そうはならなかった訳で、
譲歩や交渉が効かない相手であるならば、キチンと反論すべきだと思うようになりました。
私は対話や譲歩といった方法では、もう「男性の苦しみを癒すこと」の実現不可能だと思っているのです。
そうですね。 これは『私が認識、想像するフェミニスト』に対するプロパガンダなのでしょう。
ついでにネットゲリラの古い記事あさっていたら、米沢氏の話がでてきた。
http://shadow-city.blogzine.jp/net/2007/12/post_1352.html
米沢氏のコミケに対する方針というのは徹底していて、とにかく「中身には干渉しない」という姿勢だった。本人は水木しげるマニアで、自分でも漫画を描いたりするんだが、コミケも当初は「創作同人誌」の売買の場として作られたんだが、蓋をあけてみると、1970年代は少女漫画、80年代はアニメ、それからロリコンと、目論見とはまったく違ったモノで占領されてしまう。それでもイヤな顔しないで黙々と参加サークルのために開催し続けてきた。
もう語り尽くされていることではあるだろうけど、こうした場をつくるということ(そのために多大なリスクを負いチャレンジするということ)、この倫理観、もう大分議論は収束/終息したのだろうけど、Pixivのナントカさんもよく考えた方がいいんじゃないかなー。
町田ひらく、うさくんといった、ロリコン雑誌から出てきた(あるいは育てられた)漫画家がのびてきたこともそうだし、あるいは青林工芸社やコミック・ビームも90年代のアングラ感をまるでかんじさせず2000年代にはいって目覚ましい成果をあげた。人が何かを表現するそのエネルギーに場を与えるということは、札束に書かれた数字より富んだ意味があると僕は思うけどな。
定義としてはこんな感じ。
行動がリアルにフィードバックされるならHNでも実名界の住人(例えばpixivの絵師やニコニコの動画投稿者)で、実名でも中身が伴わず炎上でアクセスを稼ぐしか能がない人間は匿名界の住人。
既になっているという突っ込みもありそうだけど、それ以上に「日本のネットでは実名なんて流行らない」という声が大きいと思う。
匿名界からは既に自ら価値ある情報を作る能力のある人が失せつつある(自ら文章を書くテキストサイトの血脈が絶え、2chまとめブログが隆盛していることがその最もたる証)。
実名界からネタを引っ張り、他人の作り上げたものを無断転載したり、記事を悪意的に捻じ曲げて拡散して小銭稼ぎする程度しかできていない今、いつか実名界側から拒絶される日が来ると思う。
実名ネット社会が可視化され、非実名ネット社会、匿名界全てが2ちゃんねると同等の、アングラで低湿なコミュニティだとみなされる日が。
2000年代のテキストサイトはまだ自ら価値ある文章を作り上げていたために、その後ライターへと転進する道もあったが、今の匿名界ではいくら努力して上り詰めてもPV乞食以上のものにはなれなさそう。
ネットがネットとして魅力があった時代が終わり、リアルのサブセットに過ぎなくなったとき、誇れるリアルを持てない人間は、他人の足を引っ張ることに生き甲斐を見出すスラム住人に成り下がるような気がする。
同じ人が両方に属しててもいいだろ。
説明不足だったけど、実名界と匿名界とは住人が分かれるわけじゃなくて、「自己の価値を高める場」と「掃き溜め」とが完全に分断すること。
twitterでは価値のあるものを作り、ポジティブな意見に評価する一方で、2chでは何も作り出さず、無断転載だけして、ネガティブに貶すという使い分けは今でもあると思う。これが加速するとどうなるか?
実名界はより価値のある場になり、匿名界はさらに価値のない場所になっていく。
排除なんてするまでもなく、無価値で見向きもされなくなると思う。
両方に属せる人はそれでも救われる。リアルに拠り所がない人間は、無価値化した掃き溜めで生きていくしかないんじゃないだろうか。10年後にはそういう時代が来ると思う。
お前の言う「実名」と過去に主にマスメディア出身者がネットで主張していた「実名」ってのは全く違うぞ。
お前の主張では名前はweb上での言動、表現物に紐付ける識別子だが
過去主張された「実名」はマスメディアで認知されている通称は認めるが原則は戸籍上の名前って意味だぞ。
雑多に考えごとをアウトプットしたせいで突っ込みどころ満載で悪いけど、たしかに実名界匿名界って区分はあまりよくなかった。
ただ既に直接「戸籍名」は使わなくても、「識別子」を「戸籍名」と紐付けしている(そして晒されてしまう)人は増えてる。
言いたかったのは「匿名の人間に人生を暴かれる恐怖があるから名前を隠そう」という今の常識が終わり、「実名を出して活動した方がメリットがある」というパラダイムシフトが起きたら…という話。
「識別子」で活動してる人間はそこに経験値が蓄積されるし、もともと実名社会で影響力を持っている人間は匿名社会でも通用するけど、匿名社会だけで生きた人間はずっとLv1のままだよね、っていう。
まとめブログが隆盛って言っても、元の文章を書いている人は確かに存在しているわけよ。しかも匿名で。「匿名界からは既に自ら価値ある情報を作る能力のある人が失せつつある」はどうだろう。
まとめブログが転載している元の情報のうち、価値のあるものはほとんどが既に「識別子」で公開されてるものだと思う。
ニュース記事やpixiv、雑誌を無断転載したネタ、twitterの揉め事、海外の優れた考察なんかに対して、「匿名」の住人があれこれ突っ込んでいるだけ。
既に「匿名」にて意見を表明したり、作品を発表するメリットはない。影響力の発揮という点でもtwitterの拡散能力などに劣っていくだろうし、何よりネガティブだったり、多ID工作で誘導できたり問題が多すぎる。
ただその問題の多さは、雑誌やpixivの無断転載を「2chからの転載」とソースロンダリングしたり、罵倒や個人攻撃を「匿名社会の世論」とすることで免責するメリットでもあり、そのためだけに活用されていると俺は思っている。
自分の観測領域だけでモノ語りすぎじゃねえの?2ちゃんねらーにだってモノ作り出す奴もいるし、Twitterだって引用なのに自分の発言のごとくツイートしてふぉぼられるような奴もいるし。
狭い観測範囲で語ってるのは否定しないが、2chにもモノを作る人はいないと思っていない。大体、匿名ダイアリーに書くのが好きな人間にその感情が理解できないわけがない。
ただやがて減少傾向になっていくと思う。
理由は2点。まず人は批評に耐えられるほど強くあれない。まして匿名で罵詈雑言を受けてしまうと創作意欲が失せてしまうだろうし、調子に乗った「お客様」発言を咎める人間もいない。
「修正が遅いから、他の誰かが互換ソフトを作ってもいい」そんな何気ない一言がMMDを開発終了に向かわせたように。
もう1点。マイノリティを排除したがる今の2chの風潮。大多数が「嫌い」「オワコン」だと主張したモノに対しては言わせておくしかない。擁護すると「社員だ」「工作だ」などとレッテルを貼られるのがオチだ。
「自分の好きなモノを貶す人間は許せない」ならまだ分かるが、「自分の嫌いなモノを持ち上げる人間も許せない」という人間が非常に増えたんじゃないかな(これも観測範囲の問題だと言われそうだが)。
粘着質な少数に嫌われてしまうと何をやっても叩かれてしまうフィールドで作品を発表する価値はないし、作品を発表する人たちは現実側に軸足を置く人間のみ相手にするようになっていくと思う。
そういう例として、非モテタイムズ暴言事件におけるソラノートや、キメこな騒動におけるカオスラウンジがある。彼らは匿名側の非難を受け続けているが、それを無視して現実側で活動を続けようとしている。
そしてその結果、どうなるかはまだ分からない。ただ、俺には何も―匿名の住人が渇望するような因果応報は―起こらないんじゃないかという予感がある。
個人的にこの2つの事件が、匿名側の影響力が失墜し、実名側の発言力こそがモノを言うようになる第一歩なんじゃないかと思っている。(もっと以前からあったのかもしれない。炎上には大して興味がないので引き出しがない)
やがて現実に影響を及ぼせなくなった匿名側はより弱い人間を狙い、学生のショボい罪を粗探しし糾弾し、個人情報を祭り上げて鬱憤を晴らすような集団になるんじゃないかなとも。
いやあ、もうインターネットが開発されてから十何年も議論されてることなんだが、twitter上の距離感が面倒くさい。
個人が自分のサイト持ち始めた2000年代前半もそうだったけど、公開・非公開の設定で公開ってしたんだったら、インターネットにつながる誰からでも見られうるって自覚を持って行動して欲しい。
アットマーク外してリプライ飛ばないようにしてても、自分のアカウント名で検索かけりゃあ一発で出るわけよ。それで自分に対する疑問へ返事したらなんでダメかなあ。
たぶんこの辺りの事情ははてブ関連の問題と非常に似てるんだと思う。はてブほとんど使わないから詳しくは知らないけど。
とにかく、特に煽ってるわけでも避難してるわけでもなく、単に挙げられた疑問へ答えただけでなんでそんな拒絶反応示してるの?そんな参照してほしくなかったらなんでtwitter設定非公開にしないの?。
そもそも突っ込まれて遁走するぐらいだったらはじめから発言しなけりゃいいだろうに。だからこそ@外したんだとは思うけど、はてな日記からつぶやいたら本人へメールが行くわけで、まあそんなことを知らなくとも本人から参照される可能性ぐらい常に想定して発言しろよ。
本当、どうしようもない。
じゃあ宿題。
少なくとも2000年代後半のアニメ史において、外せないのがこの2作品だと思いますが(他にも良い作品はたくさんあるが)、
いつこの2作品が大ヒットすることが確定したとみなされ、2000年代後半の代表作の2つとみなされるようになったのかが気になります。
自分としては、
ハルヒに関しては、VIPでEDを1位にしようという運動がおこったのがハルヒが注目されたきっかけであり、
そこからyoutubeの普及と絡まって、ネットでの騒ぎに押し込まれる形でブーム化、学園祭の演奏シーンでほぼ確実に
DVDがバカ売れることが確定し、記録的なDVD売上、キャラソンの異常な売れ方によって2000年代後半の代表作とみなされるようになった
化物語に関しては、まよいマイマイのOPが化物語が注目されたきっかけであり、撫子OPのニコニコ動画での大ブームが一押し
となったのは覚えていますが、DVD・BDの売上が大記録だと分かってから初めて、2000年代後半の代表作とみなされるようになった
という記憶があります(とはいえ放送中でも、やたら誰彼かまわずシャフトシャフト言うだすようになった記憶がある)。
もちろんハルヒ・化物語とも原作が大人気であり、信者が多かったのは認めますが、それを飛び越えたところにあの売上があったはずです。
京アニ、シャフト=新房ブランドは既に存在していましたが、今のようなブランド力ではなく、どちらもこの2作品によって飛躍した感があります。
http://www.nytimes.com/2011/01/28/world/asia/28generation.html
敬称略。
東京 ― ホリエケンイチは有能な自動車エンジニアだった。日本ではこのような若い人材が、ハングリー精神あふれるライバルの中国や韓国と渡り合い、現在の地位を保つために必要とされている。30代前半のとき、彼は主要自動車会社に勤めており、先進的バイオ燃料のデザインによって評価を得ていた。
しかし、多くの日本人のように、彼は非正規労働者だった。時限付き(temporary)契約のもとで、雇用保障もほとんど無く、そのほとんどが40代後半である正規労働者に比べて半分の給料しかもらっていなかった。彼は10年以上正規労働者になろうと努力したが、ついに辞めた。時限付き契約だけではなく、日本そのものを、である。
ホリエは語る。「日本の会社は年老いた労働者を守るために若い世代を浪費している。日本では私の道は閉ざされている。台湾では私の履歴書は完璧だと言われた」
経済大国としての地位が揺らぐ中、日本は努めて、減ってゆく若い世代の生産性と起業精神を解放しなければならない。しかし日本はまさに正反対を行っているように見える。その結果、成長は衰え、年金問題を増加させ、この木曜日にスタンダード&プアーズが日本国債の格付けを下げた主な理由の一つとなった。
"The Truth of Generational Inequities" (訳注・『世代間格差ってなんだ』 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4569790216)の共著者である城繁幸(36)(訳注・http://blog.goo.ne.jp/jyoshige/)は語る。「若い世代の間では、どれだけ自分たちが頑張ろうとも、前に進むことはできないという意識がある。どの道も閉鎖され、頭を壁にぶつけているようなものだ」
年老いてゆく人口が日本の経済を停滞させ、既得権益を貪り、既に階層的な社会構造をより強固に、保守的にしていると、若い人々や専門家は警告する。その結果、日本は座して何もせず、成熟した経済が育てるべき新しい製品や会社や産業を実際に作っていかなければいけない時に若者を過小評価している。
ソニーやトヨタやホンダを作った国は、ここ数十年、若い起業家や社会のゲームを変えるような会社(Google や Apple のような ― どちらも20代が作った会社だ)を育てることに失敗してきている。
若者の雇用状況は、日本が二流であることを強調している。日本が何十年も停滞した結果、すべての世代で非正規雇用は増えてきているが、若い世代は一番痛くこれを食らっている。
昨年は15歳から24歳までの労働人口のうち、45%が非正規雇用者だった。この数字は1988年には17.2%であった。さらに、より上の年代の非正規雇用者率と比べても2倍近くの数字である。古い世代が古い方法に執拗に固執しているのだ。日本のメディアは日本の第二就職氷河期が深刻かを伝えている。2010年10月時点で、卒業生のうちたったの56.7%しか内定を得ていない。これは過去最低である。
世代間格差について研究してきた秋田大学の島澤諭教授は語る。「日本は世界で一番世代間格差のある国だ。日本が活力を失ったのは、古い世代が道を譲り、新しい世代にチャレンジして成功する機会を与えないからだ」
多くの国家が高齢化社会にあるが、日本の人口の惨状は本当に酷い。2055年までに40%の人口が65歳以上になるだろうと予想されている。いくつかの結果はずっと予想されていたことだ。例えばデフレである。多くの人が定年し、貯金で生活するようになると、出費を抑え、日本の国内消費の沈滞をさらに強くする。ところが、あまり予想されてこなかった効果として世代間格差の現れがある。
至る所で格差が格差を生んでいる。ホリエが指摘したように、会社が若い労働者を押しなべて低賃金で先の見えない仕事をさせ、結果的に古い世代にラクな仕事を残しておくためのコストを負わせている。またある人が言うところでは、年金制度が古い世代を優遇するようにねじれているため多くの若い労働者は支払いを拒否したり、アメリカ人にも馴染みのある "Silver democracy" (教育よりも高齢者に遥かにお金をかけること)が起こったり、時代遅れの雇用制度が disenfranchised (訳注・直訳では参政権を奪われたという意味らしいが、ここでは特権に預かれないという意味か?)な若いロストジェネレーションを生み出してきている。
明治大学4年のイノウエナギサは、仕事なしで卒業して給料の高い仕事に就ける機会を永久に失うよりも、大学で5年目を過ごすことを考えているという。これはつまり、日本の会社が、日本の企業文化により順応するとされている新卒ばかりに安定した正規の仕事を与えるからである。
皮肉なことに、イノウエは大企業で働きたいわけではなく、ただ NGO の環境団体に入りたいだけなのだ。しかしそれをすることすら彼女に正規雇用への道を閉ざすのだという。
「私はただ人と違ったことをすることができる自由が欲しいだけなのです。しかし、人と違ったことをするために支払うコストが大きすぎるのです」
多くの専門家は、厳しい経済情勢によるプレッシャーが日本の "one-size-fits-all" な(型にはまったことしか許さない)雇用システムに加わったと指摘する。明治大学のオンライン調査によると、18歳から22歳の若者のうち3分の2が、リスクを負ったりチャレンジしたりしたくないと感じている。そのかわり、彼らは内向的で、大志を持たずに生きることに満足するか、あるいは少なくとも諦めているという。
東京大学教育学部の本田由紀は語る。「古いシステムと若い世代にはミスマッチがある。多くの若い日本人が、彼らの親の世代のような仕事一辺倒の生活スタイルを望んでいない。しかし彼らには選択肢がないのだ」
民衆の怒りに反応して、厚生労働省は昨年の終わりに、雇用者に、卒業から3年までを新卒とみなすように通達した。さらに、新卒を採用した会社は最高で180万円の奨励金を出すことにした。
しかしながら、企業精神の不足ほど、若い企業にとっての障害、ひいては日本の経済の悲惨さを顕著に表しているものはないだろう。(訳注・id:oga_jp さんの訳、「恐らく起業の不全こそが、若年事業家の直面する最もあからさまな障壁であり、日本経済の行く末を悲惨にするものである」を参考にしました。ありがとう)
2009年に日本では株式公開(IPO)が19しか無かった。アメリカでは66だ。さらに、通産省によると、日本の起業家のほとんどが高齢である。2002年には日本の起業家のうち、20代は9.1%しかいなかった。アメリカでは25%だ。
日本の起業家で、自身の経験を元に本を書いた板倉雄一郎(訳注・http://twitter.com/yuichiroitakura)は語る。「日本はゼロサムゲームになってしまった。既得権益を享受する層は、新参者は彼らを狙う盗人であると恐れ、ビジネスをしようとはしないのだ」
多くの日本の経済学者や政策立案者(訳注・policymaker; 政治家ではない)は、起業精神を育てるのが日本の経済の病気への特効薬だと、ずっと主張してきた。これは歴史的前例に基づいていることでもある。日本は戦後の灰の中から、若い起業家が大胆なスタートアップを生み出し、世界を席巻したのだ。
しかし、多くの人々は、日本の経済はその全盛期から骨化してしまい、革新的な会社がもし生まれたとしてもほとんどないことだという。それはなぜかというと、多くの人々は日本で最も知られたインターネットの大君、堀江貴文の悲運を挙げる。
2000年代の初めに彼が突如登場したとき、彼は最も日本的でない人物だった。茶目っ気のある30代の前半で、会議室にTシャツを着てきて、図々しくルールを破り敵対的買収を始め、再び活性化してきつつあった日本の経済がついに飛び跳ねようとしていた時勢に乗った。彼は5年前に、古典的な天罰のように証券詐欺で逮捕され、メディアは彼を不快でやりたい放題のアメリカ式資本主義の象徴として悪者扱いした。
2007年に裁判所は、彼を会社の記録を改竄したとして有罪にした(まだ上告中であるが)。しかし、何人もの若い日本人が、取材中に若い世代の倦怠感を説明するときに堀江を取り上げるのである。彼らにとっては、堀江は別のものを象徴しているのだ(訳注・前段落の「資本主義の象徴」対して)。つまり、保守的な体制に潰された若きチャレンジャーだと。彼らに言わせると、堀江の逮捕は、「ボートを揺らすな」という若い人への警告であったという。
37歳になった堀江はメールで語った。「あれは、伝統が作り上げた秩序に静かに従っていたほうがいいというメッセージだったのだ」
He remains for many a popular, if almost subversive figure in Japan, where he is once again making waves by unrepentantly battling the charges in court, instead of meekly accepting the judgment, as do most of those arrested. (訳注・「判決を素直に受け入れるのではなく、懲りずに戦い続け、もう一度波を起こそうとする破壊分子のような人物としてまだ有名である」?)彼には総理大臣を超える50万人以上の Twitter のフォロワーがいて、人々をシステムに立ち向かうように促している。
25歳の大学院生にして、日本人が希望を失う中で幸せであり続けるための方法についての本(訳注・『希望難民ご一行様-ピースボートと「承認の共同体」幻想』 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4334035787)を書いた古市憲寿(訳注・http://twitter.com/poe1985)は語る。「堀江は模範的な人物に今までで一番近い存在だ。彼は古い日本と新しい日本のせめぎ合いを代表している。」
古市や他の多くの日本人は、若い人は怒りや抗議を見せないという。そのかわり、彼らは自分を責めてドロップアウトしたり、親の世代より遥かに制限された展望の中で満足感を見つけようと、進んで諦める道を選んだりするという。
このような空気の中、若い政治家たちは同じ世代を政治に感心を持たせるのは大変だという。
高橋亮平(訳注・http://twitter.com/ryohey7654)は東京都市川市の元市議会議員で、他の若い政治家と共にワカモノ・マニフェスト(訳注・http://www.youthpolicy.jp/)の活動に加わった。これは若い日本人が自分たちの主張を表明するためのものだ。
2009年の終わりに彼は、市が若い家族や教育に投資を移すプラットフォームを掲げて市長に立候補した。しかし若い人はほとんど投票に関心を示さなかったので、市の最も有力な投票ブロックである退職者や建設業などの50代や60代に牛耳られた層に迎合するしかなかった。
高橋は語る。「時間が経つと、それだけで古い世代が力を持ってしまう。彼らは何もせずとも増えていくのだ」
彼はその選挙に負けた。彼は、日本が "silver democracy" つまり多くの予算が高齢者のために使われる社会、になってきているという痛いレッスンだったという。
専門家は、不足していく予算をどんどん切っていくことは、日本の若者が、現在の退職者が受けてきた利益を最早絶対に享受できないということを意味するという。試算によると、今日生まれた子供は、既に退職した人に比べて、年金、健康保険、その他の政府の支出を120万ドルも下回る額しか受け取れないことになる。年金だけを見てもこれは何万ドルにも何十万ドルにもなる。
結果として、日本の若者は集団でこのプログラムから逃げ出している。35歳以下の若者の半数が、年金を払っていないのだ。たとえこれが将来、彼らが年金をまったく受け取れないということを意味するものだとしても。高橋は言う。「フランスでは暴動が起きる。日本では単純に、払わないだけだ」
もしくは、ドロップアウトするだけだ。日本の最初のロストジェネレーションが10年前にしたように。
キョウコは、彼女の就職の見通しがこれ以上悪くなるのを避けるため、苗字を名乗るのを避けた。ほぼ10年前、早稲田大学の3年生だったとき、彼女は戦後の日本で踏みならされた、日本のトップ起業に入る道を進むつもりだった。彼女は、日本の起業が好む勤勉で服従的な人物に見えるように、熱心だが主張しすぎないように努めた。
10社ほど面接をウケた後で、彼女は軽いノイローゼになり、辞めることにした。以前は憧れた父親のような会社の戦士にはなりたくないのだと気付いたのだという。
卒業するまでに仕事を見つけることが出来なかった彼女は、フリーターという階層に入るほかなかった。低賃金な短期の非正規労働に甘んじる底辺層の若者のことである。2004年に卒業してから彼女は6つ仕事をしたが、そのどれも、失業保険も、年金も、毎月の給料も15万円以上払うことはなかった。
29歳のキョウコは語る。「これは私がなりたかったものではなかったと気付いた。でも、自分自身でいたことの代償がこんなに大きいのは何故なのだろうか?」
素直に面白かったです。僕は仕事でソーシャルアプリを作ったり、twitter関連サービス作ったりしています。この手の映画だとよく技術的な表現に違和感あったり明らかにおかしな用語の使い方だったりということがあるけど、その点では大丈夫でした。技術者も安心して集中して見れます。
全体の雰囲気は青春モノやロードムービーのような感じで観てました。
2000年代前半をネットベンチャーで過ごした自分としましては、会社内のごたごた、急成長の様子、株を増やすや減らすや、解任するやとか、ともてリアルに感じました。
2000年代前半に猛威を奮ったこのムーブメントは、いったいどこから来てどこへ消えてしまったんだろう。
思い返せば、2002年に公開された狂気の桜が、当時の空気感をかなり誇張しながらもうまく表現していた。
この頃をピークとして、ナショナリストとしてポップアイコン化された窪塚洋介は2004年にダイブ。2006年~2008年ぐらいにはもうプチ右翼ブームは過ぎていたと思う。
そろそろアラサーな自分だがこのエントリを読んでひさびさに時間の流れを感じた。
10年前にHIPHOPという呪いにかけられた俺としてはなかなかくるものがあった。
そういえば窪塚君今どうしてんだろと思ったらこんな感じ
http://www.youtube.com/watch?v=wiadHo2ltYw
自由すぎるwwww
トラバがいろいろな方向に盛り上がってておもしろいんだけど、
ちょっと書いておきたいこと。
関西人なら分かるよな?と(多分)自分と同じ関西人に対して同意を求めただけで、関東人と比較してる部分はどこにもない
自分の適当な記憶では、2000年代前半にモンペ的なDQNな大人がお客様な態度でクレームつけてる番組がよく見た気がする。それが社会問題の一つとして浮上しててワイドショーでは、お客様扱いしすぎる店員たちも悪いんですよ!みたいな話をしてた気がする。どうでもいいか。
これはそれぞれ好きにしたらいいと思う。東西のマナーについてもそれぞれ感性が違うので異文化交流とでも思えばいいんじゃないですかね?強制はよくないと思う。あと目を引いたのが叔父が~の人の話。母親の「ありがとうは上から目線」ってのにびっくり。
店員と客という立場ではあれ、人と人が会話?してるのに「そういうのみっともない」とか言っちゃうやつだけは糞。
で、この討論で増田や、見た人たちが自分のやり方をやっぱりいいと思ったり、あっちもありかなと考えるのは有益。
おもしろい内容でした。
そうやってきちんとした態度で質問すれば答えてやろうという気にもなる。
半角英数が望ましいのは、コンピュータの世界の伝統だよ。専門的な話になるから詳しくは説明しないが、コンピュータの世界では全角は迷惑千万なわけ。
だからネット黎明期の重度なオタクばっかがパソコン通信とかしてた時代やテレホーダイでダイアルアップ接続してた時代とか、
要は1990年代から2000年代の頭にかけての時代には、「全角より半角を」というのが当たり前のルールだった。
その流れから、ネットでは全角を見るとあまり快く思わない人が多いんだ。「全角厨」という言葉はそういうことね。
ところが、いまはライト層がネットに流れ込んできたので、お前みたいにそういう歴史的事情を知らない人間が多いんだ。
事情は知らなくても、空気を読めば全角が叩かれてることくらい分かるだろう?
なのに、それでも全角を使い続けるのは、要するに空気の読めないDQNということなんだよ。分かったかな?
礼儀には必ず合理的な理由はあるのでそういうのを理解することは大切だとは思う。