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2012-02-04

http://anond.hatelabo.jp/20120204004152

節分って4日じゃなかったっけ??と思ったら3日だった。馬鹿過ぎる。



と思ったけどぐぐったらWikipedia曰く

節分の日付は現在は毎年2月3日であるが、これは1985年から2024年ごろまでに限ったことであり、常にそうではない。

1984年までは、4年に1度の閏年2月4日だった。2025年から2021年からになる可能性あり)は閏年の翌年に2月2日になる。

へー。

2012-01-19

フランダースの犬にまつわる救われない話

オチが救われない話」というまとめサイトを読んでいたら、こんな救われない話を知った。



フランダースの犬』は、アニメとして日本人によく知られている。

しかヨーロッパではほとんど知られていなかった。

もとは1872年発表のイギリス童話だが、原作者女性ベルギー風俗イギリス人の目で偏見的に描いている。

なにしろ、帝国同士の争いが激しかった19世紀。

イギリス人の心の奥底には、ヨーロッパに対するかすかな敵意が潜んでいる。

「この地方は荒れ果て、人々は不親切で、しかも愛すべき犬を何代にもわたって、激しい労働に不当にこき使っている」

こんなことをずらずらと書いているのだ。

ベルギーを始めとするヨーロッパで人気が出るわけがない。

その上、本家イギリスでは、運命に抗わず教会で死ぬという内容がアングロ・サクソン的に受け付けられなかったようだ。

結局欧米では、誰も見向きもしなくなったというわけだ。



ところが日本では、1975年に感動的なアニメが作られたために爆発的な人気を獲得する。

80年代から海外旅行ブームでは、ベルギーフランドル地方観光が定番コースの一つとなったほど。



もっとも、ルーベンスの絵を観ることはできても、『フランダースの犬』にまつわるものがそこには何一つない。

地元人間すら誰も知らないのだから当然か。

日本人がガッカリして帰国するのが、当時のツアーのお決まりパターンだったとか。



ところが、1982年、大きな転機がやってくる。

ベルギーアントワープ観光局で働いていたヤン・コルテールという男性が、運命を変えた。

日本人観光客からフランダースの犬』という物語存在を聞いたことが発端である

生真面目な性格で、面白みのない変わり者と思われていた彼には浮いた噂もなく、恋人はおらず、友達も少なかった。

地元を愛し、それが故に地元観光局に勤めた彼。

そんなオタク青年の彼は、地元に関係する噂話を聞き逃さなかった。



だが日本人観光客に詳しいことを尋ねても、

アニメをやってたんだけど、もしかしたら原作があったのかもなぁ」

というだけで『フランダースの犬』について、はっきりとしたことが分からない。

今と違ってインターネットがない時代

日本語情報はそう簡単に手に入らない。

街の誰に尋ねても、何もわからなかった。



しかし彼はあきらめない。

「この地方舞台にしているのなら、図書館にヒントがあるかもしれない」

そう考えた彼は、地元郷土史などを調べ始める。

図書館であらゆる資料をあさり、……そしてとうとう、60年の間、二、三度しか借りられていなかった原作を見つけたのだ。

欣喜雀躍たる、彼の喜びが想像できるだろう。



……だが、読み終えた彼はがっかりした。

感動するほどの物語ではないからだった。

実は原作には、最後ネロ天使に救われて天国へと召される……というシーンはない。

ただただ暗いだけの作品なのだ

原作者は夫に捨てられた後、犬の保護に尽力していたが周囲に相手にされなくなり、晩年は30匹の犬に見守られて亡くなっていた。

そんな原作者厭世観が反映された作品でしかなかった。



(この原作日本人の感動との間の乖離は、いったいなんなのだろう?)

日本人からアニメの素晴らしさを聞いていた。

しかしたら、それがヒントになるのかも?

彼は、日本語を学び、日本人観光客の友だちを作り、帰国した彼らからアニメビデオ童話集を取り寄せてみた。

その結果……感動したのだった。

彼は、今のジャパニメーションギークの先駆けだったのだろう。


情熱は、いよいよ膨らむ。

一年半かけて調査を行ない、原作舞台が近くのホボケン村だと突き止めた。

原作に描かれた運河がスケルト川だったことも分かった。

ついには風車の跡も発見する。



変わり者のコルテールのその姿は、周囲から嘲笑を受けていた。

当時の日本なんて、極東の島国で、ドイツに加担して負けた挙句に少々景気を持ち直しただけの国、というイメージだったから、仕方ないだろう。

だが、彼の熱意は次第に周囲を突き動かしはじめた。



ルーベンス以外にこれといって観光資源のないこの街に、もう一つの観光シンボルが生まれるかも知れない。

そういった周囲の思惑も重なり、ついには1985年ネロパトラッシュの小さな像が、ホボケ情報センターの前に立てられた。

除幕式にはアントワープ州知事市長、在ベルギー日本大使らも参席、盛大なパーティーが開かれたという。



風車観光客向けに作り直された。

ネロパトラッシュが共に埋められた(ことになっている)街の教会は、観光コースとなった。

ルーベンスの作品を観るためにアントワープを訪れていた日本人観光客がホボケン村にも立ち寄るようになった。

その地域観光収入でおおいにうるおい、観光局勤めの彼の名声も次第に上がった。

フランダースの犬ベルギーで放送され、80%近い視聴率をとったという。


ヤン・コルテールは『フランダースの犬研究家として知られるようになる。

その地域では日本通として知られ、日本との橋渡し役としても活躍するようになった。

研究のために日本へ何十回となく訪れるようになり、大の親日家となった彼は、日本人女性石井ヨシエと結婚した。

彼は妻と共に、今でも地元でつつましやかに幸せ暮らしている。









……はずだった。

2008年、彼が妻を殺害した容疑で逮捕されるまでは。



なぜなのか?

コルテールが日本人の妻をもらい、日本ベルギーの架け橋として活躍していることまでは、いろいろなサイトで詳しく取り上げられていた。

ところが、彼が犯した殺人についての続報をいくら調べても、日本語サイトでは何一つその理由が分からないのだ。

英語サイトで調べても、アメリカ人などが『フランダースの犬』に関心がないためか、まったくヒットしない。




仕方ないのでグーグル先生の力を借りて、オランダ語サイト日本語に訳したり英語に訳したりしながら調べた。

その結果、驚くべきことがわかった。

コルテールが妻を殺したのは、妻の浮気のせいだった。



コルテールとヨシエが結婚して数年は、大変幸せそうだったそうだ。

だが、次第にヨシエは旦那の拘束がうとましくなってきたらしい。

彼女帰宅する時には、職場にまで迎えに来る。

もっと自由にさせて欲しい、自由にいろいろな場所に行きたい、というのがヨシエの欲求だったそうだが、コルテールはそれを許さない。



異国の地にやってきて、海外しか味わえない自由を満喫したい日本人女性

彼女を大切にするあまりに、彼女の全てを管理したいと願うベルギー男性

だんだんと、二人の間には溝が生まれるようになった。

二人の間はギクシャクし始める。



その時に彼女の前に現れたのが、口が堅いという噂のピエールだった。

「夫とは長いこと話してないの。夫は頑固でさ」

秘密を守れるピエールへの心安さからか、ヨシエは彼へ愚痴をこぼすようになった。

「彼は変わり者だからね。我慢さ」

愚痴を聞いてもらううちに、ヨシエがピエールに親しみを感じ、やがて二人が愛しあうようになるまでに時間はかからなかった。

ピエールの口は固かったが、ヨシエの下の口はゆるかった。



ところが二人の仲は、コルテールに最悪の形でばれてしまう。

二人がバスルームで愛し合っているところを、コルテールが発見してしまったのだ。

口がゆるい上に、脇も甘かったというわけだ。



だが、そのときヨシエは豹変した。

日本女性のおしとやかさはどこへやら、情事発見したコルテールを怒鳴りつけたという。

「あんたさぁ、男としての魅力がないんだよ!!」

彼女の口は、悪かった。



その時に、コルテールは、彼女のことを深く深く愛していたことに改めて気づく。

何があろうと、彼女の気持ちが戻ってくればそれでいい、というのがコルテールの偽らざる気持ちだった。

彼は、離婚を迫るヨシエに対して、仲を修復したいと取りすがった。

しかし、彼と別れてピエールと一緒になりたい、というヨシエの気持ちは変わらない。



コルテールは、一つの提案をする。

それは、最後のお願いとして、彼女日本を一緒に旅行することだった。

二人が出会った日本で過ごせば、彼女の気持ちも戻ると思ったからだ。

……これ、男にありがち。

男の浮気は「名前をつけて保存」だが、女の浮気は「上書きして保存」

他の男に気持ちが移った以上、振り向くわけなんてないのだ。



日本でヨシエは、両親にコルテールを引きあわせたという(この辺りは女性特有の図太さといえよう)。

それでいながら、彼女の気持ちが変わることはついぞなかった。



ベルギーに帰国後「自分を自由にして欲しい」と迫るヨシエ。

それを拒むコルテールを、ヨシエは罵った。

そして、決して犯してはならないラインを越えてしまった。

彼女は、職場ベルギー人の同僚達と彼とを一人ひとり比較して、いかコルテールが劣ったオタク野郎なのか、痛罵したのだ。



……こと、ここにいたっては、どうしようもない。

この時のコルテールの失望は、いかばかりであったのだろうか。

その時の衝撃は、彼の行動が示している。

コルテールは逆上し、ヨシエをナイフで22ヶ所切りつけて、殺害したのだ。

リアルは、『フランダースの犬』以上に救いようのない話だった。




※プライヴァシー保護のため、一部を仮名にしています

2012-01-03

訳してみた。

http://www.youtube.com/watch?v=Xxh-sS8Qoco&feature=player_embedded

1911年12月14日 ロアール・アムンセン、南極点に到着。

1912年4月14日 タイタニック号沈没

1913年 フォード、流れ作業方式を導入

1914年6月28日 サラエボ暗殺事件から第一次世界大戦勃発

1915年4月22日~1915年5月25日 初めて毒ガス使用

1916年2月16日1916年12月20日 ベルダンの戦い

1917年11月7日 ロシアで10月革命

1918年11月11日 第一次世界大戦終結

1918年11月9日 ヴァイマル共和制の樹立を宣言

1919年1月5日~10日 スペイン風邪の流行が頂点

1920年12月16日 寧夏、海原地震

1921年11月9日 アルベルト・アインシュタイン ノーベル物理学賞受賞

1922年10月27日~31日 ベニート・ムッソリーニローマ進軍

1923年 ドイツでハイパーインフレ

1924年1月21日 レーニン死去

1925年1月~2月 ノーム犬ぞりバルト)疾走

1926年 アル・カポネが権力の頂点に

1927年3月20~21日 チャールズ・リンドバーグがパリへ向け飛行

1928年11月18日 蒸気船ウィリー初演(ミッキーマウス初登場)

1929年10月29日 1929年のウォール街大暴落「暗黒の木曜日

1930年3月12日 ガンジー、「塩の行進」

1930年6月30日 第一回サッカーワールドカップウルグアイにて)

1931年5月1日 エンパイアーステートビル開業

1932年 ワイマール共和国崩壊

1933年1月30日 ヒトラー内閣発足

1934年10月27日 毛沢東の長征

1935年9月15日 ニュルンベルグ法制定

1936年6月~1936年4月 スペイン内戦

1937年5月6日 ヒンデンブルク号爆発事故

1938年3月12日 オーストリア併合

1939年9月1日 第二次世界大戦勃発

1940年6月14日 パリ占領

1940年 ヒトラー権力の頂点へ

1941年6月22日 ドイツ、ソ連へ侵攻

1941年12月7日 真珠湾攻撃

1942年9月13日1943年2月2日 スターリングラード(現ボルゴグラード)の戦い

1943年2月13日 「全面戦争するか?」演説

1944年6月6日 ノルマンディー上陸作戦オペレーションオーバーロード)決行

1945年5月8日 第二次大戦ヨーロッパでの戦い終結

1945年8月6日 広島に原爆投下 同9日 長崎に原爆投下

1945年11月20日~1946年10月1日 ニュルンベルク裁判

1947年8月15日 インド独立

1948年6月24日~1949年5月12日 ベルリン封鎖

1949年10月1日 毛沢東、中華人民共和国の樹立宣言

1950年6月25日1953年7月27日 朝鮮戦争

1951年 朝鮮の人口?

1952年10月31日 初めて水素爆弾が炸裂

1953年6月17日 東ベルリン暴動

1954年6月4日 西ドイツワールドカップ西ドイツが優勝「ベルンの奇跡」

1955年5月14日 ワルシャワ条約制定

1956年10月29日1957年3月 スエズ危機(第二次中東戦争

1957年10月4日 スプートニク・ショック

1958年10月19日 中国で大飢饉の始まり

1959年1月1日 キューバ革命の勝利

1960年 モハメド・アリ ローマ金メダル

1961年8月13日 ベルリンの壁構築

1961年10月27日 チェックポイントチャーリーでの対峙(ベルリン危機)

1962年10月14日~28日 キューバ危機

1963年6月26日 「私はベルリン市民である」演説

1963年11月22日 J・F・ケネディ暗殺

1964年8月2~4日 ベトナムアメリカ爆撃される(トンキン湾事件)

1965年 ベトナム戦争拡大 地上戦力投入

1967年6月5日~10日 六日戦争(第三次中東戦争

1968年1月30日9月23日 テト攻勢

1969年7月20日 初めて月に着陸

1970年4月 カンボジア侵攻

1970年4月29日 ワルシャワ礼拝?

1971年10月14日 グリーンピース設立

1972年9月5日 ミュンヘンオリンピック事件

1973年10月6日~26日 ヨム・キプル戦争(第四次中東戦争

1974年8月8日 ウォーターゲート事件

1975年4月30日 ベトナム戦争終結

1975年4月17日 クメール・ルージュ プノンペン制圧

1976年6月16日 ソヴェト蜂起

1977年3月27日 テネリフェの惨事(テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故

1978年10月16日 法王パウロ二世 パウロ一世を嗣ぐ

1979年9月8日 「暗黒の金曜日」 イスラム革命頂点

1980年5月18日 セント・ヘレンズ山噴火

1981年3月30日 ロナルド・レーガン大統領暗殺未遂事件勃発

1982年4月2日6月20日 フォークランド紛争

1983年4月18日 アメリカ大使館爆破事件(ベイルート

1984年12月3日 ボパール化学工場事故(インド

1985年3月11日 ミハエルゴルバチョフ氏、ソビエト共産党書記長に就任

1986年1月28日 チャレンジャー事故

1986年4月26日 チェルノブイリ事故

1987年6月12日 「この壁を壊せ!」演説

1988年12月21日 ロッカビー事件(パンナム機爆破事件)

1989年11月9日 ベルリンの壁崩壊

1990年10月3日 東西ドイツ統一

1990年8月2日1991年5月5日 「砂漠の嵐」作戦(第1次湾岸戦争

1992年4月1日~1995年12月14日 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争

1993年10月3~4日 モガディシュの戦闘

1994年4月6日7月15日 ルワンダ虐殺

1995年4月19日 オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件

1996年1月21日 フランス、最後の核実験

1997年7月4日 マーズ・ローバー(火星探査車) 火星に着陸

1998年8月 モニカ・ルインスキー 不倫スキャンダル

1999年5月3日~6日 オクラホマ州で竜巻被害

2000年1月1日 ミレニアム

2001年9月11日 911攻撃(アメリカ同時多発テロ事件

2002年1月1日 ヨーロッパユーロ発行

2003年3月20日 イラク戦争勃発

2004年12月26日 インド洋大地震と津波

2005年8月29日 ハリケーンカトリーナ ニューオリンズを破壊

2006年6月12日8月14日 レバノン侵攻

2007年6月 ヨーロッパ熱波

2008年10月 金融危機

2009年1月20日 バラク・オバマ大統領就任

2010年1月12日 ハイチ大地震

2010年4月20日 メキシコ湾原油流出事故 ディープウォーター・ホライズン炎上沈没事故

2011年 アラブの春

2011年3月11日 東日本大震災と津波

2011年3月 福島第一原発事故

2012 ?

10分どころか、6時間くらいかかったorz

それに、作ったの多分アメリカ人だから、日本にとっての重大事件(オウムとか)は入ってないんだよね。ハイチ地震があるのに、阪神・淡路大震災がないのも明らかに片手落ちでしょう。

(調べてみたら、どちらもM7クラス

2012-01-02

自分感覚が一般からネットからかい離しているのではないか

最近の例で言うと、



サッカー日本代表の新ユニフォームがダサすぎると話題に

ttp://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1686533.html

⇒「新しいユニフォームダサ過ぎ」という意見が大多数。普通にいいと思ったのだけど、むしろ1985年の真っ赤っかの方が・・・



【閲覧注意】女子高生を救えなかった話

ttp://itaishinja.com/archives/3224832.html

⇒「ひどい話だけど、田舎でよくある話なら仕方ないな」と思ったら、スレコメント欄ともに「胸糞悪い」「教師が悪い」という怒りのコメント多数。



他にもネットをしていて「えー、これが大多数の意見なの?」と思うこと多数。

一方で現実社会でも「えー、そんなことするの?意味無いじゃん」と思うこと多数。

自分感覚は一般社会からネット社会からも外れているのではないかと思う今日この頃

2011-10-31

からスティーブ・ジョブスへの弔辞

A Sister’s Eulogy for Steve Jobs

モナ・シンプソン (Mona Simpson)

2011年10月30日



私は母子家庭一人っ子として育てられました。

しかったので、そして父はシリアから移民だと教えられていたので、

父については、オマル・シャリフのような人ではないか想像していました。

裕福な人であればいいなと、いつか私たちの(いまだに家具も揃っていない)家に迎えに来てくれればいいなと思っていました。

のちに面会したとき、私は、父は理想燃える革命家で、アラブ新世界を導く人だったのだと、

から転送先を残さずに住所を変えてしまったのだと思い込もうとしました。



私はフェミニストでありながら、自分が愛せる、自分を愛してくれる人を長いあいだ探していました。

二十数年間、父がその人なのだろうと思っていました。

25歳になってその人に出会いました。

それが兄でした。



私は当時、ニューヨーク処女作を書こうとしていました。

他の作家志望者3人と一緒に、クローゼット並の大きさの事務所で小さな雑誌仕事をしていました。

ある日、弁護士が私に電話をかけてきました。

その弁護士は、上司健康保険をねだるような、カリフォルニア中流階級の娘である私に、

「裕福で、著名で、あなたのお兄さんである人物の代理人だ」と名乗りました。

同僚編集者たちは騒然となりました。

時は1985年、そこは新興文芸雑誌の事務所、

それでも私は大好きなディケンズ小説の筋書きに放り込まれたようでした。

弁護士は兄の名を伝えるのを拒み、同僚たちは賭けを始めました。

一番人気の候補は、ジョン・トラボルタ

私が密かに期待していたのはヘンリー・ジェイムズ後継者

何の苦もなく優れた作品を生み出す、自分より才能のある作家でした。



初めて会ったときスティーブは私と同じ年格好で、ジーンズを履いていました。

オマル・シャリフよりもハンサムな、アラブユダヤの顔立ちでした。



私たちは長い散歩しました。

偶然にも二人ともそうするのが好きでした。

何を話したのかはあまり覚えていませんが、

とにかく友達にしようと思えるような人だと感じたのは覚えています

彼はコンピュータ企業で働いていると言いました。



コンピュータのことはあまり知りませんでした。

私はまだオリヴェッティのタイプライターを使っていましたから。



コンピュータを一台、初めて買おうかと思っているとスティーブに言いました。

Cromemcoという名前でした。



スティーブは、そのときまで待ったのは良かったと言いました。

彼は、恐ろしく美しいものを作ろうとしていると言いました。



これからスティーブから学んだことをいくつかお伝えしたいと思います

つの期間、合計27年間に渡って、私は彼を知っています

期間を区切るのは年数ではなく、生き様です

彼の充実した人生

彼の病気

彼の死。



スティーブ自分の愛するもの仕事しました。

彼は頑張って働きました。

毎日働きました。



とても単純ですが、本当のことです



彼は散漫の対極のような人でした。



彼は、たとえ失敗に終わるとしても、頑張ることを恥とはしませんでした。

スティーブのように聡明な人が挑戦を恥じないのであれば、私も恥じる必要はないのかもしれません。



彼はAppleを追い出されて、つらい時期を過ごしました。

彼はシリコンバレー指導者500人が現職大統領を迎えるディナーのことを話してくれました。

スティーブはそこに招待されなかったのです



彼は傷つきましたが、 NeXT に行って働きました。毎日働きました。



スティーブにとって最高の価値は、新規性ではなく、美しさでした。



イノベーターにしては珍しく、スティーブは物事に忠実でした。

シャツが気に入れば、同じものを百枚注文しました。

パロアルトの家には、黒いコットンのタートルネックが、

おそらくこの教会にいる全員分はあると思います



彼は流行や小道具を好みませんでした。

自分と同世代の人が好きでした。



彼の美学はこういう言葉を思い起こさせます

ファッションとは、美しく見えるがのちに醜くなるもの芸術とは、最初醜く見えるがのちに美しくなるもの



スティーブはいつも、のちに美しくなるようにしようとしていました。



彼は誤解を受けるのを恐れませんでした。



パーティに招かれなかった彼は、三台目か四台目の同じ黒いスポーツカーNeXT に通い、

あるプラットフォームを、チームとともに静かに作っていました。

それは、ティム・バーナーズ・リーがのちに、

ワールドワイドウェブを動かすプログラムのために使われることになるものでした。



愛について話す時間の長さにかけては、スティーブ女の子並でした。

愛は彼にとってこの上ない美徳であり、最高の神でした。

はいつも、一緒に働く人々の恋愛生活を気にしていました。



女性が気に入るかもしれない男性を見つけると、

独身なのか? うちの妹とディナーはどうだい?」と声をかけました。



彼がローリン出会った日にかけてきた電話を、今でも思い出します。

「こんなに美しくて、頭がよくて、こんな犬を飼っている人なんだけど、結婚するつもりだよ」



リードが生まれて以来、彼は止まることなく家族愛情を注ぎ続けました。

彼はどの子にとっても実の父親でした。

リサの彼氏と、エリン旅行と、スカートの長さと、イヴの愛馬についてやきもきしていました。



リード卒業パーティに出席した人はみな、リードスティーブゆっくりとしたダンスを忘れられないでしょう。



ローリンに対する変わることのない愛が彼を生き延びさせました。

はいつでも、どこでも発露するものだと彼は信じていました。

スティーブ皮肉や冷笑や悲観とは無縁でした。

私は今も、そのことを学ぼうとしています



スティーブは若くして成功した人でした。

彼はそのことで孤独を感じていました。

私が知るかぎり、彼の選択のほとんどは自分のまわりに巡らされた壁を壊すためのものでした。

ロスアルトから来た中流の男が、ニュージャージーから来た中流の女に恋をする。

二人にとって、リサとリードエリンイヴ普通の子供として育てることは重要でした。



彼らの家には押し付けがましい美術品などはありませんでした。

スティーブとローリンが一緒になったことが分かってから何年間ものあいだ、

夕食は芝生で食べていましたし、食事が野菜一種類だけだったこともありました。

一種類の野菜をたくさん。

一種類だけです

ブロッコリー

旬の野菜

簡単な調理。

とれたてのハーブなど、適切なものを適切なだけ。



若き億万長者でありながら、スティーブはいつも私を迎えに空港まで来てくれました。

ジーンズを履いて待っていてくれました。



家族会社電話をしたときには、秘書のリネッタが

「お父さんは会議ですが、お呼びしたほうがいいですか?」と答えてくれました。



リードが毎年ハロウィン魔女のかっこうをしたがったときには、

スティーブ、ローリンエリンイヴ魔女になりました。



彼らはキッチン改装に取りかかったことがあります

何年もかかりました。

そのあいガレージでホットプレートを使って料理しました。

同じころ建設されていた Pixarビルはその半分の時間で完成しました。

パロアルトの家の中はどこもそんなかんじでした。

バスルームは古いままでした。

ただし、これが重要なところなのですが、その家は最初の時点ですばらしい家でした。

スティーブは目利きでしたから。



彼が成功を満喫しなかったというわけではありません。

何桁分か控えめではありましたが、十分満喫していていました。

パロアルト自転車屋に行って店内を眺めて、

その店で最高の自転車が買えるんだと自覚するのが大好きだと話していました。



そして実際、買いました。



スティーブ謙虚でした。

スティーブは学びつづけるのが好きでした。



彼はある日、育ち方が違っていれば自分数学者になっていたかもしれない、と言いました。

彼は大学について尊敬を込めて語り、スタンフォードキャンパスを歩くのが好きでした。

最後の数年間、彼はマーク・ロスコ絵画の本を研究していました。

それまで知らなかった美術家を知ってから

未来Appleキャンパスの壁に何があれば皆を刺激できるだろうと考えていました。



スティーブは物好きなところがありました。

イギリス中国のバラの栽培の歴史を知り、デビッドオースティンにお気に入りのバラがあるCEOが他にいるでしょうか?



はいくつものポケットにいっぱいのサプライズを持っていました。

たとえ二十年間人並み外れて近しく寄り添ったあとであっても、

きっとローリンにはこれから発見するものがあるだろうと思います

彼が愛した歌、彼が切り抜いたポエム

彼とは一日おきくらいに話をしていたのですが、

ニューヨークタイムズを開いて会社特許の特集をみたとき

こんなによくできた階段のスケッチがあったのかと驚きうれしくなりました。



四人の子と、妻と、私たちみなに囲まれて、スティーブ楽しい人生を送りました。



彼は幸福大事しました。



そしてスティーブ病気になり、私たちは彼の人生が狭い場所に圧縮されていくのを見ました。

それまで彼は、パリ散歩するのが好きでした。

彼は京都で手打ちそばを見つけました。

スキーでなめらかに滑降しました。

ドタドタとクロスカントリーしました。

もうできませんでした。



最後には、日々の喜び、たとえばおいしい桃ですら、彼を楽しませることはできませんでした。



ですが、私が驚くと同時に彼の病気から学んだことは、

多くのものが失われてもなお、多くのものが残っているということでした。



兄が椅子を使って、ふたたび歩けるようになるための練習をしていたことを思い出します。

彼は肝臓移植をしたあと、一日一度、椅子の背に手を乗せ、支えにするには細すぎる足を使って立ち上がりました。

メンフィス病院廊下で、椅子を押してナースステーションまで行って、

そこで座って一休みして、

引き返してまた歩きました。

彼は毎日歩みを数え、毎日より遠くまで進みました。



ローリンはひざまづいて彼の目を覗きました。



あなたならできる」と彼女が言うと、

彼は目を見開いて、唇を引き締めました。



彼は挑戦しました。

いつもいつも挑戦しました。

その試みの中心には愛がありました。

彼はとても直情的な人でした。



その恐ろしい時節、私は、スティーブ自分のために痛みをこらえていたのではないことを知りました。

目標をさだめていたのです

息子リードの高校卒業エリン京都旅行

家族を連れて世界を回り、退職したときにローリンと乗るために造っていた船の進水式。



病気になっても、彼の好み、彼の決意、彼の判断力はそのままでした。

看護婦67人を試し、優しい心があり全幅の信頼をおけると分かった三人をそばにおきました。

トレイシー、アルチュロ、エラムです



スティーブが慢性の肺炎を悪化させたとき医師はすべてを、氷をも禁じました。

私たちは標準的なICUユニットにいました。

スティーブは普段割り込んだり自分名前ものを言わせたりすることを嫌っていましたが、

このときだけは、少し特別な扱いをしてほしいと言いました。



「これが特別治療だよ」と私は伝えました。



彼は私のほうを向いて、「もう少し特別にしてほしい」と言いました。



挿管されて喋ることができなかったとき、彼はメモ帳を頼みました。

そしてiPad病院のベッドに備え付けるための装置のスケッチを描きました。

新しい液晶X線装置設計しました。

特別さが足りないと言ってユニットをもう一度描き直しました。

妻が部屋に入って来るたび、笑みが戻るのが分かりました。



一生のお願いから、頼む、と彼はメモ帳に書きました。

こちらを見上げて、お願いだから、と。



彼が言いたかったのは、医師の禁を破って氷を持ってきてほしいということでした。



私たちは自分が何年生きられるか知りません。

スティーブ健康だったころには、その最後の数年にも、

彼はプロジェクトを立ち上げ、それを完了させるようAppleにいる同僚に約束させました。

オランダ造船業者は、豪華なステンレス製の竜骨を組み、板を張るのを待っていました。

三人の娘はまだ結婚していませんし、二人はまだ女の子です

私の結婚式でそうしてくれたように、彼女たちと並んで花道に立ちたかったことでしょう。



私たちはみな、最後には、途中で死にます

物語の途中で。

たくさんの物語の途中で。



ガン宣告のあと何年も生きた人についてこう言うのは正しくないかもしれませんが、

スティーブの死は私たちにとって突然でした。



二人の兄弟の死から私が学んだのは、決め手はその人のあり方だということでした。

どんな生き方をしたかが、どんな死に方をするかを決めるのです



火曜日の朝、彼はパロアルトに早く来てほしいと電話をかけてきました。

声には熱と愛情がこもっていました。

同時に、それは動き出した乗り物に荷物が引っかかってしまたかのようでした。

申し訳なさそうに、本当に申し訳なさそうに、

私たちをおいて旅に出つつあるときのようでした。



彼がさよならを言おうとしたとき私は引き止めました。

「待って。行きます空港タクシーで行くから。きっと着くから



「間に合わないかもしれないから、今のうちに言っておきたいんだ」



着いたとき、彼はローリン冗談を言い合っていました。

毎日一緒に暮らしてきた夫婦のように。

視線をそらすことができないかのように、子供たちの目を覗き込んでいました。



昼2時まで、彼の妻は彼を支えてAppleの人と話させることができました。



そのあと、彼はもう起きていられないということがはっきりしました。



呼吸が変わりました。

つらそうに、やっとの思いで息をしていました。

彼がまた歩みを数え、より遠くへ進もうとしているのが分かりました。



これが私が学んだことです

彼はこのときにも努力していたのです

死がスティーブに訪れたのではありません。

彼が死を成し遂げたのです



彼はさよならを言い、すまないと言いました。

約束したように一緒に年をとることができなくて、本当にすまない、と。

そして、もっと良い場所へ行くんだと言いました。



フィッシャー医師はその夜を越せるかどうかは五分五分だと言いました。



彼はその夜を越しました。

ローリンはベッドの横に寄り添って、息が長く途切れるたびに彼を引き寄せました。

彼女と私が互いに目を交わすと、彼は深く吐き、息が戻りました。



やらなければならないことでした。

はいまだに、厳しいハンサムな顔立ちをしていました。

絶対主義ロマンチストの顔立ちをしていました。

その呼吸は困難な旅路、急峻な山道を思わせました。



山を登っているようでした。



その意志、その使命感、その強さと同時に、

そこにはスティーブ不思議を求める心、

美術家として理想を信じ、のちの美しさを信じる心がありました。



その数時間前に出た言葉が、スティーブ最期言葉になりました。

それは三度繰り返す単音節言葉でした。



船出の前、

彼は妹のパティを見て、

子供たちをゆっくり見て、

人生の伴侶ローリンを見て、

そして皆の肩の向こうを見ました。



スティーブ最期言葉は次の通りです

OH WOW. OH WOW. OH WOW.

2011-09-27

帰りたい場所別にみる、日本の「帰りたい 帰れない」

全国2,000万人のサビ残企業戦士のみなさま、こんばんわ。

今日仕事もないのにバリバリ残業してますか?

やけくそで「光の射す方へ」向かって、I can fly!なんてしてはいけませんよ。

 

さて、そんなみなさまの「帰りたい 帰れない」の思いを

日本楽曲から探してみました。

日本人魂の叫びを覗いていきましょう。

 

過去」に帰りたい

いきなり最初から、ど真ん中ストレート

帰りたくても帰れない代名詞が「過去」でございます

曲名 アーティスト 発売年 帰りたい場所 概要 歌詞
勇次 長渕剛 1985年 過去 若気の至り家出した
新しいスタート 岡村孝子 1991年 過去 人生の門出を前に意気込む
郷愁 斉藤和義 1997年 過去 帰省が終わって、また普段の生活に戻らないといけない
Gates of heaven Do As Infinity 2003年 過去 クスリがやめられない
手のひら re-birth MCU 2006年 過去 自分探し
鼓動 GLAY 2007年 過去 大人になるのって哀しい
矛盾だらけのWedding Song GiFT 2008年 過去 子供の頃好きだった女性が他の男と結婚した
燻-くゆる- ナイトメア 2006年 穢れなきセピア過去 汚れる前に初期衝動を思いだせ(初心を忘れたくない)

ビジュアル系バンドは汚れたくないんですねぇ。

ピュアだったあの頃……帰りたいですね。

 

「あの人の胸」に帰りたい

終わった恋は取り返しがつきません。

曲名 アーティスト 発売年 帰りたい場所 概要 歌詞
落葉の駅 八代亜紀 - 恋人 何も言わず恋人の元を飛びだして
風立ちぬ 松田聖子 1981年 恋人 恋人と別れてセンチメンタル
無言坂 香西かおり 1993年 恋人 恋人浮気したので家出した
涙の海峡 松原のぶえ 1996年 恋人 北国の冬は人肌恋しい
山吹色の木の下で タオルズ 2005年 恋人過去 いつもの風景に、昔を思い出した

松田聖子の「風立ちぬ」はカヴァー曲にリンクしました)

八代亜紀の「落葉の駅」なんて、

松任谷由実の「ルージュの伝言」って感じですね。

男が自分の為にあたふたしているのをみると

女性自分が愛されていることを知るみたいですよ。

めんどくさいですねぇ。

でも、おじさんはそういうのキライじゃないよ。

 

故郷」に帰りたい

日本歌謡曲における「北国」「津軽「海峡」の頻度は異常でございます

集団就職、出稼ぎ、懐かしいですね(ぇ

曲名 アーティスト 発売年 帰りたい場所 概要 歌詞
津軽 岩木淳 - 故郷 やけ酒してホームシック
帰りたい帰れない 加藤登紀子 1970年 故郷 から手紙ホームシック
望郷しぐれ 山本譲二 1986年 故郷 実家からの小包でホームシック
カントリー・ロード 本名陽子 1996年 故郷 もう故郷に帰れない
上野 和田青児 1999年 故郷 上野発北国行きの電車
夢千里 キム・ヨンジャ 2002年 故郷 海を荒れてたかホームシック
津軽慕情 山本謙司 2004年 故郷 酒飲んでホームシック
リンゴのふる里へ 和田青児 2005年 故郷 雲が北に流れていたのでホームシック
ひだまり 石野田奈津代 2009年 故郷 上京して大変だけど私は元気です
帰りたい 千田裕之 2010年 故郷過去 ふと思いだしてホームシック
東京シャボン玉 天童よしみ 2011年 故郷 上京したけど思い通りいかない四畳半生活
バイ マイ タウン HOW MERRY MARRY 2011年 故郷 上京して大変だけど負けないよ

昔はたまに来る手紙だったのが、

今は携帯電話インターネット24時間故郷とつながる時代。

そんな中でも、最近の若い人の歌は、

上京したての初々しさが伝わってきていいですね。

ひだまり石野田奈津代)」は、いずれ「東京シャボン玉天童よしみ)」状態になるのも、

鉄板」というやつでございますね。

頑張れ、若い人!

 

自分の家」に帰りたい

企業戦士のみなさま、いよいよ本命

我が家に帰りたい」でございます

どのように歌われているのでしょうか。

ひとつひとつ吟味していきましょう。

 

曲名 アーティスト 発売年 帰りたい場所 概要 歌詞
大迷惑 ユニコーン 1989年 マイホーム買ったら転勤を命じられたでござる

オリジナルユニコーンなので訂正)

あるあるwww

 

曲名 アーティスト 発売年 帰りたい場所 概要 歌詞
の子守唄 リサ 2009年 子どもが家にいるのに水商売自分

シングルマザーは大変やでー!

 

曲名 アーティスト 発売年 帰りたい場所 概要 歌詞
Tell me why? Lil'B 2009年 デートしてるのに恋人に冷たくあしらわれた

デートやめて家に帰っちゃえよwww

簡単に「泪」という女の武器を使うから

DV男ばっかり引き寄せちゃうんだよ!

時代はツンデレクーデレ

 

なるほど、「帰りたい 帰れない」は様々ですね。

では、みなさま、よい残業ライフを!

2011-07-11

福島原発事故は反対派が新規建設邪魔をしたから論」について

最近目にする分量は減ったけれども、一時期非常によくみかけた主張

原発反対派のおかげで原発の新規建設が困難であった。それがなければ福島第一原発をこんなにも延命させる必要がなかった。したがって、今回の原発事故責任原発反対派のそれも大きい。

というものである

まぁ、これはじつにけったいな議論である。では、ここにまつわる論点を整理してみる。

第一に、私も、「原発反対派の反対運動が新規建設を困難にした」という「因果関係」については、ある程度存在すると認めている。これを科学的に立証するのはいろいろ文献を引いてこなければいけないが、さすがにこれを否定するのはナンセンスだろう。

しかし、一般論として「因果関係が生じている場合、原因となったもの結果責任が必ずある」という命題は明確にNOであることも議論の余地はない。

さて、今回それが当てはまるか、という風に考えてみる。原発反対派と一口にくくっても、「自分のところに原発をつくるな、ともかく」な人たちから原発は廃止にもっていきたかった」人までいろいろある。

これはこれで当初の命題に大いに関係がある議論だが、詳細な論証は私はやめておく。論じるだけのデータがないのが最大の理由であるが、以下の指摘だけは私の印象からしておく

・冒頭の「原発反対派論」を言う人間は、大抵(例外はあるかもしれない)、原発の新規建設が困難であった理由のさまざまなものの中で(一つではまさか、ない)、反対派の運動がどれだけ寄与しているかなどどうせ検討していない。

・そして、「原発の稼働期間延長」の理由も同様である原発をあまりに長く稼働させると、老朽化によるメンテコストの上昇はあるが、一般的に原発は一度稼働してしまうと、他の発電所と比べても「使えば使うほどコストが下がる(変動費が相対的に低い)部類に入るのは明らかである(水力とかもある意味そうなんだけど、火力と比べれば…。いくら原発廃炉後や使用済み燃料のコストが高い、と批判があっても、一度動かしてしまったら、早くとめた場合と延長した場合の差が劇的には違わないことは素人概算でもある程度言える)。新規建設ができなかったら電力会社は運転延長をしなかったなどと言い切れるかどうか。

因果関係責任の関係も今回の論証では結構やっかいであると考えられるが、科学的に検証してこの手の主張をしている人はほとんどいないので、そんなの抜きに自分真実を述べたところで、まぁ少なくとも議論は平行線だわな。

さて、ここからが本題である。さて、仮に「原発反対派が新規原発建設を困難にした主因の一つであり、老朽化した福島原発の運転延長の責任を十分に問える」まで認めたとしよう(私は大いに疑問があるが、その仮定を滑稽とまでは思ってはいない)。

冒頭のロジックの一部を切り出すと

原発の運転を延長しまくったのが被害拡大の大きな原因である

ということになる。

しかしながら、私が一番ひっかかるのはここだ。

今回の原発事故原因について、まだ不明な点も多々あるが、あえて以下の三つにおおむね分けられる

1)そもそもの福島第1の1~4号炉の「構造上の問題」(作った時から抱えていた問題)

2)原発運転上の問題(通常運転時にどれだけ事故に強い運転をしていたか、運転後に施された防災対策や事故後の処理のよさ、悪さ等)

3)老朽化故に事故に弱くなっていた点

で、…ええと、私が今までの情報総合すると、どうも3)もゼロじゃあないっぽいんだけど、事故拡大要因は1)と2)の方がずーーーーっと大きいんですけど。

からすると、今回の惨事は、「原発の運転延長をしていなくても、もしこれがじゃあ1985年震災が起こっていたとしても」やっぱりあったんじゃね?ということ(老朽化問題さえなければ少しは被害が小さかった可能性をまったく否定するものではないけれど、当時は当時で他の条件もいろいろ違っていた)。

まり、「これって今回の震災対応できたかどうか、という観点でいうと、はじめから動かしてはいけなかった原発であったという指摘もあるんだど、これは否定できるの?」「運用面の問題も捨てきれないのでそうも断言が難しいのだけど…」と。

結論に移ろう。

少なくとも、私に言わせれば

・「福島原発事故は反対派が新規建設邪魔をしたから論」を言うのであれば

A)運転延長前の震災であれば今と比べて劇的に問題は小さかった

B)運転延長前には地震が起きないことが明らかであった(=地震を予知していた)

といううちのいずれかでも満たしていないことには、かなり無理筋の責任論ではなかろうか、ということだ。

こういう論点をあまり見かけないので書いておくが、まぁ異論反論もあろうから煮るなり焼くなり好きにしてくれ。

※公平を期すために1点だけ論点を追記しておくなら「十分な事故対策の準備が整わなかったであろう理由の一つは、原発反対派の批判があったから」というのがある。詳細の記述は避けるが(書きたい人は色々と反論に持ち出すだろう)これはある程度私も同意する。しかし、それだけがなければ事故はたいしたことがなかったとまで言えるのか?という疑問と、(311以前の)原発反対派の動きをろくにしらない人は気づいていないかもしれないが、(311以前の)原発反対派の批判等で改善された原発の安全対策というのもこれはこれでいろいろあるというのも記しておいていいだろう。

2011-06-02

http://anond.hatelabo.jp/20110602110219

こういう突っ込みはヤボなんだろうが、昭和の終わりごろパイナップルコンビニで250円で買えるメジャー果物だったよ。

椎名誠全日本食えばわかる図鑑(1985年)で「こんなに安くていいのか」と書いているし。

事実関係がデタラメだとせっかくのたとえ話もまるで説得力がないよ。

2011-05-21

日本の現代医学は癌患者に対し抗癌剤での延命治療が主なのはなぜで

しょうか?他国では代替医療による食事療法や温熱療法がメインに変わ

りつつある原因は1985年アメリカ国立研究所(NCI)のデヴィタ所

長は米会議抗癌剤10人に1人は腫瘍が縮むが癌細胞は自らの遺伝子

を変化させ抗癌剤を無力化してしまう反抗癌剤遺伝子(ADG:アンチドラ

ッグジーン)の発見を報告。また、1988年にはNCIの数千ページの

報告書「癌の病因学」で「抗癌剤は強力な発癌物質であり投与すると他

臓器に新たな癌を発生させる」と公表した。今までの常識を覆すこの発

表は製薬会社に多大な損害を与えるとして、口外してはならないという

戒厳令が敷かれました抗癌剤は0.1gで7万円、延命治療を施せば何百

万の費用がかかり癌患者は正に病院の為の金脈にすらなっており、また

今日抗癌剤を信じ、熱意と努力を持った医師患者犠牲になっている

です

2011-05-11

バブル期の消費電力」で可能な生活って?

「消費電力をバブル期の水準に戻せば、原発は全廃できる」という人がいる。

かにバブル期の消費電力は今の3/4程度だから、ちょうど原発を無くしたぐらいの発電量で賄えるだろう。

じゃあ我々がバブル期にどんな生活をしてたか、具体的に列挙してみよう。



まず、ごく一部の金持ち以外は携帯電話自動車電話、ショルダーホン)を持っていなかったし、

パソコンも一部のマニアがいる家庭しか持ってなかった。

ISDNが始まったのが1988年で、電話回線モデムを繋げられるようになったのが1985年

パソコン通信が始まったのがこのくらいの時期。衛星放送はまだ始まっていなかった。

ビデオデッキ電子レンジがようやく半数の家庭に普及した程度。ウォシュレットがある家が珍しかった。

エアコンも一家に一台あればいい方。今みたいに全部の部屋にエアコン付けてる家庭は稀。

家庭用ゲーム機も、今みたいに100Wぐらい電気を食うPS3ではなく、4Wしか電気を食わないファミコン

会社仕事するときも、社員全員に1台づつパソコンが行き渡っているわけではなく、

書類を手書きしたり、電卓を叩いて計算してる人も多かった。

ちょうどワープロ中小企業まで普及し始めた時期だったはず。

コンビニ店舗数は今の1/4くらいで、ドン・キホーテのような24時間開いている店は珍しかった。

駅にはま自動改札がなく、駅員が鋏で切符を切っていた。地下鉄はま冷房車がなかった。

青函トンネル瀬戸大橋が開通したのが1988年。それまではフェリーや連絡船を使っていた。

南北線大江戸線副都心線りんかい線ゆりかもめ成田エクスプレス長野新幹線等の路線は未開業



何もかもがそのまま20年前に戻るわけではないとしても、消費電力を当時の水準に戻すのは、

実はものすごく大変なことなんじゃないか

2011-04-10

http://anond.hatelabo.jp/20110410012918

要するに、1980年初めの千葉県の公立小学校に通っていた私は「核=悪」と思っていた。

という自己申告がある。

80年代前半に7-12歳の時期を過ごしたんだから30代か40代。

1985年に7歳だとした33歳、1980年12歳だとしても43歳だよ。



んで、今の30代の親に団塊+10なのはいない事もない。

遅い子だった俺(31歳)の親父は今年73歳だからな。

2011-03-18

原発を全部止めたら?

http://blog.goo.ne.jp/daizusensei/e/4fdfb6bead84198c5ecbd05030cc142d

より抜粋

まとめると、総発電量で約3割、ピーク電力で約2割の節電によって、原子力発電所を止めても他の発電所の発電設備で電力消費をまかなうことができる。これはバブル経済をやっていた1980年代後半の電力消費量にあたる。なにか問題があるだろうか?

計算は大枠では正しいのかもしれない。しかしこの結論はひどい。

例えば1985年の実質GDP2010年の65%でしかない(名目じゃ無く実質だ)。今すぐとは言わなくてもGDPが2/3の水準に落ちたらどんなひどいことになるのか想像がつかないのだろうか?

ただし

産業部門の電力消費はあまり増えていない。一方、家庭とオフィスなどの民生部門の電力消費がとても伸びたのである

この指摘は傾注したい。産業界技術革新などを通じて、「1kwあたり生産付加価値」などをおおいに増やしてきた。一方、民生用ではひたすらに消費電力を増やしてきた。電力需要の増大は80年代からは主に民生用途によるもので、90年代初頭にはついに民生用途の電力需要産業用途を上回った。コスト面の要請から多いに節電技術を伸ばしてきた産業用とは対照的だ。民生用途についても「節電へのインセンティブ」を検討するいい機会なのではなかろうか。

2011-01-20

http://anond.hatelabo.jp/20110119201622

1.沢城みゆき(声質A、演技S)1985年生まれ、1999年デビュー、初代プチ子(オーディション

2.花澤香菜(S、B+)1989年生まれ、2003年声優デビュー、子役・ジュニアタレント

3.喜多村英梨(A、A+)1987年生まれ、2003年声優デビュー、子役・ジュニアタレント

4.早見沙織(A+、A)1991年生まれ、2007年生まれ、日ナレ養成所)

5.悠木碧(A、A+)1992年生まれ、2003年声優デビュー、子役・ジュニアタレント

6.名塚佳織(A、A)1985年生まれ、1999年デビュー、子役・ジュニアタレント

7.三瓶由布子(A、A)1986年生まれ、2000年デビュー、子役・ジュニアタレント

8.小清水亜美(B+、A)1986年生まれ、2003年デビュー、子役・ジュニアタレント

9.戸松遥(B+、A)1990年生まれ、2007年デビュースフィアオーディション

10.高垣彩陽(B+、A)1985年生まれ、2006年デビュースフィアオーディション

11.田村睦心(A、B+)、1987年生まれ、2007年デビュー日ナレ養成所)

12.井上麻里奈(B+、B+)1985年生まれ、2004年デビューOVAコゼットの肖像』コゼット役(オーディション

13.加藤英美里(B+、B+)1983年生まれ、2004年デビューAMG養成所)

14.矢作紗友里(B+、B+)1986年生まれ、2005年デビュー日ナレ養成所)

15.佐藤聡美(B+、B+)1986年生まれ、2007年デビュー、東アナ養成所)

16.伊瀬茉莉也(B+、B+)1988年生まれ、2004年デビュー、(養成所)

17.平野綾(B+、B+)1987年生まれ、2001年デビュー、子役・ジュニアタレント

18.阿澄佳奈(A、B)1983年生まれ、2005年デビューオーディション

19.伊藤かな恵(A、B)1986年生まれ、2007年デビューAMG養成所)

20.豊崎愛生(B+、B)1986年生まれ、2006年デビュースフィアオーディション

21.明坂聡美(B+、B)1988年生まれ、2004年デビューオーディション

22.後藤沙緒里(B、B)1987年生まれ、2002年デビューオーディション

23.清水香里(B、B)1983年生まれ、1998年デビュー、子役・ジュニアタレント

24.井口裕香(B+、C+)1998年デビュー2001年デビューオーディション

25.MAKO(B+、C+)1986年生まれ、2005年デビュー、子役・ジュニアタレント

26.福原香織(B+、C+)1986年生まれ、2005年デビュー養成

27.日笠陽子(B、C)1985年生まれ、2007年デビュー日ナレ養成所)

28.竹達彩奈(B、C)1989年生まれ、2007年デビュー日ナレ養成所)

29.藤田咲(B、C)1984年生まれ、2005年デビュー日ナレ養成所)

30.南條愛乃(C+、C+)1984年生まれ、2006年デビュー養成

31.野水伊織(C+、C+)1986年?生まれ、2009年デビュー

32.小見川千明(C+、C+)1989年生まれ、2008年デビュー、子役・ジュニアタレント

33.寿美菜子(C、C+)1991年生まれ、2006年デビュースフィアオーディション

34.鹿野優以(C、C+)1983年生まれ、2004年デビューAMG養成所)

35.大橋歩夕(C+、C)1984年生まれ、2005年デビュー

36.中島愛(C、C)1989年生まれ、2007年デビューランカ・リーオーディション

37.大亀あすか(C、C)1987年生まれ、2009年デビューヒューマン養成所)

出生年、デビュー年、デビューのきっかけらしきものを追加してみた。

2011-01-17

日本の総人口 [メモ]

日本の総人口

1920年 5596万人

1930年 6445万人

1940年 7193万人

1950年 8320万人

1960年 9341万人

1970年 1億372万人

1980年 1億1706万人

1985年 1億2104万人

1990年 1億2361万人

1995年 1億2557万人

2000年 1億2697万人

2005年 1億2775万人

2010年 1億2752万人

予測人口

2020年 1億2411万人

2030年 1億1522万人

2040年 1億600万人

2050年 9515万人(広東省9500万人)

2100年 4771万人(韓国4800万人)

2200年 750万人(愛知県725万人)

2300年 140万人(川崎市140万人)

3200年 0人 \(^o^)/

2010-09-06

エホバの証人とは

はてなID:ykkjhrk

はてなキーワード投稿しましたが、編集合戦を避けるため、こちらに転載します。

エホバの証人とは

公式サイト

http://www.watchtower.org/j/ 雑誌バックナンバーや聖書研究の手引き書などがいくらか読める。

http://www.jw.org 機関誌ポッドキャストフィードの受診、書籍、電子雑誌などがダウンロードできる。

http://www.jw-media.org 広報室の公式サイト

概要

キリスト教一教派。jwとも略される。

名称の由来は旧約聖書メシア預言のひとつであるイザヤ43章10~12節に基づく。

エホバの証人についての解説(公式サイト): http://watchtower.org/j/jt/article_02.htm

個人サイト): http://biblia.milkcafe.to/thesis009.html

ものみの塔聖書冊子協会」は、彼らが用いる代表的な法人の名称である。世界本部はニューヨーク法人ものみの塔聖書冊子協会にあり、出版物の著作権表示はペンシルバニアものみの塔聖書冊子協会となっている。(ただし、「わたしたちの王国宣教」は、2009年4月以後、著作権表示がエホバの証人クリスチャン会衆"Christian Congregation of Jehovah's Witnesses"となっている。)

なお、ものみの塔とは1879年に創刊された雑誌の名称であり、ジェームズ王欽定訳のイザヤ21章8節などを由来としている。聖書預言と照らし合わせながら世界情勢を見張っている、という意味がこめられている。さらに、1884年、この雑誌出版社として現在ものみの塔聖書冊子協会が米国ペンシルバニア州非営利法人法に則って登録された。したがって、彼らは自分たちを「ものみの塔信者」とは言わない。ものみの塔協会は法人名に過ぎないからである。

また、「エホバの証人」という語は彼らが構成する集団社会と、信者各個人の両方を指す。(英語などの場合、複数形と単数形で区別する。)したがって彼らは、「エホバの証人信者」という表現は使わない。ちょうど、「クリスチャン信者」とか「ムスリム信者」などと言わないのと同様である。

1870年米国にて、チャールズ・テイズ・ラッセルらが聖書研究会を結成したことに始まり、1931年米国オハイオ州コロンバス大会で、「エホバの証人」という名称を採択する決議が可決された。この大会は短波放送で中継されており、日本にいた数名の信者も決議に加わった。(なお、戦前・戦中の大日本帝国下では、「灯台社」という名称で活動しており、天皇は被造物であるなどと主張し、本土および台湾・朝鮮において、治安維持法違反検挙されている。―参考: 灯台社または燈台社または燈臺社を調べるぺえじ http://www.geocities.jp/todai_sha/

聖句と聖句を比較しながら論題別に掘り下げてゆくという19世紀の聖書研究者ヘンリー・グルーの聖書研究ポリシーが、現在でも一貫して守られており、エホバの証人出版物の特色となっている。聖書は文字通り神の霊感(インスピレーション)を受けた神の言葉であり、普遍、無謬であって、絶対に矛盾していない、という前提で聖書を調べ、矛盾と思われる箇所がある場合には、ほかの聖句を持ってきて説明しようとする。聖書で聖書を説明するのである。(ものみの塔2006年8月15日号12~15ページを参照。)

((聖書は矛盾している、との主張に対するエホバの証人の反論については、「ものみの塔出版物索引」の「聖書の信ぴょう性」の項の「聖句間に見られる調和」という見出し以下から資料を探せる。))

信者数は日本で21万人ないし30万あるいは40万とも言われ、2009年現在全世界で731万余の伝道者が活動している。

全世界の統計(公式): http://www.watchtower.org/e/statistics/worldwide_report.htm

エホバの証人の実勢信徒数の数え方: http://jwpc.milkcafe.to/media03.html

機関誌ものみの塔」や「目ざめよ」などを配っている。最近雑誌の朗読版(mp3およびaac(m4b))やオーディオブックポッドキャスト配信、アメリカ手話(ASL)や日本手話(JSL)をはじめとする手話版のビデオキャスト配信、オーディオドラマやPDFによる電子書籍のRSS配信も行っている。

「目ざめよ!」は2006年以後月刊誌となり、「ものみの塔」は2008年から一般大衆向けと研究用(信者向け)とに分かれた。

出版物のダウンロードサイト(公式): http://www.jw.org

モルモン教統一教会と並び、カトリック総本山であるバチカン法王庁教皇庁)からキリスト教系三大カルト(または異端)の一つとされている。

また、カトリックと対立関係にあるが、プロテスタントではない。プロテスタント諸派もエホバの証人との教理上の相違が大きく、エホバの証人自信も自分たちをプロテスタントであるとは主張しない。

http://www.watchtower.org/j/20091101a/article_01.htm

エホバの証人スポークスマンによると、ときおり、日本基督教団牧師が「保護説得」などと称してエホバの証人拉致、監禁して強制棄教を試みるといった事例が生じており、アメリカ大使館日本警察当局に、これを事件として取り締まるよう勧告している。((なお、宗教監禁の実態(統一協会信者)に関する情報は、こちらの月刊現代の記事を参照。))

参考:2003年 国別人権報告書 http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20050601-50.html

ただし、SDA―セブンスデー・アドベンチスト教会―はエホバの証人に比較的好意的であり、国によってはセブンスデー・アドベンチスト系の病院がエホバの証人の望む無輸血医療を積極的に提供していることもある。

主な教義

  • 神の名

神の名はエホバであり、敬意を込めてその名を積極的に用いるべきである。

http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_01.htm

なお、「エホバ」であるか「ヤハウェ」あるいは「ヤーウェ」であるかは彼らにとって大きな問題ではない。マタイ福音書主の祈りの冒頭にあるように、神の固有名を用い、それが神聖にされることが重要である、とする。(マタイ 6:9)

さらに、聖書を翻訳する際、神聖四字(YHWH(JHVH)テトラグラマトン)を「神」や「主」といった称号に置き換えると、読者は一般名詞としての神と固有名であるエホバとの意味の相違が識別できないという弊害が生じる。「神」(エローヒーム)と「エホバ」の違いについて、インペリアル聖書辞典(P・フェアベアン編、ロンドン1874年、第1巻、856ページ)は次のように例証している。

「それ[エホバ]はどんな箇所でも固有の名であり、人格的な神を、そしてただその方だけを表わしている。一方、エローヒームはどちらかと言えば普通名詞の特徴を帯びており、確かに普通は至上者を表わすが、必ずしも、またいつも一様に至上者のことを指しているわけではない。……ヘブライ人はあらゆる偽りの神々に対立する方のことをthe Elohim、つまりまことの神と言う場合があるが、決してthe Jehovahとは言わない。なぜなら、エホバとはまことの神だけの名だからである。また、わたしの神とは再三言うが……決してわたしのエホバとは言わない。というのは、わたしの神と言う場合、エホバのことを意味しているからである。また、イスラエルの神について語りはするが、決してイスラエルエホバについて語ることはしない。それ以外のエホバはいないからである。さらに、生ける神について語りはするが、決して生けるエホバについて語ることはしない。生きている方ではないエホバなど考えられないからである」。(訳文は、聖書に対する洞察、第一巻、「エホバ」の項より。)

  • 悪魔

ヘブライ語聖書中に「サタン」が登場するすべての箇所において、定冠詞が使われており、悪魔は固有の実在者であって、人の心に内在する抽象的な概念などではない。(ヨブ 1:6 脚注)

http://watchtower.org/j/20091001a/article_01.htm

神は愛の動機からすべての良いものを創造された。生きる喜びを分かち合うため、み使い(天使)や人間を、倫理的に自由な行為者、つまり神に仕えるか仕えないか、どのように仕えるかを能動的に選択できるものとして創造された。

やがて天使のある者が自由意志を誤用・悪用して神に反逆し、神の主権の正当性、妥当性、義にかなっているか否かに疑念を差し挟むようになった。その天使は、ヘビを使ってエデンの園にいた最初の男女アダムとエバ(イブ)を罪へといざなった。こうして、完全だった人間は不完全になり、原罪を受け継いで死ぬようになった。

悪魔となったその天子が投げかけた問いは、もっぱら倫理的な論争であった。つまり、悪魔は神の力を否認していたのではなく、宇宙の主権者としてエホバがふさわしいか否かを問題にした。したがって、悪魔と叛逆した人間を即座に滅ぼしても、この種の問題の解決とはならなかった。

神からの独立を望む人類社会には、神から倫理的独立してやっていけるかどうかを試す時間が与えられた。そして、数千年の歴史の中で、君主政治、軍国主義全体主義共産主義自由民主主義などあらゆる政治形態を試みることが許された。

神を愛する人には人間の政治に希望を寄せるのではなく、エホバによる神権政治を支持する機会が差し伸べられている。人間一人一人は、エホバの側につくか悪魔の側につくかを選ばなければならず、エホバの主権を受け入れることによって神の心を喜ばせることができる。―箴言 27:11。(←この側面は「忠誠の論争」とも呼ばれる。)

http://watchtower.org/j/bh/article_11.htm#q10_src

http://watchtower.org/j/bh/article_12.htm#q6_src

なお、悪魔の投げかけたこの論争は、当初から矛盾(論理破綻)していた。悪魔は、自分が論争に勝つなら、エホバ自分を生き続けさせる義務を感じるであろうと考えていたからである。神の公正に疑念を差し挟む一方で、神の公正をあてにしていたのである。(聖書に対する洞察、第一巻、「主権」の項を参照。)

  • 贖い

イエスは、人類を罪と死から救済するために天から地に遣わされた。イエス贖罪死と流した血によって、罪の許しの法的根拠が据えられ、人類には永遠に生きるみこみが差し伸べられた。

http://www.watchtower.org/j/bh/article_05.htm

http://watchtower.org/j/bh/appendix_04.htm

http://www.watchtower.org/j/20091101/article_05.htm

http://www.watchtower.org/j/20090401a/article_01.htm

  • 霊魂不滅の否定

http://www.watchtower.org/j/20091101/article_02.htm

http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_07.htm

http://biblia.milkcafe.to/21-ec-12-07.html

  • 政治的に中立

クリスチャンは天に設立された神の王国の国民であるゆえ、地上の政治論争には一切「内政干渉」せず、神の王国大使また公使として振舞うことが期待される。―ヨハネ 17:16。

http://www.watchtower.org/j/bh/article_15.htm#q12_src

したがって、投票立候補などをしない。

神を愛する者は暴虐を憎まなければならない。―詩編 11:5。

http://www.watchtower.org/j/kn37/article_01.htm

(誤解されがちな点だが、彼らはいかなる戦いをも否定する絶対的平和主義者ではない。旧約聖書ヘブライ語聖書)にある数々の戦いの記録は、将来神があらゆる悪に報復されることを表しており、「復しゅうは神のもの」と聖書にもある。また、クリスチャンは各自「信仰の戦い」をしなければならない。なお、戦争には不参加となるが、政治的な中立の観点から、戦争反対デモなどの活動に加わることもしない。)

  • 血を避ける(地抜きされていない肉を食べない、また輸血を拒否する)

http://www.watchtower.org/j/hb/index.htm

地抜きされていない肉を食べてはならないという聖書の禁止事項は、イエスの流した贖罪の血に敬意を示すべきであるという考えを根底にしている。したがって、これはもっぱら宗教的な性質のものであり、物理的な意味で1ミクロンも血を摂取してはならないという意味ではなく、血抜きのための合理的な努力が払われていればそれでよしと彼らは考える。

輸血拒否に関する医学的な情報については以下を参照↓

日本臨床麻酔学会誌Vol. 26 http://www.jstage.jst.go.jp/browse/jjsca/26/3/_contents/

http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_10.htm

エホバの証人ユダ王国の滅亡を西暦全607年に起きたと考えている。考古学の主流の学説とは意を異にしているが、この点は、「聖書に対する洞察」というものみの塔協会発行の聖書百科事典の「年代計算年代学、年代記述」の項で、かなりのページを割いて論じられている。

http://www.watchtower.org/j/20051115/article_02.htm

http://www.watchtower.org/j/20051201/article_02.htm

裁くのはイエスであり、誰が救われ、誰が救われないかを決めることに、エホバの証人は関与しない。―ヨハネ 5:22。

http://watchtower.org/j/jt/article_08.htm#saved

主な慣行

週に2回ある集会への参加および非信者への証言活動が求められる。(ヘブライ 10:24-25; マタイ 28:19-20。)また、年に1回、地域大会、巡回大会、特別一日大会という、より規模の大きな集まりがある。(詩編 35:18。)

http://watchtower.org/j/rq/article_14.htm

唯一の式典として、年に1回、キリストの死の記念(主の記念式)が行われる。これは、いわゆる最後の晩餐(最後の晩さん)を記念するもので、カトリックミサ(聖体祭儀)に当たる。―ルカ 22:19。

http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_06.htm

指摘される点

新世界訳聖書 

彼らは「新世界訳聖書」という独自に翻訳した聖書を用いている。

オンラインバイブルインターネット聖書)新世界訳: http://www.watchtower.org/j/bible/

恣意的な翻訳だ」「自分たちに都合の良い内容に改竄している」という批判もある。

また、エホバの証人側はこれに反論している。

公式: http://www.watchtower.org/j/20080501a/article_01.htm

個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/

不完全な引用

機関誌・書籍などで、しばしば古今の有名人の発言・著作を引用するが、前後の文脈を無視して極めて恣意的な引用をする傾向にある。(例えば、有名な古生物学者であるスティーブン・J・グールドの著作を、あたかも彼が進化論を否定しているかのような形で引用する)

参考:エホバの証人の本に見られる「不完全な引用

しかし、この点は近年改善されてきており、2010年に発表された創造を指示する小冊子では、相当の配慮が示されている。

人種問題

近年では全人類の平等を謳っているが、同協会に批判的な主張によれば、ローマカトリックを始め、他のキリスト教諸派よりもずっと後(1970年代)まで「黒人は神に呪われた種族であり、知的にも劣っており、終わりの日に遂に彼らが救済される時、彼らの肌は白くなるだろう」と主張してきたという。(下部の参考リンクエホバの証人情報センター」の記述による。同センターは論証的な立場に立っているが、エホバの証人に対する論調は全般に批判的。1970年代およびそれ以前の、エホバの証人における有色人種の扱いについて、より信頼性の高い情報源があればご教示ください。)

世界各国に支部があり、信者のうち白人は1/3程度と推測される。「統治体」と呼ばれる最高指導部は、設立以来多年にわたり白人男性のみで構成されてきたが、1999年メンバーサミュエル・F・ハードが加わったことにより、統治体にも有色人種が加わることとなった。

ナチスとの関係

1933年ドイツで政権を握ったナチスエホバの証人の弾圧を始めると、協会のドイツ支部は大会を開催して(ベルリン大会)、ナチスの政策を支持し、自分たちとユダヤ人は無関係だと主張する「事実に関する宣言」を全会一致で採択した。この大会には、当時のものみの塔協会の会長ラザフォードも出席している。しかし、世界各国に支部があり、本部がアメリカにあるエホバの証人は、この「宣言」以後もナチスの弾圧の対象となり続けた。

しかし、エホバの証人側は、ナチスを政治的に支持していたわけではないと反論する。

公式: http://www.watchtower.org/j/19980708/article_01.htm

個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/07-jg-11-40.html

主な裁判報道など

大ちゃん事件

1985年ダンプカーに轢かれたエホバの証人子供大ちゃんが、両親の輸血拒否にあい、死亡。輸血をしても助からなかったとの見解もあるが、マスコミに大々的に取り上げられた。大泉実成著「ASIN:4768455646」に事件の様子が描かれている。

せっかん死事件

1994年、過剰な体罰、虐待によりエホバの証人信者子供が死亡した。

参考:http://www.jwic.com/abuse.htm

神戸市高等専門学校神戸高専)訴訟

エホバの証人である高専生が宗教上の理由で剣道実技を許否した結果、退学処分を受けたが、1996年3月8日最高裁判所は、この退学処分は違法であるとの判決を下した。

判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319123008290359.pdf

なお、これは教育と信教の自由に関する日本国憲法下における重要な憲法判断である。

輸血拒否事件

エホバの証人の婦人が、事前にいかなる場合においても輸血を施さないでほしい、なおかつ輸血しないことによって障害を負っても医師に責任を問うことは一切しないとの合意書に署名していたにもかかわらず、医師たちはひそかに、事前に示し合わせて、当初から輸血を断行することにしていた。手術後、内部告発によってこのことが明らかになり、裁判となった。2000年2月29日最高裁判所患者人格権侵害したと判決した。

ここでの問題は、強制的に輸血を施したことの是非ではなく、また緊急事態には輸血を施すというその病院の方針が裁かれたのでもない。むしろ、病院はそのような方針をもっているならば、密約をしたりダブルスタンダードをとったりするのではなく、誠実に病院の方針を説明し、患者信条に沿う別の医療機関を紹介すべきであった、ということである。

エホバの証人プレスリリース英語): http://www.jw-media.org/jpn/20000229.htm

判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319120604218580.pdf

このほかにも、エホバの証人国内外で、後に重要な判例となる裁判を起こしている。

参考:衆議院議事録―第159回国会 憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会 第2号(平成16年3月11日木曜日)) http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/010715920040311002.htm?

2010-09-03

2冊のアクション書評 ピーター・ドラッカー堺屋太一

http://twitter.com/zaway/status/22888381585

ドラッカー堺屋太一。2人にはある1つの共有点がある。

それは、未来経済社会のあり方についての「ビジョン」についてである。それを堺屋太一は「知価社会」とよび、ドラッカーは「知識社会」と呼ぶ。キーワードは「脱工業化」、そして「知」だ。従来型の産業構造の転換が求められているという議論は、今も日本で話題になっているが、これは新しいようで古い。そこで今回は、彼らの著作の紹介を通じて、過去の議論をざっと見てみようと思う。



堺屋太一「知価革命

1985年に刊行された、堺屋太一未来予測本。

当時はかなりの反響があった。鉄鋼やエレクトロニクスなど日本製造業が絶頂期にあった中、周囲からのひんしゅくを恐れずに堂々と脱工業社会の到来を予言した。ある意味で、時代を先取りしすぎた本と言えるかもしれない。



まず著者は、古代以来の世界史の「精神史」的側面を振り返りつつ、現在世界が直面している変化を位置づける。むかしは、カネや領土を追い求めた「物質」尊重型の古代文明ローマ帝国中国漢王朝のような)、古代の巨大帝国が崩壊すると今度は、信仰に篤く慎まやかな生活をおくる「精神」尊重型の中世が到来した。それが、産業革命以後の近代ではまた「物質」を追い求める時代へと転換した。その意味では、現代社会価値観古代帝国が基底にある。



しかし、足下ではこれが中性的な「精神」尊重型の社会に立ち戻る動きが見られる。2度の石油ショックが起こり、これで資源が有限であることに人々は気づき環境意識が高まっている。「このまま大量生産、大量消費を続けたら我々はまずいのではないか」、そうみんなが確実に思い始めている。この流れの延長線上にある社会の姿と位置づけるのが、「知価社会」である。



知価社会とは「デザイン性やブランドイメージ、高度な技術、あるいは特定の機能の創出といったことが、物財やサービス価格の中で大きな比重を占めるようになる社会」と定義する。ここで、単に情報産業サービス産業などという特定の業種転換より広い意味をもっていることに注意したい。むしろ、強調されているのは製品としての「コモディティ」の終焉である。彼は確かにこう書いている。「安い規格品よりも高級なブランド品が、より長く使われる「知価」の部分が肥大化した価格攻勢が一般化する」(文庫版p225)。



すでにアメリカでは知価社会への適応が進んでいる。単純な製造業が衰退する一方、ブラディング、マーケティングサービス産業の比率が高まっている。翻って、我々日本にとられるべき選択肢は2つ。知価社会への移行を推し進めるか、それとも従来の工業社会の基盤に固執するか、だ。日本が取るであろう道について、彼は製造業での成功体験が忘れられず従来型産業構造維持型の政策を取り続ける可能性は高いと予測している。しかし、その道は安易であり、長期的に有利とは限らない。国際環境の変化に適用できない硬直化に陥る危険性があると警鐘を鳴らし、締めくくる。




ピーター・ドラッカーポスト資本主義社会

原著は1993年刊。この時齢83歳。

ドラッカーといえばマネジメントだが、 本来は政治社会批評家である。彼がマネジメント研究に入っていったのは、その思想を実践するための手段としてマネジメントが有効だと気づいたからにすぎない。



彼はまず産業革命が起こった要因について振り返り独特の解釈をする。産業革命を起こったのは、生活水準資本の変化意外に、1700年以降から変わったある決定的な要因があった。それは職業組合などの内部のみで、数千年に渡って発展してきた秘伝としての技能が、初めて収集され,体系化され、公開された。技術学校や「百科全書」のような書物によって経験は知識に、徒弟は教科書に、秘伝は方法論に置き換わった。この「知識」こそ、道具,工程製品への応用の連鎖をうみイノベーション加速度的な発展を促したものだった。



そして、今、知識の役割はさらに重要になっている。放射線治療機器CTスキャナ、高度なCVD装置、超高速のスパッタリン装置。今の製造業の基盤になっているこうした生産手段は、労働者の高度な知識があって初めて動く。昔の資本主義がそうであったように、けっして労働者歯車のように資本家に所有された代替可能な機械ではなくなっている。従来の資本主義にあったような「資本家労働者」という次元は今や完全に消滅している。今や富の創出の中心は、資本労働土地から、人間の知識そのものへと移行している。



ドラッカーは、このような形で変化しつつある社会を「知識社会」と称した。そうした社会では、労働者達の知識を効率的に活用し、いかに収益にむすびつけていくか(これをドラッカーは「知識の生産性」といっている)がこれまで以上に国,産業企業競争力にとって重要になってくる(p244)だろう。それはこれまでもそうだったし、これからはさらにそうなっていくだろう。イギリス過去CTスキャナコンピュータ抗生物質ジェット機を開発したが、それを製品サービス仕事転嫁できず、アメリカに抜かれていった。他方、アメリカアメリカマイクロチップコピー機、工作機械などのパイオニアだったにもかかわらず、日本企業がそれらの市場を奪取するのを指を加えてみるしかなかった。そして、日本は、自らが事業の先鞭をつけたほとんどの主力産業液晶テレビカーナビ、電池)で韓国中国企業の強烈なキャッチアップを受けている。



では、いかにして知識の生産性を高めることができるのか?それを実現する手段が「組織が成果を生み出す機能を高めること」。つまり、マネジメントなのである。この結節点において、社会学者としてのドラッカー経営学者としてのドラッカーとががっちりと連結される。

2010-05-29

私は二十一世紀日本についてはいろいろ想像したりします。

人口の半分は遊ぶと思うのです。ちゃんと働くひとびとはもちろんいるでしょうが、

それらに参加したくないというひとびとも出てくるでしょう。すでに現在もその徴候がありますね。

社会に富があればの話ですが、遊んで暮らす人になりたいと思う青年が増えてきても、

不思議でもなんでもありません。

しかし、どうせ遊んで暮らすというのなら、できるだけ知的に遊んでほしいと私は思うのです。

(司馬遼太郎『時代を超えた竜馬の魅力』「高知新聞1985年8月10日朝刊より抜粋)

2009-10-01

日本航空に信用不安

1985年3月湾岸危機の時に、JAL労組ナショナルフラッグである事を放棄している。ナショナルフラッグでもない航空会社労組わがまま経営危機になったからといって、税金を注ぎ込むというのは、いかがなものか。

政治権力とは、法律の条文を変えるという点でしかないし、予算の執行でしかない。法律に縛られている側や予算を受け取る側でなければ、権力は通用しないのである。政治権力を手に入れれば何でもできるというのは、万年野党であった民主党にしてみれば真実であり、与党は怠慢で強欲であると攻撃してきた根拠であるが、実際に権力を手にしてみて、その頼りなさ、役に立たなさに、唖然としているのではなかろうか。

日本航空ビジネス国境の外側を相手にしているビジネスであり、国内で幾ら信用を補完してみせても、国境の外側には通用しない。国境の外側がニュートラルであるという保障なんぞ、どこにも無いのである。友愛とかお花畑な事を言っていられるのは、国境の内側で実権の無い野党をやっている間だけだということに、今更気がついても手遅れであろう。

CO2排出量を1990年基準で25%減少させると国際公約してみせたり、円高を容認してみせたり、キャバクラ通いの費用政治活動費になっていたり、司法が決定した死刑判決の執行を個人の主義で怠けると公言していたり、外国人参政権を認めるとか、人権擁護ゲシュタポ立法案を通すとか、内閣成立後で施政方針演説もしていないのに、不祥事・不適切発言のオンパレードである。

日本航空が、日本投資家から空売りを浴びせられ、海外保険会社金融機関から見捨てられたように、現政権も、交渉の対手とせずと見捨てられつつあるのだが、気がついていないのであろう。

他人の失敗やミスにはすぐに気がついても、自分の失敗やミスには、なかなか気がつかないし、気がついても何かと理由をつけて棚に上げてしまいうのが人間である。事態を悪化させるだけなのだが、取り返しがつかなくなってから、差別されている陰謀に違いないと火病を起こすのが、このタイプ人格障害者の行動パターンである。より大きな権力正義にすがり付いて、自己正当化を計るという行動に移る可能性が高く、地球環境保護政治権力といった物が、このような形質を持った者達に利用されやすい。

人格障害者の政党与党になったというのは、他国のことであれば笑ってみていられるのだが、自国の政権という点が最大の問題といえる。

世の中には、お金よりも人の命よりも尊い物がある。それは信義である。損失を覚悟してでも、命を失う事を覚悟してでも、守らなければならないのが、信義である。信義無き者には、社会に居場所が無いのである。

万年野党で他人をけなす事しかしてこなかったために、信義を守る修羅場経験した事が無く、経験した事が無いから信義に叛いたことが無いという、格付け会社の偽装判定のような格付けで政権を取ってしまった民主党には、世間との対話が欠けている。対話能力が無いからこそ、万年野党になっていたとも言える。マニフェストを毛語録のように振り回す小紅衛兵のような閣僚ばかりでは、全国民に対する法の支配政治権力確立をする為に、社会主義革命を起こすという暴走も予想しなければならないのであった。

[2009.10.1] http://www11.ocn.ne.jp/~ques/diary/diary.html

2009-09-21

http://anond.hatelabo.jp/20090920175209

増田失礼ー。


なぜ、多くの国民は、派遣請負の原則禁止を望むのか?しかも、選挙時にほぼ全政党が、似たような公約を掲げるくらい、圧倒的多くの国民がそれを望んでる。この場を借りて、色々な人に意見をお聞きしたい。

マジレスすっと雇用情勢が悪化したからじゃないの。派遣請負は、人件費を調整するための安全弁として機能している側面があるわけで、景気が悪くなればその影響をモロに受ける。そうなれば『簡単に解雇できる』ということを規制して欲しい、と考える人が数多く現れるのも不思議なことじゃなくね?個人的には金融財政をミックスしたマクロ経済政策の実行によって景気の浮揚を図る方が合理的だと思うけど、景気回復が実現するまでの間、どうにかして手持ちの資金でやりくりせねばならぬ立場の人々が、まず雇用を守って欲しい、と考えることは彼らの立場なりに合理性のある考え方だと思う(これだって、無理矢理解雇規制するよりかは、失業者へのセーフティネットを強化することの方がベターなように思うのだけど。まあ、日本人は所謂生活保護のような社会保障を受けることを恥・罪のように考える傾向が強いし、中々この方面で問題を解決するってことは難しいんだろうね。多分)。



たしかに、この種の労働規制は、格差を拡大させる可能性が高いとしか言えない。むしろ五分五分でもいい。私が疑問に思って、みなさんにお聞きしたいのは、「格差を拡大させる可能性が高い労働規制が、なぜ議論の余地がないほど絶対正義になってしまったのだろう?」です。何かご意見ありましたら、お聞かせください。

そもそも『労働規制』は議論の余地のない絶対正義になってるかなー。旗色こそ悪くなったものの、派遣禁止が雇用の縮小を招くのではないか、という懸念・危惧経済学系のブログを眺めていると割合見かけると思うんだけど(以前から、EUにおける若年失業者の問題と絡めて解雇規制労働者保護が却って労働者雇用に悪影響を与えるのではないか、ということはよく語られていた)観測範囲の違いの問題なのかなあ。少なくとも労働規制が議論の余地の無い絶対正義、とかそんなこと全然ないと思うよ。だいたい、雇用側の皆さんは嫌がってるじゃないですか(笑)派遣の廃止が国民の大半に共有される「絶対正義」だっつーなら、有無を言わさず派遣をみんな正社員に登用してもらいたいものです。


あと、『格差を拡大させる可能性が高い』みたいなことを元増田は言ってるけど、日雇い派遣請負というバッファがあれば正社員に登用されやすくなる、みたいな前提ってどっから出てるんですか。何か統計的に確認できる資料があるようでしたらお見せ頂けると幸いです。正直、そういうバッファが存在するかどうかよりも、マクロ経済の状況のがよっぽど影響大きそうなんだけどなー。それと、一つお尋ねしたいんだけど、増田労働者派遣法が成立する以前(労働者派遣法の成立は1985年。当初は派遣できる業種がかなり限定されていたはずだから、1999年の改正以前と考えてもいいけど)に於ける日本格差は一体どうだったと思ってるわけですか。元増田理屈に従うと格差ひどいことになってんじゃないの。昔の日本マジヤバイ、みたいなことを言いたいわけですか。まあ、昔の日本には格差が無かった、てのは幻想に過ぎない、ということはたまに指摘されていると思うから、必ずしもそういう主張が論理的に成り立たないというわけじゃないけど、どうもその辺についてきちんと考えた形跡の見られない増田の主張には、あまり説得力が感じられないなー。


あと、格差がどうこう言うなら、所得税累進課税率が一貫して減少しつづけていることについても何か言ったらどうなの。あれ派遣がどうとかよりもよっぽどヒドいと思うんですけど(参考:http://tinyurl.com/37dhm6)。具体的な税収についての資料は今手元に無いけど、消費税増税分がチャラになるぐらいは減税されてたはず(てか、改めて表見直して思ったけど、露骨に高所得者が得になるような改正がされてて胸糞悪くなるなー。なんでこれもっと話題にならないんだろ)

2009-09-02

http://anond.hatelabo.jp/20090902170052

ページのディレクトリを上がったら「1985年生まれ」って自己紹介してたよ。

24歳…。

2009-08-15

http://anond.hatelabo.jp/20090815030420

てゆうか「靖国神社が問題化したのは中国が言い出したから」ではないよ。

元々は1969年神道宗教団体遺族会を背景に靖国神社法案ってのが出されて紛糾したのが最初。これは靖国神社特殊法人化するという法案で、これだけ聞くと最近麻生が言ってる案と同じに聞こえるけど全く別物で、要するに特権的な靖国神社国家護持を実現するための法案だった。これが他宗教特に仏教界からの猛反発を受けて荒れに荒れた。自民党は相当こだわっていたようで5年間毎年提出し続けたが結局1974年に廃案になった。

続く1970年代公式参拝か私的参拝かといった話でもめる。例えば玉串料どうなってんのみたいな話もあり政教分離との整合で相変わらずもめつづけた。この間、政府見解は、私的参拝であれば問題ない、公式参拝は問題がある可能性がある、といった立場を取っていた。ちなみにA級戦犯合祀は1970年内定1978年に実行されたが、国民の間ではまだ問題化していなかった、というか国民は知らなかった。

決定的に変わったのが1985年中曽根首相による公式参拝。また、A級戦犯の合祀も問題化していたため一気に問題が炎上した。これは中国韓国の問題のように思っている人もいるけれど、当時は国際社会をかなり震撼させた。アメリカを含む連合国の戦中世代の政治家にとっては「ドイツ首相ヒトラーを拝み始めた」のに等しい(少なくとも彼らの主観では同義である)ため国際問題になった。ただ当時はまだ冷戦真っ只中であり西側の主要国である日本のしかも反共の急先鋒であった中曽根を潰すわけにはいかないという政治判断により、政府レベルでの大規模な抗議は無くなった。ただし西側諸国でも議会レベルでの批判はいまだに散発していてこれは今に至るまで続いている。

長々と書いたけど、要約すると、この問題は結局のところ政教分離問題からスタートしているということ、靖国問題中国が原因というのは時系列的に完全に間違いということ、あたりかな。

http://anond.hatelabo.jp/20090815015341

確か中国が文句を言い始めたのが1985年頃か。

A級戦犯が合祀されてからのおよそ7年間は参拝してたんかいな

2009-06-30

巷に蔓延チャリティー活動

マイケル・ジャクソンが亡くなったということで、TVでもネットでも追悼の意を込めてか、彼が関わっている映像をここのところよく見る。関わっていた一つに「We Are The World」がある。これ1985年に発売した。チャリティーコンサートやら発展途上国を助けようとする動きは昔からあるけど、発展途上国は何か変化があったのか?今でも、アフリカの難民を助けようという話は至ところで聞く。やっぱり、チャリティー活動って焼け石に水なんじゃ・・・。むしろ、与えたお金や物資が危ない組織の手に渡って武器になっているかもしれない。そう思うとますますナンセンスだなー。今は、かわいそうだから救ってあげなくちゃいけない。昔は、あいつら劣等だから、こきつかってもかまない。どっちも同じに聞こえるぜ。見下してることにはかわんねー。お金や物資、俺らが施した教育なんかで彼らは絶対に変わらない。なぜなら俺らの押しつけだもん。また植民地にするって言うなら話は別だけど。

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