はてなキーワード: 1852年とは
そう見えるなら、それはライトフライヤー号がただのガラクタにしか見えなかったのと同じで、技術の成熟度がまだ未熟だからにすぎない。
とはいってもAIはすでに人間を超えていたりして、絵の分野でも人間がやろうと思わなかった表現がちらほら出てきている。たとえばQRコードを組み入れるとか。
photoshopやIllustratorなどのデジタルツールがアナログ手書きの効率化に留まらなかったのと同じように、生成AIもただの効率化には留まらず新たな地平を開拓するだろう。
その先に見えるものが何か、今はまだ予想もつかないが楽しみでしかないな。
(元FOXニュースのカイル・ベッカーのTwitterを日本語訳にしてくれたものがあった。Togetterに仕立て直したいのだが、やり方が分からない。代わりにここに投稿する。)
元FOXニュースのカイル・ベッカーによる仔細な選挙考察。不正否定派に是非読んで欲しい。
わたしがずっと抱えてきた疑問の多くが網羅されている。個人的に検証不可能なドミニオン疑惑よりも、不可思議な数字と統計の方が頭を悩ませる。
Kyle Becker @kylenabecker
READ THIS: "I am a pollster and I find this election to be deeply puzzling."
1. "President Trump received more votes than any previous incumbent seeking reelection. He got 11 million more votes than in 2016, the third largest rise in support ever for an incumbent." [Thread 1/13]
これを読んでくれ、「わたしは世論調査員だが今回の選挙は非常に不可解だ」
1:トランプ大統領は再戦を狙ったかつての現職大統領の内誰より多く票を獲得した。彼は2016年時より1100万票多く獲得したが、これは現職として史上三番目に大きな支持票の増加だ。
2:出口調査によればいくつもの重要な人口分布帯で大きく支持を得たことがトランプの獲得票の躍進に繋がった。95%の共和党はトランプに投票した。
3:彼は1960年以降最多のマイノリティ票を共和党にもたらした。トランプは黒人有権者の支持を2016年と比べ50%増やし…ジョー・バイデンの黒人支持率は軽く90%以下に下落、これは民主党の大統領立候補者なら大抵落選するレベルだ。
4:トランプは全米のヒスパニックによる支持を35%に押し上げた。計算上60%以下のヒスパニック支持率で民主党の大統領立候補者がフロリダ、アリゾナ、ネヴァダ、ニューメキシコを勝ち取るのは不可能である。
5:勝敗の指標となる(Bellwether)州は2016年と比べても更にトランプ寄りに振れた。フロリダ、オハイオ、アイオワは全て米国メディアの予想に反し大きな勝利をトランプにもたらした。1852年以降この3州を手中に収めながら選挙人の数で敗北したのはリチャード・ニクソンだけだ。
6:中西部のミシガン、ペンシルバニア、ウィスコンシンは常に彼らの御近所仲間のオハイオとアイオワと同じ方向に振れる。オハイオもフロリダと同様だ。現在の得票記録を見ると小都市の例外を除きラストベルトはトランプ側に揺れ動いた。
7:しかし雪崩れ込むようなデトロイト、フィラデルフィア、ミルウォーキーの黒人票によりバイデンはミシガン、ペンシルバニア、ウィスコンシンでリードを収めたことになっている。バイデンの”勝ち要因”はほぼこれらの都市の有権者によりもたらされた…
8:…あたかも勝利に不可欠なこれらの場所においてのみ、偶然バイデン支持の黒人有権者が爆増したとでも言うように。これらの都市と似たような人口分布の地域と比較しても、バイデンは同様の支持率を得ておらず、このことは大統領選の勝者においては非常にまれだ。
9:我々はバイデンがかつての大統領候補者と比べ全米史上最大の票数を獲得したと聞かされた。しかし彼が勝利した郡数は全体の17%と記録的に低い。彼は524の郡で勝利を収めた一方、2008年のオバマは873郡を勝ち取っている。しかしどういうわけかバイデンはオバマを超えたわけだ。
10:大統領選の勝者、特に現職大統領に挑み当選した候補者にはdown-ballot(*一枚の投票用紙で上から大統領、上院、下院を選ぶ。したがって上下院)の連帯勝利がある;バイデンは違うようだ。共和党は上院議席を守り、下院では27の接戦で全て勝利し大きく議席数を伸ばして「共和党の赤い波」に乗った。
11:トランプの共和党は州議会を一つも失わず国レベルで躍進した。
12:他にもおかしな点としては世論調査やそれ以外の数字がある。党派別有権者登録数、予備選の数字、各候補者の人気、SNSのフォロワー数、各メディア媒体の視聴率、ネットの検索数などが後者に当たるだろう。
更にこのミステリーに付随するのは滝のようになだれ込んでくるいかにおかしなやり方で大量の票が集められ加算されたかという情報だ。
https://captain.or.jp/?page_id=4231
https://spc.jst.go.jp/news/120801/topic_4_05.html
研究によると、船長や船員の多くはわが身の安全を第一とする傾向があった。
海難事故における男性の生存率は女性の2倍で、子どもは最低だった。
18件の海難事故のうち、女性の生存率が男性を上回ったのはわずか2件のみだった。
そのうちの1つが、1912年のタイタニック号事故だ。タイタニック号の事故では女性と子どもの7割が助かったのに対し男性はわずか2割で、「例外的」と言える。
副島 種臣(そえじま たねおみ、文政11年9月9日(1828年10月17日) - 明治38年(1905年)1月31日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の佐賀藩士、政治家、書家。勲一等、伯爵。初名は竜種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。
目次 [非表示]
1 生涯
2 書家
3 栄典
4 参考文献
4.1 伝記
5 登場作品
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
生涯[編集]
文政11年(1828年)、佐賀藩士・枝吉南濠(忠左衛門、種彰、30石)の二男に生まれる。父は藩校である弘道館の教授を努める国学者で、兄は同じく国学者の枝吉神陽。母は木原宣審の娘・喜勢。父と兄の影響により、早くから尊皇攘夷思想に目覚める。弘道館で学び、この間に江藤新平や大木喬任と交わる。
嘉永3年(1850年)、兄・神陽が中心に結成した楠公義祭同盟に加わる。嘉永5年(1852年)、京都に遊学、漢学・国学などを学ぶ。この間に矢野玄道らと交わる。さらに、神陽の命を受けて大原重徳に将軍廃止と天皇政権による統一を進言する意見書を提出して青蓮院宮朝彦親王から藩兵上洛を求められるが、藩主・鍋島直正に退けられた上、藩校での国学教諭を命じられた。
安政6年(1859年)、父の南濠が死去し、同年3月には同藩士の副島利忠の養子となる
元治元年(1864年)、長崎に設けた藩営の洋学校・致遠館の英学生監督となって英語等を学ぶ。慶応3年(1867年)、大隈重信と脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。
明治維新後は慶応4年(1868年)、新政府の参与・制度取調局判事となり、福岡孝弟と『政体書』起草に携わる。明治2年(1869年)に参議、同4年(1871年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件において活躍する。マリア・ルス号事件では、助けを求めた中国人奴隷を解放したことで、正義人道の人と国際的に支持された。
明治6年(1873年)2月には前々年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件(台湾出兵も参照)の処理交渉の特命全権公使兼外務大臣として清の首都北京へ派遣され、日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈および交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価をされている。同年10月、征韓論争に敗れて下野し、明治7年(1874年)には板垣退助らと共に愛国公党に参加、同年には民撰議院設立建白書を提出したものの、自由民権運動には参加しなかった。西南戦争中は、中国大陸中南部を旅行滞在している。
明治12年(1879年)、宮内省一等待講。明治17年(1884年)、伯爵。明治20年(1887年)に宮中顧問官、明治21年(1888年)に枢密顧問官、明治24年(1891年)に枢密院副議長になり、明治25年(1892年)には第1次松方内閣において内務大臣を務めた。
アントニ・ガウディ(カタルーニャ語:Antoni Plàcid Guillem Gaudí i Cornet, [ənˈtoni gəu̯ˈði i kuɾˈnɛt] 1852年6月25日 - 1926年6月10日)は、スペイン、カタルーニャ出身の建築家。19世紀から20世紀にかけてのモデルニスモ(アール・ヌーヴォー)期のバルセロナを中心に活動した。サグラダ・ファミリア(聖家族教会)・グエル公園(1900-14)・ミラ邸(カサミラ、1906-10)をはじめとしたその作品はアントニ・ガウディの作品群として1984年ユネスコの世界遺産に登録されている。スペイン語(カスティーリャ語)表記では、アントニオ・ガウディ(Antonio Plácido Guillermo Gaudí y Cornet)。