はてなキーワード: 黒澤明とは
前々から「推し活」というものにうっすらと疑問や違和感を持ってきたが、最近少しずつ言語化できるようになった気がするので、ここでまとめておきたい。
第1に、「推し活」においてはドラマや映画などの作品の内容や質が軽視されていることである。
昔ながらの映画ファンは、宮崎駿の「ナウシカ」「ラピュタ」は素晴らしいけど「ハウル」は意味わからないとか、黒澤明の「七人の侍」「椿三十郎」は凄いけど「影武者」はスケールが大きいだけで内容はつまらないとか、三船敏郎は黒澤映画では神だけどそれ以外では大根役者でむさ苦しいだけだとか、そういう話を当たり前のようにしてきた。
しかし「推し活」をしている人たちは、その当たり前のことを許さない。「推し」が出演している映画やドラマについて、「あれは出来がよくなかったね」と言ってはいけない雰囲気が強く存在する。事実、近年の日本のドラマがレベルが高くて面白いという話は全く聞かないし、「個人の感想」で言えば5分と見続けられないレベルだと思うが、Tverの視聴回数はドラマが上位を独占しているという。これは、ドラマや映画が「推し」を鑑賞するための舞台背景でしかなくなり、その内容や質が軽視されていることを意味している。
最悪の結果になった「セクシー田中さん」騒動について、その背景には間違いなく「推し活」がある。つまり、現在のドラマ作りは、優れた原作や脚本を土台にして配役を決めるという当たり前の順番ではなく、まず「推されている」人気の俳優やアイドルのキャスティングが先にあり、その後に適当な(人気と知名度がありそうな)漫画原作を探す、という逆の順番になっているのだという。そのように、日本のドラマ制作の現場は、主要な視聴者・顧客層である俳優・アイドルの推し活をしている人々の期待に応えることを優先してしまっており、当然ながら原作者の意図や想いなどはほとんど重視されない結果になる。
第2に、「推し」に不祥事があった場合の精神的なリスクが大きすぎることである。
普通の映画ファンなら、たとえ宮崎駿がセクハラ疑惑で文春砲を浴びたとしても、当たり前の話、「ラピュタ」の面白さまで否定されたとは感じないだろう。しかし「推し活」をしている人たちは、「推し」の全人格・全人生にわたって推しているので、「推し」が不祥事で文春砲を浴びてメディアから消え去ってしまった場合、「推し」の出演作を鑑賞するのもつらくなり、精神的に病んでしまうことになる。当人だけのことなら自己責任だが、大抵の場合は友人や家族を巻き込んで、周りも疲弊させることになる。
第3に、最終的に犯罪的行為や人権侵害を擁護してしまうことである。
昔ながらのプロ野球ファンなどは、例えば巨人の選手や経営陣に何らかの不祥事があった場合、巨人ファンが真っ先にそれを批判することも普通だった。しかし近年の「推し活」の場合、旧ジャニーズや宝塚の問題で露見したように、「推し」の不祥事がパワハラや性加害のような事案にあたる場合でも、完全に無視・スルーする人はまだましなほうで、それを全力で擁護したり、報道を虚偽と決めつけたり、被害告発者をバッシングする人たちが目立った。当然外野には全く理解されないし、犯罪的行為の肯定にもなるので、SNSでは大炎上するし、やはり精神的に疲弊して病んでしまうことになる。「推し活」の内部からパワハラや性加害を反省してなくそうという主張や運動は、残念ながらほとんど皆無に近かった。
前々から気にはなってんだけど。
宗教団体がその教義を広めるために、信者の動員も期待して作る映画って言うと最近はハッピーをサイエンスする人たちのやつが有名だけど、どうもそんなんとは格が違うっぽいんだよね。
まあ古い日本映画のことを知らなければなんのこっちゃ?だろうが、かなりな組み合わせた。
舛田利雄がどれくらい凄いかというと、かつて『トラ・トラ・トラ』というハリウッド資本で真珠湾攻撃を映画化する企画があって、当初、日本側の監督だった黒澤明がトラブルで降板したあと、共同で日本側監督をやったくらいの人。(もう一人は、『仁義なき戦い』『バトルロイヤル』の深作欣二)。
橋本忍は、黒澤の『羅生門』の脚本書いて世にでた人で、その後の凄さはもうwikipediaでも見てくれ。
で、主演(創価学会第二代会長の戸田城聖の役)が丹波哲郎、日蓮大聖人役は仲代達矢。
“今度の新作には千眼美子が出てるらしい”とか言うのとはレベルが違う。
“東宝映像が制作を行っていることから、1作目での十界論のイメージや『続』での立正安国論の天変地異描写などに特撮が用いられている。当時は映画業界の斜陽化により特撮作品の制作も減少していたが、東宝は本作品でその存在感を知らしめ、以後キャラクター・パニックもの以外の映画やCMなどでの特撮制作の受注が増加していった”
のだそうだ。
なんかこれ、純粋に映画としても結構おもしろいんじゃなかろうか?
過去にシナノ企画という学会系の会社からDVDも発売されたようだが、今は中古しか出回っていないようで、Amazonでは1万円くらいで出ているのだが、さすがに1万だしてまで見たいか?と聞かれると
まあそこまでではない。
が、やはり気になる。
中村主水や他の人の刀の斬る・刺すの音に関しては…
あれは「川の流れる音」や「水を流したまま石鹸で手を洗う音」の「録音テープ」を、手で早く送る(斬る・刺す)、手でゆっくり戻す(抜く)という感じ。【必殺シリーズ完全百科という本にも書いてあるから間違いないと思います。】
中村主水の効果は比較的簡単、実際に”肉の塊”を切ったり突いたりして録音した音をサウンド・コンポーザーで加工しています。シーンにあわせて伸ばしたり縮めたりしてますね。
時代劇のチャンバラの音はたいていこれ。一説には黒澤明が発案したんだとか・・・。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1016637550
観客が作品本体の話で盛り上がるのではなく、作品の中に自伝的要素を探しはじめてあーだこーだやりはじめると失敗作の証拠で、かつは黒澤明の『夢』、ジョージ・ルーカスのプリクエル、コッポラの『ゴッドファーザーPart3』なんかもそうだった。作品として強度が弱くつまらないからこういう現象が起きるのだが、たとえ自伝だったにせよ、作家の人生のうち我々に見えているものなんか0.01%もないわけで、作家が何に何を投影したかなんて全く関係ない観客が正確に理解できるわけもなく。
老境に入ってからの作品といっても『かぐや姫の物語』とか『アイズ・ワイド・シャット』とかそんな現象は起きなかったでしょ? 優れた作品とはそういうもの。作品本体の話で盛り上がれるもの。
しかし、それゆえか映画を見終わったあと若い人たちからはよくわからなかった、という会話も聞こえてきた。
だが、子供時代から宮崎駿のアニメに親しみ、そして反抗し、そして再び畏敬の念を抱き、そのあと少し忘れてしまっていた世代である私には響いた。
なんというか、これは宮崎駿から私たちへの最後の挨拶のようにも感じたからだ。
舞台は戦中、主人公の少年は裕福な家庭に生まれ、田舎へと疎開する。
作品を見る前の予想
・自伝的要素が強い
・宮崎駿アニメの集大成的要素(あるいは大甲子園的な展開もありえる?)
しかし、物語冒頭の観客の心を鷲掴みにしてくるパートの見事さから宮崎駿の老耄ぶりを心配する必要はなくなった。
はず、だったのだが、どうにも見ていて大丈夫か?この映画?と心配になるときが何度かあった。
というのは映画の冒頭から序盤までのパートはいいのだが、サギが出てくるパートから映画に対しての不愉快さが積もり始めるからだ。
予想していた悪夢的な醜さをコントロールできていないのではないか?と心配になり始める。
だが、見終わった段階で言えることはこれは計算通りのものであり作品の設計に狂いはない。
観客がそろそろ、この映画に見切りをつけたくなる、というタイミングで物語は猛スピードで展開し始める。
まだ上手く消化できていないのだ。
創作とは。
確か村上春樹とスティーブンキングは創作とは、掘り進める行為であるとか言っていたような気がする。
小さなミノで岩とトントン、トントン自分の心の底を削り続けるうちに創作の源と出会うとかなんとか、そういうイメージ。
その石の力で、世界をつくりあげた人物であり、今となっては力尽きようとしている老人。
石の積み木の位置を渾身でもって微調整しても世界はもう保たないのだ。
世界は滅ぼうとしている。
そう世界は滅びるのだ。
老人の世界を形作る石の積み木は微調整しても、もう新しい世界を生み出すことはないし、
ああ、駿、駿、駿。
なんと悲しいことを律儀に告げることのなのか。
みんな、みんな突然いなくなる。
志村は、なんの前フリもなく消えた。
その他のたくさんの愛すべき人たち。
彼らは何の別れの挨拶もなく消えていった。
でも。
ああ、駿、駿、駿。
お前は何と律儀に別れの挨拶をしてくるのか。
そして、その悲しさに私は胸が張り裂けそうだ。
インコ王様は、新しい積み木をこうやってああやってこうすれば、それで世界は再生するのだ。
とやってみせるが、それは世界の滅びを早めるだけだった。
世界は石の力を扱える血族でなければ、存続させることが出来ないのだ。
黒澤明でいうところの夢じゃろ
※不妊治療されてる方は傷つく可能性がある表現があるのでご注意ください※
最近何だか生理が今までになく重くて辛くなってきたなと思っていたら、健康診断の婦人科検診でチョコレート嚢胞があるので再検査が必要とのことで。
言われるがままに近所の婦人科で再検査を受けた結果チョコレート嚢胞と内膜症ですねとの診断だった。
寝てても途中で起きるぐらいの激痛と、経血量は1時間多い昼用のナプキンがもたなかったから、やっぱりそのレベルの人は病院行ったほうがいいっていうのは本当なんだなと思った。
最近の不調はやっぱり理由があったんだなあと納得したし、あーほんとにアラサーになると色々体が変わってくるんだなあとか色々思ったけど正直心底ホッとした。
不妊で悩んでる人には本当に本当に申し訳ないけど、あーこれで「子供は?」って聞かれた時に質問をかわせてその後も掘り下げにくい感じにできる理由ができたなってホッとした。ぶっちゃけ激痛だし辛いけど積極的に治療する気になれない。
一人は寂しいから一緒に住んでる人はいるけど本当に子供産むつもりない。なまじ一緒に暮らしてる彼氏がいるので当然産むだろうと思って周りの人たちも思って聞いてくるのが本当に面倒で期待されるのもダルかった。
もちろん内膜症だったら絶対に子供が産めないわけじゃないし、内膜症の治療や不妊治療をすごく頑張って頑張って授かってる人もいるけど、私の周りの人たちは流石に結婚してない段階のアラサー女に不妊治療頑張れと言ってくるほどデリカシーが終わってるわけじゃなかったのがありがたかった。
ずっとちゃんと生きてる大人の仲間のふりをしてきたけど、ずっとずっと降りたかったものがいろいろある。
仕事は自分のできる限り頑張ってきて、自分のやりたいことなんて何にもないから会社にとって必要なことを任されれば任されるだけ全部頑張って過労死ラインで一生やってたら去年ついにダメになって退職した。
本当はもう無理ですって言いたかった仕事がたくさんあったけど、あなたの経験になるから、あなたならできるって言われるともう無理だったし、コミュ力が終わってるのでそんな交渉をする元気も胆力も残ってなかった。
元々自分の不調に気付きにくい性分なのも相まってもう降りたいって思った時には完全にダメになってたし、勇気を振り絞って言った「もう無理です」は「ちゃんとできてるよ、十分にやれてるから気にしないで!」で返されておしまいでした。
基本的にコミュニケーション能力が弱すぎるので、「ああもう降りたい」っていうものに一つ一つ理由をつけて自分で言い訳ができるとしたらもう病気が見つかるしかないダメな大人になりました。
黒澤明の「生きる」をみてなんていい映画なんだろうと思ったけど、今自分が癌の告知を受けたとしたらあんなにショックを受けれるかなあ。
ああこれでやっとまた降りれるって思うんじゃないかな。
「黒澤明の口癖は「伝えたいメッセージがあるなら、看板でも作って繁華街を練り歩くことだ」だった。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A0%E7%94%BB%E8%A9%95%E8%AB%96
日本には面白い時代劇をつくる体力がもう残っていないから無理なんだよな。
なぜ今の時代劇が安っぽいかと言えば、昔の現場レベルでのノウハウが、もう継承されていないから。
例えば三船の演じる浪人のような、着崩した着物の着付けはコツがあるらしいのだが(だからどんなに激しいアクションを撮影しても、あれ以上は崩れない)、あれはもうどう頑張っても再現できなくて、ロストテクノロジーなわけ。
ああいうキャラクターを出そうと思っても、見た目を真似る時点でもう不可能という所まで来てしまっている。
だから荒くれ浪人なのに、糊のきいたような着物の着方になってしまう。
もちろん、浪人の見た目以外にも、観客が「これぞ時代劇」と感じる要素は沢山あって、それらのほとんどは再現不可能なのだ。
邦画界が崩壊し、時代劇のノウハウが継承されず失われていく様は、時代劇研究家の春日太一の著書に詳しく書いてある。
この人は知識量も行動力もはっきり言って超すごい人で、この人がこんなに頑張ってもどうしようもなかったんだから、時代劇はもう無理だなとしか思えない。
ちなみに増田が書いたような作品は、三池崇史の十三人の刺客がかなり近い。
十年ほど前の作品で、評判もなかなか良く、それこそ映画界隈はかなりこの作品に期待をかけていたが、邦画がそこから何か変わったかといえば、何もない。
黒澤明のリメイクも、時代劇復興のため何本も作られたが、全て死屍累々に終わった。
また、アニメ時代劇の傑作「クレしん 戦国大合戦」を実写リメイクまでしたが、これも推して知るべし。
邦画界は意外に、時代劇復興を頑張ろうとはしてはいるんだよね。
すべて空回りの企画なんだけど。
ちなみに、古い時代劇の海外での知名度は相当なもので、生半可な作品では海外でも通用しない。
普段はアニメの劇場版くらいしか見ないのだが、割引チケットが使えずに余ったのでせっかくならとはてブで見かけたこの作品をと前日に思い立ち、翌朝大学へ行く前に見た。
原作の黒澤明作品については全く、有名だという雪の中公園のブランコをこぐ老人の画のことなども全く知らず、そもそも映画に全く明るくない自分である。
ヒーローが世界ごと我々を救いに来る話でない、青春の燦々と輝く汗を我々に振りまく話でない。この物語は小さな人生を、普遍的な人間の怠惰を認めながら、挑戦への契機を残してくれる、まさしく鑑賞者を生かしてくれるものだった。
そんな小さくて地味な物語を2時間も飽きずに見ることができるものかと、ヒューマニズムを描いたドラマなど見ることはないだろうと思っていたが、原作から引き継がれた構成の巧みさ、戦後イギリスの生活の目新しさ、心の底まで侵入する繊細な画面作り、空想を現実に構築する演技、それらすべてに圧倒されてあっという間に終幕であった。
結局何も変わらないかもしれないけれど、長い人生の中何度目標を見失ってもいいから、ふとした時に誰かのことを思い出して何か変化を起こすことができれば、きっと誰かに何かを残すことができる、そう控えめに背中にぬくもりをくれた。
増田って何か始めるのにちょうどいいよね、自分を背負わずに目標を書けるから、達成できなくても罪悪感がない。
俺は今年こそ、こんな感じのアウトプットを定期的にやる。今年こそ。
Q.ファーストコンタクトを扱った映画を列挙して。
A.ファーストコンタクトを扱った映画は、SFジャンルの代表的なテーマの一つです。以下にいくつかの例を挙げてみます。
「2001年宇宙の旅」(1968年) - スタンリー・キューブリック監督の名作で、異星人とのファーストコンタクトを扱ったSF映画の代表格として知られています。
「E.T.」(1982年)- スティーブン・スピルバーグ監督の名作で、地球外生命体と少年エリオットとの交流を描いたヒット作です。
「コンタクト」(1997年)- ジョディ・フォスター主演のSF映画で、異星人とのファーストコンタクトを扱った作品です。
「インデペンデンス・デイ」(1996年)- ローランド・エメリッヒ監督のヒット作で、地球外生命体の襲来と人類との戦いを描いた映画です。
「ワープロ」(1999年)- アキラ・クロサワ監督の作品で、異星人とのファーストコンタクトを通じて人間の心理を描いた映画です。
「アライバル」(2016年)- ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の作品で、謎の異星船が地球に降り立ったことから始まる、異星人とのファーストコンタクトを描いた映画です。
これらは、ファーストコンタクトを扱った映画の中でも代表的なものの一部です。
A.「ワープロ」は、1999年に公開された日本のSF映画です。監督は黒沢明(クレジットは「アキラ・クロサワ」として表記)で、主演は松隆子とリリー・フランキーが務めています。
この映画は、異星人とのファーストコンタクトを描いたSF作品で、異星人が送ってきた謎の文字を解読するため、主人公の女性研究者が「ワープロ」を使って翻訳を進めていくというストーリーです。
映画は、SF映画としては珍しく、異星人との接触シーンがなく、翻訳作業に主眼が置かれています。また、黒沢明監督の晩年作品であり、映像や音響に重厚なものが多く、哲学的な要素も含まれています。
日本史をChatGPTに教えてもらっていた。室町時代の話で「倭寇」という海賊がでてきて、面白そうだと思い、聞いてみた。
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倭寇を題材にした小説や映画は数多くあります。以下に代表的なものを挙げてみます。
【小説】
宮本武蔵『五輪書』:宮本武蔵が倭寇として活躍する場面が描かれています。
内田康夫『赤い指』:現代の日本人が、倭寇の遺産を探す物語です。
大岡昇平『海峡』:朝鮮半島を舞台にした、倭寇と朝鮮人との戦いを描いた歴史小説です。
【映画】
黒澤明監督『天国と地獄』:江戸時代の商人が、誘拐された娘を救出するために、倭寇の首領と手を組む話です。
中村登監督『海賊とよばれた男』:倭寇の海賊として活躍した男を描いた映画です。
神代辰巳監督『二百三高地』:第二次世界大戦中の日本軍とアメリカ軍の戦いを描いた映画ですが、倭寇が登場する場面もあります。
その他にも、テレビドラマや漫画、アニメなどでも倭寇を題材にした作品が多数存在します。
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ほほう、黒澤明の映画面白そう!と思ってアマプラで見たのだが待っても待っても倭寇は出てこないし、よく考えたら江戸時代が舞台でもなかった。
まあでも三船敏郎はかっこいいし山﨑努の若いころの演出も見れたし話しも面白かったからよかったのだが、ChatGPTを安易には信じない方がいい……
〜あらすじ~
若い頃にアメリカに来てコインランドリーを経営している広瀬香美は(若い頃の)ジャッキーチェンと離婚危機にあり、認知症の養父、橋爪功と大学を辞めてタトゥーを入れたレズビアン娘、渡辺直美と暮らしていた。
「僕は君の夫じゃ無い」と言い出すジャッキーチェン。広瀬香美は混乱の中、襲ってくる敵と戦っていくことになった。
そして広瀬香美はジャッキーチェンと結婚しなかった世界線の広瀬香美Bの人生を知ることになる。
マルチバース上の彼女はあるときはカンフースター、あるときは歌手、ある時は足が器用だった。マルチバースの記憶を共有することで、広瀬香美は格闘技をマスターし、最強の広瀬香美となるのだ。
広瀬香美はミシェル・ヨー、ジャッキーチェンはインディージョーンズやグーニーズのあの男の子という映画好きの日本人なら結構興奮するキャスティングだったりする。他にもアジア人の映画オタは知ってる有名人たくさん。
インディーズ映画なので予算も低いらしいが、そうとは思えない映像の凝り方やCGの使い方は圧巻だった。スタッフロールに日本人名もちらほらあったのが嬉しい。日系人のオスカー部門賞受賞も期待している。
まあいわゆる「ハリウッド映画」は世界中が見てきてると思うがエブエブはそれとは全く違う。
日本人も親しんできたカンフー映画前提で、日本の邦画要素も強くあり「なんでもオッケーだよ。好きなことをしよう!黒澤明はもちろん、ナンセンスギャグもジャンプレベルの下ネタも、ごちゃごちゃごった煮でいこうぜ!中国政府の規制?貴様は無視だ!」というアジアの良いところが詰まっているのだ。
だからお上品な映画が好きな人は避けてほしいし、ボーボボやマサルさんと言われるのだろう。
マルチバースの解釈はスタッフにアベンジャーズシリーズでお馴染みのルッソ兄弟が入っているので、マーベル好きなら特に抵抗感なく見れるだろう。
ここまでの話では奇抜だという印象を持つと思う。
しかしこの映画、メインストーリーが恐ろしく素晴らしく、そしてシンプルなのだ。世界観のカオスさを超えて真っ直ぐテーマが突き刺さり、何もよくわかっていないのに感動が押し寄せてくる。
石と石が喋るシーンが本当に泣ける。画面には声もない。石に字幕がついてるだけだ。それなのに何故だか頬に涙が伝っていた…。
予測もつかない展開だ。説明も難しい。だからこそ一度見てほしい映画だ。映画好きならきっとこの映画を愛してしまうだろう。
それにしても最近、大人が肩車をよくするのを見る気がする。あれはRRRだったか。アジア人は肩車をするものだと西洋人が勘違いしたらどうしよう。
期待に答えて練習すっか…。
※広瀬香美さんはミシェル・ヨーに似てるからってだけでエブエブの日本公開応援ソングを歌っておりますが、めっちゃ世界観あってるので一度見てください。