はてなキーワード: 駐車違反とは
ミニカー登録している三輪バイク、いわゆるトライクに乗っている。
俺が乗っているのは、トライクといっても、結構小さい三輪バイク。いわゆるピザ屋バイクだ。
歩道に駐車して感じたメリットを紹介したい。メリットといえるのかどうか微妙だが。
駐車するスペースはミニカーなのに自転車置き場の「駐輪」場に駐車可能。
たまたま、わけあって、数時間、大きな歩道に駐車になってしまったとき、周りの自転車が撤去されていたのに、なぜかこのミニカーだけは撤去されていなかった。
自転車撤去は、市役所の仕事で、ミニカーは車扱いなので、行政区分が違うからなのか。それとも重すぎたためなのか。たまたま見逃されたのか。いずれにしても、撤去されたことも、駐車違反で取り締まられたことがない。
ミニカーの歩道駐車は、取り締まりのグレーゾーンなのかもしれない。
これをメリットといってもよいのかどうか。
まずは次のような状況を考えて欲しい。
問題:
ある日、あなたは駅前に自転車を停めて出かけたところ、誰かに盗まれてしまった。
次の日、あなたは近所の庭先に盗まれた自転車が停まっているのを見つけた。
これに乗って帰ることは違法だろうか。
答え:
違法。
解説:
直感で考えれば、「自分の物を取り返して何が悪い」と思うかもしれない。
しかし、これこそが『暴力装置』の基本であり、近代法の基礎である。
『暴力』といえば、誰かを殴ったり、銃で撃ったり、もうすこし大人しいところだと、相手を怒鳴りつけたり、そういう場面を思い浮かべる。
しかし、法学での『暴力』はもっと範囲が広い言葉で、「相手の意に沿わないことを強制させる力」くらいの意味だ。
たとえば駐車違反の罰金も、国民の財産権を、国が侵害するのだから、『国家の暴力』ということになる。
あなたが盗まれた自転車を見つけて、そのまま乗って帰ることは違法である。
法律に詳しい人なら、窃盗罪だとか占有離脱物横領だとか思いつくかもしれないが、
ここではそれがどんな罪になるかは考えないことにしよう。
とにかく、罪になるということさえ覚えておいてくれればよい。
なぜ日本の民法がそれを罪としているのか、基本となる考え方を説明してみよう。
かつての日本では、盗まれた物を奪い返すのは罪ではなかった。
公正な裁判など期待できない時代である。自らの権利は自分で護らねばならなかった。
「神は正しき者に力を与えるから、決闘すれば正しき者が勝つに違いない」など、無茶苦茶な理論がまかり通った時代もあった。
こういった考え方を『自力救済』と呼ぶ。
自力救済は裁判よりずっと迅速だ。
しかしこれでは「力こそが正義」となってしまう。弱者は抑圧され、ヤクザがはびこり、200X年、世はまさに世紀末となってしまう。
そこで近代法では、『暴力を振るってよい者』を決め、それ以外の者は暴力を使えないことにした。
『暴力を振るってよい者』を誰にするか。
もともと強い者たちに割り当てるわけにはいかない。そんなことをしたら、より弱者の抑圧が強まるだけである。
では、弱者に割り当てればどうか。弱者と強者が入れ替わるだけで、抑圧が続くことは変わりない。
つまり、あなたが駐車違反の罰金を支払わなければいけないのは、国民であるあなたが「駐車違反をしたものは罰金を支払わなければいけない」というルールに同意したからだ。
もちろん実際にその『暴力』は、国家に雇われた警官や軍人が振るうのだが、『暴力』をコントロールしているのは国民であるあなた自身である。
駐車違反の罰金が高すぎると思えば、選挙でそういう意見を持つ政治家を当選させるか、あなたが立候補して、法律を変えればよい。
そろそろ締めくくろう。
盗まれた自転車を見つけたらどうすればよいか。110番通報して、警察に来てもらうのが正しい。
そうすれば警察はあなたと泥棒の言い分を聞いて、正しい持ち主の元に自転車を返すだろう。
警察が暴力装置であるからこそ、泥棒から自転車を取り戻せるのである。
しかし実際には、国家が『暴力』を独占しているからこそ、ヤクザの理不尽な暴力におびえることなく、私たちは安心して暮らしてゆけるのだ。
もっと考えてみたい人に:
自衛隊を指揮しているのは内閣総理大臣です。これをシビリアンコントロールと呼びます。
シビリアンコントロールの考え方を説明してみよう。
駐車違反が目障りなのは、駐車場・駐輪場が十分に無い店舗の側の問題であって、取り締まる警察の問題ではないのに、駐車違反だから警察だろうと問題解決を押し付けたら、取締りを民間に丸投げして天下り先を作ってしまった([2003.3.28])。
[2003.3.28]って何?
厚生労働省の最大の問題は、年金や保険といったビジネスをやってしまっていて、図体が大きくなりすぎている点にある。これを、再分割して細かく分けようという話らしいが、もともと、国営でやる事が間違っているネズミ講である年金を抱え込んでしまっている限り、そこが最大の予算を食う場所になる事は変わらない。
国営ネズミ講を破綻させるか、個人や家族名義での積み立てを消費するという形式へと誘導してソフトランディングさせない限り、分割は、社会保障に縦割りを発生させるだけである。
縦割りで間違った活動をしてしまうのは、問題を省庁に投げる人の資質のせいであり、問題を投げつけられた省庁としては、上からの命令である以上、何かの結果を出さなければならないが、どうやってもまともな結果が出せるわけが無いのだから、省利庁益の為に働くしかないという事になる。官僚が政治家を馬鹿にしてまともに働かないのは、政治家の側にも問題があるのである。
駐車違反が目障りなのは、駐車場・駐輪場が十分に無い店舗の側の問題であって、取り締まる警察の問題ではないのに、駐車違反だから警察だろうと問題解決を押し付けたら、取締りを民間に丸投げして天下り先を作ってしまった([2003.3.28])。車が無ければ生活できない地方において、運転代行という事業が発生し、タクシー会社が営業妨害だと陳情したら、運転代行に二種免許が必要になり、結果的に、飲酒運転が増えてしまい、挙句の果てには飲酒運転を厳罰化してみたりという、世情に疎いお坊ちゃんやエリート様が、問題文に含まれている単語に脊髄反射して処理担当を割り当てた結果、社会が混乱するのである。
行政の改革は必要であり、その手段として、厚生省と労働省を合併させた巨大省庁を発生させ、国民の生活や人生設計に国家が直接介入する状況を問題視させるという手段に対し、直接介入を止める方向に進むというのが国民の認めた正しい道だというのに、わざわざ分割して時間を浪費しようというのだから、筋が悪いにも程がある。
一般に"優秀な人"という評価の正統な解釈は、他人の下で使われている状態で優秀な人という意味である。そういう人がトップに立つと、変化に対応できず、反動保守という懐古趣味に走り易い。問題解決の役に立たないばかりか、解決の為に変化させた事を、改革の痛みや出血と称し、ことごとく否定するようになる。無論、改革手法の選択ミスや行政機構の企みで、一般市民に痛みや出血が発生するように捻じ曲げられてしまった制度がある事は事実であるが、そういった制度に対しては、何ら対策を講じようとせず、既得権益層の痛みや出血にのみ、大盤振る舞いをして支持をつなぎとめようとする行為は、国民の支持を不要と言っているに等しい。
……
稲垣メンバーの時も、個人的には今回同様「くだらない事で騒ぎすぎじゃないか?」
やったことの違いでしょ。「公務執行妨害」つーても色々あるわけで。
路上で駐車違反の取締りを行っていた婦人警官の制止を振り切ってクルマで逃走しようとした際、婦人警官の足にバンパーを接触させる事故を起こして、公務執行妨害と傷害罪で現行犯逮捕
…っすよね。これじゃ同情する余地が無い(事実がどうであったかには諸説があって不明)。
一方今回のは
港区赤坂の檜町公園で、酔っぱらいが騒いでいると、近所の男性から110番通報があった。
署員が駆けつけたところ、草なぎ容疑者が1人で全裸になって、「裸になって何が悪い」などと意味不明な言葉を叫んでいたという。このため、署員が現行犯逮捕した
…というわけで、むしろ気の毒つーか叩く要素が無い。
http://www.asahi.com/national/update/1225/TKY200812250058.html
で、その中の一人が全然飲んでなかったので(下戸ではない)
「何で飲まねーんだよ」って話をふると
「車で来たから」という答え
車つながりでそいつに
「そういやおれ今免停中で車乗れないんだよー」
という話をしたらすっげー勢いで馬鹿にされた
「なんで免停なんか食らってんだよwww」
みたいな感じで
(そいつとおれは同時期に車を買ったんだけれど俺はちょうど一年目で免停くらった)
で、飲み会も終わって帰りに俺を含めて数人を家まで送ってもらったんだけど
その時やたらそいつの運転が荒いんだよ。
まー雨の日ってのもあったんだけど、
・信号ちゃんとみてなくて停止線オーバーしたり(でそのまま行く)
・青信号になっても友達と話してて進まなかったり(後続車いなかったけど)
・急発進・急停止とか
で、俺はすごく気になるんでそのつど突っ込んでたらそいつは一言
なんか釈然としなかったんで
「お前って年間走行距離いくらだよ」と問うと
「1000キロくらい」との答え。で今までで一回だけ違反したことがあると。
俺は年間20000キロくらい走ってて違反回数で言うと3回。
で、それってどうなの?
保険料だって年間走行距離で決まるじゃないか
大昔なら一年という期間で区切るしかなかったろうけど
今なら免許証とメーター連動させればどうにかなると思う
でもそういうのって全く議論されてないような気がするんだけどなんでだろう
誰か偉い人教えてください
(読み返して思ったけどなんてわかりにくい文章なんだ・・・。)
まー結局違反するやつが悪いんだけどね
この記事は非モテの10代、20代に向けです。
私は国立大学の修士課程で、身長は181cm70kgで背の高い標準体型です。
趣味はゲームか読書、あるいは高校のときの友達とサッカーをすることです。
外見はよくナイナイの矢部とかミッチーに似ていると言われますが、
決してイケメンではありませんし不細工といわれたこともありません。
その証拠に、今までに告白された回数は10回程度で世の中でモテると言われている人たちには到底及びませんし、
もっと言えば、その中で私が彼女のことを知っていたのは2人だけで他の人はいきなり私の前に現れました。
さて、ここまで読んで私は生涯で付き合ったことあるいはエッチをしたことがあると思いますか?
答えは、一度も付き合ったことはなくエッチもしたことがない童貞です。
私の主張は次の2つです。
私は、自分で言うのもおこがましいとは思いますが有名な大学の修士であり、成績優秀で見た目だって悪くはないはずです。
今まで法を犯したことは駐車違反ですらなく、健康的な大学生の典型だと自負しています。
しかし、私は研究室と家の往復をしており女性と会うのは地下鉄ぐらいのものです。飲み会や合コンには消極的に参加する人間です。
つまり、非モテを自負している人はこうした「異性との関わりが極端に少ないという状況」にあるのではないでしょうか?
同じクラスに異性がいるというぐらいのことは関わりがあるとは言いません。
自問自答してみてください。
「私は今日異性と何をどこで話しただろう?」
ひょっとして非モテを自負しているあなたは一度も異性と会話を交わしていないんじゃないでしょうか?
もしこれが原因だと仮定するなら、あなたは「異性との関わりがある状況」に自分の身をおくと非モテが改善するかもしれません。
例えば、異性の多いバイトであったり、飲み会や合コンがあるようなサークルやそういったイベントに積極的に参加することで、
付き合うという目標を達成できるかもしれません。
ただし、人付き合いというのは一朝一夕で変われるものではありません。服装、髪型、話し方、振舞い方を社交的にすることも大切です。
思い込むと信じるというのは少し意味合いが違うので分けました。
私はどちらかというと付き合うことを神聖視しています。相思相愛の彼氏彼女が見えざる手によって、互いに惹かれあい恋に落ちるというロマンチックな妄想を抱いています。
しかし、現実はどうでしょう?
あなたの周りで付き合っている人たちは「友達の紹介で」「なんとなく」「告られたから」「かわいいから、かっこいいから」「合コンで知り合った」といった理由の人たちのほうが圧倒的に多いはずです。
あなたが醜悪な容姿で悪逆非道な性格といった決定的に魅力のない人間であれば話は別ですが、街を歩いていて「あれ?あんな可愛い子となんであんなゴリラみたいなやつが付き合ってるんだ?」と思ったことはありませんか?
あるいは「なんであんな勉強しかできないガリ勉の癖に、俺よりモテるんだ?」とか「あの子、大して可愛くないのに化粧もしてないし痩せてないのに、イケメンとばっかり付き合ってるの?」と疑問に思ったことがあるはずです。
これは彼らや彼女たちは付き合うことを神聖視などしておらず、あるいは困難なことだとも思わず、ただ「付き合うこと」が目的なのです。
もちろん彼らは、1つめの要因の「異性との関わりがある状況」にあったことは言うまでもありません。
そのような付き合い方は決して低い次元とか不純とかといったものはでなく、一般的な恋人の作り方の一つです。
しかし、非モテはそうではありません。
付き合うことは宇宙飛行士になるのと同じくらい難しいことだと思い込み、付き合うのは相手に告白されてからなどいろいろな付き合うためのルールを自分で設けます。
その結果は明らかです。
まとめとしては、非モテを自負している人はまず
1. 自分を異性と関わりのある状況におく
2. 付き合うということを難しいことだと思わず、自分でルールを決めない
の2点を改善するだけあなたの付き合うという目標は達成に近づくでしょう。
この記事を書いたのはこういった色恋沙汰の記事が多く、どうしても書きたかったからという単純な理由であって、
私の専門は経済学なのでこういった社会学はまったく知らない分野です。
なので、これは経験則に基づいているので学問的な議論はその筋の方がしてくれることを期待しています。
推敲もせず投稿しますがお許しください。