はてなキーワード: 頭でっかちとは
そりゃそうだろう。
頭でっかちで、すぐパニックになる俺が正社員なんて、憎たらしいだろう。
ヘラヘラして、なにを言われても怒らない、不甲斐ない童貞だと思ってるだろう。
こんな俺が、何年も派遣や準社員でボーナスもなしに働く君等をよそに、学歴を武器に中途で横入りした挙句、すぐ昇進だ。
アラを探したくなる気持ちもよくわかる。
でもね、俺は正社員のなかじゃ君らのために動いてる方なんだよ。
実はね、震災後、出勤がなくなったとき、雇用調整助成金のことを総務部長に吹きこんで、休業中も給料が7割でるようにしたのは実は俺なんだよ。
あっちこっちに消えて、サボってるように見えてるだろうけど、部長特命で動いてるんだよ。
http://anond.hatelabo.jp/20111208222023 についてふろむださんより以下の指摘あったので並べ替え。
1から順番に上から今の仕事に適用していってはだめ。これを2→5→7→6→4→3→1の優先順で今の仕事に適用して見直すのがお勧め。
仕事とは作業をやることではない。仕事とは目的を達成することだ。だから、相手から頼まれた方法が必ずしもベストなやり方ではない。相手の目的を達成することが重要だ。だから、その仕事は誰のために、何のために必要で、ゴールは何がどうなっている状態なのか、をしっかりヒアリングすることが大事。ゴールを聞いて、それを達成するための近道を常に考える事。
ほとんどの僕ら社畜にとって、仕事とは「関係している一番偉い意思決定者が満足するものをつくること」だ。だから、誰がその仕事の成果を評価する役割を担っているかを常に追いかけて、彼のニーズ・評価基準を見つけ出そう。これをするだけで、後からひっくり返されることがなくなる。
全てを完璧にしようとすれば時間なんていくらあっても足りなさすぎる。だから、その作業の中で「適当にしていいもの」「絶対に抑えて置かなければならないもの」をヒアリングをして見つけ出し、手を抜けるところは徹底的に手を抜こう。時間内に求められたアウトプットを出すことが仕事の目的で、誰もが見惚れる配色のパワーポイントをつくることは僕達の仕事ではない。完璧主義なひとほど完璧から遠ざかる。捨てるべきは捨てよう。
作業をする方向性の大枠が決まったら、その状態で見せるとムダな差し戻しが防げる。たとえば、パワーポイントを作る作業なら、アウトラインと主なメッセージが決まった時点で見せる。相手がダメ出しをする部分を先に出し尽くせば、ムダな差し戻しなく作業ができる。
組織の大抵の仕事は前例があるものだ。たとえば、コンサルタントの提出する資料のかなりの部分が既存の資料の使い回しかアップデートだったりする。すでにあるものを再度創りだすことほど馬鹿な事はない。遠慮無くパクろう。とにかくパクる。で、自分よりもっとうまいやり方をしている人がいたら、躊躇せず彼の秘訣を聞き出す。とにかく、パクろう。
重いタスクほどすぐに着手するべき。なぜかというと、人間には認知的不協和というのがあって、着手したものが終わっていないと気持ち悪いと感じる心理があるからだ。着手したら終わっているべき、という認知があって、それが解決されていない状態は気持ちが悪い。だから、解決しようと集中して作業できるように心が動く。重い作業ほど、とにかく1分だけでいいので着手しよう。きっと1分は一時間になっているはずだ。
「時間をかけて頑張って解決しよう」と考えている時点で、あなたは最も効率の悪い仕事のやり方を選んでいるといえる。なぜなら、「時間で解決しよう」というのは、創造的な解決方法を放棄していることだからだ。たとえば、「象を3秒以内にかけ」といわれたら、誰でも象を表現するために最適かつ短時間で終わる方法を考えだそうとする。時間による制限は人の創造性を引き出すシンプルかつ効率的な方法だ。だから、「イマイチ効率が悪いやり方をしているようだな」と感じるなら、自分がどれだけ時間を区切って作業できているかをみなおそう
こういうことは本来は誰もが理解しておくべき基本中の基本なのだと思いますが、そうはいってもその基本をわかっていない人がいた時、この基本をどう伝えるかというのは結構大事だと思います。
ネックになりそうな部分から潰して行って、「時間を区切って仕事をする」ことができる様になる状況を作る。
そうしないと、「時間を区切ってやる」と思っていても、いろんな都合でだめになってそのうちヤル気がなくなる、そういう問題を防ぐ、と。なるほどなー。
日頃から、ライフハックは役に立たないわけではないが、できない人間が実行できるようになる過程をを念頭において書かれていない点について批判的な氏ならではのご指摘といえるかと。
フロムダさんがこういうことを書いているわけではないので注意。
要するに、みんな「時間を区切ってやる」ことの重要性はわかっていても、それを実行することの困難さを十分に認識していない。
できる人なら当たり前にできるから1番手においてくるのだけれど、それができるようになるために、ステップを踏んで行こうという事だろうか。
また、業務の遂行には言うまでもなく意思決定者の存在、意向が先にたつわけで、それは本人が必ずしも自由にできるわけではない。
その部分が明確でない、伝わっていない、という問題は、双方向の問題だろう。この部分を、MBAで学んできて、マネジメントを志す人間が軽視しているというのはダメなんじゃないか。
数字や効率だけで物事を測り、働く人のことを理解せず、自分の思い通りにならないことはただ嘆くだけ、というのは頭でっかちで融通がきかなさすぎるだろう。
さしずめ、プレイヤーとしては優秀だがマネジメントができない上司の3要素、とか並べると
・理屈を論理的に説明できてもけれど、部下を納得させて動かすことができない。
・マネジメント上の問題もすべてその人のやる気や自己愛の問題に還元して自分の問題とは考えない
で、結論としては「自己愛がない」に対して「部下への愛がない」とか「自分がうまく行ってる限り現状に疑問を抱かない」=unlearnできないいう感じになるだろうか。
繰り返すけれど、↑は私が勝手に思ったのでフロムダさんはこんな事言ってないですので誤解のないよう。
ライフハックとか自己啓発とかの記事の中には、単に昔から上司が部下に教えてきた「普通の仕事の常識」のポイントをまとめたものにすぎないものも多くって、それって、どこが啓発でどこがハックなんだよ、単なる新入社員教育じゃん、みたいなところがある。
能力の高い上司が丁寧にやり方を教えても、能力不足の自分のやり方に固執して仕事ができない部下は、自分よりも能力の高い人間の能力の高さを認識する能力がないか、プライドが高すぎて自分の能力不足を認められない人。前者だと絶望的。後者だと生き方を変える必要があるがそこまで上司の役割なのか?
元記事は伝え方がダメダメだったのと、それに対する対処を投げ出しているような印象を与えたために批判を受けただけで、考え方自体は間違ってないんだろうなぁ。
上司が部下に踏み込み過ぎるとすぐパワハラとか言って逆ギレすることが許されかねない時代に、上司にどこまで責任を持てるのかってのは考えてみると難しそう。
早川教授の問題と含めて考えたい。 もうそんだけ部下が仕事もできなかったり迷惑をかけておきながら自分の権利だけは一丁前に主張して指導を拒むのであれば、
もう面倒見切れないから全部自己責任でいいんじゃないかな、と思う上司の方がいても責められないかも。
こういう時代だと、上司が部下の期限をとってまで気持ちよく仕事をやらせるなんてのは不可能だ。
部下の側からすれば、なんとかして上司のリソースを自分から模擬取りに行く必要がある。
ならば、本当に学ぶ気概があるなら積極的に部下の側から上司にその姿勢を示し、役に立つことは受け入て実行するところを見せるべきだろう。
そういうのを漠然と表現すると、素直さが必要だ、って話になるんだろう。
ただし、部下側が上から見たら「素直な」態度を心がけるのは「自分が生き残るために必要だから」だろう。生存戦略だ。
生きるための必要に応じて自己変革するのであって、それは性格の問題ではないと思う。選択の問題ですらない。これができないやつは生存本能が壊れているとすら言えるかもしれない。そのくらい言い切っても良いのではないかと思う。
きちんと現実を示して危機感を持ってもらった上で、態度は心構え次第で変えられるし、ヤル気のある部下には上司も応えるよって姿勢を示す必要がありそうだ。
って偉そうなことを書いてはみたけれど、難しいなー。私も役職持ちではないけれど、後輩の指導でよく悩むのと、昨日「灼熱の小早川さん」読んで色々思う所があったのでだらだらと書いてしまいました。
http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20111125#p1
ぼくたちはつい○○○という社会現象と、「人々が離婚をしたがらなくなった」という一人ひとりの考え方や気持ちの変化に置き換えてしまうんだ。そして、そういうふうに問いを置き換えてしまっていることに気がついていない
ぼくは社会現象について、一人ひとりの心に原因があると考える直感的な理解を「心でっかち」な考え方と呼んでいます。いろんな社会現象を理解するために、とりあえずすべてを心の問題として置き換えるところから出発して、なぜそんな心の問題が生まれたんだろうと考えるやり方です。
多くの場合、「心でっかち」は、それほど目立たないかたちで私たちの常識の中に入り込んで、私たちが現実を見る目を微妙に曇らせてしまう。その結果、私たちは社会を正しく捉えることができなくなり、見当違いのやり方で社会問題の解決をはかるようになってしまいます。「頭でっかち」の典型は現場を知らない学者先生ですが、「心でっかち」の典型は、誰にでも受け入れられるようなもっともらしい「説教」を垂れ流している一部の評論家の人たちですね。とくに、現代社会の問題をすべて「心の問題」で説明できると考えている人たちです。
そして、これまで「心の問題」だと思い込まれていたことの多くが、統計的なイメージ操作や、「先入観を植え付けられることにより、みんなが雪崩をうって、その傾向を強めていくこと」によってつくられているのだ
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20111124/1322071507
なにが「俺たちの」インターネットを破壊したのかっていったら、そりゃ人数ですわね。ふつうの人たちが増えたっていう。「俺たちの」インターネットっていびつ極まりないもので、異形の人たちが奏でるあたまおかしい音楽を、それを求める人たちが必死で追いかけてたような、そんな時代があったわけです。真性さんマジキチ扱いされてるよ。なに言ってるかわかんないらしい。絶望的な社会不適格者が社会とのあいだで起こす軋轢のぎぃぎぃという音。それが聞こえない人たちがいっぱいいるらしいよ。びっくりだね。インターネットは変わった。
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2011/11/post-474d.html
知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどっかのトンデモ経済学者の奴隷だ。虚空からお告げを聞き取るような、権力の座にいるキチガイたちは、数年前の駄文殴り書き学者からその狂信的な発想を得ている。
いろいろと繋がってるなー。
「親切で言ってるつもりなのに、嫌味だと受け取られちゃうみたいなんだよね」と愚痴を言う奴と話をした。
どういうふうな言い方をしたのかと尋ねてみたら
シャアハウスで共同生活をしている奴が、寝坊をしたらしい。その男に対して
「君みたいな生き方をしている人には誰も投資してくれないだろうね」
と言ったらしい。その後相手の返し言葉にカーっとなって口論になったらしく、
まぁ彼は頭でっかちでメンタル面が豆腐並みに弱い人なんだろうな、と思った。
どうもコレが彼の口癖らしい。私との会話でも何回か「投資する価値がうんたら」って言葉が出てきた。
ちなみに彼とこの寝坊してきた男は別に同じ会社でも家族でもなんでもない。ただのシェアハウス仲間。
利害関係がないからこそ、こういう言い方をしても通じると思ったらしい。
でもなぁ、いきなり対して親しくもないやつから投資価値があるとかないとか。
なんじゃらほいって感じではある。
彼が社長とか事業家をやってて、常日頃からそういう判断をしているならともかくただの平社員だしなぁ。
そんだけ投資投資言うなら、自分自身に対してはどうなんだろう?
昔自己投資(笑)みたいな言葉もあったよな、と思って聞いてみたが特にないらしい。
となると、どうもこれは誰かからの受け売りをやってるうちに口癖になってしまったんだろうな。
確かに「そんな事言ったら人に嫌われるよ」って言葉は女の腐ったような表現で嫌いだが、
これは、ふさわしくない人間が言うと、嫌味と言うか間抜けに聞こえる。
表現を広めてもいいから「ただし経営者に限る」とか※をつけておいて欲しい。
彼のようなバカがなんちゃってで使う前に。
http://anond.hatelabo.jp/20110424063737
筋を古いモノから流用し、装飾や人々を今の時代に合わせ、最後の結末に自分たちのメッセージを盛り込む。
これだけでも十分面白いモノが出きるのに。
「守破離」の全部が大事なのに、今のアニメは「守」だけ「破」だけ「離」だけみたいに、個別の実装しかないものが多い気がする。
QBやその周辺の出来事に象徴される「社会の現実性/残酷性」という「破」
魔法少女の枠組みを乗り越え賛否の分かれる結末とメッセージを提示しきった「離」
「魔法少女」っていう小さな視野で見ても、かなり綺麗に守破離してる。もちろん違う角度から見たときにも様々な守破離があるのがまどまぎの魅力。
多分あなたがまどマギがオモシロイと思った理由は、あなたの解釈戦略にすっとなじむ形だったからだと思う。
たとえばこういう感じ。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110211/p1
でもさ、その守破離(序破Q)のやり過ぎによって、破るべき守を使い果たしてしまったわけじゃないですか。
その後どうやってあらたにスタンダードを創り上げていくかの模索が今面白いところなのだ。
それが守破離がないから残念っていうのは、あまりにも保守的な姿勢だな、と思う。
アニメを単品で見て評価すると言うこと自体、アニメの楽しみ方としてどうかと思う。
ラノベもそうだけれど、こういうのはその時々の時代である程度群れを見て、なにが起こってるのかを楽しむのが筋であって、
その中から時々、群れを代表するような作品や、10年選手ものの異端児が登場するわけじゃないですか。
で、その作品と同時代の礎の作品を比較したりするのって、なんだか青色ダイオードの特許問題くらい不毛だと思うわけね。
守破離をきっちりさせた作品が作れるってことはそれだけ時代が煮詰まってこないと難しいわけで。
常にそれだけを求めるのは贅沢病とか教養病だと思う。
ジブリや千年女王のように時代性無視して君臨する作品を除いては、単品で論じることにそれほど意味があると思わんけどな。
あなたが古い作品に対して行なっている楽しみ方を、あなた自身が現代の作品にも活かせとか強制するつもりはないんだけど、
古い作品でそれができるように、新しい作品でもそれがリアルタイムでできてる人がいるわけですよ。
けどその1割弱を探すためだけにアニメの世界に飛び込めば、まさに「渡る世間は萌えばかり」、あるいは「前門の厨二アニメ、後門の監督が厨二の自称芸術unkoアニメ」ばかりじゃん!
アニメの作り手にしても、ちょっと成功して有名になるとすぐ芸術気取りしたり宮崎駿の後継者気取りしてばっかじゃん!
そんな中途半端なことをするくらいなら、いっそワーグナーみたく「アニメはただの芸術じゃない。神聖な祭事だ!」ぐらい突き抜けつつ「よろしい!私に投資する権利をやろう!」的なノリで資金調達&製造とかやれるだけの実力と人間としてゲスな気概を持って挑めよ!
特に'00年代は酷かったよ!観客の声を聞かずに監督が見たいアニメか、大向うの観客の声しか聞いていないアニメばっかだったよ!
「そもそも今客席にいない人を、どうやって小屋に来てもらうか」を考えている人なんて皆無だったよ!
だから、こういう指摘は資本主義の犬とか、教養主義の人間が、数百年単位の流れを毎年要求するようなウンコだと思うわけ。
週刊ジャンプを毎日連載して、毎日クライマックスで、毎日バトル展開を入れてくれ、みたいな要求するのって、恥ずかしく無いですか?
古い作品のメタ要素、関連情報は確かに作品を面白くしてくれるが そこにこだわり過ぎるとバロック方面に偏るか、焼畑農業しかないと思うんだ。
作品の解釈戦略はいくつかバリエーションがあったほうがいいと思う。
あと、時間に余裕があるなら、最初はこういう「作品解釈エンジン」を休ませてできるだけ何も考えずに見るのが良いと思うよ。
あなたは多分ちょっと、アニメの経験が少ない割に、頭でっかちというか固定的にになりすぎだと思う。
力抜けよ。そうすればあなたの狭い穴にもアレとかコレとか挿入できるとおもうぞ。
横だけど
「個人の成果」と「その個人が所属するコミュニティの成果」みたいなことは
矛盾しないしお互いを排除しないじゃん。
俺はある部活動で全国まで行ったけど
それは俺の業績であるとともにチームみんなの業績であり
地方大会で戦った学校のことも全部あわせてまさに俺たちは県の代表だったよ。
なんかどっちかを認めたらどっちかが減る、みたいな発想が理解できない。
何かに打ち込んでそれなりのラインまで行く、っていう体験をしたら
やっぱり自分の地盤や出自や身の回りのいろんなものに支えられて
むしろそれが重くなる場合もあるけど。
「個人の業績」とか「俺の業績」なんてことだけに拘る人は
何かをそれなりまで成し遂げたことが一度もない頭でっかちな人か、
テレビがネットより優れているトコロ または15万件の苦情に見るネットの可能性
http://d.hatena.ne.jp/mizuiro_ahiru/20110725/p1
ただ「怠惰を許容する」コンテンツや仕組みを作っても流行らない。
家に帰ってまずTVをつけるような人は、
人生観を変えるような良コンテンツより「他者とコミュニケーションする為の素材」としてのコンテンツを求めている。
「昨日の○○みた?」
「面白かった~」
「でも、あのシーン、あれヒドくない?」
「分かる分かる!」
こんな風に、考察ではなく、感想を述べ合うに終始する会話を生み出すコンテンツこそ、彼らにとっての正義。
「でも、あれって実は○○が××なんだぜ」なんてことを言うのは、事実であれ、無粋の極み。しらける。
要は、TV好きは、考察ができないほど薄っぺらなコンテンツを好む。
これは“したり顔で会話をぶち壊しにくる知識人”の介入を防ぐためで、
仮に、ある程度知性的なコンテンツであれ、その情報は多くの人が既に知っており、
そこから更に踏み込むことは、コミュニケーションにおいて、それほど重要ではない。
TVが提供しているのは「怠惰」ではなく、「そこはかとなく会話を楽しむための素材」だ。
だから、チャンネル数は限られていて、そうすることで、より多くの人間が同じチャンネルを見る可能性を高めている。
TVをみる人にとって大切なことは「知的好奇心の充足」ではなく「共感」だ。
グリーやモバゲーが提供しているものも、勿論「怠惰」ではない。
そこで提供されているのは「知識人(思い込み含む)が付け入る隙のない新しい世界観」と「コミュニケーション機能」だ。
皆が同じ目線で語り合える場を提供したのが成功しており、みな積極的に情報を取りに行っている。TVも同様だ。
つまり、知識人が「面白くない!」と感じるコンテンツや仕組みこそが、意外にも、今後ネットで爆発的に流行る。
なぜなら、知識人の締め出しに成功しているからだ。
そして、大きくなった会社に、これらは作れない。
大きな会社には頭でっかちの知識人しかいないからだ。
中小企業の皆さん、
まだまだチャンスはありますよ。
※ちなみに、「怠惰を許容しつつ」というのも、とっても大事。ただ、それだけではダメ。
「言われてません」「教えられてません」なんて言う脳内子供はさておいて
若い奴って、丸投げされるだけで、もう潰れちゃうんだよな
メンタル弱すぎる
丸投げしているように見せかけはするけど
周りから見ればきっちりフォローされてるわけで
でも新人だからそれは見えない(丸投げって手法を取る事はそれを見せない事でもある)
勿論、プロジェクトは進むんだけど
丸投げ手法すると、結局本人は潰れるだけなんだよなぁ…
頭でっかちなんだよな
アホなら「俺できちゃった!がんばったもんな」って素直(?)に思えるだろうし
仕事以外の事は積極的なんだけど
丸投げすればするほど、「考えて行動」(考えたくないから誰かに頼る行動、でもいいが)をどんどんしなくなる
人間誰だって、新人教育には自分たちが経験した教育方法を適用してみるじゃないか?
丸投げが当たり前だったのが、時代が変わってそれが通用しなくなったのが見えるのと
3回目ぐらいの家デートで、押し倒された。
成り行きはよく覚えていないけれど、確かその前に電話で喧嘩をして、
でもなんで「本番」になったのかは本当に覚えていない。やっぱり頭がパンクしてたのかな。
ベッドで上を脱がされて、胸を愛撫されて、その時は少し気持ち良かったと思う。
手を誘導されて相手のものを触らされて、でも今にして思えば結局最後まで相手のものを見なかった。
触った感触だけで、「何だろうコレ」に近いものがあったと思う。
知識として男性にはそういうものがあるんだ、ということは知っていても、ちゃんと見たことはなかったし、
性行為がどういうものかだって知っていたけれど、実際にしたことはない。
気持ちが良いという感覚は雑誌を読んで自慰をしたこともあったし、知っている。
でも誰かに気持ち良くされたことはない。
頭でっかちで、知ったつもりになって、何も知らない本当に垢まみれの処女だったんだと思う。
愛撫されつつも、残った理性での「どうなるんだろう」「何をしてるんだろう」という疑問が渦巻いてぼーっとしているうちに、
下の服も脱がされてアソコを触られた。
多分その時はもう濡れてたんだろう、「入れるよー」っていう一言で挿入された。
覚悟とか、そんな余裕もなく、激痛が走った。本当に激痛としか言いようがなかった。
一番自分でもよくわからない場所が、焼けるように痛くて。怖くて。
でもまだまだ入りきっていないから、だんだんと挿入は進んでいく。そのたびにどんどん痛みが増していく。
怖くて怖くてしがみついて、「痛い、痛い」と泣き叫んだ。
相手は「大丈夫だから、もうちょっと我慢して」と言ってさらに挿入する。
そう言われて必死で堪えてしまった。やっぱり好きだったんだろうな。
挿入はなんとか終わったけれど痛みは激しく、おさまるまでは動かずにいてくれた。
だいぶ痛みが薄れてきて、じゃあ・・・と動かされるとまた激痛。
気持ちが良くなるとかありえなかった。
あまりにも痛がって泣き叫ぶ私に困ったのか、相手はどこからかローションを取り出して結合部に塗った。
でも痛みは全く薄れなくて、結局口を押さえられて相手がイクまでただひたすら耐えるだけだった。
コトが終わり、シャワーを貸してもらって、シャワーを浴びながら泣いた。
こういう事態を招いたのは自分で、コトが始まった時だって拒絶もほとんどしなかったし、
全てが自業自得というか、あるいは望んだことだったかもしれないのに。
甘い、あるいはロマンティックな幻想が全てなくなったような。
それでもその時はまだ相手を好きだったから、
結ばれてよかったとまでは思わなかったけれど、その後も普通に過ごして自宅へ帰った。
その後は電話をしてもそっけなく、電話の向こうでゲームをしてる相手に話しかけるだけ、が普通になった。
1カ月ほどして迎えた私の誕生日にメールのひとつもなく、こちらからかけても相変わらず上の空。
大学受験の日にも何も連絡がなかった時点で、私の中で諦めがついた。そしてこちらからの連絡を全て絶った。
結局連絡を絶ってからも、相手からは何一つとして連絡があることはなかった。
その頃にはインターネットでの関係もバラけつつあったので、ネット上で会うこともなく。
完全に自然消滅だった。自分の気持も、相手への恋愛感情は不思議なぐらい残らずに。
ただ性行為への不快感というか、拒絶というか、諦めというか、そんなようなものが残った。
正直なところ10年近く経った今もまだ、この不快感は消えていない。
愛している相手と、一つになれる、一番近くにいれる。そういう意味では嫌ではないけれど。
素直に気持ち良くなることができないし、気持ち良くしてほしいともあまり思わない。
愛撫されれば気持ちが良い時もあるけれど、挿入はいまだに気持ち良くなったことがない。
むしろ気持ち良くしようと頑張ってくれる夫に対して申し訳なく思ってしまう。
私は気持ち良くならなくていい、貴方が気持ち良くなってくれれば、とは言っているけど、やっぱりそうもいかないみたいで。
性行為に「何のため?」なんて思うことが馬鹿げているんだけれど、
何のためにあの初体験があったのか。
いずれは通る道だったし、少なくとも顔も知らない男にレイプされるとかじゃなかったわけで、
その時好きだった相手と経験できたというのは恵まれてる部類なんだろう。
でもあの時の自分は、まだきっと恋愛とか、性行為とかに、夢を見ていたかった。
処女を捧げる、という行為をやっぱり神聖に思っていたし、自分のタイミングで捧げたかった。
好きだった相手でも、あの状況での行為に対して私は「処女を捧げた」とは思えない。
結果を見れば相手は処女を味わえたから私はもう用済み、ということだったわけで。
2年の夢のあと、1時間の地獄を見て、1カ月の寂しさを経験しておしまい。
不思議なくらい空っぽになった心には、自分を労わるとか大切にする、という感覚も抜けた。
その後付き合った人には数カ月で体の関係を持ったり。
それでも比較的すぐに今の夫に出会えて、性行為に関しては苦しみながらも
愛し合い分かり合うこと、自分を大切にすることも取り戻せたと思う。
性行為も「したい」とは言えないけれど、嫌じゃないし、夫はいくらでも愛せる。
素直につくると、ウケが悪いようだ。
「カッコイイだけ(なんじゃそりゃ)」
運指がマズいとか実演に即した指摘はありがたいのだが、上のような中身のない、あるいはあっても価値観の違いだとかその程度の指摘はもらってもあまり嬉しくないというか、その程度にしか思ってないんだろうな、と少し憤慨してみるなど。
もっともゲーム音楽からの影響がないというのは嘘になる。ゲームするし。むしろ何者の影響も受けない、独立した音楽があるなら聞いてみたいものだ。
でもこういうことを言うと頭でっかちだとか人の話を受け入れない頑迷な人間だという謗りを免れないので、仕方なくニコニコした風な顔を装ってみる。ああめんどくさい。
まあ、「◯○の作った曲のほうがマシ」なんて言われるぐらいならまだマシですよ。そこに挙がる◯○ってのはだいたい私より実力は上だし、むしろ当然でしょう、という感想を持ちたくなることばかり。なので、変にイライラしない。こっちのが平和。
というわけでだいたいのアドバイスとも批判ともならない空気のようなことばを先日も一身に浴びてきたわけです。まあわからないでもない。言うべき言葉が見つからないけど言わなきゃいけない、そんなときは中身がなくなる。形だけ。そしてそれを聞くだけ。全部空っぽ。
というわけで最近ファンファーレなる楽式の委嘱を受けたんですけどね、まあ依頼内容が面白い。
「無調で」
えーとですね。ファンファーレというものがどういうものかご存じないのでしょうか。一度に始まり五度に終わる。これがファンファーレの不文律。金管楽器の構造上旋律も三度、四度、五度になるわけですね。ぱっぱぱぱーって鳴ればいいってわけでもないんですよ。いや、吹く側からしたらそんなことは些末な事かもしれませんがね。
たぶん無調ってのもなんか厨二の延長ぐらいの要望なんじゃなかろうか。まあそれはいくらなんでも依頼主に失礼か。
MTL2で作ってあげようかしら。ああ、今日も半分が終わった。作らねば。
思想がどーこーにいまいち興味ないからあの人物含め思想クラスタを深く知らないが
器量や肝っ玉がちっちゃいことぐらいすぐわかる
本人がそれを認めたがってないことなんかも
「こんな人だったなんて」とか今頃言ってる奴が本当見てらんない
そんな人である事は全く知識無い状態からでも10ツイートもなぞればわかる
わからないのはただのあきメ○ラで、目の前のものをきちんと見てないだけ
「これ書いてる奴はどんな奴か」を察知する能力が欠如してるようでは
お勉強ばかりいくらしても害になること疑いない
自分をきちんと知っていれば恐怖の発作を和らげることも出来たし
やはり頭でっかち傾向のあろう彼のウォッチャーやフォロワーから
「腰抜け」という原始的動物的な汚点で笑われ失脚するのは意義深い
腰抜けはやはりどんな世界でも説得力を減ずるし
駄々漏らしの腰抜けに失笑が与えられること、学歴の高低も政治的左右も区別がない
武家が子弟に死の覚悟をさせていたのは忠ではなく防災のようなもので
人前にビビりをそのまま晒してしまうことがこうも全てを奪うと知っていた
例えば腰抜け自体は直らないので、
事に臨んでの進退についてなにかしら想定し予行しておくこと
これをつまり覚悟という
でも、自然と触れ合うのは危険性も高い。たとえば登山で遭難。川遊びで流される。火遊びで火事。
旅行というのは、人間にとって都合の良い範囲内での行動だけをするから一見問題ないように見えるけど、自然の脅威は依然立ちはだかる。
突然の大雪で電車がストップ。大雨で土砂崩れ。人身事故(人間は何をするか分からないという意味で自然存在)。あいにくの天気でレジャーが台無しとか。
人間が作り出したきわめてリアルなフィクションの世界にはそのようなものは一切ない。全て人間に都合の良いものだらけだ。
観光旅行を求める人間にとって、フィクションというか娯楽の世界はまだまだ不十分なことは確か。
そもそも画面の中にしかないし触れることも出来ない。目と耳でしか楽しめない世界なのだから、自然と触れ合う体験をした人にとってはまだ不十分だと感じてもしょうがない。
これからどんどん技術が進歩すれば間違いなく自然と対等なリアルさと、都合の悪いことは一切起きない良心的な世界が手に入るようになる。
その時、人はむきだしの自然には耐えられない。むきだしの自然には、嫌なことがたくさんある。そこを我慢しろと自然回帰志向の老人たちは言う。だが、結局彼らも我慢などできない。
単に我慢できない人を見て俺は我慢できるぞと虚勢を張ってるに過ぎない。あるいは我慢の経験を積んでいるので多少長く我慢できるだけだ。
頭でっかちになった現代人は、何よりもまず「都合のいい世界」を求める。自然のように、何が起こるか分からない不確定な存在は不気味すぎて耐えられない。
ある程度マニュアル化してみても(ガイドブックなど)、結局不確実な要素は発生する。「何が起こるか分からないのが自然だよな」と得意げに語ってみたところで、実はうんざりしているかもしれない。
そもそも自然派な人間は都市のあまりの「不確実性のなさ」には耐えられない。時間はきっちりと決められているし、少しでも遅れればもう電車には乗れない。両方をとることは出来ない。
いやそもそも、旅行に行くときガイドブックを参照する人間というのは、自然の世界を制御できる人間の世界と同一視している。
あそこには何があり、こんな時はこうすればいい、あんなときはどうすればいい、こういったことをあらかじめ知っておきたがるのは、自然の持つ不確実さを解消したいからに他ならない。
結局彼らの求めている「都市にはない自然」というのも、実はむきだしの自然ではなく「捏造された自然」なのではないか?
これから捏造された自然はますます人間の生活、娯楽に組み込まれていくだろう。
鳥のさえずりが聞こえる雄大な森。しかしそこには気味の悪い虫は排除されている。突然雨が降ったりはしない。夜になって道に迷うと困るので、ライトもある。
こういった捏造された自然を体験するバーチャルツアーが次世代の観光となっていくだろう。
なにせ家から出ないことが一番の節約なのだから。電車に乗る、車に乗る、飛行機に乗る。全て物理的距離を移動するときに費用がかかる。かといって歩くわけにはいかない。時間がかかりすぎる。
多分、物理的現実に依存する物事というのは、料金を下げられる限界というのがある。もしその限界に達したとしても、人間が感じる疲労や、時間の消費といったものがついて回る。
ただ、今よりもさらに旅行が手軽になれば、自然回帰志向とその逆の都市生活志向の人間とがはっきりと色分けされるようになるかもしれない。
もちろん、自然回帰といってもそれは多かれ少なかれ捏造されているのだけどね。その程度の差が問題になるだろう。
未来を題材にした小説では、なぜか未来の生活は賛美されない。それは、書き手が自然回帰志向だからであり、バーチャルなもので満足する未来の人々を嫌悪しているからだ。
しかし結局脳にとって夢も現実も同じだ。どちらがよりリアルに感じられるかだけでなく、より「都合の良い」現実のほうを脳は選択するだろう。でなければ、なぜ今世紀に入ってからも都市の人口は増え続けているのか説明がつかない。本当に人間は自然に帰るべきなら、都市の人口は増えない。というか減るはずだ。
人間は自然の模倣以外には何一つ生み出せない生き物だし、都市が抱える問題を解決するために必要なのは自然の叡智だ。
重要なのは自然を情報化し自由に使えるようにすること。その時はじめて、都市は自然に勝利し、バーチャルな世界が自然を超えることになるだろう。
それを考えるとまだまだ人間には自然由来の知が少なすぎる。完全にバーチャルな自然で育つ「都市人間」が誕生するのはまだ先のことか。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20110106
いいとおもいます。
だから、女子高生、女子大生には積極的に性風俗産業、AV女優などに一人一回は経験(もちろん本番も)してもらいたいし、そういうのを穢れとか言う処女厨はもれなく死んでほしいとおもいます。
というのも、処女厨ってのは言ってみれば経験するなと言ってるようなもので、そんな人になびくうちはちきりんやブコメで共感してる人々の理解なんぞ得られないだろうと思うし、そういう人ってやっぱり頭でっかちで経験が足りない感じのする人や、ただのニートってことが多いだろうから、無視するのが一番。
就職するときもどれだけ多くのことをやってきたかを積極的に評価すればいい。AVだろうがなんだろうが、それをしない人、蔑むプライドだけの人よりはアドバンテージを与えるべきだ。
原理原則として、やらなかった人がやった人より優れるなんて社会はなくすべきだ。
殺人にせよなんにせよ、ムショに入って出てきたなら、それを語っていいと思う。やりもしないでいけないんだーって匿名で後ろから指差す人より、殺した人が「不倫されてついビール瓶を頭に打ちつけて殺しちゃったけどスカッともしなかった。みんなにはしてほしくない」と言える人の方がいい。