はてなキーワード: 雪だるまとは
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
3
(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
4
Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
5
筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
6
民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
7
筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
7
一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
8
因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
9
・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)
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私は怠けたい。
なまけてなまけてなまけ倒したい。
必要のない物を作るために働きたくはないし、他人の財布のために働きたくもない。
人類が中世を抜けだして以来、技術は進歩し生産性は向上し続けてきた。過去に比べて「生きるために必要な労働」は減っているはずだ。なのに労働が一向に減る気配がないのは何故か。
それは世の中に蔓延する無駄な労働が、われわれの足を引っ張っているからだ。それら無駄労働の蔓延を招いたのは、「経済成長」を至上のものとする価値観と、それを信奉する人々である。
彼らは「労働は増え続けなければならない」という謎の理屈を振りかざし、我々怠け者たちを虐げ続けてきた。
タイダニアとは、怠け者の、怠け者による、怠け者のための国家であり、怠惰な社会についての提言である。
「全ての国民は、ただ何もせずにだらだらとしていても良い」というのがタイダニアの崇高な理想であり、最終目的である。あらゆる社会制度は、その目的を果たすために設計される。
怠惰な社会を実現し、それを持続可能なものにするためには、いかに労働を最小限に抑えるかが鍵になる。「最小労働社会」を目指す、と言い換えても良い。
そのために必要なのは、経済をサイズダウンさせ、効率的な社会を作ることだ。
自由経済は本来、その経済規模を縮小して労働を削減する仕組みを備えている。
過去に起きてきた様々な”経済不況”がその証拠である。自由競争によって需要の無い事業は潰れ、労働の効率化は進み、経済は縮小してゆく。この働きがなければ、我々は文字通り寝る間もない労働を強いられることになるだろう。
だが、政治家や経済学者たちは、その働きを阻害する政策を次から次へと考え出し、実行し続けてきた。経済の縮小を否定して成長と言う名の肥大化を続けた結果、今や経済は巨大な雪だるまと化し、その自重で潰れる日を待つばかりになっている。
彼らを狂っているのだと断ずるのはたやすい。実際、「持続可能な成長を目指す」(実現不可能なことは明白だ)だの、「雇用の創出のために財政出動をするべき」(金を出してまで労働を増やす???)という彼らの意味不明な言動の数々を見れば、狂っていると考えるしかないように思える。しかし、彼らがなぜ狂ってしまったのか、彼らを狂わせたものは何なのかという事も考えなければならない。
経済成長論者たちがのさばり、経済の縮小が許されないものとされてきたのは、それが失業を発生させるからだ。
失業者の増加は不満の増大を生み、社会の不安定化をもたらす。様々な革命や動乱の背景に失業問題があったことは良く指摘されている。
失業はタイダニアにおいても深刻な問題だ。善良なタイダニア国民にとって失業者とは羨望と嫉妬の対象であり、理由もなくそれを手に入れる人間が増えることは、社会に著しい不公平感を蔓延させることになりかねない。
ではどうすれば良いか。
失業問題を解決させるために消費を増やすなどという狂った解決策は、タイダニアではもちろん採用しない。
結論を言うと、失業問題は一人あたりの労働時間を減らすことによって解決されるべきだ。これによって労働者の余暇は増え、労働力を失った企業は新たな求人を行うことになるだろう。
労働時間をどれだけ減らすべきかについては、その分野の失業率や有効求人倍率によって決定すれば良い。労働時間を減らす方策については、単純に長時間労働を禁止するのも悪くないが、ペナルティとして税金を課すなどした方が、弾力性のある運用が可能になる。
また、労働時間を減らせば当然収入は低下する。それによって生活が不可能になる人たちが出ないように、経済弱者を保護するための施策も同時に行なってゆくべきだ。
タイダニアにおいては、貧富の差はできるだけ抑えられるべきである。過大な富の行使は無駄な労働を生んでしまうからだ。
富を持つということは、労働を強いる権利を持っているということだ。
貧富の差について、「3割の人間が7割の富を持ち、7割の人間が残り3割の富を分け合っている」という言葉がある。
貧富の差が縮小し、3割の金持ちが残りの大多数と同じ水準の生活を送るようになったと仮定する。大雑把に計算すると『0.7−0.3×(0.3/0.7)≒0.57』となり、5割以上の労働が削減できることになる。あなたが今、週5日にも及ぶ長時間労働を強いられているとすれば、それは週2日半の労働で済むようになるということだ。
もちろん、これは乱暴すぎる計算だ。経済格差をそこまで縮小させることも容易ではない。ただ、貧富の差を縮小することが怠惰な社会にとって非常に重要だということは理解してもらえるだろう。
行政に付きものだったムダな公共事業と非効率な役所仕事、これらを削減できる事はタイダニアの大きなメリットの一つだ。
まず、タイダニアでは経済の拡大を目指さないのだから、景気浮揚のために行われていた公共事業は全て削減できる。国の大型事業はもちろん、「地域の活性化を目指し」だの「経済効果を期待して」などの理由で行われていた自治体の事業も同様だ。
その他の公共事業や行政サービスについては、「余暇を増やすこと」という基準を設ける。つまり、「その事業を行うことで削減できる労働時間」と「その事業にかかる労働時間」を比較して、削減できる時間の方が長い事業だけを存続させる。
この基準の導入によって削減できる事業と、経済の活性化のために行われてきた事業。これらを廃止することで、相当な規模の行政コストを削減できるはずだ。税金は減り、我々はその分労働を行わなくても良いようになる。
また、成長論者たちが言っている「乗数効果」が本当に正しいのであれば、削減したコストの何倍もの労働を社会から追放できるはずだ。
成長を前提とした社会は、決して人を幸福にはしない。持続可能なものでさえ無い。
すべての資源を取り尽くし、消費し尽くした後で、自分たちの築いてきたものがガラクタの山に過ぎなかったことに気づくのでは遅すぎる。
消費は適正な程度に抑えられなければならない。過剰な消費と労働を礼賛し、怠惰の価値を認めない社会は、早晩行き詰まる事になるだろう。今すぐに完全なタイダニアを作るとまで言わずとも、その一部を取り入れることはできるはずだ。
過労死や自殺、平均寿命の低下、精神疾患、家庭崩壊。過剰な労働は我々の人生を奪い続けている。それらを取り戻すために、そして何よりも子供たちの生きる未来が喰らい尽くされないために、我々は勇気を持って主張するべきなのだ。
「怠けたい」と。
もうね、溶ける。
まあそれほどでもないけど。
窓開けてればなんとか耐えられるくらいの暑さだけど。
温度28度、湿度60%だものね。
でも、あちいいいいいいいいいいいいいいよおおおおおおおおおぅぅぅぅ。
雨もさ、降るなら振りなさいよね。我慢しなくていいから。出し惜しみしなくていいから。
嵐のごとく猛りに猛って、列島を覆いつくせばいいのよ。びゅうびゅう風を吹かせて、ゴロゴロ雷を転がして、ジャンジャカ雨を降らせればいいのよ。
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ、あちいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい
少なくとも私は発散しないとストレスが何時まで経っても内に残ってしまい、
さらにそれが雪だるま方式のように増幅してしまうようなので、早期のストレス解消が絶対必要だと感じてる。
あと、仕事効率を考える際、作業する人間のストレスを計算式に入れてない上司はちょっと死んだほうがいいと思う。
強いストレスを感じたときには、一人篭って一時間くらい○○○をやると落ち着く。
○○○をやらずに仕事をやると、効率もはかばかしくなく、かえってストレスがたまる悪循環になる。
ただ、上記のように時間がかかるため、仕事場では○○○をやるわけにもいかない。
だから、
最近パチンコが良いとか悪いとか言う話を見かけるので書いてみる。
意志の弱い人間がパチと借金にハマったら人生終わったよという、よくある話。
俺が生まれた街は、パチンコと飲み屋くらいしか遊び場のない田舎で、父もパチンコが好きだった。
同級生の友達や建築職人仲間、パチ友達、時には祖母とも一緒にいた。日曜は昼飯ができたらパチ屋へ迎えに行って連れて帰るのが小学生の俺の仕事で、パチ屋でガキがうろうろしていても誰にも不審がられることはない雰囲気だった。父親の膝でボーナス止めて遊んだ記憶があるから、スロット打ちだったんだろう。
仕事で稼げなかったのかパチンコで負けが込んだのか、浮気でもして女に使ったのかは知らないが、一度数百万の借金を作って離婚寸前まで行った。母方の祖父から譲られた家も抵当に入っていたらしい。子供も小さいし、心を入れ替えてやり直すなら生前贈与と思って使え、と祖父が精算してくれたそうだ。
酒もタバコもパチンコもやめて、父は真面目に生きることにした。仕事、テレビ、週刊マンガ誌、ファミコン、時々友達から本やマンガを借りてくるのが俺の覚えている父の生活。たまたま仕事も順調にあってそれなりに稼げていて、酒やタバコは許され、見習いを取ることもあるくらいにはなった。
でもあれは恐らくバブルの時期だったんだな。会社が抱えてる職人じゃ足りないからフリー職人にも仕事が回ってくる訳で、景気が悪くなって新築や改装案件が減ると、仕事は激減した。折悪く母が入院してパートもできなくなった。生活が困窮し、パチンコで稼いで何とかしようと思い、再開。仕事が無い日は朝から晩まで打って、研究して、あろうことかそこそこ稼いでしまった。生活費と入院費を払って窮地を乗り切り、へそくりの隠し貯金も作っていた。
たぶん父は、それでもう、オレはパチで生きていける、仕事もないし真面目に働いてもソンだ、と思ったんじゃないだろうか。
その後、俺は就職して田舎を離れてしまったので、全てが終わったあとで聞かされた話。
すごく分かりやすい破滅。
仕事をする振りをしてパチで稼いだ金を母に渡していた父だが、途中から勝てなくなっていた。物入りも重なり、以前作った貯金もすっからかん。
返済が滞り、雪だるま。友達親戚仲間に頭下げれば借りられる程度のカネは全て借りて、俺も「発注主に逃げられてカネが入らず困っている」などと無心されて、嫁に相談していくらかの金を渡した。
いつしかヤミ金に借りて利息も返せなくなり、取立てが来るようになって発覚。
弁護士を入れて清算して、ヤミ金の分は白紙。消費者金融から過払い金が返ってきて弁護士料払っても手元にいくらかカネが戻って自己破産を免れたが、本当はまだ隠していた借金があったらしく、ブラックなのでヤミ金に借りてまた首が回らなくなった。
祖母の年金を抵当にカネを借り、母の少ない持ちアクセサリを結婚指輪にいたるまで売り飛ばし、気の弱い友人の名義を借りて消費者金融で限度額まで借り、最後に見知らぬ婆さんからカネを取り上げようとして捕まった。
そのやり口はあまりにも適当で、もう、借金に追われ疲れて破滅したかったんじゃないかと思う。
さすがの母も離婚して、父を叩き出して実家に帰らせた。たまに父の姿を見かけたと伝え聞くそうだから、生きてはいるみたいだ。
俺のケータイの番号も住所もずっと変えていないが、あれから父からの連絡はないし、俺も父に電話してみようとは思わない。
パチンコは楽しめる範囲ならいいけど、ATMであと一万借りて入れたら大当たりしそうな気がしちゃうタイプの人、借りる前にちょっと考えてみてね。と言うお話。
僕はその友人に呼ばれ、その駅に降りた。
そこに私服の学生が群れており、まっすぐ進むと某私立大学がある。
私はそこにポロシャツを着て臨んだわけだが、彼らは私を目にすると嘲りの表情を浮かべる。
おそらく、服がダサいよ、僕の通ってる大学にはそんなかっぺファッションは通用しないよ、ということを主張したいのだろう。
実にぬるい生き物である。ステータスの高い大学にはステータスの高い服装が求められる、ということなのだろう。
僕はそういうベニヤ板の環境は好んでいないので、彼らに笑みを浮かべておき、友人の家へ足を急ぐこととする。
しかし、腹が空いた。友人に気を遣わせてもあれなので、とりあえず何かで満たしておこうと思い、マクドナルドへ入る。
案の定、中にもそういう人でごった返していた。都会には都会の空気がある。それを察知できない田舎者はトンペーにでも通っていなさい、と言いたい空気であった。
私はそこでホットアップルパイを注文する。外は暑いが、食べたいものは変わらない。
中の空気が悪かったが、我慢して食べる。視線も刺さる。ああ、そうだ。俺はここの人間じゃない。わかっているからその目をこちらに向けないでおくれ。
悪意から言っているのではないことは分かっている。
私自身の歪んだ思考が善意からの言葉をねじ曲げて捉えてしまっている。
胸の奥に去来する僻みの感情も、胃の奥からのきりきりとした痛みも、誰かが悪いわけじゃない。
自分のことは自分でしなければならないことくらい、分かっている。
それでも、「次の就職は決まったのか?」と毎日別の人間から尋ねられるのは辛い。
相手はほぼ全員公務員だから尚辛い。
3月末で臨時職員の契約期限が切れて、自治体の規定で更新はされない。
今の職場を必ず去ることになる。
働き口を見つけられなければ4月から無職。
周りの人たちは私のことを少しは認めていてくれているらしい。
だから、4月からどうするのかを心配して聞いてくれているんだと思う。
そんなの分かっているけど、悪いことしなければ将来安泰で、毎月お高い給料を貰って割と安穏と過ごしている人たちに、しつこくしつこく同じことを問われると、気が萎えてしまう。
と、言うより、腹が立つ。
憤っても嫉妬しても何にもならない。喚いたって何も変わらない。
でも、「今は不況だから大変だね」とか「ハローワーク?ツラそうっすねw」とか言われると、所詮他人事なんだから放っとけよ!と吠えて噛みつきたくなる。
臨時職員という一番下っ端の立場にあるから、上から目線の哀れむような言葉をかけられても仕方ない。
「俺が人事だったら増田さんのことをすぐ採用するのにな」とか慰めにもなってない。黙れこの野郎。
就職決まったの?
まだ決まっていません。
大変だね、でも頑張ってね、増田さんならきっと見つかるよ、真面目だし。
無責任な言葉を投げっぱなしにするくらいなら、何も聞かないでくれ。
一番危機感を持っているのは多分自分自身だから、煽らないでくれ。
自分の中の嫌な感情が混じりあって雪だるまのように膨れていって、時々叫びたくなる。
これからもここで働けるくせに、私と何もかも違う立場にあるくせに、無責任で勝手なことばかり言ってるんじゃない、私の問題なんだから放っとけ!
勿論こんなことを吐き出せるわけもなく、喉口まで沸き上がっていた言葉は腹の中へと戻る。雪だるまはまた大きくなる。
いつもはとてもいい人たちだ。
理不尽なことで怒ることとかもない(むしろ怒られないことが怖かった)。
その善意が今は痛い。善意を悪意のように変換してしまう自分の心が一番痛々しいのだろうと思う。
だけど、連休取って家族でハワイに行ってきた、とか、今日は調子が悪いからちょっと早めに上がるわー、とか。
大小の別はあるが、毎日のように飲み会を敢行。各人により1時間程度の誤差はあるが、ほぼ定時上がり(さすがに管理職級は除く)。
まさにぬるま湯の中にいながら、ハローワークのサイトで求人を検索する自分。
世間一般的に最強と言われる新卒カードが失効して、もうすぐ1年。
もうこんなところには二度と巡り会えないのだろう。
ここにいる人たちとも二度と会わないだろう。
逆に会いたくない。嫉妬と自己嫌悪で狂いそうになる。
就職出来ず、中途半端に働く道を選んだ自分が結局悪いのだけど。
色々と思うことはあるが、何を思っても思うだけでは何も変わらない。
だから前を向いて、せめて表だけでも明るく振る舞いたい。
だけど目の前では不況の嵐が吹き荒れる。
決意をしなければ歩けない。気を抜いたら吹き飛ばされる。何もしなけりゃあっと言う間の崖の下。そうしたらきっともう戻れない。
だから、安全な場所から私の背中を平手で叩いて押し出すような真似は止めてください、善意だとしても止めてください。
もう崖の途中の岩を片手で掴んで宙ぶらりんな状態なんだから。
ここから崖下に落ちようが別の岩を掴もうが、関係ないから、放っといてください。
うるさい、だまれ、しねばいいのに。
世間では、中学受験の害悪だなんだというのはさんざんに語られていて、自分自身も小学校の三年生や四年生から塾に通い詰めて毎日夜遅くまで、なんてバカらしいことだと思っている。できればさせたくない。子供は、予想以上に伸びるし、しかし、ゴムのように突然切れる。切れるまでのタイミングがわからない。だから正直怖い。
それでも、やっぱり私立進学校に子供を通わせたいと思う(信じる)たった一つの理由がある。
それは、
だ。
自分自身が東大・京大に時に百人近くの進学者を出す私立進学校の出身だからわかるのだが、実際、私立進学校の効果というのは「良い大学」に入ることではない。むろん、「良い大学」への道は、公立の進学校や底辺私立校なんかに比べればはるかに整備されているだろう。それは明らかに感じられるし、たしかに「良い大学」に入ることはできたが、ぶっちゃけ、「良い大学」に入らなくても(極論するならそのまま高卒でどっかに就職しても)私立進学校に通った価値ははるかに巨大だと思っている。
というのも、私立進学校の「人脈」というのは、ものすごいスケールだからだ。語彙が無いのでものすごいとしかいいようがない。なんせ、「ただの友達」としてバカやらかしていた奴らが、次々大企業に入り、あるいは役員クラスになり、医者になり、大学教授になり、官僚になり、弁護士になり代議士になり……とにかく、中学・高校時代の「ただの友達」だったはずなのに、社会の中枢にグイグイ食い込んで行くのだ。
彼らを「人脈」として活用出来ることのメリットは言うまでもないが、さらにすごいのは、「人脈」を作るためのコストが、ほぼ中高時代の授業料のみ、という点だ。「何も考えず」・「ただぼけーっと友達と遊んでいるだけで」、社会の上層部で働くエグゼクティブと友達になれるのである。
もちろん、友達の全員がそううまく行くとは限らない。限らないが、一学年二百人ほどで、六年間過ごすのだから、ほぼ全員と顔見知り程度にはなれる。将来、この格差社会の頂点に食い込んで行くような連中と、中高時代から知り合いになれることの計り知れないメリットは、もうわかるだろうか。
なんせ、ホントに打算や計算抜きの「友達」が、「人脈」へと進化していくのだ。
俺自身、中学や高校で友達と遊んで、バカやらかしていたときには、そんなこと微塵も考えなかった。いつか社会に出るのだとはわかっていたけれど、それがどういうことなのか知りもしなかった。ただ毎日を、適当に遊んで、テストも適当にこなして、また遊んで暮らしていた。
にもかかわらず、彼らは「人脈」になった。
おまけに、私立進学校にはきちんと同窓会組織があり、OB同士のつながりの意識が強い。同級生の友人が「これから社会に食い込んで行く」奴らなら、OBは「すでに食い込んでる」人々だ。こうなれば勝手に人脈の雪だるまが転がっていくようなものだ。
この無敵のパスポートの効力を味わった今、なんだかよくわからないままに中学受験させられたことは、これ以上なくありがたかったと思うし、それを子供にも味わわせたい。
中学受験は一度しか来ない。
ただ自分の納得のいくものをひたすら創り、より多くの人に食べて味わってもらうという大きな志をもっている。
いや、もしかしたら、彼の志は全く別のところにあるのかもしれない。
料理を通して何かを成し遂げたいのかもしれない。
だが、彼の大きな志がなんであるかは、料理に詳しくない私には知ることできない。
私は、偶然その大衆食堂に立ち寄り、目立たないが、きびきびと洗練された彼の仕事ぶりにひかれた。
木訥ではあるが、手抜きのない緻密な仕事ぶりを誰もが誉めた。
彼の食堂にはメニュー表がある。
客から見れば、ずいぶんと細かなメニュー表であるが、彼はそれではまだ満足しないようだ。
客の年齢、人数、雰囲気、行事などを察し、日替わりメニュー、お勧めメニューも変わる。
もう一つ、彼の大衆食堂の特徴はデザートもあること。
和風、洋風、中華風、そこには季節の果物も必ず添えられている。
もちろんすべて彼の手作りである。
食後にくつろぎを与えてくれるお茶のサービスも専門店に劣るものではない。
一見目立たない、彼の大衆食堂のすばらしさを噛みしめることができるのも、私が客の少ない午後二時~四時頃まで訪れることができる環境にいるからだろう。
彼のさりげないティータイムの心配りはあらゆる客層に向けられていた。
少しだけ夏に手の届く春の日差しの強い日には、冷たい菜の花入りリンゴジュースとさくらんぼケーキのセットを(恋人達は注文した後、チェリーがペアになっていることを初めて知る)、
受験間際の制服組の女子中学生には、たまたま手に入ったという10種類以上もの果物を載せたハニーパイとレモンの香り入りのローズヒップティーを、
秋のお宮帰りの老夫婦には、梅昆布茶と銀杏のカケラの入ったきんつばを、
雪の日に来店した子供が皿の上に見たものは、トトロの形をしたバニラアイスクリームだった。
http://anond.hatelabo.jp/20080924231121
100万ぐらい借金あったけど普通に1年で返済したよ。正社員だからってのもあるかもしれんが。
もともと、大本の借金した理由が尋常ではないので、はっきりいうが、その借金は尋常ではない。ふつう、ありえない。
ないことはないが、そんな額の損害が発生するのはもともとの報酬もそれなりにでかい時。でも、そんなわけない。だったら、仕事2件受けていればもう1件のほうで返せるはず。これ1件しかない?それリスクとり過ぎ。
ようするに、そんな仕事を選んだ彼の責任がそもそも大きい。仕事はバクチじゃないんだから。
絶対にやっちゃいけないのが、増田がお金を貸すこと。これをやると、彼が自分の責任を自分で取らなかったという負い目を作ってしまい、また繰り返す。自分で返す手助けをすること。これなら、次は同じ失敗をしなくなる。お金を貸すことは自分も相手も泥沼に突き落とす事だと理解しましょう。お金を貸さないのが相手のためなのです。
どうしても支払えないなら、自己破産させろ。風俗堕ちるよりまし。増田の状況見て、風俗行ったら、二人ともいまより悪化するタイプ。
自己破産するなら、弁護師にたよるまえに、地方裁判所の無料相談コーナーへ行け。時間限定だが自分だけで自己破産する方法を教えてくれる。それで、自分ではできないと思ったら弁護士に頼れ。場合によっては司法書士にたよるだけでもOK.とにかく、相談する。これが重要。
次に、自己破産しないなら、派遣仕事探せ。安くても良いから楽なやつ。3年続けられそうなものを選べ。そしてどんな辛いことがあっても辞めさせるな。辞めるな。派遣が辛いなら、まかない付きのバイトとかでも可。とにかく、継続的に働けるまっとうな仕事を探せ。
借金は、まず、銀行をあたれ、困ってるのはお前だ。銀行は貸すほうだ。全部の銀行に1件1件お願いに行く気持ちで融資相談に行け。ただし、同時に複数回るな。1件回ってダメが確定したら次へ行け。理由はいろいろあるが、そうしたほうがよい。最初はでかい銀行から行ってみろ。ないせ金利がぜんぜんちがう。とにかく、金利の安いところから探せ。
そして、必ず返済を怠るな。毎月2万ぐらい返済をコツコツ続けろ。
いまサラ金からなら、銀行に借り替えるだけでもだいぶ楽になるはず。派遣仕事を続けられてればそのうち、銀行に駆りかえられるはず。金利のことを考えてすこしでも、金利の安いところで、銀行のようなところから借りたほうがよい。
絶対ダメなのはカードローンで限度額が高いやつ。50万の借金がいつのまにか数百万に膨れ上がる。絶対ダメ。最初に借りたらそれ以上の額は借りない。これが守れないならその瞬間自己破産の方がマシ。借金は膨れ上がるからね。
いまサラ金だとすると、返済のためにさらに借金抱えて雪だるまというのが最悪。それだけは、監視して管理すべき。
あと、酒を飲むな。徐々に辞めろ。一気に辞めるな失敗するから。今日1日5杯なら来月は4杯とかそういうペースで1日1杯まで減らせ。
とにかく、収入が安定すれば、貧しいながらも暮らしていけるという事がわかって、将来への不安が少し消えて、安定するはず。
あのな、あせるな一気に解決しようとするな失敗するから。すこしづつ 問題を10分割 20分割してちいさくちいさく問題をして、小さな問題を1つづつクリアーしていけ。
金利とか、銀行とかわかんなければ、また、相談しろ。どっかの増田が答えてくれるはず。
とにかく、困ったときに必要なのは、いろんな人に相談すること。早急に解決しようとしないこと。
つらいとおもうけど、Good Luck. 知恵ぐらいはエントリーに気がつけばいつでも貸すから あきらめないで、自分の人生を自分で守れ。
あと、世の中には いい男(いい女)はいっぱいいるぞ?共依存ってわかってるなら、おたがい徐々に自立しろ。
おれもな、親が大変で、作った借金は半分は親が理由。半分は自分が理由。大変だったよ。でも、がんばったら、なんとかなった。
と思ってほぼ自明だけどモデル化してみた。
時刻tで雪だるまの平均半径をr(t)とする。
雪だるまは一定の角速度ωで転がり、
ωdtだけ転がった際に巻き込む雪によって平均半径がγr(t)ωdtだけ増えるとする。
球形からの歪みは無視して、半径は一様に増えるとする。
よって平均半径の微分方程式は
dr = γr(t)ωdt
なので、これを解くと
r(t) = r(0)exp(γωt)
<誰も読まないだろうけど追記>
もう少し厳密には、半径が大きくなると同量の雪を巻き込んだときの半径の増分が小さくなると考えるのが自然。
一方で巻き込む雪の量は円弧の長さではなくて立体角に比例するべきだから、
dS = 8πrdr
となって結局同じ方程式に帰着するよね。
夢を全否定された気分に陥った。 - 手錠で首絞めてやろうか。
http://d.hatena.ne.jp/rosylilly/20080522/1211465462 の米欄で
> 点数低いって事はやれば伸びるって事だろ。
> 「勉強してる事に満足する」っていう愚行を避けていけばまあまず心配ないよ。
とあったのを読んで,
「やれば伸びるとか,そんな生やさしいもんじゃないぞ.雪だるま式なんだ」
と思い,ついかっとして以下のエントリを書いた.
ほんのちょっとだけ努力をしてみる.たとえば一週間勉強をして実力が1割伸びる.
もうちょっと努力する.もう一週間勉強して実力がさらに1割伸びる.
このときの実力は120%じゃない.1.1*1.1*100=121%なんだ.
このたった1%の上積みがすごい.
1割アップを10週間続ければ200%じゃなくて259%だ.
20週間続ければ300%じゃなくて672%だ.
1年50週間(2週間ぐらい休んでみた)なら600%ではなくて11739%,100倍以上だ.
これを複利計算という.
勉強するぞと決意して
最初の3日ぐらいは苦しいかもしれないけど,その苦しさがちょっとだけ楽しくなったとしたら,
雪だるまを膨らませてゆくような複利が始まる.
複利モードが始まってしまえば,
その時点の実力が,今から比べてプラス1パーセントのほんのちょっとの伸びだったとしても
実はこの瞬間にもうすでに人生が変わっているんだ.
勉強をするとちょっと伸びるのに加えて,ちょっと勉強することが得意になる.
ちょっと成果が見えたりすると勉強することが好きになるかもしれない.
すると,その次の週の勉強では「伸びかたの伸び方が伸びる」んだ.
それから知識は知識と知識の関係でできているから,知識が増えれば増えるほど,知識の増え方が増える.
サッカーをしていてボールの運動の物理学をぼんやり考えるようになるかもしれない.
歴史上のイベントや人物の名前が有る程度アタマに入ってくると,
テレビをぼんやり見ていて歴史問題が面白くなるから,細かいところまでついつい興味を持つかもしれない.
実力がすこし伸びると,勉強も努力もするつもりなく遊んでいるときの体験までもが,
複利モードを続けてゆくには,他人と自分を比較しないことが重要.
複利モードか否か?は,一週間前の自分よりも一週間後の自分が1%でも伸びていれば勝ち,
順位や偏差値は他人と比べた相対評価だから,
自分が伸びているかどうかの基準にはならない.
自分の実力は問題集での得点とか,覚えた英単語の個数とか,そういう絶対評価で計ろう.
イチローは,打率ではなく安打数の蓄積で自己評価している,という有名な話があるけど,
これは目先の結果に一喜一憂しないためだそうだ.それに習おう.
ただし,ちょうどよいライバルがいると,学習効率が上がるというのも間違いない.
互いに伸ばし合えるような仲間がどこかにいるといいね.
でも,目標を達成するかどうかは複利モード人生に入るかどうかと比べれば
究極的には価値が低い.と僕は思う.
だって試験には運の要素が大きい.
複利の利率がハマれば,追い込み時期に急に伸びて
タイミングが遅ければ越えられないかもしれない.
越えていても,うっかりミスで落ちるかもしれないし,
ぎりぎり足りなくてもラッキーが重なれば受かるかもしれない.
それから試験は相対評価だから,競争相手がたまたま強ければ負ける.
でも試験に受かろうが受かるまいが,試験が終わった後も複利人生モードに居続けることができれば,
その蓄積は自分を裏切らない.
それから努力してるぞ感のある苦しい努力は,やり過ぎないことが重要.
一週間前の自分をなんらかの意味で1%とか,できれば10%とか越えていれば十分.
それを(ほぼ)毎週続けてゆくことだけが重要.
苦しい努力をし過ぎると,たまに燃え尽きたりして逆効果だから.
苦しさを楽しみに変えてゆく工夫と,でもいちおう苦しいことを避けない根性と
この二つを両立することがコツだと思う.
ともかく工夫も根性も,今の10%増し(つまり合計で21%増し)で十分ってことだ.
ということで,
勉強の効率を10%だけ増す具体的な工夫を募集します.
効率を1.1倍にする技術を50個重ねて100倍になろうぜ.
俺的には、偏見ってのはハゲの例でいくと「ハゲ=性欲強い」と思い込んでる状態かと思ってたんだけどさ。これも偏見ってことでいいのかな。
偏見がなかなか払拭できないのは、実は目の前で偏見が間違っている事が現れているのに、それに気付き正すどころか、偏見フィルターで見る事によってさらに偏見を強化してしまうからだよなってふと思ってさ。
そんでその偏見の雪だるま現象みたいな事ってなんか名前ついてたっけって思って。
最初のちょっとしたささくれのような偏見が、それを基にして人間を見る事によってどんどん大きな偏見となっていく感じ。気がついたときにはバリバリの差別主義者だった、みたいな。そういう現象。
ちょっとずつ膨れ上がっていく上、本人は偏見フィルターで見ている事に気がついていない(真っ当に判断しているつもり)から、偏見って拭い去るのムズいんだよなぁ。
えっとね、凄い簡単に説明すると
円の金利がほぼゼロ。そんでもって、他の国は3%とか5%とかなのね。(政策金利でぐぐって。)
その分だけ日本円ならお金が借りやすい。日本円ならお金借り放題。
有望な投資先が日本国外にあったとして、その国内で借りるより日本で借りて突っ込んだ方が儲かるわけ。(海外投資家の場合)
ついでに日本国内の資本家(私みたいに数万ドル程度の超々小規模投資家を含みます)は、国内投資物件のローリターンっぷりにうんざりしてるから、海外の「せいぜい公定歩合よりちょっと多めに儲かる程度」の案件でもなんかすごいハイリターンに見えるからがんがんお金投資すんの。なんか投資内容はローリスクに見えるし。(そっちの国の国債買うだけに近いものもある。ほぼ安定な債券しか買わないグローバルソブリンオープンなんか典型的)
すると円を売って海外通貨を買うことになる。どんどん円を売ると円が安くなる。円安になる。円安になると円で借りた金を返す時の金額が安くなる。なので海外投資の海外通貨でのリターンよりもよいリターンが得られる。なのでまた円を借りて投資する。円を売るから円が安くなる。
構造にバブル的雪だるまが入ってるので、どこかで限界を迎えるのは確かだったんだけど…いまくるかもうくるかと身構えていたら全然こなくて今頃来たんです。
#円キャリートレードだけを要因とするのは乱暴だろうか