はてなキーワード: 趣味人とは
http://twitter.com/#!/flurry/status/141322110126669825
ただの釣り人が、なんか親原発の政治的なメッセンジャーに仕立て上げられて反原発派に叩かれた上、デマを打ち消すためにただの一釣り人であり趣味人であり政治性はないと弁明したら、当の反原発派が「えー」。デマにものすごい勢いで食いついて死人に縄を打ったてめえらの身内の不始末にケジメもつけないで、何が「えー」だ。
「自称中立」批判のつもりなんだろうけど、無理矢理どっちかの陣営に巻き込まれたことに抗弁しても「自称中立」扱いなのかよ。なにこの回避不能の罠。
最近多くのメールでどういう上司がいたかということをよく聞かれる。思えば変人が多かったな(笑)。
一番印象に残っているのは、俺が25歳から30歳の頃のA部長だ。
最近はだいぶ社内の上下関係もカジュアルになって来ているが、当時は若手社員が部長と気安く話すなんてなかなか許されない雰囲気だった。
レポートや報告を上げるにしても、逆に何か部長から指示が降りてくるにしても、常に自分の直属の主任、課長、次長、そして部長と言う階層を通じて行われる、明確な序列があった。
「おい、タケシ!ちょっと来い」
と言ってオレを部長席に呼び出したり、向こうからオレの席にふらりとやってきたりして、オレをかわいがってくれた。
また若僧のオレにも
「オマエがオレなら、どうする?」
と忌憚ない意見を求めてくれた。
A部長は当時、今のオレと同じくらいの歳だったと思うが、体型はスリムで、どんなに暑くてもスーツをきれいに着こなし、精悍な顔つきだった。今で言えば、かなりのイケメンで(当時、まだイケメンなんて言葉はかったが)、社内の女性らの中でも評判だった。
今の時代なら、GQやLEONとかの雑誌に出ていても不思議ではない、チョイ悪なオヤジだった。
すごいのは、このルックス以上にキャラクターが深くて濃いんだ。
哲学、文学、芸術とワインをこよなく愛し、食事に行けば、シェリー酒から始まり、赤ワインをたしなみながら、高級そうな葉巻を片手に、平気な顔をしてサルトルの実存主義について語る。
ヨーロッパ的な気品があって、高貴と自由があいまった雰囲気をこよなく愛する人だった。
でもさ、何かと理由をつけてすぐヨーロッパに出張してしまうんだ(俺も同行させられることが多かった)。
と言って、自分は2週間くらいヨーロッパを周遊するんだから、困ったもんだよ(笑)。
もちろん、本人は「視察」だって言い張ってたけどな。
電子メールや携帯電話なんてない時代だったから、A部長がヨーロッパ周遊で不在の間、A部長に指示をあおぐのは大変だった。オレら若手は、A部長が泊まりそうなホテルに、片っ端から電話させられたもんだ(笑)。
A部長の緊急決裁が必要になり、どうしてもつかまらないA部長を探して部署メンバー総出で、居場所を突き止めるべくフランスのToulouse中のホテルに電話をしたこともあった(前々からToulouseでフォアグラと白ワインを飲むのがいいと言っていたので)。
しかし、結局、どのホテルに電話してもまったく見つからない。本当は権限規定違反なのだが、最後は次長が代理決裁して何とかした。
それから数日すると、真っ黒に日焼けしたA部長が会社に現れて、「地中海の島で彼女とエンジョイしていた」とのことだった。オレたちは日本であわてまくっていたのにさ(笑)。あの時はあきれてものが言えなかったな。
こんなA部長の破天荒ぶりを書くと、ただの遊び人、趣味人にしか見えないかもしれない。
しかし、仕事はすさまじくでき、社内だけでなく取引先や競合企業からも敬意を集めていた。
当時は、朝から晩まで働くようなモーレツ商社マンがもてはやされていた。しかし、ヨーロッパ人を自称するA部長は、そういう連中を「バリューレスな社蓄」と呼び軽蔑していた。
「今すぐ資料をしまえ」
と言って、ことあるごとにオレら若手を食事に誘い出した(その後、会社に帰って仕事しなきゃいけないから、ますますモーレツ社員をやらざるを得ないんだけどさ・・・)。
食事の席では、普通なら社内政治や昔の武勇伝を聞かせる上司が多い中、A部長の口から会社や仕事の話しが出ることはなかった。
文学論、芸術論、音楽論、人生観までをゆっくりと語ってくれた。ウィスキーの飲み方、酒の種類、ワインのテロワール、ホステスへの接し方、葉巻の吸い方など今の遊びの基礎はすべてA部長に教わった(笑)。
九州の田舎村からニセ慶應ボーイになってバブル期に調子に乗りまくっていたオレは、「こんな洗練された人がいるのか」と憧れだったものだよ。
おっと、A部長の仕事ぶりを書くつもりが、ついつい遊び話になってしまった。
だが、この記事を書いていたら、オレもBourgogneワインを飲みたくなって来た(笑)。
続く
さて、それではそのコンテンツに金が払われなくなった時に、世の中が何を代替にするか?ですけれどね。
単にコンテンツを見なくなるだけと言うなら、それはそれで良いんじゃないかと思う。
そういう経済圏が一つ消えるだけ。
NHKのようにコンテンツ産業を保護するとか、昔のアニメのようになんらかの福次効果のためにのみ存在するようになるとか。
そういう風にお金が流れるなら、淘汰はされるでしょうが、コンテンツ産業はそれなりに生き残るでしょう。
それすら無いよと言うなら、普通に考えれば、趣味人の提供してくれる物だけで皆が満足する社会って感じですかね。
[blog][music]学校で教えてくれない、芸術を評価するための6つの視点
http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20091025/1256479650
はてブクマしてほっといたがコメントを後から読んでみた感想を増田に書きますよ。
あ、先に断っとくとブログ主じゃないですよ。
主さんの考え方とはおそらく明らかに違うことをざっと書きますので。
さて、センス至上主義の人たちってのはことごとく残念な方が多いですね。
僕も頭は悪いけど、どんなことでも自前で考えることを辞めてはいませんから、
この人たちと比べりゃ少しはマシかなと思っています。
なぜマシかな?と思っているかを書きましょう。
芸術に限らず物事を見るっていう行為には、必ず束縛されるものがあります。
物事を見るヤツの脳みそです。
脳みそ(全身の神経、肉体を含んでもいいです)にはそいつが生きてきたあらゆる経験が蓄積されています。
全部喋るワケにはいかないので、芸術鑑賞に限りますが、
鑑賞するにも当然経験というものが大きなファクターを占めることになります。
というか、芸術における生来のセンスなんてものは人間には備わっていません。
しいて言えば、生まれた環境、育った社会で目にし耳にしてきた事、この蓄積が異なるくらいでしょうか。
ですが、肉体の素質の差というのは、確実にあります。
有名な話ですがピカソは10歳ごろには既にものすごく達者な写実絵を描かれていたそうです。
そんなに幼いころにすばらしい絵を書けたという事はものすごいセンスの持ち主ということじゃないか!と言われるかもしれませんが
残念ながら全くの早とちりから来る誤りです。
写実絵というものは、インプットとアウトプットの精度の問題であり、センス云々は全く関係しない分野なのです。
つまるところ、肉体性能…筋力とかじゃないですよ。この場合は目の力、空間把握能力、そして手の器用さです。
これが達者だったからピカソは幼くしてすばらしい絵がかけたんですね。
あ、こういうとまた文句を言うヤツが出ますね。
写実絵というのもセンスは必要ですよ。
構図のとり方、ライティング、描くものの配置など、考えなければならないことはたくさんあります。
生まれ持ってのセンスなどではなく(そもそもそんなものは存在しないといいましたね)、蓄積されたセンスですがね。
ピカソの絵はルールを破っているということを理解できてはじめて意味がある。守破離と言うヤツですね。
ルールが無いヤツは最初から型破りなんて出来ないんです。ルールが先にあってこそ、型破りを実行することが出来る。
美においてルールとは、観察と経験の蓄積と人間の肉体感覚によってのみ規定されるものなのです。
かつては文化圏、文明圏ごとに感覚が分かれていましたが、ネットによってある程度統一化されてきているなぁと感じます(脱線)。
精巧な写実絵を幼くして書くことが出来たピカソは、それまでの画法と異なる彼独自の画法で表現を行っていく道を行った。
何故かと言えば、それが彼が伝えたいことを彼が伝えたい人に一番伝わる方法だとピカソが結論したからでしょう。
優秀な表現者というものは、ここでは芸術家のみの例を挙げていますが、文筆家にしろ、技術者にしろ、あるいは一個人でも同じですが、
自分が伝えたいことが自分が伝えたい相手に、どうすれば伝わるのかを常に考えているはずなのです。
純粋な芸術なら、当然、芸術家本人が持つ問題意識(単純に環境破壊とかそういうものでなく、
「赤ちゃんをどうやって可愛く描くか」のようなライフワーク的なものも考えられますね)からなるテーマがあり、
それに対する回答が作品となるでしょう。受け手は問題意識を理解してほしい鑑賞者であり、作者自身でもあります。
商用芸術では昨今では仔細なマーケティングが行われていることは周知の通りです。
それがたとえアウトサイダーアートだとしても、自覚的に商売としてやるのであれば
自分が何をしているのか、自分はそれをどうしたいのか、どう売り込みたいのか、考えているはずです。
それが理解されるかどうかは別として、自分が伝えたいことを自分で明確に出来ない芸術家は大成するはずがありません。
伝わるアテの無いものを創ることは幼い子供や、本当の趣味人に与えられた特権と言えるでしょう。
「そんなこと一切考えて物を作ったことなんて無いけど芸術で暮らしていけているよ!」という方は
きっとダウンタウンの松本氏における浜田氏の様な素晴らしい相方と出会えたのですね。おめでとうございます。
さて、問題は伝わる方です。
自分の見たことの無いものを鑑賞するとき、人はどうするでしょうか?
生来のセンスがあれば、ちゃんとした評価が下せるのでしょうか?
それとも、間違っていてもセンスで感じたことが正しいのだと言い切れるのでしょうか?
順を追って考えれば、殆どがまずそのものをちゃんと見ようとするはずで、
目にした瞬間エレクトリックサンダーが全身に走るような至福の体験を得るなどということはありえないはずです。
人間なんてもんの見た瞬間に出る感情は、自分がそれまでに見てきたものから割り出すように出来ているんです。
人は完全にわからないものと触れる時、評価を下すには多少の時間を要するのです。
生来のセンスなるものがあるなら、そんな時間は必要ないでしょう。何も考えずその場でパッと決めてしまえばいいのです。ゲド戦記はクソ、とか。
ま、ゴッホみたいに死ぬまで放置されてから評価される画家もいますから、そんなヤツはセンス0の大馬鹿者であると断じてしまえるわけですが。
ちょっと古いですが、アイフォーンをはじめてみたとき、
「ああ、ついに完全タッチパネルの携帯が発売されるのだな。人類の革新だ」って思った人は先に記事を読んでる人だけで、
そうでない人は「キーパッドないの?」「液晶DEKEEEEEEEEE」「なにこの□」のように、
見た目からはこれまでの携帯とは形が違うから、どういうものなのかを判断しようとしたと思います。
芸術だって同じです。見たことが無いような作品、バックグラウンドがわからない作品を理解することは出来ないのです。
ゲルニカを最初に見た時、僕はこの絵が壁画として作成されていることがわかりませんでした。
あと感じたことは、「ちょ先生教科書に微グロ入ってるんですけどこれ」くらいのもんです。
だってなんか変な生き物が人を食んでいるんですから。
戦争の絵って言われても戦争まんがははだしのゲンしか知らない僕からしても大いに差があり(だって人間しか出て無いですからゲンは)、
「戦争関係なくね?マジキチ」としか考えられなかったことを思い出します。
今ではこの絵がどういう背景で、どういう意図を持ってかかれたものかわかります。
だから、あの大きな絵に描かれた一つ一つの人物、動物にどんな意図があるのか、
それがピカソという偉大な画家の考えと一致するかはわかりませんが、僕なりに思いをはせることは出来ます。
即断即決で評価を下す必要なんて無いのです。時間がたてばわかることだってあります。それが蓄積されたセンスの成長なのです。
一つの作品を前に、作者とその時代、昔の自分、今の自分、そして作品そのものと触れ合う体験が出来るのが芸術鑑賞なのです。
同じような体験として、聴かなくなった音楽を久々に聴いたときの感覚があるでしょうね。
卑近な例で示したとおり、自分自身というものは変らないように思えて、
仕事や学校や人間関係を経ることで常に変化しているものなのです。
センスなんて言葉を確信的に使ってはいけない理由はこの一点なのです。
使っても問題ないのは人を褒めるときくらいでしょう。それ以外の場面では、使わない方がいい。
人間のセンスはある程度のブレ幅までは抑えられるが、完全に固定できない。
それなのに、センスなどという曖昧模糊なもののみを後ろ盾にし、
他に根拠の無い好き嫌いを強弁するなどという子供じみたマネは
それとも、共感できれば、自分が根拠なく、しかし好きだ、正しいとは感じることが出来ればそれでいいのでしょうか?
僕はそうは思わない。
勿論経験によるセンスは人それぞれなんで、好き嫌いはあります。
見たものをそのまま感じ取ってそれがよい体験となる芸術作品もたくさんあります。
ですが、感情にそのまま訴えかける芸術というものは、やもすれば危険物にすらなりうる可能性を捨ててかかってはいけないのです。
人類の歴史は、いかに肉体欲求をコントロールしてきたかの歴史でもあるわけです。
人間のしくみが生命機械であるとわかっている以上、感情もまた肉体欲求の一つです。つまり、制御出来うるのです。
オカルトなんかじゃありません。
あなたがメディアを通してあなた自身とかかわりの無い人間に対してどれほど多くの感情をもっているかを想像してみれば、わかるはずです。
MMRに書いてあったサブリミナルみたいなヨタなんてメじゃない恐ろしさです。
出自や成り立ちは芸術大学なんて出てませんから知りませんし、教養も無いからわかりませんが、
視聴覚(場合によっては他の感覚)を通して物事を伝え、感情を伝えるという共通点があります。
もしあなたがメディアになにかしらの違和感を感じ、それが問題であると考えるのであれば、
芸術に触れた違和感を感じたら時にも問題意識を持たないといけません。
あなたの友達がそう訴えてきたら、ちゃんと話を聞いてあげないといけません。
(ま、友達の感じたことも受け入れられないのであれば芸術鑑賞そのものの否定をしていることと同じと言えなくも無いですが)
そんな窮屈な思いはしたくないと言うなら、好き嫌いすら語らないことです。
それならセンスが似たもの同士で集まればいいじゃないかと思われるかもしれません。
それが良くないとは思いませんが、しかしその集団に居続け他の意見を聞かないことは、
徐々に感覚を麻痺させ自分たち以外の感覚への無理解をはぐくみ、閉塞へ向かって突っ走ってるだけであり、
「スイーツ(笑)」やらなにやら言って喜ぶ人間に成り下がるだけのよろしくない行為と言えましょう。
現に今の社会は閉塞したコミュニティの複号体になってしまっており、
表現という形でコミュニケーションを図る物自体の存在意義が変化していることの表れなんでしょうか。
(テレビみねー、ゲームとか興味ねぇ、美術館とかブルジョアか!などいろんな派閥がいるでしょうな)
その変化が感覚や感情のような曖昧でふわふわしていると思われているものに密着しているなら、危惧すべきことだと思います。
なんかとっちらかっちゃいましたが、つまるところ、
センス至上主義者は考え直せ、頭を使え、鑑賞してる時の楽しみ方に文句をつける気は無いから。
と、言いたいわけです。
僕としては、こんなクソ長くクソ面白くもなく他人人を完全に否定するようなシャドーボクシング的文章を最後まで読んでくれたあなたが
自分の考えもオンリーワンで世界に一つだから思想修正主義絶対反対とか言いながら
芸術作品に対して自分の考えのみを誇示し続け、異論をことごとく無視し自分と同じセンスの持ち主だけで結託して外に出ない、
あるいは自分と異なるセンスは認めず叩き潰すことに快感を覚えるようなサイコパスでないことを祈るばかりです。
だって、芸術の感じ方なんて、人それぞれでしょう?
ネット普及以前の服飾文化なんかはそうだったよ。ファッション雑誌=流行=みんなにながされてるだけ、みたいに思ってた人もいっぱいいたけど、
実際には趣味人以外はファッション雑誌なんか手に取んなかったし、服を作ってる奴らもそこで認知されればいいって感じの作りだった。むしろ一般には知られたくないと。
元猿岩石の有吉がこないだテレビで言ってたけど、ゴールデンに出るってことはバカの目に触れるってことなんですよと。深夜でひっそりとやってるあいだが一番わかってる人だけが見てくれるんですよと。
そんなもんだよね。
でも現代でそれを達成するのは難しいだろうねえ。
これへのブクマに「いや、主旨を理解してないよ。これは最近の酷い嫌煙厨に対する皮肉であり…」的な主張をしてる人いるが、「家で吸えよ」ってのはそんな酷い言い分なのか?ヒステリックな言い分なのか??なんかそれが当然のようになってるけど。
そんなに「煙草」と言う趣味に対して世間は1歩譲ってやらなあかんの?
なんかそれってなし崩し的に「もうここまで煙草って広まっちゃったんだし俺たち禁煙とかもうできねーしいいだろ」的な感じで認めさせてるだけと違うの?
子育てどうこうは俺的にはどうでもいいけど、趣味ってことでいうならさ、俺だってラジコンヘリ飛ばすの好きなんだけどさ。ホームで飛ばしていいの?つったらダメなんでしょ?麻雀も好きだけど、ホームでいきなり机広げて「じゃ、打とうか」みたいなことになったら車掌さんに「ちょっとちょっとキミたちィ」とか言われるわけでしょ。
「煙草が迷惑なら子育てだって迷惑!(でも子育ては認められてんじゃん?だから俺たちもいくね?)」なら、俺の趣味だっていくね?
あと俺は、ヒーリーズという、今では子供御用達のグッズになってしまったあのローラー付きのスニーカーを、子供らに広まる前に愛用して遊んでたんだけどさ。今では子供達が滑って他の客に迷惑だからってことで、あの靴スーパーとかで禁止されてんだよな。それこそそれだって、「おいおい禁止するとかやりすぎじゃないのか!だったらスーパーは、子供達が滑る専用のスペースを設けるべき。(あと俺みたいな大人もいるので大人用のスペースも設けるべき)」とか言う話になるだろ。なんでそれはならないのに、煙草ばっかそういうの認められるんだよ。
喫煙者は趣味の話にして誤魔化そうとするけど、むしろ趣味の話となったら、「なんで煙草っていう一つの趣味ばっかり、外でもできるようにとかいろいろ優遇されるんだよ」ってことになる。
喫煙者の部屋をわざわざ設けるって時点で、「なんで煙草っていう一つの個人的な趣味を、そんなに優遇するの?」って話なんだよ。普通の趣味からしてみたら、寧ろ「家の中でやるのが当然」であって、駅のホームだのなんだの公共的なところや会社や店やらでやれないのがそもそも当然なわけで、そんな普通の趣味持ち主の俺からしてみたら、趣味アピールすんだったら余計「喫煙ルーム」とか変な話だろと思う。それをヒステリックな反応って言う時点で、既に「普通の趣味」の思考から大分外れてるだろ。
それだったら俺だって麻雀ルームとか作って欲しいし。ヒーリーズ専用スペースをファミレスや駅や会社に置いて欲しいし。なんでダメなの?なんで煙草って趣味ばっか優遇されんの?
結局それって、最初にも言ったけど、「なんか前からあって、煙草やってるやついっぱいいるからいいだろ」的な、多数派のなし崩し戦略にしか見えない。
大体煙草ってぶっちゃけ麻薬じゃん。だったら麻薬解禁して、麻薬専用ルームとかも作るべきじゃねーの?なんで煙草だけ「各人家でやれや」じゃなくて「色んな所でも楽しめるように」考えられてんの?そんなの普通の趣味じゃありえないよ。同人誌だって人前で読んだらマナー違反とかいうし。だったら駅構内に同人誌専用ルーム作ってくれよ。煙草吸ってる奴らだけじゃなくて、他の趣味人だって、「色んな所で楽しみ」てーよ。でも我慢してんだろ。なんで煙草だけその我慢をしなくていいことになってんの?なんで煙草だけ赤ん坊のように「よちよちそうでちゅね、家の中だけじゃなくて、色んなところで好きなときに吸いたいでちゅねー、じゃあ部屋を用意してあげまちゅ!」て優遇されてんの??
喫煙者の風当たりが強いっていうけど、趣味で考えるならそもそも今までが異常なまでに優遇されてたんだよ。それを是正しようとしてるのを「ヒステリック!」とか言ってるけど「ヒステリックに思えるほどたくさんの是正」、すなわち「それほど好き放題やってきた」だけなんだよ。
ラジコンをそこら中で飛ばしまくって、それがたまに他の人に激突したりして「おい!いてーんだけど!」つっても「は?しらねーしうぜーし」っていってそれが通って、ラジコン遊ばない人たちは「いやだなぁ…」って思いながら暮らして、ラジコンがそこら中で飛びまわってる。そういう異常な社会だったんだよ。
それを、「ラジコンは家でやるべきじゃね」っていったら「ラジコンルームくらい設けてくれたっていいだろう!!税金?子育てだって税金かかってんじゃん!!」って言ってるのがこの記事だろ?別に子育てが趣味っていうのは俺的にはどうでもいいけど、それをいうならマジでラジコンルームとか作ってくれよ。なんで喫煙って趣味だけこんだけ国あげて優遇されてんの?意味ワカンネー。あ、ラジコンだから喫煙ルームくらいの広さじゃ無理だけどそこんとこは税金でやってくれよな。
どっちかというとこのストリートビューについてMIAUの言ってることは(メンバーの個人的意見かもしれんけど)、
世間の連中は保守的でバカっていう攻撃的な態度な感じがする。
だからwin-winのほうのベクトルじゃないと思うんだよね。
あとさあ、MIAUの人たちも本当に世間から応援を受けたいのなら、
ナントカ茶会ってなんだよっていう。
総務省の審議会とかで意見を出すとか頑張ろうとはしてるんだろうけど、
今のままじゃ、なんか変な趣味人の集まりのままじゃないの。
東大の博士とか入れてるけど、別にその学界ですごい人たちっていうわけじゃなさそうだし。
津田大輔だかはまともに頑張ってる感じがするけど、温度差が大きそう。
いや、カウンセラーとかそういうんじゃねえよ。
まあ、お香を売ったり精油を売ったりしてると思いねえ。他には雑貨とかお守りとかさ。和風じゃなくてタリスマンつうのかなんなのかアジアンテイストな感じのアレな?スピリチュアルまで行っちゃうと客層がアレになっからよ、まあ雑貨好きの趣味人とかを相手にしてる。
でさ、なんか営業電話がかかってくるわけよ。
「これからはインターネットの時代です!ネットショップ開きましょう!絶対いけますよ!」とかいうのよ。
こっちはさあ、今の店舗をそこそこ維持して楽しくやってけりゃいいやって感じだし、もうネット上に競合はわんさかいるわけでさ。あんまり乗り気じゃなかったわけ。
でもしつこいからこっちも折れてね。
押し問答の末にさ、サイトの費用やら維持費やらは全部そっちもち、こっちが仕入れと発送担当、利益はこっちがちょっとだけとってまあ大半はあっちにやっちゃうってことにしたわけ。ドロップシッピングとかいうのか?それのうちの店版な。
最初は良かったんだよね。件数も少なかったしさ、こっちは楽で。大して儲かんないけど店は普段通りだしな。
でもあっちがさあ。あせっちゃってさあ。
極端に宣伝し出すわけ。もうべたべたとさ。行く先行く先宣伝がみえんの。電話してても声がうわずっちゃってさ、事務連絡の後にぼちぼちやりたまえよって言ったら受話器がガッチャーン。余裕無いの。
まあでも注文がこなきゃこっちはどうしようもないしさ。取り分がどうとかじゃなくて全部渡したってお小遣いぐらいの金額しかねえんだもんよ。
電話じゃらちがあかねえとか言うから閉店後の夜中に来てもらったんだけど、もう見るからにストレスたまってんの。自分がどんだけ売ろうという努力をしているかとかさ、最初の営業電話より激しい勢いでまくし立てるわけよ。よっぽど金使っちゃったんだなアレはさあ。
どうせそんなことだろうと思ってさあ、落ち着く香を最初から焚きしめてたんだけどまあ見事にだめだったね。ハーブティーだってがぶ飲みしちゃうしさあ。
わかってたことなんだけどさあ、原因がはっきりしてたら癒しなんてきかねえんだよなあ。色々小さいことが積み重なって、こんがらがって疲れて、そんなとき、そこをときほぐすためにうちの商品ってあるんだなって。そこをこう「借金」とか「利子」とかがこれ以上なくはっきりとどかーんってなっちゃってたらまあ、だめなんだなあ。
んで今後の売り上げ向上策とか色々話し合って、辞典を作ったらどうかとかアフィリエイト始めたらどうかとかいうんだけどあっちにどんどん負担かかるじゃない。無理だと思うなら投げ出しても良いんだよ、損が大きくなりすぎねえうちに退くのも商売のうちなんだからようって言ったらまた顔がこわばるこわばる。どれほど損がでてんのかききてえけど聞いたら最後てえへんなことになりそうだったんで聞くのやめといたわ。
しまいにはとりあえず売り上げ向上策のために200万いるから投資してくれとか言い出しやがった。そんなのいきなりでねえよと。余裕資金がはいそうですかとそんなに出せるほどでかい店じゃねえだろうちは。
ちいと頭冷やしなっていってうちの店のおすすめセットをタダでもたせてやったけど、まあ役にたたねえだろうなあ。でもさあ、心に余裕のない奴から心のための商品を買ってくれるほど心の広い奴はうちの商品を必要としてねえんだよ。まず自分がおちつかねえと、な?
やさしいねぇ。別に言い分とかはない気がするけど。むしろVIPとかで騒いだり、最萌トーナメントで同属嫌悪したりと、趣味人同士でいがみあってる気がする。一般人が介入するまでもなく、いつもケンカしてるんだよね。
社会人になって一年。ゲームやアニメ、マンガ、小説その他諸々サブカルチャーの二次情報を消費したり書いたりする元気がなくなった。限られた時間を思うと、一次情報を一分でも多くしっかりと味わいたいという気持ちになってしまうから。スタッフインタビューとか資料集とか関連ムックとかを昔は熱心に追いかけたものだけど、それらを追いかけることで作品そのものからはどんどん遠ざかってしまっているのではないか、という疑念を抱いて以来すっぱりやめた。一行の業界裏話を仕入れる間に『ギャグマンガ日和』なら一話観られるわけだもの。
二次情報に意味があったのは、一次情報にめったに触れられなかったり、一次情報が少なかったりした時代だけじゃないのかな。氾濫する情報の中で自分の指針をきっちり持って趣味人として生きる場合に、二次情報がもつ意味とはなんぞや? すなわち、感想ブログや特集雑誌のレゾンデートルとはなんぞや? ジャーナルな価値しか持ちえないなら、創刊当初のポパイみたいに((実物知らんけど。))情報が無機質に羅列されたカタログ雑誌でいいじゃないか。