はてなキーワード: 設計思想とは
2010/05/16 23:40
こんにちは。昨日会った者です(これで特定するには情報不足だけど、まあわかるよね)。
で「幅優先探索でやる」という方針自体はいいと思うし、データ構造の作り方も基本は押さえていると思います(斜め読みしかしてませんが)。
ただ、コーディングの発想が「C で作る」という大方針から見て、少しちぐはぐな印象も受けます。データ構造の設計や操作の部分、汎用のライブラリを作ろうというのならあれでもいいと思うのですが、わざわざ汎用のライブラリを使わずに自分で専用の道具を一から作ろうというのなら、問題の性質を考慮して能率良くやることが大事です。
ところが、ここに載っているコードを見ると、見かけが C らしくなく、C++ や Java の劣化版のような印象を受けます。記法(マクロを大文字化しない、ルーチン名を大文字で始めるなど)だけの問題ではなく、データ構造の設計思想が「C で書く」という方針と矛盾しているように見えます。
もう少し具体的に言うと、そもそも C というのは現在 Web 系の世界などで流行のスクリプト言語類とは逆で、汎用言語でありながら低レベル(ハードウェアに近い)処理が簡単にできることに特色があります。つまり、組み込みを想定してプラットフォーム非依存のコードを書いたり、ハードウェアの特性を考慮して低レベルな最適化をやりたいというときに適しています。
そこでこの問題ですが、これを C でやるということは、処理速度や使用メモリ量の最適化が要求される状況、つまり迷路の大きさが途方もなく大きいような状況を想定すべきです。もっと言ってしまえばこの問題、たとえば画像処理などで似たような発想が要求されることがあります。このため、どうすれば時間のかかる処理を切りつめることができるかを考えてやらねばなりません。
このプログラムの場合、時間のかかる処理の代表格である malloc() が大量に使われています。これはいかにもまずいです。このような大量データを処理する場合の定石は、あらかじめ必要なだけメモリを確保しておいて、自分で割り当てることです。具体的には、必要と想定される量だけメモリを配列の形でどかっと確保しておいて、配列のインデックスをポインタ代わりに使います。そして、足りなくなったら倍々のような感じでメモリを realloc() してやればよいのです。
なお、そのような観点で言って、木の各節点の子の数は高々 4 (スタート地点が内点でないとすれば 3)であることを使っていることはよいと思います。ここで「子のリスト」とかを作ってしまっていたらこれはもうアホもいいところですから(容量の節約にすらなりません)。
そんな感じでしょうか。
とにかく、この手の問題は、アルゴリズムさえわかっていれば可読性もヘッタクレもないので、「短く書く」というような表層的なことよりも、何が求められているのかをよく考えて、柔軟に設計思想を考えることが大事だと思います。
2010/05/17 13:54
Oさんですね。専門的なコメントありがとうございます!cで書くと言いつつObjective-Cっぽい発想で書いていました。マクロの命名もその影響で、関数はImage Magickなどに似た命名規則になっている気がします。mallocを使いすぎると時間がかかるということは全然意識していませんでした。今度作るときはメモリ管理を自前で用意する発想を取り入れてみたいです。参考になるコメントありがとうございました!
ちがうよ、ぜんぜん違うよ。
androidってのは非PCだけれどもインテリジェントな(CPU、メモリ、永続記憶域)システムを持ったデバイスを動かすためのgoogle独自のOSであって、その設計思想はwindowsCEそのもの。
ハードウェアの要件を定めない代わりに汎用性を持つのが大きな特徴。
対してchromeOSってのは対人間用インターフェースとしてのブラウザをまず起点としているOSであって、ハードウェアの仕様はchromeブラウザがミニマムスペックでも快適に動くことが前提とされる。つまり組み込みやら携帯やらの限定された環境向けではなくPCにほぼ近い構成のデバイスに限られるわけよ。で、chromeOSの基本はブラウザであって、端末独自のアプリケーションは基本的に動作しない設計となってる筈。
androidがwindowsCEなら、chromeはappStoreの無いiphoneOSに近いわけよ。
どっちが優れてて、ってことは無いの。どっちも将来的に必要とされる分野なんだってばよ。
ニンテンドー3DS(仮)が発表になったから、という訳でもないが、表題の件を少し考えてみたいと思う。
よく言われているのは、「Wiiが前世代並みのスペックで低性能だから」という理由。確かにそれはあるかも知れないが、一応、PSPよりも遙かに性能が劣っているDSは、サードパーティの作品がそれなりに売れていた(る)。DSの次世代マシンが発表された今だと、DSソフト全体の売り上げが落ち気味なのは仕方が無いとは言え。
ということは、多分、複合的な要因でサードパーティのWiiソフトは売れていない、ということなのだと思う。
一つ思うのは、Wiiというマシンが「あまりにも割り切った設計思想だったから」という面があるような気がしている。
何が言いたいかというと、DSだと、もちろん、タッチパネルという新しいインターフェースがあったとは言え、十字キーがあり6ボタンがあった。つまり、従来のインターフェースも残しておいた。インターフェースを完全に革新しなかった。設計思想を完全に割り切らなかった。
ここで思うのは、もしアップルならば、完全に割り切っていただろうな、と思うのだ。美しいデザイン、良いデザインというのは要するに思想的に割り切ったデザインであるから。しかしながら、一般的に、市場のメインストリームになる商品は、割とDQN的野暮ったさのあるデザインの商品が多かったりする。もちろん、iPodなどの例外はあるけれど。
当たり前かも知れないが、トガった思想というのは、理解できる人間が少ないからトガった思想なのであって、それほど感受性に優れている訳でもない普通の人間は、割と「安全な(保守的な)」デザインを選ぶのではないかと思う。Wiiの本体デザインは「お母さんにもやさしい(だっけ?)」という保守っぷりだったが、サードパーティには従来のゲームの延長路線の否定という、割り切りぶり・トガりっぷりを要求した。
だから、せめて、従来路線のコントローラも標準装備して、HDモードもありますよ、という「煮え切らなさ」が残っていれば、多少状況も変わっていたかも知れないなあと妄想してしまう。
3DSは大丈夫そうだが、PSP goが失敗したソニーのPSP2にせよ、ちゃんと割り切るべき所と、残しておくべき所(の見せ方)を意識した方が良いかも知れない。現実が複雑である以上、完全にきれいなデザインを目指すというのがそもそも不自然なのだ。アップルにせよ、一見、大胆に割り切ったデザインに見えるというところが凄いところなのであり、煮え切っていない部分が目立たないだけなのかも知れない。
ttp://blogs.itmedia.co.jp/fukuyuki/2010/03/lgipod-3aec.html
Podの発売日、ハードウェア担当たちは、恐る恐るiPodを分解した。Appleはどんな衝撃対策やデータ保護対策をしているのだろう…。どんな未知のテクノロジーを使ってユーザーのデータを保護しているのだろうか?
結果は…iPodの中に裸のハードディスクがゴロンと入ってるだけだった。加速度センサー?そんなものは微塵も無かった。衝撃対策は、ゴムみたいな何かを挟んでる以外は何もしてなかった。「データは消えても知らん」という設計思想だった。実際、iPodはデータが飛ぶことがあった。
iTuneも著作権保護もぐだぐだで、国内メーカーがこぞって進めていた「自称」世界標準の著作権保護規格であったSDMI規格も100%無視されていた。CDに焼いたり複数のiPodにコピーできたりなんでもアリすぎて、これもびっくりした。
「こんなん、ウチではだされへんがな。」
iPodが売れるに従い、我々がこだわっていたことは一体なんだったのかと思うようになった。
おはようございます。
もう2月ですね。
きわめて特殊な形式を持ったテストに立ち向かう上で、
僕が個人的に獲得していった「戦略」についてお話しできればと思います。
なお今回の話はあくまで、僕個人の経験から導出されたものですし、
ですからこれから東大を受験されるかたには限定的にしか役に立たないでしょうし、参考程度に聞いて下さい。
また、話していく中で、僕が他の先達たちから聞いた話をそのまま織り交ぜていくことが予想されます。
おそらくこういった話はすでに多くの方がされた類のものでしょう。
ただ僕は田夫野人にして『ドラゴン桜』すら未読なので、
僕自身のオリジナリティがあるのかどうかすらわかりません。
もし著作権等の問題に抵触する場合は、明示していただければ対処します。
さて、それでは本題に入っていきましょう。
第一に考えなければならないことは何でしょうか?
それは、各大問の性質を明らかにし、それにあった戦略を考え、
「解く順番」を明確にすることです。
和文要約と長文を含む第一問、英作文の第二問、リスニング第三問、英文和訳と文法問題の第四問、長文読解第五問(もちろん、年によって変動があります)。
それぞれの大問は、独自の設計思想に基づいて作られており、
これらを最初に分析した上で学習の指針をたてるのがベストでしょう。
私見では、東大英語で求められる英単語・熟語知識は3つに分けられます。
すなわち、「長文でつかうもの」「和訳でつかうもの」「英作文でつかうもの」の3つです。
これについてもおいおい説明していければと思いますが、
とにかく、5大問の分析と戦略策定が何よりも重要だと言っても過言ではありません。
また、その結果得られる「解く順番」も重要です。
ですから、各工程を適切な順番で適切な戦略の元に片付けていかなければ、
最後まで解ききることすら出来ません。
その意味で、東大英語は「ドラクエをいかに短時間・低経験値で全攻略するか(タイムアタック)」という「しばり」プレイにも似ています。
ここでは、僕のおすすめの「解く順番」を一つ挙げてみましょう。
それは、「後ろから解いていく」です。
つまりおおざっぱに言って、第五問(長文読解)→第四問(英文読解和訳→文法)→第三問(リスニング)→第二問(英作文)→第一問(長文→要約)のプランです。
「解く順番」を考える上で一番のボトルネックは、
やはり試験時間のまんなかに鎮座ましましている30分のリスニングでしょう。
ですからこれを中央にして、前半に読解系を、後半に作文系を入れてみました。
このプランにした理由や各大問の設計思想などもからめながら、もう少し細かく見てみましょう。
最初は、第五問……ではなく、リスニングの問題文の下読みから。これは当然ですね。
リスニングを解くのは真ん中ですが、第五問第四問がどう転ぶかはまだわからないので、
あとで下読みする時間が無くならないように、最初に読んでおきます。
そして読解系の第五問・第四問(の和訳)。
これらの1.5大問が問うているのは、「精読・読解できるか否か」でしょう。
それにしても、なぜこの二つを最初に置くのか。
それは、「ある程度時間と集中をかければリターンが大きい出題形式」だからです。
長文を精読して答えを詰めるのも、英文と格闘して解釈をひねり出すのも、
だからこういった粒の大きな作業は、余裕のある最初に入れておきたい。
2ちゃんねるのコピペで、「小さな砂をビンに最初に入れてしまうと、あとからでは大きな石は入らない(だから最初に石を入れよ)」というのがありますね。
それと同じです。
読解系を集中して解き終り点数を積んだら、リスニングに入る前に、
第四問(の文法)と、第二問(英作文)のメモ作りに参りましょう。
英作文、リスニング、文法の2.5大問が問うているのは「ロジカルな文脈復元力」ですが、
文法も、英作文のメモ作りも、「石」というよりは「砂」です。
リスニングの開始まではもう余裕がありません(もちろんリスニング中も)。
ですからここは「砂」を入れて、無駄なく(そしてリスニングへの弊害なく)進めていきましょう。
(ちなみに、「英作文はいきなり英文を書き出すのではなく、一度日本語でメモを作る」というのは常識ですよね?)
この文法とメモ作りを、余裕があればリスニング中の小休止にも行った方が良いですね。「リスニング中」!? そうです。
そんなことしたらリスニングがまともに聞き取れなくなるじゃないか! ……確かにそうです。
でも、そもそも東大英語のリスニングって、「まともに聞き取れ」るものでしょうか、帰国子女ですらない僕らが?
個人的には、「帰国子女じゃあるまいし、リスニングはまともに聞き取れない(そしてまともに聞き取れなくても点は取れる)」という戦略をお勧めしたいと思います。
聞き取るのは、断片だけで構いません。
「ディスコース・マーカー」などのテクニックに限らず、基礎的な文法知識や「教養」など、すなわち「文脈復元力」があれば、
かろうじて得た断片から選択肢を絞るのはそう難しいことではありません(東大英語リスニングはPolitically Correctですから)。
さて、こうしてリスニングを耐えしのいだあとは、文法問題を片付け英作文のメモを英訳しましょう。
そういえばさっき、単語・熟語には3分類ある、と言いました。
これは要するに、「今見ているこの単語が、いったい試験の何処でクリティカルに使われるものか常に意識して学習せよ」ということでもあります。
具体的には、たとえば英作文では、たとえ中学英語レベルでも、絶対にミスのないイディオムで無難な英文を生産する必要があります。
他方長文では、つっかえずに読むためには、「なんとなく意味が分かって読み流せる」単語が重要です。
和訳では、「微妙なニュアンスを原義にさかのぼって解釈する」ような単語も出てくるでしょう。
良い具体例が思いつきませんが、英作文のhave nothing to do with、長文でのsimultaneously、和訳でのdevelopなどですかね。
はい、英作文が書き終わりました。え、細かいテクニックは、って? それは皆さんのほうが詳しいでしょう……。
第一問は、僕の記憶が正しければ英文の和文要約(1A)と、乱文整序や選択式問からなる長文(1B)の2本立てです。
どっちも時間と集中の要る読解系じゃないか、って?
いやいや、長文のほうは第五問に比べれば「パラグラフ・リーディング」で対応可能なものですし、
乱文整序なんかは特に、運の要素が読解系より格段に強いですよ。
大問1が問うているのは「ぱっと見で大意をつかむ作業効率」。
もちろん読解はするのですが、そもそも要約とは、
極論すれば「キーセンテンスを運良く一文訳せれば点数の半分は来る」程度の運試しです。
大意さえつかんでしまえば、枝葉にまで潜っても、対時間コストパフォーマンスは悪い。
それよりは最後の5分で幹だけ掴み、荒削りで確実に効率よく得点したほうがクレバーですね。
以上、「解く順番」をフックに、東大英語の戦略についてしまりなく語ってきました。
大問毎の設計思想「精読・読解できるか否か」「ロジカルな文脈復元力」「ぱっと見で大意をつかむ作業効率」を見ても分かるとおり、
やはり、東大英語というのは「官僚スキル」を見るためのものなんですね。
大量の紙幅を右から左に流しつつ、個々の場面で求められるレベルでアウトプットを行っていくという。
もちろん、基礎的な英語力や各大問ごとのテクニック(「リスニングではHoweverなどのディスコース・マーカーに注意しろ」とかの類)に関しては、
僕なんかより、受験生の皆さんや予備校の先生のほうがよっぽど詳しいでしょう。
僕も枝葉末節については記憶が怪しいので、今回は「幹」や「石」の部分について覚えていることを語ってみました。
ひねくれているとは思いますし、多くの真面目な受験生にとってはむしろ混乱の素かもしれません。
(帰国子女ではないが現役で本試験(英語)約100点を獲得し文科一類に合格した、という)「過去の栄光」がぎりぎり通用するうちに、
偉そうなことをはき出しておきたいという、僕のささやかな実存を感じ取ってもらえれば幸いです。
細かい部分や他教科については、また要望が万が一あれば考えます。
プログラミング言語は人とコンピュータという異世界をまたぐ言語です。様々な言語やライブラリ、ユーザーグループにより異なる設計思想や歴史、文化があり、自然言語の代わりに使用され、人やコンピュータに対するニュアンスの表現も必要とされます。
自然言語とは似て異なる言い回しや同じ意味のない単語の使い方があり、プログラミング言語、ライブラリ同士でも異なる作法や暗黙の事項があり、言語感覚とでもいう違いを持ちます。
プログラミング言語とはいえ、人が人のために作り、人が人のために書く部分もあり、そうである以上、自然言語のそれと同じような部分もあるんですよ。
糖衣言語としての各種P言語の存在、ランタイムを必要としないC/C++の存在からして意味がわからない。P言語オルタナティブなら、それこそライブラリ充実させないと駄目じゃん。複数CPUに特化してるだけって、どういうこと? それで何出来んの?
windowsCEがあるじゃん。ってか、OSバージョンとハードウェアのスペックによって使用できるAPIが異なってくるのって、ソフトウェア開発者には死活問題っぽくね? ミニマムスペックすら提示できないの、ヤバいよね?
ブラウザ一つあればいい?。ブラウザ端末としてケータイ、iphoneそれぞれがある時代にお前は何言ってるんだ? VNCとかRDPとかが動くならそれはそれで使い勝手あるけど。
って感じ。俺はマカじゃないけど、iphoneみたいなユーザビリティを考えた設計思想ができてないぞ、こいつら。少なからず民生用じゃねえ。
宮崎正弘『トンデモ中国、真実は路地裏にあり』(阪急コミュニケーションズ)
ウィグル自治区で殆どのモスク(イスラム寺院)は静謐そのもの、宗教活動は地下へ潜ったと見られる。
新彊ウィグル自治区は地理的にみると中国の西北に位置し、その面積は百六十四万六千八百キロメートル。じつに中国総面積の六分の一を占める。日本の総面積の四倍以上だ。
大半が砂漠である。だから中国は平気で核実験場としてきた。そのうえ新彊ウィグル自治区とカザフスタン、キルギス、アフガニスタン、パキスタンなどとの国境線だけでも五千七百キロに達する。
国境警備にも力点をおくわけだから長大な防衛戦において兵站の確保は並大抵ではなく、どこからでも駱駝は進入できる。ビンラディン一派に通じるイスラム原理主義過激派のゲリラが武器を中国国内に運びこむのもさぞ容易なことだろう。
極めて厳しい自然環境、乾燥した気候である。とても住み良い、暮らしやすいという環境ではない。砂漠では水の確保も簡単ではない。広大であっても貧しいこの地域におよそ千六百六十万人が住んでいる。そのうちウィグル族が約九百五十万人、言うまでもなく大半はイスラム教徒で、古くからマホメットを信仰している。
中世から近世にかけて現在の中国北西部を収めていた元は原住民のイスラムの信仰には介入しなかった。近代になっていまのカザフスタンから新彊ウィグルにかけて「東トルキスタン」が建国されると、復古を主張する地下運動が盛んになり、血の弾圧に屈しないばかりか、ますます闘志をかき立てて原住民は漢族に立ち向かうようになった。
新彊ウィグル自治区の党書記・王楽泉(山東人)はすでに十年以上(駐 執筆時点。いま現在は17年)に亘って、この地域の党書記として君臨している。
あたかも欽差大臣のごとく居丈高に振る舞っているが、九八年九月二日の記者会見で!)宗教の管理をさらに強める!)共産党員はイスラム寺院に行ってはならない!)女性が顔を隠すのを禁止する!)ウィグル青年が長期不在となれば「過激分子」とみなし「宗教の自由」を剥奪する、などと時代錯誤の対策を語った。
ウルムチへ入った。ウルムチ市内には西安やチチハルの清真寺のように迷路の奥の路地裏の、さらに裏にこじんまりと立つ小規模なモスクもあれば、福建省泉州のように街の真ん中に公園化した瀟洒なモスク(漢字で「清真寺」を一般的に充てるが、泉州だけは「清浄寺」という)もある。道路沿いに多くの信者が住んでいるが、各地で表向きの信仰生活がみられない。公安の警戒を懼れ、モスクに信者がちかつかないのだ。
冷戦終了直後に旧ソ連領のカザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタンを歩いた経験があるが、随所で早朝から大きなスピーカーで「アッラー、アクバール」とコーランが流れているのを聴いた。
ホテルでこの聖なる音に目覚め、やおら窓を開けると、♪アラーは偉大なり♪
イスラム圏のまっただ中にいるという旅情がわき上がってきた。バグダットでもイスタンブールでも、エルサレムのアラブ街でもサマルカンドやタシュケントでも同じ情景があり、必ずそこに宗教音楽が付帯した。
しかし中国は違っていた。宗教音楽はおろか公然とした祈りさえないではないか。
一方でアルカィーダ秘密基地に「東トルキスタン独立」を掲げたイスラム原理主義過激派が訓練を受けていた。
寧夏回族自治省のみならず新彊ウィグル自治区のトルコ系住民のなかにイスラム原理主義が拡大している事態の到来は、五輪をひかえた北京中央にとっては鮮明なる脅威という認識である。
北京は「9・11事件」の事後処理に便乗し、ウィグル独立運動を「テロリスト」とそそくさと規定した。そのうえで米国に圧力をかけ、容赦ない弾圧を新彊ウィグル自治区で強化した。911テロ以降も一万人もの「テロリスト容疑者」を拘束、一部を拷問にかけた。
イスラムの動きに鈍感で敵対心を潜在意識に潜ませる欧米諸国は、ウィグルに関してはチベットに寄せる同情心と較べるとやや薄い。まして米国は02年八月にアーミテージ国務副長官を訪中させた際に「ウィグル独立運動」を中国が要求するまま「テロリスト」に認定し直した。イラク包囲網を実行し国連で武力容認決議を急ぐあまり米国は拙速にも北京と妥協したのだ。
(中略)
村全体がウィグル人だったりする農村では、当たり前のようにモスクに集う人々の姿がある。また西安のような大都会でも、中心部のイスラム寺院「清真寺」には人々の礼拝が絶えない。モスク近くでコーランのテープやCDを買おうと尋ねてみるが、一枚もない。一軒だけコーランの経文を売る店がトルファンにあったが。。。
あまりの弾圧ぶりに、宗教活動は地下に潜ったのだ。年齢によって差はあるが、人々の服装を見ても若者の一部はイスラム帽もかぶらず、ピアス、茶髪、ショート・パンツが珍しくない。ウルムチにさえディスコやカラオケがあって暴走族がいる。カザフ・カラーという独特の模様の民族衣装はかろうじて残るが、TVと新聞を北京に握られている以上、イスラムの主張は宥和的、微温的にならざるを得ないようだ。
ウィグル族の首都であるにもかかわらず、ウルムチには圧倒的に漢族が多い。動物園にはパンダ、市民の公園、遊園地も漢族の家族連れが目立った。いまやウルムチは「ウィグルのチャイナタウン」ではないか。
街の看板は漢字とアラビア文字が併記されている。ところが目立つのはカラオケ、瀟洒なビジネスビル。大通りに溢れるのはトヨタ、日産、ホンダの車である。
服装もあか抜けしたデザインが主流で、ウィグルカラーの民族衣装を着た人は少数派になりつつある。自転車が道に溢れ、商店の物売りたちの活気ある呼び声。バザールの喧騒。中国全土のどの都会にも見られる風景で、設計思想は似通っている。
最近のおびただしい漢族の入植は、この地にも工業化をもたらし、経済的な発展を遂げた。生活が少しでも豊かになれば物質的な欲望が果てもなく拡大するのは致し方のないものであろう。
都会のウィグル人の若者は懸命に北京語を学んでいる。言葉ができないと官として出世は望めず、給料も上がらないからだ。
中国沿岸部の人たちは競って英語か日本語を習得し、外資系企業に勤め、うまくすれば外国人の伴侶を見つけて外国籍をとりたいと考えているようにムスリムのあいだにも漢族と同化し暮らしを豊かにしたいと考える若い世代が増えている。むろん村の古老たちはこうした現象を苦々しく見ている。
~~~~~~~~~(中略)~~~~~~~~~~~~
「交河古城」は岩の大地を上から発掘して造った、世界でも珍しい彫刻都市である。
南北一キロ、東西が三百五十メートルの大地の真ん中を道路が貫いている。寺院、仏塔、住居跡が掘り起こされていて壮観であるが、どんな理由があってこんな苦労をして大地の中に都市を閉じこめようとしたのか。異民族の進入を防ぐための秘密都市だったのだろうか。
交河古城はそうした思惑の通りには行かず、漢族に滅ぼされ、城は徹底的に破壊され、新たに建てられた高昌城にとってかわられた。その高昌城とて後年には唐の大軍隊が侵略してきて滅ぼされた。数千年の間、仏教とイスラムの苛烈な戦いが繰り返された新彊ウィグル各地の仏教遺跡には、一つとして満足な仏画、仏像がない。偶像崇拝を禁ずるイスラム教徒の手によってことごとく破壊されたからである。
嘗てタリバン支配下のアフガニスタンではヘラートに近いバーミャンの石仏をイスラム原理主義過激派らはミサイルで破壊した。「世界遺産」であれ、なんであれ狂信的教徒は他宗派を認めない。それは共産主義も同様である。
南に天山山脈を挟むクチャ、カシュガルともなるとイスラム教は俄然、強い色彩を帯びる。カシュガルのエティカル・モスクは中国のイスラム教徒のメッカだ。ここに巡礼を果たしたイスラム教徒は仲間の尊崇を集めるという。
現代の宗教の一つである共産主義は他の宗教指導者を逮捕し、拷問にかけ、北京に刃向かうと見れば次々と処刑した。モスクを物置にされたイスラム教徒の怨念はなまなかなものではなかろう。
血の弾圧を受けた新彊ウィグルの民は、チベットと同様にイスラム教への信仰をひたすら内面に押し込めた。その分、人々は心の中に蓄積された漢民族に対するルサンチマンを歪んだ形で膨らませだ。歴史的に蓄積されたこの反漢感情のエネルギーに火がつけば予想外の炎となって燃え広がるのは明らかである。
イスラムの歴史と文化は漢民族に蹂躙され、独自の文明は形骸化した。イスラム教は地下に息を潜めている。したがってもしイランのホメイニ師のごとく強靱な精神的指導者が現れたなら、かつてシャーを打倒したイラン革命のように漢族に対する一斉蜂起が起こるだろう。
(拙著『トンデモ中国 真実は路地裏にあり』(阪急コミュニケーションズ)からウィグル箇所をダイジェストしました。同書は全33省を寄稿した、おそらく日本で唯一の本です。アマゾン ↓)
両者がどこまで自覚的かは分からないし、単なる私のこじつけなのかも知れないという説明を言い訳として。
iPhoneのタッチパネルは指で操作するのを想定している。DSの場合は、タッチペンを使用するのを想定している。
(タッチパネルの実現方法が違うらしいが)
しかし、同じタッチパネルという方法論を使用しながらも、コンセプトは真逆ではないだろうか。
片や、指で直接動かすというダイレクトな操作法、片や、タッチペンでチクチク精密に操作する方法。
このハードのコンセプトの違いは、アプリケーションにも現れていて、iPhoneは、気楽におおらかな気持ちで楽しむアプリが多い。そもそも、プロとアマの境界が曖昧で、大量の独立した制作者が作った大量の安価なアプリの中では一発のアイディア性やネタ性が重視される。ヒットアプリもシンプルなものが多い。DSの場合は、”A列車で行こうDS”が話題になっているように、DSと(PCゲームから発祥した)経営ゲームの相性の良さを見直されつつある。また、日本では、あまり洋ゲーは売れないとされているが、EAの”シムシティDS”は小ヒットした。
マスコミはいつもの通り、”ゲーム機「iPhone」大ヒット 近い将来「DS」「PSP」抜く?”の様な記事で煽っているが、実際はどうなんだろうか?iPhone/iPod Touch陣営が、ハードの価格を下げて、同じような価格帯になった場合だ。少し思い出すのが、特にアジア圏で、それほど作り込んでないソフトでも安価なゲームがヒットしていて、高価な日本のゲームのシェアがそれほど高くないという話。iPhone/iPod Touch陣営が有利なような気もしてくる。
ただ、iPhone/iPod Touch陣営の一極集中もまた無いのではないか。簡単に言えば、「iPhoneで、ゲーマーがやり込めるようなゲームがあるのか?」という話だ。iPhone/iPod Touch陣営は、アップルの設計したインターフェースとアプリ市場の問題でゲーマーがやり込めるようなゲームが”構造上”作れないのではないか。iPhone/iPod Touchが急速に普及した場合、日本市場で起こったように、ライトユーザー層から、ゲーマー層への市場の揺り戻しが起こるのではないか。
・・・もっとも、日本で、ケータイアプリ(これも精密な操作には向いてないハード設計のアプリ)と携帯ゲームマシンのゲームが共存しているように、お互いが共存し合うというのが一番ありそうで、堅実で面白くない結論か。しかし、PSP2はどういう戦略を採るのか?6月初めのE3が楽しみだ。
・・・ゲハでやれ?失礼しました。
実にくだらない論争?というか口喧嘩をしてる大人げない大人たちが。
Dan Kogai氏がやばいと思うただ二つの理由
正直パソコンがヤバいとか、ネットブックがヤバいとかどうでもいいんだよね。
そもそも、ネットブックってパソコンだろうが。ある意味で携帯もパソコンだし。ある意味じゃなくてもそうだろ。
いっこうに議論が交わらないのは、ソフトウェアとハードウェアの両面から議論してないからじゃないかな。
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まぁ、小難しい話は置いといてとりあえず適当に分類したハードウェアに基づいてみてみると
おそらく、これがヤバいと言われてる”パソコン”の代表格でしょう。
「デスクトップが淘汰される!」とか「ノートパソコンが出てきたからデスクトップは不要」とか言われて久しいけど、デスクトップがなくなるということはしばらくないんじゃないでしょうか。一般ユーザーレベルでは分からないけどオフィスなり大学なりでデスクトップパソコンを使わなくなるのはちょっと想像つかないかな。
なぜなら、デスクトップパソコンはやはり指摘されているように作業するのには最適な構造であるから、というか設計思想、製品の由来からそういうものとして設計されてきたから。
どんなに発展したとしてもどう考えてもケータイで論文は書けません。メールはできるでしょうが仕事はできません。
プレゼンもどう考えても作れない。
ただ一昔前みたいにデスクトップにしろ、もしくはノートパソコンを加えたとしても一人一台という時代は結局来ないだろうね。
そういう意味で予定が狂ったという点ではヤバいと言えばヤバい。でもやっぱり作業をするものとしては残るでしょう。
何がガラクタって、ネットブックとか言っておいて、ネットがやりづらい。画面小さすぎワロス。
OSも同じの乗っけてるしただ単に一昔前のパーツ寄せ集めて売ってるだけだし。最近のはともかく出たての頃のネットブックなんて完全に素人お断り。
MBAかぶれが、”破壊的イノベーション!”とか最もらしいことほざくかもしれないけど、残念ながらこんなの破壊的イノベーションじゃありません。
話はずれるけど、ネットブックがなぜイノベーションではないのかって、ソフトウェアを含めてネットに最適化してないから。
今のままじゃ「ただのちっちゃいガラクタノーパソ。」本当にネットブックと名乗りたいのならやっぱり多少OSなど変えないとね。
ネットブックのコアコンピタンスwwwがネットの閲覧ならそれに最適化したソフトを乗せましょう。
携帯電話は事実上もそうだし、今後もしばらくは個人に最も近いパソコンであり続けるでしょう。
なによりの優位性は常に電源が入ってる。確かにパソコンつけっぱなしの人もいるけどノーパソとかを電源入れたまま持ち歩く人はほとんどいないでしょう。
ケータイは独自のOSを乗っけてるしそれなりにソフトウェアも最適化されてます。日本のはガラパゴスっててヤバいけどさ。
スマートフォンも含めたらネットの利用というならネットブックよりもよっぽどやりやすいでしょう。スマートフォンについて話し始めたら議論がごっちゃになるのでとりあえず自粛。
携帯電話が電話じゃなくなりつつあるのは面白い現象だけど、ニーズに合わせた正当な進化ならばいいのでしょう。日本のはガラパ(ry
個人的にはノートブックという製品がヤバいと思うんだよね。誰も同意してくれないと思うけど。
だって家で使うならデスクトップでいいじゃん。どう考えても持ち運べないばかでかいノートパソコンとかみるたびにそう思う。USBメモリとかものすごく大容量になってきたし。
置きっぱなしにするならiMacみたいな一体型デスクトップで良くないか?
ネットしかしないなら最近のゆとり達みたいに携帯でいいでしょう。レポートやりたけりゃ学校のデスクトップでやるんだろうし。
まぁこんなこと言っても今まで一人も同意してくれた人はいませんが。
とりあえず、大人げなく長々と書いてみたけどそれぞれの製品が消費者のどのようなニーズを解決しようとしてるのかを考えて、そこからハードウェアとソフトウェアを合わせた議論をした方がいいのではないでしょうか。
「あるロッククライミングの上級選抜試験で、試験官は偽の頂上に待機し、受験者たちが一通り登頂し終えたところで、ここが偽の頂上であり、本当の頂上は別のところにあると告げた。試験官は受験者たちの表情を観察し、落胆の表情を浮かべた者には上級クラスへの進級を断り、さらに登頂が続くと興奮した者を合格とした。
チクセントミハイ教授によれば。ほとんどの最適経験(持続するタイプの快楽)はこのようなテレオロジカルな行為によってもたらされる。テレオロジカルな行為とは、結果に関わらずそれ自体から充足感が得られる行為だ。自分が格好よく見えるに違いない、あるいはきっとお金になるに違いないと信じているからではなく、それをすることが好きで仕方がないという理由で行動する時、最適経験に入る可能性は高まる」(ポール・マッケンナ)
以上をふまえ、2980円のジーンズと59800円のジーンズのどこが違うのかを説明しよう。それは考えなくてもいいことではなく、それを考えることこそが楽しいんだ。
まず、59800円のジーンズがプラダやグッチではなく、1952年製造のリーバイスのジーンズが状態のいい古着として残っているものに付いた価格だと仮定する。(新品だとその3倍はすると思って欲しい)
どうしてそんな値段がつくのか?
それは現在売っているジーンズがジーンズに似ている別のものだからなんだ。
ジーンズは労働着として誕生したが、その設計思想は「高価だが、妥協なく丈夫なもの」ということだった。だから「ジーンズなんか労働着だから適当な服なんだよ」と言う者もいるが、実は当時から高価で、買えない者は多かったという点を知らないことが多い。その代わり当時の水準では非常に長持ちをする。各部にある鋲(リベット)は丈夫さの象徴でもある。安価なニセモノも多数売られていた。
60年代後半から70年代にかけ、ジーンズはなぜか若者の流行になり、メーカーは需要に対応するために大量生産を開始する。
この際、作り方を1から10まで変えてしまい(いっぺんにではなく徐々にだけど)、「ジーンズに似てる別のモノ」ができあがることになる。
綿100%糸を交合糸にし、力織機を革新織機にし、打ち抜きリベットを打ち抜かないリベットにし、隠しリベットをなくし、染め回数を減らし、原反の端は使われなくなった。
谷村新司が最近ラジオで「ジーパンてさ、日本で最初に飛びついたのはおれらフォーク仲間だったと思うんだけど、あのときジーパンて高かったよね?」と違和感を表明した通り、その後ジーンズ(に似た別のモノ)は安価に、そしてより一般的になっていく。
80年代後半から90年代前半にかけ、ある人たちが、どこを探しても本来のジーンズが存在しなくなっていることに気がついた。そして、過去のジーンズを求め出したのだ。
これがジーンズが59800円の理由である。ビンテージジーンズというジャンルの誕生でもある。
一方、すでに本来のジーンズが存在しないのであれば、自分たちで作ってしまえばいいという一群があらわれ、彼らは過去の力織機を、ユニオンスペシャルを、綿糸を、手に入れ、ビンテージを分解し、過去の文献を研究し、お互いに切磋琢磨しながらビンテージ以上のビンテージを作り上げた。これがレプリカジーンズであり、90年代後半に一部ではブームとなる。
このブームは海外にも広がり、「日本のジーンズはすごい」という定評を得ることになる。
そのとき、ユニクロというその流れと全く関わりのないブランドが、突如「ユニクロのジーンズは日本生産、日本のジーンズは世界一」という広告を大々的に打ち、確かに日本製であろうがモノとしては「ジーンズに似た別のモノ」としか言えないもの(コスト的ノウハウ的ににも仕方ないのであるが)を、他人の功績を横から奪う形で売り出したのである。
多くの者は宣伝文句を意識し、安価でもいいものはあるとばかりに購入し、2980円のジーンズ(風)は市民権を得るのであった。これが2980円の歴史である。
ね、おもしろいっしょ。ガンダムの宇宙世紀の歴史みたいっしょ。
なんかぶくまがいっぱい付いてるので追記
http://pds.exblog.jp/pds/1/200904/12/96/f0203796_112585.jpg
↑このムックは干支が一回りするくらい昔に発売された奴だけど、8割がたここに書いてあることを書いただけです。この当時、他にもこの手の雑誌はたくさん出てて、読みまくったもんで。
追記の追記
# nekora 履くのが短足東洋人って時点でもう、歴史もオリジナルもレプリカもA級もB級もマシンナリィも何もかも物悲しい。 2009/04/29 CommentsAdd Star
# lakehill lakehill fashion 別にまがいものでもきちんと着こなせるならそれでよくねえ? 2009/04/29 CommentsAdd Star
この辺の人らがロッククライミングの下りを全く読んでないか、読んでも理解できないかのどちらかだということはわかった。
もう一度引用しておく。
「テレオロジカルな行為とは、結果に関わらずそれ自体から充足感が得られる行為だ。自分が格好よく見えるに違いない、あるいはきっとお金になるに違いないと信じているからではなく、それをすることが好きで仕方がないという理由で行動する時、最適経験に入る可能性は高まる」
http://anond.hatelabo.jp/20080720184208
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http://anond.hatelabo.jp/20080720200848
>お偉いさんが「前期は競合他社を抑えて売上トップになった」と言ってた。
>ぶっちゃけ性能よりしがらみと売り方次第なんだろうな。
「しがらみ売り」の部分は大きいと思います。「性能よりは」ということではIBMのZシリーズに設計思想や、システム全体戦略の描き方ということで、国産メインフレームは大きく遅れをとっています。
>他社を知らないから多いか少ないかはわからないけど、トラブルの報告は結構来てる気がする。
>「負荷がかかりすぎ」「処理時間が異常に長い」とか。
>で、本業の開発にどんどんしわ寄せが来たり。
戦略なき「現状維持でなんとか利益をとる」本社方針で、国産メインフレーム自体は技術的進歩は終焉し、「制度疲労化」が目立っています。結局、苦労するのは現場保守のSEさんだと思います。これで、「メインフレーム止ーめた」となると、雇用の問題が発生しますね。
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http://anond.hatelabo.jp/20080720201039
>そんなのに金払って文句が出ない組織ならそれでいいんじゃないの。
税金の使い方について、もう少し繊細に(神経質いうわけでなく)なるような組織に変っていけたらなあと、微力ながら感じます。
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http://anond.hatelabo.jp/20080720201914
>そのようなことは、別に日立だけじゃないが
>ただ、政府や公共機関の発注の仕方や、年度予算に縛られることなどを考慮して
>批判すべきだろう
他の官需が大きい会社は、同様の問題を抱えているのだろうと思います。
>日本政府や公共機関をガラリと変えて、血の入れ替えを行わなければ、この問題は解決
>しないのではないのかなとも思う。
一度はかなりの混乱が現場では生じるかもしれませんが、長期的に見ると何十年に一回は「ちゃぶ台ひっくり返し」みたいなことがあった方がいいのかもしれません。それが、総選挙による政権交代で可能なのかは、わからないところですね。
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http://anond.hatelabo.jp/20080720210231
>日本の人(特に大規模な組織)ってコンピュータに関してはとことんお金の使い方が
>下手だなあって思います。
官公庁のITシステムって、EAとか声は聞きますが、やはり個別最適で局所局所に多額のお金を投下しているのではないかと思います。適度な自由さと柔軟性を取り入れていくことで、上手なIT投資につながっていくことを望みます。
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http://anond.hatelabo.jp/20080720225934
>木を見て森というか山を見ずな断定表現ですべてを台無しにしている。
おっしゃるとおり、未熟な点が多いと思います。自分自身も視野狭窄に陥っていると感じますこの頃。
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http://anond.hatelabo.jp/20080720230018
>ただそれでもぱっとしないけど。正直僕もどうだろ…とは思う。
ネットワーク技術の遅れは日立にとって痛手だと思います。優秀な研究者も好きな研究課題を選べるわけではないと思いますので、インターネット技術をはじめとした、ネットワーク・コンピューティング面での掘り込みの拙さは、今後、日立の足枷になってしまう可能性がありますね。
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http://anond.hatelabo.jp/20080720234630
>日立どうのこうのというよりも増田の部署は相見積もとらんの?
メインフレーム等、明らかに現行システムとの連接性が強いものについては競争入札の対象外としてきた経緯があります。長期的視点に立って、調達方式を全面的に見直す時期に来ているのではないかと思います。
>こういう部署を再構築すれば、いまの政府予算の3割削減は可能と思われるのだがどうよ。
>というか発注するもののRFPをしっかり作れない国家公務員は全員クビ。
財政赤字を鑑みれば、行政システムがストップして大きな社会混乱がおきない程度の「過激さ」でリストラクチャリングが必要だと思います。
RFPですが、システムのリプレースの場合、現行システムに関する仕様・設計が日立側で行われており、暗黙的に日立側が主導権を握っているのが現状です。既存ベンダーである日立としては、情報開示を積極的に行わず、再発注を受けたいというバイアスがあり、RFP作成が困難な状況でもありますが、公務員のIT知識不足は改善すべきだと思います。
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http://anond.hatelabo.jp/20080721000253
>会社は(組合の都合で)一方的に解雇できないけど、給料は基本的に年功序列ベース。
>成果主義といっても、前後数%ブレるだけで、正直あまり意味を成してない。そういうこ>とです。
>そしてこのタイプの主任さん、各事業部に数%の割合でほぼ確実に存在します。これは揺>るぎない事実。
よく日立の方は「工場を維持するのに必要なのです」という捨て台詞的な受け答えをされます。こちらは、支払う料金に対する工場の体制(できれば見なしで人数も)を教えて下さいと再三にわたりお願いしていますが、上記のような状況では開示は難しいですね。ある意味、そのタイプの主任さんたちも税金で悠々な生活を送っているとも言えますね。
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http://anond.hatelabo.jp/20080721001010
>納入先によって値段が違うの当たり前だろうに。
価格が違うことを指摘しているのではなく、不透明で意識的に複雑化した価格体系について問題意識を持ちました。言葉が足りず誤解を与え申し訳ありませんでした。
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http://anond.hatelabo.jp/20080721023302
>調達先の業者が指定されているからというだけなんじゃないか?
>官舎に出入り業者として入ったことがあるが、どこぞのメーカーとしてしか入れなかった。
>それがされないのは、企業の信用力という名のもとの参入障壁。
「競争入札制度」というものが適正に運用されていれば、参入障壁は低くなると思います。しかし、入札にすると莫大な体力と時間がかかるので、連接性を認めて随意契約に持っていくというパターンは全国の官公庁で行われているのではないかと思います。改善要だと思います。
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http://anond.hatelabo.jp/20080721032323
>リスクをとれない、とりたくないってことなんだろ。
>金を払ってもいいから危険は冒したくないってことなら理屈としては間違ってはいない。
リスクに関してはハードの信頼性技術は向上しているので日立は稼働率等を数字で示し、発注側にどれくらいのリスクを許容できるか、相談する余地を示すべきです。「変更すると運用が大きく変更する懸念あり」といった定性的な日立の回答では、外に出ると交通事故に合うので、子どもは家の中でじっとしておきなさいという理屈が「間違ってはいない」と同レベルです。
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http://anond.hatelabo.jp/20080721034820
>契約した当時、HP-UXやAIXを除いてミッションクリティカルシステムのOSサポートし
>てるとこあったのかなぁ?
導入時に担当していた人に聞いてみようと思います。システムは更改が不可欠なので、更改時に必要な要件、またコストの可能性について、やや日立は説明不足また、当方側も説明をお願いしてドキュメントに残すという姿勢が不足していたと思います。
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http://anond.hatelabo.jp/20080721041350
>SWとHWを一元的に見られるメーカ/サービスプロバイダって、少ないからねー。
同感です。日立、富士通が日本市場でやっていけるのはSWとHWを一元的に管理できるユーザ能力が欠けているのも一因だと思います。日立、富士通等の強みでもあり、しかし、そこに安住していては、長い目でみれば、国際的競争力を失う(もう失った)ことになるのではないかと思います。
>ちなみに、メインフレーム、悪くないよ。というか、むしろ技術的には、UNIX/Linuxよ
>りも優位性があると思う。
IBMのメインフレームは優位性があると思います。国産メーカは戦略分野と位置づけていないと思いますよ。
>詳しくは、"Principles of Operation"でも読め。今でも、たいして変わってないと思う。
読んでみようと思います。
日立はドキュメント少ないですね。必要以上に情報を「社内秘」扱いにしており、ユーザを「日立ファン」にさせることに失敗していると思います。
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http://anond.hatelabo.jp/20080721042906
>何事も100%を求めるなら高コストになるのは当たり前のこと。
99.99%の稼働率確保と99.999%の確保ではコストで大きな違いが出ると思います。
個人的には99.99%を正副確保するレベルで十分だと思いますが。予想停止時間で判断するのも変な話ですが、99.99%の二乗にすれば24時間365日で瞬断が起こる程度にリスクを下げることができると思います。
「高校国語」擁護派の意見を書いた増田より。今回はもう少し「文学」に話を振って、擁護してみるよ。
まず、プログラムについては大昔にプログラミングの基礎みたいのを独学で勉強した程度なのでBN記法とかは知らなかった。面白い言葉を教えて貰ったことに感謝したい。けど、一応論理学は大学で学んだし、法律のとっかかりみたいなのも学んだ。オレは「理想として」高校国語にはそれらが含まれているという話をしはしたけど、同時に高校の国語授業に「現実問題として」それらが欠けているという増田たちの主張も、もちろん分かる。その通りだと思う。
ただ、同じく「現実問題として」言うならば、それをやらないのは多分生徒の理解を超えるからだという面もあると思う。年齢が一年二年違うだけで、同じ事柄に対する理解力が驚くほど変化するのがこの年頃だ。大人から見て「こんな簡単な理屈が…」ということが、子どもには全然分からなかったりする。「論理的な精神活動とは全く別の芸術ですよ、ということにして明確に区別したらいい」という意見も、確かによく聞く意見だが(以前2chの教育板で、これと全く同じ議論をしたことがある)多分「論理的な精神活動『だけ』を教える科目」は高校では科目として成立しにくいだろうと思うよ。個人的には、明治の初めまで日本人の「論理的思考力」は漢文を学ぶことによって鍛えられていたと思うが、同じ役割を英語に期待するのはやはり難しい(漢語はある程度日常化しているが、英語は(特に文字の面で)それほど日常的なものではない)と思う……英語の授業で民主主義の原理や自由・権利といった概念について学ぶというのはなかなか筋が通ってると思うのだが。
しかし、真に「異質な他者・異文化との出会い」や「自分を遥かに超える思想体系との出会い」と言うのが文学で学べるかというと、それはないんじゃないかなと思う。
学べたつもりにはなれるので娯楽としては成立するがね。
「異質な他者・異文化との出会い」に触れる経験なら実際に異文化に触れた方が早い。旅行に行ってもいいし、自分と違う階層の友達を作っても良い。
「自分を遥かに超える思想体系」がどう言ったものを指すのかは微妙だが、知りたいなら数学を勉強すればよい。数学以外でも技術や物理でも良い。
「実際に異文化に触れた」経験が無意味とは言わないが、「実際に異文化に触れた」結果としてひどい偏見を抱え込むことも別に珍しくない。そもそも日常的に「実際に」他人と触れ合っていながら我々は、相手がその内面に何を抱え込んで生きているかを理解しているとは言い難いだろう? 文学で現実を分かったつもりになるのはキモいが、一方現実の体験の「方が」「同じこと」を「より効率的に」学べるという考え方もまた危険だと思う。どんな体験をしようとも、結局の所それを「解釈」するのは自分だから。つまり「学びて思はざれば則(すなは)ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば則(すなは)ち殆(あやふ)し」(書物や人から聞いただけで自ら考えることをしなければ、実は何も分からない。一方、自ら考えるだけで書物や人から学ぶことがないのは、危険なことだ。)という意味でね。
また「言葉」というのは、一見共通OSのように見えて実は「出力が近似である」に過ぎない。だから、誰もが気づいているように「同じ日本語」を喋っているように見えて「理解しがたい」人間が存在するのだ。初期条件として与えられた僅かなものをてがかりに、我々は一人一人自分自身のOSを構築して生きている。従って、一見同じに見える人間が全く異なるOSを積んでいても、それはごく普通のことなのだ。
そういう、OSの設計思想から異なる人間は普通に身近に存在するにも関わらず、日々の生活の中では互いにその「出力」しか見ていない以上そのことに気づくのは難しい。「数学」というのは、完全に定義された一つのOSを巧みに操作する方法を学ぶことだと思う。それは確かに高パフォーマンスをあげることが可能な世界だが、そこで学ぶことができるのは「一つの」OS思想でしかない。もちろん数学史上色々なパラダイムが時代時代に存在したことは知っているが、しかし「互いに通じない言葉」を用いていたら、それは数学ではないだろう。その意味では数学は「一つの言葉」しか用いていない。一方「文学」の世界には、先に述べた理由で無限のOSがあり、つまり無限の設計思想がある。たとえばオレが過去に感銘を受けた詩や小説の書き手は、オレに「(同じこの)世界をこんな風に見ている人間がいたのか」という衝撃を与えてくれた。それは自分自身のOSをくみ上げていく上で、また後々他者を理解する際におおいに参考になった。たとえば宮澤賢治の詩を読んでいたことが「共感覚」に対する理解を助けてくれたりした。
一方また、「言葉」を限界まで使いこなす実験を行ってきたのも文学の領域の仕事だ。論説文は名詞に、小説は形容詞に、そして俳句や短歌は助動詞や助詞にどこまで意味を盛り込めるかの実験だと考えてみても良い。「もしフランス語に『郷愁』にあたる言葉があれば、プルーストが「失われた時をもとめて」を書くことは無かっただろう」という話があるが、逆に言えば彼の試みは、自分が持っている言葉では未だ語り得ない何物かに千万の言葉を使って迫ろうとした行為だと言うことができる。それもまた文学の仕事だ。いわゆる有名な「ブンガクサクヒン」を授業で取り扱う意味というのは、究極すればここにのみ意味を見いだすことができる。自分が学んだ大学の教授の言葉を借りれば、時代を越えて残る名作の表現というのは「その時代の表現水準に挑戦した言葉」だと言えるからだ。凡百の「娯楽作品」と「芸術」としての言語表現を切り分ける場所があるとすれば、それはこの一点にあると言えるだろう。その意味で、いくつかのラノベ作品なんかは、「時代の表現水準を変化させ」「多くの人々に受け容れられることで後代の表現のスタンダードを為した」という正しい意味で「芸術」だと言っていいと思っているよ。
最後に、「音楽・絵画・スポーツ」の「本物」が清新に与えるインパクトはなるほど大なるものがあることは否定しない。けれど、その「本物」を全国全ての学校の教室に持ち込むコストはどのくらいだろうか? そして、それと「本物の文学」を教室に持ち込むコストを比較してみれば、どうだろう。それでも、国語の授業は非効率的で不要なものと言えるだろうか。
まあ、こうして述べながらも、改めて「国語」の授業に期待されているものの大きさと現実との差違には打ちのめされるような気持ちではある。まだまだ、増田が触れていた「情報伝達」に関わる話とかしたいところなのだが、時間がないのでとりあえずここまで。
じゃまた。
http://takagi-hiromitsu.jp/diary/20071117.html#p01
なんとなく地銀の内部事情も窺い知れるというもの。
そもそも武銀のネットバンクにどれだけユーザーがついているのか。
異常な入出金なんて人間系ですべてチェックできるレベルなのではないか。
そんなレベルなんじゃないの?
設計が悪いという指摘はごもっとも。
だが、そもそもその手の地銀が自前でシステムを構築してないんじゃないか?
たいしてユーザーがいなそうなサービスだから相乗りさせている可能性は非常に高い。
認証をとってしまうとある銀行の負荷が増えて参照サーバーをちょっと動かしちゃえなんていう離れ業ができなくなる。
逆にいうとそういう離れ業で逃げ道を担保しないと採算が合わないレベルなのではないか?
ドメイン認証をとることに積極的になれない理由も伺いしれる。
いっそ別ドメインで認証をとってしまってSSLは全部そっちとまとめてしまってもいいとは思うが、
銀行のようなところは激しく嫌がるだろう。
アフェリエイトやGoogle Analytics のような外部参照のサービスが利用できなくなる。
YouTubeの動画をはりつけたりするのもSSL警告対象だ。
SSLを通している以上、セキュリティエラーがでるのはもっとも。
セキュリティの理想としてはサイトログインした直後からすべてSSLを通すのが望ましいかもしれない。
だが、ユーザーの利便性、提供者の利便性を考えたらSSLなんて最後の最後だけということになる。
一般ユーザーのどれほどがSSLがなんであるか認識しているだろうか?
そしておそらく……
セキュリティにずるずるなユーザーというのはひろみちゅなんかが想像もできないぐらいずるずるだ。
IE7なんてもちろん、Win95でネットサーフィンをしているユーザーは実際存在する。
見識の高いところでクラクラするのはいいと思うが、現実はもっと泥臭いとろこでセキュリティ管理をしなきゃならない。
窓口の担当がお孫さんの勤め先まで知っているような地銀相手にご高説をぶったところで、田舎の住民に玄関に鍵をかけないのは危険ですよというようなものかもしれない。
そもそもお気に入り機能を使って欲しいid:naoyaとしては、はてブトップの価値が下がっても、あんまり気にしないんじゃないかと思うんだけど。
1. 最近のはてスタエントリーとかはてスタブックマークとか、最近のタグ・キーワード等々、種類を増やして注目のエントリーの重要度を下げる。
設計思想的に。
2. 注目エントリ選出のアルゴリズムを変更する。同一サイトが複数となる場合はそのサイトは閾値が上がるとか、一定数以上は無視するとか。1ホスト=1サイトだと不都合があるけど、はてブ的にはユーザ単位も認識してるからそれを使えばいい。
「人気エントリ」では、同一サイトのエントリが複数あるときは片方しか表示されないよね、たしか。
そんな感じ?
3. スパム通知システムを導入する。ダイアリーのコメントに対してはすでにあるけれど、はてブにも導入する。スパムコメントにあるURLとかとも連動させれば、将来的には有用なシステムになる可能性もある。確度があがれば外部提供もありえるでしょう。
んー、どうなんだろ。
メニューバーの話は、俺が聞いたところでは、いろいろと理由があるみたいだけど。
「何も考えずにマウスを動かして、カーソルが止まるところにメニューがある。合理的」はガセ。たぶん。
いや、理由というか、設計思想の問題というか。
各ウィンドウにメニューバーを配置するよりは、画面最上部に固定して全ソフトで共有したほうがスマートだ、という。
はてなブックマークについて「エントリタイトルが全てのユーザーで共有される仕様は、「もったいない」としか言いようがない。なぜタイトルを各ユーザーごとに変更できないのか。まったくもって意味が分からない」というのと同じじゃないかな。