はてなキーワード: 西尾とは
ttp://www.ustream.tv/recorded/18060735
このラジオ、辻村深月も西尾維新も読んでるからすごい楽しめました。ついでに、これ観てて、瀬戸口廉也作品と比較したくなった。
他にも禁書外伝とかRetakeとかいろいろあるけどとりあえずは瀬戸口。
・・・と思ってたけどごめんなさい。案だしすらもうまく出来ないで途中挫折。
誰か私以上にもっと詳しく読んでる人がいる筈なので、その人にお願いしたい。id:dodododさんとかに期待。
どの本もすぐに絶版なって、Amazonは高値つけてしまうので、話せる人がおらんのやー。寂しいんやー。
どちらも「壊れた人=世界から決定的にずれてしまった人」を描こうとしていると思う。
違いは、その壊れた人のどの部分を、どのように描いているのか、かなぁ。
瀬戸口作品では、西尾維新の「前」と「後」が語られることに重心が置かれているような気がする。
(って、これ西尾維新読んでないとわからんよね。下書き段階なので分かる人だけわかってください。ゆるして。)
「暗い部屋」においては、「少女不十分」の少女が作られていく過程を精緻に描くことが中心になっているようにも見える。
「Carnival」もゲーム版では「前」段階が描かれる、(そして、7年後を描いた小説版では「後」が描かれている)
「ドッペルゲンガーの恋人」は「世界とずれてしまった少女=恋人」をそばで眺め続ける男性が主人公で、
ここでも、「前」部分、つまり西尾作品みたいに「そういうものだ」と割りきるのではなくて、
「少女」の形成過程や、彼女がどのように考えているのか、を遡って理解していく作業が描かれる。
まぁ、「真ん中」部分=ズレを認めて、それを前提に生きることを決心してからの生き様を描くこと、
これは意図的に避けられれいるのかというとそういう訳ではない。
ただ、その描かれ方は、西尾維新が期待を込めて読者を送り出した先とは思えないほどキツい。
「PSYCHE」においてはこの「本質が変化してしまった人間」を主人公として、その日常が淡々と描かれる。
常人には耐え難い光景なのであるが、主人公は幸せそうにしている。読者としても物語にシンクロしないと読んでて苦しくなる。
「犬憑きさん」においても、冒頭から千石撫子と神原駿河のダメなところを足したようなキャラクターで始まる。
絵はすごい可愛いのだけれど、やはり描かれているのは異端者のギリギリの生活だ。
「SWAN SONG」とか「キラ☆キラ」は語るときりがないので、完成版でかければいいかな、と。
あと、西尾作品は、壊れた人は、その代償になにかしらの力を持っている事が多い。
力を持たない、「壊れた人」を「ただの、無力な絶対的な弱者」として少女を描いたのは多分「少女不十分」が始めてなんじゃないかと。
一方、瀬戸口作品は「犬憑きさん」と、「CARNIVAL」の学、それから「ドッペルゲンガーの恋人」の主人公を除き、すべて無力である。ただ弱いだけ。
そして、この3つにしても、途中で力を失うか、ソレ以上の強い力に屈服させられることになる。
基本的に、異端者は世界に見つかったら押しつぶされるしかない。常に逃げて、隠れることにしか活路を見いだせない。
それでも負けを理解した上で世界に堂々と喧嘩を売ったのが「SWAN SONG」で(このあたり第三勢力を形成する球磨川禊くんに通じるものがある)
それでも人とつながって行きようとしたのが「キラキラ」で、
「ドッペルゲンガーの恋人」にいたっては、自分たちのことを世界に認めさせようと働きかけるところまで来た。
ずっと瀬戸口作品を見てきた人間としては、ついに個々まで来たかと感慨深いものがあるけどこれはまた別の話。
あとなんだろ。西尾作品は、世界より人の方が好きだって発想なんだけれど、
瀬戸口作品はどんなに冷たくされても、世界=自分たちに厳しくて冷たい社会 が好きで、それを肯定できないんだよな。
まぁ瀬戸口作品の場合、殆どにおいて、主人公は家族を拒絶するので、その代わりとなるものを求めざるを得ないという事情がある。
瀬戸口作品の場合、エロゲ出身ということもあり、その応えを男女の結びつきに求めるのだけれど、
これが「同レベル同士」であるがゆえに、共依存的な関係になって、現状を打破する爆発力を持たないというのがある。
この図式を崩したのも「犬憑きさん」あたりからで、「ドッペルゲンガーの恋人」はかなり壁を越えたカンはある
あと、西尾維新の場合は、作品を読み終わった後、未来が開かれているような印象を受ける。
つまり、世界と向き合う、という部分が重視されており、ある程度結末は「生きる」という方向性で固定されている気がする。
瀬戸口作品の場合は、なんというか、あくまで登場人物の間の対話というか綱引きが大事になってるというか。
お互いの間で思う存分対話ができたならそれで満足で、その結果がどうかはそれほど重要じゃないと言うか、むしろ負け戦が多い。
つまり、綱引きをしたときに、西尾作品の場合は、「生きているものが強い」「頑張って生き抜いてきたものが、弱いものを引っ張る」というカタチになる。
あくまで結果論であり、阿良々木暦とか見てればわかるように、無敵のヒーローみたいな存在を想定しているわけじゃないがうーむ。
ここあとで説明するのか・・・?
長くなったので、先に結論だけ書いておきます。
もしドラには2つテーマ性を感じた。(作者的にはもっとあるのだろうけれど力を感じたのはこの2つだけ)
・人間の出会いや出発点を描く、という意味では素晴らしい作品だと思う。
・社会からズレてしまっているor適応する振りをして生きている人の生きづらさとその解放を描く、という意味では中途半端。もったいない。
というわけで、「小説の読み方の教科書」の次に「もしドラ」の感想を書こうかと思ったけど、
この不思議な「小説」については、単体で語りにくいので、「少女不十分」という「小説」を補助線として使わせてもらいたいと思う。
ちなみに、西尾維新の作品を読んでない人にはわけわからん話ですがご了承ください。
◆ものすごく読みたくなる西尾維新「少女不十分」感想文 http://zeark969.blog38.fc2.com/?no=2968
私はこの感想読んで、少女不十分よりもむしろむしろ「もしドラ」を読み返したくなった。
(というか少女不十分の内容としては不適切だと思っている。少女不十分は「難民探偵(白)」のようなものなので、こっちも読んで見るよろし)
はてなベテランが小説家としては新人として「少女不十分」を書いた結果がもしドラなんじゃなかろうか、と。
僕は本作以外に西尾作品を知らないが、西尾維新の作品がいくつも映像化されていることくらいは知っている。
つまり、できるのだ。
西尾維新にだって、シンプルな文章と無理のない展開でベストセラーとなり、映画化されるレベルのものを仕上げるのは容易なはずなのだ。
ではなぜそうしなかったのか?
それはこの作品が小説家を目指していたかつての西尾維新の半自伝的内容であることを思えばすぐに答えは出てくる。
もしかしたら今よりも小説に対して真摯だったかもしれない時代の話。
西尾維新はこの作品を絶対的に小説としてだけ存在させたかったに違いない。
間違ってもいつものように高く評価され、メディアミックスされないために、あえて未熟な箇所を多く設置したのだ。
少女不十分が新人の作品だとしたら、おそらく三ページも読まれない内に棚に戻されてしまうだろう。
西尾維新という安心のブランドがあるから、読者は多少の違和感は覚えつつも読み進めてくれるのだ。
そして気づく。
普通に書けば一行で済む文章に、比喩、暗喩、掛詞、反語、反復、倒置法、隙あらば韻を踏もうとするなど
数々の言葉遊びを仕掛け、自分の小説を支えてくれたファンに精一杯「活字」で恩返しをしてくれていることに。
そこに筋の通ったストーリーなど必要ないことに。
これこそ本作が絶対的に小説でなければならない理由だ。
↓
僕は本作以外に岩崎作品を知らないが、岩崎夏海の作品がいくつも映像化されていることくらいは知っている。
つまり、できるのだ。
岩崎夏海にだって、シンプルな文章と無理のない展開でベストセラーとなり、映画化されるレベルのものを仕上げるのは容易なはずなのだ。
ではなぜそうしなかったのか?
それはこの作品が小説家を目指していたかつての岩崎夏海の半自伝的内容であることを思えばすぐに答えは出てくる。
もしかしたら今よりも小説に対して真摯だったかもしれない時代の話。
岩崎夏海はこの作品を絶対的に小説としてだけ存在させたかったに違いない。
間違ってもいつものように高く評価され、メディアミックスされないために、あえて未熟な箇所を多く設置したのだ。
もしドラが新人の作品だとしたら、おそらく三ページも読まれない内に棚に戻されてしまうだろう。
ハックルという安心のブランドがあるから、読者は多少の違和感は覚えつつも読み進めてくれるのだ。そして気づく。
普通に書けば一行で済む文章に、比喩、暗喩、掛詞、反語、反復、倒置法、隙あらば韻を踏もうとするなど数々の言葉遊びを仕掛け、
自分の自尊心を支えてくれたはてな村住民に精一杯「活字」で恩返しをしてくれていることに。
少女不十分に対する批判と、もしドラに対する批判って、文章力「以外」ではほとんど同じだと思う。
ご都合主義だとか、作者の自慢だとか、作者のこと自体が気に入らないとか、これが本当だったら俺の人生は何なんだ、とか色々。
テーマも似てると思う。
少女不十分の少女はみなみであるし、少女不十分の主人公は岩崎夏海であり、
あるいは、少女不十分の少女は岩崎夏海であり、少女不十分の主人公はドラッカーである。
(この「混在」のせいで、読者からすると「ドラッカー」の価値がわかりにくいを通り越してドラッカーなめてるような小説に見えるのはご愛嬌。)
そういえば、岩崎夏海がめずらしく西尾維新の化物語をほめていたのが結構印象的だった。
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20111006/1317885951
しかし読めばわかるが、彼はその褒め方について化物語の面白さを全然語れていないと思う。的外れもいいところだと思う。
多分、それはもっと本質的な部分で感動させられたのだろうけれど、猫物語(白)の羽川翼のように、
化物語が自分の本質を付いているということを、それにゆさぶられることによって見えた自分の核の部分を見つめることを避けたのかも知れない。
彼はジョブズについても的はずれな分析とか論評を書いているが、
意外とブログに書いているとぜんぜん違う部分で本当にジョブズに救われたような部分があるのではないか?
彼が的はずれなことを書いている記事ほど、彼がその対象に本当に揺さぶられてるんじゃないかとおもう。
この人は結構こういう「出会い」の体験を何度もしている人なんじゃないだろうか。
ぎりぎりの所でなにかと出会って救われたり、出会いが自分を飛躍的に変化させる、ということを、体験から、理屈を越えたレベルで信じているのだと思う。
(この部分に思いを馳せないと、この作品には、つながりとして「?」を感じてしまうことになると思う。)
ブログを読んでいても、この人は「真の教師」を求め、自分も誰かにとってのそれでありたいんだろうな、という点はよく伝わる。
もしドラの成功後は、デュルケムの言うところのアノミー的自殺に対抗するためだろうかその傾向を加速している印象だ。(あまりにも空回りしている印象があるが)
「もしドラ」も、正直ドラッカーについてすべてを理解できているようには感じなかった。
ただ、その必要はないんだ、と思う。それは学者の仕事で会って読者の仕事ではない。
むしろ化物語のヒロインが阿良々木暦に出会うことで、生まれ変わりを果たすように、
みなみもドラッカーにコミットしていく過程で自分をみつめ、劇的に変化する。その部分が大事なんだと思う。
経営学者としてでもなく、社会生態学者としてでもなく、一人の人物としてドラッカーに出会い、
そこから何でもいいから自分の物語に必要な何かを学び取り、自分を自分で救い、クソッタレた世界の中で生きていく。
そういう「一人の人間の、出発までの話」を書こうとした部分はすごいと思う。
私はそういう意味で、この本は「ドラッカー入門書」という言葉は正しいと思う。まぁドラッカーに限らずの「出会い入門書」と言いたい。
先に感想を書いた「小説の読み方の教科書」は少し茶化したような書き方をしたけれど、もしドラは本当に「小説との出会い方の教科書」と読んでもいいと思う。
(もちろんもしドラは「出会い方」しか教えてくれないので、その後の「斬り結ぶ」方法や「深める」方法などは別の書物を参考にするべきだが)
「成長ではなくて出会いを描く物語」「劇的な結末ではなくて出発点を描く物語」「恋愛や友情以外でも人を変える出会いはある点を語った話」という点に絞ってみれば、この作品はかなり素晴らしい作品だと思う。(逆に前者側の評価指標で見るとすごい低評価になる)
作者がもしドラで成功した後すぐ別のところに興味が移ってしまうあたりを見ると(的はずれなことも多いけれど)
おそらくこの人はそういう「出会い」や「出発」を求めてやまないタイプなのではないかと思う。
正直アニメでもなんでも、ありきたりな結末には飽き飽きしているので、むしろこういう「強烈な出会い」や「強い動機の出発点」を描ける点を大事にしてほしいなと思う。
時代的にも、大人が語る将来や成功といったものにはネガティブなイメージがつきまとう。
今大事なのは、そういうつまらないゴールを目指してごちゃごちゃやる話とか、決断主義もののような、義務感で戦うみたいな話じゃないと思う。
ゴールはよく分からなくても、スタートせずにはいられないような強烈な出会いを描くことなんじゃないかと思う。
大人が読んだら無責任で、危険な話かもしれなくても、まずワクワクさせられるスタートをこそ、読みたいと思う。
ここまでわかってた上で、要するに結末部分はおまけだ、というのはわかっていても、まぁラストはひどい。笑えない。
あれは物語をカスにする要素であったと思う。蛇足どころの話ではない。この結びによって、この話そのものが茶番になっている。あまりにも若者を馬鹿にしている。
出版社がダイヤモンド社でなければこの部分は書かなかったのではないかと今でも信じたい。
もちろん、作家としては新人の彼が、出版社の意向を無視して好きな様に書けるわけではなかっただろう点は承知している。
だから、この作品については特に序盤については高く評価しつつも、次回作以降の期待を込めて全体としては低い評価を付けたいと思う。
そういうわけで、私は序盤と中盤以降で、別の作品とまでは言わないが、作者の本質は序盤にあると思っているため、
作者がその「結末」を持って、「序盤」部分の書店員の行動を正当化したあれは、全く理解できなかった。 http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20110812/1313128129
作者自身が、序盤と結末をつないでしまうこの感覺が私には今でも理解出来ない。どういうつもりなんだろうか・・・。
結論 うまくここに接続出来なかったのでやや唐突ですがご了承ください
良くも悪くも40歳のこれはオッサンでないと書けない、40歳のオッサンの感性で書かれた話だと思う。
この作品を理解する上でドラッカーの知識は全く必要ないが、ある程度の人生経験というか前提を共有できることは必須だと思われる。
「少女不十分」が、西尾作品を読んだ人でないとほんとうの意味で感動出来ないように
(彼の10年の積み重ねや作品傾向を知らないと、作品の芯の部分に心から共感できず、ただのお話に読めてしまうのと同様に)
次はfateかPersona4の話をしたいと思います。zeroじゃなくてstay/nightの話ね。
本当はもしドラのもう一つのテーマであろう「生き辛さ」について書きたかったのだけれど、
正直もしドラはコレについて十分に描き切れた作品だとは到底言いがたいので、それはPersona4とfate stay/nightにまかせる。
いやいや、西尾もFateもデビュー/発売時から大人気だったじゃねえかw
おまえの中でFateがバズった時期っていつなの?
サブカルが滅びたように見えたのは2005年のその時点では正しいけど、今はサブカルらしきものがやっとこさ顕現してきたじゃないか。
西尾維新らのそれとか、fateとか。最近でいうと四畳半何とからへんから続くノイタミナ枠の作品なんかがサブカル者のアンテナに引っかかってるようだし、2005年頃丁度サブカル枠でバズってた攻殻機動隊が3D映画になって二次的ブームを迎えている。
東のエデンは流行らなかったし批評に耐えうるほど出来た作品じゃなかったけど、「女性層を意識した」という言い訳もあるとおり、女性のサブカル者も徐々に増えてきつつある。(と、いいなあ)
テレビアニメと劇場版アニメが分断され、後者がサブカル者に向いていたりするのは2005年くらいの時点では想定も出来なかった事態だと思うよ?
いやまあ、本田透さんという人がリアルタイムでオタクをやっていて我々の感覚と非常に近い位置にいいる、ってのは結構重要なんだけど、2011年の時点で『電波男』からの引用はちょっと拙い。
今は本田透さん自体がラノベを書いてたりそのラノベが実写映画化してる程度には時代の流れがおかしくなってる。2005年(ハルヒアニメ化)以前のラノベ市場とそれ以降では萌えの形式も変わった。サブカルだったはずのラノベがむしろメインストリームになってる。(西尾らのそれはサブカルだって印象だけどな)
らきすた以前では日常系がこれほどまでに「オタクの居場所」として機能するなんて思いもよらなかったろうし。
という訳で、狙いは良かったんだけどもう一ひねり欲しかった所。
「今日の猫村さん」とか「進撃の巨人」とか「おやすみプンプン」、「3月のライオン」とか「ドリフターズ」あたりを絡めて再考してみてくれ。
まーちゃん「こんにちわ。私はよくいる感じの美少女の女子高生です。ツンツンしています」
みーくん「こんにちわ。私はよくいる感じの男子です。ルックスはぶっちゃけ美形です」
まーちゃん「なんですかあなたは? 勝手に人の家に入ってきて」
みーくん「僕だよ、まーちゃん」
まーちゃん「うにっ☆ みーくんだったのか♪ みーくん大好きー」
みーくん「『うにっ』って言うのはやめてください」
まーちゃん「分かりました。ところでみーくん、私以外の女と会話しないでください」
みーくん「そんな無茶苦茶言わないでください、人類の半分は女性なんですから」
まーちゃん「無茶言ってすいません、美少女のなりをしていますが昔は暴君と呼ばれていましたから」
みーくん「お前は何を言っているんだ?」
まーちゃん「ところでみーくん、そろそろいつもの決め台詞を言ってください」
まーちゃん「そうです、実写映画も決まったことですし皆さんにみーくんのキャラを見せてあげましょう」
みーくん「見せましょうか」
まーちゃん「お願いします。いつものように適当なことを言って、最後に『戯言だけどね』と言ってみせてください」
みーくん「何を言っているんですか?」
まーちゃん「戯言です。ところでみーくんはよく怪我をしますね?」
みーくん「はい」
まーちゃん「無茶をしないでください。この前などは手の指を全部逆向けにポキッとやって全指骨折でしたね、嘘だけど」
みーくん「嘘をつかないでください」
まーちゃん「そういえばみーくんには鏡写しと言っていいほどに強いつながりを持つ人物がいましたね」
みーくん「ああ、一巻には登場しませんけどね」
みーくん「それは違います、いい加減にしてください」
まーちゃん「いいじゃないですか、ラノベ界は全コピペ以外はなんでもありのアルティメットルールですよ?」
みーくん「嘘ですよね?」
まーちゃん「だいたい西尾だって上遠野にでてきそうな合成人間ばりの怪物がたくさんでてきましたし、上遠野にしてもぶっちゃけJOJOじゃないですか。『明日って今さ』なんてモロですし」
まーちゃん「え?」
みーくん「え?」
終わり
なのはや化物語は、エヴァやハルヒほどオタクに「語りたい」と思わせる作品ではない。
もちろん、放映当時はそれなりに長文記事が出ていたし、今でも話題にはなるけど、
(エヴァやハルヒのほうが凄いと言いたいわけじゃないよ念のため)
あと、「化物語」の信者は作品よりも原作者の西尾維新についていて、
化物語ヒット以前の戯言シリーズの頃から、西尾信者はエロゲにおける型月厨のごとく扱われている。
2作品がどんな風に語られているか知りたければ以下。
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http://b.hatena.ne.jp/t/%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%AF
某飲食店(普通のチェーン系カフェ)で店長やってる増田です。29歳です。
そんな話。
私が働いてるお店は、男女比で言えば1:9と圧倒的に女性の方が多いですが、エロ系のお店ではありません。
若い女性をメインターゲットとしてるカフェなので、面接志望者も女性が多い。
アルバイトの応募条件は大学生以上で、現バイト在籍者の平均年齢は23歳くらい。
履歴書の特技欄に『フェラ・69が得意です。』とか自信満々に書いてる女。
経歴欄や志望理由欄は普通に書いてある。
面接時に私があえてその特技部分に触れないでいたら、そのまま面接終了。
→不採用。
頭にきたので「この写真、常識的に考えてふざけてますよね」と問いただしたところ、
大真面目な顔で「私、裸には自信があるんです。(面接の)短い時間でインパクトを残したかったので」と。
→不採用。
不採用者でも通常は履歴書は返却していないのだが、履歴書は持ち帰って頂いた。
個室で面接してると『この部屋少し暑いんで上着脱いでもいいですか?』と尋ねられた。
『どうぞ、どうぞ』というとそのまま一気に上半身裸になりやがる。
『服着てください!このままだと面接できません!不採用になりますが!』というと、渋々服を着始めた。
→不採用。
これ以来、個室で異性と二人きりで面接するのはやめた。
変なやつに訴えられでもしたら怖い。勉強になった。
『このお店が大好きで、どうしてもこのお店で働きたいです!もし採用して頂けるのなら・・・。わたし、店長さんに一晩体を捧げる事も大丈夫です!』と言われた。
あきれ果て、返答に困り『はぁ・・・』と曖昧な受け答えをしたら、『私、本気ですよ!』とおっしゃる。
→採用。
今はとても真面目に頑張って働いてくれてる。
ちなみに採用の見返りは要求してません。私ヘタレですから。われながら勿体無いと思う。
たしか20代後半くらいの女性。
面接途中、机の下から変なモーター音。
徐々に荒くなる呼吸とかすかなうめき声。
『あ、コレ!AVでよくある展開だ!』と思いながらも、この件に関しては何も聞くことができずに面接終了。
面接終わった後、どっきりカメラか何かかと疑ってしばらく周囲をキョロキョロしてしまった。
不採用。
・「お前がな」
鸚鵡返しパターン。自分の頭を使わずにブーメラン出来るし、使われた相手からの反論はよっぽどじゃない限り来ないため、
頭が悪い人が「言い返した気になりたい」時に重宝する、低コスト高リターンの魔法の飛び道具。
もちろん、相手が自己矛盾に陥ってるような時ならば正当な手段である。
余談だが、頭が悪い人は自己矛盾によく陥りやすいため、頻繁に鸚鵡返しをされる傾向にある。そのため自分が攻撃手段として使う時も、
何も考えずに使ってしまうことがあるように感じる。
・「こんな所で発言している人間が~」
ちゃぶだい返しパターン。会話している前提を覆すため、発している方は正論を言った気になれる魔法のトラップ。
『増田なんかで書き込んでるお前らって本当に陰湿だな(増田にて)』
ちなみに、発した瞬間、自己矛盾に陥ることに気付いている人間は少ない。
・「いや、○○だから△△なんだろ」
言葉遊びの入れ替えパターン。具体例:『頭悪い人って、自分で自分のこと馬鹿だって自覚出来ないよね』→『自覚出来ないから馬鹿なんだろ』
何も生む事の無い、魔法のトリック。自分の言葉で言い直す(再定義する)ことに快感を覚える人間が好んで使う。
あと西尾とかラノベ大好きな人もよく使う。楽しいよね、言葉遊びって。
・「じゃあ、仮にお前が…」
感情論に訴えかけようとするパターン。方法そのものは間違いでは無いのだが、出てくる「仮に」が、
なんともハチャメチャなのが多い所を見ると、正しく感情論で訴えることが出来る人間は少ないと思う。
攻撃したつもりになれる魔法の剣。
ちなみに論理的整合性を重要視する人間と感情論を重視する人間は、絶対に同一の議論に参加してはいけない。賢いほうが去りなさい。
・「例えばさ…」
例を挙げるのは構わないけど、何で挙げる例がハチャメチャなんですか?
そもそも、それは元の話題で伝わらないような難しさなんですか?専門的分野の話題でも無い限り、
例を挙げるなんて無駄無駄。共通して無い点もあるし、そこを突っ込まれるなんて分かってるんだから。
『TENGA使ったこと無いのにTENGAの気持ちよさを批評したら駄目なの?例えばさ、一流野球選手のプレイ、選手でも無い解説者が批判してることあるよね』
前回
もともと、異端であることをよしとするマイナーなこの分野の作品をとってメジャー系の書き方と比べられてもなぁ。
西尾はあれでいいんだよ。
____
/ \ /\ キリッ
. / (ー) (ー)\ <デストロイヤー級はパルパティーン議員の陰謀d:id:sionsuzukaze:20091105:1257437463
/ ⌒(__人__)⌒ \
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\ `ー’´ /
ノ \
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ヽ -一””””~~``’ー?、 -一”””’ー-、.
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/_ノ ヽ、_\
ミ ミ ミ o゚((●)) ((●))゚o ミ ミ ミ <だっておwww
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| | l||l 从人 l||l l||l 从人 l||l バンバン
ヽ -一””””~~``’ー?、 -一”””’ー-、
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
独立星系連合の脅威を予測してたからこっそり金を流用して作った?
旧共和国の官僚にそれだけの柔軟性があれば、パルパティーンが皇帝に即位する必要なんかなかったんだよ。
ああ、ひょっとして、はてサさん達お得意の「独立星系連合もオーダー66も全部パルパティーンの陰謀のせい」って陰謀論か。
教科書にはそう載ってるけど、実は何の史料的裏づけもないの知ってた?
単に反乱に成功した新共和国の連中の言い分が教科書に載ってただけ。
大体そんな陰謀する能力があるのなら、皇帝になんかならずとも既に銀河支配してるも同じじゃねえかw
教科書には惑星破壊によるオルデラーン大虐殺なんて載ってるが、オルデラーンの爆発は明らかに自然現象。
オルデラーンの惨劇が帝国の政府によるものといってるのも反乱軍新共和国政府指導者の主張以外に何の根拠もないんだよね。
単にレイア・オーガナがそう言ってる以外の証言は皆無。
オーガナはヴェイダー卿の娘で複雑な家庭環境にあったせいで心がねじくれちゃってる。
西尾先生が言うように、歴史を見るときには歴史を作った人間の成育歴から考えないといけない。
というか軍事に詳しい人ならわかると思うけど、当時の政府軍の全火力を結集しても惑星破壊なんて無理。
つまりオルデラーン大虐殺は、勝者である新共和国が敗者である帝国に押し付けた妄言。
したがって、教科書にあるパルパティーン帝の陰謀ってのも、まるで信用できるものじゃない。
同時代史料をちゃんと読み解けば、議員時代のパルパティーンは非常に穏健派だったことがわかる。
タカ派として振舞うようになったのは、議長になってからだよ。
それも官僚の腐敗やジェダイの反乱など、崩壊しつつある銀河文明を立て直すために合えて強権的に振舞ったと考えるのが自然。
議員時代から周囲を騙して私服を肥やしていたなんてのははてな左翼らしい下種のかんぐり。
遠い遠い昔、はるかな銀河の出来事だからといって、歴史学学のイロハは守れよ。
ここからわかるのは、少なくともこの時代には「巡洋艦(クルーザー)」や「戦艦」「フリゲート艦」といった艦種が現代同様に引き継がれていることである。
何で大昔の出来事なのに現代の名称が引き継がれるんだよ!
タイムパラドックスだろ!
いまいち増田の効率的な使い方が思いつかないんですけど、とりあえずこんな感じに使ってみようかと。
増田でやる意味あるのかこれ。なんか他にいいやり方あったら教えて下さい。
増田で定期的にコンテンツを強化していったらどうなるか興味があるので、定期的に少なくとも元増田は
エリア名 ラーメン店名 最寄り駅 ラーメン・店の特徴(タグみたいなもの)
と記述してます。
◆江戸川区◆
◆足立区◆
潮の風@竹の塚 鶏+魚介潮ラーメン
◆台東区◆
江戸きん@浅草→秋葉原(現在移転準備中) 武蔵系列 超濃厚豚骨+野菜 豚骨粉砕器
元祖一条流がんこラーメン八代目@末広町 がんこ系 醤油ラーメン 味濃いめ
◆荒川区◆
ぶらり@日暮里 鶏白湯+鶏清湯
◆北区◆
西尾中華そば@駒込 醤油ラーメン 重曹型 2009年新店 凪別業態 限定
◆板橋区◆
◆文京区◆
◆千代田区◆
大至@御茶ノ水
お茶の水大勝軒@小川町 東池袋大勝軒系列の中でも優秀且つ穴場
磯野@神田
◆中央区◆
もといし@神田 豚骨魚介 二郎インスパイアの焼きラーメン ダイニング けいすけ系 2009年新店
◆豊島区◆
◆新宿区◆
渡なべ@高田馬場 豚骨魚介 ラーメンコンサルタント 渡辺樹庵
克味@曙橋 なおじの別業態 超濃厚豚骨 天下一品 2009年新店
◆渋谷区◆
◆港区◆
参○伍@六本木 豚骨魚介 濃厚 鶏 塩 つけめん 2009年新店
◆中野区◆
◆武蔵野市◆
音麺酒家 楽々@吉祥寺 鶏魚介塩 ダイニング
◆立川市◆
UMA@立川 豚骨魚介+パイ包みつけ麺 ダイニング 2009年新店
◆羽村市◆
◆春日部市◆
井之上屋@春日部 鶏+魚介の塩
◆越谷市◆
◆川口市◆
◆草加◆
つけめん眞司 其のニ 草加店@草加 三郷の眞司支店 豚骨魚介 2009年新店
(この手の本を読んでいる人が、読んでそうな本を他にも挙げてほしい)
理系学生の書斎が安藤忠雄の建築事務所(研究所)みたいな資料の山だとしたら、
文系(特に法)学生の書斎は立花隆のネコビルwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
規模だけでなく質でも文系(特に法)は見劣りがするね。
何度か連中の自宅に招かれたから、ちょっと参与観察してみたんだ。
冗談半分でさ。
仔細に文系 (特に法)学生の本棚とか見てみると、これがもう滑稽なんだwwwwwww
まずいきなり机の上に開いた状態の宮台真司『権力の予期理論』!(笑)
プゲラを抑えるのに必死だったぜ。
続いて 何度も読んだ形跡のある伊藤&柴田の司法試験論文対策即席要点集(笑)。
お前サル かよ、それでも人間かよ、って問い詰めたくなったね(苦笑)。
カント・マルクスをはじめとする岩波文庫300冊程度(笑)(日本語であって原文ではない)
我妻民法(笑)佐藤憲法(笑)前田刑法&商法(笑)新堂民訴法(笑)
○○学がわかるシリーズ(プッ)
フーコー『知の考古学』(笑)(「パンのように売れた」ベストセラー)
仏露独蘭伊中国語辞典(笑)
トクヴィル(笑)大江 健三郎(笑)コーポレート・ファイナンス(笑)ドストエフスキー文庫(笑)西尾行政学(笑)
柄谷行人文庫(笑)フロイトの技法(笑)Yale Law Journal(笑)ハンナ・アーレント(笑)浅田彰(笑)『構造と力』(笑)
別冊ジュリスト判例百選(笑)大前研一(ワラ)シェイクスピア文庫(笑)
田中行政法(笑)中公『世界の歴史』(お前高校生かよw)マンデル貨幣理論、(笑)
女子大生(特に法)が読む雑誌と大差ないMarie Claire(笑)
magazine litteraire(笑) Cosmopolitan(笑)Critical Inquiry(笑)
Le Monde(笑)The London Economist(笑) American Economic Review(笑)
Fortune(笑)Foreign Affairs(笑)Yale Law & Policy Review(笑)
The New England Journal of Medicine、Michelin(笑)
これだもんねぇ。
他にも数百冊 持っていたようだがあとは推して知るべし。
で、トドメは
ピーター・ドラッカー(笑)
ピエール・ブルデュー(笑)
フォーリン・アフェアーズ(笑)
知の論理!!(笑)
もう俺その場で大爆笑。
プゲラー止まらなかったぜwww
ま、予想通りだけど、杉浦・ 解析入門(高校4年生の一般教養にはいいかもね)
岩波講座・現代数学の展開 (なぜかモジュライ理論、Lie環、Weil予想、コホモロジーw)
リーマン・アティヤー・岩澤・シュバレー・ヴェイユ・セール・ブルバキ・ウィーナーなど書店で目につくもの(持ってるだけね、知的ファッション)
東京化学同人『分子細胞生物学』(ゲノム解析ブームの名残だろうな)
プリゴジーヌ『散逸構造』(笑)
これだもんねぇ。
他にも何十冊か持っていたようだがあとは推して知るべし。
で、トドメは
日経サイエンス(笑)
ニュートン(笑)
数学セミナー!!(笑)
もう俺、こんな連中と面識あるなんて、恥ずかしいね。
あいつらよく平気で外を歩いてるもんだ。
せめてNatureくらい読めよな、
文系(特に法)なんだからさwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html
http://72.14.235.132/search?q=cache:http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html&hl=ja
以下、わかりやすく翻訳しても長くて読みにくいのは変わらないので自分の読み取った結論を3行で書くと。
まあ、2ちゃんねるアニメ板界隈ではそれほど新しい主張ではないな、と翻訳しおわってから思ったけど。
では。
まあ、原作至上主義って言ってもいろいろ視点はあるよね。
「原作至上主義」って、これらの問題が混ざり合って出来てるよね。一応仕事だからこんな話があるのは知っていたけど、正直気にしだしたのは、noir_kかくかたりき改めnoir_kはこう言ったのエントリに煽られたから。日だまりスケッチ×365とかかんなぎとかに関して「原作とアニメのあいだ」とも呼ぶべきものが問題にされていて興味深かった。世の中わかった気がした偉い人が「統計学的な分析」とか「メディアが違うことを無視した分析」してるけど、この人は誰だかわからない、ってことは別にしてとても興味深いよ。
自分なりにまとめると、id:noir_kが「原作至上主義」について言ってることは、
ていうことだよ。
なので、この人の言いたいことはともかくとして、自分もその流れで「原作至上主義」について考えてみるよ。
「批評」って、見る側がするものだと思われがちだけど、作る側もするんだよね。作る側の批評というのは、過去のアニメ作品とかアニメ以外の作品について、「批判」することなんだけどね。ガンダム・エヴァンゲリオンはもちろん、アニメ以外のテレビ番組とか、ネットとか映画作品とかゲームとかコミックとか小説新聞美術作品とか、そのへんを「批判」するってこと。
みんなわかるとおり、今アニメを作る側の「批評」ってこんな感じだよね。
また、この辺が「新房昭之」「山本寛」あたりから始まる、ってのもみんなわかると思う。
まあこのへん「批評的な営み」って言うのかな、これ、
という流れを「忠実に反映」してると思うよ。
ちなみに、引用のうち、実写映画の技法、特に画面の構図とか物語の構成とか色合いとか撮り方編集の仕方に関する演出とか、に関するものは、それ出来るところが先にやったもん勝ち、っていう実情があるよ。
今はメディアミックスの時代だから、アニメ作る側も、原作とアニメを同じものとして作ることが求められている。でも原作とアニメって、片方は印刷したもの、片方は画面で音がついて動くものとして別のものなんだから違うものとして考えようよ、ってid:noir_kが「原作至上主義」に対して言ってることってなかなか良い意見だと思うんだ。
これらは仕掛けとして考えれば同じもので、見る側作る側はこの仕掛けを通じて共犯関係になる。そして「原作とアニメが同じものとして作られるものだという空気」が、これらが、なにかを考えて作られたものだな、とみんなに思わせる目印になっている。この目印を越えて、今のアニメの演出が進むことで、アニメを作る側も見る側も、新しい批評が出来るとわたしは思うよ。
こう書くと、ストーリーって重要な要素を忘れているのではないか、と言う人もいると思う。ただ、ストーリーって編集という演出の産物なんだよね。で、ストーリーは「ある内容」を「どう語るか」にあるわけだけだけど、「ある内容」ってもともと5から20個くらいのパターンしかないから、そこを評価しても仕方がない。「どう語るか」は批評の対象になるかも知れない。ニューヨークの9.11テロを題材にした物語は無数にあるけど、それをどの視点からどのように語るかということが重要だということ。うっとうしく社会学で語ると、これが「批評空間」世代と「東浩紀━宇野常寛・ゼロ年」世代の差異だということ。後者はおもいきり戦略的に「物語論」へと反動的に回帰しているように思われるし。言い換えると、「表現論」派と「物語論」派がいるよね、ということ。
世代が新しくなってるから、「表現論」派の肩身がきわめて狭くなるのは当たり前だよね。現に、自分は「コードギアス 反逆のルルーシュ」が「表現論」的な演出を自粛した作品だと思っているし、そのあらわれとして「物語論」派から支持を集めることに成功してるし。そして、このアニメは2008年を代表しうるアニメだからね。
アニメって、他のジャンルと比べても忘れられる度合いが例外的なほどに高いように思う。半年前のアニメさえ鮮明に思い出せないことの方が多い。これは何故だと思う?
それは、異常なまでに「物語」と「登場人物」(声優とか声優の演技のしかたも含めて)が似ていて、なんか同じものの繰り返しになっているから。
アニメ以外の、コミックとかゲームはよく知らないんだけど、コミックを例に取ってみようか。まあコミックも簡単なパターンで作られているようにみえる。でも、「美術と小説に関して明らかに規範的なテクニックを持っているのにもかかわらず、下手くそな画で馬鹿げた物語を語っている」漫画家が確かに存在しているのね。おまけに、存在しているのみならず人数も多い。
けれども今の時代、経済構造の都合でアニメ業界はそれができない。「原作のないオリジナル作品が作れない」っていう意味ではなく、「オリジナルなものが抑圧される」という意味で。俗っぽい例えだけど、「優れた直木賞」は受け入れられても「中途半端な芥川賞」は抑圧されるということなんだよね。だから、ほとんどの作品が忘れられていくのは当然の事態なの。(より正確に言うのなら、「直木賞」と「芥川賞」の差もなくなっているし、アニメの歴史の問題というより、今アニメを作る人が信念を持って「特化」しようとすると、淘汰されるということかな。でも「特化」なんて言えるようになったのが90年代に入ってからのことなので、奇妙なねじれがあるようにみえるんだよね。この「ねじれ」を作家主義が引き受けたこと、そしてインターネット社会が同時的に誕生したこと、これが、「アニメーションの歴史におけるヌーヴェルヴァーグ」〈山本寛の談〉と呼ばれる事態なのかな、とわたしは考えるよ。)
現代のメディアミックス時代における、アニメ作る側の「原作至上主義」、インターネット社会におけるアニメ見る側の「原作至上主義」。
相対主義を標榜するほどナイーブでもないので私見を述べると、どっちも間違ってる。
アニメ作る側がいくら「原作」を「模倣」しようが、メタフィクション・パロディ・引用・自己言及、そして実写の早い者勝ち引用ゲームからは抜けられない。アニメ見る側がいくら「原作とアニメはこんなに似てる」と言おうが、根本的にそれは異なるものだから。根本的に違うものなので、いくら似てると言っても意味がない。それとも、類似点を言っていればヘーゲルの時代に戻れるとでも思っているのかしら。
ヘーゲルは小説のことを「市民社会のブルジョワ的な叙事詩」と定義した。要するにアニメの場合、「表現論」派に対して、世界の全体像の提示を旨とする「物語」派が復権するということは、奇しくもヘーゲルへの回帰をも意味するということ。言い換えればこれが「市民社会」論・「公共性」論・「安定的な社会秩序」を懐かしむことにつながると言うこと。でも、懐かしがって出来た物語は「秩序の混乱・解体→回復」という説話の構造でしかないし、その物語は「売れる=消費される」社会の現状維持的な肯定。果たして、それでよいの?
ひっそりと深夜に放送されるアニメを作るのも見るのもまっぴらごめん、と言う態度は適切だし、ましていい大人、常識的な社会人が、という話なら正しい振る舞いでもある。
ただ、昔の人が反語的に言うような、アニメがステータスシンボル(「オタクのしるし」とか)以上の存在価値を持ち得ないという議論は、あまりにも不毛で、杜撰で、素人じみている。富野由悠季まで戦略なしに不意に言うのを聞くと、断固として反論する必要があると最近思っている。そして逆に、圧倒的な「アニメ≒コミック」表現に関する戦略性(プレゼンテーションと歴史的な文脈づくり)で欧米諸国を震撼させた村上隆のような現代美術家に対しても、最近では諸手を挙げて肯定することは出来なくなっている。
富野のペシミズムと、ペシミズムの盗用により現代美術世界で名だたる作家となった村上隆。
なんにせよ、この2人が、行き詰まっている現状でぎりぎりの戦略をとっていることは胸を打つ。この固有名詞が、アニメにやってくる。決して2人とも現状を抜け出すことには成功していない。2人ともテクニックはあるけれど、状況を突破するほどの何かを示してはいない。
でも、新房はテーマとの暴力的な遭遇(西尾威信の小説のアニメ化)によって現状を何とかしようとしており、山本はアニメ作りと同時に言論活動を展開することで、自己弁明しながらも新しさを模索しているようかのようにみえる。
そして、まちがってもそれらは、『ef -a tale of melodies.』(※監督:大沼心、監修:新房昭之)や『かんなぎ』のような作品で実現されているとは思えない。両者で見るべき点は、妥協および「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽ること」以外にないのではないか。
けれども、「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽る」というとき、その恐怖心こそが、富野や村上には見いだせないものであって。
くだらないテーマの指摘とか、原作とアニメが違うだとか、ありふれた技法を指摘するだとか、歴史的にあれと似ているとか、そんな指摘は新房や山本が恥じらいながらも表現しようとしているものにまるで追いついていないのよ。
ここ最近ミステリと言っていいのかよくわからないけど、推理小説みたいなのをいくつか読んだんだけど、多くの小説でいわゆる「天才」が描写してあるんだよね。基本的に自分は天才じゃないから、天才の描写って難しいと思ったんだけど、どう書けば天才らしく見えるものか考えた。
真賀田四季という天才の女性が出てくるんだけど、いくつもの人格を抱え、常人の思考の及ばない世界にイッちゃってる。「7は孤独な数字」とかパズルのような謎かけの好きなんだけど、思考パターンというか考えている事の世界があまりに違いすぎて、逆に天才ぶりが感じられないような気がした。
犀川創平も設定上は天才なんだと思うんだけど、真賀田四季がすごすぎるので彼女に振り回されている感じで、どうにも天才と言って良いのかわからない。西之園萌絵もさくさく暗算したりしてこれはこれで天才なのかもしれないけど、役回り上犀川より思慮が及んではいけない立ち位置なので、思慮が浅すぎるお嬢様像が前面に出ていて、かわいそうではある。すごい桁数の掛け算とか計算できるのは果たして天才なのかどうか良くわからなかった。天才を描写する際に計算はそんなにいらんかもと思った。比較による「天才」の表現というのはありだと思うのだが、誰をどこまで落すか、誰をどこまで上げるかは難しいとも思った。
本編では、京極堂が天才とは一言も書いてないような気がするけど、逆に「天才」を強く感じさせる京極堂。人の話を聞いただけで全てを見通す。凡人が見えないところが見えている。それを言葉で「天才」と言わずに筆力で感じさせられる。それが京極堂のすごいところだと思う。ただ、願わくばもう少し早く、気づいてる事を言って欲しい。もったいぶりすぎて死人が増えてる。
天才石神と天才湯川の会話で、「天才」を感じさせる手法かもと思う。かなり専門的な数学の話を二人の天才がするのだが、数学を知らない人にどう天才ぶりを伝えるのかは難しいと思った。逆に数学を知っている人にこの話が天才に見えているのか興味があるところ。すごいトリックを考える天才とそれを読み解く天才という構造は好敵手同士がお互いを高めあうと言う意味で、天才を描くのには良いのかもしれないと思った。警察がアホなのが必須な条件かも。
いわゆる西尾維新の「戯言シリーズ」。西尾維新の名前は知ってたけど、文庫本になっていたので初めて手を出してみた。最初の一冊では「戯言」というのが意味がよくわからない。五冊読んだ頃、ようやく「戯言」の雰囲気がつかめてきた。そういう自分は鈍いのかもしれないと思う。
シリーズを通して、どちらかと言うと「天才」が連呼されているがあまり嫌味が無い。
シリーズを通して「ぼく」の戯言を越えて真実を語る哀川潤に強く「天才」を感じた。哀川潤と比較され、完膚なきまでに毎回「ぼく」は貶められる。その貶めぶりは見ていて清清しいくらいで、気持ちよく哀川潤の「天才」ぶりが引き立つ。だが、哀川潤の煽りは基本的に「天才」では無くて「請負人」。
むしろ「天才」と言われる久渚友の天才ぶりは最初の一冊ではあまり伝わってこない。サイコロジカルで死体を見て、不気味な笑みを浮かべる久渚に「天才」を感じた。凡人の自分は読み返してやっと言える事だが、この時点で久渚は全てを見通していたんだなとようやくわかる。この「全てを見通した感」が、小説においては一番「天才」を感じさせられるんじゃないかと思った。暗算で多くの桁の計算ができたり、チェスが強かったりするよりもそれは効果的だと思った。
http://d.hatena.ne.jp/nishiohirokazu/20080918/1221708888
正答率5%ってwwwwwww
なんなの?
馬鹿なの?
死ぬの?
はてなのGeek(笑)コミュニティの方々ってずいぶん優秀なんですね(苦笑)
これだからLisperは…みたいな事言ってる奴もいるけど、西尾はPython使いじゃんwwww
一部に捨てアカでファビョっている奴もいるみたいだが。
http://q.hatena.ne.jp/1221971933
http://q.hatena.ne.jp/1222004858
http://gnews.x0.com/20080921_231233/
「質問者は優秀すぎて非常識だと思いました」ってWWWWお前が無知で無能なだけだよ。馬鹿で自分が、馬鹿って気付けないくらいのな。
「質問の方がおかしい気がしません?」ってだいたい、そんなこと聞いてどうすんの?
ここは発言小町か?んん?
西尾が優秀だからなんなの?知らなくいい理由になると思ってる?
努力しなくて良い理由さがしているだけだろ?お前は?
安心したら、そこで成長止まっちゃうよ?いいの?
こういう奴に限って、ネット上ではなぜかアクティブなんだよな。
はてブとかもろにそうだし。無意味なネガコメを大量生産してくれる。
まぁ、馬鹿は馬鹿同士、馬鹿じゃない事を確認したいんだなぁと思った。馬鹿の中だと相対的に馬鹿じゃなくなるもんね。
だから、S/N比を下げる馬鹿な情報を量産しているんだなと思う。
そうやって、ネットを馬鹿な情報だらけにして、馬鹿が馬鹿であることに安心して生きていける馬鹿なネット社会を無意識的に作ろうとしているんだなぁとおもった。
これじゃ、まるで、ゴミ屋敷だ。
「潜在的につまらない人」ってあほか。このひとは、生来とか絶対的価値観とか、どうもファシズム的思考がある危ない人物なようだ。
そもそも大多数にとっては西尾某だろうがあまちゃんだろうがつまらない、というかただの痛いやつでしかないっての。楽しい、つまらないは人それぞれなんだ。そして同じ人でも時間が違えばその価値観も違ってくる。これは当然のことだ。
たとえば例の西尾氏にとって面白かった発表でも、彼が同じ内容をそのまま二回目きいたとしたら面白いとは思わないだろう。でも、初めて聞く人にとっては面白いと思う人はいるだろう。人の成長も人それぞれであり、ある時点でみんなが面白いと思う観点をつくったとしても、成長の早い人はそれがつまらないものになっているというのは、普通にあることだ。技術的なことでは特にそうだろ。