はてなキーワード: 般若心経とは
・俺が体験した葬式。年配の人は坊主と一緒に般若心経を合唱してた。子供を抱えたおばあさんが紙を見せながら子供にもお経を教えてた。創価の「ナンミョー」ではなく般若心経でもドン引きしたのか?
・そのお婆さんはグズる子供をせかしてお焼香までさせてた。
・四十九日まで毎週、親戚だけど葬式付き合いしかしない家へいって法事に参加して坊主のお経と説法を聴かなきゃいけない。
・兄弟の結婚式に参加したら、地元政治家から祝電届いた。親父がいつも批判している政治家なのにまんざらでもない様子。
選挙の電話ウザすぎ、とかなら同情するけど、式典の仕方が違う、ではなぁ
新興宗教に限らず、宗派、地域によっていろいろ異なるんだから、「へー、こういう葬式のやり方するんだ」って面白がるくらいが丁度いい。
これを読んでいたらもやもやしてきたので書く。
4つだけは本当だということじゃない。
8つすべては「真実」に近いと思う。
実践できれば楽に生きれると思う。
それがいいとか悪いとかいう問題じゃない。
ただ、この理論だけでは結果的に不十分だとおもう。
いったいなにを欺いているのか?
リンク先で語られている内容よりも
語られなかった内容に注意してほしい。
1、今に生きる
過去を悔やんでたらればを繰り返したり、起きてないことをあれこれ憂いたりするのは時間と労力の無駄遣いで非生産的。
2、人や社会に期待をしない
求めたり「こうあるべき」とイメージを持ったりすれば、現実との差異にがっかりすることになる
自分が見ている他人は、他人という物質に反射して映った自分だと考える。
その出来事を通して味わいたい思いや学びたいことがあるからそれを引き付ける。
こうしなきゃ、こうでなきゃ、というのは自己満足であって、大抵の場合は不必要
6、ワクワクするものごとを選ぶ
選択の連続の人生で、自分の心がワクワクする方を正直に選ぶのが一番スムーズ。これができないと葛藤やジレンマに苦しむ
7、自分の行いは必ず帰ってくる
きちんと受け止めないでぶつかった時に、痛いと言って責任転嫁しようとしても事は進まない。
自分が受けたい言動をとればそのまま返ってくる。
8、物事は全て中立
「悪い出来事」「縁起の良い場所」なんてのは本当はなくて、全て中立な物事に自分が意味付けをしてるだけ。
たとえば同じ場に居合わせて災害にあったとしても、ある人はたまたま見舞われたと感じるし、ある人は自分の宗教の教えを遵守しなかったからと捉えるかもしれない。
ぐうの音もでない。
いろんな本を読んだり、テレビを見たり、人と話したりすれば
わりと納得できる考え方だなーと。
(というかこれがわからないとしんどい)
しかし、正しいということとそれが妥当であるということはまた別の問題だと思う。
でも、とりあえず
ということはほぼ間違いないと思う。
世界じゅうの人がみんな
この方法を身につければ
きっと生きやすい世界が目の前に広がると思う。
ちょっと想像してみよう。
(親、兄弟、親戚、同級生、上司、同僚、社会のしくみ、政府、日本、テロリスト、なんでも)が
もし、これらの特性を身につけたならと考えてみよう。
こりゃパラダイスだ!
ぼくたちはお互いがお互いを認められるような
真に寛容な社会を実現できる!
誰と遊んでいようが楽しい!
よーし!あの丘の上まで競争だ!
これらの方法に従うことで楽に生きられると思う。
でもそれは「従うことができれば」の話。
実際、どこの場でも目にする。
「人生論」でも、「大往生」でも、「論語」でも、「エセー」でも、「徒然草」でもなんでもいい
長く広く読まれている「人生の教え」的な本を読んでると
最後にはだいたい前の8つくらいに収まる
(代わりにどっかの社長の話を聞いてもいいし、テレビで美輪明宏さんの話を聞いてもいい)。
昔の人は偉いなあと思う。
そういう感じの本はいろいろ読んだ気がする。
もちろん、まだまだ読み足りない。
なにせぼくはまだ今年から活字に触れはじめたばっかりだ。
きっと死ぬまで読んでも読み足りないのだけど
個人的には、ぼくの考えを
そういう本が「間違っている」と指摘してくれることを期待して
今のところ、ぼくの考えを「否定してくれる」本は見つからない。
いや、正確に言うと、否定してくれはするけども
それが納得できないのだ。
ぼくの読解能力がないだけならそれでいいんだけど
もしヒマならちょっとぼくの考えを聞いてほしい。
まず1つめのウソ。
ぼくが言いたいのは
すべての人間がこれらの方法を実行するのは不可能だということだ。
古今東西のえらい人がみんな同じ結論にたどりつくなら
さっさとそれを実行すればいいのに
なんで同じ内容の本ばっかり書かれていくんだろう。
それが人間全体に広くみられる普遍的な問題だからじゃないかなあと思うけど
じゃあ、なんでその普遍的な問題が
大昔から今まで解決されないままなんだろう。
般若心経の新訳を読んだ。
ぼくらはなんで2000年も前の真理がいまだに実行できないの?
そりゃあれじゃないの?
大笑いしながら観ていた。
その中の一作で寅さんの「おいちゃん」が
実は若い頃は文学をやりたいと思っていたと話すシーンがある。
おいちゃんは父親にこう言われたらしい。
「団子屋に文学なんか必要ない」
団子屋が文字を読む必要がないなら、
本なんてまったく読まない人がいてもおかしくないんじゃないだろうか。
これは団子屋だけの問題か?
かなり多く存在してるんじゃないのか?
それでなんの不自由もなく生きていけたなら
感覚だけで生きていくことを恥じることもない。
それどころか、論理的なことをバカにさえするかもしれない。
難しいことはわからない。
バック・トゥ・ザ・フューチャーを何十回も観てるのに
なにがどうなっているのかいまだに理解できてない。
でもそれがどうした?
バック・トゥ・ザ・フューチャーの理屈がわからなくてもなんの不自由もない。
熱心な仏教徒や
わかりにくいな…。
その最初の救いを信じていたら
いつのまにか犯罪者の仲間入りをしていたことだってあるみたいだ
(オウム真理教の元信者のそういうエピソードを読んだことがある)。
「念仏を唱えれば救われる」って
そそのかされただけじゃないのか?
バック・トゥ・ザ・フューチャーがわからないお父ちゃん。
念仏を唱えるだけの百姓。
そういう人たちがいるかもしれないと思ったことは?
つまり、ぼくが言いたいのは
読めない人がいるかもしれないということだ。
読んだ人に待ち受けているのは
でも、読んでない人はどうすりゃいい?
で、その論理を理解できなかったら?ほったらかし?
そりゃあもう素晴らしいことになるとおもう。
でも、現実はそうじゃない。
何を語っていないかをもっとよく考えたほうがいい。
この人生訓がなぜいいのかということを
絶望的なまでに理解できない人がいる。
そういう人たちは人生訓が提示されるたびに足場が少なくなっていく。
要するに勉強ができない、感覚で生きている人たちをないがしろにしているのだ。
このたぐいの人生訓すべてが。
掛け算までしかわからない子どもに、方程式の素晴らしさを説いているようなもんだ。
上から目線で「こうしたらいいのに」と言ってしまってることになる。
いつまでも掛け算のところでつまづいて
文句ばっかり言ってる子どもはほったらかして先に授業を進めるべきなの?
掛け算のところに戻って教えなおしたほうがいいんじゃないの?
やっと言いたいことの一つが終わった。
冗長になりそうだけど
もうひとつ言いたいことがある。
更に絶望的な想定だ。
さて、こんな文句をどこかで見たことがあるだろうか。
(まちがってたら言ってください)。
なんかさぁ…
内容自体はそんなに変わらないのに
急にうっとうしくなった気がしない?
どこかで見たことあるなあ…
これどこで見たんやろう…
ああ、そうか
「これ、うちの経営理念やわ」っていう人いる?
その時どんな気分がした?
殺したくなった?
泣きたくなった?
正義づらした誰かに強制されるのだ。
それが「楽に生きる」とは真逆の事態を連れてくる。
この想定のたちの悪いところは
その大義名分が「間違ってない」というところだ。
誤解なら間違ってると指摘することはできるけど
ほぼ正しいと思う。楽に生きるためならね。
え?
間違ってないなら実行できない人が無能で怠惰なんだから仕方ないって?
wikipediaによると2009年の時点で日本のニート総数63万人
彼らがみんな死んでしまえばいいと思うの?
賢くて強い人だけ生き残ればいいと思ってるの?
ニートだけじゃない。実際働いている人でも
(実際これだけの説教レパートリーがあれば人格を破壊するには充分すぎるとおもう)。
(統計を出すつもりはないけど)。
1つめのウソで言及しているような
感覚で生きていて、なおかつこういう人生訓に苦しめられている代表選手は
2つめのウソで言及しているような
こういう人たちはまとめて死ぬべきなのか?
損する人のほうが多くないか?
そう考えたら、「人生を楽に生きる8つの方法」が最後の答えだと思えない。
この考え方を否定してもらいたくてそういう本を読んでいた。
でも納得できない。
これでは救いにならない。
でもいつまでも状況に進展がない。
だれか否定してくれよ。
「おまえ間違ってるよ!」って。
1つめのウソについては別の解決策が見当たらないし探そうともしてないけど
そして、その解決策をこの場で披露することを許していただきたい。
枠組みを作ろうと思う。
ほとんど働かなくてもいいような枠組み。
楽観的な言い方をすると、これは収益を生み出せるかもしれない。
そうして、口やかましい人たちを黙らせる
http://auauai.tumblr.com/post/9080858048
これはブログでも書いてるけど
やりたいことはphaさんのギークハウス構想に似てると思う。
優しくて閉鎖的な空間だ。
個人的にはなるべく一人でいたいんだけどそのためのコストが高い。
そういう人と連帯を組むことはしたくない。
じゃあ、ぼくが怖がらずに近づけるのは
そういう人たちととりあえずお互いを認め合う。
自信を少しずつ取り戻す。
まずはそこからだ。
誰だって生きていていいんだという相互理解をつくることだ。
心底、世の中に絶望していた。
どれも納得できなかった。
共感をもたらしてはくれたけど
やっぱり現実はしんどいままだった。
山の中に草庵でも建てて住もうと本気で思っていた
(いまでもその選択肢を考えてる)。
いくら本を読んでも
現在の恐怖と、わずか数年後の不安を解決してくれるものすらなかった。
でも最近考え方が変わった。
それもやはり本を読んで変わった
(次に挙げるだめ連の本とはまた違う本だ)。
だめ連の本によると
連帯すると分散される(当たり前か)。
家賃10万円の家を10人で借りたら一人1万円だ。そういうことだ。
近隣の人の援助もあったらしい。
それはちょっとできるかどうかわからない。
でもぼくらにはインターネットというツールがある。
レゴ作って2chにスレ立てるだけでプロビルダーになる人がいたり
自分の顔を毎日撮って繋げただけの動画がYoutubeで何万再生もされたり
「ありがとごじゃいます」って歌って動画として公開するだけでテレビに出演できたり
要するに「好き」とか「やってみた」とかの
ということは
そういうしょーもないアイディアが収益化する可能性があるのだ。
ちょっとでもおもしろそうなことはなんでもやってみりゃいいのだ。
社会不適合者が集まっているということだけでもちょっとおもしろいかもしれない。
誰が許さなくても本当は関係ないんだよね。
心苦しさを飛び越えるほどの、欲求があればぼくらは動ける。
外にある楽しいことに手を出すのは怖いしめんどくさいけど
ネトゲくらいならちょっとやってみようかなーなんて思える。
とりあえずヒマならその家に集まってみて
生きるのに向いてない人がリラックスできる場をつくる。
なんかちょっとやる気出たり、アイディアわいてきたら
そういう人たちの「好き」とか「アイディア」を片手間でネットに発信してみる
(ぼくもいくつかアイディアがある)
奇しくもこの考え方は
楽しいことだけを追い求めて生きていくことが可能かどうか確かめたいのだ。
しかし、生きるのに向いてない人がラクになれる場所
(SNSでの付き合いで世界のツラさを「ごまかす」だけじゃない場所だ)
これができるだけでも意味はあると思う。
もうだから早く家借りよう。
とりあえず、ツイッターかmixiかメールかなんでもいいから連絡をください。
http://twitter.com/yukkun1986/
http://mixi.jp/show_profile.pl?id=25533767&from=navi
breed0902@gmail.com
(悪いことをまったくやってないってことじゃないけど)。
たすけてくれよ。「私も怖かった」って言ってくれよ。
怖いよねー(*´・ω・`)(´・ω・`*)ネーって慰め合おうよ。
別に住まんでもいいのよ家には
慰めとか遊びとかアイディアの拠点にするねん。
もう疲れた。
もう待てない。
もう泣きたくない。
誰かが泣くのも見たくない。
きみは死ぬな。
それでも生きれるようにしたいのよ。
ぼくもきみも。
これがぼくらの「楽に生きるための一つの方法」じゃないかと思うんだ。
コメントに返事を書く!
なげーよ。
ごめんなさい。短くしようともしてませんでした。
短く的確に書ければいいなと思います。
書いていくだけでその練習になればいいななどと虫のいいことを思ってます。
誰も強制してないし、できない奴を馬鹿にしてもいない。自意識過剰/自分以下を眺めて満足したいだけでは?/「5. 自分がいなくても世界は回る」の「自分」は語り手を選ばないからこそ「楽」につながる
補足すると、まれにだが僧の読むお経に合わせて輪読しなければならない時がある。
「私が「ぎゃーてーぎゃーてー」というところに差し掛かったら、みなさん「はーらーぎゃーてー」と唱えてください」
と言われることがまれにある。
リズムがわからなくて大丈夫かなっと心配するかもしれないけど大丈夫。
意味は考えなくていい。
もちろん、そんな必要はなくただ聞いてるだけでいい場合が多い。
読まれるお経は宗派によって異なる。
座敷だと外履きの脱ぎ履きが必要になるので、紐靴だと面倒かもしれない(といっても金具がついたモンクストラップもあまり適切ではない)
少し長い時間正座することになるけど、流石にそればっかりは慣れしか無いので、まあ我慢。
正座のしかた、正座からの立ち方は知ってたほうがいいかもしれないが、まあなにも言われないと思う。
あと、御香典の中のお札は新札と偶数はダメというのはとりあえず守ったほうがいい。
それから、一般的な黒のスーツと、礼服の生地はよくみるとちょっと違う。
特殊な染め方で毛の芯まで染めるので、黒が深く光沢がない。
ただし若ければそこまでは要求されない。
平服がbetterというだけで、礼服ではダメではないらしい。
あまりにしっかりした格好で出向くと死ぬのを待ってたようで失礼ということらしいが、もちろん派手な格好はよろしくないので自己判断で。
弁証法的思考ってどういうものかご存じだろうか?
弁証法的思考とは、矛盾を解決したり、矛盾を矛盾のまま受け入れたりすることだよ
その一例を御覧にあげよう
まあこんな感じだ
...
...
...
『あらゆるものごとは、もしそれが意味を持つとしたら、それは矛盾を含んでいるからである』 - ヘンリー・ミラー[北回帰線]
偉人たちが散々に述べているように、世の中の真実というものは、たいてい矛盾をきたしているものなんだ
で、その矛盾を見出すということが、いわゆる弁証法的思考法なんだな
ぶっせつまかはんにゃはらみたしんぎょう
かんじざいぼさつぎょうじんはんにゃはらみたじ
しょうけんごうおんかいくうどいっさいくやくしゃりし
しきふいくうくうふいしきしきそくぜくうくうそくぜしき
じゅそうぎょうしきやくぶにょぜしゃりしぜしょうほうくうそう
ふしょうふめつふくふじょうふぞうふげんぜこくうちゅう
むしきむじゅそうぎょうしきむげんにびぜっしんい
むしきしょうこうみそくほう無眼界乃至無意識界
むむみょうやくむむみょうじんないしむろうし
やくむろうしじんむくしゅうめつどうむちやくむとく
いむしょとくこぼだいさったえはんにゃはらみたこ
しんむけげむけげこむうくふ
遠離一切顛倒夢想くうぎょうねはんさんぜしょぶつ
えはんにゃはらみたことくあのくたらさんみゃくさんぼだい
こちはんにゃはらみたぜだいじんしゅぜだいみょうしゅ
ぜむじょうしゅぜむとうどうしゅのうじょいっさいく
ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてー
はらそーぎゃーてーぼーじーそわかー
ニコニコ動画で覚えちゃったよ
気持ち悪いスキルがまた一つ増えたわ
” 超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?
誰でも幸せに生きる方法のヒントだ
もっと力を抜いて楽になるんだ。
苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。
この世は空しいモンだ、
この世は変わり行くモンだ。
苦を楽に変える事だって出来る。
汚れることもありゃ背負い込む事だってある
だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。
この世がどれだけいい加減か分ったか?
苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。
見えてるものにこだわるな。
聞こえるものにしがみつくな。
味や香りなんて人それぞれだろ?
何のアテにもなりゃしない。
それが『無』ってやつさ。
生きてりゃ色々あるさ。
辛いモノを見ないようにするのは難しい。
でも、そんなもんその場に置いていけよ。
先の事は誰にも見えねぇ。
無理して照らそうとしなくていいのさ。
見えない事を愉しめばいいだろ。
それが生きてる実感ってヤツなんだよ。
正しく生きるのは確かに難しいかもな。
でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。
菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ。
愉しんで生きる菩薩になれよ。
全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな
適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。
勘違いするなよ。
非情になれって言ってるんじゃねえ。
夢や空想や慈悲の心を忘れるな、
それができりゃ涅槃はどこにだってある。
生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。
心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。
意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。
苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。
嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。
今までの前置きは全部忘れても良いぜ。
でも、これだけは覚えとけ。
気が向いたら呟いてみろ。
心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。
いいか、耳かっぽじってよく聞けよ?
『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』
心配すんな。大丈夫だ。 “
未完成ぽい。完成期待
http://www.nicovideo.jp/watch/sm12000087
観自在菩薩
行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空
度一切苦厄
舎利子
色不異空 空不異色
受想行識 亦復如是
舎利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意
無色声香味触法
無眼界 乃至 無意識界
無無明 亦無無明尽
乃至 無老死 亦無老死尽
無苦集滅道 無智亦無得
以無所得故 菩提薩?
依般若波羅蜜多故
心無?礙 無?礙故
無有恐怖
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提
故知 般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪
是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚
故説 般若波羅蜜多呪
即説呪曰
羯諦羯諦波羅羯諦
波羅僧羯諦菩提薩婆訶
そこのクソガキ、俺らが空になれたら面白いと思うだろ
何度もいわせんな俺らはトべるんだ
増減も綺麗事もクソも何もかもぶっ殺してやる
眼、耳、鼻、舌、身、意思と順番に削ぎ落としてやる
俺らが見てたモノに現実はねぇし ジジイになってくたばる事はねぇ
その代償として俺らは無になる
もう全て殺して砕いて裂いちまえ 俺らに智慧はもう必要ない
ムダな恐怖ももうやめだ 俺らに失うモノはねぇ
下らない空想も全部ぶっ壊せ 全てを平らにしちまえばいい
例の呪文をどんどん広めて イく奴どんどん増やしちまえよ
真実に至って 全てを捨てて 全てを手に入れちまおうぜ
「わーったわーった よく分かった じゃあまずはお前の眼からだな」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11998050
◆Ver1
誰でも幸せに生きる方法のヒントだ もっと力を抜いて楽になるんだ。
この世は空しいモンだ、痛みも悲しみも最初っから空っぽなのさ。
この世は変わり行くモンだ。苦を楽に変える事だって出来る、全てはお前次第だ。
汚れることもありゃ背負い込む事だってある
だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ
この世がどれだけいい加減か分かったか?苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。
見えてるものにこだわるな。
聞こえるものにしがみつくな。
味や香りなんて何のアテにもなりゃしない。
先の事は誰にも見えねえ。無理して照らそうとしなくていいのさ。
見えない事を愉しめばいいだろ。それが生きてる実感ってヤツなんだよ。
正しく生きるのは確かに難しいかもな。
でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。
菩薩として生きるコツがあるんだ、愉しんで生きる菩薩になれよ。
全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな
適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。
夢や空想や慈悲の心を忘れるな、それができりゃ涅槃は何処にだってある。
生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。
心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。
意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。
嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。
今までの前置きは全部忘れても良いぜ。
でも、これだけは覚えとけ。俺達が苦労して見つけたモンをまとめて教えてやるからよ。
耳かっぽじってよく聞けよ?
『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』
俺発見
10~20代のころあんなにモンモンとしてたのが嘘みたいに、それこそ憑き物が落ちたみたいに欲が無くなったわ。
性欲と言う意味でもそうだが、何か信念的なものにこだわって元気に論争する意欲がさっぱり失せた。
俺にとって今一番大切なモノ/コトは「二本の脚で自由に歩けること」だ。
歳とったことの他に、厨二的でアレだが、般若心経と出会ったことが一つの転機だったかもしれない。
お返事ありがと。
かつて電子メールは80x25文字の文字端末で読み書きするところから始まったので、いまでもその環境で最適になることを標準としてる。というのは余談なので脇においといて。
なるほど、これは勉強になった。80というのは半角ということでいいかな?半角80字であれば、
全角40字で改行するように言われることの説明がスッキリつく。
増田みたいに行間隔が広めに空くレイアウトが設定されていて右端で折り返す仕様になってるなら、技術的な理由による改行は挿入しなくてもいい。むしろ入れるとかえって読みづらい。wordなどを使って紙に印刷するつもりで書いてると丁度いいくらいだ。
増田で書く場合は句点があっても話が連続しているようなら極力改行しないようにしてる。2chと同じくらい改行したら、まばら過ぎて逆に読みづらいし。
ええ、2chでは少ない文字数で改行するのが一般的だけど、おっしゃる通り、これを増田でやると読みにくいと思う。
それとは別に、面積あたり文字密度の問題もある。
増田では快適に読める文章でも、2chなどにペーストして書き込んでみると米粒に書いた般若心経を読んでるような気分になる。2chの場合は増田みたいにちゃんとレイアウトしてくれるでもなく、基本的に生テキスト投げっぱなし。だからテキストを右端で折り返すか画面外に飛び出すか不定だし、行間隔がほとんどなく表示されることが多い。
だから画面外へはみ出さないようにすることと、適当に白い部分を増やしてやることを意識しないと読むのが苦痛なんだ。元増田は密度の濃い文章を書く人っぽいからなおさらだろう。
だからそういうところでは適当に改行や改段を入れると、ちょっと見やすい。
そう言われれば、2chでは行間が殆どなく表示されるし、右端で折り返すか不定だと気付いた。
ちなみに、僕は2chにあまり書かないけど、もし書くときは、一行50字で5行前後ごとに空白行を入れている。
これは、読む人への配慮というよりも、自然とそうなっている。ところが、これでも苦痛に思う人がいるんだろうか。
僕は苦痛ではないけど、中には文字密度の濃い文章を苦痛に感じる人もいるのかもしれない。
あと、書き込みというのは内容が正しければそれだけで正義なわけじゃない。良薬口に苦しなんていってないで、相手に服んでもらえるよう剤形を工夫する発想も必要だと思うねぇ。
書き込む場所にもよるんだけど、最初から一気に書くんじゃなくて、疑問なり批判なりレスポンスが帰ってきてからちょっとずつお相手する方がお互いのためにいい場合もあるよ。
なるほど、相手の理解度や興味の度合いに合わせて、少しずつ噛んで含ませるようにコミュニケーションを取っていくほうが
長い目で見れば効率的だし相手に負担をかけないということか。確かに、同じ一行あたりの文字数や全体の文字密度でも、
相手に対して噛んで含めるような書き方でないと、反感を買いやすいかもしれない。
かつて電子メールは80x25文字の文字端末で読み書きするところから始まったので、いまでもその環境で最適になることを標準としてる。というのは余談なので脇においといて。
増田みたいに行間隔が広めに空くレイアウトが設定されていて右端で折り返す仕様になってるなら、技術的な理由による改行は挿入しなくてもいい。むしろ入れるとかえって読みづらい。wordなどを使って紙に印刷するつもりで書いてると丁度いいくらいだ。
増田で書く場合は句点があっても話が連続しているようなら極力改行しないようにしてる。2chと同じくらい改行したら、まばら過ぎて逆に読みづらいし。
それとは別に、面積あたり文字密度の問題もある。
増田では快適に読める文章でも、2chなどにペーストして書き込んでみると米粒に書いた般若心経を読んでるような気分になる。2chの場合は増田みたいにちゃんとレイアウトしてくれるでもなく、基本的に生テキスト投げっぱなし。だからテキストを右端で折り返すか画面外に飛び出すか不定だし、行間隔がほとんどなく表示されることが多い。
だから画面外へはみ出さないようにすることと、適当に白い部分を増やしてやることを意識しないと読むのが苦痛なんだ。元増田は密度の濃い文章を書く人っぽいからなおさらだろう。
だからそういうところでは適当に改行や改段を入れると、ちょっと見やすい。
あと、書き込みというのは内容が正しければそれだけで正義なわけじゃない。良薬口に苦しなんていってないで、相手に服んでもらえるよう剤形を工夫する発想も必要だと思うねぇ。
書き込む場所にもよるんだけど、最初から一気に書くんじゃなくて、疑問なり批判なりレスポンスが帰ってきてからちょっとずつお相手する方がお互いのためにいい場合もあるよ。
おはようございます。
東京の春は気持ちがいいですね。
去年の年末旅行先で、何気なく手にとった「般若心経」の解説文庫。
(これ、電車で読んでる時に後ろから見えるとすごくはずかしいというのはおいとくw)
2回も禅宗にもどるっつーことは、ご縁がふかそうかもなあと
勉強しといた方がいいだろうかみたいな軽い気持ちで手にとったんだけど
すんごく面白かった(笑)
人生なんてつらい事のが多いんだから
そのまま受け取ってても勿体ねーべ?
辛いことの合間に起こる楽しい事を拾い上げていくのが修行じゃねえかよ、
みたいな感じ。
あたま悪いからちゃんと読み込めてないけどね。
ちがうかもしれない。ごめん。
お経にかいてあるのもそういう事なんだから
私がちょっとぐらいへこたれててもいいんジャマイカと思った去年の冬でした。
ま、この年になると、そうそうそんなヘビーな出来事は少ないんだけどね。
正確には、少なくなっただけ、だから、皆無じゃないんだけど。
http://anond.hatelabo.jp/20081220125045
これ、すごくよく分かる。もちろん、大事な人が亡くなってしまったショックを受け入れるための儀式として、葬式に意味がないとは言わない、むしろ大いにある。でも。
うちは毎月お坊さんがきて、お経を上げてってやってるから、オヤジの葬式では、まあ、つーつーだった。で、ビジネスなんだなってのもよく分かった。
だいたい戒名ってのが気に食わない。ちょっとの違いでお布施の額が雲泥の差。たまに仏壇で個人的にお経をあげることがあるが、戒名なんて僕は使わん。オヤジはオヤジ、じいさんはじいさん。普通に名前で呼ぶ。
それに葬式ってのも豪華にすればいくらでも豪華にできて、これも目の玉が飛び出る。年収分くらい普通に飛ぶ。バカバカしくてやってられない。やってる中身は実質的に一緒なんだもん。
お葬式のあと、坊さんのところに行ってお布施を出したら、いいやがったねえ。これで飲んで遊ぶお坊さんもいらっしゃいますが、私はそういうことはいたしませんから、ええ、ええ、だって。ウソつけよと心で笑った(この坊さん、昔から知ってるからね)。で、四十九日の法事で、大勢の人のまえで、般若心経読みながらゲップするw。ああ、昨日も飲んだんだなあって。
あ、このお坊さんは気はいい坊さんだし、話しやすいから好きなんですよ。だから、こんなことでいちいち怒らない。むしろ笑った。
まあ、そんなこんなで、葬式って地元の坊さんにとってはたしかに大事なビジネスではあるよなあと感心した。うまくできてる。
個人的には、もうこんな儀式はいらないと思う。意味がない。個人個人が好きなように般若心経なり観音経なりをあげるのが一番の供養。こっちのほうがすっきりして気持ちがいいよ。
ま、とはいっても、地元や家庭の都合があったり、お年寄りにとっては葬式がまだまだ必要だから。そんなすっぱり割り切れないけどね。
仏教の伝来には大きく2つのルートと二つの宗派があってだな…。
インド(原始仏教)―ダルマさん―中国―朝鮮―日本 (北伝ルート:大乗仏教)
インド(原始仏教)―ビルマ―タイ・ラオス・カンボジア (南伝ルート:上座部仏教)
というふうになるんよ。
んで、中国経由のほうの根本経典は、基本的に般若心経とか法華経とか、浄土宗だと無量寿教とか阿弥陀経とかの大乗経典。
仏教の経典っていうのは、基本的にすべてお釈迦さんが語ったものを後の世に経典に表したという形になってるんだけど、大乗経典っていうのはお釈迦さん以外の如来(ブッダ)が登場したり、観世音菩薩だの弥勒菩薩といった菩薩が登場したり、不動明王が登場したり、とにかくいろんなキャラが出てくる。
ちなみに大乗仏教ってのは、自分一人で悟って涅槃行ってもつまらんから民衆も救済してやるまいよ、という立場の仏教ね。
(これに対して自分一人が修行者として悟ることが第一と考えてるのが上座部-南伝仏教な)
もうこれだけでもわけわからんと思うんだけど、こんなわけわからんのは本当の仏教じゃない、っていうことでわけわからんことをやり出したのが禅宗で(公案とか只管打坐とかね)、それが日本に伝わってきて、明治になって鈴木大拙という人がアメリカで大々的に禅を普及したので、禅=日本というのも間違っちゃいないんだよ。
どうせやる気無いだろ。死ぬ気がないのに死にたいって言ってるのはなんなんだよ。何で死なないんだよ。理由を言えよ。
そしてお前は般若心経でも読め。