はてなキーワード: 胃カメラとは
あのさ〜。
現代なんだから、そういうつっこみやめようよ。みんながっこーに行ったりしたんだし。今、行っている人だっているよね?
たとえば、ファイバースコープ使って「見たい先を見る」という技術があるのは知っているよね?災害対策とか、胃カメラとか。
そのほか、もっと「すげぇ」な、「見る技術」は、あると思うよ?レントゲンとか受けたことない?MRIとか。
そもそも、もっと、「原始的」な、「ある人の状況を知る方法」というのは昔からあるわけ。
たとえば、逐一、「その場にいる人」が携帯かなにかを使って知らせていたら「知られちゃう」よね。
別に「視覚」を使わなくてもいいわけだーーー「見てきたようなことを言う」っていうじゃんか。
まっ、自分から知らせていたらどうにもなんないとは思うけれどーーー。
追記
うひ〜、二回か三回書き直ししちゃった。酔っぱらったのかも。
元増田です
>どんな事でも良いのですが、涙が出る事はありますか?
言われてみれば
欠伸のときと、この前胃カメラをのんだときを除いては
12歳のときに同級生と喧嘩して泣いたこと以来、
涙を流したことは無いですね。
3ヶ月ほど前から、以下の症状が継続。
近所の胃腸科にかかって、薬をもらうも改善せず。胃カメラをのんだところ、「ひどく荒れていて潰瘍の一歩手前」とのこと。ピロリ菌検査は陰性だった。
強い薬に変えてもらい飲み続けるがやはり改善せず。さらに別の薬に変えて2週間たつが、いまだ良くならない…。食事はとても気をつけているのに。
これ、このまま通って治るんだろうか?
友人は、ストレスの可能性を考えて心療内科にかかってみたら?と言うけれど、特に思い当たるストレスはなく、精神状態はそんなに悪くない(胃の重さが憂鬱ではあるが)ので、そんなんで診てもらうのもどうなのかなぁと。
別の胃腸科にかかったほうがいいんだろうか?
てかただの胃炎が3ヶ月も治らないとかあり得るの?
ああ、今日も胃が重い…。
春の日射しが穏やかな日は、祖父がにこにこ笑っている顔が目にちらついて、私は少し辛くなる。祖父はアルツハイマー型痴呆症になり、特別養護老人ホームにいる。もう二年くらいになると思う。祖父が施設でにこにこと笑うようになってから、父も母も笑えるようになった。私も弟妹も笑えるようになった。
それまでの日々は、家族にとって、特に父と母にとって、地獄のような日々だった。
祖父は、元々厳しくて頑固なところのある人だった。成人する前に両親を亡くし、大人に混じって農家を切り盛りしていたから、気が強くなってしまったのだろう。祖母と結婚して、父の姉と、父が生まれた。その後、警備員と農家を兼業するようになった。祖父も祖母も厳しい人で、昔の農家気質だったから、母は嫁入りした当初から辛い思いをすることもあったようだ。ただ、祖父も祖母も、孫である私たちには多少甘い部分をみせていた記憶がある。
祖父が定年になる前、私がまだ小学生だった頃、祖母が亡くなった。五十代後半の死は、あまりにも早かった。母には、祖母の役目と母の役目、両方がのしかかった。今から約二十年前で、家事は女の仕事、女は男を立てるもの、という価値観はまだまだ当たり前にあった時代の話。祖母が亡くなってから、祖父の母に対する当たりがきつくなったと父は言う。また、この頃から酒量が増えた、とも。
それから一年経って、私や弟とは歳の離れた妹が生まれた。母は仕事をやめた。祖父は歳の離れた末の孫を溺愛した。しょっちゅうかまうものだから、母は機嫌を悪くして、時々父や私に愚痴を言った。
祖父と母の関係が決定的に悪化したのは、私が高校生になり、妹にある程度手がかからなくなって、母が再び働きに出るようになった後だ。祖父はとっくに定年になっていて、ずっと家にいるようになった。趣味の合う友人と連れだって遊びに出かけたことも時々はあったけれど、家にいることがほとんどで、昼間は自室に籠もっているか、畑で仕事をしているかだった。祖父には、母が五時過ぎに仕事から帰ると同時に台所の自分の席に座ってお酒を飲み始める習慣があった。母が夕食の支度をしている後ろ姿の、その後ろで二時間くらい、じっと座っているのだ。六時になる頃には私も弟妹も家にいたけれど、居間でテレビに釘付けだったから、その状態には気づけなかった。七時も過ぎて父が仕事から帰ってくると、夕食。六人で食卓を囲む。私と弟妹は思い思いにおしゃべりをする。ひとしきり話し終わった頃、祖父が口を開く。ときどき意味の分からないことを言う。話が通じないことに、私たちはイライラし始めて黙ってしまう。父が間に入って話すけれど、お酒の入っている祖父は興奮しやすく、時々興奮しすぎて母に当たった。祖父が母に当たると父も頭に血が上って、怒鳴り合いになる。しまいには祖父が「そんなに邪魔なら殺せ!包丁で刺せ!」などと叫んで、部屋に籠もってしまう。こんな日々が続いた。
今思い出すと、この頃にはまだらボケが始まっていたのかもしれない。それで執拗にいろいろと尋ねたのかもしれない。私も弟妹も、学校がお昼頃で終わった日は居間でテレビを見たり、宿題をしたりしていた。そのとき、祖父がいつも居間にあらわれて話をしようとするのをうっとおしがっていた。なにも分かってない子供なんてワガママなもので、無視して自室に籠もることもあった。食卓を囲んでいるとき、怒鳴って気分をめちゃくちゃにする祖父の理不尽さも大嫌いだった。
学校でもいろいろあるというのに、「殺せ!」と怒号の響く家は気が休まらなくて大嫌いだった。弟は、高校生になると、わざと夜遅く帰ってくるようになった。父が叱ったが聞く耳を持たなかったし、男の子だと言うこともあり、いつしか容認されていった。私にはそんな要領のよさはなかったし、妹はまだ小学生だったから、毎晩のように繰り返される怒鳴り合いをそばで聞いているしかなかった。
私が大学への進学を考えた頃、両親は地元大学を勧めたけれど、私は県外の大学に願書を出した。願書を出す直前までは、後期試験は地元を受けると言っていたくせに、結局後期試験の願書も県外の大学に出した。今思えばふざけた話だが、初めての反抗らしい反抗だった。県外の大学に進学した後は、部活、バイト等、わざと忙しくして下宿にいないようにしていた。家からの電話が憂鬱だったからだ。下宿に居ないのを両親に詮索されるのも嫌だったし、なにより、家族の誰かが別の誰かを殺したという電話がいつか入ることを本気で心配していたのだ。講義がない時期には帰省が憂鬱だった。夏も冬も理由をつけて、一週間くらいしか家に帰らなかった。家に帰るとおなじみの怒鳴り合いの日々だった。帰って一、二日は静かだが、三日目を過ぎると怒鳴り合いが始まる。家から下宿に戻った後はますます電話が怖くなった。酷いときは電話線を抜いた。
一歳下の弟も大学に進学して、家を離れた。家は、祖父と両親と妹だけになった。私たちは両親と妹を犠牲にしたのだと思う。
大学三年の夏、父から電話がかかってきた。この時は不思議と電話を取る気になった。電話の内容は中学生の妹のことだった。食事を全く取らなくなったという。父は毎晩のように妹の訴えを聞いていたけれど、最後には「頑張れ」と言うしかなく、なにもできないまま悪くなったという。妹に対しては罪悪感があった。夏休みはほとんどを家で過ごした。
家に帰ってすぐに父と話した。母にはもう無理だからと言われ、母のお薬手帳を見せられた。そこに並んでいる処方薬の名前を調べると、抗精神病薬ばかりだった。母は頻繁に被害妄想を訴えるようになっていた。最初は、家に祖父と二人でいる間、いつも祖父が後にいるから怖いという訴えだった。それがいつの間にか、家の中で誰かに監視されている、家の中に盗聴器がある、近所ぐるみで監視している、警察に狙われている、と徐々に変化していった。祖父の行動ひとつひとつが、何者かによる母への攻撃であるかのように見えていたようだ。父は祖父に、母を刺激しないように何度も言ったが、祖父はその場では返事をするものの、すぐに忘れてしまうらしく、全く変わらなかった。
その日会った妹はどこか異様だった。何を聞いても無表情で「うん……」と、けだるそうに返事をするだけ。本当に食事を取らなくなっていた。一口食べて箸を置き、体がだるいのかすぐ居間で横になる。重症だと思った。その日の晩、私が自室でうとうとしかけている頃、妹が枕を抱えて部屋に来て「一緒に寝ていい?」と言った。招き入れると、妹はしばらく黙っていたが、突然堰を切ったように話し始め、もう無理だと訴えた。妹は、いつか家の中で殺し合いが起こるといって怯えていた。母の被害妄想が始まってから、夕方の台所で母と祖父の言い争いが起こるようになった。妹はなるべく早く学校から帰り、食事の準備をしている母のそばにずっといた。妹がいる間は、母は穏やかで、祖父の機嫌もそう悪くはならないから。妹は毎日のように母の愚痴を聞いた。しかし状況は変わらず、母は夜中に突然飛び起きて、怖いと言って泣くようになっていった。妹の部屋は両親の寝室のすぐ隣だったから、母の泣く声で眠れないこともしばしばあったという。学校の人間関係は、妹にとってあまりよくない状態で、妹の気が休まる時間はどこにもなかった。妹は、父には何かしてくれるようには言えないという。父は毎晩のように祖父と戦っていたし、母をなだめるのでいっぱいいっぱいだから、これ以上無理はさせられないと。
父に遠慮している妹には悪いと思ったが、現状を父に伝えた。その上で、父にはしばらく黙っていてもらうことにした。妹の体調があまりよくないこともあり、病院に連れて行った。妹は検査で採血をされ、胃カメラを飲み、点滴を打たれて「病人みたい」と笑った。「検査に異常はないから精神的なものだと思う、食べられないのが続くようなら精神科を紹介するから様子を見て」と言われた。その日からしばらく、妹は私にべったりと甘えていた。何をするにも一緒だった。帰省してきた弟は、帰ってくると真っ先に「おい大丈夫か?」と言った。進学して家を出てから、これだけ長い間弟妹と一緒にいたのは初めてだった。三人でくだらない話ばかりした。「この家、超不幸だ」と言いながら笑った。妹は、プリンやゼリーから始めて、普通の食事も少しずつ摂るようになった。妹が笑うようになった頃、大学の講義が始まって時間切れ。私はわざと忙しくするのを止め、電話を取るようになった。
その後もしばらく膠着状態だった。祖父も母もあいかわらずの調子で、間に立つ父は本当にたいへんな思いをしただろう。
私が大学を卒業した頃、状況がますます悪い方に動きはじめた。昼間のうちに家のあちこちに水たまりができ、家族がしばしばそれを踏んづけるようになった。水たまりの犯人は祖父。時々失禁をするようになったのだ。何度注意しても改善せず、おむつを勧めても頑として受け入れない。以前は熱心に畑に出ていたのに部屋に籠もることが多くなり、同時に食事や入浴を忘れるようになった。部屋に籠もる一方で、ふらっといなくなることもあり、連絡をもらった父が慌てて迎えに行って頭を下げるのだ。時々真夜中に近所の家を訪ねることまであり、消耗した父は何度も祖父に「勘弁してくれ」と土下座したが、状況はまったく変わらなかった。祖父は自分の状況が分かっていなかったか、分かっていてもどうしようもなかったのだろう。他にも、庭先に祖父がどこからか拾ってきた妙なガラクタが増えたりもした。捨てようとすると祖父が怒るので、だんだん量が増えた。祖父は車の免許を持っていたけど、ちょうどこの頃に庭先で車をぶつけたこともあり、危ないので免許証を取り上げて車の鍵を隠した。祖父が車の鍵に執着して家じゅうを探しまわるので、母が影響されて荒れることもあった。
さすがに近所にも親戚にも隠し通せなくなり、父は、隣県に住む伯母に相談した。伯母はその何年か前にヘルパーの資格を取っており、福祉関係の仕事も長いのでしばらく預かることを父に提案した。父も母も限界だったから、一ヶ月程度ということで祖父を伯母に預けた。庭先のガラクタを片づけ、荒れ放題になっていた祖父の部屋を片づけ、少し落ち着いたところで事件が起こった。伯母に預けた後、二週間も経っていないうちの出来事だ。伯母はその日も祖父に声をかけ、パートタイムの仕事に出かけた。伯母が帰ると、祖父がなにも持たずにいなくなっていた。すぐに探しに出かけたが、祖父は見つからなかった。警察やご近所に連絡し、数日経って、祖父が警察に保護されていると連絡があった。伯母宅からはずいぶん離れていた。祖父は警察に、家に帰せと主張していたそうだ。
父はこの時、もう自宅で見るのは無理だと思ったそうだ。病院で検査を受けるように祖父に勧めたが、祖父は昔から親は子よりえらいと思っている人で、このときも言うことを聞かなかった。父は、祖父が唯一頭の上がらない祖父の友人に状況を話し、祖父を説得してもらうことにした。祖父の友人は「もうずっと前からボケておかしくなっていることが分かっていたけど、言われるまで言えなかった」と、父に頭を下げた。祖父は友人の説得でしぶしぶ承諾し、父と友人に付き添われて病院で検査を受けた。
アルツハイマー型痴呆症には、根本的な治療薬がない。当時あったのは進行を抑えるだけの薬で、祖父を「治す」ことはできなかった。介護施設を探すことを医者から提案されたが、老人病院にも介護施設にも空きがなく、どこも順番待ちの状態で、診断がついても状況は変わらなかった。祖父の友人の協力を取りつけられたおかげで、祖父を説得しなければならないときにその人から強く言ってもらうこともできるようになったのはよかったが、祖父が内容を忘れてしまうことが何度もあったため、どれくらい効果があったのかは分からない。
注意して祖父を観察するようになると、物事をしっかり認識できているときと、そうでないときがあることが分かった。普通に過ごしていても、時々どこを見ているのか分からないような様子でいることが、しばらくの間続くのだ。その直後の祖父は決まって難しい顔をした。どこか悲しそうで、戸惑っているような表情。話しているときも、前後の文脈が分からなくなっている様子があった。つい一瞬前に話した内容を忘れてしまうのだ。そして何度も直前の話を聞き返す。説明しなおして話が繋がるときもあれば、辻褄が合わないままのときもある。その時の祖父の表情は、やっぱりどこか悲しそうで、戸惑っているようだった。いわゆるまだらボケと呼ばれる症状だ。頭がしっかりしているときは、その直前まで自分が呆けていたことを分かっていたのかもしれない。
診断がついてから何ヶ月も経って、家からそれなりに近い場所に介護施設が見つかったので、祖父を入居させる手続きをした。これで一件落着のはずだった。ところが、一週間後には「無理なので引き取ってください」と連絡が入った。何度も頼んだが、手に負えないから無理だと断られた。手に負えない原因は、主に精神的な症状だ。場所や状況を認識する能力が低下しているので、そこがどこなのか、なぜそこにいるのか理解できない。家にいたはずがいつの間にか知らない場所に連れてこられたと思いこみ、何度も脱走しようとした。止めようとしても、自分は被害者だと思っているから暴れる。祖父は身体も大きく、農作業で身体を動かしていたこともあり、暴れると抑えるのは難しかった。収集癖の悪化も災いした。他の入居者の部屋に入りこみ、物を自分の場所に持ち帰るのだ。職員が返すように言っても、自分のものだと言い張って返さない。そして他の入居者とトラブルになる。こんなことが入居直後から繰り返されたので、ついには断られたのだ。
それからは施設探し。祖父の身体疾患のこともあり、施設からは精神的に安定するまでは介護施設よりは病院に入った方がいいと言われた。受け入れてくれる病院などそうそうないから、しばらくは再び悪夢の日々。次の病院が見つかるまでに数ヶ月かかった。
鍵のかかった病院に入ってから、祖父はぼうっとしていることが増えた。薬の影響もあったのだろう。週に一度、一時間かけて病院に行き、洗濯物を預かり、祖父と少し話した。最初の頃は、よく歩いていると職員に聞かされた。その後、車いすに座ってぼうっとしていることがだんだんと増え、歩くことも減った。話しかけると「よく来たなあ」と笑った。祖父から話しをすることはあまりなく、もっぱら私たちの話を聞いた。しっかり話を聞いていると思うと、急にぼうっとしてしまうこともあった。もう慣れていたから、そんなものだと思うようになった。祖父の顔は、だんだん穏やかになっていった。
入院から半年ぐらい後のことだと思うが、祖父の状態が落ち着き、特別養護老人ホームに空きが出た。すぐに祖父をそちらに移すことになった。ホームには病院と同じように鍵がついており、入居者が自由になれるエリアは鍵の内側だけだったが、病院に比べると明るく開放的で、入居者が昼間に集まっているロビーの雰囲気も、なんとなく暖かみを感じるものだった。祖父をそちらに移してからも、週に一度、洗濯物を取りに行っている。施設に全部まかせることもできたが、父がその程度の面倒は見たいと言って譲らなかった。祖父は他の入居者とは少し離れた場所、ロビーのそばにある職員詰め所の入り口に、椅子を置いて座っている。職員は「いつもあそこに座ってますよ。よく分かりませんけどお気に入りみたいです」と言う。昔、警備をしていた名残だろうか。守衛として座っている時間も長かっただろうから。祖父に声をかけると「よく来たな」と私の名前を呼んで、にこにこ笑う。私が久々に祖父を見舞ったのは、ちょうどこの時期、少し暖かくなってきた頃だ。
その後も現在まで、父は週に一度は祖父を見舞い、祖父の洗濯を愚痴もこぼさず楽しそうにやっている。母は「お母さん、ノータッチだから楽でいいわ」と、のほほんとお茶をすする。一時期の被害妄想は、ほとんどなくなり、よく笑うようになった。家に寄りつかなかった弟は、遠方で就職したくせに「家の方が落ち着く」と、長期休暇のたびにぎりぎりまで長居する。妹は地元で大学に進み、家の中ではよい意味でワガママな振る舞いをするようになった。弟妹はときどき、父について祖父のところに行く。以前とは違う意味で家の中がやかましくなった。みんな、笑えるようになった。
私は結婚して家を出た。ときどき、父と一緒に祖父のところに出かける。このごろ祖父は私のことがわからなくなった。祖父は私を、祖父の娘の名前で呼び、話しかけてくる。私はにこにこしている祖父のために、にこにこながら受け答えをする。内心はかなり複雑だが、もしそれを表に出せば、また祖父を難しい顔にさせてしまうかもしれないから。同じ時間と場所を共有していても、祖父が見ている景色と、私が見ている景色は多分違う。それを共有できることももうないかもしれないが、いつも難しい顔をしていた祖父がにこにこと笑っているのだから、これでよかったのだと思いたい。
おれも胃カメラ飲んだことあるけど、胃カメラ飲んだときに感じた痛みは、その時わずらってた胃痛の倍くらいの痛みだったよ。「おいおい、胃痛より胃カメラ飲むほうが痛てぇじゃねーか」と心の中で失笑した覚えが…でもそれと同時に安心した。「あ、おれの胃痛はじつは大したことなかったんだ」って。
痛みの質が違うから、痛みの程度を胃痛とほかの怪我や病気とで比較するのは難しいけど、嫌さでいえば、胃カメラを飲む嫌さは歯医者で深い虫歯を治療するのと同じくらいかな。
歯医者と違って胃カメラ飲んで感じる痛みはほんの一時。ものの数分のことだから、胃痛が心配なら怖がらずに行ってみることをおススメする。
本人です。
皆の意見を読ませてもらいやしたが
あれは結局カメラだったのか何なのか…大体何もいれたことないから、いれたところでわからんのだよなあ。産婦人科って、股だけおっぴろげて医者と患者見えないように仕切りとかあるじゃんね。だから余計何やってるのかわからんし。まあ下からちょっと見えるからなんとなくはわからんでもないんだけど。
子宮がん検診もついでにやってもらうぜ!って思って馳せ参じたんだけど、股おっぴろげーした途端先生が「あれっ!?生理中ですか!?」って驚いてた。あやっぱ、血だらけの股じゃアウトでしたか。先生ビビったろうな。毛も剃ってないし。その上血まみれだぜ。き、汚ねえー!!しかも臭そう。臭そうっていうか、もう確実に臭かったよ私の股。臭い・汚い・血液まみれ、の3Kだよ。先生、可哀想。3Kの股見せられてかわいそう。まあ医者なんて全然見慣れてるんだろうけどさ。
いやでも生理痛見てもらうのは生理中がいいって聞いたんで……とかいって結局子宮がん検診は後日になったんだけど正直もう行きたくねぇー……。なんていうか痛いわけじゃないけどキモォッ!って感じ。うんこ逆流した感じ。耳かきしてたらはいってはいけないところにまで耳かきが届いちゃった感じ。医学もっと発達しねーのか?なんかこう……エコーで全部なんとかなるような感じに……うまい具合にさ……胃カメラとか断固やりたくないよ。私が胃カメラを必要とするときにはカプセル胃カメラみたいなアレが完成してるといいな……
そんで結局何がはいってたかはよくわからんのですが写真はもらったからなんか撮影してたことは確かなんすよね。
「はい、画面見えますか?これが右の子宮ですねー。きれいですね。何もないです」
って、わかんねえっつうの。子宮ですねとか言われても、胃と区別つかねえっつうの。
「ハァ……さいですか」とか股おっぴろげながらやる気ない返事するしかない。
「こっちが左の子宮です。うん。何もないですね」
まんこの中でカメラ的なものをぐるっと回した感じの感覚。ぬおっ。ナメクジを誤ってつぶした感じにキメエ!屁が出たらどうしようとか考え出す私。……先生……もしこいちゃったらごめん……ここでこいたら先生の顔にストライクです……
で結局「まあ、若さゆえでしょうね。子宮がまだ幼いんです。体に比べて」とか診察室で言われた。
ってまさかそれあれか?殿方と交わってないからみたいな?未成熟みたいな?青い果実みたいな?それは美化しすぎか。
ウッソーン。何?エロ妄想とかすれば子宮は育つんか?すくすく育つんか?でもエロい妄想なら結構してるんですけど…。先生その辺どうなんですか?やっぱエロですか?
とは当然言えず、
「ハァ……さいですか」と言うしかなく。
「痛み止めだしておきますよ」
って言われたけど私には既にサ○ウ製薬の心強い味方が(多分擬人化すると小池徹平的な)あるんで……アレマジ効くぞ!救急車呼ぶ前にも飲んだんだが、そしたら救急車に乗ってる間にそれがききはじめちゃったくらいだったから。それはそれで焦った。救急車つくまでは、「早よう、早うつけヤァアアアもうダメやわてもうあかん!!!もういい!今からマジで気絶するマジで。気絶したら痛みなくなる」とかいって頭ぶつけようとしてたくらいだったのに、救急車に乗ったあたりからドンピシャで効いてやがる、この薬。オイオイオイ今更かよぉー、人見知り激しいこの私がなんとかギリギリまで我慢してそれでもダム決壊してようやく呼べたっつーのにお前……今更何?!効いてきちゃうわけ!?やべえってそれはただでさえ「生理痛で呼んでいいものだろうか?」と悩んでネットで「生理痛 救急車」とかで傷みをこらえながら検索して「よし……呼んでる人……い……いる……」って確かめたくらいなのにお前……ここでお前おさまっちゃったらお前……救急隊員しらけるよ?!マジで。やべえよーどうしよ。医者に怒られる。「ただでさえ医療崩壊してるのにアンタって人は!」とか怒られたらどうしよ……やべーよ。痛み、寧ろ、一時的に復活せよ!とか私を悩ませたほど、効いた。
(後で「すみませんでした……こんな事で呼んで……」とか言ったらお医者さんは「いえいえいえそれはいいですよ。寧ろ、我慢せずに呼ばないとダメですよ。遠慮して取り返しつかない事になったら余計大変な事になりますから」と言ってくれた。処女だからそれだけで惚れそうになった。男の接点とか家族以外基本的に皆無だから)
まあ若さゆえならこの先年くうごとに治るんだからまあいっかー月一度だし薬飲めば大丈夫だろ。とあっさり復活したのだが(てーかグジグジ悩んでもしょーがないしな)寧ろそんなことより「まんこに結局カメラもしくはカメラ的なものが入ったのか?入らなかったのか?処女膜とかどうなったのか?」とかその辺の方が(いや最後はウソだけど)気になってしまった。あれがまんこにはいってたとしたら、寧ろ、案外痛くはなかったんだが、なんつーかキモいのだよね。「えっ?そんな後ろか?!」って感じ。「それもうほとんどケツの穴じゃねえ!?」みたいな。自分が股を意識する時って、処女だから、基本的に尿出すところを意識しちゃってるから。だから凄い不意打ちくらった感じで。
あっ。ていうか、処女ってやっぱ産婦人科の医者にバレたんだろうか!?
「この人この年齢で処女なのか……」とか思われてないだろうな。いやまないだろうけど。そんなに医者暇じゃないっつーのって話なんだろうけど。自意識過剰だけど。気になる。
友達に「つーことで救急車に初めて乗った。二度と乗りたくないけど」と言ったら意外と「私も乗ったよ。生理痛で」って子がいた。マージーでー。ブルータス、お前もか。腰回し運動がいいらしいよだの漢方マジ効くよだの情報交換となる。どうせ生理痛があるなら、どうしたらなくなるか開発してみっか。と前向きになってきた自分。妄想族なので、即座に新しい生理痛に効く運動を開発しベストセラーを出す自分とかを妄想しだす(こういう事は日常茶飯事。電車に乗ったら基本的に民家を飛び移る忍者を妄想している)そしてインタビューを受け、「そうですね。当時は私も処女だったので」とか言ってる自分を妄想。インタビュアーは「えーっ。そうだったんですかぁー?」と信じられないといった顔……とかそこまで一瞬で妄想しきった。マジで自重しろ私。
うん。私、救急車に乗ったりもしたけど、元気です……とか心の中で締めようと思ったら、友達が。
「そういえばさー。私、彼氏できてさ」
へー。そうなんだ。カレ……
ええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!
おまっ……今まで……同じ処女仲間だったのに……おま……
「この前ホテルいったんだけどー」
おおおお大人の階段のぼっとるううううううううううううううう
こ、こいつ……既に貫通済みか……と友人に対して男子中学生のような妄想をしてしまった。
まあある意味私も貫通済みだけどね。カメラで。だから多分私も彼氏がいるようなもんだと思う。日々彼氏を妄想してるし。ていうかこの前は妄想の中で出産したし。その上妄想の中で子供が成人式迎えて、私は定年退職して、おばあさんになって、最後は家の布団の中でねむるように死んで、息子と娘が、私の亡骸を燃やして出た煙を見つめながら「お袋……いい逝き方だったよな……」「そうね……」とか言ってるのを天国から見守って終了というところまで既に妄想してるからね。最早彼氏っていうか夫っていうか一度輪廻済みだから。
来年あたり初めての人間ドッグのお知らせが届きそうな増田ですが
となるらしいから自分は最初から胃カメラ飲もうかと思っています。
はいちょっとここから参加させてもらいますよ。
バリウムは炭酸飲む? グルグル体回す? 腹をグイグイ押される?
胃カメラを飲んで、咽頭反射でゲエゲエなって涙を流すのに比べれば、バリウムはよっぽど楽。
胃カメラはのどに麻酔をするので、検査が終わっても麻酔が切れるまで30分くらい、あご周りがへんな感じ。よだれが垂れたりする。
バリウムはこのとき特になし。牛乳ひげならぬバリウムひげを取るくらい。
しかしバリウムは、ここからが戦いの始まりだ。
入れたバリウムを出すのに下剤をもらうけど、もともと便秘気味の人はそこがつらい。
(anond:20070709150432みたいに)
しかもすぐに出さないと、大腸がバリウムの水分を吸収して、ますます出にくくなってしまう。
いつも快便の人はスポーンと出ちゃって平気らしいけど。
でもまあ、どちらも一度体験してみるといいっすよ。
書き忘れてた。
胃カメラは検査中、ナースさんが背中をさすってくれた。そういうのが好きな人はぜひ胃カメラで。(そういうサービスのない病院もあるかも)
健康診断にはちゃんと行ってるよ。
でもうちはちっちゃい会社だからか、バリウム検査どころか血液検査さえついてない。
「調子が悪くて心配だから血液検査やりたいんですけど」、っていったら
「自腹でやれ」って言われたので身銭を切ったよ。
バリウムも当然そうなるかな。
どっちにしても今年の健康診断は終ったから行くなら自前だけどね。
http://anond.hatelabo.jp/20070709145351
うーむやっぱ行くべきか。