はてなキーワード: 綿の国星とは
SF小説好き1480名に聞いた「絶対に読んどけ」っていうSF小説ランキング、という記事が話題だ。
ホコリの被った旧作(「古典」ではない)ばかり挙げられていて本当に辟易する。
SFはアイデアの新奇性、センス・オブ・ワンダーが重要なのであって、
今さらヴェルヌやウェルズを読んだところで、価値はない(ギブスンやディックも同様)。
そしてこういう「オススメSF」の話題になると必ず出てくるので『夏への扉』を薦めてくるやつだ。
はっきり言えるが『夏への扉』を薦めるやつは見る目がなく、センスに欠けていて、信用できないってことだ。
『夏への扉』は読まなくて結構。今からその理由を端的に3つ述べる。
『夏への扉』は猫好きなら読んでおくべき、みたいな薦め方もされる。
読んでみて驚いたのだが、これはまったくもって猫小説ではない。
では、猫は何なのかというと、主人公が猫を飼っていて、たまに触れられる程度。
一緒に行動するし、『夏への扉』というタイトルは猫の行動から来ているが、
猫が作品のテーマだったり、猫の行動が何かストーリーに影響を与えるわけでもない。
ただの添え物であり、これを「猫小説」だと思ってしまうやつは、どうかしている。
最近、『世界から猫が消えたなら』という小説が20万部?かそのぐらい売れていたが、
これもとんでもない愚作で、主人公が消失物について浅い思弁を展開するだけの小説とはいえない代物だった。
どうやら世の中には猫が出ていればほかはどうでもいい連中がいるようだ。
猫好きは『綿の国星』でも読みなさい。こっちは掛け値なしの名作です。
主人公が未来にきたのは「冷凍睡眠」によってなので、過去に戻ることはできない。
じゃあ、どうやって戻るのか・・・というのが肝になるはずだが、『夏への扉』は驚くべき処理をする。
たまたま未来世界で知り合った男が、たまたま時間旅行を研究しているマッドサイエンティストと知り合いなのだ!
そして、マッドサイエンティストを紹介してもらって過去に戻る・・・なんじゃそりゃ?
ほかのも「たまたま」で処理される部分はいくつかある。たまたま通りがかったとか、たまたま見逃した・・・とか。
それに未来に過去へと行ったり来たりするが、そこでタイムトラベルらしい伏線を張ったり、解消したりということはない。
例えば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』なら、「過去でのあの行動が未来にこう生きてくるのか!」という驚きがあるが、
『夏への扉』では一切そういうのはない。時間移動というより、単なる舞台移動にしかすぎないのだ。
『夏への扉』はタイムトラベルものとしても優れていない。プロットが杜撰な復讐ものなのだ。
『夏への扉』において、それは一緒に会社を興した男の義理の娘だ。
このヒロインは幼い頃に主人公になついていて、未来世界で主人公と結ばれる。
仲のいい少女がずっと思っていてくれて、未来で結ばれる、というロリコンの白昼夢のような展開だ。
ヒロインがなぜ主人公になついているのか、なぜずっと主人公を思っていてくれてるのか(何十年も!)、その説明がなされればいい。
ヒロインは理由なく主人公になついていて、理由なくずっと待っていてくれるのだ。
これをご都合主義と呼ばずしてなんと呼ぶ。私は読み終わって背筋が凍った。
こんな展開を「感動のラブストーリー」だと思っているやつもいるようで、SFファンはどうりでモテないはずだと合点がいった。
オールタイムベストの類では上位には入ってこないという。
『夏への扉』が人気なのは日本特有のことなのだ。それを知ってはは~んと納得がいった。
中身はないが、何だか心地よい。日本にはそういうものに騙されるやつが多い。
なんていったって『負けないで』みたいな中身空っぽな歌がミリオンになる国だもんな!
『負けないで』に励まされるやつってどんだけ寂しい人生を送っているんだろう。可哀想だ。
https://anond.hatelabo.jp/20220630040756
ブコメ返信書きました!沢山おすすめしていただいてありがとうございます!
知らないのも多くて嬉しい
好きな漫画探しても既読か知ってるか読んでも微妙以外が3%しかない!助けて!!
自分の好みど真ん中のやつ
キーワードにするとすこしふしぎ、日常物、児童書っぽさなどが好き
・モモ
・白乙一
長い道
クロクロク
虫と歌
働かないふたり
変身のニュース
足摺水族館
夜とコンクリート
無限大の日々
最果てアーケード
鞄図書館
バーナード嬢曰く
つづきはまた明日
雨柳堂夢咄
クレマチカ靴店
放課後保健室
GA学園
棺桶担ぎのクロ
夢の博物誌
二度寝してた……すまん
夢幻紳士(何篇かは忘れた)
あかりや(無料公開しているのにAmazonで買ってから気づいた)
https://www.mangaz.com/book/detail/46061
最果てのソルテ(水上悟志作品は完結済みだとサイコスタッフ、惑星のさみだれ、戦国妖狐読んでて戦後妖狐大好きだけど児童書よりは少年漫画寄りかな?と思って上げなかった。ソルテは児童書感が一番強いので一番に好きになりそう!)
銀のニーナ
なんてないことのふつうの夜に
春と盆暗
回転銀河
となりのロボット
ゆうてテガミバチもネウロもハガレンも大好きな人間なので別にとにかく面白いけどマイナーな漫画でも投げてくれて全然かまいません!小説映画曲アニメゲームドラマでも可
③なんでもいいので知らないおすすめ作品ぐらいの優先順位でお願いします。
児童書とラノベ読んで育ち漫画描き出してからは漫画ばかり読んでいるので他分野
ゲーム、映画、ドラマ、アニメ、女性向けの漫画は知識が薄いです。
つーわけで漫画に詳しいブクマカ頼みましたよ……私は寝ます……
無事本日の漫画増田になれたようで沢山ブクマでお薦めしていただきありがとうございます。
【宣伝】カシワイさんに影響受けてた時に描いた漫画まとめてるから、すこしふしぎ日常ファンタジー短編読みたい人は読んでみてね!
https://twitter.com/i/events/1446098829112070146?s=21&t=vKyvx4ZJwyhLKOX26W6q6Q
両親は共に49歳。書籍の書庫と漫画だけの書庫が1部屋ずつあるぐらいの本好き。
子どものころから姉と漫画の書庫に入り浸って片っ端から読んだ。
その中から、昭和の漫画で面白かった記憶のある作品を30作並べた。
作者が重複しないようにしたので、純粋な「最強順」ではない。
あと、30作並べた段階で、本当に昭和の作品なのかを確認したところ、完結が平成にかかっていたとか、よく考えてみればまだ連載中だったとかいった作品が4つあったので、昭和で完結した作品を4つ足して計34タイトルになった。許せ。
最初は父と母のどちらの蔵書かも書いていたのだけど、ごちゃごちゃするので省いた。
要はhttps://anond.hatelabo.jp/20220510105802の便乗だが、記憶をたどり、本当に昭和の作品かを確認するのにえらく時間がかかった。
32 きまぐれオレンジ☆ロード(まつもと泉)
30 闇のパープル・アイ(篠原千絵)
22 はっぽうやぶれ(かわぐちかいじ)
19 僕の唄は君の歌(柴門ふみ)
作者しばりで入れなかったもの
・愛のさかあがり(とり・みき)
作者のウェブサイトが見つかったのだけど、どうやら連載は昭和のうちに終わったものの、単行本は平成になってから出たらしいので除外した。
http://naomipro.com/manga-archive/asasuzume/
父と母が付き合ったきっかけがこの漫画って聞いた。確かにめちゃくちゃ面白いんだけど(実はヤヌスの鏡よりも好き)、こっぱずかしいので除外した。
【追記】
元ネタに合わせて1万冊のままにしたけれど、たぶん1万冊まではない。
【追記2】
父が母におすすめの少女漫画を尋ねて、母が「金と銀のカノン」を貸したらドはまりして、それから本の貸し借りを頻繁にするようになったらしい。
https://ta-nishi.hatenablog.com/entry/2022/02/23/132151
実際、すでにSNSでいくらでも似たようなことは起きていて、それを「ブログ上でやる」というのが、この記事の唯一の新しさだといえる。が、そこがおもしろい。
ブログというものがなんであるか、なんて話になるとややこしいことになるわけだけど、少なくともこの方の場合は「そのときどきに考えたことをまとまった文章で表現して公開する」ということでわりと一貫している。こうしてできあがったものは、いってみれば壮大な自己紹介みたいなものだ。それがだれでも見れる状態で公開されているというのは、実はすごいことなんじゃないだろうか。
もちろんツイッターだって眺めていれば「だいたいこんな人」というのは理解できるわけだけど、ある程度の長文となると、そこに刻印された人間の質量がでかい。特に書くことに真剣に向き合っている人はそうだと思う。考えてみれば、動画やSNSよりもはるかにごまかしの効かないメディアなのではないだろうか。まあ読むほうにもそれなりの文章読みとしての訓練は要求されるけど。
雑にいえば、ブログなんて文章による個人メディアである。新しいことってだいたいなんでもそうだけど、こうやって実際にやってる現場を見ると「なぜいままで、だれもブログを婚活に利用してこなかったのか」と不思議になるほど相性がよい。そうか、この手があったか、という感じだ。まあ前提条件としてブログを継続することじたいが大変とか、そもそも読まれるかどうか問題もあるわけですけど。一部の人しか選べない方法ではあるよね。それでもおもしろいと思う。
人類における家族って、基本的には、強制的再生産装置でありつづけてきたと思ってる。けど、いまそれが崩壊しつつある。本能なんて言葉にうかつに頼るのは好きじゃないが、どうやら人間は、一人で過ごすよりも、だれかと一緒にいたほうが快適ないきものらしい、というのが最近の印象である。だから、人類はそれでもなにか、新しい、線としての同居形態を生み出すんだと思う。これは希望とかいうよりも「そうでしかあれない」という絶望のほうが個人的にはやや強い。
別にこのブログの記事がそうだというわけではない。これは試みの一つに過ぎない。たぶんこの瞬間もどこかで人目につかないかたちで発生してる無数の試みのうちのひとつだ。仮にこれがうまくいったとしても、フタ開けてみたらふつうの夫婦になってて、単にきっかけが変わってただけってことになるのかもしれない。それはだれにも(たぶん本人にも)わからない。
あくまで他人事として見るのなら、こうした新しい試みはその結果を見届けたい。次になにが来るのか。どうやって人間は幸福を求めるのか。新しいかたちはあるのか。
だいぶ昔に読んだのでうろ覚えなんだけど、綿の国星というマンガで「お父さんもっと子猫じゃらじゃら出して。新しい方式で」というような一文があった。おそらく死ぬまで一人で生きるんだろうなと思ってた当時の自分は、その文章に、希望と絶望と諦念が入り混じったような震えを感じた。たぶんそのとき以来だと思う。子供をつくるつくらないはさておき、自分が育ってきたゴミみたいな崩壊家庭ではなく、なにか新しいかたちがありうるんじゃないかと考えるようになったのは。
繰り返すが、このブログの記事が正解だという話ではない。どうやら一人でいるよりもだれかと一緒にいるほうが幸福になりやすいらしい、人間といういきものが、新しい方式で幸福を求めること。そこに最大の関心がある。思考実験ではなく、現実にこうやって行動に移した人がいる。そこに敬意を表する。
はてブコメントで屢々「これはオタクの小児性、幼稚性を批判しているのであって、オタク『差別』ではない」というコメントを見ることがあるが、このようなオタク差別意識の根底には「いい歳をした男が、漫画やアニメにうつつを抜かすのは恥ずかしい」という考え方がある。
それを恥ずかしく感じて表明する人間は誰か、つまり「恥ずかしく感じる主体は何者か」ということを考えねばならない。それは「男性」であり、なかでも「いい歳をしたオッサン」である。特に「他人に対して説教やマンスプレイニングすることが大好きな、中高年オッサン」である。
マンスプレイニング大好きオジサンが、何故、漫画やアニメを恥ずかしく感じるのか?それは彼らが「漫画やアニメなんぞ、オンナ・コドモが熱を上げるクダラナイものに過ぎない」という意識を持っているからである。なお、この時に「オンナ・コドモ」という括り方がされるのも特徴的である。
はてブで「オタクの小児性、幼稚性を批判する」コメントを書き込む人間たちを見れば一目瞭然だが、彼らがそこで批判する対象は、常に男性オタクである。彼らが、女性オタクの小児性や幼稚性を「批判」することは決して無い。何故だろうか?それは、彼らのようにオタク叩きの説教が大好きなオジサンたち自身が、いい歳をした年寄りであり、オタク文化に関する昔の記憶を持っているからである。(そういう意味で言えば、オタク叩きは「近親憎悪」である。大なり小なりオタク文化に近しい人間でなければ、オタク文化に関する記憶など持ちようが無いのだから。)その記憶とは「漫画アニメはオンナ・コドモのもの」というものである。
漫画やアニメのオタク文化が成立するには、多数の女性ファンの力が大きく寄与してきた。これは事実である。昭和の頃からオタクをやっている人間ならば、あの頃の女性アニメファンは、ボルテスファイブやゴッドマーズの美形キャラにキャーキャー言っていたことをよく覚えている。雑誌アニメージュは、ゴッドマーズの美形主人公がベッドから飛び起きる場面を載せて「キャッ!もしかして裸?!」とキャプションを付けたり、ルパン三世やサイボーグ009に宛てた女性アニメファンからのイラスト付きラブレターを掲載したりしていた。
また、現代の萌え絵に連なる絵の描き方も、遡ればオタク文化に参加していた女性たちの感性やテクニックがルーツである。例えば、猫耳が『綿の国星』にルーツを持つのはその一例である。(したがって、現代のオタク文化においても萌え絵的な絵を描く女性クリエイターたちが少なくないのは、当たり前なのである。それは、そもそもの起源からして彼女たちのものだったのだから。)
マンスプレイニング大好きオジサンたちは、女性オタクの小児性や幼稚性を批判しないことは、既に述べた。しかし、それは何も、彼らが女性の意思や主体性や尊厳を尊重しているからではない。むしろ全くの逆であって、彼らは女性のことを心の底で見下しているのである。マンスプレイニング大好きオジサンたちにとっての女性とは、コドモと同じく「人間未満の存在」である。同じ人間未満の存在だから、十把一絡げにして「オンナ・コドモ」扱いするのである。人間未満の存在がクダラナイものに熱中する(ルパン三世やサイボーグ009に恋したりする)のは当たり前に思えるから、わざわざ叩くほどのことではないというだけの話である。最近セクハラで話題になった某ラーメン評論家が、得意気に「自分はオンナ・コドモには手を上げない」と書いていたのと、根っこは同じである。対等な存在として女性を見ておらず、犬猫に優しくするぐらいのつもりで、女性オタクをお目溢ししているのである。
オタク叩きが大好きな高齢マンスプレイニングおじさんたちは、女性が主導権を握る文化、女性が男性に影響を与える文化を憎んでいる。そして、男性オタクの存在は、そのような女性が主導権を握る文化圏の存在を思い起こさせる。それ故に、高齢マンスプレイニングおじさんたちによる攻撃対象になるのである。
はてブコメントで屢々「これはオタクの小児性、幼稚性を批判しているのであって、オタク『差別』ではない」というコメントを見ることがあるが、このようなオタク差別意識の根底には「いい歳をした男が、漫画やアニメにうつつを抜かすのは恥ずかしい」という考え方がある。
それを恥ずかしく感じて表明する人間は誰か、つまり「恥ずかしく感じる主体は何者か」ということを考えねばならない。それは「男性」であり、なかでも「いい歳をしたオッサン」である。特に「他人に対して説教やマンスプレイニングすることが大好きな、中高年オッサン」である。
マンスプレイニング大好きオジサンが、何故、漫画やアニメを恥ずかしく感じるのか?それは彼らが「漫画やアニメなんぞ、オンナ・コドモが熱を上げるクダラナイものに過ぎない」という意識を持っているからである。なお、この時に「オンナ・コドモ」という括り方がされるのも特徴的である。
はてブで「オタクの小児性、幼稚性を批判する」コメントを書き込む人間たちを見れば一目瞭然だが、彼らがそこで批判する対象は、常に男性オタクである。彼らが、女性オタクの小児性や幼稚性を「批判」することは決して無い。何故だろうか?それは、彼らのようにオタク叩きの説教が大好きなオジサンたち自身が、いい歳をした年寄りであり、オタク文化に関する昔の記憶を持っているからである。(そういう意味で言えば、オタク叩きは「近親憎悪」である。大なり小なりオタク文化に近しい人間でなければ、オタク文化に関する記憶など持ちようが無いのだから。)その記憶とは「漫画アニメはオンナ・コドモのもの」というものである。
漫画やアニメのオタク文化が成立するには、多数の女性ファンの力が大きく寄与してきた。これは事実である。昭和の頃からオタクをやっている人間ならば、あの頃の女性アニメファンは、ボルテスファイブやゴッドマーズの美形キャラにキャーキャー言っていたことをよく覚えている。雑誌アニメージュは、ゴッドマーズの美形主人公がベッドから飛び起きる場面を載せて「キャッ!もしかして裸?!」とキャプションを付けたり、ルパン三世やサイボーグ009に宛てた女性アニメファンからのイラスト付きラブレターを掲載したりしていた。
また、現代の萌え絵に連なる絵の描き方も、遡ればオタク文化に参加していた女性たちの感性やテクニックがルーツである。例えば、猫耳が『綿の国星』にルーツを持つのはその一例である。(したがって、現代のオタク文化においても萌え絵的な絵を描く女性クリエイターたちが少なくないのは、当たり前なのである。それは、そもそもの起源からして彼女たちのものだったのだから。)
マンスプレイニング大好きオジサンたちは、女性オタクの小児性や幼稚性を批判しないことは、既に述べた。しかし、それは何も、彼らが女性の意思や主体性や尊厳を尊重しているからではない。むしろ全くの逆であって、彼らは女性のことを心の底で見下しているのである。マンスプレイニング大好きオジサンたちにとっての女性とは、コドモと同じく「人間未満の存在」である。同じ人間未満の存在だから、十把一絡げにして「オンナ・コドモ」扱いするのである。人間未満の存在がクダラナイものに熱中する(ルパン三世やサイボーグ009に恋したりする)のは当たり前に思えるから、わざわざ叩くほどのことではないというだけの話である。最近セクハラで話題になった某ラーメン評論家が、得意気に「自分はオンナ・コドモには手を上げない」と書いていたのと、根っこは同じである。対等な存在として女性を見ておらず、犬猫に優しくするぐらいのつもりで、女性オタクをお目溢ししているのである。
オタク叩きが大好きな高齢マンスプレイニングおじさんたちは、女性が主導権を握る文化、女性が男性に影響を与える文化を憎んでいる。そして、男性オタクの存在は、そのような女性が主導権を握る文化圏の存在を思い起こさせる。それ故に、高齢マンスプレイニングおじさんたちによる攻撃対象になるのである。