はてなキーワード: 精神病院とは
(http://anond.hatelabo.jp/20120206103920)の続きです。
東京都自殺相談ダイヤルは自殺未遂者の周囲の人間に対して何の助けにもならない事がよくわかり、
次は警視庁総合相談センター(http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/soudan/sougou/sougou.htm)に電話をかけた。
ここでようやく事態の重大さに気づいてもらえたものの、結局のところ所轄の警察署の生活相談課に相談してほしいとのこと。
いつまでたらいまわしにすれば気が済むんだよ、もう見捨てるぞ!おい!という気持ちを無理やり抑え込み地元警察署の生活相談課に電話。
すると「まず相手の親に助けを求めろ」との事。
とっくに相談してるのに何もしない、自殺未遂をしたと話しても相手の親は様子も見に来ないと伝えると
「相手を傷つけるか、自分を傷つけるかしないと警察は動けない」と言われる。
傷ついてからじゃ遅いだろう、もうロープに首をかけるところまでいってるんだよ!と言うと
「それなら警察でも保護できる。ただ、一度警察署まで来て事情をもう一度説明してください。
きちんと書面を作らないといけないので」
この国は自殺者を減らそうなんて本気で考えてないんだね、ニッコリ。
■追記
元記事
http://yorogame.blog137.fc2.com/blog-entry-513.html
9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。
また、ネットとTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネットの人間がTVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。
そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上位である憲法の重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。
現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法の理念に基づいた行動というのを国民が意識するようになったら、憲法の解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。
そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙で当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民にポジティブな意識、モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVもネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。
そしてネットとTVと新聞の世界を繋げるために、政治家はTVで希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。
大阪の政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。
また考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国等海外で人気があり日本でも知名度の高いこの文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。
私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネットのTV、新聞がどのような役割を果たしているかということある。
TV・新聞といったオールドメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネットが日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から、今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。
まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である。
という見知でこの文章では、各メディア(主にネット・TV・新聞)の主張を捉える。
そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民の感情について考える。
まず、311の地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。
この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。
私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫氏である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。
当然である。原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。
そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。
私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見が交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年~一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会に意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。
その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織が善意でネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTVの比重が大きい人間に、ネットの情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。
だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人が原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人は政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報は政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本のネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発の科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民の意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネットの情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。
原発の科学的情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的の効果を最大化させるために取り得る方法は何か。
国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民は政治に希望と期待などのプラスの感情、モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報を自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。
当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付けが全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。
それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院に入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。
病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語の勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダーに全然アクセスしなかった。
それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当にblogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福を志向する事の美しさみたいなものを学んだ。
話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットのblogにも情報は届くからだ。
そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。
その方法論を私なりに書きたい。
まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法は理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。
また、ネットとTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネットの人間がTVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。
そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上位である憲法の重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。
現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法の理念に基づいた行動というのを国民が意識するようになったら、憲法の解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。
そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙で当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民にポジティブな意識、モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVもネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。
そしてネットとTVと新聞の世界を繋げるために、政治家はTVで希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。
大阪の政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。
またこれらの考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国等海外で人気があり日本でも知名度の高い蒼井そらが社会の理想と希望について語りながら、性的な事を行う映像を創ることもまた効果的であるといえる。
その理屈を使って、ネット上で論じられる著作権問題を憲法が持つ全体の利益という視点を重視して、多少厳密さを欠いたうえで語るなら、インターネット上の無料コピーは日本人が一般的に思っているほど、あまり悪いこととも言えないという理屈も導ける。
ネット上の無料コピーによる、著作権侵害が違法であるといっても、動画サイトで見るのは良いが、ツールを使って落とすのはよくないとかそういうのは根本的に考えたら些末な問題でやってることは本質的には同じとも云える。それを差異があるように演出しているのはあまり社会を善くするという意味は無いと云う事もできる。なぜなら、どのような方法であれネット上で無料コピーにより著作権を侵害するという行為によって逮捕される人は現状、全然居ないに等しいからだ。なのでこのような違法としていて一部はそれを遵守せよ!と感情的になっているがその視点は近視眼的ということもできる。そういったあまり根本的に考えなていない意見によって脅迫をかけるような同調圧力と化していると思う。全体の利益という視点を重視したら、違法としててもろくに取り締まりもおこなっていないやったもん勝ちみたいな、現状の無料コピーに対する意識というのは不自然です。赤信号は場合によっては無視してもいいという意識は誰でももっているように、無料コピーにしても、目立つ形でやった人間以外ととても運の悪い人以外には、取り締まりなど無いに等しいから、やるのは個人の判断で赤信号を渡ることと似たようなこと。という意識を多くの国民がもっていたほうが国家としては健全だと私は思う。その国民の意識に応じて法を変えれば良い。
そのようなそこの浅いときに、脅迫的ともいえる同調圧力意見というのはネットにはありふれていて、その思考方法を変化させるためにも、国家はどうあるべきかという形を分かり易く国民全員に伝えなければいけないと思う。
(終わり)
日本のメディア間の隔絶について 日本のおけるネットとオールドメディアの最適な関係の構築方法の模索
この文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。
私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネット、TV、新聞がどのような役割を果たしているかということある。
TV・新聞といったオールドメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネットが日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から、今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。
まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である。
という見知でこの文章では、各メディア(主にネット・TV・新聞)の主張を捉える。
そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民の感情について考える。
まず、311の地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。
この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。
私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫氏である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。
当然である。原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。
そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。
私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見が交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年~一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会に意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。
その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織が善意でネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTVの比重が大きい人間に、ネットの情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。
だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人が原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人は政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報は政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本のネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発の科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民の意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネットの情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。
原発の科学的情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的の効果を最大化させるために取り得る方法は何か。
国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民は政治に希望と期待などのプラスの感情、モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報を自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。
当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付けが全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。
それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院に入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。
病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語の勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダーに全然アクセスしなかった。
それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当にblogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福を志向する事の美しさみたいなものを学んだ。
話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットのblogにも情報は届くからだ。
そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。
その方法論を私なりに書きたい。
まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法は理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。
また、ネットとTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネットの人間がTVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。
そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上位である憲法の重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。
現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法の理念に基づいた行動というのを国民が意識するようになったら、憲法の解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。
そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙で当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民にポジティブな意識、モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVもネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。
そしてネットとTVと新聞の世界を繋げるために、政治家はTVで希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。
大阪の政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。
また考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国等海外で人気があり日本でも知名度の高い
この文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。
私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネットのTV、新聞がどのような役割を果たしているかということある。
TV・新聞といったオールドメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネットが日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から、今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。
まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である。
という見知でこの文章では、各メディア(主にネット・TV・新聞)の主張を捉える。
そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民の感情について考える。
まず、311の地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。
この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。
私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫氏である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。
当然である。原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。
そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。
私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見が交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年~一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会に意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。
その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織が善意でネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTVの比重が大きい人間に、ネットの情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。
だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人が原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人は政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報は政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本のネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発の科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民の意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネットの情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。
原発の科学的情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的の効果を最大化させるために取り得る方法は何か。
国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民は政治に希望と期待などのプラスの感情、モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報を自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。
当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付けが全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。
それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院に入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。
病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語の勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダーに全然アクセスしなかった。
それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当にblogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福を志向する事の美しさみたいなものを学んだ。
話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットのblogにも情報は届くからだ。
そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。
その方法論を私なりに書きたい。
まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法は理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、Permalink | トラックバック(0) | 04:44
入社直後から、体調不良でよく休み、人事に怒られ、落ち込んで夜眠れず、また体調不良の負のループ。
人事の言葉はいつも辛らつだった。「期待していたのに裏切られたわ」と、入社一ヶ月で言われた。お前に騙されて採用したと。
「お前は頭がおかしいから、精神病院を受診しなさい」と、病院のリストを渡されて、今すぐ電話をして予約しなさいと迫られた。予約するまでこの部屋から出さないと言われ、頑なに拒否し続けて、気づいたら三時間経っていた。安全配慮義務おそるべし。
あれだけ抵抗したものの結局、辛すぎて自分で心療内科を受診することを決めた。薬を飲んでも、辛いままだった。一ヶ月経った頃、休職することにした。
復職したら、閑職に回された。当然だ。自分の作った書類は、4人の先輩がチェックした。本当に厳しかった。思い出したくないから書かない。人事部の近くの席で、「一度悪いことをした人は、また必ず悪いことをするわ」「また間違えて精神病患者を採用しないためにはどうすればいいだろうか」「やっぱり現役で有名大に入った人は打たれ弱くてだめね」なんて聞こえてくる。僕は罪をおかしたのだろうか。
就業規則には、著しく精神に異常のある者は解雇されると記載されていたが、解雇はされなかった。自己都合退職をして欲しいのかと思えば思うほど、意地を張って、耐えた。
休職前は仲の良かった同期や先輩が、休職を期にどっと離れて、復職後も少しずつ離れていった。今思えば復職後の方が、精神の状態が悪化していた。心配してくれた人につい愚痴をもらせば人事部に密告され、と言うことが何度かあり、誰に対しても、心を開けなくなっていたからだ。
一度、珍しく一人で書類整理を任された時に、自分より先にうつ病で退職した先輩の名前が書かれたファイルを見つけた。中を開くと、発症前後の行動、メールを裏ルートで抜き出したログや、経過などがボロクソに記されていた。僕の記録も必ずあるはずだとゾッとした。
管理職の何人かは「お前は必ずやり直せる。焦らずに、少しずつ回復していけ」とこっそり励ましてくれたけれど、うつ病患者となり飼い殺されている僕を笑う同期や先輩たちの心無い言葉に負けそうになった。いや、完全に負けていた。
それでも、最後のプライドで意地でも居座ってやると思っていたし、「僕には他に行くところなんてない」と思っていたけれど、結局転職した。業界では平均年収の高い企業だったが、僕の給与はとても生活できないものだったからだ。
「もう限界なので、退職します」と話した時、応援してくれていた課長は、残念だと言った。その瞬間から、上司と部下の関係が終わった。
人事から「よく見つかったね」「今より給与下がるでしょ?いいの?」最後の最後まで嫌味を言われたが、耐えた。
それでも、所属部署の人たちが送別会を開いてくれて、お花をいただいた時、「頑張ってね」とエールを送っていただいた時は、会社に何一つ貢献できなかった事を本当に情けなく思った。
入社当時は仲の良かった同期や先輩は、最後までノーコメントだった。何度も退職する人に色紙を書いてきたが、自分はそのようなものをいただく権利はなかった。一人で帰路につく僕を、営業部のやつらが笑っていた。僕は彼らに、何か悪いことをしたのだろうか。
それ以来あの会社の人とは会っていない。
転職して2年が過ぎた。会社を辞めてすぐに、心療内科を卒業した。本当にあっさりと、「もう薬を飲まなくていいですね」と主治医は言った。その半年後に、内臓疾患が発覚した。やっと、あの身体のだるさの本当の原因が分かった。これは今でも治療を続けている。
時々、あの会社の人たちにとっての僕は、今でも人間のクズなのだと思うと、叫び出したくなる。忘れているに違いないけど、完全に記憶を消し去れるわけではないのだ。フェイスブックやツイッターで、会社を賞賛する元同僚の書き込みや、同期同士の飲み会の写真を見て、絶望したりする。そう、僕は2年経っても、縛られ続けている。
今の会社では普通に過ごしている。可もなく不可もなく。取引先のやり取りもチェックなしに進めさせてもらえるし、たまに褒められたりする分、僕なりに成長したのではないだろうか。しかも、こんな僕に前の会社より高い給与をくれる素晴らしい会社だ。
僕はこの会社で罪を償いたい。もっともっと利益をもたらせる社員になる。
そうすれば、いつか許される日が来るだろうと信じている。
大学時代、とある講義で使ったテキストに『精神疾患の要因には、遺伝的要因と環境的要因の2種類がある』と書かれていた。
教授は眉間に深く皺を刻み、苛立ちの隠せないざらついた声で、室内の学生に命じた。
「これは間違いだから、遺伝的要因の部分を黒く塗りつぶせ」と。
随分と古い文献を参照しているのだなと、教授は憤っていた。
4年前、兄は統合失調症を発症した。元々、ストレスを感じやすい人だった。
こういう病院に行くことになったから、と母から資料が手渡された。精神病院のパンフレットだった。
父は4人兄妹で、そのうち3人が自律神経失調症を患っていたことを、その時に知った。
叔父の息子(つまり従弟)が長い間入院しているのは、兄と同じ病気に罹患しているからという事実も、同時に。
笑いたくなった。父から子へと、遺伝しているじゃないか。テキストの記述が正しかったんじゃないか。
腹を抱えて笑いたくなった。偽善者め。あの講義をした教授に後ろから飛び膝蹴りを喰らわせたかった。
出来なかったので、代わりにテキストを開き、塗りつぶした箇所の上に修正テープを貼り、それから「遺伝的要因」と書き直した。
兄は、そして私も、もう結婚してもいいような年頃だ。両親にはそろそろ孫の顔が見たいと言われている。
しかし、少なくとも私は、結婚する気はない。万が一結婚することになっても、子どもを産むつもりは毛頭ない。
少し前、胎内にいる子どもに障害があることが発覚したら、産むか産まないかという討論があった。
普通の人にとって、何らかの障害を持つ子どもを授かる確率は、1000分の1とか10000分の1とかの、比較的低い確率である。
しかし、私自身の場合はどうだろう。普通の人よりは、高い確率であるだろうと思う。
障害は個性のひとつ。素敵な言葉だと思う。これが常識となった世の中は、お花畑のような素晴らしさなのだろう。
兄のことを馬鹿にするわけではないが、障害は、重い。妹である私がそう思うのだから、親として兄を背負う父母の負担は大きいはずだ。
そして、自分の子どもがそうなってしまったとき、私には耐え切れる自信はない。
兄はこれからどうなるのだろうか。障害をなるだけ軽くし、自立しようと、兄は努力を重ねている。
しかし、時折、ぎらぎらとした危うい光を宿し、家族を睨みつける兄を見ると、それは無理なことではないだろうか、という思いが湧いてくる。
父母が死んだとき、兄を背負うのは恐らく、私の役目になるのだろう。
その時に結婚していようといなかろうと、一生、兄を支えていくことになるのだろう。
それが嫌ならば逃げ出せばいい。選択肢のひとつとして、それを思いつくものの、そんな非情なことは出来ないと、すぐに打ち消す私は、家族の絆という名前の鎖に縛られている。
父は私に言う。「お前は元気で良かったな」と。
人よりも感情の起伏が激しくて、落ち込みやすいという自覚はある。
※トラバの指摘に基づいて「俺の」を追加しました。ご指摘ごもっともです。ごめんなさいね。
見下す女よりこっちのほうが腹立つわい。
http://nice.hateblo.jp/entry/2011/11/25/023223
・接触欲をみたすため生き物に触れに行く
・コンプレックス対策として身体を鍛える
・得ている愛を再確認するため親孝行をする
まず2だけど長年引きこもってる間ずっと鍛えてるから間違いなくお前よりはガチムチですが何か?
家に帰ってもやること無いから黙々と仕事して給料も貯金も国民平均よりは高いですが何か?
そういう問題じゃねーんだよ。
親孝行・・・だと・・・。「親こそが愛を与えてくれる基本的存在」って誤解はどうなってんだ。
親は愛を与えることも多いけど、それ以上にズタズタに引き裂いて踏みにじる存在でもあるよ。
接触欲とかもさぁ・・・。ハリネズミのジレンマじゃないけど、こっちは呪い状態なんだよ。
触れたい以上に、触れれば相手を傷つける、相手が自分を傷つけるという強迫観念がやばいから引きこもってんだよ。
自分たちがクズで有害な存在って分かってるよ。おとなしく引きこもってるんだから引き摺り出さないでよ・・・。
最低な女の人は、増田で釣りっぽく書くんじゃなくて、直接親の前でいってやってよ。
あんたはただの売れ残りだけど、こっちは病人なんだよ。人外なんだよ。犬畜生だよ。
親にこの現実を理解させるには、健常人としての最低ランクである売れ残りの言葉しかないんだよ。
童貞ってのは、世間で良いこととされていることをマイナスに変換してしまう病気なんだよ。
お前らにとって良いことを押し付けられても吐き気しかしねーよ。
求めてるのはお前らはクズだけど一応生きて呼吸するくらいなら許すよっていう話だよ。
お前らみたいなクズを飼ってくれるor飼われたい女もたまにいるからそいつらみつけろよ、ってことだよ。
ありていにいえば仕事ができない。
俺の仕事はただやるだけなら単純な仕事だ。オーダーが来るそれに対応する工事を行う。
技術的に大したことじゃない。
しかし、それだけやってりゃこの上なく楽だが所長の仕事の亜補佐などしないといけないんだが
それが何をやっていいのか分からなくなってきた。
目的はわかる、やるべきこともわかる
しかしどうまとめていいのかわからない、自分が何をすべきかわからない
相談しても答えが得られらない
動けない、やる気が出ない。
この仕事を初めて3年たつ。
最初は頑張ってやろうと思っていた。
しかし、どうにも仕事がたのしい、やりがいがあると思ったことが無い。
そして田舎に転勤した。
同僚はみな60を超えた人ばかり
くだけてしゃべる相手、仕事の悩みをする相手
精神的に頼れる相手なにもいない。
しかし最近それもできなくなってきた。ジムにも通っていたがダメ。
体が動きたいと思わないんだ。
これとは15、6からの付き合い。
もう人生の半分はこれだ。
24くらいからどんどんひどくなってきて今が一番かも知れない。
火事を起こすかもしれないという恐怖心で
その場を離れるのに10分はかかるのはざら。
引いどいときには30分近くかかる。
難度も難度もふつうあり得ないのはわかっていてても火の元が気になる。
さすがに限界だ。
書き散らし、自分でも浮かんだまま書いた
全部じゃない
もしいたらありがとう。
基本的搾取権と言っても、基本的に誰でもが持ってるわけではなく、当たり前のように与えられているわけでもない
そう見えるだけでそうじゃない場合もあるし、本当に搾取的な事をしている場合もあるだろう
2chって学歴とかすごく気にしてる人もいる。yahoo知恵袋だと本当にそんなに気にしてない人もいるのに。例えば子供の進路でも単純に偏差値で決めるのでなく、校風やクラブ活動が活発かどうかなども基準に、本当に選んでいる人たちもいた。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1054596645 中学生の娘が偏差値55の私立高校に受かったのに、48の公立に行きたがってます。
自分は私立に行って欲しいのですが、本人の意思がかたいようです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111557701 高校受験を経験した方、志望校は何をみて決めましたか?(設備、部活、校風etc.)
来年受験の中3なのですが、どうしても偏差値だけで判断しがちになってしまいます。
2ch運営の削除要求に対する対応について、官僚的と評されてたのを読んだ事もあるが、硬直した柔軟性を欠いた態度、それがやりたくて仕方ないような空気を感じないでもない。
それに、あの仕組みは、作った人だけが得をしているのに、商業主義に乗せられてないと思っているのも不思議だ。
あと、ユーザーは、やたらルールに従うのが好きw そして新規の人をそれに従わせるのも好きw
だけど、元々は他の人が作っていた掲示板にマルチポストして宣伝して、客を奪ったのが始まりだから、ルール違反した人が作ったシステムという矛盾
なぜ、商業主義を嫌っているのを推奨したり、商業主義と関係ありませんよ、というポーズをとるかと言えば、自分達以外の商売をそこでさせないため。(これは当たり前でどこのサイトでもそうだろうけど、商業と関係ありませんよというポーズを取ってた)
2ch運営(初期運営?)ほどうまく搾取できてない集団だと思うけど、体質としては、そういう資質を持った人が、多く集まった印象を受けた。
しかし、みんなで搾取しましょう♪とか、音頭取ってやってるわけではないだろうから、自然とそういう感じになったのか、たまたまそう見えるだけか、よくわからないけど
何が似てるんだろう 何かが似ている
素じゃない感じとか、悪い意味で老成しているところとか
自分に対して不思議な事をしてきた人が、考えてみたらやってる事が親と似ているなあと思い、どういう心理や心境でこういう事をするのだろうと、探ってたら、やばい結果を探り当ててしまって・・・
これは、もう何たらハウス関係なくごく個人的な事だろうな、と思ったが
こういう人を、引き寄せてしまう魅力が何かあるのかもしれないとは思う。
閉じた世界を感じる
カウンターカルチャー的ではなく、強いものの味方で、弱そうと見たら、権威主義的な態度を取るw そんな感じ
実際、権力者の近くにいる人がいて驚いた。 無茶やってるように見せながら、力に阿り擦り寄り
切ったら血が出るような、人間的な感情の発露というのを、止められてるのか、切捨てられてるのかわからないが、人間的感情の発露が理解できない。
こういうのって、今年問題になってる地震後の原発問題に対する東電の態度が官僚的な事や、官僚全般(中には頑張ってる人もいるかもしれないが)や日銀とか、弁護士や医師、の一部の態度にも通じる態度のような気がする。それを真似してるような。所謂困ったエリートは、搾取が当然と思ってて、高校生ウルトラクイズの賞金か何かだと思ってるのかもしれないと思う。
真似してるというか、そういう良くない力がある事を知って、それを肯定しているようなところはあると思った。
書いていた創作か実話かわからない話に、精神病院の中の様子が出てくるものがあった。その中の患者の様子の描き方が、医師にとって都合が良い描き方をしていた。それは、そういう人ではなく、そういう状態の人なのではないのだろうか?そして、それを治すのが、サポートしたりケアしたりして治すのが、医師の仕事のはずなのに、それができてないのは医師の責任ではないのか?
それを認識してない、その視点からの指摘が無い、抜け落ちているのはなぜだろう?
強さ弱さしか見られなくて、それに対して自分はどう思うのかという自分の判断力が入ってない、ものすごく子供な状態のままいる、そのくせ力を欲しがるのか、子供だから力を欲しがる、のかもしれないが。
そんなにうまく力が手に入るとは思えないけど、だからこそ、弱そうなものを見ると見境がなくなるのかもしれないし、自分達のフィールドに引き入れてしまえば、それなりに力を保って人に接する事ができる仕組みを作っているというか、作ろうとしているのかもしれない
。。。。。。。という妄念
さえ湧き上がってきてしまうほど、個性的な人が集まっているのはなぜ?
ただのシェアハウスのはずなのに
あなたの事を精神障害または統合失調症だと思っています、だから書いている事は、何一つ信じません。立ち退き命令が出てるところに住んでいると思ってます、業者にアパート半壊させられたのも妄想でしょう。あなたがおかしいと思っている事は、認識の歪みから来る錯誤で、おかしいと思う方がおかしいというような事です。
精神病院へ行きましょう♪
と言いたいわけだよね
言ってる内容はそういう意味だよね
行政にアパート半壊させられると考える方がよっぽど妄想だと思う。
私は何回も貼ってるFAXページの下にも、このような形で建物が残る事はありません。と書いてる。
http://sky.geocities.jp/oooquree/fax.html
通常、こんな形で建物が存在する事は、まずありません。住んでる権利がないのであれば、裁判所に強制執行を申し立て、執行官が来て住んでる人を立ち退かせる事もできて、半壊ではなく全壊にできますから。
こういう形にしているという事は、壊せない=住む権利がある、という事を認めている事になります。
人を住まわせるにあたっては、安全基準に配慮した形でなければいけないので、こういう形は違法性が高いと思います。
http://kanz.jp/hanrei/detail/35350/ 事件番号 平成18(ワ)2455 京都地方裁判所 第2民事部 裁判年月日 平成19年10月18日
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=35350&hanreiKbn=04 最高裁の判例サイトは重い事がある
http://anond.hatelabo.jp/20111101131704
http://anond.hatelabo.jp/20111031045522
ずっと長く一人で暮らしている
何の保護も受けてなかった
体は悪かった
週間spaや読売新聞のようつべを見たら、そういう事もありうる世界だというのがわからないの?
http://blog.livedoor.jp/mizikanamondai/archives/51284011.html
http://blog.goo.ne.jp/publicult/m/200809
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=33874&hanreiKbn=04
そっちのが問題じゃないの?
穴があったら突っ込みたい
みたいに、人に弱みがあったら、つけ込みたくて仕方ないんだ
今もまだ ボランティア気取りで ボランティアですから なんて書いてる
昨日もツイッタで精神科医を名乗ってた人が、偽医者と暴かれてたし
今まで人を精神病仲間と思い込んだような、それでいて矛盾した事を書いてきた人は、アスペルがー診断されたという人 と 精神医療を考える会の人
それから、私は、一般の人と全く違う暮らし方をしてきたので、うらやましいとか、レベルを超えてます
就職飾がどういとかどころではありません。
私は、事実を書いても妄想をされても仕方ないというのを、客観的事実として受け入れるしかない状況で、ここでもよくそんなきめ付けをされました。
私は、何度も書いてますが、キチガイじみた行動を、私に対し取る親によって仕事上のコネから、違法な方法で精神病院に入院させられ、そこから逃げて自分で暮らして着ました。
あなた、こういう状況で、親と遭遇するのが怖くないんですか? 悲鳴を上げるほど怖い目に遭った事はありますか? そういう時どうするんですか? 悲鳴を上げないんですか? 悲鳴を上げれば助かるかもしれないのに、そこであきらめるんですか?
あきらめてる部分があるのかもしれない だから人にまで言うのかもしれない ちょっと何かの認識がおかしいんじゃないかと思う
あそこを救いにする人は、働かないという強い意思を持った幹部と、それをネットで見ているひつじ要員みたいな人に別れてるようにも、見える。 ひつじの人たちは、働かないんじゃなく、働けない人が多いんじゃないかと思う。 精神的問題や体の調子など いろいろ
何かが足らない状態で、あきらめてるから、余計に何かを訴えてる人が、うっとうしく感じるのではないかと思う
友達が全く実際にはいなくても、ブクマのお気に入りお気に入られは、たくさん居る人もいたし そういうもんなのかなと不思議だったけど、 何か独特のものがあるのかもしれない。
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/oooquree/20111025/1319512673
こういう奴
状況をわきまえずな奴
反社会性
書くと隠そうとするかもしれないけど、嫌がらせしてきた中で、少しでも社会性があるやつがいたら、その表の会社などにも報告してやろうかと思った。
そういうまともで健全な社会人に受けない事は、今後ネット運営会社たちが極力避けようとするんじゃないかと思ったりする
元々は、ハラスメントはあって当たり前だったり、それしかないみたいな状況のところもできていたりした
今も法律ではネット人格に対しての名誉毀損は無いけど、ハラスメントは問題になる可能性は今のがあると思う
ライトノベルの作家で、カタルシスを得る為に作中人物を殺すのはよくないと考えていると言う意見の人がいたらしい、カタルシスという事場を普通に使っているのがちょっと意外だったが、こういう心理はあると思った。ストレスというのは人を殺したくなる気持ちじゃなかろうか?と思ったが、何かそういうものを抱えた病んだ人たちがこんなにも居たとは!
精神病院の中に居た人たちは確かにおかしかったが、弱い者がもっと弱い者を叩く的な事ができない人たちだったんだろうな、と思う人も居た。どんなに弱い者に見えても叩こうと思って更に弱い者を探せば居る。
はてなというのは、マイルドさを装った2chが更に悪質化したもの、なのかもしれない。
一見善良そうな普通の日記ブログもあるが、それをブコメでコメさせるという機能もある
誰か全くの部外者が調べて見て欲しい
他人に対してこういう関わり方ができる状態を提供してしまっている仕組みが、いろんな意味で凄い
すごいw
今日見たブクマは、「どーもシュールでハイセンスです」というものがあった
別にどうでもいいが、こっちが書いた内容とのギャップを考えると、葬式できゃっきゃできる不気味さや、うちの親にも通じる気味悪さ 徹底しすぎた傍観態度を更に推し進めてしまったものを感じた。
寧ろ、私には、どーも!とか言える滑稽さの方が大きいと思う
そうじゃなかったら、世の中の方が狂っている
追記
気持ち悪さってこういう事。
昔見た2chのニュー速か何かで、あそこは今でも酷いだろうけど。横田めぐみさんのご両親ががテレビで会見してて、咽び泣いているのが、映っていた。実況スレかどうか忘れたけど、それを見てた書き込みが、「咳、し過ぎ!!」というものだったのを見た時、良い悪いじゃなく、気持ち悪ーーーーいものを感じた。 自分もそうされてきたか、何かが欠落した状態なんだろうと思った。
http://anond.hatelabo.jp/20111026013039
と思ってた時には
一番迷惑にならないというか実害が無くて、大きく騒がれる事で刑務所に入るのが良いかと思ったので
犯罪予告も考えたくらい追い詰められてた事も
思うんだけど、昔、景山民夫氏が言ってた犬の3パターンの状態って人間にもあてはまるような気がする
割と単純
友好的
不安、恐怖 おびえてる状態
敵愾心 威嚇 攻撃 全然なつかない状態の犬
犬と仲良くなる方法みたいな事として書かれてた
友好的なのは普通に仲良くなれる、威嚇や攻撃まで行くと難しいが、不安や怯えがある犬なら大丈夫とか書いていた。
なんだか、ネットって、不安、恐怖の状態の人を、最終的な状態に突き落としたい人がうようよしてるような気がする。
ていうか、突き落とすんじゃなく、その人たちはそこに居る そこに落ちている からなのかもしれない
攻撃的に狂う人、危険性がある人 ここまで行くと、犬の場合と同じで、
難しいかもしれないが
潔癖な人ナイーブな人ほど怖い
自分達がいい人だと思っていて、そう思えなくなる事実を否定したり排除したりするから。
名古屋のある医療生協の病院の如何にもいい人そうに見える健気な車椅子のケースワーカーに、婦人相談所に半ば怒るように行かされ、区役所からの連絡には、こちらの紹介じゃありません、と言われているのを(目の前で電話した)聞いたという事を経験した時そう思った。
この時区役所に行ってどうなったか、このN里に聞かせて下さい!と自分の胸を叩くというパフォーマンスまでされた。
私が名古屋じゃない街で婦人相談所もだめだった事があると言ったら、怒ってきて「ここ(名古屋)でですか?」「この前パラノイアの患者さんを夫の暴力から守るためこちらの紹介で入所させました」「あなたが行かないから」など言われ、前述のパフォーマンスになったのだった。
区役所から(この時はM区役所、イニシャルだと今も同じだけど)生協の病院に電話したら、N里先生は帰られました、と言われた。
インフォームドコンセントが聞いて呆れる。ここの病院にはエレベータの中にも、患者の権利章典がデカデカと貼ってあった。
これは仮説だけど、なんでこんな事されるのかなあ~と考えたら
日本が民主的な法治国家と信じたい人にとっては、聞かされたくない話だったからなのか、精神病院については矛盾多い世界と言うのを知ってる人は知っているので、関わらないようにしようとしたのか、わからないが、病院の体面を守りつつ、健常者に対する悪意を吐き出す事を生業にしているからなのか、その中のどれかか、複合的なものなのか、仮説さえちゃんと立てられないが
この人も他では評判が良くて、家の前に○○党相談とか出ている家に言ってみたが、その人がそんな事言うわけないとか言われた。
あぁ、この時に、他にも言われていた。
親が当時住んでいたところにいきなり来て、隣の部屋の人に、実は精神病院に入れてまして、と言って行った、何をされるか分からないと怯えてパニくっていた私だったが、この車椅子のケースワーカーは
と言ったのだ。
関西の子供なら、聞いたこと言ったことがある言葉で、「ごめんで済んだら警察いらん」というのがあるが、そんなんで済んだら誰も困らんやろ!!!
この時に背中の痛みについても言ったが、本当に悪いんだったらね!と言われた。
医療生協の会員にだけならされ(後に取り消しに行ったが)お金も払わされ、病気なら診てもらえますよ、本当に悪いんだったらねと言われもした。
こんな如何にも正義派みたいな、スキャンダルを起こす前の辻本清美さん(顔も似ていた註あり)みたいに見える人が、こんなんなんて・・・!!!
と大ショックを受け
自分の方が悪い気がしたのだと思うけど、ちょっとおかしくなっていたような気もする。( これ以来全く相談に行けなくなった )
良い人の方が危ない
気をつけなくてはいけないと思った。
註
顔も似ていて美人と言って良い顔だった。
清潔感があり、洗剤の匂いと思われるものやシャンプーの匂いが入り混じったような何か微かな良い匂いを、醸し出していた。
(洗剤と言ってもダウ二ー臭ではなく、もっと控えめな。香水などのきつい匂いではなく、清潔で健全な生活を営んでいる証のような)
そういう人に、人に頼る嫌な奴のように、扱われた。
こちらは、こういうところに言うのも、違うかもしれませんが、とおずおずと言っていた。決して、何とかしろ!!とねじ込んだわけではなかった。
何もできないなら、普通にこちらではわかりかねます、とか断ればよいのに( 断るのも最近ではおかしいのではないかと思うようになったがこの時ならまあそれで仕方ないと思ったかもしれない )。
パラノイアの患者さんを紹介で婦人相談所に入れたというのだから、何もできないという事もないようなのに、一体あれは何だったのかわからない。
区役所に行った結果をこのN里に聞かせて下さいとの要望に、まだお答えしてないので、お答えした方が良いかもしれない。
(今はいないらしいのが、去年か一昨年電話した時にわかったけど。この時の病院の対応も酷かった)
N里の事は、ネット上のあちこちに私は過去に書き込んでいる。メモ程度のものでも証拠になるのであれば、それも証拠になるかもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20111011084859
辻本似CWについて追記
まだあった
「いくつですか?」
と聞かれた。
相談票に記載するとかではなく、「親にはあなたが言えば済むこと」と言った時だった。
まるで、人に頼る嫌な奴のような扱いを受けた。
「いくつですか」に対し、年齢を普通に答えたら、何だか不服そうな不満そうな顔をされた。
全体的に、かなり高圧的な態度を取って当たり前と思っているようだった。
ああいう相談は、NTTの総合案内のお姉さんが案内しつつ商品やシステムを宣伝するように、生協の会員にならせる事を目的としてやっているようで、その目的だけは果たしたいのか、そこまで人の事ぼろくそに言いながら、ここは院長がいない病院で(その当時はかもしれないが。今は居るかも)なんたらの理念でやってます、とか 理念でという時に、理念だけで実際は行き届いてないかもしれないけど、堪えてね、みたいにニチャっと笑った。
親も含め、私に対して、非人道的とも言える行いや、人権意識を欠いた行いをした人たちというのは
みんな いいひと wwwwwwwww
「○○ちゃんの状態が、進んだかもしれない」
と言った友人だった人(註あり)は、教育学部の選択授業に来ていたW大学で言うと理工の学生に社会学を一般教養として教えてるだけのくせに、心理学と銘打った本を多数出版して、世の中を惑わす情報を含んだ情報を流布させるのに貢献している教授のような教育心理の教授が
と豪語するのも聞き流しているくらいに、いいひとだったwww
自閉症は精神分裂症(当時の言い方)の一つで機能的なものだから、治らないんじゃないの?
と私が言うと
○○ちゃんも、勉強しとるみたいやねぇ。
と言われた。
が、前から知っていた。
それで、こうも言った。
とか
その先生は、自分の家族にその療法かカウンセリングをして、それまで結婚できなかったのができるようになった
とか
むつかしーい理論がある
とか
自閉症をカウンセリングで治したと聞いて、先生すごーい♪というのも難しいだろうw
そんなすごい理論がなぜ学会に発表され論文が評価されてないのか、不思議だ
それは、もし言うとしたら、自閉症と診断されていた子供を、カウンセリングや親子関係の改善で治した
と言うべきではないだろうか?
もし本当にカウンセリングで治ったとしたら、診断が間違ってた可能性が高いと思うが、これだけでは何とも言えない。
でも、その言い方がおかしいと言うのはわかる。
治るというのが、どのような状態からどのような状態になったことを言っているのかもわからないし、何ともわからない話。
母が末っ子だったせいで、私が小学生の頃に従姉妹たちは結婚式を済ませたが、従姉妹の結婚相手もここの大学の教育学部で、教授と意見が合わず、自分の主張を曲げなかったので、卒論が通らず(詳しい言い方は何というかわからない)中々卒業できず、プラス4年行って最後の2年は親が授業料払わなかったという話を、うちの親がしたり顔でしていた事があった。
(余談だが、親と言う立場の人の負担が軽くなる事なら何でも喜んで話す 他には育ててもらったというのをあり難がる話とか すごいのだと芸能事務所の独立について、育ててもらったので独立はしないとあるタレントさんの親がインタビューで答えていたのを、わざわざ”育ててもらった”ので独立せんのてぇ と言ってきた事もあった。余談終わり。)
こんな教授が居るのだから、意見が合わないのも無理は無いと思った。
この教授の事は、保健所の保健婦(当時の言い方)も知っていた。
この間、職人さんの家に入ってもらいました
と言っていた。
うちの家には今4件抱えてる、やるんやったら親の方から頼みに来て、と敬語で断られた。
元友人は、評判のいいひと
元友人によると、その教授もいーいひと らしい(いーいと伸ばして言われた)
http://d.hatena.ne.jp/oooquree/20111022/1319275014
註 小学校からの友人 小学校の時のではない。 向こうから心配してるなど言ってきたことも。教育心理の先生の話は出したくせに紹介するつもりも最初はなかったようだった。 その教授の住所、電話番号を教えたものの、先生も忙しいからさぁとか言ったりもしていた。 本人から教授に家族カウンセリングを友人の家庭でやって欲しいと頼んだりしていない。 だから、もあると思う。(入ってくれなかったのは)
事実は小説より奇なりというが、この言葉は小説の方が奇で当たり前なのに、現実が奇な場合がある時に、使われる言葉だと思う。小説の方が奇とは誰が決めたんだろう?そんな決め付け、現実を売り込みやすく調理しているメディアの方々の思い込みではなかろうか?
決め付けが世の中に横行しているのは、そういうマスゴミの姿勢にも責任の一端はあるのではないだろうか?
マスゴミ側からしたら、逆だ、多くの人に受ける為にやっているだけだ!というのかもしれないが。
内容は悪くないとしても、本のタイトルでも○○○○マンに明日はない、とか○○○○の危険性を指摘するのはいいけど、それは言い過ぎなんじゃないか?と思うようなのをよく付けたがるようだ。(○○にしたのは、そんなような意図で付けられたタイトルだったがはっきりした言葉はうろ覚えだったから)
地震が起きてから2~3ヶ月の比較的早い時期だったかに、元アナウンサーの女の人が、親切な情報とそうでない情報とについて、書いていた。
自分も関わってきてわからないでもないが、というニュアンスもあったような気もするが、ついつい煽ってしまうマスコミの体質と、自分が親切だと思った情報というのは、自分が身内や身近な人に伝えたいと思う情報だ、というような事だった。煽りに煽ればどこまでも煽れるようなショッキングな内容ばかりバレて、不祥事に次ぐ不祥事で、どうしようも無い出来事ばかり続いて、みんな不安なのに、不安に乗じたかのような情報や特集が組まれたり、いや伝えないといけない事だという意見もあるだろうし、中には伝えないといけない情報やそう思って伝えたものもあったのかもしれないけど、何だか入り乱れていて、悲惨な被災地の様子をずっと流していたのを見た被災地の人が、ああいうのより安否確認情報をやってほしいとネットで書いていたりもしたのも見た。
さらに最近ではマスコミではなく不安に付け込む商魂逞しい人も居たりするのか、今日新しくツイッタで私をフォローしてた人のプロフを見たら、HPが載せてあり、水素が体に良いとか水素水がどうたらと・・・、というのと放射能にも効く!とか載せてて、いくら疑似科学っぽくても、見ただけで似非だ!ニセだ!と叩くのもどうかと思ったので、何も言わなかったが、複雑な気持ちになった。
ソースの提示を求めたり、どういう作用でそうなるのかどこかで証明されてるのか、学会に論文は提出されてるのかなどの質問はしても良いのかもしれない。
ちょうど疑似科学の事に触れてしまったが、疑似科学似非科学というものについても、それらを一つ一つ精査して、どこがどういうふうにおかしいのか、科学的でないのか、言及していくのは結構骨が折れる作業だと思う。
科学的でない証明を科学はやる必要はないから、何と言って良いのか、正確にはわからないけど
普通は、棲み分けできていて、害が無いものであれば、いわしの頭も何とやらみたいに、わざわざ権威や本物の科学者が出張ってくる必要も無いのだが、たまに物凄い事が起きていて、何でそんな事になったのか全く理解できないけど、詐欺師的な人に教育機関が引っ掛けられて、冗談のようなビデオが学校で流されていたりする現象もあったりして、さすがに専門家が批判をしていたが、それも色々物議を醸し出していたようだった。
その事は疑似科学という捉え方で良いと自分は思うが、その事だけじゃなくて色んな疑似科学に対して、疑似科学を叩く人たちについての疑問を述べる人や、専門家の中でも頭ごなしに叩くのは如何なものか、という意見もあった。
この辺もパラドックスで、科学的というならきちんと説明すべきだが、そもそも科学は科学的でないものを、科学的でないと証明しなくてはいけない義理は無いのだw 義理と言うか義務と言うか。 そうなんだけど、一般の人の事を本当に思って科学的な考え方を浸透させたいと思っている知に対する深い愛情を持つ人ならそうするかもしれないけど、それは別にしなくても良いことなので、特に権威主義的な人たちは、わざわざしないだろうなと思う。権威を愛する人たちはしないだろうと言った方がいいのかなw
科学に、非科学的なものを科学だと言う疑似科学を、科学的に非科学だと証明しなくてはいけない義務は無いが、ネットでよくある疑似科学を取り上げている時の取り上げ方が、科学的ではないものもあると思う。これらの人たちが口にするのが、「科学には疑似科学を科学的に擬似だと証明しなくてはいけない義務は無い」なんだと思う。しかし、それを見た人への影響を考えると、なぜ科学ではないのかをわかるように説明した方が、良いのではないだろうか?と思わない事も無いが、まあ表現は自由なので何とも言えないとも思う。
疑似科学一つとっても、ここまで入り乱れている。
疑似科学じゃなく、弁護士でも精神病院でも、何でも圧倒的な力の差ができてしまう状態で人と人とが接すると、色々と問題が起こるようで、それについて、また言及する事を仕事にしている人たちが、出張ってきたりして、ますます儲けて自分は大学教授になったりしているという例もあるが、こういう事についても、一面的な捉え方や批判や非難だけでは、どうしようも無い問題もたくさんあると思う。
ジャーナリストたちは、如何にして批判をうまく書く事ができるのか?という事に心を砕くのか、昔から一面的な捉え方が好きなようで、善悪の図式を作ってしまう。
という言葉もあるように、善意だからと言って、必ずしも良い結果が出るとは限らないし、何か問題があるのは悪意があるからとも限らない。
だから、余計怖いと思う。
でも、昔からわかりやすいと思うからなのか、その方が売れると思うからなのか、水戸黄門の悪代官やないんやから~!!と言いたくなるようなキャラ設定がお好きなようで、イメージ戦略にも余念がない。
うつ病の薬と言うと、依存性があって嵌らせられる。医者や製薬会社は薬売りの悪代官!!! すごい人になると、うつ病の薬と自殺率の増加を結びつけてネットニュースの記事にしていて、データの読み方について、はてぶで突っ込まれていた。それを見たのは他のネットニュースの記者の人のツイッタだった。。。 その人に連絡したり相談する気も無くなった。。。
うつ病の薬については、本当に依存性はあると思うし、のまずに済んだらなるべくのまない方がいいと思うけど、正確な医学的知識を持つ医者が処方して、本人の状態をみて用法用量を守って出している場合もあるので、一概には言えない難しい問題だと思う。
自分としては、なるべくのみたくないので、今回の事で精神的にまいって神経内科に行った時も、漢方薬のうつ病の薬と同じ働きをするものを、処方してもらったりしていたが。。。
うつ病の薬については、依存性や危険性もあるが、統合失調症の陽性症状には、薬はかなり効果的だし、服用は必要なような事が、統合失調症の陽性症状について語っている掲示板からも、読み取れるし、統合失調症については薬を受け入れて病気の認識を持ってくれるかどうかが重要なようなので、薬は必要だと思った。
それで、ずっと前に、精神病院や精神科医を批判している人のブログをやっている人に、メールでやり取りしかけた時に、その事も併せてブログに載せた方が良いのではないか?サイトの性質上不安定な人も見るだろうから、薬=危ない!と刷り込まれてしまったら良くない場合もあるのではないか?と送ったら
返事が来なくなった。。。
ということもありました。。。。。
これだって、事実は小説より奇なりな事も、多々あり、入り乱れた世界が構築されていると思う。
弁護士に関しても、私がツイッタで、「弁護士憎けりゃ袈裟まで憎い」という造語で揶揄したような状態に陥っている人もいると思う。
でも、これも、どういう立場の人が言うかによっても違うと思う。
弁護士自らは、これを言う人たちに対して、揶揄したり鹹かったりは慎むべきではないかと思う。
むしろ謙虚に受け止め、これらの人たちの心のケアも含め取り組むべきではないかと思う。
しかし、さらに、入り乱れていて皮肉な意味で興味深いと思ったのは、これらの弁護士憎けりゃ袈裟まで憎いという幻の袈裟まで見てしまうような人たちが、力を入れている企画で、ラディフェミ叩きがあるのだが、ラディフェミ被害はあるにしても、ラディフェミに走る人たちの追い詰められた状況もあるのではないかと思うので、単純に叩いていいのかどうか難しい部分もある事なのに叩いている。
自分達の弁護士憎けりゃ袈裟まで憎い状態の状態が進んだのが、一部の事実の捏造まですると言われているラディフェミだとは思わないのだろうか?
男性でもこういうふうに言う人もいる。
http://twitter.com/denzirousann/status/125613385307013120
フェミニンな(特にラディフェミ)人達の抑圧性って彼女らが批判するマチズモをそのままひっくり返しただけに見えることも多いけど、そうなってしまうのにはそれなりの理由があって、だからと言って彼女達の思想主張をそのまま受け入れることは出来ないけど、アレな人扱いしてるだけじゃだめぽ
でも、私はこう思った。知らない人なので返信ではなく、自分で自分用覚えとして、つぶやいといただけだが
http://twitter.com/Tasmanian_good/status/126317550513553
もっともなご意見。でも、元男性で過激な発言「父親はタネとカネを出したにしぎない」をしDVでっちあげてるという疑いだか被害の声も挙がってる性同一性障害弁護士のような人場合は?^^;そんな倒錯的な昔の漫画みたいな人もいるw
そう、本当にそんな嘘のようなストップ何とか君!みたいな人もいるのだ。この弁護士の事を弁護士批判の一つとして行ってる人もいるが、こういう弁護士がいて迷惑した人もいた、というのは構わないと思うが、だから弁護士は~・・・という方向に持って行くには、極例すぎると思った。
このストップ○○○クン弁護士と名づけたくなってしまうほどの倒錯した弁護士さんは、不思議なんだけど、性同一性障害を言いつつ、恋愛対象は男性ではない状態なのだろうか?
あそこまで嫌っていては恋愛対象になどできないと思うのだが (そういう人達を男女どちらについても、今は毛嫌いする人たちとして、名称もできているそうだが、それなのだろうか?)
男のままで、「タネとカネ」という言い方をしていたら、どうなっただろうと想像してみたが、やっぱり変だと思う。責任を放棄して建設的な方向で物事に取り組む事をやめた姿勢とも、捉えられるから。芸術家とかアーチストと言われる人たちの感性に近いのかもしれないが、社会的に責任ある仕事に就くにはどうなのかな?と思わざるを得ないかんじ。。。
女になってしまった事に関しても、自分が女性性を持って生まれて、それによってラディカルなフェミニズムに走らなくてはいけないほどの社会的抑圧やトラウマがあったのではないので、女性性を持った者が受ける待遇--男性ほど社会的に優遇されてない事、経済的に自立しにくい事などの、社会的不公正や、そのくせ別なところでは、甘甘にしてあって、そのせいで更に経済力を手に入れにくくなっている事などの、社会的文化的構造的な歪み--を受けたわけではないのに、弁護士に幻の袈裟を見てしまう人たちのように、男憎けりゃ袈裟まで状態になっているかのごとき極論を振りかざし、人を煽動しているが、その責任の一端は元男であるのならば、自分にも還って来る事なのに、女に性転換したから、自分だけは免罪符を手に入れ、煽っている立場に行っているのは、矛盾を通り越していて、倒錯と言って良いと思う。
自分は男性性を持つ者として社会的には、優遇された立場に居たはずである。なんで、そんな人がラディフェミなのか?意味がわからない。