はてなキーワード: 無気力とは
■溺愛:子供が大きくなっても親が無条件に子供を可愛がることで、子供は自分を無条件で愛されるべき存在と思い込む。
だから30過ぎになっても私は年収1000万の男性に愛されるべき存在などと勘違いしてしまうし、平凡な50歳である自分が加藤茶のような結婚ができると勘違いしてしまう。
子供が出来たときに褒め、出来ないときは叱るという適切な教育が必要。「評価されている」という観点を持たせなければならない。
■過保護:全て親任せにして育った子供は、親が居ないと何も出来ない無能になってしまう。
無能が許されるのは若くて美人な処女だけ。とくに高齢の男性は無能が許されない。
■過干渉:親が子供への強い発言力を持ちいうことを聞かせ続けることで、子供は学習性無力感を植えつけられ無気力になっていく。
無気力で怠惰な無能に性的魅力を感じる人や、結婚して共に生きたいと思う者など居ない。過干渉は人間の魅力を根こそぎ奪う育て方だ。
私に関してはそんな事実はないです。タイトル以外特に意味はない。
私はちゃんと就活してちゃんと就職してその結果途中でやめて死にかけてますはい。
でもだれか同じようなこと言う奴がいるだろうな、と思うので先に書いとく。
或いは「被爆地にいるのは馬鹿馬鹿しいので、単身東京出てきて死にかけてますが」とかでもいい。
http://ulog.cc/a/kensukeShimoda/11170
「シューカツ」が下らない制度だと思うなら参加しなければ良いだけ。何も強制はしていない。シューカツしないと生きていけないというのは勝手な思い込み。勿論、新卒採用で就職できなかった人間を社会不適合者のように扱う空気には反対すれば良いけど、反対意志の表明方法はやはり「シューカツしないで生きる」しかないと思う。
あーこの人ふろむださんと仲良しさんのね。ゲーム会社の社長さんらしいけどそっちは知らない。
「能力ないやつが選択肢がないのは自業自得」とか言ってそうだな。
ひゃくぱーせんとただしい。
実際、私も賛成だったりする。
私みたく無理して就活して、途中で挫折して死にかけるよりは、
就活自体を投げ捨てて、留学でもして、この先どこで生きていけばいいのかを
就活の枠にとらわれずに考えたほうがいい。
特に就活浪人してる人で、バイト経験やブルーカラー経験がない人は是非何か体験しておこう。
そうすれば、いざというとき、「自分の仕事やめても生きられる」って自信になると思う。
仕事やめてから、無気力状態になって再就職を諦めてバイトで職探ししようと思ったが
「あんたみたく28になってバイトの一つの経験もしたこと無いやつはいらない」って言われた。
高校生とかならともかく、バイトならなおさら30手前の人間を教育するのは
人間関係とかいろいろな問題で面倒があるからできればいらないんだってさ。
最初からバイトの経験があって、あんまり教育しないで良い人を優先してやとうから、俺はバイトでも仕事ないよ。あは。
にしても、このしもださん。
言ってることは正しいんだけど、どえすやなぁ。
本当の望みがわかってないわけじゃなかろうに。わざと分からないふりしてこういうことを言うか。
よっぽど頭悪い人間が嫌いなんだろうなぁ。苦労させられてきたんだろうな。
わかるけど。すごくよくわかるけど。
よくわかってないのに、分かったようなフリしてお祭りみたくプロジェクトの音頭とって、
肝心なところは下に放り投げて、やばくなったら逃亡するような人って私のやめた会社にもたくさんいたからなぁ。
どうせなら、世の中「無意味なこと」でも動いてることがたくさんあって、
「意味がある」ことでも力がなかったら動かないので、この運動は二重の意味でダメくらいに言ってもいいのに。
間違ってても機能した者勝ちで、正義なんて青臭いことやってるからだめなのだ、しかもその正義の薄っぺらい、いろんな意味でクズだお前ら死ね、くらいに罵ってもらえればこちらとしてもやりがいがあるのに、すげえねちっこい書き方。
この人が社長だったらめちゃくちゃ人格的には嫌いだけど頼りにしそうだわ。
天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言われている__人は生まれながら貴賎上下の差別ない。けれども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違いは何だろう?。それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるのだ。
その言葉との出会いが私にとってのインターネットという希望だ。そう信じてネットの文を読む。ネットに限らず、だけれど。
これは私の文章の読み方の話だ。
http://anond.hatelabo.jp/20111119203554
を書いたあとで、
http://sinseihikikomori.blogspot.com/2011/11/google.html
を読んだ。
普通でない女性が普通を騙る事でどれだけの普通の女性が抑圧されたか。
世間一般の愚かな男達があれを普通だと思う事で、どれだけの女性が癒えることのないダメージを被るか。
何故インターネットという希望の聖域の大切な動機という最も偉大なる感情の衝動を、
就職活動という大人達が作り上げた陳腐な社会の枠組みのブラックボックスにアウトソーシングしてしまうのか、僕には全く理解が出来ない。
素晴らしい世界を、どうしてアラビア人などという現実世界のくだらなさを持って語ろうとするのだ。
無限の永遠世界の衝動を、就職活動などという確かで小さな現実世界の理由付けで説明しようとしてしまうのだ。
そうじゃなかったはずだ。そんなんじゃなかったはずだ。僕らが夢見て懸命に生きたインターネットはそんなものじゃなかったはずだ。
ここらへんについては、言葉の技術(この人のほうが私より断然ウマイ)や対象は違うけれど、私が書いてることとかぶってると自分では思ってる。ここいらの部分については、私にとって、同意やら共感することはあっても心が動かされることはなかった。
これは持論なのだけれど、悩みというのは、あるものごとに絡みつかれ、あるいは取り込まれ、そこから抜け出せない状態を指すのだと思う。そして、文章でもなんでも、表に出すことができることは、どのような形であれ、自分がそこから距離を取ることができたものである。
はてブの人のように、そもそのその問題に興味がないから軽く考えて思考停止した状態でなんの感情もこもっていないコメントを書ける人もいる。(「三行でまとめろ」みたいなことを言ってる人は、幸せな人だと思う。その幸せに気づかないところに少し嫉妬を感じる)
ふと興味を持って、そこにわずかな感情移入をこめたり、調べてみて情報を追加する人もいる。
一方で、その問題に巻き込まれ、散々傷ついたり悩んだりした上で、なんらかの出口を見つけた人もいる。
とりあえず、私は上のような問題については、たどたどしいながらも言葉にすることができる。ある程度客観視出来る。読者から見て、客観視できてないと思われる所があると感じたなら、まぁそこはまだなんか執着があるんだろうが、それでも大枠としては抜け出せていると思う。
私にとって、文章に書ける問題っていうのは、私の中でもうあきらめが付くか克服されていることである。
もうここいらの問題から私は逃げることはできる。無理に否定しなくても、自分を抑圧しなくても、生きていくことが出来る。
だから、私にとっては、この部分は、まぁいい。
自分が距離をとれる問題について言葉のやり取りだけを繰り返すなら、インターネットはいらない。
私が他人の文章を読む時、私が探しているのは、自分の心のなかにあって、でも気付くことさえできない言葉だ。
生きてはいけるけれど、どうにもこうにも心苦しい。その理由や、自分の位置を、他人の言葉で確認したいと思ってる。
美しいものを美しいと言う。それが出来ないのが人の悲しみである。
素敵なものを素敵と言う。それを口に出せないのが人の苦しみである。
「美しいね」と言いたいのだ。「素敵だね」と告げたいのだ。
僕らがインターネットをするのはザッカーバーグの為ではなく、インターネットの為でもなく、ましてや自分自身の為でもない。愛の為だ。
少し泣いた。この部分に何を思ったかは書かないしまだ書けないけれど、こういうものとの出会いがインターネットに感じる私の希望だ。
他の人には、この文章が、ただのルサンチマン、で処理できるものなのかもしれない。ただの勘違いと読んで笑うかもしれない。
それでも構わない。というか、本来、そういうものなのだ。みんなが同じように理解して納得できるものだけが価値じゃない。
昔は自分の望んでいることや、自分が正しいと思うことを主張するのが、他人にとってはただの我侭でありルサンチとして一笑に付されるものであることに絶望したりしたこともあった。そうやって、自分が何かを望むこと自体が間違いであったり、自分自身が間違った存在であると思った。そう思って何も望まず、無気力になったこともあったけど、今は自分と外の世界は別のものだと思っているから気にしない。
自分だけが大切と感じるものがあってもいいし、そういうものを見つけることこそ幸せなのだと思ってる。人は自分だけの、自分のための勘違いをするために生きている。
その上で、朋有り、それはインターネットから来たる。自分にとって大切な事を、他にも感じている人がいるかもしれないと思うのは嬉しいことだ。自分のなかの小さな真実でも、勘違いでも、それでも人とつながりうると感じる。それが私の希望だ。
俺これが内田樹さんが近頃の若者の無気力云々と頭ごなしに言ってることや、
ちきりんさんが日本人は馬鹿だ危機感を持つべきだと繰り返し念仏のように唱えていることに対しての
「普通の人の」答えの一つだと思うんだ。
(私は、国を背負う立場の人は、もっと高いレベルの応答責任が求められると思うけれど、
私たちみんなが、例えばちきりんさんの挑発に対してきちんとした答えを返す必要はないと開き直ってます。
というか、私達よりずっと応答責任のある「わかってる人」が下々の者をおちょくって遊んでるわけで、これはもうどうしようもないな、と)
結局のところ、世の中の仕組みがよく分からないんだよね。で、どうすればいいかもわからない。
分からないなりに考えたことは、どれもワクワクしないことばっかりでどうもヤル気がでない。そういうことなんだと思う。
そういうのを学べる相手は、高い学歴を修めて、良い企業に行ったりして、さらにそこでこれだと思う人を探す、くらいしないと見つからないのだと思う。
巷に溢れている大人たちは全くあてにならない。
50過ぎのオッサンは自分が世の中の仕組みをわかってて、自分たちが世の中を動かしてるつもりだけれど、
実際は身近な会社のルールを社会のルールと勘違いして、それを家庭に持ち込んで機能不全家庭を量産してるだけ。
識者の意見を聞こうにも、テレビはあれだし、ネット識者はマッチョだし、
学者に期待しても内田樹は思考のスケールが人類1万年の歴史レベルのため今この時、にぴったりはまるような話を期待できないし、
誰も知りたいことを教えてくれるわけではない。むしろあれこれと問題を掘り返してきては私たちの悩みを深くするだけ。
わかってないことをわかってるなら学べばいいじゃないか、と思うけどこれも尻込みしてしまう。
ちきりんさんを見るかぎり、世の中の仕組みはろくでもないことになっていることはわかるし、
それをわかるといきていけるかもしれないけれど、ちきりんさんみたいにろくでもない人間になるってこともわかってしまう。
やれやれ(春樹風・・・っていうか春樹の小説は「わかってる人」が「わかってる振りの人」を書いてると思うとなんかむかつくなこんちくしょうw)
あ、ちなみに遠藤先生にこういう粘着読者がいると知れると次からコメントが面白くなくなっちゃうかも知れないから、このことは秘密な。
豊かな生活のような従来の形では、若者はもう未来への明るい希望なんていうのを持ち得ない。
じゃあ、40年前のヒッピーよろしく、物質的な豊かさよりも人間同士の精神的な繋がりでひとりひとりが生き生きとした喜びをみたいなのが実現するのかと言えば、そんなことはない。
ほとんど、とは言えないけれどもかなりの数の若者が、自分の未来に物質的な豊かさも人間的な豊かさも期待できないでいる。
この層の人たちの心の状態はホームレスとほとんど同じだ。死なないから生きているというだけだ。なにをやっても報われないという意識が強いので、学習性無気力なみの意欲の無さ。実際こういう若者は学習性無気力の状態なのだろう。よく考えてみればそれも当たり前のことかもしれない。今の30代、20代は、団塊世代やバブルの親たちの生活が世間体のために幸せそうに繕ってはいるが、その実、ほとんど破綻している例をたくさん見て育った。仕事も結婚も、こんなことをやっていたら自分は惨めで不幸な人生に塗れてしまう、と学習している。じゃあ違う道を選ぶことができるのか、というとそれもなんだかできそうにない。
行くも地獄退くも地獄、のような状況で立ちすくみ、ただひたすら意欲を失う。こういう人たちがほんとうに増えてきたのだと思う。
こういう人たちはどうすればいいのだろう。
ある朝、この無気力症に片足を突っ込んでしまったことを自覚したわたしは「なんだか、もういろいろとどうでもいいな」という気分に襲われた。そして、きっと若い人達の間でこういう気分が広がっているんだろうなと思って、なんだかとてもやりきれない気分でいる。
子作り意識し始めて1年半。
まだできない。
夫婦ともに30過ぎてるので早いとこ病院行かないと行けないのは解ってるんだけど行けない。
もし病院に行って子供出来ないと断言されたら人として全否定されたような気がすると思うから。
基礎体温を付けてた時期もあった。
けど今日はするぞ!!って朝から意気込んでても仕事の都合で帰れないとなると凹む。
凹むとさらに元気がなくなる。
最近は目覚ましで起きれなくなった。
基礎体温を測るために10分ばかり早めにセットしてあるのだが聞こえない。
心が拒否してるんだろうな。
でも病院行ったらまた基礎体温測ってタイミング療法からだよね。
正直羨ましい、妬ましい。
私できにくいしーとか言ってる人ほど1発で出来たとか言ってくる。
出来た事を報告してくれることは嬉しいが、出来た経緯なんか知りたくない。
1、 出不精で週末・連休一歩も出ないのが普通。ネットすら出不精になりほぼ2chのみに
2、 部屋が汚い。片づけ方が分からない
3、 一日中カーテンを閉めてるので埃がすぐに溜まり掃除を諦めた
5、 本棚は触らないから綺麗だが、ラインナップが15年以上変化がなく色落ち埃まみれ
7、 なので清潔かと思われ過去に友人を自分の家に入れて幻滅されたことがある
9、 自慰でティッシュを使うのすら面倒でそのまま下着に出す(男性のみ)
10、服はタンスに入れず、母親が置いていった洗濯物から無限ループ
11、家に帰ると即効色落ち虫食いTシャツ等、完全家用の処分服に着替える
12、ヘアバンド等で前髪も癖がついた状態で、服装含め急な来客に既に対応できない
13、ギリギリまでやらない。それで冷や汗をかいたのに直せない
14、トラブルがあるとすぐ謝る。外では絶対に自分の不機嫌な感情を見せない。言われる一方
15、自分のプライベートを話せない。恋愛や卑猥な会話が一切無理
16、常に気を遣い真面目でいい人と思われている。でも実際は唯の無気力で怠け者
17、元々はテレビっ子だったが最近ニュース以外ほぼ見なくなった
19、育ちは保守的で品が良く、酒・煙草・パチンコ・性風俗等を嫌う。飲み会・カラオケが怖い。要は子供
20、店員や他人のちょっとした品のない行動、キツい態度にすぐ傷つき人間不信になる
21、友達がいなかったために飛行機の乗り方旅行の仕方、冠婚葬祭マナー、携帯等常識を知らない。それを知られるのが怖い
22、楽しいと感じることがなく趣味がない。ゲームやアニメももうやる気力が無い
23、服のセンスはあるのに自分でそのセンスを実現する能力がない
25、手帳に予定を書くなんて信じられない。想像しただけで疲れる
26、美容院にいけない。自分で切るか行けて無言10分1000円カット
少し長い文章になってしまいましたが、高専の特徴とその後の進路、メリット・デメリット(高専に向いている人、向かない人)をまとめました。
6/1追記・想像以上に多くの方が読んでくださったようで、嬉しく思っております。その中のコメントで数点ご指摘を頂きましたので、訂正および追記をいたしました。少々見づらくなってしまいましたが、ご了承ください。コメント及びご指摘をしてくださった方々に感謝いたします。
まず、高専はご存知のとおり普通高校とは違い5年間の学校です。ですが、普通科高校+短大のような学び方をする学校でもありません。エンジニアを育てるという目的をもつ高専では、入学した年からすぐに数学や英語、国語のような一般科目の他に、その学科の専門科目の授業が始まります。
もちろん専門といってもいきなり高度なことをするのではなく、中学校を卒業してすぐの学生(高専では「生徒」ではなく「学生」と呼ばれます)でも出来る内容から始まるので、入学前からなにか特別なこと(例えばプログラミング、電子工作、製図など)ができないといけないという訳ではありません。
ちなみに私のいた学科は情報科だったので、簡単なプログラミングや簡単な電子回路を学ぶ授業(というよりも「体験」に近い)が1年目からありました。中学生の頃からパソコンが好きだった私にとっては専門科目は楽しい授業でした。
この専門科目は高学年になるにつれて増えてゆき、4、5年生のころには一般科目よりも多くなります。
一般科目はどのような事を学ぶのかと言いますと、1〜3年生で学ぶものは「基本的には」普通の高校(理系)と同じです。数学や英語、国語はもちろん、物理、化学、生物、地理、歴史なども学びます。しかしここで注意して欲しいのは、良くも悪くも高専生には大学受験がないという事です。5年制ですので3年生が終わっても4年生になるだけです。地理や歴史、古文や漢文などは普通の高校よりも低いレベルまでしか学べません。高専生は英語が苦手、と世間ではよく言われるのですが、それも大学受験がないためでしょう。
逆に専門科目に直結する数学や物理、(物質・材料系の学科では化学)は3年間で高校生よりも高度なところまで学びます。
高専の目的は「5年間でエンジニアを養成すること」ですので、そのための勉強をするというわけです。
専門は学年が進むごとに時間も増え、内容も高度になります。また毎週のように専門の実験・実習があり、レポートを書くことになります。これによってかなりレポートの書き方、まとめ方を鍛えられるのですが、この力は卒業してからも非常に役に立ちます。実際に内部生(普通に大学受験して1年生から大学にいる人)よりも、高専を卒業した編入生のほうがずっと良いレポートを書いているように思います。
また高専では専門や高校よりも高度な数学や物理を学ぶわけですが、その内容ゆえに学校の他に勉強を教えてくれる、いわゆる「塾」のようなものはありません。そのため自分でしっかりと勉強する、分からないところは友達や先生に聞く、という自立学習の習慣がないと厳しい環境だと言えます。
高専はやはり普通の高校とは異なった環境であり、個性的な学生が集まっています。
6/1追記・高専生はオタクだ、と言われることがあります。しかし、高専生=オタクというとこれにはかなり語弊があるので、個性的な学生、と表現しました。もちろんアニメ、フィギュアなどの趣味を持っている人もいます。しかしながらそういったものに興味がない学生ももちろんたくさんいます。”どんな趣味も否定されることはない環境”と言えば分かりやすいでしょうか。音楽、プログラミング、サッカー、アニメ、工作、麻雀、カメラ、銃、ゲーム、バスケなどなどいわゆる”オタク趣味”を含めた様々な趣味を持った学生がおり、こういった学生らが高専の自由な校風を作り出しているとも言えます。
またエンジニアを目指す学生が集まるところですので、どうしても女子の数は普通高校よりもかなり少なくなります。男子と女子の比率が1:1、ということはまずありえないと思ってもよいでしょう。(6/1訂正・学校や学科によっては1:1もありえるそうです。高専のホームページで確認してみてください)機械系の学科では男子38人、女子1or0人、などということも珍しくはありません。
クラス編成は学科単位なので、5年間クラス替えはありません。(6/1訂正・学校によっては混合クラスの編成もあり、クラス替えがあるところもあるようです。)ですので確かに刺激は少ないのですが、クラスメイトとはかなり親密な仲になります。
また大半の高専には学生寮があります。学校によっては全員が必ず入るところもありますし、学校によっては希望者のみ、あるいは1年間は必ず入る、などのルールがあります。ちなみに私は寮に5年間入っていましたが、一晩中友達と部屋で喋ったり、勉強会をしたり、週末に談話室で夕飯を作ったりと楽しい環境でした。
6/1追記・高専によっては寮が厳しいところもあるようですね。ちなみ私の高専の寮では1年生から基本的に自由で毎日楽しく過ごしておりました。ただ挨拶と消灯に関しては厳しく、1年生のうちはきちんと挨拶をし、消灯時間には寝るよう指導されました。また風呂掃除などの当番も基本的に1年生の仕事でした。2年生になると当番や消灯の拘束はなくなりました。いわゆる「寮のルール」は高専によってかなり差があると思いますので、知り合いがいれば聞いておくとよいでしょう。
部活動もちゃんとあり、3年生までは普通の高校の大会にも参加できますし、高専大会では4、5年生も参加できます。
高専卒業後は就職するか進学するかの二択になります。このご時世でも高専の就職率は非常に高く、ほぼ100%を維持しているところがほとんどです。高専からの就職は基本的に「推薦」という形で行われるので、大学生のように就職活動をする必要がありません。企業の方から来た求人と学生の希望を担任の先生が調整してくれるのです。これが高専が高い就職率を維持している理由でもあります。
自分で行きたい企業に応募する(自由応募といいます)ことも出来ます。(ただし、自由応募で就職する人はほとんどいません)また、人によっては公務員試験を受ける人もいます。(地方上級、国家二種、三種など)
しかし、ここで注意して欲しいことは、高専卒はあくまで高専卒であって、大卒とは違うということです。高い就職率ではあるものの、給料や昇進の面からみて高専卒が大卒と同じように扱われることはないようです。
さて、進学の方はといいますと、基本的に高専が設置している専攻科へ進むか大学3年への編入するかのどちらかです。
専攻科とは高専が作ったさらなる専門の学習機関で、2年間あります。基本的には自分がいた高専に設置された専攻科に進むことが多いです。卒業後は学士(4年制大学卒と同じ学位)がもらえます。
もうひとつは大学3年次(大学によっては2年次)編入です。地元の国立大学に編入する人もいますが、東京大学や京都大学をはじめとした旧帝大のような難関校への編入も全く珍しいことではありません(もちろん受験勉強は必要です)。高専によっては毎年かなりの学生を東大や京大に送り込んでいるところがあります。(各高専のホームページの進学状況を見てみるといいでしょう)ちなみにどの大学でも高専からの編入生は優秀だと言われるそうです。
6/1追記・普通の大学入試とは違い編入試験の日程は大学ごとに異なっており、そのため日程が被らなければ何校でも受験できます。(例えば、6月に広島大学を受けて、7月に筑波大学を受けて、8月に大阪大学を受ける、など)複数の国立大学を受験できるのも高専の大きなメリットの一つです。ただし、大学によっては「入学確約書」の提出や「(入学金を振り込むなどの)入学手続」を求められるところがあるので、この期限を確認して受験することになります。
・圧倒的な就職率
・自由な校風
・就職や進学の場で、普通の人とは違う、というアピールポイントになる
・学んでいる専門が嫌いになると非常に辛い
・留年、という普通高校ではほとんどありえないことがそれほど珍しくない
・女子学生が少ない(6/1追記・学校によっては女子学生が多いところもあるようですが、ほとんどのところが少ないと思われます)
・5年間クラス替えがない(6/1追記・学校によってはクラス替えがあるところもあるようです)
・普通高校が羨ましくなる
・大学1、2生が羨ましくなる
これまでの説明で高専がいかに普通高校と違うかがわかっていただけたと思います。この違いを楽しめる人が高専に向いている人といえます。
高専は5年間で一つのパッケージになっているため、3年で退学して大学入試に挑むことも可能ですが、やはり普通高校に比べると難しくなってしまいます(一般科目の学力が足りない、など)。大学編入でいい大学にいけるから、という理由で高専に入るのはやめた方がいいでしょう。5年間ずっと専門を学びますし、特殊な環境なので一度嫌になったらかなり辛い場所です。毎週のようにレポートがあり、テストで求められる点数もそれなりに高いので、留年するということが普通高校ほど珍しくありません(もちろん、普通に勉強していれば大丈夫ですが)。遊びすぎたり、無気力になって留年や退学していった人を何人も見ました。
しかし逆に、専門が好きでエンジニアになりたい、という人にはとても良い環境だと思います。先生も個性的で距離も近いので、親身になって教えてくれます。
当然ながら高専への合格基準は明確に示されているわけではないので、あくまで参考として読んでください。
推薦は中学校の内申点と面接、作文などが評価されます。出願には一定の成績(5段階評価の平均が4以上、など)が必要なところもありますので、推薦を狙う人はきっちりと定期テストで成績をキープしておきましょう。作文では専門に関すること(例えばインターネットの将来を予想しなさい、自分の住んでいる街の良いところと悪いところを説明しなさい、など)をテーマに出されるところもあるので、普段からいろんなことを観察したり本を読んだりして視野を広げておきましょう。
中学生に専門知識を求められる事はないはずなので、面接では自分がどうして高専に行きたいのかということを明確にしていれば大丈夫でしょう。
学力試験は過去問が7割程度解ければ良いと言われています。高専の問題は普通高校の入試問題とはすこし変わっているので、過去問は絶対に解きましょう。学習指導要領を超える難関私立高のような問題は出ないので、基礎をきっちりと押さえておけば大丈夫だと思います。
こんな質問をされることが高専生(あるいは卒業生)の間で必ずあります。即答で「うん!」という人はあまりいないのですが、なんだかんだで入ってよかったと思っている人は私の周りでは多いです。私自身、在学中は「普通高校に行っておけばよかった」、と思うこともしばしばあったのですが、卒業して大学に編入してから振り返ってみると実はいい環境だったんだな、と思います。大学に入ってから高専出身の人と出会うと仲間意識が芽生え、「高専トーク」で盛り上がりますし、高専卒というのは自分の中のアイデンティティにもなっています。
中学3年生の人はそろそろ進路を決めなければならない時期かと思いますが、高専のことが気になる人は夏のオープンカレッジにぜひ参加してみてください。高専の雰囲気がよくわかると思います。
繰り返しますが、高専に進学するという選択は良くも悪くもかなり特殊な選択です。しっかりと自分の将来を考え、情報収集をし、保護者の方ともよく相談して決断してください。
去年の頭からほぼ毎日更新されていて、読んだ漫画、観た映画やDVDの感想、twitterのログ、買い物日記、そして日常のあれこれがずっと綴られていた。
DVDの感想やtwitterのログは量が多すぎて読み切れなかったが、日常のあれこれは一応全部目を通した。
彼女は仕事を休職し、精神科とジムに通い、自分の理想と現実のギャップに苦しんでいた。
俺は一昨年の春に彼女と別れ、しばらくして彼女との連絡を全て絶った。携帯の番号もメアドも消去した。
俺自身も心療内科に通い、無気力な生活を10ヶ月あまり過ごした。彼女は俺と別れてしばらくしてから休職したらしい。
俺は時間をかけていろんな事を忘れることに費やした。自分が彼女を傷つけたことも、彼女に傷つけられたことも。そうしないと生きていけなかった。
ブログを書くこともやめ、別アカウントでハイクやtwitterをやっていた。彼女がハンドルを変え、どこかでブログをやっていることは知っていたが、見に行くことはしなかった。
彼女のブログには俺に対する批判めいたことはほとんど書かれていなかった。少しくらいはあったが、彼女にしてみても書いて嫌な気分になりたくなかったのかもしれない。あるいは関わりになりたくなかったのかも。俺はその間、彼女に関して一言も書くことはなかった。正直、後ろめたい部分もあった。彼女を決定的に傷つけてしまった、という想いがどこかにあった。
俺の親友は彼女のことをとても嫌っていた。「あいつがアンタを壊したんだ」とも言った。それは一つの事実かも知れない。でもそれは俺も同じだ。そして俺は別れたあともしばらく彼女を愛していた。やり直せるものならやり直したかった。でも俺にはその力はなかった。自分一人を支えきれない人間が、他人を背負い込めるはずもない。だから俺は彼女を切り捨てた。出来うる限り彼女から逃げた。
一度関係を修復するチャンスがあった。しかし俺自身のミスでそのチャンスは損なわれた。向こうがそれを望んでいたかは分からない。むしろ迷惑な話だったかもしれない。
そうして俺の生活から思い出や未練が無くなっていった頃、遠くの方から「彼女が死んだ」という話が聞こえてきた。
それからそのブログを頭から読んだ。苦悩と苛立ちと、何かの諦念を纏った日常がそこには書かれていた。
時々あげられている自分撮りの写真を見て驚いた。「うつ太り」という言葉があるが、俺と付き合っていた頃のスマートさは完全に損なわれていた。ストイックで規則正しい生活を送っていた頃の彼女の面影はそこにはなかった。
それが俺のせいだなんておこがましくてとても言えない。でも俺はそんなになるまで病んでいた彼女を知らなかった。知ろうともしなかった。彼女の家族や友人たちは、おそらく俺のことを快く思っていないだろう。俺はネット上の名前を変え、何事もなかったかのようにお気楽な暮らしを続けていた。時々心療内科に通ってはいたが、おおむねその日暮らしの自分勝手な暮らしに終始していた。「病んでいる」の程度で物事を測ることは出来ないのかもしれない。でも俺は死なずにここまで来た。怒られるのを承知で言うと、彼女を切り捨て、名前を変えた事によってむしろ楽しく生きてこられた。
そうして彼女はこの世から失われた。大好きだったハリーポッターの完結も観ずに。
俺に何かが出来たとは思えない。多分向こうも関わっては欲しくなかっただろう。病人同士が顔を突き合わせても憎み合いか共倒れになるだけだ。
それでもどうしようもない無力感から逃れることが出来ない。泣くことすら出来ない。死ぬ事も出来なくなった。
これからどうしたいかははっきりしていない。ただ同じ過ちはしたくない。何かあったときに誰かを支えられるだけの力が欲しい。今の俺はあまりに無力だ。カネもコネも権力もない。心の包容力さえない。今からでは遅すぎるのかもしれない。いや、遅すぎる。しかし俺は強くなりたい。こんな想いはもうたくさんだ。
いつか俺に守りたいと思う相手ができたとき、少なくとも今よりましになっていたい。詐欺師みたいに口先だけで誤魔化していくのはやめにしたい。そのために今日も死なずに生きていく。彼女は戻っては来ない。俺はまだ向こうには行かない。あがき続ける。過去は変えられない。未来は分からない。今を一生懸命やるだけだ。
戦争責任者の問題
最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。
そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れられない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏(ほきよう)につとめていたのであろう。
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。
ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最小限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。
もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からもくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
また、もう一つの別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたらとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(ぜいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。
こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。
しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである。
すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任の問題も、便宜的な一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があるまい。つまり、問題の性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間による判断を一切省略して、その人の地位や職能によつて判断する方法である。現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。
しかし、それなら映画の場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないか。しかもこの場合は、いじめたものといじめられたものの区別は実にはつきりとしているのである。
いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であり、いじめられたものは業者である。これ以上に明白なるいかなる規準も存在しないと私は考える。
しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いつたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである。
たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念をもちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。
もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。しかし、そんなことがいまさら何の弁明になろう。
戦争が始まつてからのちの私は、ただ自国の勝つこと以外は何も望まなかつた。そのためには何事でもしたいと思つた。国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。親友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬることだと信じていた。このばか正直をわらう人はわらうがいい。
このような私が、ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、どうして人を裁く側にまわる権利があろう。
では、結局、だれがこの仕事をやればいいのか。それも私にはわからない。ただ一ついえることは、自分こそ、それに適当した人間だと思う人が出て行つてやるより仕方があるまいということだけである。
では、このような考え方をしている私が、なぜ戦犯者を追放する運動に名まえを連ねているのか。
私はそれを説明するために、まず順序として、私と自由映画人集団との関係を明らかにする必要を感じる。
昨年の十二月二十八日に私は一通の手紙を受け取つた。それは自由映画人集団発企人の某氏から同連盟への加盟を勧誘するため、送られたものであるが、その文面に現われたかぎりでは、同連盟の目的は「文化運動」という漠然たる言葉で説明されていた以外、具体的な記述はほとんど何一つなされていなかつた。
そこで私はこれに対してほぼ次のような意味の返事を出したのである。
「現在の自分の心境としては、単なる文化運動というものにはあまり興味が持てない。また来信の範囲では文化運動の内容が具体的にわからないので、それがわかるまでは積極的に賛成の意を表することができない。しかし、便宜上、小生の名まえを使うことが何かの役に立てば、それは使つてもいいが、ただしこの場合は小生の参加は形式的のものにすぎない。」
つまり、小生と集団との関係というのは、以上の手紙の、応酬にすぎないのであるが、右の文面において一見だれの目にも明らかなことは、小生が集団に対して、自分の名まえの使用を承認していることである。つまり、そのかぎりにおいては集団はいささかもまちがつたことをやつていないのである。もしも、どちらかに落度があつたとすれば、それは私のほうにあつたというほかはあるまい。
しからば私のほうには全然いい分を申し述べる余地がないかというと、必ずしもそうとのみはいえないのである。なぜならば、私が名まえの使用を容認したことは、某氏の手紙の示唆によつて集団が単なる文化事業団体にすぎないという予備知識を前提としているからである。この団体の仕事が、現在知られているような、尖鋭な、政治的実際運動であることが、最初から明らかにされていたら、いくらのんきな私でも、あんなに放漫に名まえの使用を許しはしなかつたと思うのである。
なお、私としていま一つの不満は、このような実際運動の賛否について、事前に何らの諒解を求められなかつたということである。
しかし、これも今となつては騒ぐほうがやぼであるかもしれない。最初のボタンをかけちがえたら最後のボタンまで狂うのはやむを得ないことだからである。
要するに、このことは私にとつて一つの有益な教訓であつた。元来私は一個の芸術家としてはいかなる団体にも所属しないことを理想としているものである。(生活を維持するための所属や、生活権擁護のための組合は別である)。
それが自分の意志の弱さから、つい、うつかり禁制を破つてはいつも後悔する破目に陥つている。今度のこともそのくり返しの一つにすぎないわけであるが、しかし、おかげで私はこれをくり返しの最後にしたいという決意を、やつと持つことができたのである。
最近、私は次のような手紙を連盟の某氏にあてて差し出したことを付記しておく。
「前略、小生は先般自由映画人集団加入の御勧誘を受けた際、形式的には小生の名前を御利用になることを承諾いたしました。しかし、それは、御勧誘の書面に自由映画人連盟の目的が単なる文化運動とのみしるされてあつたからであつて、昨今うけたまわるような尖鋭な実際運動であることがわかつていたら、また別答のしかたがあつたと思います。
ことに戦犯人の指摘、追放というような具体的な問題になりますと、たとえ団体の立場がいかにあろうとも、個人々々の思考と判断の余地は、別に認められなければなるまいと思います。
そして小生は自分独自の心境と見解を持つものであり、他からこれをおかされることをきらうものであります。したがつて、このような問題についてあらかじめ小生の意志を確かめることなく名まえを御使用になつたことを大変遺憾に存ずるのであります。
しかし、集団の仕事がこの種のものとすれば、このような問題は今後においても続出するでありましようし、その都度、いちいち正確に連絡をとつて意志を疏通するということはとうてい望み得ないことが明らかですから、この際、あらためて集団から小生の名前を除いてくださることをお願いいたしたいのです。
なにぶんにも小生は、ほとんど日夜静臥中の病人であり、第一線的な運動に名前を連ねること自体がすでにこつけいなことなのです。また、療養の目的からも遠いことなのです。
では、除名の件はたしかにお願い申しました。草々頓首」(四月二十八日)
原子力というのは人類のステージをひとつ上に押し上げる力なのだ。それを絶やすわけにはいかない。
事故を知り、あーあ、東京終わったねと考えていたが、島根、岡山で福一由来のヨウ素131が検出されたことからももう西日本に居ても終わりに近づいているんだね。バイバイ俺の人生><。
当初は東日本が禁断の地となって西日本に首都機能が移転して、東日本はロストグラウンドと呼ばれそこで生活する人はトンキンとなり次世代のニュータントになっていくんだろうなと思った。
それって結構おもしろそうですよね。中国なんて放射能で畸形が生まれているけどまぁ生き残っているし東日本の皆さんも新たな力に目覚めて是非生き残っていって欲しいです!
放射能に冒された東日本人の皆さんがチェルノや東海村の資料のように次の世代の研究の礎になって貢献できるんだと考えるとそれはとっても幸せなことだと思うので頑張ってくださいね。
とか、色々ざまぁwwと思ってたんだけどね、自分に火の粉がかかってくるとちょっwwwwおまwwwwでもう気分が落ちまくりで、無気力になっちまいますよ。やだやだー。
下手に俺は勉強しているせいでこんなのどう考えても正気じゃないよねという環境で東日本の連中が暮らしているのは頭が放射能にやられてしまったのかと心配になってしまいます。
がんばれってのは、一過性のもんだ。
がんばりが足らない人には、がんばれというのさ。
がんばってる人にがんばれと言うのは、そのがんばりを途切れることなく続けろって意味だ。
放射能をまき散らしやがって…とは思うが。
阪神大震災だろうが、チリの大地震だろうが、ニュージーランドの大地震だろうが、被害をうけた意識がない。
俺は、被災者に向かってがんばれなんざ、ツイッターでも発言してない。
逆に、死ねとも言わない。
関心がなかった。
関心の向かわないやつらに、かける言葉なんかない。
逃げるのなら、とっくに逃げてるだろう。
復興したら遊びに行くかもしれんが、まだまだ事故の渦中で、ありえない。
ただ、お前の言葉は目に留まった。
意識にとどめておくし、思ったことも投げつけてやる。
本音でな。
上に書いたことは元増田の望む答えではなく、他に読んだ人から顰蹙をかう可能性があると思う。
それでも本音をぶつけてやる。
さて…俺が被災したらどうするか。
知らんな。
「恋愛と友情はどっちが大事?」という質問は、「水と酸素どっちが大事?」並に馬鹿げていると思う。
答えは「どっちも必要」一択。
しかし身近な生身の人間から必要な量の「恋愛」や「友情」を摂取するのはなかなか厳しいことで、
機会にあぶれた人向けの代替コンテンツは多数用意されている。
たとえば恋愛映画やケータイ小説、マンガ、恋愛シミュレーションゲーム、美少女アニメ、アイドル。
では、友情の代替品はあるか。
観測範囲の問題かもしれないけれど、「恋愛」が充たされていなくても「友情」が充たされていれば、
人は自暴自棄や鬱・無気力などの不安定な状態にはならないようだ。
逆に「友情」が充たされていない人は、どんなにモテて「恋愛」を充たし放題でも、
性依存や自傷行為など不安定な状態に置かれていることが多い気がする。
「恋愛」に恵まれないことで自分が不安定になっていると感じている男女も、
本当は「友情」の欠乏によって不安定になっているのでは?