はてなキーワード: 景観とは
8月25日 5時4分
トラックの車体全体に石原慎太郎が描かれている宣伝車について、東京都は、石原慎太郎の簾ハゲによっては景観を乱したり交通事故を引き起こしたりするおそれがあるとして、ことし10月からデザインの規制を行うことになりました。
トラックの車体全体に石原慎太郎が描かれている宣伝車は、10年ほど前から街中を走り始め、今では東京都心の繁華街を中心に、連日、多くの車が走っています。この宣伝車について、東京都が設置した審議会で「知性のかけらもない低民度馬鹿右翼が景観を乱している」とか「反知性的ドヤ顔が周りの車の運転者を激高させ、宣伝車への汚物投擲や体当たり事故などを引き起こすおそれがある」などといった意見が出たことから、都は、条例の施行規則を変更して、ことし10月から、宣伝車に描かれた石原慎太郎の規制を行うことになりました。具体的には、馬鹿右翼や差別主義者だとわかってしまう無駄にでかい顔や日本中の不快指数を上げるような発言を禁止するほか、専門の団体の審査を受けないと警察が道路の使用を許可しないようにすることを検討しているということです。東京都都市整備局の宮島正次課長は、「一部だが、もう見苦しいったらありゃしない、大砲で撃ってしまいたいといった都民の批判を招くような状態になっているので、適正な規制を行って、景観の確保などを図っていきたい」と話しています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110825/k10015130631000.html
大変申し訳ないのですが、夏場のプールへ外出なさるのはお控えください。
いらしたとしても、肌の露出は極力避けて頂くようお願いいたします。
皮膚病が周囲の方々にまで伝染るのではないかと危惧しているからこのような文章を記しているわけではございません。
甚だ申し上げにくいことではございますが、景観問題の一つとして提言させていただいた次第でございます。
我々といたしましては、ご来店になられるたくさんのお客様方に今日という一日を楽しんでもらいたいのが第一の願いであります。
しかしながら皮膚病というものは、アトピー性皮膚炎というものは、酷ければ酷いほどに見る人に哀れみを感じさせてしまいます。
人によっては嫌悪感を抱かれることもあるかと存じます。炎症を起こした皮膚と同じ水に浸かることに生理的な拒否感を抱かれる方もいらっしゃるかもしれません。
楽しいはずの空間で、悲しくなったり居たたまれない思いを抱いてもらうことは、我々の本意ではないのです。
苦渋の決断ではありますが、より多くのお客様に楽しんでいただくためには、今回の決定をする以外に方法がないと至った次第でございます。
理事長ってのは実行部隊ではない。
「ペット禁止マンションなのに、〇〇号室は犬を飼ってる。対応しろ」
「〇〇号室がふとんをベランダに干してる」
「管理人にちゃんと仕事させろ、ずっと管理人室に座ってるだけじゃねーか」
これらは、だからどうしてほしいのかがない。
「バルコニーでタバコを吸うのを禁止にしろ」
「1階の非常口の鉄の扉が重い、オートロックにしろ」
「バーベキュースペースのバーベキュー利用を禁止しろ、くさい」
「ガレージのシャッター音がやかましい、夜11時以降は使用禁止にしろ」
「子供のおもちゃが散乱していて景観が醜いから敷地内公園をつぶして、自転車のスペースにしろ。」
これらは単に議題としてあげて、採決をとればいい。
俺が理事長ならそうする。そうしてた。
理事会の1/4以上の同意がなければ採決もとらないぐらいじゃないとね。
てか、採決なんて年1、2回だろ。毎月住人にとってたら大変だぞ。
くじびきに当たって、今マンションの管理組合の理事長をやってる。
いろいろと大変だわ。
今で理事長に就任して7ヶ月目。
築10年くらいのマンションなので ジジイ世帯はまだ少数派だけど、彼らの世代の声は想像以上にでかいことに気づかされた。
そもそも若い世代の人達は働いてるし、忙しいからマンションのことなんか気にかける余裕がある人は少ないんだろう。
ジジババが、俺の家を訪れては文句を小1時間ほど言いにやってくるわけだ
俺が夜帰ってくるのが遅いってのもあって置き手紙が何通も入ってて夜10時くらいにこられたこともあった
おれは警察じゃねーぞ。
「バルコニーでタバコを吸うのを禁止にしろ」
「1階の非常口の鉄の扉が重い、オートロックにしろ」
「ペット禁止マンションなのに、〇〇号室は犬を飼ってる。対応しろ」
「〇〇号室がふとんをベランダに干してる」
「管理人にちゃんと仕事させろ、ずっと管理人室に座ってるだけじゃねーか」
「バーベキュースペースのバーベキュー利用を禁止しろ、くさい」
「ガレージのシャッター音がやかましい、夜11時以降は使用禁止にしろ」
「子供のおもちゃが散乱していて景観が醜いから敷地内公園をつぶして、自転車のスペースにしろ。」
こういう上がってきた問題が月に一度理事会で処理される。
大の大人が集まって1,2時間かけて議論するわけだけど、ほんと自分のことしか考えてないくだらない問題ばかりなんだよね
でも、一応責任ある立場としては無視はできず、ポーズでも対応していかなきゃならない
ジジイがしつこいので相手方への注意を管理会社のスタッフさんにやってもらうこともよくある。
こういう無駄な仕事を増やす声がでかいだけのバカな層がいて、それをしょうがなく実行するって構造は社会の縮図な気がしてしょうがないんだよね
オイコラ中年ども。何がこの社会は俺らが作り上げた、だ、クソが。まず家庭や学校で子供をさんざん虐待した事実を隠蔽している時点で良識もくそもないわ。まず児童人権条約も守っとらんやないけ?自分らが子供にどんだけ苦痛与えているか無視して、妄想の中の健全性だけに目を向けるなよ犯罪者が。よーするにお前らが見てる社会は偽物だ。お前らが暴力や犯罪で無理やり作り上げたその美しい都市景観の背後にゃー、無数の嗚咽と慟哭と怨嗟の声がある。勘違いするなボケカスー。基本的に、子供の人権を蹂躙した事実を隠蔽して作り上げた完璧な社会通念ほど犯罪的なものはなく、真に健全な社会通念と相容れないということ。中年よ、お前らはゴミだ。さっさと刑務所行くなり自殺するなりして、おんどれの罪を償えボケが。
よくわからないけど、カネのない地元がいやで関東に逃げ出せたんだから、結果オーライじゃないの?
逃げ出したくもなくて、カネがないのも嫌なら、カネがまわる産業を作り出せば(観光でも工業でも農業でも中身はなんでもいい)気に入らない誘致は必要ないよね。
原子力発電所とは違うかもしれないけど、まともな産業のない便利な田舎にはラブホテルが並ぶ。景観もクソもあったもんじゃないだろうし、地元の人で気持ちのいい人もあんまり居ないだろう。日本中でそんなの当たり前だと思う。
不便でも発展してる街だってたくさんある。
「福島」(?)が発展しないのは、「カネのない地元がいやで関東に逃げ出す」人たちが文句を言うだけだからじゃないかな。文句は言っても言わなくてもいいけど、変えたいなら変える努力をする。努力せずに変わって欲しいなんて、甘い。(そして、多くの田舎の人は、考えが甘い。甘いから田舎になるのかもしれないけど)
田舎の人が思ってる以上に、都会の人はキビシイ環境で生きてきてるんだよ。常に競争社会に置かれ、教育を受け損ねれば(=高校中退とか)、最底辺で生きていくかアウトローな社会で生きて行くことを強いられる。
イナカモンが、イナカモンと笑われるのは、イナカモンだからだと思うんだけどな。
激動の時代に於いて、流れにどう身を任せるか、というのはいろいろあるが、
一部の人間はその前提自体を疑ってかかる傾向を示す。これまでの停滞した現実がおかしかったんだ、と。これからはスピード感だ、と。
そもそもこれまでがおかしかったんだ、というのはなかなか聞こえがいい。おそらくそうやって己を社会に適応させているのだろう。
これを今までおかしかったんだ症候群<Gym Ghingham Syndrome>(以下GGS)と呼びたい。
GGSは本邦でイマオカ症として親しまれている。パニック症候群との関連が調査されているが未だ解明されていない。
症例としては、以下のようなものが挙げられる。
いずれも、社会や組織、景観に基準など、個人を規定するより大きい概念への疑いのまなこと、それを更新しうる新たな概念――ときに自身の基準がそれと重なる――への希望のこころが併存する。
したがってその個人の心理状態は極めて不安定であり、セカイ系との関連も指摘されている。
処方箋としては、たいてい時が解決する。つまり、極度の緊張から生まれた過剰適応なので、平静を取り戻せばこころも落ち着きを取り戻すのだ。
しかしその後に、枕に顔をうずめて足をバタバタしたくなるような羞恥に苛まれることになるが、それは本症例とは異なるものであるため、詳細は割愛する。
火力発電
原発が事故ったときのリスクに比べれば、してるかどうか胡散臭い温暖化なんか知らん、でいいのか?
国際的なコンセンサスは取れるか?(世界が、うちエネルギー自給出来ないけど地震多いから原発も建てられないからガンガン火力するわwで納得するのかな?)
村がダムに沈もうが、どうせ過疎化しきった田舎だからどうでもいい、でいいのか?
日本国民の安全のために、少数の国民は故郷を失う痛みは我慢すべき?金貰ってんだからいいだろって?それって原発のそれと一緒じゃないの?リスク少ないからいい?
景観破壊とか、低周波音被害はどうする?よく分かってないし、原発よりは影響無いから我慢すべき?
バードアタックで鳥さんいっぱい死にそうでスカイシェパードとかいう組織が発足して風車破壊活動とかやりそうだけど、どう?
(ていうか風力発電普及した国で動物愛護団体のスタンスってどうなんだろ。)
国立公園云々は比較的どうでもいい気がするけど、温泉業界が大反対するみたいだけど、やっぱ日本国民全体のために一部の人間は痛みを受けるべき?
あと何か地震を誘発する危険があるかもしれないかもしれないんだけど、それってどうなの?
...何かどの発電方式もどうとでもいちゃもんつけられて否定出来ちゃう(出来てないかもだけど)ような...。
あとここらへんの比較的世代が新しい発電技術ってまだデメリットが出切っていなくて、これから何か凄まじく深刻なデメリットが出てきたりしないのかな?
まぁそれは「やってみないと分からない」のだけど、この国の国民性としてそんな不確定なものが許容されるのかな?
「次世代エネルギーはクリーンです!」て原発でやったみたいに洗脳すればいいかも。
結局、どんな政策とっても反対する人はいるわけで、利権だって存在するわけで、そんな中で必要なのは
日本の置かれた現状、環境などを十分考慮したベストミックスを議論して、強力なリーダーが断固としてそれをやり抜くこと、またそれをやり抜くことが出来るような土壌を
「
一方で小規模発電、スマートグリッドも何かいいよねと思いつつ、でもこれも推進には強烈なリーダーシップが必要だよねと思いつつ
家庭用ソーラーシステムの普及が急務だ。
ソーラーシステムを取り入れていた家庭がどれだけ優雅だったかを広めなくてはならん。
蓄電池や給湯システムの活用で、雨や曇りの日も問題なく
電力を賄えるようになってきていることを広めなくてはならん。
電線は景観を壊す。電線は切れると危険である。電線は貧民街の景色になっていくだろう。
また計画停電のために営業自粛や営業停止に追い込まれた製造業も大損害を被っているだろう。
工場は電力会社にとって大口のお客様だが、もう東電を信用できなくなっているはずだ。
今回の損害から、自前の発電設備を整えてリスク管理をする必要性を学んで欲しい。
家庭用ソーラーシステムは電力会社のようなインフラと違い、民間企業に平等に門戸が開かれている。
各企業切磋琢磨してすばらしいソーラーシステムを開発して欲しい。
何が地デジだ、アホらしい。ソーラーシステムこそ一番力を入れて開発されるべきだし、
需要が高まるべきものなのに。
そしてそれによって東電の資金源が壊滅し、株主が大打撃を受けることを望む。
東電の幹部も大量の自社株を持っているだろう。損しろ糞ども。
福島産や茨城産の食品が出荷停止になり致命的な打撃を受けているという。
(原発反対団体のようなキチガイは昔から居た。それでも新しい原発を建設してきた。
今の東電幹部が老朽化の進む福島第一を廃炉にし新しい原発を建設しなかったのは純粋な怠慢である。)
潰れるまで保障しろ。
(ソース:世界の中の東京(東京都環境局) http://www.kankyo.metro.tokyo.jp/attachement/1-1.pdf )
(ソース:東京都建設局 http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/kouen/kouenannai/image/22menseki.pdf )
しかしながら、東京は狭い、というのは数字の上では間違いです。
むしろ、平面的な広がりでは、世界の中でも広い方で、現に人口密度でも、世界の大都市の中では、むしろかなり低いほうです。
その上に、東京の土地使用においては、住宅の占める比率はむしろ他の都市に比べても高い方です。
それにも関わらず、一人当り公園面積が小さく、住宅は狭く感じるのは、なぜなのでしょうか。
それは、「低層の建物が多いから」です。特に、「低層住宅が多いから」です。
森ビルのHPによると、東京23区の平均の容積率は、僅か131%です。
また、いかに東京に低層の建物が多く、公園が少ないかはGoogleマップでも確認できます。
シンガポール: http://goo.gl/maps/EUQR
他の都市では、航空写真で見ても、この縮尺でも確認できる建物が多いですが、東京では、新宿近辺などを除き、この縮尺で確認できないような小さい建物が広がっています。このような低層住宅が広がるのが東京の特徴と言えます。
しかし、このような低層住宅が延々と広がることは、それほど良いものなのでしょうか。
低層住宅といえば聞こえはいいが、しかし、東京の低層住宅というのは、私には良いものだとは思えません。
庭などはほとんどなく、1階の日当たりもほとんどない。また、建蔽率が50%であっても、建物の他の敷地はほとんど駐車場…一般的な東京の低層住宅街と言うのは、このようなものではないでしょうか。
そうではないという人は、高い家賃を払っているか、駅から遠いか、あるいは、郊外に住んでいるような人でしょう。
日本は地震国であるため、高層建築が発達せず、多くの床面積を作るためには、平面的に広がるという方法を選択してきました。しかし、地震に強い建築が確立されつつある今、もはや、僅かな人数しか居住させられないいにも関わらず土地を占有する低層住宅は最早害悪以外の何ものでもないような気がします。
少なくとも、狭い土地建っている木造3階の一戸建てなんかは、床面積に占める階段の比率が多くなってしまい、非効率この上ないのではないでしょうか。
加えて、平面的に広がる住宅街は、通勤時間を長いものにしてしまいます(家は駅から遠くなり、また、電車による移動時間も長くなります)。これらは、余暇の時間・家族の時間の減少に繋がっていきます。
東京は高層化さえできれば、広く、駅から近く、また職場にも近いゆとりのある住環境を提供できるポテンシャルを持っているはずです。
高層マンションに反対している人は、狭い家とか、駅から長い時間歩くとか、また長い時間電車に乗ってるのが好きか、ただゴネ得を狙ってるとしか思えません。
高層ビルは景観を壊すとか言ってる人は、公園も庭もない家が延々と続く景観が好きという奇特な方なのでしょう。
シンガポールなんかは、東京より多い人口密度(6283人/km2)でありながら、緑が多くて「ガーデンシティ」なんて言われています。
東浩紀がTwitterでつぶやく「公共的論理」とはなんなのだろう。
以下思考実験
この事例において、公共的論理、とはいかなものを指すのだろうか。
想定される論理
さて、上に挙げたものは「公共的論理」と呼べるだろうか?
上に挙げたものでないならば、今回の事例でどのような論理が「公共的」なものとされるべきか。
修学旅行前日にインフルエンザになり、アラサーになるまで京都にも新幹線にも無縁だった人間が京都へ行ってきたよ!
東山から四条三条へ北上後、大宮や壬生を回り、島原へ南下し、西本願寺から京都タワー~豊国神社という徒歩旅。
どこもそうだったけど、四条大宮から壬生へ抜ける細い路地を歩いていたら1kmない距離なのに6、7軒は寺があった
路地を歩いているとそこらじゅうに小さな社があった
条例で高層ビルが建てられない為とは知っていても、京都タワーから一望できる眺めが凄い
都内と違って空襲で焼き払われていない分だけ古くからの家をそのまま使っている感じ
あらゆる人種が居る
交差点でクラクション音に驚いて顔を上げたが、酷い時は数分に3、4度クラクション音がなっていた
首都圏ではどんなに渋滞していようとクラクション音をそうそう聞く事はなかったのでびっくり
それから交差点を観察しながら歩いてみたら、赤信号なのに3、4台右折していく感じだった
そして対向車が切れず右折出来ないで居るとクラクションを鳴らす感じ
車の流れがあって多少無理でも曲がる事はあれど、完全に赤信号なのに数台は堂々と右折していったのでびっくり
都内でトイレットペーパーが無い駅はほぼ見かけないのに対し、京都駅は普通にトイレットペーパー無かった
その代わり備え付けのトイレットペーパー販売機があった
盗難はあれどトイレットペーパーを備え付けない店は無いという勢いの首都圏に対して
京都はただ単にトイレットペーパーすら売りつける商魂逞しい土地なのかどうか・・・
総武線内で席に座った全く無関係の隣あった男女3人全員iPhone弄ってて吹いた位なのに
阪急では携帯弄り率が低かった(弄ってる人いたかいないかレベル)
とはいえ京都駅は左によって右を空けていたり、観光客が多いとそうでもない模様
京都駅だったらごめんなさい、と前置きして三条川原町等三条通りかなと
阪急や他の地下鉄が乗り入れていて、京都駅が伊勢丹だけなら、ここは大丸阪急高島屋に色んなブランドの店が有
病院へ入った時に喋っていると周囲からの目線が軽く刺さるような雰囲気になった
これが噂の・・・と思った
しかし観光地を周っていると観光客慣れしているのか色々親切に教えてくれた
昔の話をしてくれたり、資料を貸してくれたり、いい人たちだなと感じた
新宿とは違ったでかさ、東京駅と比べてはいけないが、番線数やダンジョン度は東京の方が数倍上
都内の景観を無視しきったカオスな立て方のでかさではなく、なんでこんなオブジェクト作った?的な
恐らく普通の人が混雑した清水寺金閣寺銀閣寺を周っても、人の山過ぎて綺麗という観念が薄くなると思う
なんだただの普通の寺か~で終わる可能性大
仏ヲタ的には金閣銀閣は触手に触れず、広隆寺だの東寺だののがクるだろうし、
歴史ヲタなら平安鎌倉江戸末期とおいしすぎる上、ヲタスポットは断然人が少ない
勿論景色は綺麗だし料理は美味しいけれども、一般人はリピーターになるレベルまでは行かない気がした
本当に碁盤の目、ここは行き止まりだろ・・・という道こそどんどん突っ込んでいくと古い町なみが拝める
道が行き止まりにならない事を容易に悟れるはず
そのうちいつの間に寺の裏門へ出たりして、この界隈の人しか知らないルートを発掘出来る楽しさ有
殆どの人は一日バスフリー利用券(500円)で回っている模様だが、バスは平日でもかなり混雑している
観光案内通りにバスに乗ると混みまくるので、自分で適当に接続ルートを探して乗るとかなり空いていた
例えば金閣寺行き、駅と接続しない祇園から乗るとスカスカで座れたり・・・みたいな
ただ基本、街中の観光名所がかなり歩ける距離なので、ちい散歩やブラタモリするのがおススメ
湯島から上野までとか表参道から渋谷までとか、遠くて秋葉原から上野まで、みたいな距離
壬生寺に幕末京都の古地図が売っていたので、かなりブラタモリが出来る
寺は拝観料を取られるので(200~1000円程度目安)多く回る人は寺一つ頭千円で持っておいたほうがいいかも
高い見積もりかもしれないが、絵馬や御朱印、お守り収集や国宝観覧をするなら足りない位
カメラは撮影禁止の場所も多いが、撮影可の場所もあるのでカメっこは必須
しかし弥勒菩薩が居る広隆寺や平清盛像のある六波羅蜜寺や風塵雷神屏風の建仁寺はスムーズに入れた
どうしても土日なら土曜日に有名所へ
昨日、長い長いバイト探し生活に終止符を迎えた。ついに。
4月にやめた塾のバイトを最後にバイトを探し続け、面接を受けては落ちる、そんな毎日を繰り返していた。
最初はただ気軽にすぐ見つかるだろうと思っていた。
正直、それまでバイトなんて履歴書書いて、はいはい言ってれば受かるもんだとさえ思っていた。
しかし今回は違った。
何がおかしいのか、どこを受けてもどうやっても、これでもか、というほど落ちた。
面接回数が2桁を超えたとき、俺はもう数えるのをやめた。
これはさすがにヤバいと焦り、自分磨きが始まった。
何が悪いのかを徹底的に調べ、自分の欠点をリストアップし、ネット、友人、雑誌、テレビ、すべてから情報を集めた。
その結果、大学一年にして、髪型を黒&新社員カットにし、ファッション、文字、姿勢、言葉、すべてに力をいれた。
それでも落ちた。それでもう、バイトは選ばないと決めた。
というのは、職種はもちろん、場所、時間、そして時給という面でも。
カラオケ、居酒屋、ファミレス、事務、カフェ、モール、バー、・・・たとえ時給が800円でも喜んで受けた。そして落ちた。
あのころの俺はまさにハイエナのごとく求人サイトに職があがっては、喰らいつくように申し込んでいた。
この就活ならぬ、バイ活は俺の精神をトコトン追い詰めていった。最初は笑えたこの手の自虐ネタも次第に言えなくなり目が笑えなくなっていった。
そんな俺を見兼ねてか、本気で心配しだしてくれた周りの友人たちは
俺をボイスなり、メールなり、飲み会なりで、会う人会う人みんなが励ましてくれた。
それでもその時期ちょうど彼女と別れていたということもあり、面接に落ちて家に着き、ひとり夜を迎えると不満だけが蓄積していった。いくら励まされても気がヘンになりそうだった。
周りの期待を裏切るような考え方をしてしまう自分がふがいなくて、軽い欝症状というか、常に腹の中が分からない何かに対して煮えくりかえるような、そんな気持ちだった。
普通の人にこんなことを言ったら鼻で笑われるかもしれないが、当時、本当に死にたい気持ちでいっぱいだった。
それは同じ時期にバイトを探していた後輩(♀)が、バイトに受かったことが大きな要因だった。
俺がバイトを探して4ヶ月位の頃だろうか。後輩が新しいバイトを始めたという。おれは少しでも受かる参考がほしかったため、話をきいた。すると彼女は、そこの店長が男性で、はじめは無難な質問、応答をしていたのだという。そして最後の質問が
『彼氏いる?』というものだったそうだ。
あいにく彼氏のいなかった後輩は、そう答えると『はい、採用。』といわれた。
しかし、後輩は初日でバックれたのだった。彼女は今まで一度も面接に落ちたことがなく、なんとなく
面接の段階でダルくなっては初日でバックれて新しいバイトを探しているのだという。
それにくらべ俺は、落ちては自分で考え、ヘラヘラしろと助言があればヘラヘラし不採用、素の真面目なままでやってみろと助言されれば、真面目にやり、雇用者に『作っているだろう?』といわれる。もうどうすればいいのか分からなかった。
べつに世の中が理不尽なのは今に始まったことじゃないが、この時ばかりは死にたくなった。
俺は男だからバイトに受からないのか。見た目で判断されてしまうのか。そもそも特定の資格を必要としない、誰でもできるバイトにさえ落ちるということは、俺は社会から必要とされていない、存在すら許されないクズなんじゃないかと思った。で、
クズかどうかはこの無秩序な社会が決めることで、俺にはもうどうしようもないのだ。とさえおもった。
バイ活にすら手こずっている俺に、これからあと数年でくる就活という大きな壁を超えられるのだろうか。否、死のう。
これがその時浮かんだ結論だった。
でも、もしここで死んだらバイトが受からないだけで死んだと思われるんじゃないか?
そうおもい、どこかシャクだったので生きている。(言い訳に聞こえるかもしれないが)
今月、10月のはじめ、転機は訪れた。この頃にはもう社会に失望し、自分磨きもバカバカしく感じていたのでやめていた。
金もない、職もない、彼女もいない。こんな自分を誰が見ているというのか、自分は背景画にすらならない、むしろ景観を汚す意味のないものだ。と常に思っていた。
そんな俺の元に一本の電話が入った。『飲み会の誘いならカネ無いから行かないよ。』そう思って、電話にでると友人が
とあるバイトの求人広告を見たので紹介してくれるという。俺はさっそくメモを準備し、電番を書いた。そしてすぐ面接を申し込んだ。
面接ではいままで様々な人から聞いたアドバイス、研究に研究を重ねた洗練された受け答えを惜しみなく、何一つ余すとこなく出し切った。自分の中では完璧なやりとり、後悔はない。
これで落ちたら、本当に死のう。青木ヶ原に素直に行こう。あの周辺のことを採用連絡が入る予定の日まで調べていた。
そして、受かった。友人に感謝したい!という気持ちよりも死ななくて済んだ・・・という気持ちが大きかった。最低である。しかし、友人には本当になんとお礼をいえばいいのかわからない。本当に色んな意味で助かった。
ここまでで約半年が経過していた。たとえどんなバイトだろうとやめようとは思わない。たとえいじめられようが掘られようが、クビになろうが職場に行くつもりだ。そして社会に自分の利用価値を証明していきたい。そして、何十連敗もしている俺を受け入れてくれたこの職場にせめてもの恩返しの意味で、自分の出来る限りをつくし売上を上げていけるよう貢献をしていくつもりだ。
ずっと「トカイ」にいかなければと思っていた。育った町は関東に位置している田舎だった。電車に乗れば東京までたかだか一時間半か二時間程度の場所だったが、それでも十分田舎だった。電車を目の前で逃すと一時間は待たなければならなかった。隣駅は無人駅で、最寄駅は7時にならないと自動券売機で切符が買えなかった。バスに至っては二時間来ないこともざらだ。終電や終バスも早くて、夕方が差し迫ってくるともう乗り継いで行った先の終電のことを考えなければならない。東京は近くて、でも遠い街だった。
電車に乗ってあの町が近づいてくると、見渡す限りの田んぼとその中をうねうねと伸びる農道が見える。街燈がぽつぽつとしかない道を闇におびえながら全力疾走で駆け抜ける夜も、夏になると井戸からくみ上げて田んぼに水を注ぎ込む小川も、稲穂の上を渡る金色に光る風も、その中を喜んで走る犬も、道端で干からびている車にひかれたイタチも、うっそうと道上に生い茂り時々大きな枝を落としている木々も、なにもかもが呪わしかった。どこへ行くにも遠く、こじゃれた店は大規模なショッピングモールの中にしかなくて、中高生はいつもそこに特に理由もなくたむろしていた。みんな都会に行きたかったのだ。すぐにつぶれてしまう店も、郊外型の広い駐車場も、市街地から外れればとたんに何もなくなって農耕地だけになるニュータウンもみな忌み嫌っていた。
私たちはたまに触れるなにか新しいものを含んだ風にあこがれ、騒がしい日常を羨み、便利さに憧憬を抱いた。都会に行かなければいけない、という思いはまさに呪縛だった。こんな田舎にいてはいけない、田舎はつまらなく、古びていて、垢抜けない。だから都会に行かなくてはいけない。
高校を卒業するとともに私を含めほとんどの友人は都会へと向かった。何人かは都会に住みかを確保し、住処を確保できなかった人たちはどこかに拠点を確保して、毎日何時間もかけて都会へと通った。
私は住処を確保できた幸運な一人だった。山の手の静かな住宅地の中の、学生用の古い汚い部屋でも、私にとってそこは「トカイ」だった。駅に着くまで田畑はなく、家々は軒を並べ、駅では10分も待たずに電車が来る。どの駅でもかなりの人々が乗り降りし、夜が更けても街燈は一定の間隔で並んで闇を追い払ってくれる。都会には月明かりに気付く余裕をもって往来を歩けるほどの安心があった。そのくせ、私が慣れ親しんできた大きな木々や古い河の跡や、四季はきちんとそこにいて、祭りがあり、正月があり、盆があり、そうやって人々は暮らしていた。盆正月は店が閉まってしまうということを知ったのも都会に出てからだった。
都内にありながら広大な面積を有する大学の中には山があり、谷があり、そして池があった。そこにいると、田舎のように蚊に襲われたし、アブラゼミかミンミンゼミくらいしかいないとはいえ、蝉の声を聴くことができた。近くに大きな道路が走っているはずなのに、喧騒はそこまでやってこず、昼休みが過ぎると静寂が支配していた。水辺で昼食をとるのが私は好きで、蚊に食われたといいながらよくベンチに座って、亀と一緒に日を浴びながらパンを食べた。
田舎でそうしていたようにどこへ行くにも自転車で行き、アメ横からつながる電気街や、そこから古書街、東京駅、サラリーマンの街あるいはおしゃれな店が並ぶ一帯までどこへでも行った。都会は平坦につながっているのに、どこかに必ず境目があって、境界付近で二つの街の色が混ざり合い、ある臨界点を超えると途端に色彩の異なる街になってしまうのが面白かった。その合間にもところどころ自然は存在していて、いつからそこに植わっているのか知らない大きな木々が腕を広げて日陰を作り、その下にベンチが置いてある。くたびれた老人がその下に座り、コミュニティが形成される。それが私の見た「都会」だった。
山の手の内側で育ち、閑静な住宅街で育った人たちは、ここは「イナカ」だから、東京じゃないという。私はそれを聞くたびに笑いをこらえきれなくなる。あなたたちは田舎を知らない。電車が10分来ないとか、駅まで10分くらい歩かなければならないとか、店がないとか、繁華街が近くにないとか、それだけで田舎だと言っているけれど、田舎はそうじゃない。
コンビニには車で出かけなければならないことも、コンビニは農協のようなものだということも、、新製品は何か月もしないとおかないような、そのくせいつからあるのかわからないような商品が段ボールで積み重ねてあるということも、あなたたちは知らない。発売と同時に新商品を手に取ることができる喜びにあなたたちは気づかない。駅と駅の間が近くて、自転車で行き来でき、一つの場所に店が集まっていないせいであちこち足を運ばなければいけない不便性は田舎のそれとは違う。
大きな木が育っていてもそれを管理せずに朽ちていくばかりにする田舎、邪魔になればすぐに切ってしまうから、町の中に大木は残らない、それが田舎だ。古いものは捨て、新しいもので一帯を覆い尽くすのが、田舎だ。昔からあるものを残しながら新しいものをつぎはぎしていく都会の風景とは全く違う。人工の整然とした景観があり、そことはっきりと境界線を分けて田畑が広がる区域が広がる。その光景をあなたたちは知らない。人工の景観の嘘くささと、そこから切り離された空間の美しさをあなたたちは知らない。新しく人が住む場所を作るために農地や野原を切り開いて、道路を通し、雨になれば水が溜まる土壌を改良し、夏になればバスを待つ人々の日陰となっていた木々を切り倒し、そうして人工物とそれ以外のものを切り離していくやり方でしか町を広げていくことのできない田舎を、あなたたちは知らない。人々は木漏れ日の下に憩いを求めたりしないし、暑さや寒さに関してただ通りすがった人と話をすることもない。車で目的地から目的地へ点と点をつなぐような移動しかしないのが田舎だ。あなたたちはそれを知らない。
盆や正月に田舎に戻ると結局ショッピングモールに集まる。友人とだったり、家族だったり、行くところはそこしかないから、みなそこへ行く。しばらく帰らない間に、高校時代によく暇をつぶしたショッピングモールは規模を拡大し、店舗数も増えていた。私が「トカイ」で足を使って回らなければならなかったような店が、都会よりずっと広い売り場面積で所狭しと並ぶ。それがショッピングモールだ。上野も秋葉原も新宿も池袋も渋谷も原宿も東京も丸の内もすべて同じところに詰め込んで、みんなそこは東京と同じだと思って集まる。田舎は嫌だ、都会に行きたいと言いながらそこに集まる。
ABABというティーン向けの店でたむろする中高生を見ながら、私は思う。下町を中心としたチェーンのスーパーである赤札堂が展開しているティーン向けの安い服飾品を、田舎の人は都会より二割か三割高い値段で喜んで買う。これは都会のものだから、垢抜けている、そう信じて買うのだ。確かにその服はお金のない中高生が、自分のできる範囲内で流行りを取り入れて、流行りが過ぎればさっさと捨てるために、そういう目的に合致するように流通している服飾品だ。だから安い代わりに物持ちが良くないし、縫製もよくない。二、三割その値段が高くなれば、東京に住む若者はその服は買わない。同じ値段を出せばもう少し良いものが変えることを知っているからだ。田舎に暮らす私たちにとってのしまむらがそうであるように、都会に住む彼らにとって最低限の衣服を知恵と時間をかけてそれなりに見えるように選ぶのがABABだ。そのことを彼らは知らない。
ABABのメインの事業である赤札堂は、夕方のサービスタイムには人でごった返し、正月が近づけばクリスマスよりもずっと入念にかまぼこやら黒豆やらおせちの材料を何十種類も所せましとならべ、思いついたようにチキンを売る。あの店はどちらかというと揚げ物やしょうゆのにおいがする。店の前には行商のおばさんが店を広げ、都会の人たちはそれを喜んで買う。若いこどもはそれを見てここは「イナカ」だという、そういう光景を彼らは知らない。
そうして私は「トカイ」という呪縛から逃れていることに気付くのだ。私はABABでいいものがあれば買うし、同じようにしまむらで掘り出し物があれば買う。田舎よりも安くで手に入れることのできるものは都会で買い、田舎で安く買うことのできるものは田舎で買う。どちらもよいところはあり、悪いところはある。便利なところはあり、不便なところもある。都会の人も「トカイ」にあこがれ、ここは田舎だというけれど、「トカイ」というのは結局幻想でしかないということを、私は長い都会生活の中で理解したのだ。便利なものを人は「トカイ」という。何か自分とは違うと感じるものをひとは「トカイ」のものだという。それは憧れであり、決して得られないものだと気づくまで、その呪縛からは逃れられないのだろう。
「イナカ」はその影だ。「トカイ」が決して得られない憧れであるなら、「イナカ」は生活の中に存在する不便さや不快さや、許し難い理不尽やを表しただけで、「トカイ」と表裏一体をなしている。「イナカ」も「トカイ」も幻想でしかない。幻想でしかないのに、私たちはそれを忌み嫌ったり、あこがれ、求めてやまなかったりする。だから田舎はいやなんだというときのイナカも、都会に行けばきっとと願うときのトカイも私の心の中にしか存在しない、存在しえない虚構なのだ。
私はオフィス街の中で聞こえるアブラゼミの声が嫌いではない。でも時々その声が聞こえると、田畑を渡る優しく澄んだ夕暮れ時の風を思い出す。竹の葉をすかす光とともに降り注ぐ、あの鈴の音を振るようなヒグラシの音が耳に聞こえるような気がする。
記憶の片隅に、一面に広がる田んぼと、稲穂の上で停止するオニヤンマの姿が残っている。
父方の田舎は、人口の一番少ない県の市街地から車で一時間半かかるところにあった。周りは山と田畑しかなく、戦前から10軒もない家々で構成される集落だ。隣の家は伯父の家だったはずだが、確か車で15分くらいかかったと思う。幼いころにしかいなかったので記憶はもうほとんど残っていない。免許証の本籍地を指でなぞるときにふと頭の中によぎる程度だ。父はあの田舎が嫌いで、転職と転勤を繰り返して、関東に居を構えた。あの村で生まれて、育ち、その中から出ることもなく死んでゆく人がほとんど、という中で父の都会へ行きたいという欲求と幸運は桁はずれだったのだろう。時代が移り変わって、従兄弟たちはその集落から分校に通い、中学卒業とともに市街地へ職や進学先を求めて移り住んでしまった。今はもう老人しか残っていない。日本によくある限界集落の一つだ。
引越をした日のことは今も覚えている。きれいな街だと思った。計画的に開発され、整然と並んだ町並み。ニュータウンの中には区画ごとにショッピングセンターという名の商店街があり、医療地区があり、分校ではない学校があった。電柱は木ではなくコンクリートだったし、バスも来ていた。主要駅まではバスで40分。駅前にはマクドナルドも本屋もミスタードーナツもある。旧市街地は門前町として栄えていたところだったから、観光向けの店は多くあったし、交通も車があればどうとでもなった。商店に売られているジュースは何種類もあったし、本屋に行けば選ぶだけの本があった。子供の声がして、緑道があり公園があり、交通事故に気をつけろと学校では注意される。
バブルにしたがって外側へと広がり続けたドーナツの外側の淵にそのニュータウンは位置している新しい家を見に来たとき、祖父母はすごい都会だねぇと感嘆混じりに行った。
父は喜んでいた。田舎には戻りたくない、と父はよく言った。都会に出られてよかったと何度も言った。ニュータウンにはそういう大人がたくさんいた。でも、都心で働く人々にとってニュータウンは決して便利の良い町ではなかった。大きな書店はあっても、ほしいものを手に入れようとすると取り寄せるか、自分で都心に探しに行くしかない。服屋はあるけれど、高いブランド物か流行遅れのものしかない。流行はいつも少し遅れて入ってきていた。都心に日々通う人たちはそのギャップを痛いほど実感していたに違いないと思う。教育をするにしても、予備校や塾は少なく、レベルの高い高校も私立中学もない。食料品だけは安くて質のいいものが手に入るが、都会からやってくる品は輸送費の分、価格が上乗せされるので少し高かった。都会からじりじりと後退してニュータウンに落ち着いた人々にとって、言葉にしがたい都会との微妙な時間的距離は苦痛だったのだろう。
子供にはなおさらその意識が色濃く反映された。簡単に目にすることができるからこそ、もう少しでつかめそうだからこそ、都会は余計に眩しいものに思えた。引力は影響を及ぼしあうものの距離が近いほど強くなるように、都会が近ければ近いほどそこへあこがれる気持ちも強くなるのだ。限界集落にいたころには市街地ですら都会だと思っていたのに、ずっと便利になって都会に近づいた生活の方がなぜか我慢ならない。
そして子供たちは大きくなると街を出て行き、後には老人だけが残った。さながらあの限界集落のように、ニュータウンもまた死にゆこうとしている。幸運なことに再び再開発が始まっているようだが、同じことを繰り返すだけだろう。
祖父母にとって東京は得体のしれないところだった。彼らは東京駅で人込みの歩き方がわからなくて、父が迎えに来るまでじっと立ちつくしていた。若いころだってそうしなかっただろうに、手をつないで寄り添い、息子が現れるまで待つことしかできなかった。そういう祖父母にとってはあのニュータウンですら、生きていくには騒がしすぎたのだ。あれから二度と都会へ出てくることはなく二人とも、風と、田畑と、山しかないあの小さな村で安らかに一生を終えた。
たまに東京に出てくる父と母は、あのとき祖父母が言っていたようにここは騒がしすぎて疲れる、という。どこへ行くにもたくさん歩かなければならないから不便だと言う。車で動きにくいから困ると言う。智恵子よろしく母は、東京にイオンがない、と真顔で言う。私が笑って、近くにイオン系列のショッピングモールができたし、豊洲まで出ればららぽーともある、といっても納得しない。田畑がない、緑が少ない、明るすぎるし、どこへ行っても人が多い。すべてがせせこましくてあわただしくて、坂が多くてしんどい。それに、とことさら真面目な顔になって言う。犬の散歩をする場所がない。犬が自由に走り回れる場所がない。穴を掘れる場所もない。彼らはそう言う。
あんなに都会に出たいと願ってやまなかった若いころの父と母は、あのニュータウンの生活に満足し、さらに都会へ出ていくことはできなくなったのだ。それが老いというものかもしれないし、身の丈というものなのかもしれない。生きてゆくべき場所を定めた人は幸せだ。幻想に右往左往せず、としっかりと土地に根を張って生きてゆくことができる。
私の住む東京と千葉の境目も、不満に思う若者は多いだろう。都内とはいっても下町だからここは都会ではない、と彼らは言うかもしれない。都下に住む人々が都会に住んでいない、と称するように自分たちの住む街を田舎だと表現し、もっともっとと願うのかもしれない。引力は近づけば近づくほど強さを増すから逃げられなくなるのだ。でも、もしかすると、都会の不便さを嫌って、彼らは田舎を志向するかもしれない。一つのところへ行きさえすれば事足りる、点と点をつなぐだけの便利な生活。地をはいずりまわって丹念に生きる必要がある都会と違って、郊外は行く場所が決まっているし、ネットがあればなんとかできる。彼らには、私たちが引力だと思ったものが反発力として働くかもしれない。未来は分からない。
それでもきっといつかは、みんな、どこかに愛着を抱くか、よんどろこのない事情で立ち止まるしかなくなるのだろう。祖父母がそうであったように、父と母がそうであるように、どこかに満足して、ここ以外はどこにも行きたくない、と主張する。それまではきっと都会と田舎という幻想の間を行き来し続けるのだ。
第一章 総則(第一条―第十八条の三)
第二章 建築物の敷地、構造及び建築設備(第十九条―第四十一条)
第三章 都市計画区域等における建築物の敷地、構造、建築設備及び用途
第一節 総則(第四十一条の二・第四十二条)
第二節 建築物又はその敷地と道路又は壁面線との関係等(第四十三条―第四十七条)
第八節 都市計画区域及び準都市計画区域以外の区域内の建築物の敷地及び構造(第六十八条の九)
第三章の二 型式適合認定等(第六十八条の十―第六十八条の二十六)
第一節 指定資格検定機関(第七十七条の二―第七十七条の十七)
第二節 指定確認検査機関(第七十七条の十八―第七十七条の三十五)
第三節 指定構造計算適合性判定機関(第七十七条の三十五の二―第七十七条の三十五の十五)
第四節 指定認定機関等(第七十七条の三十六―第七十七条の五十五)
第五節 指定性能評価機関等(第七十七条の五十六・第七十七条の五十七)
第四章の三 建築基準適合判定資格者の登録(第七十七条の五十八―第七十七条の六十五)
附則
第一章 総則
(目的)
第一条 この法律は、建築物の敷地、構造、設備及び用途に関する最低の基準を定めて、国民の生命、健康及び財産の保護を図り、もつて公共の福祉の増進に資することを目的とする。
起きて半畳寝て一畳、缶詰の如き部屋は暗い。
味気のない味付け鰯に成り果て、夢も希望も無い俺は夢うつつのまま、湿る布団から起き上がるなり、
日曜の朝に延髄蹴りを食らわしたつもりが壁に足を打った。本当に辟易としている。
こんな足の指の痛みにも、慰めにもならない僅かな休日にも。それらに誤魔化される俺にも。うんざりだ。
昼は近所のハンバーガー屋に向かった。
洋風肉挟みパンの類など滅多に食わない俺は、店に足を踏み入れると、爽やかで騒がしい音楽や複雑な注文形式に戸惑った。
暖色の制服に清潔なエプロンを引っ掛けた笑顔の奴さん、開口一番「店内でお召し上がりですか?」言うに事欠いてこれだ。
前言を翻訳すれば(お前みたいなドブ臭い下種がミーのハイセンスな店内で犬食いしてると美的景観を損ねるから
買うもん買ったらさっさとお引取り願いたいのだが、どうだね?)となる。明らかに。
勿論、俺だって人間の端くれ、恥や理性の欠片くらいは残っている。分相応に野良で食うさ。いいえ。
間髪入れず俺は「チーズバーガー」と一言。そこへ奴さん笑いながら、被せるようにして清涼飲料や揚げ芋なんかを勧めてくる。
他人様の食生活に干渉してまで売り上げを伸ばしてえのかくの社畜め、とは口には出さず、
口に合いもしない身の丈に似合いもしない「ポテトとジンジャエール」を追加した。
―――先週の日曜日の事だ。
蛍光ピンクのチョークでドアに大きく書かれた《それ》に度肝を抜かれた。
全く意味が分からない。
ただ、その呪詛めいた断言が、全く根拠の無い為に却って凄まじい説得力を持ち、
トイレットペーパーが彫刻刀となって頭骸骨の内側に透かし浮き彫りされた。
俺のウンコ同然の自意識が、人々の青春や幸福といった光明に晒される度に、
腹の底で波打つコールタール状の胆汁に、火傷のような二十文字を打ち込んだ。―――
本当かどうか、試したくて堪らなかった。
だが、チーズバーガーを手に入れ、いざ実行出来る体勢が整うと、はたと思い止まった。
公衆電話の上からドバトが言った(怖気付いたか馬鹿者よ)いいえ。
そのイケメンとやらには、何の縁も恨みも無い。
通りすがりの該当者に実験の協力を仰ぐ事も出来るが、もし万が一、相手方を死なせてしまったら取り返しが付かない。
俺は殺人者になりたい訳ではない。事の真偽を確かめたいだけだ。
しかし、死を勧めるに値する知人も憎悪する個人も居ないからには、手近で試す事が出来ない。
ここは(古今の開拓的科学者達がしばしばそうしたように)自らを実験体とする他に術は無い。
近隣公園に着き、脚部が太いスプリングになっている青い馬に跨った。
紙袋からチーズバーガーを取り出し、柑橘類の皮を剥く要領で包み紙を開いた。
食欲をそそる匂いカタチ温度のソレを、空中に向けて低く放った。
頭上を見上げながら、空に跳ねっ返るソレ、落下地点に照準を合わせて首を体を傾けた。
息を飲んだ。
目を瞑った。
当たった感触。
どうなったか。
目を開ける。
地面には二つに割れたパンが転がり、チーズのついたハンバーグが砂まみれになっていた。
何より、俺は生きていた。
この結果から、いくつかの可能性が考えられる。
まず「俺が《イケメン》という条件に該当しなかった」か(これは当然の大前提だが)、
あるいは「この《チーズバーガー》とは違う《チーズバーガー》でなければならない」か、
そもそも「《イケメン》は《チーズバーガー》が当たっても死なない」のか、色々と仮説が立てられる。
ただ一つ確実に立証されたのは「俺にチーズバーガーをぶつけても死なない」という事だ。
本当にどうでもいい。一体何をしているんだ。青馬を嗾けて、前後に揺れた。何も進まない、何も起こらない。
非道く悲しくなって、俺は泣いた。
汚れたパンとチーズハンバーグを拾い、雑に整形して紙袋に入れた。
帰り際、生け垣の中からドバトが言った(思い知ったか馬鹿者め)はい。
どんなに有り得ない事だと思っても、誰かに言われても、笑われても、
こうして一つずつ着実に確かめていくしかない、誤魔化しの利かない現実に俺は味を占めた。
笑いの金メダル。つまらない芸人が寒いキャッチコピーで紹介されるのとか、女ばっかの観客の声のとか、進行女子アナの「おおわらいで~す!」とか。ぶっとばしたくなる。
ボランティアとかやっちゃってる大学生。私大だとさらに。勉強して国公立いっとけよ、浮いた授業料ユニセフにでも寄付しておけ。
あとファッション紙とかムカつく。ガーリー(笑)キッチュ(笑)こいつら頭おかしい。http://kw.allabout.co.jp/glossary/g_fashion/w006353.htm解説読んでも理解できない、キモい。
ドンキホーテ。クソごちゃごちゃした店内を歩いて、無条件で腹の立つ手書きっぽい値段ポップを見たらさして値段も安くないのに、
近所のスーパーを名指しで徹底価格抗戦とか言っててなりふり構わない感じが生理的に無理。ペンギンのキャラとか、本当消えてほしい。
都市の景観を無視した看板の下で、DQNカップルがたばこ吸ってるのとか言うまでもなくムカつく。
電車で足閉じない男。テメェだよテメェまじでちぎれろ金玉潰れろ。スカートの裾広げて座る女、お礼を言えないお年寄り、携帯鳴らすのも音漏れしてんのも全員万死に値する。
子供が土足で座席に立ってるのに注意しない親もいいね、子供の将来が楽しみだ。可哀そうだね。
電車。バス。車。自転車。徒歩。外。家。店。どこに行っても何をしててもムカつくよ。みんな死ねばいいのにな。
そしたらとってもすっきりだ、きもちいいよ。
http://anond.hatelabo.jp/20100213044616
TOKYOの人口は3300万人(東京都、とすると、23区だけの認識で830万人しかいないのだけど、TOKYO districtとすると周辺地域が含まれる、らしい)
ソースはここ。http://amolife.com/great-places/top-10-largest-cities-in-the-world.html とか、他にもあるが割愛。
これらのサイトからすると、東京は世界で一番大きい街。二位のソウルは2300万。6位のNYですら2100万で断トツで多い。
子供の頃、NYとかもっとデカイ街かと思ったら、 行ってみたら東京の方が大きいと思った。
東京が凄いなあと思うのは、その密度でありながら、ヨーロッパの街の大きい街と同じ様な連続性があると言う所。ヨーロッパの街て、小さくまとまる代わりに、一つ一つの街がとても濃い。街の中心から45分くらい車で行くと、街の終わり畑の始まりのような地点に行く。こじんまり。 東京だと街の中心から30分じゃその端まで行けない。ヨーロッパで首都や国を代表する都市レベルになると、ちょっと場所をずらすと金持ち達の街だったり、貧民区だったり 若者の街だったりそういうのが凝縮されている。だけど、このレベルの街になると、有名なスポットとスポットの間にも「駅前のエネルギー」があるなあと思った。ヨーロッパの大都市は一つもランクインしてないけれど、ある程度有名な都市になると、人口は全く少ないにも拘わらず大抵多種多様な文化を持ち合わせる事が出来るような凝縮度がある、と思う。
大阪にその凝縮度は無いとは決して思わない。人口も凄く多い。この上のサイトで行くと、大阪は世界11位
ただ、東京と比較して大阪の町の景観の空間の持たせ方には余裕があるなあと思う。
所謂若者の集まる心斎橋と東京の渋谷だと、やはりちょっと雰囲気が違う。
町の中の歩き回る距離も随分心斎橋の方が多いように思える。自分が慣れてないからかも知れない。
と東京で育って大阪でちょっと暮らしていてヨーロッパにも暮らした経験から言ってみる。
人を容姿で差別することは許されない。学校の正式な授業で教わったはず。また、実質的に差別していると感じられる表現も禁止されるべき。イケメンとかブサイクという言葉は、大人の目から見れば様々に解釈でき、必ずしも容姿による差別感を感じさせるものではないが(そうとも言い切れないが)、子供の目からみれば明らかに差別心情を煽っている。恋愛の文脈で語られているが、容姿で恋愛をする必然性はないし、また、恋愛話に興味がない人の目に入るようにしている点でも不合理。このようなセリフをはかなければならない社会的理由として、容姿競争を煽ることで消費経済に資するとか、容姿を含めた社会景観を改善して人々の心理を積極化しようとする要請があると思われるが、経済のために容姿差別を助長することも、社会景観のために人々に容姿の改善を求めることも不合理。このようなセリフは社会的限度を逸脱している。どうみてもアウト。