はてなキーワード: 抗不安薬とは
http://anond.hatelabo.jp/20110218172006
家族が信頼できないので、そういう感じがよく分かる。昔は家に帰れば安心できたんだけど、年月が経つにつれて、兄弟ともうまくいかなくなり、今は抗不安薬や入眠剤がないと家でも眠れなくなってしもた。
美容院。嫌な髪形、というか長さ、にされるのが嫌でずいぶん行ってない。
結局どこに行っても、うまくやれないんだろうなと悲観的になることも多い。
あたって砕けろ!みたいな前向きな気持ちになれるのは、バックグラウンドで支えてくる人というか、気持ちの面だけでも支えてくれる人があるからだと思うから、誰に対しても不安な気持ちになってしまうのは辛い。せめて家族とうまくやることができれば、気持ちも変わってくるんだろう。孤独感を払拭するのは結構難しい。
通院が終了して1年たったので書いてみる。
一昨年の夏、パニック障害と診断された。
通勤電車の中で突然激しい動悸、過呼吸、めまい、体の震えがおき汗が止まらない、「早くここから出ないと死ぬ」みたいなので頭がいっぱいになって本気で死ぬんじゃないかと思った。
次の駅で降り救護室で休んで1時間後にはすっかり回復してたけど、病院に行って検査した。
特に悪いところは見つからず。
会社に行って同僚に症状を話すと「パニック障害かもね」と言われた。
ああ、やっぱりかと思った。
その前の年にすでに何回かパニック発作らしきものは経験していた。
電車乗ってるときに無性にそわそわして結局途中で帰っちゃったり、急に「ここから逃げなきゃ」という感覚に襲われたり。
トイレに逃げ込んで30分ぐらいずっと出られないとか(大丈夫と思って出てもすぐ戻ってしまう)、必死でその場所から離れようとして柱に頭ぶつけて気絶したこともあった。
その後雑誌でパニック障害の記事を見てこれなのかもなとうっすらとは思っていた。
結局また2日後くらいに発作が出て、その足で心療内科に行った。
あっさりと「パニック障害ですね」と診断され、朝晩と頓服でソラナックス(抗不安薬)を処方された。
やっぱりこれは病気なのか、いつ治るのか、一生薬飲まなければならないのかと絶望的な気分になった。
「治ります」なんてほんとかよ、と。
電車乗るのつらいから会社行けなくなるのかな、旅行もできないななんて考えてた。
医者はストレスが原因と言っていたが、原因となるストレスが思い浮かばなかった。
仕事はかなり暇、嫌な客やうるさい上司や先輩がどうこうというのもなかった。
ただ今思えば「仕事がないこと」がストレスだったのかもしれない。
ひどいときは2駅ずつ降りてた。
薬はだいたい30分くらいで効くので、家を出る時間から逆算し薬を飲む。
音楽聴いて気を紛らわせたり、始発の電車に乗り座って寝てしまう。
呼吸がおかしくなったときはベンチに座って上半身を太ももにくっつけるような体制でしばらく待つ(この体勢か腹這いになって寝るのが一番呼吸が楽と本に書いてあったから)。
あと突発的なことにほんとダメージ受けやすく「信号待ちです」とか「前の列車で急病人の救護を・・・」なんてアナウンスが入り電車が止まったときなんて冷や汗でまくり。
他にも恐怖だったのが、待つこと、列に並ぶこと。
並んでる途中で「どうしよう逃げられないどうしよう」と何度思ったことか。
もう一生ディズニーランドには行けないと思った。
90分も120分も並ぶなんてできない、と。
東京では大して問題ではなかったが、帰省したときにこれもダメなのかと気付いた。
運行が様々な要因に左右されやすく電車以上に怖い。
親には黙っていたので、車で送ってもらうときはとにかく渋滞が起こらないことを祈ってた。
発作を出ないようにするための生活習慣の改善はほとんどやったと思う。
神経を刺激して発作を誘発するといわれるタバコ、お酒、カフェイン、炭酸飲料をやめた。
セロトニンを増やすため豆類(納豆・豆腐・味噌)や乳製品を積極的に取り米食を心がけた。
あとは十分な睡眠時間の確保、なるべく日光に当たるようにするなど。
発作出るのが怖くて外出しなくなりがちらしいので、なるべく短い距離でも出かけるようにした。
出かけるときは必ず薬と発作の予感を抑える冷水、気を紛らわせるミンティアやガム・アメの類を持って歩いた。
日光浴の効果は不明だけど、食生活の改善はかなり効いたのではないかと思っている。
不安感自体は3ヶ月ほどでかなり薄れ発作の回数も減り、薬を朝晩飲むのは止めた。
仕事が少し忙しくなり飲み忘れることがあったが平気だったということがきっかけだったと思う。
その後はっきりとした発作が起きたのは1回だけだ。
これから先も1年に1回くらい発作は起こるかもしれない。
でも対処法をすでに習得しているし、「パニック発作では死なない」ということを認識しているからもう大丈夫だと信じている。
一昨年の夏にもう一生できないかもと思っていたことをこの1年でできた。
ドライブにも行けるようになった。
今はもう、パニック障害だったことがただの思い出となっている。
増田さんこんばんは。
昨日は大変お世話になりました。
増田さんのペニスが膣内に入ると、とても温かく穏やかな気持ちになり、いつも胸にあった「死にたい」という気持ちが和らいでいました。
ペニスが入ったまま抱き合って動かないでいるときに、とてつもない安心感が胸いっぱいに広がる瞬間がいちばん好きです。
女性の心と身体の健康のため、増田さんご自身が体を張って治療に尽力されているお姿には頭が下がる思いです。
さて、セラピーですが、旦那が急に出張となりましたので、明日の夜などは空いておりますでしょうか?
増田さんのセラピーで少しずつ回復してきておりますので良くなるまで続けていきたいと思っております。
増田さんのセラピーを受けると、鬱がよくなるので病院でもらっている抗不安薬をお休みできます(笑)
お返事お待ちしております。また料金は事後振込みでお願い致します。
私はサボり魔である。筋金入りで予後不良の。
幼少の頃から厭なものから逃げ続け気がついたら三十路になってた。そんな私はサボり癖が元で精神を病み社会生活を送れない体になってしまった。
ふつうの精神疾患なら投薬と適度な休養で概ね治るはずなのだが、私の場合はサボり癖という精神疾患の根元になるものがあるので質が悪い。投薬も5年以上続いているし、休養も自分でもうイヤだと思うほど取った。でも治らない。ある程度回復したと思い就職活動して仕事を始めるが長続きしない。そしてクビになってまた精神的にダウナーになり休養が必要になる。こんなのを何度も何度も繰り返した。真面目に職歴書いたら30近くになるんじゃないだろうか。20代もそんなのに翻弄され暗黒の時代、黒歴史になった。気がつけば三十路である。もう後はない。
少しづつ焦りだしてきた私はふと考えた。何故こんな風になってしまったのだろう、と。
私のサボり癖の根元を語るには幼少の頃からの話をしなければならない。
私がまだ幼稚園にも入る前の事だ。当時の私は英語に非常に興味を持っていた。よく買い物に出かけた横浜駅のジョイナス地下駐車場は英語でブロック分けされていて、それを見て初めてアルファベットという物に触れた。何故か判らないけどアルファベットが非常に気に入ってしまい英語という物に少しづつはまるようになった。
ある日TVで英語教室のCMをやっているのを見て母に「これかよいたいー」とせがんだことがある。母はその申し出に協力的で父に頼んでみる、と言ってくれた。それを聞いてワクワクしていたのを覚えている。
しかし父は「まだ習い事するなんて早い!」と、私の幼い願いを一蹴した。英才教育なんて言葉があった時代か判らない。グローバル化のグの字もまだ無い時代だったし英語の将来性を見いだせなかったのかもしれない。ともかく私の願いは絶たれてしまった。
そのことについて父を恨むつもりはない。でもちょっと根に持っている。だってもしその時英語教室に通っていたら私の人生は大きく変わっていただろうと思う。飽きっぽいけどのめり込む時はとことんのめり込む私のことだ、通訳とか外資系でエリート・・・なんて言わないけど少なくても英語には不自由しない人生を送れたかもしれない。
ある春の日のこと、私は父に呼び出された。そして「出かけるぞ」みたいな事を言われ、半ば強引に車の乗せられて駅前のダイエーに連れて行かれた。何が起こるのか全く判らない私、何も言わず私の手を引っ張る父。?マークを頭に3つくらいグルグル回しながら連れられて行き着いた先スイミングスクールの上の階の階段を下りた先の小さな部屋だった。父は「ほら行け」と言わんばかりに私をその部屋に置いてどこかへ行ってしまった。
何ここ何が起きるの?
幼いながらも恐怖した。
部屋には私と同い年くらいの子供が数人いた。大人も何人かいて、何か冊子のような物をを配っていた。私の順番がきて冊子を渡される。そこでようやく理解した。冊子の中身は全て英語だった。
父がどう心変わりしたのか判らないけれど、私は数年越しに英語教室に通うことができたのだった。
しかし、だ。
それは遅すぎた。
小学校3年の私はもうすでに英語に対する興味を失っていた。正直、いまさら?だった。
それから4年間英語教室に通った。楽しいこともあったし、友人もできたけど根底にあったのは「苦痛」だった。
その苦痛が形としてでることがあった。それは「逃避」。有り体に言うとサボリだ。一人で自転車でダイエーに行くのでサボることがバレることは基本的に無かった。何度か買い物に来た母親にサボってコロコロ読んでるところを目撃されて大目玉を喰らったことがあるがそれでもサボる事は止まらなかった。年数が経てば経つほどサボリはエスカレートしていき週一回の教室に月3回サボるなんて酷い事態になることも多々あった。何が厭だったのかは今となっては思い出せないがサボりたくなるくらい苦痛だったのは覚えている。
初めの頃は問題もスラスラ解けて楽しかったのだけど、ランクが上がって難しくなってくると少しずつ「苦痛」になってきた。苦痛になると私は逃避を始める。サボリ始めたのだ。きっかけは些細だった。友人が「今日サボんね?」と言ってたのだ。それに乗ってしまって後はそのままズルズルと・・・。これも週二回の教室で月数回しか通わない程になり公文の講師のおばちゃんに「ちゃんと毎回来なさい!」と毎回言われたものだった。
それから中学に入って少しして英語教室は辞めた。学校でも英語の授業が始まったしこれ以上受ける意義を当時の私は見いだせなかったのだ。
公文はサボリながらも中学卒業まで続けた。高校受験の時はさすがに真面目に公文で勉強した。でもそれは友人が周囲にいっぱい居たからであって、私一人だけだったらどうなっていたかは判らない。
一番の志望校じゃなかったけど目標にしていた地元の公立高校に入学した。
高校時代は楽しかった。今までの人生で一番楽しかった。友人もたくさん居たし、心から楽しいと思える授業もいくつかあった。そのせいもあって驚くことに三ヶ年皆勤で卒業式の時に表彰されメダルを貰った。
なんというか極端だな・・・と。
しかし、その影にも私の逃避、サボリ癖はあった。
高校では三年間図書委員だった。特に理由はなかったけれど図書委員になっていた。
図書委員の活動は図書室の貸出係の業務と月一回の委員会活動があった。貸出係は昼休みと放課後に当番であったのだけどこれに私は全くでなかった。当番は殆ど放課後だったのだけど、早く帰ってゲームしたい盛りだった私はとにかくサボってサボりまくった。たぶん3年間で10回出てないんじゃないかと思う。委員会は強制参加なので仕方なく出たのだがその時よく「貸出係をサボる輩が居ます。ちゃんと出ましょう!」とほぼ名指しで委員長に言われることがあった。挙げ句には「てめぇいい加減にしやがれ!!」とキレられたこともある。それでもゲームがしたい、寝たいばかりにさっさと自転車で家に帰る自分が居た。救いようがない。
この頃まではサボっていても何とか回っていた。学力はそこそこあったしテストでも苦手科目の数学以外はそれなりの点数を取っていた。
しかし、だ。努力する者としない者。その差をまざまざと見せつけられることになると当時の私は知らなかった。
高校二年の冬のこと。そろそろ大学受験も視野に入れなければならなくなってきた。周囲でも予備校に入学して対策を講じる者が増えてきた。
私も「予備校かー、どうしようかなー」と脳天気なりにも意識し始めていた。ある日、図書室の前にあった予備校案内のチラシを見て何枚か持ち帰り検討し、その中から一行選んで入校することにした。両親は特に何も言わずに入校を許可し私は予備校に通うことになった。
地域ではマイナーな予備校だったが友人もいることが判り喜び勇んで予備校行く・・・はずだった。
予備校は私が想像していた以上に過酷なモノだった。英語は毎回英単語テストがあったし数学は高校よりもずっと高度だった。正直ついていけなかった。ついていけない結果はテストでダイレクトにアウトプットされる。志望校合格ランクDとかEとか当たり前だった。
今までどうにかなっていたモノがどうにかいかなくなってしまった。劣等生。そんなレッテルを貼られた気がした。
高校3年になって予備校に行かなくなった。辞めたわけでなくサボるようになった。劣等生な自分を認めるのが厭だった。劣等生であるという事実を突きつける予備校に近づきたくなかった。英語の授業は友人が来いとうるさかったので月に数回出た。数学は全くついていける気がしなかったのでチューターの人に怒られるまで殆ど出なかった。高3から受講し始めた化学は授業がすごく面白かったし得意科目で余裕でついていけたのでこれだけは出席率が高かった。それでも7割ってところだけど・・・。
がんばった者とがんばらなかった者
逃げなかった者と逃げた者
大学受験--
無論私はボロボロだった。無惨だった。
センター試験で自己採点。数学は2点だった。得意の化学でも5割いかなかった。
死を覚悟した。
一般入試が始まった。
私は高校担任教師の薦めで無名のFラン大学の化学科を受けた。目標にしていた大学は「絶対に無理だからやめろ」と言われた。返す言葉もなかったので大人しく言われた大学を受験した。
結果。補欠合格。
はは、引っかかちゃった。
当時の私は安堵した。浪人生活をしないで済んだから。浪人は落第者で敗北者だと思っていた私は本当に喜んだ。
でも、気がつかなかった。おまえは運が良かっただけだ。
だって・・・「努力したのかい?」
大学生活が始まった。中学からずっと同じの友人が一緒の学校だったので初めはよく一緒に登校した。学科は違ったので登校と昼休みくらいしか一緒ではなかったけど知る人が居ない学内ではとても安心できるものだった。
大学1年の授業は楽しかった。特に有機化学と分析化学が好きだった。2年から生物化学の授業があってそれを目標にしていきたいと思った。
しかし、異変は訪れる。とある教科を落としてしまった。有機化学の概論。難しい授業だったけど好きな授業だった。ただ落としただけなら来年取り直せばいいだけなのだが、この授業はとても大きな、そして致命的なものがあった。
偏屈で有名だった生物化学の教授が設けたハードル。私はものの見事にそれに引っかかってしまったのだ。
何かが壊れた。
大学2年。目標の生物化学を受講できず腐った。さらに悪いことにほかの授業が難しくなった。特に物理化学は私が苦手だった物理の概念が入って手に負えなくなってきた。
苦痛になると訪れる甘い囁き
「逃げちまえよ」
それにあがらえる訳がなかった。
初めは大学内の図書館で本を読むだけだった。それから街のゲームセンターになって・・・兎に角大学に近づかなくなった。金だけは親から必要額貰っていたので不自由はしなかった。適当に旅に出て時間つぶして家に帰るとかざらだった。
その差は歴然と表れる。
いままでどうにかなっていたものがどうにかならなくなった。
背中に火を付けられたような感じがした。
兎に角焦った。
焦って勉強をする。でもついていけなかった。下の学年の授業を受けることも多々あった。誰あいつ落とした上級生?だせぇ。そんな声が聞こえてきた気がした
「ニゲチャイナヨ」
でも逃げると今度は留年だ。
逃げちゃダメだ
逃げちゃダメだ
逃げちゃダメだ
14歳の少年は逃げずに立ち向かうことを選択したのに20歳のアホは逃げることを選んでしまった。
不安焦燥感、誰かに笑われてる感覚、必要以上に自分を責める。木の棚にカッターで何度も切りつけて酷い跡が残ったこともあって母親にそれを見られて酷く心配されたことがあった。
ロクな精神状態じゃないときにロクな思考はできない。
真っ暗な夜道の中をひたすら逃げているような状態だった。
次の年の春。私は留年した。
その日私は父親に叱責された。この後どうするんだ、と
ロクな精神状態じゃなかったので思考は回らず兎に角逃げることしか考えられなかった。
がんばるから、がんばるから
この時はそれで何とかなった。
留年生活のことは正直覚えてない。思いだそうとしても頭がアクセス拒否をする。
唯一判るのは焦ってどうにもならなかったこと。そして逃げ回っていたこと。
翌年、再び私は留年した。
二度目の父との対話。
今度はなかった。
そして社会に放り出された私は働かなければならなかった。当時は引きこもりもニートという言葉もなかった。父親には働けと強く言われたので働くしかなかった。
ハローワークにあししげく通って何度も何度も追い返されてとある会社の研究所に拾われた。
そこは農薬を作っている会社の研究所で初めはそこの農場のアルバイトと言うことで面接を受けた。
でも、せっかく化学のバックグラウンドがあるんだしということで話が少しぐらついた。
とっさだった。とっさに私はこう言った。
何でこう言ったのか今では判らない。
しかしそれは項をそうした。「じゃあそういうことなら勉強する意味も込めて」と研究所の助手で採用してくれることになった。
運が良かった。
研究所での仕事は本当に楽しかった。学校で習いきれなかった事も学べた。とにかくがんばったので会社も評価してくれた。
「今はアルバイトだけどがんばったら正社員にもするよ」なんて総務の部長さんが冗談めいて言ってくれた。
本気にしてがんばろうと思った。
でも、なんでなんだろうね。上手く行かないときはとことんうまくいかない。
入社して少し、変な奴が研究所にいると言うのを知った。
「同じ位の歳だし仲良くしたら?」と言われてそいつに会いに行った。
すんげぇイヤな奴だった。
京大大学院卒というのをさりげなくアピールしてFラン中退の私を見下してくる。
正直あんまり関わりたくなかった。
なんでだろうって。
殆ど歳同じなのにあのいけ好かない奴は京大大学院卒で正社員、私はFラン中退でバイト。この差はなに?
それがずっとこびりついて離れなかった。
それはそいつと顔合わせなくても研究所内に居るだけで考えてしまう。
「苦痛」だった。
とにかくとにかく苦痛だった。
また別の日、通勤のバスに乗っていると不思議なことが起こった。
降りるべき停留所に近づくにつれて妙に息苦しくなるのだ。そして頭が真っ白になって「ニゲロニゲロ」って告げてくる。
そして降りるべき停留所が来た。
降りられなかった。
こんなことは初めてだった。なにが起きたか判らなかった。
その日は慌てて次のバス停で折り返して事なきを得た。
それから数日同じ事が何度も何度も続いた。症状はエスカレートする。降りるバス停が延びていき遅刻が酷くなる。それを上司に注意されたら今度は体調不良で休むととっさに電話で言うようになってしまった。
さらに数日して何とか出勤できた日、所属部長に呼び出された。
怒っているわけでなく本当に心配しているようだった。なので症状を正直に話すと
「無理はしないようにしてほしいけど、勤怠が悪いと正直こっちも困る」
と言われた。
その日早退し精神科を探した。
小さなクリニックで老医師がこう言った。
「そりゃウツだ」
そう診断され一日三日分のホリゾンを貰った。
ホリゾンを飲んだけど少しぼんやりしただけであまり変わらなかった。
それからも朝の戦いは続いた。負け戦ばかり。
「大切な話があるから明日は必ず来るように」
と
翌日。何とか私は出社した。
そのまま会議室に連れて行かれた。
そこには研究所の所長と所属部長が居て3対1の面談が始まった。
「単刀直入に言う。辞めてくれないかな?」
総務部長がそう言った。
あぁ、クビか。
後は事務的に話は進みその日のうちに私は解雇された。
どこも悪いところではなかったけれど、必ず不思議なことが起きた。
朝起きて家を出ることはできるけど電車やバスで最寄り駅に近づくと呼吸が荒くなって怖くなる。頭は囁く「ニゲロニゲロ」と
そんな状況に陥り全く出社ができなくなってしまったのだ。
最長で半年、最短で一日。これはクビになるまでの日数。
職歴は正確に書くと30は行くんじゃないかと思う。
ここ1・2年はさらに酷くなり、部屋から出られなくなってしまった。
朝起きてその時点で恐怖発作と「ニゲロニゲロ」という囁きが頭を支配する。
精神科にはもう6年かかっている。
はじめはホリゾンだけだったけど今は抗鬱剤3種類と抗不安薬、睡眠薬まで貰って飲んでいる。
挙げ句には自立支援の申請をして精神障害者手帳まで交付された。
ふと思った。何でこうなってしまったんだろう、と
最近また会社をクビになったので少し考える時間ができた。で、考えを整理するためにこれを書いている。
結論を言うと私のこの病気の根元は「サボり」だと思っている。
「苦痛」からの「退避」。小学校の頃の英語教室からずっと続いているこの癖。これが原因じゃないかと考えている。
おそらくこれは正しい。
正しいことは判ったが対策がわからない。
生来のサボり魔たる私はどうしたら正常の社会的な生活を送れるのだろうか?
そもそも私の病気は何だ?
精神科で投薬治療は受けているがこれだけでは改善にいたっていない。というかここ最近悪化しているとすら思う。直近でクビになった会社では不安の恐怖、あと鬱的思考から自殺をほのめかすメールを送ってしまい大騒ぎになった。
年々悪化しているこの「現象」
いったいこれは何なんだ?
どうしたら治るんだ?
どうしたら社会的な生活を送れるんだ?
だれか、教えてほしい
なんというか、生き抜くことに疲れてしまった。当方社会人二年目。プログラミングしたりしている。
なんていうかね、何も面白くないんだよね。
去年まではプログラミングを覚えて、業務知識深めて、コーディングしたりとかがものすごく面白かった気がする。
比較的周りからの評価も悪くないらしくて、飲み込みが早いといわれることが多かった。
ところが、だ。
何も面白くないんだ。
テレビをつけても、漫画を読んでも、散歩をしても、音楽を聴いても、知人と飲んでも、彼女と出かけても、小説を読んでも……
何も面白くないの。
もちろん仕事も面白くない。
毎日起きるのが苦痛で、体調にも変化が現れ、精神科に行ったのだが、鬱ではなさそうといわれる。
(しかし抗鬱・抗不安薬をだされている)
デスクに居座っているだけでしんどい。
トイレに行って個室に入って、ボーっとしているときだけが心が落ち着く。
まあ、ぼちぼちたまったかなと思う。
働くもの食うべからず。つまり食わなきゃ働かなくてもいいんだろ?
食事も楽しくない。
やりたいことを短期間でいいからやって、死んでしまおうと思う。
ふしぎと、そう決めたら楽になった。
親には悪いなあと思う。
かといって、親のためには生きられない。
生まれたかったわけではないのに、行きたかったわけではないのに、24年生きたのである。
それだけで、勘弁してほしい。
増田のみんなは何で生きてるんだろう。
楽しいのかな?
だとしたら、うらやましい
メンバーがそれぞれの得意分野を発揮できるよう
ファシリテーションをがんばろうと思って必死にやった。
おかげで演習ではいいチームができたし、
システムも「初心者チームだけど、なかなかいいじゃん!」てのができた。
でも、次第にいくら寝ても疲れがとれなくなって、
休日に何をしたいか考えられなくなって、
家に帰ると薄暗い部屋で呆然として数時間座り込むようになって、
化粧して出社することができなくなって、
周りのみんなに自分の無能さを疎まれてるような気がしてきて、
何が食べたいのかわからない(そもそも食欲がわかない)ようになって、
ちょっとしたきっかけで涙がぼろぼろ出てくるようになった。
実行はしないけど、リストカットしたい気持ちになる時もあった。
7月頭までは自分が弱くて、いくらJavaを勉強してもよくわからない
頭の悪い子だからダメなんだと思ってたけど、
性欲が全く起きない&性的なニュアンスで触れられるのに応えられないことで
もしかしたら自分ちょっと病んでるのではと気づいた。
先週から病院に行って薬を服用し始めて、ちょっと楽になりはじめた。
抗不安薬をもらうようになって、自分の眠りが浅かったことに初めて気がついた。
来週は上長に体調が悪いことをオブラートに包みつつ面談することになった。
コーディングは今もよくわからないけど、ファシリテーター・調整役としての自分は
そんなに悪くないみたいだから、そういう仕事に本配属されるといいな。
http://anond.hatelabo.jp/20090415074829
これの続きようなモノ。
大学を「学校に行けない病気」で退学した私は学校で学んだことを生かせる仕事を探していた。ただ、学んだ分野が環境化学というあまりメジャーじゃなく仕事も少なそうな分野だったので探すのにかなり苦労した。
それでも農薬を作っている会社の研究所に潜り込む事に成功した。
仕事は元々興味ある分野だったし、残業も殆ど無いような負荷も少ないもので学校で学んだ知識と新しく学んだ事でのびのびと仕事することができた。幸いなことに評価も良く順風満帆な日々を過ごすことができた。
しかし、半年ほどして異変が訪れる。
「学校に行けない病気」が再発したのだ。いや、増悪したとも言うべきだろうか。
当時、通勤は電車とバスを利用していたのだが、バスから降りられなくなったのだ。
降りるべき停留所が近づくと段々呼吸は速くなる。動悸もして息苦しく頭が真っ白になる。それは停留所に近づけば近づくほど強くなり、停留所を超えると段々収まり今度は自責の念が私を責め立てる。
「死ねゴミ死ねゴミ死ねゴミ死ねゴミ死ねゴミ死ねゴミ…(以下延々繰り返される)」
と云う言葉で頭の中が支配される。
始めのうちは先の停留所から引き返して遅刻、ということで処理はできていたのだけど、それも数が増えると話は少しややこしくなった。程なく上長から注意を受けた。怖いタイプの人ではなかったので大したことは言われなかったとは思うけど、それが自責の念を増長させた。
注意後は引き返すことすらできなくなり、途中の停留所で降りて、音のしない場所を必死になって探して勤務開始ぎりぎりくらいに休む旨の電話を携帯からした。なぜか解らないけど「音のしない場所」というのを必死になって探していたのを覚えている。
そんなのが一週間くらい続いて、また上長から注意を受けた。今度は上長の上長もやってきて注意を受けた。
いわゆる厳重注意に当たるものだと思う。同時に何か精神的に何か問題は無いか、とも聞かれ初めて精神科を受けることになる。
薬を飲むようになってからは少し落ち着き二ヶ月くらいは普通に出社できた。
このまま何事もなければ今頃私はその研究所で正社員として活躍していたかもしれない。
だけど現実はそんな風にはさせてくれなかった。
年が明けてすぐ再び「病気」は再発した。また一週間くらい行けなくなった。
二度目はなかった。
程なく無理矢理呼び出され、所長と上長の上長と上長の3人と面談となりその場で「今日付で自己都合で辞めてくれ」と言われた。
当たり前と言えば当たり前。でも当時の私には裏切られた思いでいっぱいだった。あんなに評価してくれて良くしてくれたのにあっさり辞めさせられるんだ…って。
「病気」とは別の形で頭が真っ白になりつつその場で辞表を書かされた。
その後、ふと思い立って辞めた大学に復学したけれどこんな状態じゃ学業もできるわけもなく、元々辞めた理由の「学校に行けない病」も再発し半年で再び辞めた。
入学金諸々200万をドブに捨てた。
大学復帰の道も閉ざされた私は仕事を探しては何とかどこかの会社に潜り込み
朝起きる→朝食食べる→着替えて外出る→電車乗る→漠然とした恐怖・不安→目的地駅で降りられない→どこかで降りて休みの連絡を入れる→休み多くなる→呼び出しの電話→クビ
と言うプロセスを面白いように繰り返していた。
そこに休養という文字はなかった。なぜなら家族が「病気」に対しての理解がなかったから。
父曰く「サボってるだけじゃないのか?」
とナチュラルに言うのだから休養なんてできるわけがなかった。
この辺で「社会は、会社は誰も私を救ってくれない。絶望した!」みたいなことを思うようになっていた。
派遣で潜り込んだ会社で宇都宮の世界の誰もが知っているメーカーの研究所に派遣された。
派遣先に上長が私をえらく気に入ってくれたらしく「5年以上の長いスパンで働いて欲しい」とまで言われ、場合によっては正社員雇用も…みたいなことまで言われた。
仕事は化学とはあまり関係のない分析評価の仕事だったけど、仮に在籍していた5流大学を新卒してでも入れなさそうなメーカーで正社員も夢じゃない…みたいな話だったので殆ど二つ返事でその仕事を受けた。
宇都宮はさすがに通勤できないので転居して一人暮らしをすることになった。
初めての一人暮らしは不安だったけど、恐怖の対象であった父や口うるさい母もいないのでむしろ好都合だったし、住環境も周辺環境も恵まれていたし、仕事場まで車で10分。車がないと不便な場所ではあったけど日用雑貨からPCパーツまで車で20分も走らない場所で揃えられたので今思っても最高の環境だった。
そんな中で最近(2009年現在)世に出た製品のさらに次の製品に向けての技術の研究という最先端中の最先端の仕事ができた。職場環境も居室が機械だらけで動作音がうるさい以外はまさに最高。言うことがなかった。
そんな最高の環境の中で多少の休みはあったけれど半年くらい仕事をすることができた。
しかし、そんな最高の環境の中でも異変は起きた。
トリガーはなんてことのない物だった。簡単に言うと部署間での私の取り合い。
私がいた居室は3つの部署が共有していた。
一つは私がいたところ、もう一つは私たちの一つ前、最近世に出た製品の技術関係を手がけていた部署。もう一つは良くわかんないけど別の事していた。
その最近世に出た製品の技術関係を手がけていた部署の係長が「ちょっと最近忙しいから一月くらい手伝ってくれないか?」と言ってきたのだ。今所属している部署の係長もOKしているみたいなことを言われたが、正直行きたくなかった。
と言うのもその係長が生理的に受け付けられないタイプでその部署もあまりいい空気ではなかったからだ。それでも「一ヶ月くらいなら」と、言うことで異動することに了承した。
そこで話が終わればもうちょっとそこでの仕事が長続きしたかもしれない。
いざ異動してみるとその係長から「ここに来たからにはもうずっとここにいてもらうからね♪」みたいなことをナチュラルに言われた。
話が違う!
抗議した、猛烈に抗議した。その抗議は部長を引っ張り出す騒ぎになったが、その決定を覆すにはさらに上の役員を引っ張り出さないといけないらしく、覆すのは事実上不可能だった。
元いた部署で一番お世話になった主任は「あの人はそういう人なんだよ。」と自嘲的に言っていた。結局決定は覆らず、「なんか語弊があったけどこういう事だから頑張ってね♪」みたいな係長二人のサイン入り書面を差し出された私はその日早退した。
そして一週間休んだ。
「ちょっと精神科行こうか」
当時、すでに近所のメンタルクリニックで投薬治療を受けていたけど、それは会社には隠していたので通っている病院とは別の精神科になんとか行くことになった。
そこで「鬱状態」と診断された。
翌日、派遣元の支店長から「支店にちょっと来いやと」いう連絡を受け、宇都宮駅前の支店事務所に向かった。そこで支店長から言われたのは「派遣先から撤退する。お前会社辞めろ」と言う事実上の解雇通知だった。
は?
なんで?
確かに「病気」の事は隠していたけど、事情が事情だし…というかなんで休養とかそういうのもすっ飛ばして辞めろとかになる訳?
抗議した。そんなのおかしい、何で辞めなきゃいけないんだ?
猛烈な言い合いは4時間を超えた。
で、痺れを切らしたのか支店長はこう言った。
「精神障害者は使えないんだよ!!!」
あぁ…。
何かが崩れ落ちた気がした。
支店長がどういう意味でそういったのかは知らない。でも、その言葉はあまりにも無情で残酷で…世間の正論過ぎた。
程なく辞める旨を伝え、それから数日で宇都宮から実家へと帰還となった。
それから仕事を探しては数日でいけなくなってクビになると言うのを何年も繰り返した。
一番行くところまで逝ったところだと、静岡の某宇都宮で居たメーカーの同業他社で、そこはお世辞にもいい職場環境ではなく仕事をした時は2週間くらいで会社に行けなくなった。
で、また数日会社に行けなくなって派遣元から「これ以上休んだらクビにします」と言う最後通告の電話を受けた直後殆ど自動的にアルコールで抗うつ剤その他100錠近くを一気に飲み込んだ。
結果は…今ここに私が居るわけで未遂に終わった。
友人と家族は…多分許してくれたと思う。そう思いたい。
46万円。
退職金という名目だったけど、書面を見ると事実上の手切れ金だった。
「46万円やるからさっさとここから消え失せろ」
コンプライアンス事業部のえらい人が放った言葉は穏やかだったけど実質そんなものだった。
労基とかそんなの以前に服薬の影響で記憶も曖昧な状態でろくな判断能力もあるわけが無く46万円押しつけられて派遣元会社をクビになり、再び実家へと戻ってきた。
その後も会社は行ってはクビになるを何回も何回も繰り返していた。
「休養しろ」とか言われると思うけど、当時金銭的な問題で月に10万以上金を稼がなくてはならない状況で何が何でも仕事をしなければならなく、その上家族も多少の理解は得られたとはいえ病気に関してはまだ「怠けだ、甘えだ」と思っている節があるらしく家にいても正直休まらなかった。
そんな感じでこじれにこじれて今に至り、前述の「会社に行けない 」のエントリーに繋がるわけです。
ちなみにこの会社もクビになりました。
熱意はWebエントリーで落とされても社長に直訴の手紙を出すほどにあった。
技術も気がつけば新入りではずば抜けてあったらしく、赴任先事務所でも即戦力になるほどだった。
でも、会社に行けない、と言う社会人として当たり前のことができなくてクビになった。
結局何やっても、どんな事しても「会社に行けない病」をどうにかしない限り私は社会生活を送ることができないらしい。そもそも社会が私を受け入れてくれないようなのだ。
最近になって金銭的な面が法的にどうになるようになり、少し休養する時間ができるようになった。精神科に通院投薬治療は続いているし、障害者手帳も取得することができた(ただしあまり役に立ってない)
ただ、家庭経済面で休養、はできないらしく、父母からは「最低アルバイトはしろ」と言われてしまった。そんなわけで今アルバイトを探している。なるべく負荷の少ないコンビニとかそんな仕事をいくつか面接入れている。
三十路過ぎて大学中退、しかも職歴むちゃくちゃな私をどこが雇ってくれるだろうか?
しかもフリーターという身分。結婚以前に恋愛もできやしない。そして何より、この先這い上がるチャンスという物が事実上ゼロだという現実に直視しなければならない。
この状況で社会という物に希望を見いだすことができるだろうか?
正直今の私には無理だ…。
「あいつ消えてくれないかなあ」だけで済ませている元増田はえらいと思う。自分は「死ねばいいのに」と願い続けてきた。でも現実は変わらない。
元々家にお金を入れるという感覚を持たない妹だった。父親が働き、母親が家の中のことをし、姉である自分は家にお金を入れていて、妹は短大を出た後しばらくマクドナルドでアルバイトをしていた。就職活動に、親は口出しをしなかった。それは自由にさせたいという意思の現れでもあり、何か意見しようとすると激しく反発する妹への対処法でもあった。
妹はマクドナルドでアルバイトを続けながら、1年間演劇のスクールに通った。やりたいことをやらせようとその時は家族全員が思っていた。1年後、事務所に採用されなかったとかでスクールを辞め、同時にマクドナルドのアルバイトも辞めた。そこから1年、ニートになった。コミケや自分の好きなアーティストのコンサートにはきちんと出かけ、友達とも時折遊んでいた。
1年経って、就職活動を始めた。職歴がまともにないままだからもちろん難航した。それでも、友達の紹介でアパレルの売り子を始めた。ようやくまともに働き出した妹を見て両親は喜んだ。一向に家にお金を入れようとしない妹を自分がせっつき、月1万円を入れさせた。学生時代から今まで家事はほとんどしていない妹には、どうやら自分の生活費を考える感覚が身についていないようだった。
その頃父親の仕事がうまくいかなくなった。給料が減り、いろいろな我慢が増えた。自分は家に入れるお金の額を上げた。本当は給料の半分は入れたかったのに、3分の1までしか上げられなかった。そんな自分が不甲斐なく、給料を得るようになって遊興費・交際費ばかりが増えているように見える妹に苛立った。
母親には時折愚痴を言った。「あの子は何を言っても聞かない、だから放っておくしかない」「こうやって育ったのは自分の責任だ」そう言う母親を責められなかった。妹を攻撃することは母親を攻撃することに繋がる。それだけはしたくなかった。
妹に小言を言う回数が増え、口げんかが多くなり、些細な出来事をきっかけに妹と口をきかなくなった。顔を合わせるからむかつく、口をきくからむかつく。だったらどちらも避ければいい。母親は最初のうちこそとりなしたものの、娘二人の性格を知っているからそのうち何も言わなくなった。
妹は人間関係がうまくいかなかったことを理由に、3年ほどで最初の勤め先を辞めた。またニートになった。早く結婚相手でも見つけてさっさと出ていってくれないかと思い始めたのはこのあたりからだ。結婚相手にしてみれば迷惑な話だが。
妹は精神科に通っているらしい。通い始めたのがいつからかはよくわからないし、口をきいていないので知らない。演劇スクールでつまづいたあたりで摂食障害になり、それで通院したようだ。母親との関係が原因だと医師に言われて母親を責めるような言動を繰り返していたそうだが、それを自分が知ったのはずっと後になってからだ。症状や病名が何なのかは知らないが、抗うつ剤や睡眠導入剤がたまにちらばっていた。真面目に飲んではいないようだった。
なぜそれらが精神科の薬だとわかったか。自分も同じ頃、精神科に通っていたからだ。父親の収入が減り、自分は多少給料のよい会社に転職した。給料は上がったが、夜勤が続いてマイナスな考え方しかできなくなり、家庭を支えられない自分に絶望し、死にたいと思うようになった。会社を出るといつも涙が出た。このままじゃおかしくなると思って病院に駆け込んだ。すぐに抗うつ剤と抗不安薬が出た。1年通って持ち直して、また家庭を支えていけると思えるようになった。
自分が精神科に通ったこと、同じく精神科に通う経験を持つ友達の話を聞いたことなどを合わせても、妹に同情する気持ちはこれっぽっちも起きなかった。時折ぼーっとした表情や考え事をする様子などが窺えたが、以前と同じく遊ぶ時は遊び、友達と出かけ、夜は泊まりに行ったりもする。これで同情して労れなんてむしがよすぎるとずっと苛々していた。自分の現状を母親のせいにする態度がそれに拍車をかけた。
その頃両親の不仲が決定的になり、父親は家を出て以前からいた愛人のもとに行ったようだ。母親はパートで働き始めたが、長いこと父親が望んで専業主婦をしていたからあまりいい給料は望めない。自分は父親が家を出るちょっと前に、交際していた人と同棲を始めた。自分がずっと家を支え続けることで父親が危機感をもたなくなったこと、母親が家を出る時に行き場がないことが、家を出る決心をした理由だ。給料の3分の1は家に入れ続けていた。妹が家に入れるお金は離婚をきっかけに4万円になった。
家には母親と妹が残った。妹は、自分も家を出たかったが両親が離婚したせいで出られなくなったと母親に文句を言っていたそうだ。自分が働き始めてから家を出るまでにいくらでもチャンスはあったし、精神科の医師からも母親からも家を出た方が気分が楽になると言っているそうだが、妹はのらりくらりと決断を避けていた。母親が貯金から生活の支援をすると言っても結局出なかった。相変わらずコミケやコンサートや夜遊びには出かける日々。自分は母親のことが気になりつつ、妹から離れられてほっとしていた。もう苛々しなくて済む。
平穏な生活にまた落とし穴があった。今度は同棲から結婚に至った相手との生活と、母親を支えることが両立できないことで落ち込み、さらに仕事でうまく成長できない焦りからまた死にたくなった。今度はひどくなる前に病院に駆け込んで特に支障が出た訳ではないが、それでもやはり辛かった。たまに実家に戻って、母親につっかかる妹を罵倒したかった。でも妹を罵倒することは母親の否定に繋がる。だから姿が目に入る度に思った。願った。「死ねばいいのに」
母親はパートで膝を悪くした。きれいだった手もぼろぼろになった。でも家を出た自分だけの世話にはなりたくないという。離婚したのは自分の決断だったからという。結婚相手を投げ出して母親の元に戻り、金銭面でも家事の面でも支えたいとしばしば思う。でも一回目に精神科に通院した時「お母さんと共依存の関係になってしまっている」と指摘された。母親もそれを懸念しているようだ。自分の生活をきっちり作り、その上で母親を支えなければならない。
実家に戻る度に妹に向かって祈る。願う。死ねばいいのに。母親が先に逝くことになるだろう。自分は両親を見送らねばならないとずっと考えてきた。母親が逝った後、生活力のない妹の面倒を自分がみるなんてまっぴらだ。妹は三十歳を目前に就職活動で焦り始めたようだ。知らない。今まで好き勝手やってきたんだからこれからも好き勝手やっていってくれ。
余った薬はとっておいて、次に医者に行く前に数を数えておく。
医者にいったら、「飲まなくても眠れたので、8錠残ってます」といって、いつも21錠もらっているなら、21-8=13で、13錠だけ処方してもらう。薬局で、「薬の量を減らしたんですか?」と訊かれたら、「まだ残っているので、足りない分だけ処方してもらった」と言えばいい。
抗うつ薬とかは、自分で勝手に辞めたり減らしたりしない方がいいけど、抗不安薬や睡眠薬みたいにその時だけの効き目を期待するような薬は、必要ないなら飲まなくてもあまり医者はうるさく言わないと思うよ。でも、どんどん勝手に減らすよりも、相談した方がいいと思うけど。
薬に関しては、医者に訊くのが一番いいよ。
(自分の知らないことだけ書いたので偏りまくりです)
※ダウナー系・アッパー系という言葉は参考程度で。セッティングと本人の性向や気分にもよるので、まったくあてにならない。書いている増田は大概どれを飲んでもダウナーにしかならない。ただ、ネタとしてカテゴライズするのは面白いので残す。
なんで結婚したの…
病気であることが許されるのは、治療に前向きであることが大前提だと思う。自分も抗不安薬やらなにやらたくさんもらっている身なんで、何も出来ない辛さはわかるのだけれど、本人が治したいと思わずにただ病気を理由にするのは甘えだ。(病気だからと言いわけせずに、何も出来ないのだとしたら、とってもひどい病状なので病院につれていってください)
結婚したときは嫁さんも正常だったのなら、あなたにも原因があるかもしれないので、相手の要望と様子を見つつ、嫁の親を巻き込んで、治療に前向きにさせるのがいいと思う。治りたいと思わない人が治るほど病気は甘くない。
嫁さんの異常を知った上で、情で結婚したなら、あなたの情の上に彼女は生きながらえているので、情を絶やさないようにして受け止めてあげなされ。情で結婚するような人には何言っても無駄と経験上わかっているので何もいえない。
http://anond.hatelabo.jp/20070306145959
じゃあやっぱり薬飲まなくたっていいし、薬を飲むことで根治が遅れる可能性もあるわけだ。
なんでそんなに薬飲め飲めと言わんばかりに必死なんだろう。
鬱病自体が単一の疾患でなく、大鬱病で発症しておきながら、数年後に躁転し、双極I型障害だったと後から分かることも少なくありません。その場合は単なる抗鬱薬は確かに無効だったり躁転という逆効果を来すこともあります。それは事実ですが、本人には判断不能なことであり、(ビル開業した若い医者のメンタルクリニック以外の経歴のある医者のメンタルクリニックか、精神病院に行って)医者に見てもらうべきです。放置して治ることもないとは言いませんが、治りにくいもの程、放置で悪化することが多いです。また、薬が全く効かないという場合は、外因性な(周囲の生活環境が原因となっている)場合があり、環境を変える以外に方法はありません。ただし、元々抑鬱気味な状態に環境が追い打ちをかけているという状態であれば、ひとまず薬や休暇で環境に耐えうる精神状態に持って行くことが重要です。
投薬を用いた治療でそれまでよりさらに悪くなる可能性はないのか、それが気になる。
無いとは言えないのは上記の通り。そもそも診断が適切でないと薬が合わない場合があります。しかし適切に診断されていれば薬は合うはずです。ちなみに身体疾患の場合は薬が即効するような言い方をされていますが、そのようなものはほんの一例に過ぎません。数ヶ月内服してようやくある程度マシになるという身体疾患も数多くあります。すぐに治る急性疾患と、なかなか治らない慢性疾患を同一視してはいけません。また、例え、良くなる場合と悪くなる場合があったとしても、例えば、統計学上、前者が80%、後者が1%だとしたらやはり良くなる場合に"賭ける"のが正しいと判断されるでしょう。両方起こりうるならしないというのは安直に過ぎます。
付け加えて置きますと、トピ主には「早く治したい」「効果的に治したい」という焦りがあるようです。焦燥感の強い鬱病は、安易な抗不安薬や抗鬱薬の投与で、発作的な自殺に至ることがあります。主治医と良く相談された方が良いと思います。
某所で闇に葬った話を匿名をいいことに書いてみる。
向精神薬と酒。
向精神薬ってのは要するにハルシオンとかに代表されるいわゆる睡眠薬とか、
厳密にはまた違うんだが一応ここでは気にしない。
基本的に、向精神薬はどれも酒と相性が悪い。
薬の効きが強くなりすぎたりして危険だと言われている。
じゃあ統合失調症・睡眠障害持ちの僕は酒が飲めないのか、といえば
教科書的にはその通りであり、宴会の席での乾杯も控えるべきである、となる。
が、現実問題そう簡単にいくかといえば…そうでもない。
仕事の席での乾杯を避けるのは難しい (場合によっては失礼にすらなりうる)。
また、これは言い訳かもしれないが、旅行先などでの地酒摂取など、
アルコールを「常用」はしないが、「稀に」摂取したくなる時はある。
という話を精神科医にしたところ (同じ医師から既に一応酒は止められている)、
…自分しか考えられない。いわゆる「自己責任」。
「酒飲んでいいと医者が言ったから (略)」で飲んでしまって
思わぬ薬の作用で大変なことになったりした場合、
リスクを伴う行動は取らせない、安全側に倒すのはやむを得ない。
その結果出てきた言葉が「医師として責任は取れない」だったのだろう。
あとは自己責任の範囲で何をするか。
人によって答えは変わるだろうが、僕は僕なりの答えを出すことにする。