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はてなキーワード: 愛のコリーダとは

2024-03-14

anond:20240314180410

かつてのロマンポルノピンク映画がそれなのでは

愛のコリーダとかもあったし

問題劇場にそんなもん見にいく層が激減したこと

2023-06-12

anond:20230612182204

ネトフリにある「愛のコリーダ」とかあそこらへん掘るといろいろあるよ

2023-06-11

※長めの追記あり

けっこう忘れ去られてる事実かもしれないが、ちょっと昔は、左翼は「不謹慎万歳」だった。

ポルノ体制の抑圧に抗する人間性解放象徴だとして称揚していた。

「不健全表現存在してはならない」なんて、宗教右派特高警察かみたいなこと言ってる現在とは正反対だ。

「昔の左翼はえらかった」などという話ではない。だってあんまりメンツ入れ替わってないからな。共産党の主たる票田は昔も今も団塊世代だろう。

いか左翼正義が何にでも結合するのかということだ。無農薬野菜にも反原発にも、エログロにもポルノ廃絶にも、アニメにもオタクバッシングにも、反戦にも戦争賛美にも、宗教にも宗教弾圧にも、何にでも取り憑いて寄生してしまう。

ブコメ読んで思ったことなど

まあそれはそうなんだけど。もっともな動機に根ざした暴走こそタチ悪いというのもあるし。

のもその通り。

いわゆる保守体制側は、締め付けるにしても緩めるにしても風向き次第・エライサンの胸先三寸というところが元来有る。

本邦において左翼に期待される役割は、そういうヌルヌルの動きに要所で釘を刺すことのはずだ。

保守伝統と呼ばれる暗黙知ベースに共有してる(ことになっている)からなんとなくで動いてもいいんだ。

左翼はそうであってはいけない。理屈で動かないと意味がない。でももう「戦後ももはや「歴史」になり、左翼にもなんとなく感覚的に依拠できてしまう「伝統」が生じてしまったんだろうな。

もちろんここで左翼とか保守とか雑語りしてるのは「敢えて」なんで、細かいツッコミ無視で。

結局のところ「日本社会って変だね」という話ではある。ウヨサヨ相克史という切り口からはむしろその変さは整理できないだろう。

ところで「けしからん表現の取り扱い」については欧米もたいがいわけのわからない紆余曲折を経てきており、それが本邦の国内状況に混乱を添えている。

そこで保守に期待される役割は「うちにはうちのルールがある」という毅然たる態度のはずだがおとうさんもうふにゃふにゃだからな。

その辺のディテールは言わなくても知ってる同士(というか世代)での書き方しかしてないからな。ちなみに78年生まれ愛のコリーダだののリアタイ世代ではない。

表現規制とかセックスジェンダー関係の話ってウヨサヨヘイトプロレスネタとして消費されやすい。

別にただちに生き死にに直結する話でもなし、まともな人は火の粉をかぶらないよう距離をとることが分別ではないか基地外と踊るべきではない、そのように受け取られがちだ。

でもそうじゃあないんだね。こういうのをグダグダのままにしておいたら我々はクソみたいな「戦後」の文化言論空間をどこまでも(団塊の死後も)ズルズルひきずることになる。

2022-11-03

https://www.youtube.com/watch?v=NVTVheyDY4s

サビ、普通に英語だと思って聞き流してたけど

まんま「愛のコリーダッ!」って言ってたの初めて知った

衝撃

2022-05-27

やってるのもアルよw anond:20220527122826

日本初のハードコアポルノ」(つまり俳優が実際に性行為をしている)映画は、「愛のコリーダ大島渚監督1976年

...だそうだ。by wikipedia

2022-04-16

たわわ問題

っつーか、ああい巨乳PR問題って相変わらず不毛に盛り上がるよなー

いつものメンツがいつものような言説を語っていて堂々巡りで一向に進まない

もう裁判で決着をつけるしかないのでは

ヘアヌードとか映画レーティングってそういう風に決まって、一応落ち着いているんだろ

愛のコリーダ裁判とかあったでしょ

ドライブ・マイ・カー」にもセックスシーンあるよ

局部は映ってないけど

いわゆるファインアートヌード絵画OK漫画のそれがダメ理由は誰にも説明できない

例えばダビデ像性器はなんでいいのとか

あれは人間のものを賛美しているのであって、劣情を催すような意図ではないのでいいのだとか

いや、それでも不快ではあるとか

そういうのって、もう人々の美意識とか哲学とか思想問題になってくるので、決着はつかない

喧嘩するほど仲がいい」みたいなバカバカしいことまで思うよ

ヒトってLOVELYだなーって

"Common Sence"って歴史的にはゆっくり作られてきた概念だと思うけど、ソーシャルメディアで無理やり加速され、人類がそこであたふたしているのが現状

神の視点に立てば、おまえらいつまでもキャッキャウフフしてて楽しそうだなって感じ

2022-04-09

anond:20220409203846

20世紀にはリベラルが率先して表現の自由を勝ち取ってきたんだけどなあ

ヘア解禁とか愛のコリーダとか四畳半襖の下張りとか

2021-09-23

社会における性的表現のあり方の理想の食い違いとか

昭和から平成の前半では、ポルノグラフィー・猥褻物への禁止圧力は主に保守系政治運動と結びついてて、左翼側はそういう禁止圧力の緩和やポルノ開放みたいな要求だったけれど、今では政治的には左翼側の人間が、猥褻理由とせずに「性差別助長する表現」を理由として、萌え絵代表される様な一部の表現禁止政治的に主張し、保守右翼側の人間が「性差別的」と決めつけられた表現表現自由を旗印にして守ろうとする、俺みたいな者の目から見ると「なんだか変な」時代になった。

 

日本右翼保守(要するに自民党)は、本質的には民主主義ではなく「統治者にとって都合よく制度設計された、民主主義と称するもの」を追求しているが、それ故に正面切って表現自由否定することは出来ないので、刑罰を以て表現を禁じるやり方(猥褻図画や小説の取り締まり。チャタレー裁判とか、愛のコリーダとか)をなるべく露骨に使わずに、出版業界映像業界自主検閲組織を作らせて「自主的に検閲しているので、法的には何の表現規制存在しない」状態を作り上げることで実質的表現規制をする様になってる。なので、公共利益公序良俗保護理由に法的に制限できる猥褻ならともかく、表現自由一義的に示す表現である思想的・政治的表現規制」はさすがの日本国でも不可能になってる。(少なくとも現状はポルノほどあからさまな実質的表現規制犠牲にはなっていない)

 

で、昭和の頃の左翼だと、こういった猥褻表現禁止であっても、国家による国民活動への制限は最小限であるべきで、猥褻規制はその限度を超えている、みたいな話をするものだったのだけれど、今やその左翼、とりわけフェミニストの中で「猥褻から」とは言わずに「性差別であるから禁じられるべきで、規制は全く十分でない」という意見が主流を占める様になってきたのが2010年代じゃないかなと思う。

 

何を以て性差別的かという理由付けは色々見るのだけれど、メディア効果論(それも強力効果論)に基づいたものが多いと感じるが、(多くは女性である自分にとって極めて不愉快であり加害的であって、公共の場での存在は許されない、ってものもかなり見かける。これ、伝統的な右翼によるポルノ撲滅運動題目が「子供教育に悪い」だの「破廉恥で見るに耐えない」だったのと、ほぼつながってないか?と思うのである極右極左政治的主張は逆だが、粗暴さや残酷さ、頑なさや頭の悪さは同じに見えるのと似た感じだが、そう言ってしまうと純然たる悪口になるので止めておく。

 

左翼側・フェミニズム側の表現規制主義者(本人たちが自分をそう認めることは絶対に無いが、それは右翼側でも同じこと)も、自民党と同じ様に自らが表現規制者と呼ばれる事を非常に嫌う。そうした中で憲法の示す建前を崩さずに「実質的表現規制」を行おうとするなら、自民党政府のもとで成功してきた、自主検閲組織業界に作らせて『自主的な規制権力から強いる』事で実質的表現規制を行うやりかたがやはり踏襲される。

特にフェミニストとされる人達特定表現(宇崎ちゃんとか)を特定場所日赤)で禁じようとする時には、これが権力による直接的な規制ではなく、在野の民間人による公的機関企業に対する言論圧力によって当該機関企業の「自己規制を促した」のだから、これは絶対表現規制じゃない、って言い方だった。彼らの言う通り、確かに憲法上の建前は守られた上で(彼らにとって存在の許し難い)不快性差別表現を「実質的に刈り取る」ことに成功していて、最初にこの自粛要請という「単純だが案外に強力な仕組み」を考えた政府役人自民党政治家達、そのアイデアをそのまま利用したフェミニストは賢いなと思う。

 

左右の違いが全然いかと言うと、それはそうでも無い様で、大昔の矯風会の様な保守アンチポルノ団体はあらゆる猥褻表現をあらゆる流通ルートにおいて消滅させようとしている感じなんだが、今の左翼フェミニズム的な「反性差別表現」をやっている人達は、流石に左翼であるだけあって「ポルノであるならこの世に存在を許さない」などということは主張しない。存在が許されない表現はある程度は絞り込まれていて、大体それが「男オタク好みの性的表現物」に被さっているし、流通に関しても「表通りに出てこなければ許す」という感じである。 ポルノショップ無修正ポルノ販売されることまで禁じろという主張はしてない。(コンビニ一般書店水着グラビア雑誌販売を禁じろは言ってるのがいるが)

 

良く知らない世界なのだが、腐女子世界における「学級会文化」というものがあり、世間に対して目立たぬように「厳しく自粛」(恐らく自己認識としては自粛ではなく相互批判によるコミュニティの自浄作用だろう)する傾向があって、それは同性愛を正面から扱う表現であるために『世間の目を憚る代物』である自覚があり、それ故に何かと謂われなく侮辱されたり非難されたりする『腐女子表現世界』を守ろうって云う同調圧力が(人・場所によっては)やたらに強い、って話を聞く。

そういう文化があるためなのか、同様な「当然の自粛」が男オタク表現物でも行われるべきで、それが全く行われずに結果として表通りの世間流出し、そこで調子良くのさばるべきではない、って理念が、腐女子でもある一部のフェミニスト(一部じゃなくてマジョリティなのかもしれないが)には潜在的にあるのではないかと考えているが、ちょっと確認が難しい。

 

この「表現自粛」に対する積極的な考え方は男オタク世界にはあまりなさそうなもので、この部分では政治的には極右オタクでも昭和左翼的な「政府による自由規制は最小限であるべき」って建前を大事にしてたりするし、左翼オタクならもちろんそう考えるはずなのであるがそうなっていない。これは恐らく今の左翼フェミニスト達による「最小限の規制対象」の裁定基準が「表現自由戦士」と悪意と侮辱を込めて呼ばれる人達にとっては理不尽に厳格であるってことなんじゃないかと思う。かくいう俺もフェミニスト達、とりわけネトフェミ悪罵される人達基準ちょっと、いや全く受け入れられない。

 

昭和左翼自民党政府による「公序良俗保守的性道徳観」の保護に反対した訳だが、基本的右翼である表現自由戦士」はフェミニズムからの「公序良俗=反女性差別的性道徳観」の保護に反対している訳で、その意味では政治的立場と主張の食い違いは無いとも言える。

 

どちらにせよ、憲法の建前からして最優先で守られている政治的表現と違い、その殆どエンタメである文学映画マンガアニメといった表現は、我国が戦前戦後内務省警察権力が強い強権的国家であったこともあり、公序良俗保護理由目的として簡単規制を受けがであることは戦後歴史証明してる。

 

それを守りたいと思うのであれば自分右翼であれ左翼であれ、機会を捉えて発言して意見議論することはどんなに嫌でも避けられないのであろう。 ああ嫌だねえ……

2021-09-05

anond:20210904220153

おぉ...

最初は『愛のコリーダ』かと思ったが、違うみたいですね。

https://youtu.be/edzXUfRQN48

Fujiya & Miyagi みたいなもんすか?

https://youtu.be/N5XVeENmLMk

2021-08-23

anond:20210823004058

そりゃあ『愛のコリーダ』でしょう。

こんな狂おしい愛の物語なんてない。

2009-02-21

大島渚

の特集を見に行った。

http://www.kawasaki-museum.jp/display/cinema/#B001

愛のコリーダ」の撮影風景ドキュメンタリーで40歳代の頃の大島渚が出ていたのですが、とてもセクシーでした。

2008-12-28

カンパニー松尾AV世界(前編)

www.midnighteye.comより、雨宮まみの「弟よ!」経由。

長いので二つに分けました。

カンパニー松尾AV世界

ヨハネス・シェーンヘル

<日本AVとは>

日本アダルトビデオ、略してAVと言われているがそれは驚くべき多様性の世界でもある。もし欲情を喚起するためにセックスを描写し、売り物にするのがポルノグラフィの定義なら、どこからどう見てもそれはポルノなのだ。AV安価日本中至るところで目にすることができる。この国のどんなビデオショップに行ってもこのジャンル商品はたいてい、大きな棚を占めている。

しかし、日本映画表現が欧米で多くの信者を生み出す一方、アダルトビデオはほとんど顧みられていない。日本の得意とする怪獣もの、アニメをはじめとする全ジャンルに関する日本映画フェスティバルヨーロッパ北米で花盛りだが、AVはどこにある?もちろん、日本ポルノは性器を直接描写できないという問題を抱えている。それらは処理画像の向こうにあり、欧米視聴者にとってはいささか奇異に映るものだ。にもかかわらず、AVは魅力的な分野である。

最初に、日本におけるポルノ映像の区分けにふれる必要がある。

まずは、ピンク映画。これは1960年代初頭から制作されている。小林悟の「肉体の市場」がおおまかにいってこの分野のさきがけといえよう。性への大いなる情熱、そして時には理由なき暴力や変わった性的ファンタジーまで描写する一方、ヌードシーンは一部に限られ、疑似性交が主を占める。

そして裏映画訳注日本語ではブルーフィルムがより的確な表現だと思います)、こちらはさらに映画史の初期にまでさかのぼることができる。こちらは本番ありの無修正、たいてい8分から10分の短い映画だ。白黒映画時代に欧米存在したブルームービーは時には手の込んだプロットを開陳していたが、日本のはたいてい伝統的な畳の部屋で性交にいそしむ男女を描写するにとどまっている。裏映画が上映されるのは、だいたい温泉街であった。男の客にとっての温泉街でのくつろぎは、しばしば買春と結びついており、そうした街の赤線地帯では法律で固く禁じられている裏映画ショーを楽しむことができた。今日では裏映画裏ビデオに取って代わられ、そうした未修整のポルノビデオビデオショップで信用のある客にのみこっそり売られている。

ビデオデッキの普及に伴い、アダルトビデオ1980年代初頭に成長をとげる。家庭で映画を見る習慣が広まり、そしてもちろんビデオデッキ接続されたテレビセックスを鑑賞することを人々は望んだ。初期AVは、東映新東宝といった大手ピンク映画会社により支配された。撮影済みの映画ビデオ化し、自宅向け市場へと流したのだが、短いバージョンであることもしばしばだった。市場の急速な拡大につれ、それらの映画会社ビデオ専用の映像制作するようになった。これらの映像は直接ビデオで撮影されているにもかかわらず、ピンク映画伝統踏襲し、ピンク映画ルール・制限に固執した。

ピンク映画会社制作するAVは、高額な費用をもって制作され、ほとんどの場合有名女優を主役にすえていた。しかし新世代の野心あるポルノ映像作家ビデオという形態安価であり、あらゆる種類の新しい可能性を提供してくれることに気づき始めた。つまり機材取り回しの容易さ、無限ともいえる長さの尺をとてつもなく低コストで撮影できるということである。

これらの新しい可能性を最大限に生かした最初の監督が、かつてピンク映画監督だった代々木忠である。「ドキュメント・ザ・オナニーシリーズ80年代初め)にて今日AVにて見ることのできる根源的要素を彼は取り入れた。本番の導入、そして素人俳優採用によって秘められた日本セックス事情ドキュメンタリースタイルで描写したのだ。

ドキュメント・ザ・オナニー」は驚くべきヒットを記録し、映像に関心のなかった投資家連中という新しいグループの注目を引くことになった。裏本ビニ本業者はAV制作会社を設立し、金鉱とも思えるそのビジネスに飛び込んでいった。

少額の予算ピンク映画会社に勝つために、本番は彼らの切り札となった。こうした決断大島渚の刺激であるともいえよう。著名な日本人監督である大島フランス資本で撮影したアートシアター系映画である「愛のコリーダ」(1976年)は、命がけの悲しい情熱を最大限に表現するために実際のセックスをいくつものシーンにおさめた。一方で、非合法である裏映画からの強い影響も見てとれる。裏モノである「洗濯屋ケンちゃん」が一躍注目を浴びることになった。いつ、誰が作ったのかは現在に至るまでまったく不明である。しかし多くのフィルムが出回り、それらはビデオコピーされた。主要雑誌はこの映像について書き立て、大きな話題となった。裏映画の直コピーの常として、「洗濯屋ケンちゃん」はもちろん非合法なものであったが、新しい本物のセックスという報道記事によって、どんなにお金をかけても得ることのできない宣伝性を得ることになった。

もちろん、新しいAVにおけるセックスは本物であったが、いぜん審査されていた。セックスシーンでは役者の全身はおろか、クローズアップも映し出されていた。しかし、性器とヘアーAV業界でいうところの「モザイク」と呼ばれる電子的処理画像に隠されていた。処理画像がある限り、スクリーン上のすべてが許された。精液が処理画像から飛び出して、非処理画面に映る女優にかかってもおとがめなしである。ピンク映画では役者のモチモノは家具植木鉢をレンズとの間に置くことによって隠されていたが、いまや自由な撮影が可能となった。編集の段階でモザイクをかけ、ぼかすだけでいいのである。

そうした映像処理は、海外映画審査起源を発している。ヌードシーンはこれまでカットされることはなかったが、俳優の性器は黒塗り、もしくは白のぼかしで隠されていた。この和らげられた映像が、ある程度本来のイメージを知る、手がかりになったのである。

こうした規格を確固たるものにし、政府の取り締まり・警察逮捕といった危険からAV産業を守るため、AV会社により自主審査団体が設立された。映倫ピンク映画制作する業界により審査委員会が運営されている)をモデルとしたビデ倫が設立された。業界トップは、AV監督アナーキー連中の集まりであることを正確に把握しており、最初から強い手段をとることにした。ルールを守らせるための必要な権威づけのために、ビデ倫審査委員会警察官僚役人天下りを呼び寄せたのだ。

現在ではAV業界は一大産業を形成している。しかしその内訳はさまざまである。ピンク映画会社が今もなお重要な役割を果たす一方、無数の小さな会社があり、世には知られぬ顧客の嗜好を満たすべく特異化をはかっている。とはいっても、AVには二大分野が存在する。つまり、「単体」と「企画」である。単体ものはふつう、大きな会社が扱うが、大予算とひとりのスター女優に焦点を合わせるところに特徴がある。美しい女の子を起用し、なるだけソフトに、かわいく作られる。一方企画ものでは4、5人の女優が一本のビデオに出演する。彼女たちはかわいくもなく、見た目がイマイチであるのは決して珍しいことではないが、カメラの前での行為は大胆不敵である。企画ものはセックスについて変わった側面を取り上げることが多く、小さな会社制作している。企画ものの方が予算が安く済むからだ。単体女優はスターであり、一本につき100から200万の金を手にする。企画女優はというと、10万から20万といったところだ。にもかかわらず、ふたつのやり方は相互補完的だ。多くの男性視聴者女の子にふたつのことを望む、つまり可愛らしさと変態さだ。

日本では魅力的な若手女優が必要とされており、単体の女の子はスターでありアイドルでもある。企画女の子はというと、タレント的であり、それはアマチュア意味する。こうしたタレント募集のやり方はまさしく日本的だ。モデル事務所タレント事務所は多くのスカウトマンをかかえている。スカウトマンは若い男連中であり、ファッションに敏感な若い子でにぎわう東京一角に、前途有望な娘を見つけるべく徘徊している。彼らは若い女性に声をかけ、音楽ファッション業界仕事をもちかける。実際、ファッションモデルテレビエキストラになる場合もある。レコード会社が特定の容姿を歌唱力より優先させたい場合には歌手になることも。一部の女の子たちは、スカウトマンから声をかけられ、そうした仕事に着くことを夢見ながらおしゃれして渋谷原宿の通りを歩く。しかし多くの場合、モデル事務所AV仕事をもちかけ、そして多くの女の子が「いいですよ」と答える。街角からリクルートされたタレントたちの登場するAVの信じられない本数が示すように。彼女たちはたいてい手っ取り早く金を稼ぐためにAVに出演する。もしくは冒険や遊び心、モデルキャリアへの道を見いだしているのかもしれない。

企画もののスタイルジャンルを一覧にするにはいささか数が多すぎる。しかしその中で最も重要であり、かつ一般的なものをあげるとしたら、ピンク映画の時代から続く、ずばりそのものの異性間セックスが最初に来るであろう。教師・女生徒看護婦といったちょっとした嗜好を交えたり、レイプAVでは一大分野だ)・緊縛などの暴力の一形態を伴うこともある。しかしAVビデオならではの特異なジャンルも拡大しつつある。ブッカケ(集団男性女性の体に射精する、顔がより好まれる)や密着ドキュメンタリーの特殊なケースであるハメ撮りなどである。

<ポルノ日記>

ドキュメンタリー的手法は日本AVの多くに見られる。しかしハメ撮りほどドキュメンタリー的なものはないであろう。手短にいうと、ハメ撮りはポルノ日記の一種である。それは男性(たいていカメラマン監督である)の主導のもと、タレント女優フィルムに収める作業である。カメラ片手にしゃぶってもらったり、テーブルに置かれたカメラ性交を記録したり、時には行為中にずばりそのものにカメラを向ける。こうしたやり方がたぶん、映像にじかの力を与えているのだろう。キャストなし、クルーなし。ただふたりがやって、その男がまさしくそこでセックスをしている、非常に個人的な視点を視聴者はまっすぐに見せられる(原注:残念ながら、筆者は女性による女性の視点からのハメ撮りにお目にかかったことがない)。

しかし、ハメ撮りの売り物はセックスだけではない。セックスと同じくらいの興奮を呼び覚ますのが、ふつうの、一般的な女の子がどうやって「演じる」かという点だ。彼女たちは朝、地下鉄であなたの隣りに座っていたかもしれない、夜にはビールを運ぶウエイトレスだったかもしれない…夢みたまえ。ハメ撮りが売るもの、それは夢であり、日本の男たちが望むけど実現不可能な、あるいは現実には十分に得られないような性的出会いがあるかもしれない、という夢だ。でもそのイメージリアルである。それこそ手に取れるくらいリアルだ。

<カンパニー松尾: ハメ撮りの達人>

今日のようなハメ撮りを作ったのが、カンパニー松尾だ。ハメ撮りという生まれたてジャンルを親密な映像体験に仕立て上げた。彼の代表作である「オークション01」「オークション02」は2004年制作された。これらの作品デジタル撮影され、DVDにて販売されている)は松尾が出会ったさまざまな女性との個人的な出会いを多く収録している。

たいてい松尾レディースコミック広告を掲載し、彼と会う勇気を持ち合わせた女性募集する。作品の各章は彼女たちが実際に電話をかけるところから始まる。松尾は彼自身が電話を取り、待ち合わせ場所を決めるシーンをカメラに収める。次に私たちが見るのは、松尾彼女のいるところに向かって移動するところだ。松尾はおおいに旅を楽しんでいるように見え、それを日記スタイルで撮る。いろんな駅のシーン、車窓からの眺め、日本日常光景は常に導入部分となり、彼の行き先を示す。最終的に彼は女性が指定する場所で面会する。その場所は彼女の住む町だったり、リゾートだったりする。女性はときに彼をからかう。居場所を推測させたり、行き先の張り紙を残すこともある。しかしたいていの場合、駅などの待ち合わせ場所に彼女たちは素直に現れる。松尾は非常におだやかに話す、好ましい感じのする男だ。こうした資質がものごとをうまく進める理由であるに違いない。しかし最初から明らかなのは、彼女たちはお金を受け取っていて、なにやらセックスのようなものがこのふたりの参加者のあいだで始まることだ。

まず第一に、松尾女性のことを知りたがる。彼らはしゃべり、冗談をとばし、お互いが容易になじめるみちすじを探す。そしてすべてはカメラに記録される。今回の出会いに至った動機、いつもの生活、そして夢。ついに彼らはホテル彼女の自宅へと向かう。

この段階において、視聴者はすでに彼女について十分知っている。とても親しく感じられる。ある娘たちは積極的にセックスに至ろうとするし、渋々な娘もいる。なんであれ、松尾は撮影する。彼女が「だめ」と言う時でさえ、松尾ありのままカメラにおさめる。驚くべきことは、女性たちは作品の中では自らについてとてもあけすけで、その多くがセックスの段になっても決してシャイではないことだ。日本女の子が実際にどうやって考え、何を求めているか知りたければ、多くの洞察がここから得られよう。

松尾1965年日本の中央に位置する愛知県に生まれた。高校時代から、松尾テレビ業界希望していた。専門学校卒業すると、松尾音楽番組制作会社に入った。この仕事には彼は大いに失望させられた。音楽のことを考え、バンド内面映像化するかわりに単調な台本を追う日々だった。ひょっとしたら意外でないかもしれないが、会社はほどなく倒産した。失業した松尾は飲み屋で昔からの友人に会う。友人はAV世界への参加をもちかけた…ここからは彼自身の言葉で語ってもらうとしよう。

2006年の2月に私は東京のファッショナブルなエリアである原宿にある、新しく広々とした松尾オフィスで彼に会った。ちなみに原宿日本若者文化の先端を行くホットスポットとして知られている。

http://anond.hatelabo.jp/20081228015206 に続きます。

 
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