はてなキーワード: 性差別とは
男は勉強や仕事だけしていれば良かったのが、美容や家事もしなければいけないようになり。
女は美容と家事だけしていれば良かったのが、勉強や仕事もしなければいけないようになり。
性差別的分業体制が崩壊するということは、全てできなければいけない時代になるということだったんだな。
今から元に戻そうにも、「ジョギングやジム通いで細マッチョをキープして、服や髪型もオシャレで家事もそつなくこなす大卒正社員の好青年」の素晴らしさを知った女性は、
「とりあえず稼いでくることだけがとりえの、ハゲデブ不細工の不潔なダサ男」では満足できないし、
「家事のできるスタイル抜群の若い美人でありながら、大卒正社員として安定収入を獲得してくる嫁」という便利な存在を知ってしまった男性は、
「とりあえず化粧と家事はやってるけど、学歴なしだからロクな職に就けず、井戸端会議レベルのくだらない話しかできないバカ女」では満足できないのだ。
要求を吊り上げ合い、首を絞めあう哀れな男女たち。
出遅れという言葉じゃ済まないほど今更だけど、レイプエロゲー問題について考えた。
12歳前後の女子学童が通勤電車に乗っている。後をつけていた男が彼女の体に触り、彼女に性的いたずらを試みる。やっとのことで電車は停まり、恐れをなした彼女は公衆トイレに駆け込むも、追って来た襲撃者は彼女の腕を縛り、レイプする。襲撃者は彼女を監禁し、様々な状況下で彼女を何度もレイプする。彼女の母親と、10代の姉妹もまた同じ運命をたどる。この一家は以前、かつてこのレイピストが別の女性に対して性犯罪を図った件について、姉妹の姉が警察に通報したことにより、その報復としてレイプの標的とされたのである。
以上が、イリュージョン・ソフトウェアが開発したレイプ・シミュレーター・ゲーム「レイプレイ」のあらすじである。このゲームは日本で販売され、Amazonでも取り扱われている。
http://fragments.g.hatena.ne.jp/yuuboku/20090508/1241760087
まあ、酷い話だよなとは思う。
ただ、女性から無視・嫌悪されてきた男性たちへの慰めとして、こういった性差別的フィクションの存在は必要なのではないかとも思う。
と、なぜか彼女は信じて疑わなかったという。
体が大きく、早熟な彼が姉たちに手を出すことを心配した彼女は、まだ幼いケンパーの部屋を地下室に移した。
ケンパーはこのじめじめした牢獄のような、窓ひとつない場所におびえ、なんでもするから二階の子供部屋に戻して、と嘆願した。だがこれは聞き入れられなかった。
彼はこの地下室で悪夢にうなされ、暗い妄想にふけった。TVもラジオもなく、窓すらないこの部屋では外的刺激などまったくなく、彼は内なる妄想でみずからを慰めるよりほかなかったのだ。
彼の両親は彼がものごころついたときから、すでに不仲だった。母親は体格がいいだけでなく、ケンパーを産んだだけあって頭の回転が速く、とくに舌鋒の鋭さは無類であった。
そして真夜中、眠っている彼女をハンマーで殴り、ナイフで喉をかき切った。それから「もう二度と悪態がつけないよう」喉頭を切り取って、ディスポーザーで粉々にした。そして首を切断した。
首を失った体は、いつものようにもう「母」ではなく「女体」だったので躊躇なく犯した。首のほうはダーツの的にし、罵声を浴びせながらサンドバッグ状に殴った。
http://www8.ocn.ne.jp/~moonston/kemper.htm
こういった、被支配者が支配者を惨殺する復讐劇に私はカタルシスを得る。
特に、口が達者な親によって子が洗脳状態に置かれていたが、洗脳が解けた子が親を惨殺するストーリーが好きだ。
これは私的な体験から来ている願望なのであろうと思う。
対象から逃げるだけだった私は、理想の姿として復讐ストーリーを欲し、消費している。
今回Equality Nowが提示した問題点は、そのような「わいせつ」という概念に基づく物ではありませんでした。Equality Nowは、今回のエロゲ―を批判するときに、非難されるべき点として、次のような表現を使います。
これらにおいて問題となるのは、それが「わいせつ」であるかどうかではなく、それが「女性に対する暴力」を維持するようなものであるかどうかなのです。今回のようなレイプゲームが問題となったのは、それが性的なものであるからではなく、女性に対する差別を維持するものであるからなのです。
http://d.hatena.ne.jp/amamako/20090520/1242764989
子による親への復讐ストーリーを必要とする私のように、性差別ファンタジーを必要としている男性がいるのではないか。
女性たちに無視され、嫌悪され、排斥されてきた男性たちにとって、
女性たちを性差別し暴力を振るう理想的なストーリーは救いになるのではないか。
虐待していた親が改心し子に謝罪して、子がスムーズにそれを許し、全てが上手くいくようになる例が非常にまれなように、
女性から嫌悪されてきたある男性の前に女神のような女性があらわれ、その男性を無条件に愛し、
男性の内にあった女性への全ての屈折や憎悪が消えてなくなり上手くいくという例も非常にまれで、期待するだけ無駄な話だ。
被害者意識に苦しんでいる状態から一時的に救ってくれるのは、後ろ向きな復讐ストーリーだけかもしれない。
私は必要悪としてそういった性差別ファンタジーの存在を認めたい。
ただし性差別ファンタジーの消費者と関わりたいかといったら全く別の話で、当然、できるだけ関わりたくない。私は女神ではない。
最近、ウヨサヨの戦いが「親中韓vs反中韓」という空中戦になってる件について、
アイデンティティは人が人であるために大事なものであると思いますが、
経済問題をそっちのけでアイデンティティ同士で戦っているのには虚しさを感じます。
http://anond.hatelabo.jp/20110807230342
多分フェミニズムって共働きしなきゃいけない境遇の精一杯の言い訳なんだと思う。
うちは共働きしなくても食わせていけるので嫁には家事と子育てを任せているが、
また子供にとっても母親が家にいる方が安心だ。そりゃそうだよね。
だから子供にとっても親にとってもいい環境を提供してあげないといけない。
それができる男が甲斐性のある男だと認められるわけだ。
それを男の責任だと認めたくない男自身とそれを強く言えない女の、
大半の女にとって人生のパートナーは甲斐性のある男の方がいいに決まっている。
男が稼いで女が家を守るって当たり前のことだろう?
例えばこれに対するブコメもそう。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20110806200518
正直さ、はてな界隈で見られる「反性差別」は、昭和臭すぎて気持ち悪いんだよ。中国嫁日記の『嫁』に過剰反応とか、いつの時代だ。
「どうせオタクは処女厨でセックス目的で、メンヘラ女子なんかと仲良くなるのは「下心」があるからでしょ?オタクが性欲丸出しのオタコンテンツ見るのも、そういった性差別的視点があるから(笑)」
とか、馬鹿じゃねーの?頭湧いてるだろ。
「お前たちは自分では気づいていないのかもしれないが、思考の根底が差別的だから~云々」みたいな、どや顔シングルピース発言よく出来るよな!
事あるごとに、とある作品や、言葉遣いの中から、男尊女卑、家父長制、セクマイへの差別、ミソジニー・・・を見出して、批判する人たち・・・
でもな、『そういった発想』ができる事自体に、昭和の残滓を感じる。
昭和臭い。昭和。バブル。車でドライブして女の子ナンパしてセックスセックス!!なバブル臭!!!
なんで、男が女の子と仲良くするときはセックスしたい下心が当たり前で、もし隠しているとしても無意識はそうなってる、オタコンテンツを楽しむ際のオタクにしても同様、故にオタクは差別性を自覚して、反省すべき!猛省すべき!!自制すべき!!!なんですか??
いや、昭和の時代遅れ共が『自分の無意識』を『他人の無意識』に投影して「あいつらの正体見破った!!」なんて、ドヤ顔シングルピースしてるだけだろ?
昭和の時代遅れ共が持ってる『自分の無意識』が、『女の子と喋るときはセックスしたいの下心丸出し、ポルノはレイプもの大好き!!』なだけでしょ?
自分らがそういうゲスだから、逆に、ジェンダーとセクシュアリティをお勉強して、正義の味方になっちゃっただけでしょ?(笑)違います????
自分らがただのゲスでクズで、正義の味方のフリしてネットバトルで人権とポリティカル・コレクトネスを盾に、他人を罵倒するのが大大大大大大好きなゲロ以下のゴミだから、PC正しいのが大好きなんでしょ?
誰かに勝利したいのが本懐で、本当は差別とかどうでもいいんでしょ?
ねえ、そうでしょ?違いますかにゃ?違うかにゃ??にゃ~~?正しいですよにゃー
こいつら、絶対リアルの飲み会とかじゃ昭和のセクハラオヤジ丸出しのセクハラネタ言いまくってると思うわ。
んで、ネットじゃ正義ヅラして中国嫁の差別性が~とか言ってるの(←ありがちでしょこれw
匿名以外じゃ表に出さないが、女の子と仲良くしたい(いや男でもいいんだけど)のは単に甘えたいからだし、甘えたいのはセックスしたいからじゃなくて寂しいから。
陵辱ものエロゲ(触手が好き)をよくやるのは、女の子をレイプしたいからじゃなくて、アヘ顔ダブルピースの女の子の快感が気持ちよさそうで俺も体感したいから!!!(エネマグラ
こういう感情、わかります?わからない?わかんねーなら黙ってろよ、20世紀の規範に囚われたアホの正義の味方の啓蒙主義者共が。
いまだに通例行事のごとく男尊女卑、家父長制、セクマイ差別、ミソジニー・・・と唱えた所で、ここは2011年ですよ。わかりませんか。
お前らがテレビと紙で三次元のポルノを見ていた子供時代に、俺はモニタでポルノを見ていたわけ。初恋愛がネット上の時代なわけ。知り合い20人いれば1人は女装してるの。はてなのインテリ気取りがボーイズラブのゲイに対する差別性とまで語っていて爆笑したけど、BLは男も読んでるの。もはや感覚が何もかも違うの。
昭和共の『敵の無意識ほじくり返し戦法』で『どや顔シングルピース』が通用するのは『全く同じ思考体系を持ったお前の同世代』だけだろっての。古いわばーか。
そろそろお脳のアップデートをして下さりませんかね??
二次元のポルノ見て『どや顔シングルピース』で『やや、この作品の根底に流れる性差別性は・・・許せませんぞ~~~(どかーん!)』とか、笑ろてしまうからやめろや。
で,その象徴とやらに僕らはいつまで縛られなければならないの?
それが「今」「言葉」に込められる「意味」と強く結合「しなければならない」かは別問題.
一方で,嫁という語が性差別是正の意識が高まっても尚言葉として生き続けたことも事実で,
それを「あってはならなかったこと」としなくてもいいんじゃないの.
つまり,無教養の結果だったとしても生き残ってしまうくらいに,
「嫁」なる言葉が日本語において持つ差別性は小さかった,ないしは現代に至り小さくなったってことだよ.
今は(昔はよくわかんないけど)女性が「嫁」なる言葉を使う時代のように私には見えるし,
教養がなくて差別することはあっても,教養がなくてわざわざ差別され,低く扱われることなんてないはずだから
虐げられる側の女性が自ら使うなんてことには絶対にならないはずでしょう?
そのくらい,性差別においてこの言葉が持つ本質的な役割は薄いのだと思う.
http://d.hatena.ne.jp/islecape/20110801/yome
上の2つのエントリーなどで、有名ブログ「中国嫁日記」が差別的かどうかという話題が妙な盛り上がりを見せているようで。とはいえ、この手の議論の常として、互いに感情論を飛ばしあうだけの、ぐだぐだな結末になっているようですが。
少なくとも今回の議論に限り、ここまでぐだぐだになった原因は問題提起側、すなわち「嫁などという性差別的な言葉を使うとは何事か!」と言い出した側にあります。なにしろ、嫁という言葉を再三再四あげつらっておきながら、なぜ「嫁」という文字の使用に問題があるのか一度も説明していないのですから。
たったこれだけの「自分の感覚」をよりどころに、あれだけの長文を書き上げ挙句社会まで語ってしまうと言うのは、その壮大な構成力に賞賛を贈らせて頂くより他にありません。その果て、このブログ主さんは
しかしそれにしても、前述のTogetterの ものの役に立たなさはどうしたことでしょうか。「これが差別なんて、なにを考えているのか」という自身の感覚の披瀝や、「こういう人は他人を差別するために機先を制して自分が差別と言っているだけ」という主張に熱心な人が多いのですが、 …(途中略)… だいたい未来にむけて記録すべき思考の痕跡とも思えません。「当時」の大衆の程度を知る材料にはなりますかね。
と嘆いておられるのですが、そりゃ「嫁なんて言葉はけしからん!」という「自身の感覚の披瀝」に過ぎないtwitterに対して、客観的かつ論理的な反論を要求するのは無茶というものでしょう。自分が見えていない人間とはよくよく怖いもの無しのようです。
しかし折角なので、ここではその無茶への挑戦をしてみたいと思います。上のエントリーの中国嫁けしからん!嫁は差別!精神が疲れる!という切なる悲鳴に対して、どこまで客観的な「反論」をなし得るのでしょうか。単純化のために、ここでは内容については一切議論せず、「中国嫁日記」というネーミングの是非だけを考えましょう。
さて、客観的と言うからには、ここで「俺は嫁って別に差別的じゃないと思うけど」と張り合ってみても意味がないのは明らかです。ここで必要なのは中立的な第三者の視点であり、そして私の手元にはこれ以上は望み得ないくらいに客観的な視点があります。広辞苑と新漢語林。要するに辞書です。
広辞苑によると、嫁は
(1) 息子の妻
(3) 結婚の相手としての女。嫁した女。妻。
(4) 「嫁が君」(ネズミ)の略
とあります。二番目の意味から、まず中国嫁日記の嫁の使用法が間違ってはいないことが分かります。まだ新婚さんみたいですから。さらに漢語林を引くと、
とあります。恐らく、嫁という字が一部の人たちから忌み嫌われる理由の一部がここにあります。家の従属物的な意味合いを感じ取って、それが性差別であるという論法のようです。とりあえず事の是非は置いておいて、代替語についても調べておきましょう。
妻: かんざしに手をやり、髪を整え飾る女性のさまから、つまの意味を表す。
奥: 貴人の妻の称。貴人の居室。大切にすること。など多数の意味を持つ。室も同義。
婦: 女+帚。帚はほうきの意味。ほうきを持つ女性、家事に服する人の意味を表す。転じて、一家の主婦。一家の切り盛りをする女性。または子の妻。
細君: 細は小さい、かぼそいことを示す字。愚妻などと同じ謙譲表現。ただし、最近は細にこまやかという意味もあるせいか、他人の妻をいう語に用いられることが多い。
他にも連れ合いとか家内とかありますが、もう十分でしょう。妻というのはなかなかに色っぽい文字で、言葉自体には結婚関係を表す意味合いがないのが嫁との違いです。ちなみに、夫も大人が冠を付けている様をしめすだけの文字なので、夫妻という言葉は男女という言葉と解字上はあまり差がありません。一方で生活感が溢れまくっているのが婦の字で、家政婦や助産婦など、女性が多く働く職業にこの文字が使われるのも、事の是非はさておき自然と言えるでしょう。
奥・室は、元々家の神を祀る場所を意味したこともあって実にエレガントな言葉で、自分の配偶者を「奥さん」と呼称する人もいるようです。しかし、元は貴人の妻を表す表現である以上、日本語表現としては非常に据わりが悪い。そもそも、定義から言えば自分が貴人と言うことになってしまいます。配偶者は実に中立的ですが、3文字を費やした挙句に性別も分からないというのは、法律用語としては便利でも本のタイトルとしては問題外です。
こうしてみると、本のタイトルとして使い物になりそうなのは嫁か妻かの2択と言うことになりそうです。この2つの文字が決定的に違うのは、嫁には「移動する」という概念が強く存在する点です。生家から夫の家へと。だからこそ、嫁に来る、嫁に行く、という表現はあっても、妻に来る、という表現はあり得ません。責任転嫁に嫁の字を当てるのも同じ理由からでしょう。中国嫁日記というのは、中国からやってきた奥さんが異文化の日本で楽しんだり悪戦苦闘したり、旦那さんと新婚生活をエンジョイするのを描く日記です。ならば、単純に中国人の配偶者であることしか意味しない中国妻よりも、「中国から来た嫁の日記」とするほうが遥かに適切でしょう。
もちろん、このように語を連ねずとも、常識的な日本語感覚を持つ人にとっては、中国嫁日記の方が据わりが良いというのは直感的に明らかなのですけれども。
さて、問題の差別性の有無についてですが、今回の騒動でひとつ明らかとなったのは、「嫁という言葉は差別的である」と思う人とそうでない人が両方存在すると言うことです。どちらかといえば、差別的と感じない人の方が多いようにも見えます。ここからは私個人の主観になりますが、嫁が嫁ぐ「家」の概念が過去数十年で大きく変わったためであるように思います。昔は女性の嫁ぐ先は夫の実家であり、夫の親兄弟との同居を意味しました。ここでの家は正に「夫の家」であり、「妻の家」にはなりえません。ついでに、義理の親兄弟の世話まで任されることも多かったわけで、妻にとってはなかなかにストレスのたまる環境であったことでしょう。この状況下で「嫁」という言葉にネガティブな意味合いが生まれるのは無理からぬ事かも知れません。
しかし、核家族化の定着すると、花嫁が嫁ぐ「家」には夫と妻の二人しかいません。この「家」を夫の家、と考えるのには無理があります - この「家」はふたりだけのものなのですから。多くの日本人にとって、この「家」に嫁として嫁ぐこと自体は、特にネガティブな意味を持たなくなって来ているように思います。もちろん、女性であるが故のディスアドバンテージがこれで消えたわけではないでしょう。しかし、それはもはや「嫁」であることのディスアドバンテージではなくなってしまったのです。
こう考えると、嫁にやたらと苦痛やら疲労やらを感じてしまう人たちは、非常に古い「家」の概念の持ち主なのかも知れません。運悪く嫁がこき使われる大家族に生まれてしまったとか、時代遅れのフェミニズムの教科書(そんなものがあるのかは知りませんが)にかぶれてしまったとか、そもそも核家族化が進む前に生まれたお年寄りであるとか。どちらにせよ、嫁の字を見ただけで辛い思いをするというのは、同情に値する境遇であることは間違いありません。嫁でこれなのですから、女に帚の婦を見た日には心臓発作でも起こしかねない。全国津々浦々の結婚式場で「新婦入場です」のアナウンスがかかるたびに、その言葉の差別性をこんこんと説き起こし説伏する。その果てにしか彼らの心の平穏はあり得ないのです。彼らフェミニストの想像を絶する試練の日々を、私は涙と共に見守りたいと思います。
今話題になっている方向とは別の方向でモヤモヤしているところがあってうまくまとまらないのだが書いてみる。
韓流というよりは中国や台湾などを含めた東アジア全般になってしまうのだが、格下の国(民族)のいたいけなアイドルを愛でるというような感覚が常につきまとうような気がして、なにかフィリピンで買春するような後ろめたさ(いや自分はやったことないので想像ですが……)というか。我ながら書いてて気持ち悪すぎるが……orzすみません。
自分の場合は世代的にビビアン・スーが好きだった。彼女の場合は極端に天然キャラで日本語もたどたどしい(どこまで演技かはさておき)というとても分かりやすい例だと思いますが、あれが日本語がほとんど完璧だったりすると魅力が薄れるような気がして。
おそらく古くはテレサ・テンやアグネス・チャンが受けたのも多かれ少なかれそういう所もあったのかなと思ったりする。(テレサ・テンのファンに激怒されそうだが……とりあえず彼女の歌の素晴らしさは置いておいて。)
すごく微妙なニュアンスなので他の国の人にこういう感覚があるのかどうかは、かなりその国に詳しくないと分からないと思うのだが、日本の場合民族的なルックスがほぼ同じである中国朝鮮方面の人らを(煩雑になるので乱暴に言いますが)まあぶっちゃけ支配した(というかしようとして負けた)という特殊な点で、白人の有色人種の国々に対する感じ方とはまたちょっと違う感じ方があるのかなとか。(白人だとエマニエル夫人みたいのが有色人種の若い男を買春するみたいなイメージ……イメージが貧しくてすみません……orz)
上で「格下の国(民族)」という乱暴な書き方をした。自分は韓国人や中国人が嫌いという感覚は一切無くて、無論民族や国に格下も格上も無いと思ってるし、これといって普段は差別感情も無いつもりなんだけど、アジアのアイドルを見る目線がどうしても上に書いたような差別的な意識がうっすらとはいえあるような気がしてモヤモヤするのです。
単純に日本人の異性のアイドルに対しても性差別的な意味でそういう嫌な感じってのはあるのかもしれないんだけど、アジアアイドルになるとさらに国とか民族的なものが付いてきてより複雑な感情になるというかんじ。気のせいで考え過ぎなのかもしれないけど……
先日「うつみ宮土理の発言は何が問題だったのか」って記事書いた者です。
似たような声掛け事例が発生していると聞いて。さすがにもういちいち説明はしないけど、少しテーマをズラして書いてみる。
http://hamusoku.com/archives/4989875.html
△「相談者の意図を汲み取って社会学者の知識経験を基に回答するんじゃなくて相談を論破しようとしてるんだよねコレ。わけがわからないよ」
△テレビでウケそうな偏向キャラだけど一発屋としてすり減らされて消えていきそう。
△なんだこの社会学者(笑)は。文章が気持ち悪い。完全に質問者を下にみてるな。回答もただのオナニーみたいな内容だし、なんだこれ
×フェミニストってこんなに程度が低いんだな(笑
×フェミニストは非常に怖いという話。
××これはひどいww フェミニストほど偏見にみちていて、性差別的な考え方を持った人っていないと思う。と、田嶋陽子や上野千鶴子を見てると思ってしまう。こういう人たち、たいてい話の根拠が主観的なんだよね
う~ん。自分の頭では何一つ考えているように見えない。
いや、周りのノリに合わせるべく必死でその余裕が無いのかもしれない。気の毒な話だ。
この人たちの普段のタイムラインおよびフォロワーを見てみたい。
(これから先は「おまえの親の顔みたいわ」ではなく「お前のTwitterのフォロワーがみたいわ」になりそう)
ちゃんと読めてないのに、読めているつもりで書き込みしているのではないか。だから浮いてしまう。
空気を読める人と読めない人の差はどの辺にあるのかと考えてみたが、どうも「空気を半分しか読めてない人」が流されているのではないかと考えた。
「空気をよめ」ってのはもう日常的に使われるようになった言葉であるが、この空気って二種類があると思う。
(さらに細かく分けることも可能だろうけれど、今回の話は二種類の分類で十分だろう)
そして、この二種類には明確な主従関係があり、主を押さえれば従もうまくいく。大事なのは主の空気を読むことだ。
上に挙げたようなコメントを書いている子は、従の側しか理解できてない様な気がする。
瞬間的に生じる曖昧な空気、力の流れとか雰囲気のようなものを読むのは得意なのかもしれない。
しかし、場の設定とか文脈という、もう少し大きな、そして具体的であるために変わらない、基礎的な部分がわからないようだ。
多分本人たちは精一杯空気を読んだコメントを書いているつもりなのだろう。
でもちゃんと理解して書いてるという印象を与えない。フワフワした、根拠のない感情の垂れ流し。
それじゃあ空気読んでることにならない。むしろそういう中途半端な空気読みは一番危険だと思う。
ちなみに、問題にしているのは×の人たちではなく△の人たちね。
×の人たちは、完全に空気が読めない人たち。この人達は、最初から空気読むつもりがないから自己認識と実際が一致してる。OK.
でも△の人たちは、俺は問題をわかってるぞと思い込んでいる。でもそうじゃないよ、ってことをどうにか認識出来るといいのだけれど。
私自身は上野千鶴子の回答およびその姿勢って最後の一行以外問題ないと思うんだよね。
いや、ある意味最後の一行も必要ななかったけど問題とするほどのコトはないと思ってる。
うつみ宮土理の件とは全く違う話なんだけれど、こういうのって区別つかないのかなぁ。
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20110329#p1
まあ、これは医療という立場から踏まえた合理的な考え方に基づくものだから、差別をすべきではないというのは正しいかと思う。
トリアージは差別になるだろうか、と言えば、私は差別になると考える。合理的差別だ。
救うべきものと救えないものを分類し、スクリーニングにかけるということで、より多くの命を救えるのだから、これはやむを得ない。記事も、「不要な」と前置きしてスクリーニングを否定していることを読めば、必要なスクリーニングはあるという考えが見えてくるだろう。勘違いしてはいけないのが「スクリーニングすべてが不要」ではないということだ。そこを誤解しているブコメが幾つか見られる。
「差別を許容することによって自分が差別される側に立たされるリスク」とは、差別の語の前に不要な、を補うのが望ましい。しかしながら、合理的差別のそれも、こうしたリスクを孕んでいることは疑いない。言ってしまえば戦争状態である。
「差別を許容してはならないのは、そのとき差別される人のためだけではなく、自分のためでもある。」というのは、「もし自分が差別される立場に立つ可能性」を踏まえてのものである。そうしたことを慮って差別しないこと、即ち賢い人であるというのは、恣意的な操作ではないだろうか。
また、これすらも医療の立場からの提言であり、一般的な差別全般に対しての言ではないということも注意したい。
さて、記事自体からの引用はさておき、これから差別全体について、合理非合理を交えた私なりの考え方を該当ブコメからの引用を取りつつ述べることにしたい。
Apeman 「しかし、差別を正当化する代償は安くないと私は考える」 構造的な差別についてはマジョリティにとってその代償が極めて安くすむのがこの社会の問題。
構造的な差別、というのがいかなる差別に当たるのか私は誤解しているかもしれないが、ここでは社会的差別ということに換言したい。
つまり社会構成員としての人間が、構成する社会から言わば「空気」のようにのしかかるものだ。例えば、容姿差別、性差別、学歴差別、年齢差別がこれに当たる。
今四項の差別を例示したが、前二つは先天的なもの、学歴差別は後天的な物、年齢差別は漸進的なものである。社会的に合理性をもって正当化されるのは後ろ二者で、前二者についての差別も深刻ではあるが、後者ほど合理的ではなく、日進月歩で改善も見られる。とはいえ、まだまだなのが現状だ。後者に至っては、半ば当たり前というか、「しかたがない」というような意見を耳にする。特に、企業の採用活動などを見るにつけ、それは顕著である。また、学歴差別、年齢差別のメタなものとして「知能差別」が挙げられよう。つまり、「バカは黙れ」「老害はとっとと死ね」の類である。はてなでもここらへんの差別には寛容で、ブコメでは毎日のようにバカに対する差別で賑わっている。
ここに見られるのは慣習的な使い方の「自己責任」が背景にあると思う。性差別などは先天的なものであり、それを打破するのも頷けるが、学歴差別は言ってしまえば「努力の結果」による側面が評価されがちで、できなかったのは本人のせいだ、と抑圧される。簡単な例としては、新年の銀座の福袋を確実に欲しいなら、朝来るのではなく前日前々日から並べば良い、手に入れられなかったのはそういう努力を怠ったからだ、というわけだ。他にも花見の場所取りなども似たようなものだ。要は、ある集団に序列を与えて、その上にいる人ほど大きな恩恵を与えるべき、ということである。これは、集団の下の方への保障の仕方によっては「逆差別」と言われることもあり、非常に難しい問題である。
Sinraptor 差別, 原発, 災害 今後汚染地域に住む人々が、結婚差別などにさらされることも考えられ、些細な事項であっても差別は許容しないという姿勢が必要だと思う。
まったくもってその通りであるが、これは地域差別の問題にも直結している。つまり差別する側が地縁を事由に差別される可能性は体感的に低いのである。
だいたいの人間は相手に見られたとき、悪くても「何処の馬の骨」で、評価はゼロが最低なのだ。しかし、地域が被差別になるとこのゼロがマイナスになる。非合理的な差別はだいたいが不安感情に由来する。正負の乗算が負になるように、相対的に自分が上だと分かってしまうと、それより下のものを「穢れ」として退けたくなるものなのだ。だからこそ差別をしないというのは理性的なものだし、差別をするのは本能に因るし、だから一部のはてなーは例外なく知能差別を(ry
uchya_x しかし、ここは再三差別発言を繰り返している人物が首都の知事に三度も選出されている国でもある。今度も当選するようならどうすればいいのやら。 2011/03/29
これは実はなかなか面白いもので、差別をする人の中にも「政策の支持を得るもの(優れているわけではない)」とそうでないものの二者がいて、石原慎太郎というのはこの前者に価するのではないかと考えている。つまり、差別はするけど仕事はする人として評価されているのだと思う。
リヒャルト・ワーグナーという作曲家がいるのはご存知だと思う。彼の音楽は世界で評価されているが、彼の人間性はあまり「できた」ものではなく、そこはwikipediaでも見てもらえればいいが、今でもワーグナーを支持すること、演奏することがタブーな国もあるのだ。仕事の出来と人間性に相関があるわけでもないので、いい仕事はいい仕事で評価されれば良いのだが、世の中にはそれすら禁忌なところもある。清廉潔白であるなら望ましいが、万人が聖人というわけでもないし、聖人なら仕事ができるという話でもない。
ちなみに私自身は、前都知事選では政策において石原より秀でたものはいなかったと思っている。浅野史郎はちょっといただけない(これはあくまで私の価値観だし、東京にいないので関係もないのだが)
parallel-world 社会, 差別, 医療, 災害 差別する者は損得計算のできない者だと考えている。 2011/03/29
全称的にそう言い切れるとは思わないが、一部の差別主義者は権力を得るに連れて差別思想を暴露する傾向にあるように思う。つまり、権力の高みに登るに連れて「ちょっと落ちただけでは死なない」ように思い、ネット普及前までは特に深く糾弾されるようなこともなかった。今では「バカの可視化」としてそういう発言も多くに共有されるようになり、発言リスクも高まったように思うが、それ自体は化粧のようなもので、内心に差別心を抱く人が減るという話でもないことは心したい。
概括すれば、人間というのは不完全なのだから、差別心を持つ事自体を止めることは不可能である。私たちのこの「差別をしない、あるいはするな」というのは翻ってみれば「不謹慎」と同種の圧力を産む。そしてそれは正義の刃として受け止められる。
差別については、突き進めば個々人の心がけにしかなりえないだろう。それを享受するメリットを限りなく最大化し、多くの人間がみずから進んで、快く、差別をしないよう心がける環境を醸成するのが、最善であると私は思う。
Togetter - 「francesco3氏」と「めがねおう氏」の炎上ツイートまとめ
その昔非モテというものがあり、今では二つに分かれ、ひとつは『関わってはならないサイト』に、もうひとつは非モテを名乗ることをそのものをやめた。
なぜそうなっているかと言えば、「ママのお人形」と形容される元来の資質もあるだろうし、他者に不快さを与える先天的な顔の造作の悪さもあるだろうし、今で言えば発達障害などの広汎的な不良もあるだろうが、いくつかの要因を元に、慢性的に幼児期からカジュアルに疎外されつづけた結果といえると思う。
カジュアルな疎外というのは、単にキモいといわれるようなこと、それだけである。
長年にわたり複数からキモいとか、なんでお前もいんの?とか、私の机に触らないでとか、二人組作ってーなどと言われ続ければ、塵も積もれば山になるのであって、人格の奥底に自分が自分であるが為にキモいという意識が形成されていく。
『自分が自分であるが為にキモい』というのはすなわち、自己表現してはならないということである。
自己を表現したら不快と思われるような存在否定の意識であり、自己表現をしないか、キモい自己表現のみが許される。服装は典型なオタクルック、闇に隠れるように地味さで、声は誰にも聞かれぬよう細々と小さく、趣味もキモいと思われるような一人遊び。
そのために非モテたちは、非モテとなる以前は名前のない誰かであった。分かり易く憐憫・同情されるほどのエピソードは持たず、しかし慢性的にカジュアルに疎外され、誰からも慰めて貰うことなく、その結果哀れで卑屈な人格が形成されているが、他者からみれば『努力不足』『甘え』と形容される、どこにでもいる名前のない誰かである。
ネット時代が到来し、名前のない誰か達に自己表現の春がやってきた。
彼らはいつのまにか集い、巣を作り始める。だが看板無き場に人が集うことはない。大きな前提条件として『モテない』が自然発生的に選択された。『モテない』は実に分かり易いカジュアルな疎外の経験として、大多数の『キモいひと』に共有されていたからだ。そして彼らは、喪板や非モテと言ったコミュニティを作り上げた。
カジュアルな疎外経験を自分語りすることによって、彼らははじめて互いに憐憫・同情・受容する場を得たのだ。
匿名か顕名というネット特有の大きな距離感はむしろ、疎外されることのない安心感としてうつった。
真の自己が孤独だと感じていた者が、自分以外の同じような経験に触れることは、なによりの癒しとなる。
場に癒された者は、自らも場に溶け込もうとし、その為の経験は十分に豊富で、そしてその経験も平和的に共有されていった。
自己表現の病を抱える者にとって、名前が付くことは実に安心できるもの。しかし、非モテで安心することは、失敗である。
コミュニティが形成されれば、時と共に煮詰まっていくのは仕方ないこと。
コミュニティが生まれればそのなかで更なる承認を得たいとする意識がうまれ、ばかげた内部闘争が始まるが、全くもって無意味なゴミに過ぎない。大別すれば2種類あり、一方はとにかく『モテたい』ひと達である。自己否定の表現である『モテない』と、希求の『モテたい』はおおいに違うので、自己を非モテに受け渡した人は揉めたのだろう。
そもそも欲望の大本は何だったのか・・・といえば、彼らはただ、自分を知って貰い憐憫・同情・受容されたかった。でなければ、コミュニティが形成されることもない。
『自分を知って貰い憐憫・同情・受容されたかった』という感情。
非モテの感情を規定する両輪。慢性的なカジュアルな疎外のなかで肥大化した攻撃性と、受容されたいという弱々しい自意識。具体例を挙げるなら、秋葉原加藤の理不尽に暴発した攻撃性と、被害者よりも加害者加藤の生活史に思いを馳せてしまうやさしさ。これがいまでは具象化され、非モテコミュニティに顕現している。一方はミソジニーであり、もう一方は同族に対する共感。しかし、この共感さえローカルなものであり、矯正されるべき共感とされる。
ミソジニーといえばフェミニズムに関連があるが、非モテはフェミニズムと親和性が高い。
痴漢vs痴漢冤罪に代表される主語の大きな人たちによる性別間代理戦争も親和性の高さの表れと言えば確かにそのひとつであるが、何よりも『自分が自分であるが為にキモい』から救済されたいとする意識が、『女性性からの解放』つまり自己表現を闘うフェミニストと親和的といえる。
なぜミソジニーになるのか。単に誤爆してるだけだ。抑圧移譲。弱い者達が夕暮れ、さらに弱い者を叩く。たとえ疎外されたとしても、誰かを疎外してはならない。疎外の中で肥大した攻撃性を纏って許されるのは、『性差別構造』を背にする女性か、その立場にたつ者のみである。慢性的なカジュアルな疎外は、そのカジュアルさから『敵』を固定することができない。非モテが背にするものは何も無く、敢えてあるとするなら非モテホモソーシャル程度なので、孤独に籠もることは正しい選択肢だ。
さらに言えば、性別間代理戦争は、権利を勝ち取ったフェミニストに対する非モテの嫉妬でしかない。単純化すれば、なぜこちらを助けてくれないのかという叫び。何故お前らは『俺<男性>の理不尽な被害にも思いを馳せないのか』、という怒り・妬み・嫉みを、最も強く表現できる闘技場。『痴漢vs痴漢冤罪』は場として使われている。
すべての被害体験は理不尽なものだが、女性の被害はたまたま『構造的な問題』と合致していたが故に、同情され、受容される。もっと言えば、女性への同情・受容は、『男性への攻撃』を纏っている。誰からも慰めて貰うことない非モテは、受容される女性の姿に妬む。そして個人的な被害体験の記憶に、『なぜあちら側だけ』『なぜこの上殴られるのだ』というような思想的疎外感が加わり、ミソジニーは加速していく。
女性の被害意識が『構造的な問題』として処理されても、非モテには適用されない。なぜならば、非モテの被害意識はきわめて個人的な女性からのいじめや暴言を発端とするからで、男性・女性全般とは無関係なのだ。『男性の最底辺』が理不尽な被害を受けたに過ぎず、男女全般で見れば男尊女卑の構造は維持されているのだから、転嫁することは不可能である。『構造的な問題』があるならば、非モテが被害を受けたことではなく、被害の声を上げられなかった場合に限られ、これは男性性暴力被害者が女性のそれよりも過小視される問題と地続きといえる。男性は何があろうと、強く逞しくあらねばならない。
弱々しい自己を守ろうと、パワードスーツのごとく男性性<攻撃性>を身に纏うミスを犯したあわれな非モテの、女性全般やフェミニストへ向けられた言論なんてものは、単なる無知か差別意識の発露として処理され、一方で男性性防護服を脱ぎ捨てた非モテは、代わりに身を守ってくれる<他者のやさしさ>も得られないのだから、自らのために立ち上がるような力すら失い、わずかに残る白馬の王子的な空想を胸にして、世界との関わりから後退していくばかり。だいたい、未だに男尊女卑がスタンダードなので、このような非モテ男など取るに足らぬ『例外』に過ぎず、決して『マイノリティ』を形成するほどではないのだ。
一部の非モテたちは何を思ったのか、個人的な左翼趣味を土台に恋愛至上主義を打倒するなどと言う大いなる目標を掲げたが、残念なことに、こんなものは『例外』が個人的充足の希求を社会そのものに直結してしまった時点で無理筋である。結局、Twitterでゆるゆると馴れ合う以下の充足しか得られず、破滅に至った。
男性性を剥き出しのままにする自制なき非モテは、そのアクティブさから結婚なり、非モテを道具に用いて商売に転化するなりで成功し、それはまさしく健常な男性の姿。これが正答である。
一方、自制ある非モテは元あったところ『名前のない誰か』に戻っていった。攻撃性は厳しく律され、女性全般などに誤爆することなく、過去の記憶に、自らの内側に、抽象的な世界そのものに向かい、生まれてこなければ良かった、既に全ては終わっているという意識に至る。その自制の強さ故に自己表現の病から抜け出せないのなら、孤独のまま人知れず終えるしかない。
非モテは死んだ。出口など無い。あるものは残骸のみ。
学生の卒論とか読んだことないので、卒論の添削やってる先生がいることに驚く。学生が何やったのかは知ってるし、それをどういう言葉で書こうと彼らの自由。私はそこまで興味はありません。
卒論はしばしば100ページくらい書かれていたりするが、そのほとんどはどうでもいい無駄な記述。数ページで書ける内容が無駄な情報で水増しされている。論文というのは短ければ短いほどいい。5、6ページも書けば十分だろう。
学生は卒論を書くことにより未知の世界に立ち向かっているが、我々には彼らが研究を始めた時点で、それがどれくらい価値のあるものなのか、最終的にどこまでできるのか、何もかもすべてわかっている。答えを教えてしまうのは簡単だが、それでは勉強にならないので黙っているだけ。笑
学生の卒論や修論の発表会で、こんなの3日もあればできるだろう?というのがある。学生に考えさせるためにわざと回り道させたんだろうかというとそうではなく、実はたいてい学生がさぼっていたというケース。
吉村教授は博士論文を3日で書く天才らしいけど、俺は出来の悪い学生でのたうち回って修士論文を書いて、博士には行かずに就職した。卒論、修論の面倒を見てくれた指導教官には感謝している。こんな風に「興味ない」で済まされなくてよかった。論文を書いているときは心細くて、不安で、修了を逃したら内定も取り消しだし、大げさだけどそのときは人生を賭けて泣きながら取り組んだ。もしこんなDQN指導教官にあたったら大学院中退になって、内定も取り消しで職歴なしニートになっていたかも知れない。
この教授とは面識がない。だからこのTogetterのまとめがどういう意図でできているかわからない。博論を3日で書ける天才なのか、単なるビッグマウス野郎なのか、ネット弁慶なのか知らない。それで少しぐぐってみたら
と日常的にTwitterで乱闘している痛い人なのはわかった。
なぜ質問状を送ったか
返事が来たら増田でまた書く。
今の今までそれを黙認してきた側も
レイプレイ問題の時もそうだったが、「話題から何から、関連するものすべてが性差別でセカンドレイプ」という人がいる。
そこへ向かって「正しさ」の議論など、もとより出来ない。
それが何かを攻撃しているとしても、それはあくまで個人的な感想であり、議論がしたいわけではないんだ。
だから、反論が向かうと「それ(関連事項を突きつけるのは)はセカンドレイプです」となる。
自身を弱者において、弱者の立場を利用し、一切議論を行わない人は大勢いる。
黙認とかそういうことではない、本来なら「黙殺」する事が一番な人たちなんだが、信者がホッテントリ入りさせるから、結局こうしたアンチが付いちゃう。