はてなキーワード: 小数とは
(※ 追記しました。)
なわけありません。元ネタは
http://alfalfalfa.com/archives/1374811.html
で、
http://kidsnote.com/2010/11/15/35or53/
とかで議論されている。この問題は
の話が混じりあい、おかしな事になっている。
だがそんな中で、「これは数学では全く同じものだから、くだらない、国語の問題だ」とか言って思考放棄してる連中が多すぎて反吐が出そう。おまえら、どうやって掛け算計算しているんだ?3×5=5×3は、定理より導かれる帰結なんであって3×5と5×3が同じ意味なわけがない。
ここでは、「高等教育を習った人向け」に、数学的に5×3と3×5を区別するべきことを説明する。
suzusuke氏も算数科学習指導要領解説から引用していることであるが、数式とは思考過程を表現する言葉(ツール)である。
Aさんがりんごを1個、Bさんがりんごを3個、Cさんがりんごを2個持っていました。合計は?
これに対して、
4+2=6、よって6個
と書いたら、だれにも伝わらない。4って数字がどっから来たのかわからないからだ。
いくら「1+3=4なのは数学的に等価だ!」といっても、それはお前の頭の中であって別の話である。
6であるということを証明するには合計を計算するにはすべてを足せばOKという共通認識を持った上で
1+3+2=4+2=6
と示さなければいけないのである。無論、バックグラウンドで了解が取れるなら
1+3+2=6
といきなり書くことは何ら問題がない。大事なのは「1+3+2」と「1+3+2=6」は言葉として意味が違う、ということだ。どう考えたか、をできるだけハッキリした形で表現できるツールが、数式なのである。
お前らは「3×5も5×3も同じじゃないか」とか言うかもしれない。じゃあ聞きたい、「その同じと言ってる3×5とはなんなのか」を。まさか九九を信用して「3×5=15」のことだ、とは言わないだろう。
ここで、「定義」の必要性が出てくるのだ。掛け算はあまりに普遍的すぎて、そこを忘れやすい。そこで我々は×という記号を
3×5 = 3+3+3+3+3
のような略記である、と「定義」するのである。
ここで、お前らは英語圏では
3×5 = 5+5+5
と定義しているぞ、バカが。と言うかもしれない。そのとおりである。それで一向にかまわない。だが大事なのは「数学は可能な限り簡潔な定義でなくてはならない」ということだ。つまり、
3×5 = 3+3+3+3+3 または 3×5 = 5+5+5
なんて自由度を与える定義はあってはならないのだ。そもそも、計算してみないとほんとに等しいかわからない3+3+3+3+3 と 5+5+5 のどっちでもいいよ、ていうのはwell-definedにならない危険性さえある。とにかく、定義は一つで済むなら一つにするべきなのである。
あくまで定義の仕方が2通りある、ということだ。定義の仕方自体に絶対性はない。そして、日本では前者のほうがしっくりくるから、とりあえず前者で定義している。定義なんだから、ローカルルールも小学生限定もない。そこを履き違えてはいけない。
ちなみにそんなこと数学で習ったことない、という奴もいるだろうが、当たり前である。高等数学では上記のような略記であるとは定義しない。それは0とか負の数とか、小数とかが入ってくると上記の定義では不足するからである。だが、はじめは自然数だけの世界で議論するなら上の定義が一番素直なのである。
では、上記の定義を教えた、という文脈で数学的に「5皿でそれぞれ3つのりんごが乗っている、りんごは合計で?」の解答を考えよう。
15個。
誤答。これは回答になってない。文章中に15という数が書いていないので、どこから15が出現したかわからない。
3+3+3+3+3 = 15、よって15個
正答。3個のものを5皿あるんだから足し合わせるのは自然。式変形は当たり前なので省略したのであろう、当然
3+3+3+3+3 = 6+3+3+3 = ...
としてもOK。
6+3+3+3+3 = 15、よって15個
誤答。たしかに3+3=6だが、それを計算したかどうかが伝わらない。数学的に等価だ、なんて理由にならない。
5+5+5 = 15、よって15個
誤答。文章中に「5個」という言葉が出てない以上、はじめの式の5は「5個」と解釈できない。だから足しあわせた結果はりんごの数を表現しない。
同じ数ずつ乗っているなら1個ずつ配っていくことで数えられる。一周で配れる量は5個で、3こずつ配るから三周する。よって
5+5+5 = 15、よって15個
正答。数式中に現れる5をリンゴの数だと説明しているからである。
3×5 = 15、よって15個
正答。我々の定義に従えば、その2の略記でしかない。
5×3 = 15、よって15個
誤答。我々の定義に従えば、その4の略記でしかない。すると同じ理由で間違い。
3×5と5×3は数学的に等価だ、なんてもう言わないよな?それを認めるとその3でさえ正しい。
数式とは「定義」という共通認識のうえで言葉を話すものであって、別の記述をしたら「偶然正しい」のか「根拠があって正しい」のかわからんのである。
結論は
数の概念を整数一般に拡張させると、掛け算の定義は上記では不十分で、分配結合則など環の性質にその本質があることに気がつき、そこに定義を移すことになるがまた別の話。そこまで行くと公理とは何か、整数とはなにかを考え直す必要が出てくる。そこで可換性自体は代数構造には不要であることにも気づくはずだ。
大事なのは定義を尊重する姿勢と、定義そのものに着目する(そして、定義そのものを疑う)姿勢を合わせ持つこと。ローカルルールだ、とか押し付けだ、とか言っているやつらが、実は一番思考停止してる。
まぁ小学生にここまで考えさせるのは、正直厳しいが上記正答例、誤答例を示してみるくらいはいいんじゃないか、と思う。
トラバが付きまくってるwみんな好きだね。
言いたいことが伝わらなくて、もどかしい。
ここまできて、根拠が「それが普通」だからてお前・・・。
今度はそれが普通であるという根拠を主張しなきゃイカんでしょ。
「普通」には根拠はないだろう。「慣習」と言い換えてもいい。だから、この定義を疑うことが大事。ただ、一番最初に習う定義として、これを使うことが多いということである。
「それが普通だから正しい、それ以外は間違い」に集約される、と。
バカみたいだな。
「普通だから」ではなく、今の文脈では「3×5 = 3+3+3+3+3 を定義として採用するから」である。まずは定義を信用し、それ以外は知らないものとして扱わなければ数学じゃない。
m×0=0
m×(n+1)= m×n+m
まー俺なんぞが独力で導入できるような概念じゃないけど
それで定義すると、m × n = m + m + ... + m (n times) = n + n + ... + n (m times) = n × m が定理になるんだろう。
ようするに、どれが定義かって話じゃん。
そう、上記の「普通」は普通じゃないだろと気がついたときに定義に変更が加わる。そしてこちらの定義のほうが美しい。だから「これが掛け算の定義だ、そしてこれを定義にすればこの定理は明らかだ」という「文脈」では、5×3と書いても3×5と書いてもいい。
文脈についても議論がされているようだが、文脈こそ数式を語る上で重要なものだ。何を定義にするのかというのも文脈だし、どの定理を認めるかも文脈だからだ。
たぶん、5×3も3×5も同じ物と主張する人は可換性を自明としている。それこそが文脈である。しかし数学で何が文脈なのかは、状況によるし、今回は掛け算を定義したばかりなのだから可換性を自明とするのはおかしい。
「1皿につきりんご3個」と表現した時点でそれは3個/皿という比率しか現していない。3個+3個+3個+3個+3個=15個と言いたいらしいが、前処理を済ませない限りその3につけるべき単位は個ではなく個/皿でしかない。3(個/皿)+3(個/皿)+…、おいおい、比率って足せるのかよ?
単位の話をすると少し難しくなる、というか物理がわかんないのでそこを正確に語れない。だが、あなたの主張を通すと 3+3+3+3+3=15 は間違いだ、ということにならないか?これを否定されるとどうしようも無い。
私自身、軽度ないじめ(クラス替えを機に止む程度の)を受けていたので、あの書き方のままだと不快なんですよね、実際。
彼がいじめのどこまでを見てそう書いたのかはわかりませんが。
ただ、あのブクマのid:kamisetsuに対するブコメでの意見も、ある種いじめのそれを内包している。多数で(しかも揺ぎ無い正しさを持って)小数を卑下するのは、結局やってることはいじめと変わりませんから。政治する生き物と、いじめは不可分の関係なんですよ。
だからこそそういう閉じたコミュニティでのいじめというのは、結局和解などされないし、ずるずると平行線を辿るから、無理にでも解決するならどちらかにコミュニティの外に出てもらうか、コミュニティそのものを解体するしか無いんだとおもいます。いじめを解決すること自体が、不可能だとすら考えています。
諸君、私はデフレが好きだ
諸君、私はデフレが好きだ
諸君、私はデフレが大好きだ
円高が好きだ
減棒が好きだ
失業が好きだ
自殺が好きだ
主要3市場で
勤労者全体で
野心的な企業で
融資先を失った金融機関があっという間に消化したときなど心がおどる
運転資金不足で倒産してバラバラになったときなど胸がすくような気持ちだった
切り詰めを上回る円高ですべての市場を失ったときなど感動すらおぼえる
予告された政策決定会合の発表内容が円のレートを一気に切り上げたときなどもうたまらない
問われて政府高官がバラしてしまった防衛ラインが維持できず崩壊するのは最高だ
引き締めで叩き潰して大底を割らせた時など絶頂すら覚える
決算報告の公表をまとめられて実は売ってた事がバレるのはとてもとても悲しいものだ
市中から枯渇させた通貨が好きだ
諸君 私はデフレを 政府が増税に踏み切り経済が加速的にしぼむ様なデフレを望んでいる
諸君 私に付き従うデフレ好きの諸君 君たちは一体何を望んでいる?
更なるデフレを望むか
糞の様なデフレを望むか?
誰も将来に期待せず、次世代を育てようなどと無駄な努力をしない畜生以下の世界のようなデフレを望むか?
よろしい ならばデフレだ
だが、うかれたバブル景気のまっただなかでごくまっとうなインフレーションに耐え続けて来た我々には
ただのデフレではもはや足りない!!
我々はわずかに小数
だが諸君は一騎当千の政策委員だと私は信じている
ならば我らは諸君と私で総兵力100万と1人の法によりそのあり方が定められている認可法人であり、政府機関や株式会社ではありません集団となる
我らを忘却の彼方へと追いやり、政府と協調して物価調整に達成目標を導入しろと主張する奴らを叩きのめそう
髪の毛をつかんで引きずり下ろし 眼(まなこ)をあけて思い出させよう
連中に我々の無謬性を思い出させてやる
連中に我々の無責任さを思い出させてやる
デフレには奴らの哲学では思いもよらない中央銀行の独立性がある事を思い出させてやる
1000人の政策委員の集団で 世界を正貨である金地金に裏付けられた兌換券で埋め尽くしてやる
包括緩和作戦 状況を開始せよ
征くぞ 諸君
「ヨーロッパ人は誰でも英語を話す、それに引き替え日本人は」云々という議論を耳にする。確かに英語が流暢なヨーロッパ人に「どうして英語がしゃべれるの?」と訊いたら、なんでそんなこと訊くのという顔で「学校で習ったから」と答えるのが常だという。これを見て、日本の学校英語教育がいかに腐っているかという結論に飛びつく人は少なくない。
確かに日本の英語教育は旧態依然であり、最近の研究成果が反映されていないということはあるかもしれない。しかし、問題はそれだけなのだろうか。ヨーロッパ人が英語を初中等教育の間にかなりのレベルにまで身につけられて、日本人ができないことには根本的な原因が他にあるように思えてならない。
以下は、米国の外交官が各地の言語をビジネスレベルにまで学ぶのにかかった時間の表である。孫引きご容赦。
| 分類 | 学習時間 | 言語 |
|---|---|---|
| 英語と類縁性の高い言語 | 575-600時限 | アフリカーンス語、デンマーク語、オランダ語、フランス語、イタリア語、ノルウェー語、ポルトガル語、ルーマニア語、スペイン語、スウェーデン語 |
| 750-900時限 | ドイツ語、インドネシア語、マレー語、スワヒリ語 | |
| 言語学的・文化的にはっきりとした違いのある言語 | 1100時限 | アルバニア語、アゼルバイジャン語、ベンガル語、ブルガリア語、チェコ語、フィンランド語、ギリシャ語、ヘブライ語、ヒンドゥー語、ハンガリー語、アイスランド語、カナダ語、ラトビア語、リトアニア語、マケドニア語、モンゴル語、ペルシャ語、ポーランド語、ロシア語、セルビア語、スロベニア語、タガログ語、タジク語、タミル語、テルグ語、タイ語、トルコ語、ウクライナ語、ウルドゥー語、ウズベク語、ベトナム語、ズールー語 |
| 英語母語話者にはかなり難しい言語 | 2200時限 | アラビア語、中国語、日本語、韓国語 |
出典:http://en.wikibooks.org/wiki/Language_Learning_Difficulty_for_English_Speakers
この表は外交官というかなり限定された人を対象にした調査だが、すくなくとも英語母語話者にとっての言語の難易度の序列としてはだいたい合っているといえるだろう。そして、だいたいこの関係は逆に読み取ることもできて、たとえばオランダ人が英語を学ぶのは日本人よりもずっと簡単だということも言えるであろう。こう言うと「英語話者にとって日本語が難しいのは漢字が難しいからだ」と言われるかもしれないが、文法的に近似していて漢字がほとんど使われない韓国語が日本語と同じ分類に属していることから、そこはあまり本質的ではないであろう。
一方、学校での授業時間数を考えてみよう。日本の学校では年間授業日数は約200日である。毎日1時間英語の授業があったとして、中高6年間での英語の授業時間数は、定期考査や学校行事のことを考えればたかだか1000時限程度である。そしてヨーロッパの学校は日本の学校に比べて授業時間数が多いことはないだろう。
となると、結局「ヨーロッパ人は学校で習えば英語ができる」云々は
「ヨーロッパ人は学校で1000時限ほど勉強すれば英語をビジネスレベルに使えるようになるが、日本人はできない」
ということを主張しているに過ぎないことになるが、これは上の表を見れば何も不思議でないことになる。おそらく、日本人が英語を身につけるためには、ヨーロッパ人に比べて2-4倍の時間がかかるのである。
となれば、いったい日本人はどうしたらよいのだろうか。中等教育の1000時限ではとても足りないことははっきりした。あと1000時限ほどの学習が必要である。
この1000時限分、中高6年分を社会に出てから確保するのが絶望的でありしかも遅すぎるのは間違いない。といって、大学で毎日1時限を英語に充てることも無理だ(レジャーランド化したような大学ならともかく、まともな大学生にそんな時間はない)し、もし「日本人も英米の大学に進学すべき」という要求を満たさねばならないとしたらやはりそれでは遅い。
となると小学校の6年間を充てるかということになるが、小学生の読み書き能力が極めて低いということは忘れてはならない。ひらがなやカタカナを学んでいる子供にラテン文字を教えるのは負荷が大きすぎるし、漢字や分数・小数、あるいは都道府県の名前といった「一般常識」レベルのことを学んでいる子供にさらに負荷をかける余地も少ない。そしてこのくらいの年頃の子供は興味がなければ全く学ばないし、学んだこともすぐ忘れてしまう。実際、小学校の後半ぐらいから2言語ぐらいを学んでいるヨーロッパ人でさえ、「中学から勉強しなくなったドイツ語やフランス語は全部忘れちゃって何も覚えていない」という人は珍しくないのだ。英語が特に流暢な語学好きな人だってそうなのだから後は推して知るべしだ。
つまり、日本でできることはほとんどないのだ。香港やシンガポールのように屈辱的な歴史的経緯から日常生活に英語が溶け込んでいればともかく(それでも香港人やシンガポール人全てが英語が流暢なわけでは全くない)、日韓中のように大英帝国の支配を逃れ続けた国民にはそのような機会は全くない。実際、世界的にこの三ヶ国は英語力ワースト3と言ってよい(英語が流暢な中国人は多いように見えるが、その多くは移民の2世以降やごく一握りのエリートである。中国人は母数がめちゃくちゃ多いことを忘れてはならない)。
以上見たように、英語が世界を支配することは結局起こりえない。あるとすれば旧大英帝国と米国をたきつけて世界征服戦争を起こしてもらうしかないということだ。
結局「国際英語」の考えの欠陥はここにある。母語話者が自分たちの文化から逃れられない限り、自然言語を異文化圏に平和裏に浸透させることは無理だということだ。英語圏の文化を普遍的で上位にあるものとして強要しない限り、十分な英語力を得られない異文化圏の人間を無視して英語支配を正当化することはできない。だからといって「英語帝国主義」に開き直ることはそれ自体恥知らずというものであろう。
やれ英語の時代だ、やれグローバル化だということが近年安易に言われるが、ヨーロッパのような文化的に近縁な地域や旧大英帝国、また米国の勢力圏化にある中南米を除いてそのような流れが一般化しうるのかという検討が全くなされていないのは実に不思議だ。「英語がしゃべれるようになれ」といわれてできるのであれば誰でもそうするであろう。問題は「なぜできないのか」を考えるべきことではないのだろうか。無理なものを無理強いしてもどうしようもないということに早く気づくべきである。
言語学ってみなさん聞いたことありますか?おそらく、「言語学を学ぶために大学を選んだ」人は極小数だと思います。
言語学は、言語の本質を解明する学問のことです。個別言語の解明にはそれぞれ担当する言語の名前がついた学問があります(ex.日本語学、英語学)が、言語学は、そういう個別ごとの解明ではなく、言語全体に流れる本質を見出す学問と言えるでしょう。だから、日本語学や英語学のような学問と言語学は相互に助け合って成り立っていると考えてもらってさしつかえありません。
じゃあ言語学がけんきゅーする言語ってなんだよ、という話ですが、当然のことながら定義は曖昧です。コミュニケーションを取る記号体系の総称、と言えば聞こえはいいですが、納得しない人もいるかもしれませんね。
例えば感謝の気持ちを表すのに「ありがとう」やら「thx」やらことばを使いますが、それだけじゃありません。感謝の気持ちをめいいっぱいの笑顔で表現したり、ハグしたりと、相手に感謝の意を伝えるには様々な手段を使います。
そして言語学はそのあらゆる手段、環境、が考察対象、とも言えます。コミュ学、と言えばウケがいいでしょうか。
手段というのは、要するに日本語のように体系的なものから、それに付随する顔文字や記号の集まり、身振り手振りやデザインなどです。
体系的、というのは要するに正確に意思伝達するにはルールを守る必要がある、ということです。日本語のような自然言語に限らず、手話や点字などは体系化されたコミュニケーション手段です。そして意思伝達を図るには体系化されたルールを双方が理解する必要があります。
環境というのはたとえば手紙であったり、たとえば日常の会話だったり。競馬の実況や野球の解説だったり、所信表明演説だったりします。プラットフォームと言えばウケがいいでしょうか。こういうのはどちらかというと日本語学の方が進んでいたりします。言語学でするならば、各国の総理大臣や大統領の演説を比較するなどのことが考えられるでしょう。
もちろんそれらの変化も考察するので、歴史的な捉え方もできます。例えば古く日本語では「母」を「パパ」と呼んでいた、なんてのは小話でされますが、これは[papa]のp音が[haha]のh音へとゆっくり変化していったことを意味します。これは「唇音退化(しんいんたいか)」と呼ばれる現象です。「ぱ→ふぁ→は」と発音してみれば簡潔にどういう状態なのか分かるとおもいます。こういったものは音声学や音韻学、国語学などが詳しいでしょう。
次回第二講は「げんごがくってどんなことをまなぶの」です。今回は第二講の導入も兼ねています。
なお、更新は不定期です。
あまり重要でない部分に、あまり説得力のなさそうな具体例の列挙をしていて……構成が気になってしょうがない。
停滞=経済成長のこと? 何を持って停滞としてるのかよくわからない。
ファイナルファンタジーとかまぁ、ドラゴンボールとかの例があったけど、
それらが話せるのは時代が停滞云々ではないと思うし。10年間同じ世代に人気が続いたなら……
例えば、中学生は必ず読む本必ずするゲームがあれば、10年前中学生の人も10年後の現在中学生の人も、その話題を喋れるわけでしょ。ポケモンとか良い例じゃない?
要は、作品やコンテンツのその時の世代的な広がりと、それ以降の時間的広がりに影響しているだけじゃないか。
昔のジャイアント馬場とかが、今のドラゴンボールなわけでしょ。
さらにいえば、現代は停滞?というよりは情報網の拡大や消費者ニーズの多様化・それにまつわる多様な商品開発が促進されて、
むしろ、メガヒット=その世代の人は全て読んでます・その世代以外の後の世代も読み続けます。みたいな作品は今後はむしろ
小数化する(している)んじゃないか・・・??
個人的には、数に物言わせるようなものはみんな同じことが考えられると思ってるんだけど、
たとえば東京で100人の女子高生に「きのこの山とたけのこの里どっちがいい」とかテレビ番組でアンケート取って、
8割がきのこの山の方がいいと答えたとする。そしてこの結果を「日本の女子高生はきのこの山がいい」とさせる(統計学的にアホとかいうのは置いておいて)
で、この調査結果を元にスタジオで「ぷぷwたけのこの里とかwwねーよww」ってきのこ支持の女子高生にたけのこを罵ってもらう。
世の中ってのは君にとってはバカなものかもしれないね。
まず、カテゴライズしよう。
中学校(×1)
高等学校(×2)
大学、(×3)
大学院(×4)
このうち、「(お)受験が存在する」ものは、偏差値を基準にして適当に置き換える。
例えば、偏差値50~54程度なら「1点」とかね。
ただし、義務教育課程は中卒が最低ランクなので、それ未満の経歴や出身は考慮しない(たとえば慶應幼稚舎にいたとしてもプラスにはしない)つまり、小学校までは誰でも平等。
で、最終学歴によってその偏差値から置き換えた数値にかけ算して加える。掛ける数は上に書いてある通り
偏差値50の私立中学、私立高を経て、偏差値45~49程度の大卒になった人なら、
1*1+2*1+3*0=2
となる。偏差値49程度は実質の学力は高卒程度あるかどうかも疑わしいので、この数値は妥当である。
大学院の場合、×4だが、日本ではこの年齢はもはや価値がないのでどこにいこうと0点である。
高校からは広く偏差値でモノを測れるため、偏差値を基準に全てを計算する。
また、浪人、留年すると1年ごとに最終的な数値の合計を半分にする。計4年ならもとの1/16になる。中退は年齢のマイナス分のみ考慮する。
まだ粗いが簡単だ。
GPAも含めればより精密性が上がるだろう
ttp://kozawa.jugem.cc/?eid=354#comments
日本のユーザ (に限らず日本人全般) の多くは、完成品のクオリティは異常なまでに求めるのに、事前のテストリリースには一切見向きしない、テストしても「使えねぇ」とブログ等で吐き捨てて終わる、という悲しい現実があります。
「上流にフィードバックしないなら、文句言うな」と思います。製品の評判は落とすし、製品のクオリティ向上には貢献しないし、百害あって一理なしです。皆がスーパーハッカーではないのでパッチ書けとは言いませんが、上流にフィードバックして、パッチが出たらテストに付き合うくらいはしてほしいものです。FOSSとはそういうものです。
FOSSのみならず、日本の社会がそういうのもだと感じています。
Firefox然り、Fedora 9の日本語クリーンインストールで日本語環境がインストールされないこと然り、三菱東京UFJのシステム統合然り、官僚システム然り…
文句は言っても、リスクを甘受しようという姿勢がなさすぎます。5月の三菱東京UFJのシステム統合なんて、概ね問題なくできているのに、一コンビニで使えなかった程度で新聞のトップ記事です。よそのコンビニ、よその金融機関に移動すれば済むことなのに…。99%のあとの小数の桁を増やすために莫大な資金を投入するくらいなら、99%のクオリティで預金に還元してくれる方がずっとうれしい。
私はこの状況を「国民総無責任社会」と呼んでいます。この国は、責任のたらい回しで成り立っていると言っても、言いすぎではないのではないでしょうか。
ならお前それ本人に言えよ。
あの人のアプローチの仕方は非モテ(の一部)が○○してる。って事象から導き出す書き方だよな。
(例:「ダメな俺を丸ごと受け止めてくれ症候群」のメカニズム)
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20080825/p1
・まずそういう事象はこういう心理状況でやってるよ。
(例: 【1.ダメな自分をありったけ曝け出すことによって、拒否された時の痛みを減弱】)
・でもそういう行為は上手くいかないからね
(自分さえよければ良い・自分は過度に傷つかない安全圏からことを進めたいという、
その一点からみて合理的・合目的なのであって、交際相手自身の、
ひいてはカップル双方の、メリットや楽しさを増大させるうえでは必ずしも最善のストラテジーでは無い。)
結論:非モテでそういう事言ってる奴は上記の意味合いだから上手くいかないんだよ。
それってそういう事象が多々存在する事実があってその考察を書いてるんだから。
お前ら良く決め付けとか極小数の外れる事例を出して一般論じゃない!っていうけど、
そんなのは反論にもなってないからな。
ちょっと考えてわかってきた。
俺は貴方に一種のヒステリックさを文章から感じ取ったんだな。
そこがこいつと会話しても意味はない、と無意識的に感じ取ったんだろう。
女性の容姿が良い事で優遇されるのは事実だし、それは別に悪いことではない。
そんな事は当たり前だし常識なんだけど、もちろん普段人前であからさまに言う事ではない。
例えば企業の面接で容姿の良い子はあっさり内定が決まる場合が多い。
人事は顔で取った、とか思ってたりするのは当たり前なんだわ。
そりゃ同じ事いっても容姿が良けりゃいい印象を与えやすいし、
男性社員の士気向上にもつながるし、そんなのは会社にとって有益だからね。
そういう事は全ての事に言える訳。
もちろんそれで個々人の価値が全て決まるわけでもないのも事実。
でも容姿によって様々な事で良い結果が出やすいのも事実なんだよ。
そりゃ建前上そうですね。ありませんね。容姿とその人の評価は関係ありませんねと答えるよ。
こっちとしては
”あーあ、ヒステリックな女がやってきたわ
何言っても極小数の事例を持ち出して永遠に否定するしかしないからめんどくせぇ”って思うんですよ。
だから貴方の文にはそういう印象を受けたので個々の事例に反論する気は起きませんでした。
>俺は男だw
なんかわかってなさそうだから説明しておくと、「あなたが女の幸せは男から顔を評価されることだと決め付けてる」といってるわけで別にあなたの性別に関係ない話。
>一般ピープルの話をしているのに
>そんな極小数の例外持ち出してもしょうがないだろ。
>そもそもブサイクでも社会的に成功している男に比べて、成功している女性の方が数は少ないのも事実じゃん。
社会的な成功=幸福とも限らないし、男だって社会的成功者はごく一部の例外。
ほとんどはただのサラリーマンだろ。
>逆に男は年をとる共に多くのカードを持つようになる。
>若いうちは手持ちのカードが少ないけども人によってはカードが増える可能性が高い。
>社会的な地位であったりね。
家族友人ならたいていの女だって手に入れてるわけで。
社会的な地位は男なら誰でも手に入れるわけでもない。
俺は男だw
一般ピープルの話をしているのに
そんな極小数の例外持ち出してもしょうがないだろ。
それに社会的に成功している女性はそれが逆にネックになって生涯の伴侶を見つけられないことも多々あるしな。
女性の方が顔で判断される可能性が高いのは否定しようのない事実だぞ。
人生難易度(若いうち、顔以外の要素除く)
美人女>>>>>>イケメン男>>>>>フツメン男>>>ブサメン男>(超えられない壁)>>ブサイク女
女は若い時に一番多くのカードを持ってる。
それを切って行く感じ。
逆に男は年をとる共に多くのカードを持つようになる。
若いうちは手持ちのカードが少ないけども人によってはカードが増える可能性が高い。
社会的な地位であったりね。
もちろん最終的な本人の評価の中で顔は要素の一つでしかないことも事実
サンフランシスコ講和条約で日本国籍を離脱しなければならなかった特別永住外国人?
日本が敗戦国になったとき、それまで日本の一部とされ、居住地や職業選択の自由が与えられ、内地に移住しさえすれば被選挙権が与えられ、帝国議会の議員になった者までいた朝鮮は、敗戦の責任から逃れる為に、独立を宣言した。日本国内にいた朝鮮人も、日本人ではなく第三国人であると主張し、戦勝国と同等の権利を主張した。
敗戦国となった日本は、ポツダム宣言(1945年)で海外領土の放棄を義務付けられ、放棄された地域が独立国として建国していく過程で、朝鮮人は敗戦国民であるよりは、新興国家の国民である方が豊かな生活ができると判断し、移住していったのである。日本にいた朝鮮人は、敗戦国日本に帰化する事を選んだ極小数を除いて、すべて、満州からの引き揚げ船の逆便で朝鮮半島に帰っていった。まさか、引き揚げ船が片道は空船で運行されていたと思っているのだろうか。引き揚げは日本人の海外領土からの引き揚げであると同時に、日本国内にいたそれらの地域出身者の引き揚げでもあったのだ。
そうやって成立した新興国の中で、唯一、自立できなかったのが朝鮮半島である。日帝統治以前は土人国家であったのだから、日帝が居なくなれば、ろくな統治が出来なくなるのは当然であった。朝鮮半島の北側には、ロシアの傀儡である金日成が中国共産党の協力を得て、北鮮を建国した。ロシアは満州を侵略したついでであり、伝統的な南下政策の都合であるし、中国は、朝鮮半島に橋頭堡を築かれると、北京が簡単に攻撃されてしまうという軍事上の理由から、陸上兵力の簡単な移動を不可能にする為に、ロシアでもアメリカでもない緩衝領域を作りたかった。アメリカとしても、朝鮮半島に橋頭堡は築きたいが、連合国である中国やロシアにも相応の分け前を与えなければならず、朝鮮半島を南北に分割して、それぞれの衛星国を建国するという話に落ち着いたのである。
それらの打算から、北鮮はロシアと中国の国家承認を得て独立し。南鮮はアメリカの保護を受けて独立した。そして、それらの後ろ盾と、アメリカの補給線の長さから、南鮮への侵略戦争に勝ち目があるとして、北鮮が南下を始め、朝鮮動乱(1950年)が発生した。
この朝鮮動乱によって、一度は日本から出て行った朝鮮人が、日本に密入国してきた。この時点では、難民条約(1954年ジュネーブ条約)はまだ存在しておらず、日本は、独自の人道的判断から、戦争避難民の一時受け入れを決定し、日本国内での永住許可を与えた。
いわゆる特別永住者とは、この永住許可を得た者とその子孫であり、サンフランシスコ講和条約(1951年)とは、一切関係が無い。
サンフランシスコ講和条約は、放棄領土に関しては、日本が台湾や朝鮮を独立国として承認したという条約であり、それらの地域出身者で日本国内に継続して存在していたいわゆる第三国人に、平和条約国籍離脱者という正式名称を与え、それらの国籍に移設しただけである。ポツダム宣言によって、それらの人々は第三国人として日本国籍から分離されたのであって、あえて日本国籍を喪失させられたとするならば、ポツダム宣言の時点であると言える。サンフランシスコ講和条約によって、平和条約国籍離脱者は特別永住許可者になったのだが、この対象者は、敗戦国に居続けたという点で希少な存在であり、極少数であったし、帰化する意思が高く、ほとんどが帰化済みである。
引き揚げ船の逆便で朝鮮半島に帰還した朝鮮人は、朝鮮半島に上陸した時点で朝鮮国籍を取得しており、その時点で、第三国人ではなくなっている。本人の意思で、朝鮮国籍を取得したのである。朝鮮動乱によって日本に密入国してきた朝鮮人に対しても、同じ特別永住許可が出された為に、混同が発生している。戦争避難民に対する人道上の措置と、海外領土の放棄に伴う処理とが、混ざってしまっているのである。朝鮮動乱の避難民は帰化する意思が無く、また、第三国人としての悪行も知れ渡っており、不良民族として区別の対象となっている。
日本の海外領土の放棄はポツダム宣言に拠ることを踏まえれば、根拠が無いばかりか、根本的な歴史認識において間違えている主張であることは明らかである。おそらく、ポツダム宣言もサンフランシスコ講和条約も、本文を読んだ事が無いのであろう。
これが、市井の個人であれば、距離をおいて関わらないようにすれば済むのだが、これだけあからさまな間違いを、国会議員、それも国務大臣が堂々と公言してしまうという点で、致命的である。誰か止めなかったのかとか、ブレインとなるべき政策秘書は何をやっていたのかとか、まともなブレインが居ないほど人望が無いのかといった感想が出てくるし、そもそも、ちゃんと日本の学校を卒業したのか、近現代史や公民の単位を取れたのか、学歴偽装じゃないのか、といった疑念がわいてくるのであった。
外国人は外国に国籍があるから外国人なのであり、国籍国において市民権・参政権を行使するのが筋である。日本の参政権は日本国民固有の権利であり、日本に帰化し、日本の秩序に従い、日本の為に血肉を捧げる事でしか入手できない。それが出来ない特別永住者は、速やかに許可を取り消し、朝鮮半島に帰還させるべきである。
間違った知識や判断が出てこないように、正しい歴史を広める必要がある。情報を捻じ曲げると、事実すら捻じ曲げられてしまうのだ。
妄言は、個人の愚行である。妄言を妄言であると誰も指摘できなくなるのは、社会の愚行である。戦争を愚行であると非難する人はいるが、戦争の原因は、歴史や国境や国民性の認識がゆがめられて対立が発生する事にある。妄言を妄言であると指摘できなくなる言論の統制こそが、間違った民意を発生させ、戦争の根本原因となるのである。
言論を慎むとは、その言論が間違っていない事や、人々を幸福に出来る事を心がけることであって、口を噤むことではない。ましてや統制でもない。地位にふさわしい見識を持たない者は、その地位を汚さない為に、進退を弁えるべきである。
成人式で太極旗を掲げていた人。その国のものじゃない国旗を掲げるのにはかなり慎重にならんければいけない。
ttp://awfuljapan.livedoor.biz/archives/51389141.html
69 名前:地球の裏側 ◆/lYVcP7um2 [sage] 投稿日:2010/01/11(月) 21:31:22 ID:E0YhNTGg
湾岸にも伝統の服装ってのがありましてね。まぁ、先だってのイエメンとの試合でTVで見たと思いますが。
実はおいら、あれの上下、頭一式持ってるんですよ。生地は薄手の絹で、カタールのドーハで仕立屋に作らせた。でもね、仕立屋のおっさん(インド人)にきつく言われたんです。お土産として日本で着るのは構わないが、ここ(ドーハ)で着るのはやめた方が良い、ってね。民族衣装ってのには、そういう側面もあるのです。
それと、その国のものじゃない国旗を掲げるのにはかなり慎重にならんければいけない。もう11年になりますが、居住国で日の丸の旗を上げるのは、ワールドカップの期間中だけです。幸い、この国は日本への悪感情は皆無ですから、多分掲げても大丈夫とは思いますが、極小数のバカに襲われないとも限らない。
聖火リレーの時の五星紅旗もそうでしたが、途上国の大半では、その国の旗でない国旗をこれみよがしに掲げたら、襲って下さいのサインと思って良い。アルゼンチンでは聖火リレーで実際に起きましたよね。
敢えて言いますけど、日 本 が お か し い のですよ。この国なら、太極旗のバカは5分とかからずに袋叩きでしょう。日本の伝統衣装に外国旗ですからね。
なぜ、外国人は日本国籍を持つ人間と同等に扱われないのか、良く考えて見るべきでしょう。戦争をして血を流してまで争うのがテリトリーです。他国国旗を掲げる意味は「そこは国旗の国のテリトリーである事宣言する。」事。だから明確にそれがテリトリーの宣言では無い事が判るケース(ワールドカップ応援とか。)以外では日本国旗といえど、外国に居住している我々は掲げないのです。
ニュートン力学で言えば、地球が物体を引く力は一定で、物体が地球に向かって移動する力は質量に依存するので一定。
物体が地球を引く力は、それぞれの物体の質量に依存して異なるが、地球の質量は一定なので、重い物体の地球を引く力の方が大きい。
物体の質量 A,B 地球の質量E それぞれの重力定数をga,gb,geとしたときに 重い方をAとすると
Agc/A = Bgc/B は一定になるが Ega/E > Egb/E では、gaの方がより大きな加速度になる。小数点が何十個つくのかしらないけれど、地球もごく僅かに物体側に移動する。
って話。
ただ、こんなことをいくら言い始めても、
そもそも、地球上では、空気抵抗は無視できないので、空気抵抗は無視するという付帯事項その物がナンセンスで
実際は、空気抵抗をより受けない方が先に落ちるが正解。