はてなキーワード: 学校生活とは
「給食の時間にボカロ流しちゃだめって言われた。まぢむかつく。ボカロの良さをみんなわかってない。●●(流行のグループ)よりよっぽどいい曲なのに。世界中にファンがいるし云々」という話を学習塾の生徒から聞いた。(あの子らの言語でいえば「まじ」ではなく「まぢ」が合ってる)
何をもって禁止にしたのかわからないからなんとも言いがたいんだけど
たとえば「アニメやゲームを連想する音楽」は学校生活にふさわしくないというくくりで全て禁止にしていたとして、また教師が「ボーカロイドが使用された曲=アニメやゲームを連想する音楽」とみなしていたとすればまあ筋は通るんじゃないか?アニソンやらなんやらを全て禁止にしているとしたらね。
実際エロ小説書いてネット上にアップロードしているような女子中学生っていうのは、ロリコン男が大好きな清楚で可愛い女子中学生じゃなく
不遇な学校生活を送っているデブスキモオタ女子中学生が大半なのが現実なわけで、この記事に萌えとか興奮なんてものは期待しないで欲しいわけですけど、
そういう「残念処女の妄想」みたいなエロ小説に特徴的な要素をいくつか発見したのでご報告しておきます。
女主人公が他の男と話していて、相手役の男がそれを見聞きして嫉妬し、
「お前はオレだけのものだ!」みたいなことを言いだして、強引にセックス。この流れ、本当に多すぎます。
セックス展開に繋がらなくても、恋愛経験の少ない女の書いた恋愛小説には本当に頻繁に男の嫉妬描写がある。
もてない男ほど「ヤンデレ」が好きなのと似たようなものかもしれませんね。
自分に自信がないほど、よりしつこく・重く求められたいのでしょう。
これ、男性向け作品にはちっとも出てきませんよね。キモオタ童貞は存在すら知らないのでは?
一応説明しておくと、皮膚に吸い付くと出来る内出血のことです。首筋から胸元、太ももあたりが人気のポイント。
これが女子中学生の書いた下手糞なエロ小説には頻出するんですよねー。
相手役の男がまた「お前はオレだけのものだ!」みたいなことを言いだして、女主人公の首筋とかにつけるんです。
話はそこだけでは終わらず、翌日などに女友達に会ったりして、「あんた、首のそれ…キスマークじゃない!」と指摘され、
「えっウソっ…キャッ///」みたいになるところまでがテンプレ。
そうして女主人公と相手男がヤッてることがバレてしまうわけです。
「私は相手男と深い関係で、強い独占欲をもたれていて、超愛されているのよ」ということを周囲にひけらかす演出なのだと思います。
女主人公と相手男がエロい展開になりやすいように、なぜか周囲の人間がセッティングします。
女主人公が着替えているところに相手男が間違って入ってしまうよう騙して誘導するとか。
グループで命じられていたプール掃除当番を数人でブッチして、女主人公と相手男が二人きりで掃除するように仕組み、
終わったあとシャワー室に二人が閉じ込められるようにするとか。
そしてビショ濡れになった女主人公の透けブラに相手男が欲情して、そのまま学校でセックス、みたいな感じ。
周囲の人間が、「相手男を女主人公に欲情させるためのセッティングをする道具」のように扱われています。
相手男が「エロイベント無しでも節操無く欲情しまくっているエロキチガイ」でも嫌だし、
「エロイベントが全く起こらないから女主人公に欲情する機会も無い」というのも嫌なんでしょう。
オープンドスケベや去勢系男子はレアです。相手男は決まってムッツリスケベ。
学校生活送ってて、お前はそのなんとかさんの友達グループの外のやつと会話すらしたこと無いんかい、と言いたくなる奴がいる。
まずその友達グループのリーダーらしきヒトに話を聞いて許可をもらおうとしたり、
同じグループの他のメンバーを呼んできてヒトを増やそうとしたり、
同じグループのやつとの関係を都合してブッチしては「ごめん、なんとかさんグループの都合で出られなかった」と真顔で言う。
お 前 は 何 を 言 っ と る ん だ。コミュ力があるなしとかそんなものより春香に恐ろしい物を味わったぜ。
お前の行動範囲や内容は生物学的になんか固定されとんのか。
予定に限らず、なんか意見をいう時でも周りの顔色伺っとるし、見てて気色悪い。
え、なに?向こうが正しいの? 会社でもこんな感じで仕事セントイカンの? 嫌なんだけど。すごく嫌なんだけど。
動物界
亜界
脊索動物門
羊膜亜門
哺乳綱真獣亜綱
正獣下綱霊長目
真猿亜目
狭鼻猿下目
ヒト上科
ヒト科
ヒト下科
ホモ属
秋の冷たい風が肌に当たってひりひりする日。
俺は銀杏の木の下に居た。
『俺』という一人称だが、俺はれっきとした
女である。
殺気優佳(さっきゆうか)。
それが俺の名。
受験のことなど全く考えていない
中学三年生だ。
俺は母親が居ない。
父が浮気をし、
クラスの奴らはそういうことを
___こっちは別に気にしていないが。
人を信じる気にもなれない。
信じたくない。
思うんだが、人間とはなんでこんな
最悪な種族なのだ?
___それだけの理由?
本当嫌になる。
そんな俺だが、一人だけ信じれる人がいた。
小学校に入る少し前のことだ。
「優佳ちゃーん!!」
・・・なんだまたお前か。
何だっけ??
もう結構前のことだ。
全然覚えていない。
ただ、明るく優しい顔だけを____
俺は信じることができた。
http://anond.hatelabo.jp/20111029223638
私も正直言えば整形美人です。そこらの道を制服であるいていた頃なんかは芸能事務所(大手)のスーツを着たオネーサンに話しかけられることはなく名刺を渡されることもなく押されまくることもなく(一度事務所入ったけど面倒くさくてやめるなんてこともなく)、よくわからんオッサンニーチャンにつきまとわれることもなく、でかい車に追いかけられつれこまれそうになることもなく、一人暮らしの時には部屋の前にコンドームが散乱していることもなく、バイト先のオッサンに「おまんこしよう!」と三か月言い続けられることもありませんでした。
でも、その後整形して人工的な美人になったんで~す。
でも整形美人として生きて五ウン年。一番面倒くせぇ存在だなぁと思うのは男。本当に男。マン汁が枯渇するほど面倒くさい。ニコニコしてたら俺に気があるって勘違いされるからとりあえずとっつくにくくなるために必要以上に冷たく接するわけなんだけど、そうしたら顎が取れそうな女ってディスられるしさ~。うまくなんとかしようと無口になると整形美人かつ無口=俺が乳首つまんで操縦しやすい女だ! と謎の論法をかまし猛烈アタック。おめー綾波なんて存在しねーんだよカス。消しゴムのカス。チンカス。ゲンドウモドキはウンコしてウンコ食べろ。優しくもできない、静かにもくらせない、ちょうどいいかな? と思ったとたん男がウジャウジャ湧いてくる。補完するぞ。人類補完計画するぞ。しかたないから高飛車に戻るとまーた顎が取れそうな嫌な女扱い。はい、勘弁勘弁。
男は「美人だと女から嫉妬されて憎まれるんだろう」とかバカみたいなイメージを抱きがちだけど、女も男も似たようなものなのが整形美人のホンネですわ。少なくとも容姿がよくて女関係でトラブルになったことってたくさんあるぞ。「美人だと女から嫉妬されて憎まれるんだろう」なんていうのは、その「美人」を利用したバカ女が勝手に男関係であーだこーだしてトラブルを起こすだけのことと思ったら大間違い。それかよっぽど押しが弱くてめんどくせーことに巻き込まれるバカ女のどっちかってことも大間違い。
美人は女に羨まれることはあっても、女という集団の中で美人の存在はヒエラルキーが上、整形美人は蚊帳の外。陰口をたたかれることはあるし、いじめられることなんて日常茶飯事なのだ。考えてみてほしい。学校生活で手の届かないクラスで一番の美女っていじめられてた? あるわけねーだろ!整形美人ならいじめられていたかもな!
もうねー整形美人でいて静かに・おとなしく、なんていると人生面倒くさいことがたっぷりなんで、男に対しては媚びるしか道はないんですわ。だから意地が悪いとか、とっつきにくいとか、調子づいてる、整形美人は性格悪いってほんとうなんだなあ(笑)って言われる。男ってのは自分のモノにならない女が死ぬほど嫌いなんだなぁと思いました。
私も正直言えば美人です。そこらの道を制服であるいていた頃なんかは芸能事務所(大手)のスーツを着たオネーサンに話しかけられ名刺を渡され押されまくるわ(一度事務所入ったけど面倒くさくてやめた)、よくわからんオッサンニーチャンにつきまとわれるわ、でかい車に追いかけられつれこまれそうになるわ、一人暮らしの時には部屋の前にコンドームが散乱しているわ、バイト先のオッサンに「おまんこしよう!」と三か月言い続けられるわ。
でも美人として生きて二十ウン年。一番面倒くせぇ存在だなぁと思うのは男。本当に男。死ぬほど面倒くさい。ニコニコしてたら俺に気があるって勘違いされるからとりあえずとっつくにくくなるために必要以上に冷たく接するわけなんだけど、そうしたらちょっと顔がいいからって鼻持ちならない女ってディスられるしさ~。うまくなんとかしようと無口になると美人かつ無口=俺が操縦しやすい女だ! と謎の論法をかまし猛烈アタック。おめー綾波なんて存在しねーんだよカス。ゲンドウモドキはウンコして帰れ。優しくもできない、静かにもくらせない、ちょうどいいかな? と思ったとたん男がウジャウジャ湧いてくる。しかたないから高飛車に戻るとまーた嫌な女扱い。はい、勘弁勘弁。
男は「美人だと女から嫉妬されて憎まれるんだろう」とかバカみたいなイメージを抱きがちだけど、女のほうが男よりもずっとやさしいのが美人に産まれたホンネですわ。少なくとも容姿がよくて女関係でトラブルになったことなんてあんまねーぞ。「美人だと女から嫉妬されて憎まれるんだろう」なんていうのは、その「美人」を利用したバカ女が勝手に男関係であーだこーだしてトラブルを起こすだけのこと。それかよっぽど押しが弱くてめんどくせーことに巻き込まれるバカ女のどっちか。
美人は女に羨まれることはあっても、女という集団の中で美人の存在はヒエラルキーが上。陰口をたたかれることはあろうが、いじめられることなんてめったにないのだ。考えてみてほしい。学校生活で手の届かないクラスで一番の美女っていじめられてた? あるわけねーだろ!
もうねー美人でいて静かに・おとなしく、なんていると人生面倒くさいことがたっぷりなんで、男に対してはつめたくきびしくあたるしか道はないんですわ。だから意地が悪いとか、とっつきにくいとか、調子づいてる、美人は性格悪いってほんとうなんだなあ(笑)って言われる。男ってのは自分のモノにならない女が死ぬほど嫌いなんだなぁと思いました。
しかし今では気の合う友人が出来て、それなりに楽しい学校生活を送っている。
そして時が経つにつれて、恋愛ごとに関心を持つようになっていった。
友人のうち何人かは、いつの間にかクラスメイト同士で付き合うようになっていたのだが、自分が恋愛感情をもつような人は校内にはいなかった。
そもそも自分と仲の良い異性の友人は、みんな恋愛沙汰には無関心で、まともに恋愛話をしたためしがない。
それも相まって、巷でよくある「異性の友人関係から恋愛に発展する」ということが起きない状況に陥っている。
生徒数が40人ということ、「学業に支障をきたす恐れがあるので原則としてバイトは禁止」という規則があること、
詰め込み教育的なカリキュラム内容のため日常的なサークル活動は厳しくなっていること。
その上現地での人脈が少ないため合コンといった交流も開けず、逆に周りの連中も恋愛に興味がないので合コンすら誘われない(存在しない?)という。
もちろん友人の紹介も(失礼ではあるが)期待はできない。
なぁなぁに生返事で終わってしまい、こちらの真剣度がまるで伝わっていない。
とどのつまり自分が通う医療系専門学校では恋愛のできる場、要するに出会いの場が極端に少ないのが現状である。
「何のために専門学校に入っているんだ。」
と言われるかもしれない。
しかしそれだけでいいのだろうか?
中学高校はがむしゃらに部活動に打ち込んでいたため、まともな恋愛をすることができなかった自分が
新生活をはじめて気づいた「恋愛がしたい」という当たり前の感情である。
これらを両親に伝えると、「勉強も恋愛も、自分のやりたいことを精一杯やりなさい」と心から応援してくれた。
ただそれでも恋愛がしたい。
どんどんわからなくなっていく勉強。うまくいかない学校生活、受験、恋。
それらのリアルから目を背けたかった僕のような思春期の子供にとって、インターネットは逃げ道だった。
インターネットの中なら僕は何者にもなれた。
大人にも、女にもなれた。
検索すれば何でも知ってる気になった。
掲示板で、どこの誰だか知らない他人を馬鹿にしたり、僕も馬鹿のフリをしたり、楽しかった。
僕の居場所がインターネットの中には確かにあった。
それが現実じゃないことはわかっていても、僕にとっては現実よりも価値のあるものだった。
僕の仮想現実。僕の居場所。
インターネットの話題はリアルの誰でもが口にするし、リアルの話題で溢れるようになったインターネット。
僕のためじゃない。
全国的に中高生の自殺が相次いでいる。場合によっては小学校高学年の児童も自殺しており、ゆゆしき問題である。
ここ数十年で中高生の自殺が増えた理由について、1997年の経済破たんによる社会人の自殺者数増加が影響しているなどの見解があるが、
中高生は経済問題ではなく、学校生活に起因する諸問題により自殺を決意すると考えられるため、他に理由があると考えるべきである。
そこで理由の一つとして考えられるのは、インターネットの出現により、巧妙に一般人に成りすました暴力団員その他の反社会的勢力が、
その独自の資金力や行動力により、インターネットという無法地帯に勢力を拡大するという異常な現象が1999年頃から発生しており、
卑猥でひれるな掲示板やウェブサイトを立ち上げ、インターネットにアクセスした無垢な中高生が彼らに騙されたり苛められたりすることにより、
精神的衝撃を受け、その結果自殺に走る事例が増加していると思われる。
この問題について、政府や警察は、概ね2006年頃から、学校等においてインターネットに関する指導を行ったり、保護者への指導推奨、
フィルタリングの設定といった対策を講じたりしているが、反社会的勢力が根城にしていると思われる「2ちゃんねる」という巨大掲示板は1999年頃から秒刻みで次々にスレッドが立てられ、ほぼ休みなく続いているなど、その勢力は強大であり、そこからアングラ掲示板や、
児童生徒が直接書き込む誹謗中傷に満ちた学校掲示板、各種の風俗サイトが派生しており、中高生がそれらを閲覧することに関し、
学校での指導やフィルタリングが何ら功を奏していないと推測される。すなわち、増加している中高生の自殺は、
インターネットを通じて暴力団員等の卑劣な価値観が社会に流布され、99年以前に存在した学校教育の成果による健全な社会的風潮が
かなりの程度汚染され、社会内に誹謗中傷や疑心暗鬼が蔓延し、その結果、うつ病等の精神的疾患を発症したり、
人間不信に陥ったりした中高生が厭世観に囚われて自殺を決意するようになったと思われる。
これに対し、インターネットの掲示板等を規制すると表現の自由が奪われるという見解があるが、そもそも社会言論は公教育で設定している
公序良俗を損集することが前提とされているし、「2ちゃんねる」に書き込まれるような卑劣な門限は公共の福祉に反するものとして
表現の自由を享受するに値しない。また、これらの卑劣な文言が中高生の精神に及ぼしている悪影響も考えると、なおさら規制の必要は高く、
国会および文部科学省は、より早い時期に規制法案を作成すべきであった。係る不作為は文部科学省や国会としては致命的な不作為であり、
全国的に中高生の自殺が相次いでいる。場合によっては小学校高学年の児童も自殺しており、ゆゆしき問題である。
ここ数十年で中高生の自殺が増えた理由について、1997年の経済破たんによる社会人の自殺者数増加が影響しているなどの見解があるが、
中高生は経済問題ではなく、学校生活に起因する諸問題により自殺を決意すると考えられるため、他に理由があると考えるべきである。
そこで理由の一つとして考えられるのは、インターネットの出現により、巧妙に一般人に成りすました暴力団員その他の反社会的勢力が、
その独自の資金力や行動力により、インターネットという無法地帯に勢力を拡大するという異常な現象が1999年頃から発生しており、
卑猥でひれるな掲示板やウェブサイトを立ち上げ、インターネットにアクセスした無垢な中高生が彼らに騙されたり苛められたりすることにより、
精神的衝撃を受け、その結果自殺に走る事例が増加していると思われる。
この問題について、政府や警察は、概ね2006年頃から、学校等においてインターネットに関する指導を行ったり、保護者への指導推奨、
フィルタリングの設定といった対策を講じたりしているが、反社会的勢力が根城にしていると思われる「2ちゃんねる」という巨大掲示板は1999年頃から秒刻みで次々にスレッドが立てられ、ほぼ休みなく続いているなど、その勢力は強大であり、そこからアングラ掲示板や、
児童生徒が直接書き込む誹謗中傷に満ちた学校掲示板、各種の風俗サイトが派生しており、中高生がそれらを閲覧することに関し、
学校での指導やフィルタリングが何ら功を奏していないと推測される。すなわち、増加している中高生の自殺は、
インターネットを通じて暴力団員等の卑劣な価値観が社会に流布され、99年以前に存在した学校教育の成果による健全な社会的風潮が
かなりの程度汚染され、社会内に誹謗中傷や疑心暗鬼が蔓延し、その結果、うつ病等の精神的疾患を発症したり、
人間不信に陥ったりした中高生が厭世観に囚われて自殺を決意するようになったと思われる。
これに対し、インターネットの掲示板等を規制すると表現の自由が奪われるという見解があるが、そもそも社会言論は公教育で設定している
公序良俗を損集することが前提とされているし、「2ちゃんねる」に書き込まれるような卑劣な門限は公共の福祉に反するものとして
表現の自由を享受するに値しない。また、これらの卑劣な文言が中高生の精神に及ぼしている悪影響も考えると、なおさら規制の必要は高く、
国会および文部科学省は、より早い時期に規制法案を作成すべきであった。係る不作為は文部科学省や国会としては致命的な不作為であり、
私の部署に配属される予定ということで歳も比較的近い私と面談することになったらしい。
面談では他愛もないことを話していた。
最後に「何か相談したいこととかあったら言ってね」と私が言うと、
「僕って期待されてないですよね。どうすれば人事の方に評価して貰えるのかわかりません。」
と彼は言った。
彼が言うには「他の内定者と僕に対する対応が違う。それに、人事の方が陰でそういったことを言ってると他の社員の方から聞いた。」とのこと。
私は憤った。
内定者の時点でもう不安にさせられているというのはどうなんだと。
私の会社には確かに個性が強い内定者が揃い、インターン生として結果を出している内定者もいる。
しかし、これから一緒にやっていこうという内定者に対し、優劣をつけること、さらにそれがバレていること、それには憤りを隠せなかった。
もし厳選して選んだはずの内定者が社員になり、結果を出せなくても、モチベーションを下げさせたら元も子もないだろう。
ましてや学校生活最後の年なのにインターンに来てくれている学生にどこまで求めているんだ、と。
しかも、彼は他にも何社も内定を貰っており、名だたる大企業を蹴ってうちの会社を選んだという背景がある。
仲良くなったら査定が上がると揶揄されているが、あながち間違いではないだろう。
それは別としても、人事の評価が漏れているようじゃ組織として未熟すぎる。
私は彼に「そんなこと気にしなければいい。採用された時点で期待されているから。」と言ったが、彼のモチベーションは明らかに下がっているようだった。
競争社会ではあるが、いかに結果が出ていない社員のモチベーションを上げるのかということは大事だ。
それをうちの会社の人事はわかっていない。
私の同期でもそういう悩みを持っている奴はいるし、今回のケースでは入社前の学生だ。
これはお粗末過ぎる。
何かがおかしい。少なくとも「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリしている。毎日を食べて寝て生きていくうえで、いまの「その感じ」を何十年も続けていくという実感がもてない。肯定できない。納得できない。誰かがぼくにむかって幸せですか?と聞いてきたら、幸せですとは答えられない。
いつからそうだったんだろう?昔はもっと幸せだったか?でも、思い出というのは美化されるものだ。学校生活もいまにして思えば楽しかったなーなんて思ったりするけど、もうちょっと自分にたいして誠実であろうとするなら、あの当時楽しいこともあったけど、それよりもよりいっそうのつまんないことが多くあったことを無視してはいけない。ぼくが覚えている楽しいことといえば、学生生活の10年ほどの期間のうち、文化祭だの友だちと鳥取砂丘へ行ったことだのクラブへ通っていたことだの付き合っていた彼女との甘い日々だの(それすら全体のほんのちょっとしか覚えていない)夜通し語りあったことだのびわ湖で数えきれないくらいやったバーベキューだのである。
それのいったいなにが問題なのか?ぼくはその輝かしい思い出たちのことはぼんやりとでも覚えていて、楽しかったなあといえるんだけど、それ以外のなにもなかった日のことは思い出せないのだ。いま例に挙げた以上のたくさんの思い出たちが学生だった10年間には「詰まっている」のだけど、よく考えてみてほしい。10年間を日数に置きかえると3650日になる。でも、ぼくが思い出せる限りの楽しかった思い出を全部積み重ねてみて、そのうちのどれだけの割合を占めるだろうか。きっと1年分もないし、半年分もないかもしれない(「いや、さすがに半年分はあるでしょ」と思うなら記憶力を頼りに187個の思い出をがんばって思い出してみることだ)。もっと期間を短くしたら相対的に割合は増えるが、例えば思い出す時期を高校の3年間に絞ったとしても、その1095日間のうちで思い出すことのできる楽しかった思い出はきっと3ヶ月分もない。
「楽しかったなあ」と感じる昔は膨大な日数の忘れられた日の墓場の上に立っている記念碑だ。「昔は良かった」なんて無条件に、盲目的に言っている人は半分ウソつきだとおもう。下にある墓場がぜんぜん見えてない。あるいは見えてないんじゃなくて見たくないから見ないようにしているだけかもしれない。思い出というのはその10倍を超える数のまったく思い出せない、なんの中身もない日を含めた日々から選んだ「マイベスト」みたいなもんだ。それで思い出が「詰まっている」だなんて日本語がちょっとおかしい。
で、ぼくが言いたいのは、それを自覚してもうちょっと自分に誠実になって、懐古主義に陥るのはやめよう、昔と同じように今も楽しいよ、ということではない。むしろその結論を否定するものだ。ぼくが問題だと思うのは、ぼくらがそんなふうに「よく考えてみると昔はそんなに楽しいわけじゃなかった。それはわかった。いまもそんなに楽しいわけじゃないけどたまには楽しいこともあるからそれでいいんじゃないか」という考え方に陥ってしまうことだ。つまり、過去が現状を納得させる道具になってしまうことだ。
さっきは「楽しい思い出」に焦点を当ててきた。こんどはそれとは逆の「イヤな思い出」を見てみる。人間の脳はよくできていて、イヤな記憶は脳がそれを判断して都合よく消し去ってしまうということを聞いたことがある(ほんとかどうかしらんけど)。きみのお父さんかお母さんかおじいちゃんかおばあちゃんか叔母ちゃんか叔父ちゃんか勤めている会社の社長か直接の上司か新聞のコラムかテレビに出てくる偉い人か、とにかくそういう年配の人に「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」的なことを言われたことがあるだろうか。もうあの言い方にはぼくは心底うんざりしている。聞いてもいないのに何回でも(しかもドヤ顔で)聞かされるし、それがあなたを人間的に成長させるとか、安定した暮らしを実現させるとか、収入を保証するとか、そういうことに結びついていると彼らは思い込んでいる。聞いてもいないのに昔の苦労話をえんえんと語ってくるし、そういう苦しい時代がいまの住みよい日本を作ったとかいう話にまで発展したりする。
ある意味それはほんとうかもしれない。もしかしたらぼくら若者はそういうエピソードをもっとありがたがって聞くべきなのかもしれない(でもその話はもう何回もテレビで聞いた)。頭ごなしに否定するわけじゃないけど、話したいから話してるだけなんじゃないの?って感じがときどき透けて見えたりする。年配の人が必ずしもいいアドバイスばっかりくれるわけじゃないってこともなんとなくわかる。十分に人生経験を積んだ人だってコンピュータじゃなくて人間なんだから、間違いや勘違いはある。ましてや、この世界に正解とか不正解なんてものがあるのかすらぼくらにはよくわからない。そういうこともあって、だいたいのエピソードは右耳から入って左耳から抜けていくばっかりだ。脳にとどまらない。しかし、後で見るように実際もっと状況はひどいのだ。
さて、イヤな思い出の話にもどると、イヤというより冒頭に述べたようなモヤモヤとした暗い感じ。マスコミ風にいうと「閉塞感」ってやつを、いま思うことはできても昔もそれがあったかを思い出すことは一見あまりしないように思える。普通ぼくらが昔のことを思い出すときはさきほどのように「楽しい思い出」ばっかりを並べ立てたがる。ぼくらはなんにもない穏やかな日のことはあんまり振り返らない。
でも、おじいちゃんやおばあちゃんが太平洋戦争のことなんかを語ってくれることはある。そういう歴史的に大きな負の遺産は、「忘れてはいけない、繰り返してはいけない」という理由で語り継いでいくことを推奨される。バブル崩壊後、90年代の「失われた10年」なんてのもそういうふうに語り継がれていくかもしれない。楽しい思い出とは逆のイヤな思い出も時折覚えていることがある。どちらにせよ衝撃的なことはわりと覚えていたりするもんだ。中学生活の3年間ずっとイジメられた人なら、その記憶を忘れられないと思う(でもやっぱりいじめられなかった日のことはあまり覚えてないかもしれない)。
ぼくらの世代はどうなの?なにか世代とか社会情勢とかそういうもののせいにしていいの?あらゆるものが自己責任っていわれてるこの世界で?しかし、それはけっこうあり得る話なのかもしれない。さっきの話を総合するとね。
つまりだな。ぼくらはさっきも言ったように「昔はよかったなあ」なんていうふうに考えてしまいがちだ。で、よく考えると実はそう楽しいことばかりでもなかったことに気がつく。「でもあのときけっこうつまんないこととかつらいこともあったよねー」って話になる。単純に楽しいだけの思い出から、いや実は悲喜こもごもだったという一歩進んだ結論にいたる(それにひきかえ、イジメられた人はイジメられた過去を死ぬまで許せないかもしれない)。ここで思考停止してしまうと、ぼくらはさっき言ったような年配の人達と同じことを将来の若者に言い出してしまいかねない。いいことも悪いことも含めて過去をまるごと「あれでよかったんだ」と肯定してしまうかもしれない。
じゃあ、いま現在に戻ってみよう。ぼくは何回も「このままじゃよくない」と思いながら生きてきた。きみはどうだろう?現状に満足しているか?あなたいま幸せですか?それにYESといえる人が何人いるだろうか。ぼくはそんなに多くないと思ってる。イジメられた過去をひきずったままの人はずっと前からこの位置にいるかもしれない(しかしそれはもっと暗くてもっと深い闇)。
ぼくの場合やほかの人の場合、そういうときにはよく講釈で自分をだますようにしている。そうして自分の不幸せを否定しようとする。例えば、ああいう仕事に比べたらマシだとか、誰それという友だちはもっと大変そうだとか、家があるだけ幸せだとか、どこどこの国に比べたら贅沢言ってられないとか。もっとポジティブな感じにだますことだってある。人はどんな環境におかれても幸せを感じられるとか、つらいのはいまだけで私は友だちや家族に恵まれているからちょっとくらいの逆境はへっちゃらだとか、(年配の人の助言をもとに)こういうつらい時こそ自分が成長できるときだとか、時間が解決してくれるとか、そんなことをぶつぶつ言いながら毎日をしのいでいたりする。そう考えるとイジメられた人は自分をだますのが難しいと思う。
何回だ?いままでに「つらい…」「死にたい…」「消えてなくなりたい…」「orz」と感じたときに何回そうやって自分をごまかしてきたんだ?あれはドラキュラの映画か小説かなんかのセリフだったと思うけど、「いままでに何人の生き血を喰らってきたんだ?」みたいなことを聞かれて「おまえは今までに食べたパンの枚数を覚えているのか?」みたいなことを逆に聞き返えされてビックリするっていう、有名な場面があったと思うねん。ぼくももう忘れたけど数えきれないくらい自分をごまかしてきたはずだと思う。数少ないいいニュースは、その回数は今まで食べてきたパンの枚数よりはきっと少ないということだ(ぼくは毎朝食パンを食べる)。
そんなことは誰もが考えることで特別なことじゃないとか、そういうごまかしがあるからこそ人は前へ進んでいけるとか、人生において挫折を味わってこそ人間的に深い情緒を身につけられるとか、そんな反論はいくらでも挙げることができる。必ずしも楽しいことや気持ちのいいことだけを受け取って人生を渡り歩いていくことはできない。人生100%バラ色だなんていう人はいないと思う。でも、それにしてもぼくらは自分のことをごまかしすぎじゃないか?
自分で自分をだますことができなくなったときに、精神的に病んでしまうのかもしれない。ぼくの狭い観測範囲をして実感するのは、最近マジでメンヘラとかうつ病とかコミュ障とかリストカッターとかひきこもりとかニートとかそういう人が増えたなっていうこと。単に病気としての認定がされやすくなったとか、ひきこもりであることやニートであることが、いまやあまり珍しいことじゃなくなってうるさく言われなくなったこともあるかもしれない。統計を出すほどマメな性格ではないのでおおざっぱな感覚だけで言うけど、彼らの数は増えてると思う。それにたとえ「認定がされやすい」とか「いまやあまり珍しくない」とかいうことが事実だとしても、それ自体が彼らの人数が増えていることの結果になっているとおもう。病気の認定がされやすいからうつ病やアスペルガー症候群や統合失調症などのを含めたいわゆる「メンヘラ」が増えたのか。それとも、「メンヘラ」が増えたから認定がされやすくなったのか。卵と鶏はどちらが先に生まれたのか。
メンヘラどまりならまだマシで、最後に行き着く先は自殺だったりする。年に3万人という自殺者の数は、実はそんなに多くないという説があったり、実は公表されている3万人より実際の自殺者数はもっと多いという説があったりする。ふつうに考えるとわかることだが、幸せなのに自殺する人なんていない。死んだ人はなんにも言わないから自殺の理由はあんまりわからないことになっている。「死にたい」という言葉は冗談やせっぱつまった言い方に関わらず最近多く聞くようになったと思う。もはや「死にたい」に特別な意味なんてないのかもしれない。でも、その言葉のなかにたとえ単にかまってほしいがためのウソやなんかが含まれているとしても、全体として言及数は増えているのならウソの割合と本当の割合も増えているんじゃないだろうか。宝くじで当たる確率が何千万分の1しかないとしても、数千万人の人が宝くじを1枚ずつ買ったらかなりの確率で誰かは当たることになる。1万人に1人しか言わなかった「死にたい」が、もう流行語みたいになって100人に1人は言っているとすると、そのなかで冗談で言ってる人の割合も本気で言ってる人の割合も増えてるんじゃないか?
そんなふうにいまの状況を説明するいろんな要素がある。慎重に考えたほうがいいとおもう。「これは大丈夫」とか「これはダメだ」とか、個々の要素についていくつもの言い分を挙げることができる。しかし、どれだけ言い分を挙げても「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリとしている。またぼくは何日か何週間か、うまくいけば何ヶ月かあとに「もうイヤだ…」って気分が襲ってくる。で、そのたびにどうにか自分をごまかす。ぼくのまわりにはその周期がもっと短い人もいる。毎日毎日うんざりしている人もいる。向精神薬と酒を同時に飲んでトリップするしかない人もいる。他人を攻撃することでしかストレスを発散できない人もいる。手首を切ってほっとする人もいる。時間を貴重におもうあまり遊びや趣味を必死に探しまわって疲れてしまう人もいる。せっかくの休日を寝て過ごすくらいの元気しかない人もいる。現実の世界にはとっくの昔に絶望していて、ネットの世界にしか居場所がない人もいる。
こんな状況がいいわけがない。自殺しなかったり病気にならなずに、なんとか今日まで生きのびた人は「苦労したから」そうなったのではなくて、単に運がよかっただけだ。で、そういう運のいい人だけがぼくらの目につくところに現れて説教していったりする。もし、この閉塞感に耐えきれないでみずから死を選んだ人が目の前に現れたら、「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」などと言うだろうか?そのせいで死んだのに?しかし、死人に口なしだ。若い頃にイジメられたストレスが積み重なって精神を病んでしまった特に有名でもない人が、「イジメられた経験があったからこそいまの自分がある」なんて思うだろうか?
有名人とかある会社の社長とか成功した人は、たとえ昔はツラかったとしても、今成功してるんだからあれは無駄じゃなかったなどとのたまう。それは成功してるから言えるのであって、膨大な数の一生負け犬人生を送る人のことはないがしろにされている。でも、負け犬の人がテレビに出てなにか演説をすることなんてない。マスコミだけじゃなくて、誰も一般人の話になんか興味を持たない。たとえネットに出てきたとしても読まれているのは有名な人のブログばっかりだ。一方、偉い人は若い頃の経験をなんでも現在の成功に結びつけて合理化する。そういう話ばっかりが世の中に出て行くことになる。
ぼくらだってああいう話がさすがにちょっとうさんくさいなあと感じている。「お前がそう思うならそうなんだろう。お前の中ではな」と言いたくなる。そういううさんくさい人ばっかりでなくて、ちゃんと誠実な人もいるということもなんとなくわかる。自分は人よりちょっと運がよかっただけということを自覚して、負け犬の人をないがしろにしない人も確かに存在する。(ネット上にはけっこうそういう人がいる気がする)
にもかかわらず、ぼくらは若くしてすでに過去を美化したり合理化したりしてしまう傾向がある。いまですら過去を美化してしまったり合理化してしまったりするように、ぼくらは何十年か後にいまの状況をそうしてしまうかもしれないのだ。そういうことをする度に、ぼくらが楽しかったなあとしみじみ思う、それと同じ過去をイジメぬかれて過ごした人をバカにしてしまっていることになる。少なくともぼくは、いま「死にたい」と思っている人を将来美化してしまいたくはない。「むかしは自殺未遂もしたけれど、いま私は元気です」なんて思わせることがいいことだとか、必要だったとか思わせるのにはどうも違和感がある。だから、現状がこのままで「仕方ない」などとは思いたくない。良くしていきたい。
ぼくが最近楽しいことをしたい理由には、そういう思いがある。正確にいうと、ぼくはわざわざ楽しくない不幸な人生を送りたくない。「せめて」楽しくなくてもいいから、「せめて」悲しいことやツラいことや苦しいことだけでも「せめて」取り除きたいのだ。その話はまた別の機会に…。
何かがおかしい。少なくとも「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリしている。毎日を食べて寝て生きていくうえで、いまの「その感じ」を何十年も続けていくという実感がもてない。肯定できない。納得できない。誰かがぼくにむかって幸せですか?と聞いてきたら、幸せですとは答えられない。
いつからそうだったんだろう?昔はもっと幸せだったか?でも、思い出というのは美化されるものだ。学校生活もいまにして思えば楽しかったなーなんて思ったりするけど、もうちょっと自分にたいして誠実であろうとするなら、あの当時楽しいこともあったけど、それよりもよりいっそうのつまんないことが多くあったことを無視してはいけない。ぼくが覚えている楽しいことといえば、学生生活の10年ほどの期間のうち、文化祭だの友だちと鳥取砂丘へ行ったことだのクラブへ通っていたことだの付き合っていた彼女との甘い日々だの(それすら全体のほんのちょっとしか覚えていない)夜通し語りあったことだのびわ湖で数えきれないくらいやったバーベキューだのである。
それのいったいなにが問題なのか?ぼくはその輝かしい思い出たちのことはぼんやりとでも覚えていて、楽しかったなあといえるんだけど、それ以外のなにもなかった日のことは思い出せないのだ。いま例に挙げた以上のたくさんの思い出たちが学生だった10年間には「詰まっている」のだけど、よく考えてみてほしい。10年間を日数に置きかえると3650日になる。でも、ぼくが思い出せる限りの楽しかった思い出を全部積み重ねてみて、そのうちのどれだけの割合を占めるだろうか。きっと1年分もないし、半年分もないかもしれない(「いや、さすがに半年分はあるでしょ」と思うなら記憶力を頼りに187個の思い出をがんばって思い出してみることだ)。もっと期間を短くしたら相対的に割合は増えるが、例えば思い出す時期を高校の3年間に絞ったとしても、その1095日間のうちで思い出すことのできる楽しかった思い出はきっと3ヶ月分もない。
「楽しかったなあ」と感じる昔は膨大な日数の忘れられた日の墓場の上に立っている記念碑だ。「昔は良かった」なんて無条件に、盲目的に言っている人は半分ウソつきだとおもう。下にある墓場がぜんぜん見えてない。あるいは見えてないんじゃなくて見たくないから見ないようにしているだけかもしれない。思い出というのはその10倍を超える数のまったく思い出せない、なんの中身もない日を含めた日々から選んだ「マイベスト」みたいなもんだ。それで思い出が「詰まっている」だなんて日本語がちょっとおかしい。
で、ぼくが言いたいのは、それを自覚してもうちょっと自分に誠実になって、懐古主義に陥るのはやめよう、昔と同じように今も楽しいよ、ということではない。むしろその結論を否定するものだ。ぼくが問題だと思うのは、ぼくらがそんなふうに「よく考えてみると昔はそんなに楽しいわけじゃなかった。それはわかった。いまもそんなに楽しいわけじゃないけどたまには楽しいこともあるからそれでいいんじゃないか」という考え方に陥ってしまうことだ。つまり、過去が現状を納得させる道具になってしまうことだ。
さっきは「楽しい思い出」に焦点を当ててきた。こんどはそれとは逆の「イヤな思い出」を見てみる。人間の脳はよくできていて、イヤな記憶は脳がそれを判断して都合よく消し去ってしまうということを聞いたことがある(ほんとかどうかしらんけど)。きみのお父さんかお母さんかおじいちゃんかおばあちゃんか叔母ちゃんか叔父ちゃんか勤めている会社の社長か直接の上司か新聞のコラムかテレビに出てくる偉い人か、とにかくそういう年配の人に「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」的なことを言われたことがあるだろうか。もうあの言い方にはぼくは心底うんざりしている。聞いてもいないのに何回でも(しかもドヤ顔で)聞かされるし、それがあなたを人間的に成長させるとか、安定した暮らしを実現させるとか、収入を保証するとか、そういうことに結びついていると彼らは思い込んでいる。聞いてもいないのに昔の苦労話をえんえんと語ってくるし、そういう苦しい時代がいまの住みよい日本を作ったとかいう話にまで発展したりする。
ある意味それはほんとうかもしれない。もしかしたらぼくら若者はそういうエピソードをもっとありがたがって聞くべきなのかもしれない(でもその話はもう何回もテレビで聞いた)。頭ごなしに否定するわけじゃないけど、話したいから話してるだけなんじゃないの?って感じがときどき透けて見えたりする。年配の人が必ずしもいいアドバイスばっかりくれるわけじゃないってこともなんとなくわかる。十分に人生経験を積んだ人だってコンピュータじゃなくて人間なんだから、間違いや勘違いはある。ましてや、この世界に正解とか不正解なんてものがあるのかすらぼくらにはよくわからない。そういうこともあって、だいたいのエピソードは右耳から入って左耳から抜けていくばっかりだ。脳にとどまらない。しかし、後で見るように実際もっと状況はひどいのだ。
さて、イヤな思い出の話にもどると、イヤというより冒頭に述べたようなモヤモヤとした暗い感じ。マスコミ風にいうと「閉塞感」ってやつを、いま思うことはできても昔もそれがあったかを思い出すことは一見あまりしないように思える。普通ぼくらが昔のことを思い出すときはさきほどのように「楽しい思い出」ばっかりを並べ立てたがる。ぼくらはなんにもない穏やかな日のことはあんまり振り返らない。
でも、おじいちゃんやおばあちゃんが太平洋戦争のことなんかを語ってくれることはある。そういう歴史的に大きな負の遺産は、「忘れてはいけない、繰り返してはいけない」という理由で語り継いでいくことを推奨される。バブル崩壊後、90年代の「失われた10年」なんてのもそういうふうに語り継がれていくかもしれない。楽しい思い出とは逆のイヤな思い出も時折覚えていることがある。どちらにせよ衝撃的なことはわりと覚えていたりするもんだ。中学生活の3年間ずっとイジメられた人なら、その記憶を忘れられないと思う(でもやっぱりいじめられなかった日のことはあまり覚えてないかもしれない)。
ぼくらの世代はどうなの?なにか世代とか社会情勢とかそういうもののせいにしていいの?あらゆるものが自己責任っていわれてるこの世界で?しかし、それはけっこうあり得る話なのかもしれない。さっきの話を総合するとね。
つまりだな。ぼくらはさっきも言ったように「昔はよかったなあ」なんていうふうに考えてしまいがちだ。で、よく考えると実はそう楽しいことばかりでもなかったことに気がつく。「でもあのときけっこうつまんないこととかつらいこともあったよねー」って話になる。単純に楽しいだけの思い出から、いや実は悲喜こもごもだったという一歩進んだ結論にいたる(それにひきかえ、イジメられた人はイジメられた過去を死ぬまで許せないかもしれない)。ここで思考停止してしまうと、ぼくらはさっき言ったような年配の人達と同じことを将来の若者に言い出してしまいかねない。いいことも悪いことも含めて過去をまるごと「あれでよかったんだ」と肯定してしまうかもしれない。
じゃあ、いま現在に戻ってみよう。ぼくは何回も「このままじゃよくない」と思いながら生きてきた。きみはどうだろう?現状に満足しているか?あなたいま幸せですか?それにYESといえる人が何人いるだろうか。ぼくはそんなに多くないと思ってる。イジメられた過去をひきずったままの人はずっと前からこの位置にいるかもしれない(しかしそれはもっと暗くてもっと深い闇)。
ぼくの場合やほかの人の場合、そういうときにはよく講釈で自分をだますようにしている。そうして自分の不幸せを否定しようとする。例えば、ああいう仕事に比べたらマシだとか、誰それという友だちはもっと大変そうだとか、家があるだけ幸せだとか、どこどこの国に比べたら贅沢言ってられないとか。もっとポジティブな感じにだますことだってある。人はどんな環境におかれても幸せを感じられるとか、つらいのはいまだけで私は友だちや家族に恵まれているからちょっとくらいの逆境はへっちゃらだとか、(年配の人の助言をもとに)こういうつらい時こそ自分が成長できるときだとか、時間が解決してくれるとか、そんなことをぶつぶつ言いながら毎日をしのいでいたりする。そう考えるとイジメられた人は自分をだますのが難しいと思う。
何回だ?いままでに「つらい…」「死にたい…」「消えてなくなりたい…」「orz」と感じたときに何回そうやって自分をごまかしてきたんだ?あれはドラキュラの映画か小説かなんかのセリフだったと思うけど、「いままでに何人の生き血を喰らってきたんだ?」みたいなことを聞かれて「おまえは今までに食べたパンの枚数を覚えているのか?」みたいなことを逆に聞き返えされてビックリするっていう、有名な場面があったと思うねん。ぼくももう忘れたけど数えきれないくらい自分をごまかしてきたはずだと思う。数少ないいいニュースは、その回数は今まで食べてきたパンの枚数よりはきっと少ないということだ(ぼくは毎朝食パンを食べる)。
そんなことは誰もが考えることで特別なことじゃないとか、そういうごまかしがあるからこそ人は前へ進んでいけるとか、人生において挫折を味わってこそ人間的に深い情緒を身につけられるとか、そんな反論はいくらでも挙げることができる。必ずしも楽しいことや気持ちのいいことだけを受け取って人生を渡り歩いていくことはできない。人生100%バラ色だなんていう人はいないと思う。でも、それにしてもぼくらは自分のことをごまかしすぎじゃないか?
自分で自分をだますことができなくなったときに、精神的に病んでしまうのかもしれない。ぼくの狭い観測範囲をして実感するのは、最近マジでメンヘラとかうつ病とかコミュ障とかリストカッターとかひきこもりとかニートとかそういう人が増えたなっていうこと。単に病気としての認定がされやすくなったとか、ひきこもりであることやニートであることが、いまやあまり珍しいことじゃなくなってうるさく言われなくなったこともあるかもしれない。統計を出すほどマメな性格ではないのでおおざっぱな感覚だけで言うけど、彼らの数は増えてると思う。それにたとえ「認定がされやすい」とか「いまやあまり珍しくない」とかいうことが事実だとしても、それ自体が彼らの人数が増えていることの結果になっているとおもう。病気の認定がされやすいからうつ病やアスペルガー症候群や統合失調症などのを含めたいわゆる「メンヘラ」が増えたのか。それとも、「メンヘラ」が増えたから認定がされやすくなったのか。卵と鶏はどちらが先に生まれたのか。
メンヘラどまりならまだマシで、最後に行き着く先は自殺だったりする。年に3万人という自殺者の数は、実はそんなに多くないという説があったり、実は公表されている3万人より実際の自殺者数はもっと多いという説があったりする。ふつうに考えるとわかることだが、幸せなのに自殺する人なんていない。死んだ人はなんにも言わないから自殺の理由はあんまりわからないことになっている。「死にたい」という言葉は冗談やせっぱつまった言い方に関わらず最近多く聞くようになったと思う。もはや「死にたい」に特別な意味なんてないのかもしれない。でも、その言葉のなかにたとえ単にかまってほしいがためのウソやなんかが含まれているとしても、全体として言及数は増えているのならウソの割合と本当の割合も増えているんじゃないだろうか。宝くじで当たる確率が何千万分の1しかないとしても、数千万人の人が宝くじを1枚ずつ買ったらかなりの確率で誰かは当たることになる。1万人に1人しか言わなかった「死にたい」が、もう流行語みたいになって100人に1人は言っているとすると、そのなかで冗談で言ってる人の割合も本気で言ってる人の割合も増えてるんじゃないか?
そんなふうにいまの状況を説明するいろんな要素がある。慎重に考えたほうがいいとおもう。「これは大丈夫」とか「これはダメだ」とか、個々の要素についていくつもの言い分を挙げることができる。しかし、どれだけ言い分を挙げても「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリとしている。またぼくは何日か何週間か、うまくいけば何ヶ月かあとに「もうイヤだ…」って気分が襲ってくる。で、そのたびにどうにか自分をごまかす。ぼくのまわりにはその周期がもっと短い人もいる。毎日毎日うんざりしている人もいる。向精神薬と酒を同時に飲んでトリップするしかない人もいる。他人を攻撃することでしかストレスを発散できない人もいる。手首を切ってほっとする人もいる。時間を貴重におもうあまり遊びや趣味を必死に探しまわって疲れてしまう人もいる。せっかくの休日を寝て過ごすくらいの元気しかない人もいる。現実の世界にはとっくの昔に絶望していて、ネットの世界にしか居場所がない人もいる。
こんな状況がいいわけがない。自殺しなかったり病気にならなずに、なんとか今日まで生きのびた人は「苦労したから」そうなったのではなくて、単に運がよかっただけだ。で、そういう運のいい人だけがぼくらの目につくところに現れて説教していったりする。もし、この閉塞感に耐えきれないでみずから死を選んだ人が目の前に現れたら、「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」などと言うだろうか?そのせいで死んだのに?しかし、死人に口なしだ。若い頃にイジメられたストレスが積み重なって精神を病んでしまった特に有名でもない人が、「イジメられた経験があったからこそいまの自分がある」なんて思うだろうか?
有名人とかある会社の社長とか成功した人は、たとえ昔はツラかったとしても、今成功してるんだからあれは無駄じゃなかったなどとのたまう。それは成功してるから言えるのであって、膨大な数の一生負け犬人生を送る人のことはないがしろにされている。でも、負け犬の人がテレビに出てなにか演説をすることなんてない。マスコミだけじゃなくて、誰も一般人の話になんか興味を持たない。たとえネットに出てきたとしても読まれているのは有名な人のブログばっかりだ。一方、偉い人は若い頃の経験をなんでも現在の成功に結びつけて合理化する。そういう話ばっかりが世の中に出て行くことになる。
ぼくらだってああいう話がさすがにちょっとうさんくさいなあと感じている。「お前がそう思うならそうなんだろう。お前の中ではな」と言いたくなる。そういううさんくさい人ばっかりでなくて、ちゃんと誠実な人もいるということもなんとなくわかる。自分は人よりちょっと運がよかっただけということを自覚して、負け犬の人をないがしろにしない人も確かに存在する。(ネット上にはけっこうそういう人がいる気がする)
にもかかわらず、ぼくらは若くしてすでに過去を美化したり合理化したりしてしまう傾向がある。いまですら過去を美化してしまったり合理化してしまったりするように、ぼくらは何十年か後にいまの状況をそうしてしまうかもしれないのだ。そういうことをする度に、ぼくらが楽しかったなあとしみじみ思う、それと同じ過去をイジメぬかれて過ごした人をバカにしてしまっていることになる。少なくともぼくは、いま「死にたい」と思っている人を将来美化してしまいたくはない。「むかしは自殺未遂もしたけれど、いま私は元気です」なんて思わせることがいいことだとか、必要だったとか思わせるのにはどうも違和感がある。だから、現状がこのままで「仕方ない」などとは思いたくない。良くしていきたい。
ぼくが最近楽しいことをしたい理由には、そういう思いがある。正確にいうと、ぼくはわざわざ楽しくない不幸な人生を送りたくない。「せめて」楽しくなくてもいいから、「せめて」悲しいことやツラいことや苦しいことだけでも「せめて」取り除きたいのだ。その話はまた別の機会に…。
とりあえずこの人たちに共通しているバックグラウンドは、院とか博士課程とか行ってて学校生活が長いこと。現実をドライにクールに客観視したり、それについて文章書いて人にみせるのが好きなようなんだが、人の行動とかアナログな要因が入る物事に関しては考察が劇尼になるようですわ。
最近は、東電とか政府の対応がどうこうだとかっていう新聞記事をよくみるじゃないですか。原因の解明はもちろん大切なことなんだけどさ、この人たち、WSJとかの記事をわざわざひっぱってきて、欧米でもこういわれている、やっぱり東電ダメだわ、とかって言いたいみたいなんですよ。でもこれ結果論が多くて、東電を叩くことが目的な記事なんだよね。それを鵜呑みにしちゃっていて、東電と政府はここが甘いんだ、みたいなことをえんえんというんですよ。Facebookで。うざいでしょ。記事見ればわかるよ。
本人はWSJとかの記事の検証とかをするつもりはまるでなくて、WSJが言っているから日本はダメって毎日吠えてる。万が一の対策しないとダメなんだってWSJに書いてあるからそれを自分の意見と勘違いしちゃっているみたいで。あんた、車乗るけど自動車事故に遭う可能性があることを考えたら乗らないほうがいいんじゃないって突っ込まれてたらなんか激怒してた。
5年間ほど海外に住んでいて日本語は友達と話す分は平気なのですが
戻ってくる3ヶ月ほど前から、日本での学校生活に不安を抱いており
その間に、仲良くなった子達とずっと仲良くしたくて
そのおかげで、今ではその子達と一緒にご飯を食べたり話したり出来ています
共通の話題が少ない私を入れてくれて本当にありがたくて感謝しきれないほどです
帰るころには真っ暗で、急いで帰ろうと歩いていると後ろから隣のクラスの子が二人歩いてきて
いきなり「外国はどうだった」だの「英語ペラペラなんでしょー?」と聞いてきたので
それに答えると二人そろって無言
帰る途中、私が先頭で歩いていたのですが
ふと後ろを振り返ると二人とも物陰に隠れていて、いないフリをしていました
元々苦手なタイプだったので、どうしていいか分からずそのまま歩いて帰ろうとすると
いつのまにかすぐ後ろにいて、
「日本と比べて外国はどうだった」と聞かれてまたそれに答えると黙りの繰り返し
家と学校からの距離が近いので早足で帰ろうとすると「速いーまってよ」と声をかけられます
ゆっくり、歩幅をあわせて歩いていても私などいないように二人は話していて、たまに小声で私に聞こえないようにクスクス笑っていました
私は人見知りで、特に苦手なタイプの子が相手だと普段言い返せるようなことも言えずに泣きそうになります
その後、やっと家に着いてこれからはもう関わらないように。と思っていたのですが
時間を変えても門の前で屯っていて、私が通ると帰る準備をし、付いてきます
そして質問と無言の繰り返し
帰り道はたったの5分程度なのですが、今まで親からも甘やかされ
友人に恵まれてきたのでどうしていいかわかりません
海外にいったときも、英語を全く喋らない私を学校の皆さんは受け入れてくれて
そのおかげで今まで通ってくることができました
みんな仲良く、合わない人とはお互いに関わらないような所でした
意見がまとまらない助けてーなどとメールがきて嬉しいのに悲しくて気持ちが不安定です
転入してきた時は日本と外国の違いなどをたくさんの人から聞かれたので「日本は~」「アメリカは~」と話していました
色々調べて見た所、この比べるような言い方が気に触ったのでしょうか
私が甘いのは分かっているのですが
エヴァも見たことないのでセカイ系なんぞ知らんがなという20代ですが、セカイ系について思うことを整理。言葉自体は聞いたことが相当前からあったのですが。定義自体捉え違えている可能性があるので、あまり情報の正誤にはこだわらないよう。
なんかこういう定義っぽいのを聞いたとき、僕が最初に思い浮かんだのはワイルドアームズ2ndだ。
WA2は国家が複数存在するので、国際法的な問題が、現実問題としては考えられる。
実際そういう問題があることはゲーム中でも仄めかされ、そういう問題があるかのように序盤は話が展開していく。
ただ、プレイすれば分かると思うが、結局それはおつかいゲームの壁として用意されたかのようにシンプルな問題に矮小化され、お遣いを済ませば国交は自由ですよーというわけで自在に領空を飛べるようになる。
これは社会をある程度提示しているケースだが、ドラクエなんかはもはや国境なんぞ存在せず、作中登場人物そのものが超法規的とも言うべく行動を「ゲームだから」という理由で許されている。空だって飛び放題、ツボだって割り放題、女湯だって覗き放題。
つまり、「僕が世界を救う」という題目においては社会がどうあるべきかなんてのは考慮のうちには入っていない。社会ははじめから捨象されているのだ。
そういう意味で、僕はセカイ系をRPG系とみなせるのではないかと思う。ドラクエはセカイ系として扱うには異色かもしれないが、WA2以降、WA4あたりは根性論的セカイ系RPGと言っても差し支えないと思う。
と思ったのはGガンダムのガンダムファイト国際条約を聞いてからのこと。ガンダムファイトをすれば当然家屋がぶち壊れるわけだが、ガンダムファイト中はそれらの損害について弁償しなくていいというではないか。なるほど便利な条約である。
こういったセカイ系が社会を捨象しているのは、やはり現実=社会はストレスだという共通認識が得られているからではないだろうか。細かいことはいいんだよ、という具合だ。
そういう話を進める上で邪魔なものをすべて消去していった結果セカイ系が生まれ、さらに日常的生活を押していくと空気系になるのではないか。
部活や学校生活は、めんどくさい社会とは切り離された別社会であり、このごろ厨二病を発病する人も多かったのではないか。
部活のそれを描くにしろ金銭問題なんかはとことんクリアされ、学生のうちの挫折がないように見える(実際の学生生活は挫折が一度くらいはあるものだが)
というわけで、まだ社会の選別を実感しない、格差の現実に直面しない高校生活というのがなんだかんだでセカイ系の究極なんじゃないかなどと妄想。
おれの親父は高校を出てから20年東京にいた。これは11歳のときに聞いた話だけどバツイチらしい。九州に転勤するにあたってオカンとお見合い結婚。地元郊外に家を建てた。ただ、同じ九州といっても通勤できる距離ではなく、ほぼ単身赴任のような状況で、親父は週末しか家にいなかった。そんな状況で二つ年上の姉が生まれ、おれが生まれ、三つ年下の妹が生まれた。
家にはオカンと子供3人。何があったのかは知らないけど、オカンは何度も子育てが嫌になって、精神的におかしい時期があったらしい。そんな状況でもオカンは3人を育ててくれた。その点、オカンには本当に感謝してる。んで、親父はたまに家に帰ってくると、主に姉をかまって、オカンはといえば、末っ子の妹の面倒につきっきりだった。おれの遊び相手は、4歳のときに親父が家に持ち帰ってきたパソコンだった。
おれは、パソコンのことだけ考えながら小学校に進んだ。小6のときに胸倉掴まれて、「そんなんだから友達もできないんだよ!!」と親父に言われたけど、おれ自身は友達がいると自分で思ってた。パソコンじゃなく生身の人間の友達がいると。今思えば、あんなのは友達じゃなくて、本当の友達はパソコンだったんだろうな。認めたくない事実だけど。
県立高校の附属中学に入った。無勉で試験に合格した。最初の実力テストも上位2割に入れた。でもおれにはやる気なんて1ミリもなく、家に帰ったらネット上のコミュニティに入り浸ってた。
違和感は小学校高学年の頃からすでにあった。学校生活でうまくいかない。でもおれは勉強はできるし、これからの時代に必要なパソコンも人並み以上に触れる。だから大丈夫だ。中学に入れば、おれを本当にわかってくれるやつがたくさんいるはずだ。と思っていた。しかし現実は違った。周りが敵にしか見えなかった。なんで初対面のやつらに笑われなきゃいけないんだ。そう思っておれは入学二日目に、地元の中学に転校しますと言って学校を休んだ。親父が単身赴任先から飛んできた。「なんで転校するんだ」「学校いけばなんとかなる」伯母さんにも説教された。「アンタねえもうちょっと子供らしくしたらどうなの」
まあ、それから、けっこう回り道をしたと思う。なんだかんだで転校はしなかったけど、休む癖がついて、パソコンを夜遅くまで触って学校に行ったり行かなかったりを繰り返した。中2の学園祭で映像制作をしたのがきっかけで、周りの見る目も変わってきた。しかし違和感が残る。
中3になった。相変わらずパソコンが拠り所な、おれ。卒業記念のDVDをおれが作ることになっていたから、おれはそれしかすることがないって思ってた。んで、夜パソコンして、朝寝て、昼から学校。みたいなライフスタイルが学校で許容されてきたような気がしてた。でもなんか、かわいそうなものを見る目というか、なんというか。
だんだん、それについて思うようになった。生きた心地がしなかった。蓋をあけてみると、おれはチビなのにおっさんくさいし、パソコンばっかりやってて、勉強もろくにできないクソ野郎。そして気づいてしまった。自分が今までやってきたことは、しょうもないことだったと。自分は今までパソコンに支配されてきたと。そう思ったのが正月だった。
規則正しい生活をしよう。高校から運動系の部活をしようと思う。勉強もやろう。生身の友達をたくさんつくろう。人に評価される人間になろう。高校から第二の人生のスタートだ。今までおれを馬鹿にしてきたやつらを見返してやる。志望は東大文一。弁護士にでもなろうか。
そう思いつつ、今日も昼に起きた。学校行きたくないけど、卒業DVD作らなきゃいけないから、放課後に登校。女子にdisられた。そりゃそうだけどさ。どうせみんな、夜遅くまでネトゲやってたと思ってんだろうな。昨日、24時に寝たのに。どうしたら朝学校に起きられるんだろう。やっぱりまだパソコンに頼りっきりなのかな。パソコンとかを一切絶って、学校生活に全力を注ごうか。
おれはこの中学3年間を通して教育の必要性を痛感した。おれが子供をつくったら人間らしく育ててやりたいと思う。
まあ自分語りはここらへんにしとこう。
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20110102/1293978579
(自分のところに書くと妹が見ているのでこちらに書く)
妹も大学4年の卒業間際に妊娠が発覚した。そのまま卒業と同時に結婚。いわゆるでき婚である。
それ以来、世間で言うところの社会人として働いたことが一度もないまま今に到る。
理系の、留年率が10%だったか30%だったか、試験の点数が悪ければ即追試、それでもだめなら容赦なく留年という環境にいれば
否が応でも勉強せざるを得ない。
バイトもサークルもしていたし、彼氏も友だちもいて遊び相手には困らなかったはずだが、
結婚後は絵に描いたような良妻賢母、タバコも酒もきっぱりやめて、専業主婦として夫の収入でやりくりするようになった。
正直いって、大学生のころは茶髪→金髪 服装は田舎のヤンキーだったので、妹の変わりように私は驚いたのだった。
両親は妹の進路に関しては高校の頃から「看護婦がいい」と言い続け、高校も理系(生物系)を進めた。
それから、親は妹に対して「学校の(理科の)先生になれ」といいだした。
私は内心、(あいつ、学校の先生って柄かー?)と思っていたが、黙っていた。
ちなみに、親は私にも「学校の先生になれ」「公務員になれ」と言ったが「私学校の先生に向いてないから」「公務員の仕事向いてないから」としりぞけていた。
妹は特に何もいわず、教職をとっていた。
4年になって、教育実習にいった、という話を聞き、「えっ、教員になるの?」と驚いたのだが、教員免許だけとるという。
教育実習に行く寸前まで金髪の典型的なヤンキー姿だったので、教員というのが全く想像できなかった。
就職活動は?というと「していない」という。
えっ、さすがにどうするの?と問いただしたところ
どうも、研究室もかなり優秀な先生のところに配属されたらしい。そこで、親が研究室に残ることをすすめたというわけだ。
私からみて、妹は研究者としてやっていけるほど学問好きでも、教員として生徒たちといっしょに学校生活を過ごせるようなタイプではなかった。
研究室の様子を聞くと、明らかにハイレベルな内容について行けてない様子。学部生だから当然といえば当然だが、
英語が飛び交い、各国から留学生が研究生としてはいってくるようなところである。
そんなところで大学院の試験を受けても(受ければ通るだろうけど)、研究の道はまず妹の能力では無理だろうと思ったが黙っていた。
親が学費を出して進めているのを、妹は断らなかったらしい。私なら断るのに。
結局夏の大学院入試は合格し卒業後の進路も決定していたが、卒業式直前に妊娠6ヶ月が判明した。
もうどうしようもなくなってそのまま卒業と同時に結婚した。大学院の入学は辞退した。
あのときはなんでこんなことを・・・と驚き、出産後妹が見違えるような良妻賢母になったことに唖然としていた。
でも、このエントリを読んで、今まで気がつかなかった妹の葛藤を少し感じることができた。
私は親が進める将来のレールをことごとく蹴り飛ばしてきた。まじめで優等生なお姉ちゃんだったのに、なぜか親の進める進路を全部断り、自分で進路を決めた。
妹はよくよく考えたら、金髪で外見はヤンキーでどうみても遊んでいるタイプに見えていたけど、親の言うことを聞いて教職もとり、大学院の試験も受けた。
それは、親が進める道を断り切れなかったんだろうな。そういうところ「親のいい子」になっていたんだなと、今頃気がついた。
「いやだ」って、「私にはその進路は合わない」って言えなかったんだろうな。
私も断ったしなおさら断り切れなかったのかも。
そう思えば妹に悪いことをした。好きなように断ってよかったのに。
だから、レールの最後の最後の最後のところで、行き詰まってしまい「妊娠」というブレーキを踏んだのかもしれない。
妊娠6ヶ月で妊娠に気がついたと本人は当時話していたが、ずっと疑わしいと思っていた。
おそらく卒研中に妊娠の可能性を知りつつ、お腹の子も本人も綱渡りのような気分だったんだろう。
そこまでして親の進める進路に逆らえないことに、驚く人もいるかもしれない。
私だって「いやならいやだ」と言えばいいのにとまず思う。
でも、でも「言えない」ことがあるんだろうな。
世の中には親の(世間の)指向する進路(=レール)を「自分にはこのレールはあっていない」と知りつつも乗ってしまい、後悔する人生を送っている人がいるかもしれない。
そういう人は(自分でもわかっているか、知らず知らずか)無理して生きているわけだから、身体や心に何らかの拒否反応が出ているかもしれない。
もしかしたら、妹みたいに、運良く(?)妊娠して、あわないレールから逃れられるかもしれない。
もちろんこのエントリのように、結婚したってそれで終わりじゃなく離婚の可能性だってものすごくある。
離婚しなければ嫁の立場でがんばらないといけないこともある。
けれど、学生が社会に出る前には「人並みに就職活動(大学院入試も含めて)をして進路を決める」必要があって
それが自分にとって明らかにあっていないのに、進路のレールは1本しかない場合、(1本しか見えてないような気がする場合)
「妊娠」というのは進路先変更するとっておきの「進路変更のブレーキ」なのだ、ということは
これからも覚えておこうと思う。
なにを頑張ったのかと思えば、部活だの学校生活だけじゃねーか。そうすれば、女が次々寄ってくると思ったのか?
彼女が欲しければ、彼女をつくるためのアクションをおこせよ。自分からアプローチするとか。部活だので頑張るなんていうのは、女へのアプローチをするためにしたほうがいいけれど、しなくても構わないもんだよ。彼女を作るために必要なのは自分から行動を起こすこと。芸能人なみに顔面が恵まれてれば、何もしなくてもホイホイと女がよってくるだろうが、男の7割くらいは自分から何もしなきゃ何もおこらない程度のツラしか持ってない。
頑張ってれば誰かが認めてくれるはず、なんて夢見てんじゃねーよ。まぁ高校で気づけたならまだましか。社会人になって、仕事でそんなのやられたらマジ面倒だから。
http://anond.hatelabo.jp/20071219225747
と書いてしまうとあちらこちらから異論がくるであろうことはネットでさんざん見てきて承知してはいるけれど、
少なくともこう仮定することで様々な疑問があっけなく氷解することは確かだと思う。
それに「恋人ができないなんて奴は自己責任」と見知らぬ他人に叩かれるのもうんざりしてきたし、
ちょっと反論させていただきたい。
僕は小学校高学年の頃にNHKで再放送されていたとある青春ドラマに感化されて以来、青春や恋に強く憧れてきた。
高校では野球部で汗を流す傍ら、バンドや宅録等の音楽活動、短歌を中心とした文芸などにも打ち込んできた。
学外での実績もあるし、
文化祭や体育祭といった学内の行事についてもできるだけのことはやってきたつもり。
友達もたくさんできたし、そのうち恋人だって当然のようにできるだろう、
これだけのことをやっておけば間違いなく輝かしい青春を送ることができる。
そう信じていた。
ところが、結局恋人はできなかった。
ミュージシャンが歌い、小説家や漫画家が描くような素敵な恋に憧れていた僕はひどく落ち込んだ。
こう書いているいまも順調に「彼女いない歴=年齢」のいばらの道を進んでいて、
このことを思うとなにもかもやる気が失せるし、食欲もなくなるし、夜も眠れない。
しかも僕のように学校生活に積極的に参加してもなにも起きない人間がいる一方で、
なにをするでもなくへらへら笑って生きているだけの帰宅部の連中に恋人がいたりすることを思うと、
腹立たしいことこの上ない。
ニュース・サイトの恋愛に関するニュースや2ちゃんのスレをあれこれ開くようになった。
1. 日々の努力や生活ぶりは顔に現れてくる。がんばって生きている奴は顔立ちがよくなくてもかっこよく見える
→先述の通り、野球部という、いやでも生活習慣に気を遣わなきゃいけないし努力もしなきゃいけない環境にいたけれど、
恋人はできなかった。
一方で帰宅部でも恋人がいる奴はいる。本当に「がんばって生きている奴は顔立ちがよくなくてもかっこよく見える」ならこういうことは起きないはず。
2.ネガティブ/ひねくれた性格をしてる奴に恋人ができないのは当然
むしろポジティブで素直だったからこそ目標を達成するために学校生活に積極参加していたわけだし、
ポジティブで素直だったからこそ目標を達成できなかったことに傷ついて反動が一気にきている。
3. 学生時代なんて普通に生きていれば恋人くらいできるだろう
→「普通」ってなに?
4. 恋人がいない奴なんて友達も作れないようなコミュニケーション不全の人間ばかりだろう
生徒会や野球部、バンドといったコミュニケーション能力を要求される環境に身を置いてきた以上、
といった具合に、彼らの振りかざす理屈は僕の経験とまったく噛み合ない。
「顔なんてさして重要じゃない、むしろ性格と暮らしぶりのほうが大事だ」という彼らの主張は耳に心地よいし、
ところが、実際にはむしろ彼らが否定したがっている「世の中は顔だ」論のほうがよっぽど破綻が少なく、真実に近いように思える。
「中身がすべてだ」と仮定すると先ほど指摘したような矛盾点が湧き出てくるが、
「顔がすべてだ」と仮定すれば「顔がいいからなにもしなくても恋人ができる/顔がよくないからなにをしても恋人ができない」の一言ですべてが片づくし、
こっちも「そっかー、顔が悪いんじゃ仕方ないな」と納得がいく。
しかも顔がいい人間はますます自分の外見に誇りを持てるだろうし、
お互いいいこと尽くめだ。
というわけで、改めて提案させていただきたい。
いい加減「世の中は顔だ」と認めてはいかがでしょうか?
中高時代から友人はなく、いたとしても学校生活を送る上で必要な会話をするための人が何人か、
当然学校外では付き合いはないので遊び相手はいなかった。
一時期はそんな一人の状態が嫌で仕方なかったが、いつからか一人でいる時間も嫌いではなくなっていた。
むしろ一人でネットをしアニメを見てゲームに没頭する時間は好きなものとなり、孤独な学校生活を乗り越えるために必要なものになっていた。
ただ一人の時間が嫌なものでなくなっても、たまに無性に人(異性・同性問わず)との接触が恋しくなった。
大学に入ったらこの状況変えてやる、と思うようになって、
そのためには世間で言う良い大学に入ろう、人との付き合いのためにももう少し趣味の幅を広げてみよう、とか考えていたから
勉強は真面目にやったし、ネット・アニメ・ゲーム以外の趣味も始めてみた。
その結果、大学のランクとしてこれ以上はそうそうないようなところに入れた。
ここから変わるはず、と思ったが問題はそこからだった。(手段が目的になってたの典型・・・・)
結局中高と人との関係を上手く築けてこなかったんだから大学へ入って急に変わろうとしてもそうはいかず、対人関係はあまり上手く行かなかった。
実際変わろうとしたとき、自分の殻を破るようなことをするのが怖くなっていた。
良い大学に入ろう、っていう漠然とした目的でここまで来たから大学で学びたいこともない。
大学から逃げたところでどうにもならないから抜け殻のような状態で毎日講義を受けている。
最近何を思ってか某SNSで小中高の同級生たちのページを検索した・・・。
みんな日々が充実しているように見えて眩しかった・・・
同じ場所にいたはずなのにどうしてこんなにも違ってしまったんだろう・・・・
欲しかったのは学歴なんかじゃないのに・・・・・
彼らと同じようになりたいわけではないけど、・・・・これからどうすればいいんだろう・・・
年齢は昭和生まれってことで勘弁して欲しい。
疲れちゃったんだ。学校生活が特に。
自分自身は1~2年は学級委員、現在3年では体育委員として色々やってきたつもり。
学年全体がまとまっていなくて必要書類、学年の取りまとめ役は自分が中心に行っていた。
学年の日本人の中では一番上で、担任からの依頼も有り1~2年は体育委員が機能しないことも有ったから体育委員の役割(体育祭・球技大会のメンバー決め)もしていた。
でも自分の力が足りないからなんだろうな、他の学年(特に4年生)からは「3年の体育委員が仕事ができない・無能だ」と陰でいわれてるのも文芸部の部長経由で知ってる。
クラス内からは責任の無い人といわれ、他の教員からも3年はまとまりが無いと叱責だってされている。
ま、しょうがないよね。大人だもん。
それが現実だから、先生に状況を吐き出しても「大人だから我慢しなさい」で終わっちゃう。
後、あるクラスメートの自殺相談なども担任に投げても援助が無いため私が1年半やってました。
大人としての責務ですし、何とか関係機関につなげようとしましたが失敗、そしてPSWの判断等も有り接触をかかわるのをやめました。
実は、学年の取りまとめ、担任補佐をしてたためのバーンアウト(燃え尽き症候群)は自分の通う病院のPSWから指摘される。
1~2年の先生はそれ以外にみんなの出席状況など1人1人まとめたりしてみんなが学校に来やすいようにしてた。
自分もクラスの一員としてできることとか言うとさ、先生の補佐とかしかない。
ホント居心地のいいクラスにできなくてごめんなさい。
他の学年の皆さん3年生、うるさくてごめんなさい。
昨年、このバーンアウト他ストレスPTSDのフラッシュバックなどごっちゃの引き金で解離健忘を起こしその間に学校行事中に私が自殺未遂を行うと言う状況も発生しました。
ま、これは全部私が悪いのですが。
あとね、全日のみんなには本当に申し訳ないなーって思ってる。
だってさ、全日のみんなも大変じゃん?先輩には東大・早稲田・お茶水が居るような学校。
むしろそれが売りの県立校だから、受験勉強だって大変だと思う。
なのに午後5時ぐらいから定時性が教室を使うから教室を明け渡さなくちゃいけない。それ苦痛だと思います。
何とかする力は流石に私一生徒なので有りません、ごめんなさい。
放課後、教室で語り合う時間を奪っちゃってるよね。本当にごめんなさい。
それに、うちらの学年って教室使い方汚くて朝着たら嫌な思いしてないか不安。
最近私も疲れていて帰宅前の教室清掃まで時間が回ってません、ごめんなさい>全日の2年生へ
でも今、投げたらまずいからね。何とか生きていかなくちゃって思うのだけれども学校に行けない。
行こうとすると吐いてしまう。其の関係で免疫力下がって風邪ひいて治りづらくなっている。
とりあえず文芸部の先輩が卒業する・職業訓練が終わる来年の3月までは死んだらまずいなって思ってる。
だから死なない、死ぬ前に学校を退学してそして一応就職して訓練校の人たちも安心させないとね。
彼氏は一応居る、だから分かれるときにはもう二度と好きになれないぐらいに嫌いに案ってもらおうって思ってる。
大切だけれども死んだ後後悔して欲しくないのもあるから。
そういうことで、まだやるべき「さよならに向けた後処理」があるから
すぐ死ぬわけには行かないけれども何故自殺を考え覚悟にいたったのかは書いておこうと思ったので書いた。
でもまぁ気が変わって実行予定過ぎても生きてるとは思うんだけど、でも今もう限界だって言う吐き出し。
# vironviron 2010/08/17 00:37 「はてなキーワード作成・編集ガイドライン」で禁止されている「他のはてなユーザーにとって有益といえない 」「自分で勝手に作った造語、自己紹介」「宣伝を目的としているキーワード」に該当すると考えられるため。 # kaiser_kentokaiser_kento 2010/08/28 12:45 kaiser_king氏は、あくまで「初めて知る人のために作成した」と言っている。 # vironviron 2010/08/28 23:40 「初めて知る人のために作成」することを宣伝と言う。 # kaiser_kentokaiser_kento 2010/08/31 00:41 キーワード作成意義1.に該当。ついでに言うならこれは特殊なキーワードを入力しない限り表示される事はない。よって宣伝ではない。キーワード削除適切3.の前半、「自社名、自社商品名の登録自体は禁止されていない。」ため。造語ではあるが、別サイトではこのシリーズに関して、著作物を使用した際、著作料金を支払って貰っているため、合法的には商品になる。よって削除はされない。 # kaiser_kentokaiser_kento 2010/08/31 00:47 削除キーワード3.前半「自社名、自社商品名を登録すること自体は禁止ではない」ため。 # kaiser_kentokaiser_kento 2010/08/31 00:51 本シリーズに登場するメガネタワー、キャラクターは皆個別商品である。削除キーワード3.「自社名、自社商品名を登録すること自体は禁止ではない。」ため。 # vironviron 2010/08/31 10:59 宣伝目的を根拠とした削除を提案しており、商品であるかどうかは問題にしていない。文字列の一致によって表示されるのははてなキーワードの基本的な仕様であり、宣伝目的ではないという主張の根拠とはならない。 # kaiser_kentokaiser_kento 2010/08/31 21:49 確かに、この文章は宣伝目的以外に制作されたとは言えない。だが、それならば、削除キーワード3.前半と矛盾する。そうならば、有った方が良い。はてな企画係れいこん氏も、「キーワードは沢山有った方がいい。」と発言している。 # vironviron 2010/09/01 02:21 宣伝目的による登録である点で編集者同士の意見が一致しており、削除すべきでない理由が見当たらない。登録者自身と関連するキーワードの登録自体は禁止されていないといえども、「内容が自己宣伝的である場合は宣伝行為に該当」するとガイドライン上でも明記されており、論理的矛盾は生じない。 # kaiser_kingkaiser_king 2010/09/01 10:47 私はこの文章を自己宣伝目的で作成したのではなく、「このシリーズを知っている方々がこのシリーズに関しての詳細を得られる」ように、作成した。文章もその様に構成されている。もし貴方が「自己宣伝的だ。」と発言するのなら、この文章のどの点において、その様に読み取れるのか、明確に説明して欲しい。そうしない限り、私はこの文章を自己宣伝的と認めない。 # vironviron 2010/09/01 11:10 id:kaiser_kentoは2010/08/31 21:49付けコメントで「の文章は宣伝目的以外に制作されたとは言えない。」と書きながら、直後の2010/09/01 10:47付けコメントで「私はこの文章を自己宣伝目的で作成したのではなく、」と書く。議論に一貫性が微塵もなく、編集意図の説明として信頼性に欠ける。編集者の説明義務を果たしているとはいえない。 # kaiser_kingkaiser_king 2010/09/01 11:26 私は彼、「kaiser_kento」氏とは全くの別人である。私事だが、iDが似ている理由は、私のiDを彼に貸しているからである。 # kaiser_kingkaiser_king 2010/09/01 11:31 私が今言いたいのは、別人ならば、意見がち一致しないのは当たり前と言うことだ。 # vironviron 2010/09/01 19:14 失礼した。誤解に基づく判断であったため、前記の論理的一貫性を欠くという文章以下を撤回する。その上であらためて、「はてなキーワード作成・編集ガイドライン」で禁止されている「他のはてなユーザーにとって有益といえない 」「自分で勝手に作った造語、自己紹介」「宣伝を目的としているキーワード」に該当すると考えられるため削除を提案する。認知度が低く第三者による言及が期待し難い、自作キーワードを登録すること自体が自己宣伝的でありキーワードとして共有するには不適切と考える。 # kaiser_kingkaiser_king 2010/09/01 21:36 「認知度が低い」と貴方は発言したが、貴方が思考するよりはこのシリーズは人気が高く、「うごメモ町」を知っている方ならば誰でも知っているはずである。(補足 「認知度が低い。」と言うのは、即ち「人気が無い。」と転換できる。シリーズ制作者に対して失礼ではないか?)もう1つ10:27で私は「知っている方々が詳細を得られるように作成した。」と発言したが、この文章を作成した理由は、もう1つある。この文章を作成する先日、あるはてなのサービスにより、「このシリーズをキーワードにした方がいいか。」という内容の質問作品もう(削除した。)を投稿したところ、70人中70人全員一致で「このキーワードを作成して欲しい。」という意見が出たものによる。つまり、「少なくとも私個人のための、宣伝目的のために作成したのではない。」と言える。 # vironviron 2010/09/02 10:56 登録されているうごメモ作品「メガネタワーは今日も高い。」シリーズを確認したところ、9月1日現在閲覧数は平均54.7、最高はNo.16の87であった。うごメモ町チャンネル人気順ページに掲載されている作品の閲覧数は最低が471、最高 9,731という水準と比較するに、認知度が高いという登録者の主張には重大な疑念が生じる。削除済みのアンケート結果を引き合いに出されても確認できず、信頼性に乏しい。 # kaiser_kingkaiser_king 2010/09/02 19:40 閲覧回数が変化している理由は、主に2つあげられる。1.数日間作品を投稿しないため、作者ランキングが低下。中には、ランキングで決める方も居て、それによるNo.の閲覧回数の急激な変化。2.私個人は、学校生活のため、時間が少なく、夜に制作。明朝に投稿するため、あまり見てくれる方が居ず、時間が経過すると後方へ押されてしまうことによる閲覧の困難な状況。 # vironviron 2010/09/03 00:26 id:kaiser_kingによる 2010/09/02 19:40付けコメントは閲覧回数が少ないという削除の根拠として挙げた事由を確認するものであり、認知度の低さを裏付けるものである。削除すべきでない理由が見当たらない。 # kaiser_kingkaiser_king 2010/09/03 10:30 私は、閲覧回数が全てでは無いと考える。サムネイルだけでも見たことが # vironviron 2010/09/03 11:30 だから何?作品毎の閲覧回数が少なく、また作品毎の閲覧回数が登録のタイミングで大きく左右されるという事実は、作者も作品も認知度が低いことの証左である。サムネイルだけ見たことのある人に内容紹介するというなら、まさに自己宣伝目的である。 # kaiser_kingkaiser_king 2010/09/03 13:55 失敬。タイプミスをしてしまった。もう一度記載する。 「サムネイルを見ただけの方はアンケートはご遠慮して下さい。」という条件の本、アンケートを実施したため平均的に70人の方が閲覧している事となる。現在、物理的に根拠は無い。が、コメントを送信された方のユーザーネーム、及びはてなiDは私がカウントしている。そのため、この様な事が発言できるのだ。貴方は、私の発言に対し、自分の独断と偏見で削除を依頼するのならば、傲慢として、はてな側に通報させて頂く。 # vironviron 2010/09/04 00:12 id:kaiser_king は2010/09/01 21:36付けコメントで「「うごメモ町」を知っている方ならば誰でも知っているはず」と認知度の高さを主張しているが、少ない閲覧回数との矛盾を説明できていない。認知度の高さを裏付ける事象は確認できず、信頼性に乏しい。サンプル数の絶対的に少ないアンケートで認知度の程度を測定できるとも思えない。また、認知度の低い作品に関してのアンケート結果にどれほどの意味があるのか、その有効性にも疑問がある。肝心のアンケート自体が削除済みで確認できないとなれば尚更である。キーワード削除に反対するid:kaiser_king の主張は信頼性に乏しく、反論は説得力に欠ける。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E1%A5%AC%A5%CD%A5%BF%A5%EF%A1%BC%A4%CF%BA%A3%C6%FC%A4%E2%B9%E2%A4%A4%A1%A3?kid=300716&mode=edit