はてなキーワード: 多神教とは
http://umiurimasu.exblog.jp/12210453
多神教がどうとか、食文化がどうとか、本当にくっだらないと思う。ちゃんとラヴクラフト嫁と思ったのでつらつらと書いてみる。
ラヴクラフトのクトゥルー神話が「ホラー」であるのは、「おれたちの信じているキリスト教の神さまの他にも神様がいるなんて!」ということではない。
ラヴクラフトのクトゥルー神話が「ホラー」であるのは、「自分の信じていた世界観はじつは嘘っぱちだ」ということにある。
例えば、俺は生きてメシをくって仕事をしてSEXをして子どもを育てるわけだ。
俺は日本という国に生まれて、その文化や自然や人々の共同体を愛しているわけだ。
そんな平凡な俺っちが、クトゥルーという存在を知ってしまうと、その全ては無価値なものだということに気付く。
日本という国も、そこで千年だか二千年だかの間にはぐくまれてきた文化というやつも世界全体から見た場合には実は無価値なのだ。
俺たちの人生や世界というものは、いってみれば犬の毛の中に住むダニたちが作り上げた世界と同じようなものだ。
それらは、クトゥルーがちょっと身じろぎしただけでも崩れ去るわけだし、今自分たちの所属している世界観が崩れ去ることは予め決まっている。
自分が生きていることも、生きて何か仕事を残したとしても、子孫を作ることも育てることも、それはすべてクトゥルーの前では無価値なのだ。
そういう認識に立った場合、俺は自分の存在することの意味が見いだせなくなる。
じぶんがここに存在することも、自分の子どもが存在することも、自分の親が存在することも、自分がなにかに努力していたとしても、何かに幸福を感じたとしても、それは全て意味がないのだ。
自分が拠って立っていた世界観が崩壊して、たったひとり、自分が何者かもわからなくなって虚空に落ちていく感覚。
おれ、大学のときラヴクラフト全集3冊読んだぐらいだから間違ってたらすまん。
それは魚介類だとか、自分の信仰だとか、そういうのとは本当にまったく無関係に「怖い」とおもったし、救いようのないアンハッピーエンドで終わる「セカイ系」のラノベ短編集みたいな感覚で結構面白かったよ。
http://umiurimasu.exblog.jp/12210453
この記事のブクマ(http://b.hatena.ne.jp/entry/umiurimasu.exblog.jp/12210453/)が300を超えたので、逆張りというか、疑問に思った2点、『アメリカ人は本当にタコが嫌いなのか?』『「怖い」という感情に「一神教」と「多神教」は関係あるのか?』ということについて、考えてみる。
ブログ主のumiurimasuさんに対する反論というよりかは、ブックマークコメントの傾向に対する反論である。
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>>ちなみに、魚介類を食べるのがあたりまえな島国文化圏の人からすると、アメリカ人のタコ嫌いというのは、それこそ冒涜的なまでに理解を絶する感覚ですね。
イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、韓国……などの国々は島国ではなく半島国だが、タコを食べる。中国でも食べる。
また、アメリカには昔からイタリア系、スペイン系、ギリシャ系、中国系の移民は多かったし、ポルトガル系や韓国系も少なからずいた。彼らはアメリカでも昔からタコを食べる。
しかも、いまでは寿司や日本料理、イタリア料理やスペイン料理、ギリシャ料理や中国料理はすっかりアメリカ全土に定着した。だから、イギリス系やアフリカ系のアメリカ人でもタコを食べる人は多い。
なので、これは「アメリカ人のタコ嫌い」ではなく「ラヴクラフトのタコ嫌い」にするべきではないか。
「昔のWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)のタコ嫌い」にしてもいいような気もするが、やはり、「食べない」からって「嫌い」には直結しない。
タコが全面的に禁忌(「食べてはいけない」)とされているのはユダヤ教であり、キリスト教では一部の宗派のみ。
そもそも、「アメリカ人(あるいは、欧米人)はタコを悪魔の使いとして忌み嫌っている(忌み嫌ってきた)」という説は日本に広く流布されているが、本当なのだろうか。
この説の傍証は、タコは英語で「devil fish」と言われること、および、「クトゥルフ神話」や「宇宙戦争」などでタコが人間に敵対する悪役として描かれているから、ということである。
まず、「devil fish」であるが、現代のアメリカでタコを示す言葉のうち、一般的に使用されるものは「octopus」である。
「devil fish」でgoogleの画像検索をすると、真っ先に表示されるのはエイの画像で、タコが出てくるのは10番目以降である。
さらに、「devil fish」だからといって「タコ=悪魔」だと思っているとは限らない。
すくなくとも、エンゼルフィッシュを天使だと思っている人はいないだろう。
クトゥルーにタコが出てくるのはラヴクラフトが(個人的に)タコが嫌いだったから。
「宇宙戦争」の火星人がタコなのは、原作者のウェルズがタコを怖がっているからではなく、「火星は重力が少ないから頭が大きくなって手足が退化して、タコになる!」という疑似科学的な理論のため。
「インデペンデンス・デイ」などの宇宙人映画でも宇宙人はタコとして描かれていることがあるが、それは「宇宙戦争」(と、もしかしたら「クトゥルー神話」)へのオマージュのためではないか。
というわけで、「アメリカ人のタコ嫌い」という言葉は、「伝統的なアメリカ人」と「最近のアメリカ人」、「主流派(WASP)のアメリカ人」と「少数派のアメリカ人」のタコに対する態度の違いなどを考えたうえで使うべきであると思う。
アメリカ人が日本人に対して間違ったイメージ(「忍者、ゲイシャ」「エコノミックアニマル」「イエローモンキー」)を抱いていることが多いが、それと同様に、日本人がアメリカ人に対して抱いているイメージも、その多くは間違っている可能性がある。
さらに、「アメリカ人」という言葉が文化論において使われるときは、WASPを指すことが多く、黒人や黄色人種、アフリカ系アメリカ人や先住アメリカ人、カソリックのヨーロッパ系アメリカ人などを無視する場合が多い。
たしかに、一面では、アメリカの主流文化はWASPの文化であるが、マイノリティの文化の一部が主流になることも多いし、WASPの文化とマイノリティの文化が影響しあってできた新しい文化が主流になることもある。
だから、「アメリカ人」という言葉をつかうときは、その言葉はいったい何を指し示しているのか、自覚的になるべきである。
このような問題(主流文化とは何なのか?「〜人」は何なのか?)は、移民国家である「アメリカ」を論ずるときには特に注意されるべきだと思うが、日本やイタリア、中国やブラジルや南アフリカ共和国など、どこの国を論ずるときでも、注意したほうがいいことである。
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ブログの記事内では、『ともあれ、そうした文化的理由でクトゥルー神話を本来あるべきように怖く感じられないのだとしたら、やはりちょっと残念です。アメリカ人はほんとうに、日本人よりも怖さを感じているのだろうか。それとも「いや別に、全然怖くねーよ」という感覚なのか。アメリカ人に直接聞いてみないことにはどうにも。』や『こういった反応、恐怖の感じ方がひどく違うことについて、どこまでが個人の感性でどこまでが文化の差異によるものか、きちんと切り分けができたら面白かろうなあ、と思いながら読んでいます。』と書かれていて、慎重な姿勢が保たれている。
しかし、ブックマークコメントでは、「キリスト教文化圏では、何を考えるにも常にキリスト教の神を超越者・絶対的存在としていちばん上に置くというものの見方が根底にある」や「日本人の場合、神も仏も混ぜこぜに、かつあいまいに信じていて、絶対的な何かを世界観のよりどころにしていないからでしょうか」という文章ばかり注目されている。
そもそも、欧米の文化や芸術作品・物語が紹介されるときには、「キリスト教的」「一神教世界観」などのマジックワードを持ち出し、日本の「多神教的世界観」と対比させて論ずることが多い(そして、往々にして、「多神教的世界観」の方が寛容で複雑で高度なもの、と優劣をつける場合が多い)。
しかし、例えば日本の文化や芸術作品・物語についても、「神道的」「仏教的」「多神教的世界観」だけでは論ずることはできないだろう。
文化や芸術作品の成立には、もちろん宗教や世界観も大きく関わるが、それだけではなく、自然環境・経済的環境・歴史・政治・偶然など、様々な要素が関わっているはずである。
また、フィクションに対して「怖がる」という反応は、宗教よりも時代と個人的な経験に左右されるものである。
ホラー小説の「人を怖がらせる」技術は年月を重ねるにつれて蓄積されるものであり、現代のホラー小説は過去のホラー小説より「怖い」、ということは一般論として言える。
スティーヴン・キングの作品は、ラヴクラフトの作品と同じくアメリカ人の作家によって書かれた、キリスト教的世界観の影響の強い作品であるが、日本の読者でもスティーヴン・キングの作品を「怖い」と思う人は多い。
「雨月物語」は過去の日本人作家によって書かれた作品であるが、そこに収録されている「吉備津の釜」は江戸時代の日本人が読んでも「怖い」と感じたであろうし、現代の日本人が読んでも「怖い」と感じる人は多い。
しかし、現代の日本人である鈴木光司によって書かれた「リング」は、おそらく「雨月物語」よりも多くの日本人読者を怖がらせると思う。
だが、スティーヴン・キングの「シャイニング」や「クジョー」と鈴木光司の「リング」のどれが一番「怖い」か、ということは、現代の日本人でも読者によってそれぞれ違う。
さらに、「リング」はアメリカ人が読んでも「怖い」という評価を得ている。
ここにラヴクラフトを代入すれば、ラヴクラフトが「雨月物語」よりも怖いと思う日本人もいれば、「リング」がラヴクラフトよりも怖いと思うアメリカ人もいるだろう。
彼らの「怖い」という感情には、多少は「一神教的世界観」「多神教的世界観」が関与しているかもしれないが、それよりも個人的な趣味や感性(「ホラーに慣れているかどうか、じわじわとくる恐怖に弱いかびっくりさせるような恐怖に弱いか」「日常的な恐怖に弱いか、非日常的な恐怖に弱いか」などなど)の方が強く関与しているだろう。
つまり、ホラー小説の話題で、「キリスト教の世界観」「多神教の世界観」にばかり注目するのは、適切ではない。
また、ホラー小説の話題に限らず、欧米の文化や芸術作品・物語について考えるときに、「キリスト教」「一神教的世界観」に還元させるのは適切ではない。キリスト教の影響はあるかもしれないないかもしれない。あったとしても、強いかもしれないし、弱いかもしれない。
「一神教的世界観」というマジックワードで説明されることで、安易に「理解した」と思いこむのではなく、宗教や世界観以外の、他の側面からも考えることが必要である。
ユニクロ柳井氏 「日本国民は自分に不都合な情報には耳をふさぎ、過去の栄光に自己満足している滑稽な国民」「驚くほど能天気」
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1291803726/
日本の労働者の人件費を新興国の労働者並みに下げる策(非正規社員の拡大)が格差社会というスローガンと共に批判されて頓挫、他国に企業拠点を移転する方向に変更されつつあるのが現在。
日本の宗教観は神道(多神教)と仏教(無神論)が神仏習合して築き上げられただけではない。
このエントリとこのまとめブログに触発されてダラダラ書いてみる。
既に至る所で言われている事だが、日本人は自国を言葉で説明できない。
例えば「帰属している宗教は何だ?」と言われて何も考えずに「無宗教です」と答えて外国の人々から怪訝な表情をされる例は枚挙に暇がありません。
宗教はその人間の思考形式や価値観や、その人間が母国としている国の文化を基礎づけています。
キリスト教徒だから、こういう行動をする傾向があり、こういう話題をタブー視するんだな、と宗教を通じて外国人は異文化に属する人々とコミュニケーションを取ります。
無宗教と言われたら、その人間の何を信用していいのかわかりません。不審な動きをしたらすぐに射殺しないといけないかもしれない。
神道と仏教が日本文化に多分に影響している主要宗教ですが、日本に属さない人々と接した事が少ないせいか、
日本人は自らが何故このように考えて、このように行動することを望ましく思うのかを意識することがありません。
なぜ食事を終えたらご馳走様と言うのか。なぜ年長者を敬うのか。なぜ議論を嫌がるのか。
なぜお盆というものがあるのか。なぜ死者の死体を墓地から掘り起こして晒し者にしてはいけないのか。
外国人は勿論わからない。日本人が暗黙の了解としている事項が全くわからない人間にどうやって説明しますか?
このように日本社会は言葉で説明しなくても理解して貰えるという甘えによってコミュニケーションを省力化しています。
だから、まったく異なる価値観を持った環境にいた人間が理解できず、コミュニケーションを取ることも覚束ない。
外交戦略を描けないのは諸外国の価値観と自国の価値観の間にあるズレを理解できないために、相手の意図と思考が理解出来ないため。
このような日本になってしまったのは、個人的には歴史的にやむを得ないと考えていて
日本はシルクロードの東端に位置する地理条件から、西(欧州中東中国インド朝鮮等)の文化が頼まなくても勝手に日本に流入する環境下に置かれ、
かつ文化を伝播させる先が存在せず他者に文化を伝える必要がなかったため、
マニアックに文化を掘り下げる事は出来ても文化を他者に言葉で説明する技能が身につかなかったからと私は考えています。
神仏が習合した多神教の宗教意識によってあらゆる一神教文化と衝突せず、
平仮名片仮名漢字という複数の文字体系を持った日本語の持つ異文化摂取能力の突出した高さに助けられて
神道と仏教に限らずゾロアスター教や他宗教の影響も日本文化に残りました。例えるならあらゆる具材を投入して長時間煮込んだシチューのようになっています。
具材が原型を留めないほどに煮込まれているため、日本人自身が過去にどんな具材を投入してシチューを作ったのか説明できません。
異文化コミュニケーションとは、どんな具材を入れて日本文化というシチューが出来ているのかを説明することです。
世界で最も複雑で面倒な作業になりそうですが、それが出来ないうちは今後も外国人とのコミュニケーションに齟齬を生じ続け、
このコミュニケーション不全は国家間のコミュニケーションに限らない。日本社会内でも暗い影を落としています。
例えば、学校を出て新卒就職しなかった人間を企業内部にいる人は理解できません。
個人的な経験を語るなら、増田は「28歳ならこれくらいの仕事が出来ないといけないのに」と言われた事があります。
当時、就職が無かったので大学卒業後に資格試験受験生になった増田は、法科大学院への制度変更を機に資格試験を断念して
27歳なのに実務未経験という状態で就職活動を始めました。なぜこのような人間が存在するのか、と複数の企業の人事担当者から好奇の目で見られたのを覚えています。
冷静に考えればそんな人間はどこにでも居て、発生し得るのですが、日本社会は言葉で説明しなくても理解して貰えるという甘えがあるので、
20代後半で仕事に関する細かいことを説明しないと理解してもらえない人間は企業に居てほしくないのです。
また、結婚をしないで仕事に生きる女性を日本社会は理解できません(これは既卒に対する扱いよりマシになりましたが)。
デリカシーの無い人は女性に向かって「彼氏はいるのか」「この年齢で独身なんて将来どうするつもりなのか」と言います。
家事ができない女性は未だに望ましくない存在として見られます。喫煙する女性も同様です。
ここでも日本社会は言葉で説明しなくても理解して貰えるという甘えがあるので、不遇な扱いを受けた女性がクレームをつけても言葉で説明することができません。
なぜ老人は若者を理解出来ないのか、なぜ日本企業は株式公開しているくせに外国の機関投資家が株を買うのを嫌がるのか、などまだまだ例はありますが、
日本社会が価値観を異にする他者を存在しないものとして扱う事で成立している事がわかります。異文化コミュニケーションなど不可能と言わざるを得ません。
外国から相手にされる国になりたければ、現在の国内問題(雇用問題、世代間格差、出生率低下など)に対処したければ、
自らを知って語れる存在になるべきです。そうすれば自らの問題を直視できるし、他者の思考が理解できるようになるでしょう。
「空気を読め」は、その言葉を発した人間・その言葉を重用する組織のコミュニケーション能力が低レベルである事を証明する言葉であると考える事から始めるべきです。
有名な神はイエスキリストが作り出した、全ての責任を転嫁させる抽象概念のこと。
科学などが発展していない時代に、この世の因果関係や現象を説明するのに全て神様が○○したと話したことから生まれたのだと思う。
あるいは、盗んではいけないといった共同生活するうえでの規律などを守らせるための、共通認識としての役割のために生まれた文化的な装置なのだと思う。それゆえに、神は絶対ですべてのルールでありうる。だから、神に祈れば絶対の神が助けてくれるし、悲しみも癒してくれる。一神教では、多かれ少なかれこういった類。
日本の神道や原始宗教だと多神教だけど、基本は一緒。太陽が街を照らすのは太陽の神様のおかげ。
雨が降るのは雨の神様というような・・・。とまぁ、それっぽいことを書いてみた。
横だけど。
否定するわけではないけれど、それって一神教のひとが異教を受容するある典型という気がする。
神々がひとつの聖なるものの現れ、という図式は、やはり一神教の図式であると思う。
諸々の神々は、ただ威力ある聖なるものであるという共通点を有するだけであって、勿論、それらの間には血縁などの関係はあるかもしれないが、
密教なんかはそのへん一神教的で大日に集約されてしまうところはあるけれど。
たとえばお父さんと私は血縁があるし、系譜的な連続性も、人間であるという共通点もあるが、
だからといって、祖父が、或るレイヤーにおいて、お父さんであり、かつは私でもある、などとは誰も考えない。
わけみたま、の観念をそういう本体=表現つまり、ほんちすいじゃく的にとらえるのもあるかもしれないが、やはり違うと思うわけで。
みたまをわけたら、わかれちゃうんだとおもうんだよなあ。
うーん、ただ「かんなぎ」とかでも出てきたけど、普遍的な本体たる神はいないにせよ、そういう本体論的な統一の関係にあるわけみたまの関係の
観念もある気もするし、どうなんだろう。
ちょっと話したいことがあるから会わない?と誘われた先日。頻繁というほどでもないけど、一ヶ月に一度は飲みに集まってる友だちだったので二つ返事でOKした。喫茶店で落ち合い、このところのことなどひとしきり話したところで、「ところであんた、月末何か予定あるの? 実は私、応援してる政党があってね。」と。
出たな学会員!というのが、その瞬間の正直な感想。まさかこの発言から、別の政党がくるとは思ってない(あっても幸福実現党か、共産党だろう)。案の定「公明党なんだけど。」と。その子は以前私がファッキン創価学会!と発言した時に「創価にもいい子いるんだよ、友だちにいるけど。」と言ってたので、グレーなのかなとは思っていた。政教分離の原則をガン無視してるとことか、しつこすぎる勧誘、F票集め(以上二点はこれまでに遭遇したことないけれども)、芸能関係にはびこるお遊戯会状態に反感を抱いているので、私は学会嫌いを公言してはばからない。
この時点では完全に彼女の話を聴く気が失せてしまった。というか、これからこの子とどう付き合っていこうかと考えていた。繊細で、思いやりのあるいい子だ。共通の趣味でよく盛り上がるし、年下の私になついてくるのがとても可愛い子だ。距離を離すか、フェードアウトか、カットアウトか。沈黙とともに態度を決めかねていた私に、彼女は熱心に、公明党がどんなことをこれまでに実現させてきたのかを語った。「こんなことを考えている公明党を、私は応援したい。だからあんたにも、投票してくれとは言わないけれど、偏見やマスコミの報道だとかに惑わされないで、ただ知ってほしいんだ。」と、続ける。ゴリ押しされると思ってた私は、若干拍子抜けした。「考えてみるわ。」と、曖昧な返事をしてしまったチキンな私に、彼女は嬉しそうだった。
それからしばらく、宗教の話をした。私は宗教と神様は、人が幸福になるために人が生み出したものだと思っている。そして神は押しつけられるものではなく、自分で見出すものだ。ので、「布教される」ことに対して私は否定的でいる。もちろん布教活動ってのは、「こんなにも自分を幸せにしてくれたこれに参加してもらうことで、あなたにも幸せになってもらいたい!」っていう純粋な願いが根本にあってのものだ、というのは理解しているけれども。だって私は私であり、あなたはあなたなのだ。私はもう、音楽っていう神様を見つけてしまっている(個人的に、音楽というのはたくさんの神様を抱いた多神教だと思っている)。あなたが学会という信仰を持っていることは否定しない。ただ、そうなんだね、と思うだけ。県民の友だちが先日の都議選で、「都民の友だちに公明党に入れてくれるようお願いして」「何区の人が何人いれてくれた?」とお願いメールを山のように受けてうんざりしていた。もしあんたがそんなふうにゴリ押ししてくるようだったら、友だちを止めようと思った。けれども、考えて欲しいとだけ言うのでびっくりした。考えるだけの私をそのまま認めてくれたので嬉しかった。これからも友だち付き合いを続けていきたい。
というようなことを話した私に、彼女は、あんたが受け入れてくれてよかった。本当は今日、こうして話をするのはとても怖かった、と、言った。日本では信仰を持つというのは、それだけで差別を受けかねない。あんた(私)が、そういう考えを話してくれる人でよかった。私は私、あなたはあなたっていうあんたの姿勢を、私も否定しない。考えてくれる、ただそれだけでいい。
きっと彼女の周りには、第三者視点で見ても善良な活動をしている学会員しかいないのだろう。ネットでよく語られる、狂信的な人々はいないんだろう。だから、柔らかい姿勢のままでいられる。
私の返答は、正直ではなかったかもしれない。卑怯な部分が多分にあったかもしれない。けれどもなんだか彼女と前より少しわかりあえた気がして、嬉しかったのだ。
しかし彼女は、世間的に思われている学会の姿や、彼女が言う「一部の人たち」(私の言う狂信的な人たち)がどれだけの数いるか知っているんだろうか。何故信仰しているんだろうか。音楽業界で働いていたあなたは、学会ネットワークで決まってしまう仕事がたくさんあることについてどう考えているのか。その辺りを避けて会話してしまったのが心残りなので、いつかまた話し合えたらいいと思う。
政治と宗教を分けなければならないというのは、必ずしも普遍的な真理ではない。もともと、政治と宗教は一体のものだった。
ただ、キリスト教とイスラム教や、新教と旧教の対立によって、弾圧や戦争が絶えなかった西洋世界から出た、約束事に過ぎない。
東洋の宗教は、仏教にしろ、道教にしろ、日本神道にしろ、基本的に多神教であって、他の宗教に対して寛容なものが多かった。だから、大きな対立は無く、「政教分離」という考え方は生れなかった。
「政教分離」というのは、キリスト教が偏狭、または未熟であるが故の方便に過ぎない。
日本では、開闢以来、祭政一致が当り前であった。戦後、有無を言わさず政教分離を受け入れさせられただけ。
政教分離については、以下の文書に尽されている。
例えば、
6 「信教の自由」に関する問題点
第二十条のつくり方は、かなり混乱を呼んでいる。「学問の自由」と同様に、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」だけでよいのであり、あとは法律でつくればよい。「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」というのは、もとは国家神道のことを意図してつくったものだが、条文を正確に読めば、天皇制自体も、これに当たる。
また、第八十九条は宗教の範囲を制約して縛るものである。「信教の自由」の下に言うならば、政治的な宗教も、政治的ではない宗教も、当然ありうる。「政治は、宗教的なるものを、一切、反映してはならない」というならば、それは唯物論国家である。
要は、信教の自由と政教分離規定が矛盾している、というのが幸福実現党の主張である。憲法が禁止しているからこの種の主張をしてはならない、とするならば、同様に憲法第九条の改正の議論もできなくなる。憲法の方が間違っている(というか、憲法自体が矛盾している)と言うこと自体は、違法でも何でもない。
それから、
2 憲法は何を守ろうとしているのか
第九十九条の条文は、憲法遵守の義務は国民にあるのではなく、公務員及び公務員の上にある天皇や国務大臣等が守らなければいけないとある。つまり、憲法は、主として権力者から国民の権利を守るためにつくられたもので、国民を縛りつけて、自由にさせないためにつくられたわけではない。
憲法を守らなければならないのは、支配者の側である。一般国民が守る必要はない。仮に当選して、議員として働くことになれば、その行動に於て憲法を守る義務は発生する。ただし、考え方や主張までは制限されない。
あと、よく、幸福実現党が天皇制を廃止を主張しているとか言う話も目にするけど、そんなことは一言も言っていないですから。寧ろ逆で、天皇制はあった方がよいと言っている。
天皇制自体は、何らかのかたちで遺しておいたほうが、日本の国にとってはよいだろうと思っている。ただ、外国から見ると、誰が元首なのか、誰が意思決定をするのかよく分からない。これが、日本が外国から信用されていない理由である。「内閣総理大臣に元首としての責任がある」と明確にするか、大統領制を敷くなどの、意思決定者をすっきりさせないと、日本という国は信用されない。
しかし、戦後日本の「宗教」に対する偏見は、抜きがたいものがある。信仰というのは、本来、地上で最も穢れのない、美しいものであるのに、全く逆のイメージを植え付けられてしまっている。GHQは、日本人のその驚異的な精神力の源を、信仰の力によると考えて、その背骨を抜いたのだ。信仰を持つ人は洗脳されている、なんて思ってるかも知れないけど、洗脳されているのは、無神論者の方なんだよね。
神仏は蔑むものではない、尊敬すべきものである。神仏の声を伝える正しい宗教家も、尊敬すべきである。これが世界の常識だと思う。
LeafのPCゲームソフト『君が呼ぶ,メギドの丘で』を中古で買って遊んでみた。RPGをやるのは久しぶりだ。戦闘バランスが厳しめで難しいがなかなか楽しい。ただ世界観に癖があり,混乱させられる。頭を整理するためにテキストに書き起こしてみる。
物語を抽象化すると,「人を恣に扱う無慈悲な神に対する反抗」となる。作中には聖書からの引用や十字架など,キリスト教的ガジェットがあふれている。また一部の登場人物の名もユダヤ/キリスト教的背景を暗示している(例:マリア,ヤハ (Yahweh⇒Yaha),ナタス(Satan⇒Natas),エレミアなど)。そのため,ともすればこの反抗対象となる「神」はユダヤ/キリスト教におけるそれのように思われる。
しかしそう素直に受け取るわけにはいかない。物語の終盤には,「神」が少なくとも2回代替わりしていること,そして先代・先々代の神は現在の神に使役されるだけの存在になっていることが示される。先々代は竜。「私の頃には神はたくさんいた」という竜のせりふから,これは原始多神教における神であることが推察される。そして,竜を征服した先代の神がヤハウェである。……ということはつまり,現在君臨している「神」はキリスト教のそれではない。
ニーチェ的に考えれば,古き神々を殺したのはキリスト教の神であり,そしてキリスト教の神は超人によって殺される。超人とは外在的な道徳に縛られず己の欲するところをなすものをいう。この図式をそのままあてはめれば,メギド世界において人々を苦しめているのは超人ということになってしまう。この視点を念頭に,「事実」を整理してみよう。
神々はメギド世界の創造以前から存在したとされる。現在の神は,先代を征服したのち,メギド世界を創造した。これには目的があり,人間の繁殖率を調査するためであった。神は自らの代理人を作成して世界を改変する権限を与え,創造の補助にあたらせた。役目を終えた後,代理人は権限剥奪ののち解体されて人間を生み出すもととなった。実験目的であることから,人間が一定の人口に到達したら自動的に世界を自壊させる仕組み(世界時計)が設けられ,また人間の生息域は砂嵐によって画定された。なお,代理人から生まれた人間の一部は,世界の改変権を剥奪されずに保持していた。彼ら(=救世主)ならば世界時計を停止できる可能性をもつ。幾度となく救世主を中心に遠征班が組まれ,世界時計に挑んだがいずれも敗退した。
こうした「事実」からもユダヤ/キリスト教的な神の姿はうかがえない。信仰ではなくデータをとるために人間を創造した。作中では繰り返し,神の不在が強調される。姿を見せず,導きも罰も与えず,人間を滅ぼすことすら世界時計に委ね,世界に対しては完全に無関心である。私が連想したのは,ライフゲームを実行する科学者だった。オブジェクトをメモリ上に展開すること,終了条件を定めること,実験が終わったらメモリを開放することに,科学者が罪悪感をいだくはずがない。個々のドットの動きに対して導きや罰を与えるなど思いもよらないことだろう。
主人公たちが立ち向かっているのは,案外,知を手に入れて超人となり,神に死を言い渡した「わたしたち」なのかも,と考えると少し楽しい。私がもてあそぶプログラムが,私に対して怒りや信仰をもっていたら素敵だ。
anond:20090209153228 以下の一連のエントリを読んで。
一神教の世界観と多神教の世界観は互いに相容れないものだという指摘は確かで、さらにお互いの信じる神が違うからという理由で戦争が起こったりする。
今の日本みたいに、無神論者達の国というのは世界的にみても非常に珍しいだろう。元増田が言う様な不安も分からなくもない。
けれども、神は結局人間が使うために作り出したシステムだ、という考えも出来る。
なにかとてつもない不幸に陥ったときに最後にすがるためのシステム。戦争をしたいがための理由付けをするシステム。そんなものなら、捨て去ってしまった方が、神を殺した方が良いのかもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20090120003918
モトマスダの科学をする人というのはいい着眼点。ブクマコメントの技術と科学の区分けが云々は、自分を特権化しすぎ。この議論のミソは、人は科学と技術を分けて話をしているのだろうかなので。
じゃあモトマスダをどう議論したら、説得力を持つのかということ。これはもう徹底的にコミュニケーションや行為に着目しちゃえばいい。
まず宗教って何?ていうのを観念的な一神教or多神教or云々みたいな話じゃなくて、デュルケム的に宗教とは事柄を聖/邪で区別し、聖堂に集まることみたいな、形に置き換えてしまうべき。現実には教会や寺にいかない人が増えてるとかあるけど。
じゃあ科学って何よ、といえば反証可能性やらパラダイムやらを持ち出さなくても、因果関係のもっともな説明をつくりだしていく過程で実は十分。傾向としてはよりシンプルな説明原理が好まれてるけどね。
そこで宗教を契機にしたコミュニケーションはいったいどういうものなのか。科学を契機にしたコミュニケーションはどういうものなのか。比較してみたらいい。
科学人類学とか科学についての社会学とかはそう言う分野。まぁ科学業界が宗教団体ぽいと示したら、他の組織と比較することが求められるんだけどねぇ。
ゲーム理論で「しっぺ返し戦略が最適」とされるのは、同じ相手と永久に付き合う場合であり
一回きりの付き合いであれば、攻撃が最適となる。
有限回の付き合いであれば、最終の対応は攻撃がベストとなる。
最期に攻撃されるのであれば、先手を打たなければならない。
他者は全て潜在的な敵となり、社会は崩壊してしまう。
という合理主義の行き着く結末を回避し、社会を維持してきたものが宗教である。
「死んだ後も魂はまだまだ続くよ!」と皆で信じることによって、
ライフゲームの「最後の手」を出させないようにするキリスト教やヒンズー教。
現世の人間関係の絶対性を徹底的に脳に刻ませる儒教、日本教、共産主義。
一神教vs多神教という差よりも、未来主義か現世主義かという差のほうが大きい。
そして危険性/安全性という観点や、タブーの多さという観点においては
どちらが優れているとも言えない。
一神教の根源的な問題とは一体なんなのだろうか。
どうあがいても、悪が「対生成」されてしまうことではないのだろうか。
自分たち = we を「善」とすると、自動的にあいつら = they が「悪」となってしまうのである。
(「人類最大の敵」 - 書評 - 人類は「宗教」に勝てるか http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51160646.html)
そう問いかけるid:dankogaiご自身は一神教なのか多神教なのか。当然多神教(あるいは限りなく無宗教)なのであろう。
んで彼は多神教を『we』と見なしてるのか『they』と見なしてるのか。
「一神教は悪の手先だ!世界を敵と味方に分ける危険な考え方だ!すなわち人類の敵だぁ!」
…ってこと? なんだ?そのブーメラン。
馬鹿じゃね?
気づかずにやってるとすれば馬鹿だけど、気づいてやってるとしたら悪質だ。
できればただの馬鹿髭だと思いたい。
あんまり気にしなくて大丈夫。
(韓)>でも敬虔なクリスチャンには、「イスラーム(?)が汚れの象徴の豚をキリストの聖女(主人公はジャンヌの生まれ変わり)に食わせようとしている」と映る。
手元にある「豚料理大全」にはフレンチの技法もイッパイ、なぜだろうねw
フランス人はレビ記や申命記の戒律(コシェルってヤツね)を嫌い、
以下、聖書はJSS版からの引用。新共同訳は探すのが面倒でね、すまん。
(旧約聖書)>
Gen 1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
Gen 1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
(韓)>ほかにもサブタイトルにいくつか性やら麻薬を連想させるものがあってアウト。
いやいや、そもそも聖書の記述が「性的恥辱を感じました」そのものだから。
(旧約聖書)>
Gen 3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
Gen 3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
(韓)>イブ=ジャンヌ=まろん(主人公)という設定も完全にレッドゾーンらしい。
(韓)>仏教の考えである輪廻転生がなぜか使われていたりする。
(韓)>「これはクリスチャンぶち切れるよ」とのこと。
まあ確かに魂の継承や輪廻という概念はキリスト教からみれば「異端」だけど
(少なくともプロテスタント、カトリック、ロシア正教、ギリシャ正教はそうだろう)、
reincarnation や karma という言葉が一般的なくらいに神秘思想も知られているよ?
そもそも輪廻は仏教思想じゃなく、元はヴェーダから来たヒンドゥー思想。
(韓)>たぶんイブは誘惑に負けてリンゴを食べた者なのに…。ってことかな?
イブが食したのが「リンゴ」であるという記述は聖書のどこにも書いてないw
確かにヨーロッパで「知恵の樹の実」は伝統的にリンゴだとされているけど、
創世記の最初の舞台メソポタミア周辺の気候はリンゴ栽培にあんまり向いてないんだもの。
(旧約聖書JSS)>
Gen 3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
Gen 3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
Gen 3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
Gen 3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
Gen 3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
蛇の言ったことの方が事実だったんだから。
神が自分を「われわれ」と呼んでいることにも注目!
これは多神教時代の名残の消しそこないで、「唯一神」の自己否定(w)が旧約聖書に載っている。
神の呼称のひとつ「エル」に複数形「エロヒム」が存在する理由でもあるw
(旧約聖書JSS)>
Gen 3:22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
Gen 3:23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
Gen 3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
(韓)>ほかにも、(まあこれはこじつけ見たいにも思えるんだけど。)ロザリオの形がハーケンクロイツに見えるコマがあったり、
うん、こじつけ。
スワスティカは「調和」「秩序」のシンボルとして十字架よりはるかに長い歴史を持つ。
キリスト教自身でスワスティカを変形十字架として使ってた例がある(コレ重要w)。
ここ数十年の反ナチという刷り込み、思想制御、言論統制の方が私には恐いね。
(韓)>それと韓国人が「子供の頃フランス人の女の子にジャンヌダルクってあだ名を付けてからかったら、
(韓)>その女の子の父親がマジ切れして殺されかけた」ってゆってた。
日本人が韓国に行って、韓国人に「ヒデヨシ」と呼ばれ続けたら俺も怒るw
これはジャンヌうんぬんが問題なわけじゃないぞ。
「名前を無視されること、名前を尊重されないこと」を侮辱と感じただけジャマイカ?
生きていればそれで幸せ教は「はてな匿名ダイアリ」から発生した多神教である。
はてな匿名ダイアリでの下記の書き込みが直接の起源であるといわれている。
http://anond.hatelabo.jp/20081019202806
自分で「生きていればそれで幸せ教」を設立する勢いで行け。
この時期、多くの生きていればそれで幸せ教徒は、宗派に属したという意識をもたなかったとする学説が、現在の主流を占める。
21世紀初頭のアメリカから始まった金融危機以降、「生きていればそれで幸せ教」が「勝ち組・負け組み教」から独立して「生きていればそれで幸せ教」としての自覚を持つに至ったとされる。
好景気以下での「生きていればそれで幸せ教」は「勝ち組・負け組み教」「恋愛すぃーと教」と相容れず、また、過度な努力を拒んだため、社会の異分子としてしばしば注目された。
ニートだの、ワープアだの蔑まれ、信徒は何度かのいわゆる大迫害を経験した。
しかし、時の総理大臣、杉村太蔵により公認され、その後、日本の国教とされた。
生きていればそれで幸せ教の教義をもっとも簡潔に述べているのが信条である。以下に重要な信条をあげる。
・社会にも他人にも自分にも期待しない。
・恋愛はイケメン・美女という動物が行うもので人間が行ってはいけない。
・労働を行うことは、敗北である。
・我々は負け組みではなく、あらゆる欲望から解放された新人類である。
信者には、平信者と聖職者に分かれる。聖職者は、魔法使い、ニート、ホームレス、即身仏に分けられる。
魔法使いとは性欲から開放されたもので、30歳になるまで性行為を行わないことで昇格する。
ニート、ホームレスの区別は共に働かないことであるが、ホームレスは家からも自由になっているため、「生きていればそれで幸せ教」においては階級が高くなっている。
即身仏とは、瞑想状態のまま、断食をおこない、そのまま仏になったものである。食という概念から開放され仏となり、永遠の生命を取得するこの職種が最高位とされている。
一部、異教徒の手先であるマスゴミからは都会の孤独死だの、無職の男性が食事もとれずに餓死だのとネガティブな報道がなされているが、これは、自ら食を立ち永遠の命を手に入れるという荒行を冒涜するものである。
即物的なものから解放されない、未熟な信者のために以下の特典が用意されている。
・ニコニコ動画にて時報OFFが行える。