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はてなキーワード: 堀辰雄とは

2023-07-15

君たちはどう生きるかネタバレ感想

いや~面白かった!

絶対面白いのは分かってたけどやっぱり嬉しい


ネタバレはなるべく回避してたが、昨夜ははてブタイトルキャストバレ食らい、増田にも感想が出てきたのでSNSは避けるようにしてた。

とうじ5時に起きたが、飯食ったあと寝てしまい、起きたら10時。歳取ったせいか睡眠コントロールできない。徹夜なんてもうできんな。

車を飛ばして5分前に劇場へ着く。

客席はかなり埋まっていて、年配の方も多い。

斜め前の席の長身爺の頭が画面に被っているうえ、メトロノームのごとく揺れるねが気になってしょうがない。尻の下に本を敷くが、その分椅子が沈むので意味がないように思う。

子供連れもいるせいか、多少私語が煩い我慢

予告編ゴジラ、くれしんなども面白そうなのが揃っていてよい。

原作(漫画の)は貰って読んだが、面白くなかったのですぐ売ってしまった。そういう意味では不安もあったが、風立ちぬ堀辰雄そのままじゃなかったし、ファンタジーと言う話も聞いてたのである程度は楽観していた。



開幕サイレン空襲かと思ったが火事だった。

戦時下生活描写がいい。

妊娠でうん?なったが、ヤったのか父!亡妻の妹孕ませるのは業が深いすぎる…

ジブリババアズ登場。

車で登校は悪手だろ父。案の定喧嘩になるが、いじめって感じでもなく、こっちも手を出してるから不快な感じはあんまり

やりやがった!マヒトさんもしかしてやべーやつなのでは…免罪しなかったのは偉いが

寄付じゃねーよ糞親父!

音立ててキスすんな!

ちょくちょく母親の死のトラウマ描写があるが、ファンタジーではないっぽい…いやファンタジーだこれ!

爺さんはあからさまに黒幕ですね

水の波紋とか、草むらに入ったら意外と深いみたいな、こういう細かいこだわりがなんか嬉しい。

ダイナミックバード!?ダイナミック足跡!?

ジブリババアとのバディなの!?

ジブリババアとのバディじゃなかった…

ジブリババアとのバディじゃん!

ヨットの細かい描写いい…

ワイはインテリなので、暗い森見たときグスタフマーラーの死の森じゃん!ヒトラーが好きだったやつ!って分かったけど、後で調べたら全然違った。石が浮いてるやつも元ネタあると思うけどわからんマグリットではないと思う

やたらかわいいのが出てくる。木霊よりかわいい

奴隷が回すやつじゃん!

母親焼死してエンチャントファイアになったんか…?

ペリカンの死は意味深やな

ロリママンかわいひ

夏子さんのあれ、すずめの親子喧嘩思い出した

血を継いだ者にしか引き継げないってアレじゃん!なんか自虐ネタみたいな面白さがあった

インコ大王独裁者かと思いきや名君

パッパが塔に突撃するとこすき

石で自傷したの罪の自覚あるのすき

現実に戻ったら焼死するとこ、ママンのエキセントリックさが全面に出ちゃってるけど、戻らないとマヒトも生まれないんだよな…

ママンが過去行方不明になって戻ってきてたのも含めて、すずめの後ろ戸っぽさがある

夏子にもウンコつけるのにこだわりを感じる

エンドロール、青で手書きなのがいい。米津っぽいなと思ったら食いしん坊だった。

鈴木Pはい仕事したね…タイ人ハーレム作っても俺は許すよ

インコ大王、ポッと出の悪役とおもっら交渉でも紳士的だし、部下帰らせて自分突撃するし

積木でちょっと株下げるけどちゃっかり生き残ってるし

原作に出てこないくせに良キャラすぎんだろ…

で、パンフ買おうとしたらまだ発売してないらしい

そこまで徹底しなくても、とは思うけど、そこまで拘らないとこうはできんやな

2021-11-25

anond:20201129002847

非常に共感できる文章だった。きっと同じ道を通ってきたのだなと思った。

私は子供の頃から自分で読んで楽しむためだけに、登場人物怪我病気で苦しむ小説を書いてきた。当時はネットを使えなかったから、読みたければ自分で書くしかなかった。自分以外に同じ趣味人間を探す方法もなかった。自分で好きなように小説を書いて読んでいると、なんだか安心するというか、癒やされるというか、心地よかった。なんとなく他人に知られてはいけない、恥ずかしいことだという感覚はあったが、それが性的な興奮であるという認識は無かった。セックスという概念すら知らない子供知識想像できる「エッチもの」といえば、せいぜい女性の裸体くらいのものしかなかった。それから少し大きくなり、セックスオナニーについて性教育レベル学習を受けたときは、「今はまだ分からないけど自分もいずれセックスに興味が湧くのだろうか」などと考えていたものだ。

中学生になるとインターネットが使えるようになり、とりあえず好奇心からオナニーの具体的な流れや方法などについても調べた。病気萌え小説を書いている時に本能的な衝動オナニーをして、「イク」という感覚体験として知り得てから、ようやくこれが私の性欲なのだと気づいたのではなかったかと思う(目覚めの詳細はもう忘れたので半ば推測)。

病気が好きな気持ちを性欲と結びつけることができたおかげで、「病気 萌え」や「病気 フェチ」などのような、性的検索ワード使いができるようになった。世の中には自分と同じ趣味人間存在するのではないか、という可能性に思い至ったのは小学校高学年で堀辰雄風立ちぬを読んだときだったが、それから数年越しでネット検索して辿りついた2chピンク板でその思いは確信に変わった。

あれから13年、病気萌え小説はわざわざ自分で書かなくても、ネット比較的容易に手に入れられるようになった。書き手も数え切れないほどにいる。小説のみならず、興奮材料として十分な音声や動画すらも手に入る。

それでも私が未だに自分小説を書き続けているのは、ひとえに自分で書いたものが一番萌えからということに尽きる。小説サイトにも投稿したことはあるが、ごくごく一部だけだ。書いたものほとんど公開しない理由簡単で、たいてい書いている途中で興奮してきてオナニーして満足して寝てしまい、人様に見せられるほどきちんとした文章に仕上がったためしがないからだ。

ところで、小説というか文字媒体の良いところは、地雷を踏みにくいところだと思う。私は空想上の人が嘔吐下痢をしている状況は好きだが、リアルな吐瀉物や排泄物ビジュアルは嫌いだ。作り物であっても不快だ。我ながら面倒な嗜好だとは思う。だからスカトロAVには手を出せない。視聴覚に訴える媒体は、好みに合わなかった場合に味わわされる不快感が暴力的だ。

その点、小説ならば、文字を読んで思い浮かべるイメージは全て自分自身の想像力の範疇に収まるものしかない。極めて安全世界だ。読んでいて好みに合わない表現が出てきそうになったら、そっとページを閉じるだけで、最小限のダメージしかわずに済む。

どんどん脱線してきている気がするが、このまま続けてみる。

病気萌える体質のやっかいなところは、日常生活で不可避的に「性的な」場面に直面してしまうことだ。たとえば異性の人間の裸体や性器セックスに興奮する体質の人であれば、一般的社会通念が、その人が生活する上で無闇に性的刺激を感じなくて済む権利保証されていると言っていい。もちろん完璧ではないが、少なくともゾーニングはされている。

その点、病気萌える体質の人に対しては、誰もその性欲をみだりに刺激しないように配慮してくれたりなどしない。最近でこそ見かける機会が減ったものの、私のような人間にとっては「性的」でしかない、発熱をおして働きに出る人や、街なかで苦しげに咳き込む人などはいくらでもいた。これを一般的な性欲の人に置き換えて考えたとしたら、私は日夜、大勢露出狂の人に囲まれて生きてきたようなものではないか

リアル人間を性の対象としないで、一人で小説を書いて読んで興奮するのは、セックスとは似ても似つかない閉鎖的な行為だと思う。倒錯しているという点については弁解のしようもない。こんな性欲を持っていてもろくなことはないから、せめて普通にセックスに興奮するようになりたいと思う。そうはいっても一向に治る気配はないので、このまま生きていくんだろうなと思っている。

2020-07-26

anond:20200725161356

教科書に乗ってた結核のやつと言えば堀辰雄風立ちぬだけど違うよね?

あれは確か婚約者で面識あったし徴兵の話もなかった気がする

2020-06-14

自転車に乗れなかった若者たち

筑摩書房版の堀辰雄全集第4巻には「Ein Zwei Drei」という随筆が収められている。中村眞一郎福永武彦に関する思い出を堀辰雄昭和21年に書いた話だ(発表当初は「若い人達」というタイトルだったらしい)。

堀辰雄私淑していた2人は軽井沢まで堀を訪ねて来た折、自転車に乗る練習をして自転車ボコボコにしてしまうのだが、それは奥さん堀多恵子)の自転車だったという話だ。

当時この2人は10代後半か20代だったはずだが、それまで自転車に乗れなかったわけだ。昭和初期の人は子供の頃に自転車練習をしなかったのか。

ちなみに、堀辰雄全集編集者中村眞一郎福永武彦の二人だ。どんな話をしながらこの一編を全集に入れたことだろうか。


或る夏、軽井沢で二人揃って自転車稽古をはじめたことがある。僕の家に遊びに来ていても、自転車あいていると、どっちか一人はかならず庭でその稽古をはじめる。中村はそんなスポルティフな事はぶきっちょそうなので、福永のほうがうまくなるかと思っていたら、反対に中村の猛練習が功を奏して、先きに乗れるようになってしまった。それを見ると、福永はそれっきり自転車は断念したようだった。––そのとき一番ひどい目に逢ったのは、僕の妻の自転車だったろう。二人のおかげで、すっかりハンドルが曲がり、ペダルが踏みにくくなってしまったと言って、こぼしていた。(まあ、けちはことはいうな。)

(「Ein Zwei Drei」旧仮名遣いと旧漢字を変更した)

2019-12-17

ひまわりと白ワンピ少女

なにかに取り憑かれてたようにひまわり畑に白ワンピ、麦わら帽子女の子画像を集めていたのだが、ふと疑問に思った。

ひまわり畑あるいは海辺、白ワンピースと麦わら帽子、そんでトランクケースなんかもセットだと完璧なんだが、このへんの夏の強迫観念みたいなものって、いったいどこから発生したんだろう。

源流は古いと思うが、自分はヨスガで発症した。妹好きの業病も併発した。治療の見込みは立っていない。

活字まで入れるとふつう堀辰雄あたりとかにありそうな気もするが(てきとう)、オタク向けコンテンツっていうことだと、どうなんだろう。

2019-07-10

続・なぜ人は上手く検索できないのか、というか、いったいどういう検索してんの?という話。

なぜ人は上手く検索できないのか」の続き。

あんまり追記を増やすのも不格好なので記事を分ける。

いくつかのブコメが謎なんだよね。

id:SedimentJazz for your Soul」って消化器を吹く画像の初出とかエピソードを教えて欲しい。

これについては別増田にも書いたんだけど、

そのまま「Jazz for your Soul」でググって先頭に出てくるページに初出が書いてある。

しろなぜ検索できなかったのかを知りたい。

英語のページだから

id:cozyweblife うるせえ「メジロマックイーン 成績」「トウカイテイオー 成績」で調べてもウマ糞娘が出るからいちいちマイナス検索すんのが面倒だっつー話だよ

俺も競馬ファンからよく検索するんだけど、

競馬では「netkeiba.com」ってサイトがめちゃくちゃ強いんだよ。

馬名で検索するとたいていnetkeibaかwikipediaが先頭に出てきてウマ娘なんて出てこない。

もちろんどちらのページにも成績が詳しく載ってるから検索結果下位まで見る必要もない。

俺と彼で違う「Google」を使ってるのか?

id:notomata まあそうだけど、堀辰雄風立ちぬ』とか本家なのにかなり検索ワード刻んでいかなきゃいけないようなのもうーんって感じだし、偉人がアニゲーキャラモデルになるとデマ妄想曲解記事も上位に来たりするのが…

「かなり検索ワードを刻まないといけない」ってどういうこと?

そう言われると三つも四つも検索ワードを追加しないと出てこないのかなと思っちゃうけど、

風立ちぬ 小説」でも、「風立ちぬ 原作」でも、もちろん「風立ちぬ 堀辰雄」でもバッチリ出てきた。

どういう状況を想定してるの?

この「Google使えない問題」って大きく分けて二つのパターンがあると思うんだよ。

まず「ITリテラシーなさすぎ」パターン

これはどうしようもないと思う。

もうひとつは「余裕なさすぎ」パターン

「俺が嫌いなサイトドメインの欠片すら表示してほしくない」みたいなやつ。

これはマジでイライラしすぎじゃない?って思う。

たとえば、増田とか5chとかの書き込みざっと眺めて、

「これ荒らしだな」「これ煽りだな」と思ったら無意識に読み飛ばすじゃん?

そういうスキル検索結果にも発揮できないもんなの?

というか発揮するよね?

いや俺自身性格として、

検索ってゴルフみたいに寄せていくものだって最初から思ってるから

何度も単語を変えながら繰り返し検索するのが苦にならない、ってのはあるのかもしれないけど。

でも上で挙げたように、

Google」という名前の別の検索エンジンを使っているとしか思えない案件もあるので本当に困惑する。

2018-12-24

anond:20181224151332

「ロクな」は「陸な」と書き、もともとは「陸のように平坦である」という意味

転じて「平穏である」「まともである」といった意味になる。

(「石が多いこと」を意味する「碌」は当て字らしい)

https://kotobank.jp/word/%E9%99%B8%E3%83%BB%E7%A2%8C-414007

「ロクなゲームではない」というと「まともなゲームではない」というわけだ。

現代辞書的には「後に打ち消しの語を伴う」ということになるが、

もちろん江戸時代の頃には否定を伴わない形で使われてもいたこともある。

あくまで慣習的なものとみなすべきで、「語源からしてありえない」というわけではないと思われる。

ちなみに青空文庫検索してみると、

やはり大半は否定とセットで使われているが、

1934年寺田寅彦学位について」

屑のような論文が百も出るうちには一つくらいは少しはろくなものも交じる確率があり、万人の研究者の中には半人くらいは世界的の学者を出すプロバビリティーがあるかも知れない。

1938年堀辰雄「山日記

ろくな仕事をこつこつやるより、かうやつてぼんやりしながら「悲歌」のことだの、僕が近いうちに身を打ち込んでやりたいと思つてゐ仕事のことだのを考へてゐる方が、まあどんなに好い事だらう。

など用例がないこともない。

2013-08-22

文春よ、『風立ちぬ』に芥川賞を与えよ

映画風立ちぬ』を観た。

これは映像で語られる新しい文学の形だと思った。今後映像作品の制作に携わる人すべてが観なくてはならない。それだけの業を見せてくれる映画だ。

何をしたい映画なのか

この作品を読み解く上でもっと重要キーワードは『風立ちぬである。私は前情報として、この作品はゼロ戦設計者・堀越次郎の半生と堀辰雄小説風立ちぬ』を組み合わせたものであること、および本筋は堀越の側から採られていることまでは把握していた。そこで抱くのは「ならばなぜタイトルが『風立ちぬ』なのか」という問いであった。

商業立場に基づいたパッケージング広報が随所で誤解を誘発させている映画であるが、それでもタイトルとオープニングは主題に正直だった。はじめにフランス語交じりのエピグラフを見せられれば戸惑いつつもやはり「この映画で私は文学をやりますよ」という表明と受け止めるほかない。ヒロインとの出会いのシーンではなんと——技師の卵・堀越次郎としては不自然まりない——仏文学生のようなやり取りをみせられる。……オーケーだ。心を決めよう。わざわざ飛行機大地震という刺激的なシーンの合間に配置したのはかえって本気が感じられる。こちらもそのつもりで観ることにした。

はいえ、映像作品と文芸作品——殊に私小説とでは観る/読む姿勢質的な隔たりがある。作者はこれをどう翻案してくるのか? ここでもキーワードは『文学』と『風立ちぬである

多くの人が指摘しているように、劇中には『風立ちぬ』以外にも旧約聖書や『魔の山』といった西洋文学の中心作品から引用がちりばめられている。しかしおそらくそ意味や出典を理解することは求められていない。これは作者からシグナルとして受け取るべきだろう。——あっ、今なんか文学っぽいこと言った。そして風が吹いた。そう感じた瞬間、我々は観客から読者へと推移する。実際、そのために尽くされた工夫こそが本作をこれまでにない映画として成り立たせている。

日本文学伝統たる私小説とは一般には作者の個人的な体験を語ったもの定義されるが、その実は読み手が(多くは情緒面に欠陥を抱えた)〝私〟の情動を追いかけながらその文脈に自己を編み込んでゆくことで成り立つ極めて対話的な芸術形態である。ゆえにこれを映画で実行するためには観客からどうにかして主体性を引き出さねばならない。一体どうするつもりなのか。

語るな、見せるな、考えさせろ

一番にあるのは人物の造形と描写である。だいたい主人公からしておかしい。はっきりいってこんな身勝手な男には作者自身を除いて誰も共感などできまい。そのくせ彼の心情を伺えるのは原点である飛行機作りへの衝動のみであり、主題の一つに思える恋愛さえ観客からすればずいぶんな距離感をもって描かれている。この映画をいわゆる娯楽作品として楽しむのは大変な難行であろう。しかしそうした人物の〝得体の知れなさ〟と突き放した映像表現こそが観客を読者に変える上で重要機能果たしている。——いざ事件が起きた。けれども主人公がどんなリアクションをするのか、我々には予想もつかない。そこでその人物の行動と周囲の出来事だけが語られ、心理も感情も置き去りにされればどうなるか。我々は残る最後の手——自力でそれを補うことを選ぶほかない。振り返れば人物もまた文学を行う道具にさえ見えてくる。

しかしたくらみどおりに人を動かす要はやはり映像にある。シグナルである文学っぽい〟セリフに続くのは決まって突風と変事だ。さあっと吹く風に引きずられてカメラが空へ向かい、これまで観客が寄り添っていた主人公が突如フレームアウトする。視点人物の喪失自然不安をもたらし、そこでさらに思いもよらぬ出来事や主人公の行動を目にした観客は解決を求めて必死で事態を追うよう仕向けられる。こうして観客は気づかぬうちに主人公の心理を己の内に抱え込む。かくして映像言語による小説的描写が果たされる。みごとである

そうして状況が収まり不安が解消された次に訪れるのは〝平常〟である。正常にせよ異常にせよしばらくは事態の変化はなく、そうである限りは主人公の行動も我々の予想の範囲に収まる。主人公はどんな状況に置かれても自分の夢につながる道を一途に辿り、時には常識によって非難される。「だいじょうぶです。あなたの頭の中にある人物像はそれほど間違っていません。そのまま続けてください」そういう作者からの配慮を感じるひとときでもある。

繰り返される風景

このように、物語の進行は事件とそれに続く平常との繰り返しによって綴られている(それがふさわしい時代でもある)。

そして繰り返しの合間は主人公の夢を再確認する時間だ。飛行機への憧れを描くこのシーンは物語区分けすると同時に、現実との対比を描く場でもある。印象的なのは、夢の中では誰もが等しく飛行機に乗り、笑顔でいるということ。理想が、道徳が語るもの主人公は明確に認めている。にも関わらず現実の彼はためらいを見せることがない。風は——? 空を飛んでいるかぎり、止むことはない。

先の見えない時代戦前文学匂い。そして変事の前触れたる風。それこそが物語を支えるビートである。そのためにこの作品は『風立ちぬ』を必要とし、ゆえにこの映画タイトルに『風立ちぬ』以外の選択肢はありえなかった。

(続く)

2013-08-16

社内ニートのための時間潰し

http://anond.hatelabo.jp/20130815143841

2013-08-03

風立ちぬ」の心理学専攻の奴の感想

見終わったあとで乱雑に感想を書く。

全く的はずれかもしれないけど、酒に酔った勢いで書いてみる。


そして、この記事に関して、感想を述べてくれるなら幸いです。


素朴な人の物語だと感じました。

主人公は素朴そのもの。その辺に立っている木のような素朴さというのだろうか。

その主人公の素朴さを見るのが映画の大部分。

また、この主人公声優に全くの素人を起用したのもこの素朴さを出すためであると私は考えている。


そしてもう一人。ヒロイン

彼女も素朴だ。自分の望みに真っ直ぐな人物。

ただ、彼女についてはあまり掘り下げられていない。

主人公の素朴さをあらわすのに邪魔のない程度の掘り下げ方だったように思う。


この話は主人公のためだけの、監督のためだけの物語


話の途中途中に主人公の夢のシーンが挿入される。

これは彼の無意識。信念。彼が彼であるべき意味。それを表している場であると私は考える。


そこでは彼の憧れている人物との対話が主に行われている。

彼は、夢のなかで、自分の将来を語り、どう進むべきかの答えを出していく。


その夢の中で最後に彼はヒロイン感謝を述べる。

彼の憧れている、おそらく彼がなりたいと思っている人が「生きねば」という。

そして主人公もそう思っているはずだ。


素直に受け取れば、これは映画テーマである「生きねば」につながる。

ただ、そこは主人公の夢の中の出来事だ。

彼の無意識(信念)には、「彼女への感謝」と「生きるべきである」という思いがある。


無意識に「生きねば」と思っているのであれば、それは「生きめやも」なのではないだろうか。


私は「生きねば」はすこし力強く、頑張ろう、という印象を受ける。

「生きめやも」は生きることを受け入れている、当たり前だ、という印象を受ける。


この夢を見るまでに、彼は相当の時間を費やしているのだと思う。

一度、彼女の死に絶望し、打ちひしがれていると思う。

ただ、彼はそれを乗り越え、生きようと決心(無意識に焼き付けることを)している。

それこそ「生きめやも」であると思う。


そして、この映画エンターテイメントとして褒められるべき作品ではないと思う。

監督がやりたいことをやって終わっているように思う。

エンターテインメントなら最後はドーンでバーンヒロイン永遠に結ばれる!べきである


この点が堀辰雄の「風立ちぬ」に似ている。

悪く言えばヌルっとした、中途半端な終わり方。

良く言えば、余韻を残す終わり方。

堀辰雄の「風立ちぬ(美しい村も含めて)」もこういう終わり方をしている。


こういうのは小説的な終わり方だと思う。映画にはこんな終わり方、なかなか無い。

いまのところ私の見た映画には無い。アニメ映画なんか更に無い。

その点でこの映画はある種、革命的な終わり方をしているのではないかなと思う。


以上、まとまりがないけど「風立ちぬ」の感想です。

2009-12-02

レッペリ

2009/08/01(土)

みんな、泣いてる。とても静かに泣いてるみんなの姿を

僕ははっきりと感じることが出来るよ。

僕は暗闇の中に逃げ込むことで沢山の安息を得たし、

みんなは僕の暗闇を覗き込むことで、あるいは

僕の暗闇にしんしんと降り積もる雪のような悲しみを眺めることで

すこしだけ人を信じたでしょう。

だけどそれももうすぐ終わるんです。終わります。大丈夫

2009/08/01(土)

僕はいつのまにか逃げることが人生みたいに思って

ずいぶん遠くの暗くて静かなところまでやってきたような気がしていたけど

本当はすこしもあの故郷の匂いから離れることは出来なかったと思う。

僕は今も遠いあの故郷にいて、夏の夜にふく風の心地とか

夕暮れが町を包み込むときの空気の触れ合いを少しも忘れていないし

むしろそれをいつも心の綺麗で優しい場所に暖めていた気がする。

2009/08/14(金)

こんばんは。僕です。

みんなには随分不憫な思いをさせてしまってとても僕は反省しています。

殺せ。俺も殺す。

そんな気分でしたから、僕がここにスレを立てるのはすこし大変でした。

人が人として生きることはそんなに難しいことではありません。

でも誰がそうしていますか?あなたですか?では僕もです!

それでこのスレも進みます。昨日のことはもう大丈夫ですか?

昨日の続きが今日です。大丈夫。明日まで待ちましょう。

2009/09/12(土)

こんばんは。僕です。僕は夢をみていました。

絶望だけの夢です。

太陽が死んで、明日のまた次の日も

そこに新しい一日が二度と訪れない世界にいて

僕は死んでいったジョニーや麻井、それからJのことを想っていました。

そうしている僕は、しかし何も感じず何も見ず、ただ世界が終ったあとのこの

風景にやっと時間だけが流れていることをかすかに意識することが出来るだけだったとも思います。

僕は過去現在においてただそこにある時間だけが流れさったということを自覚することができたから、

今ここにいない彼らの過去にあった現在もまた確かに現在過去として存在することを認めることができました。

夢の中にいた僕にはだからそこに彼らの生があることを認めることができたけれど、

その夢が醒めた今となって、かえって僕はまだ自分世界の終ったあの日にいて、

それからすこしの時間にも流されず、ただあの突然の巨大な破壊の前に

焼け爛れた人々の死の壁の前に立ち尽くしたままなのかもしれないと思うようになりました。

みんな死んだのだ。そして僕だけがまだここにいて、こうしてただ振り返ることにおいてのみ生きているのだ。

僕はこうして過去の存在の、失ったものすべてを一つ一つ認めることにおいて現在の生と時間を生きているのだ。

僕は死んでいないのだ。だからこそ僕は死を認めるのだ。

麻井の死を、ジョニーやJのその死を。そしてあの破壊。彼らの生を、魂を簡単に粉砕したあの破壊を。

そして彼らの破壊された時間だけがそこに留まり、僕だけに新しい時が訪れたのだ。

だが本当にそうだろうか。彼らは死に、僕だけが生きている。そんなことが本当にあるだろうか。

あの恐ろしい破壊が僕の時間だけをさらい忘れるというようなことが。否、そんなことはないだろう。

僕はまだ、夢を見ていてこうしてここに過ぎていく時間も全て本当には存在しないのではないだろうか。

時間が止まった後そこに夢だけが、死の数だけの夢がそこにのこされているのではないだろうか。

僕も死に、彼らも死んだ。あるいは彼らが生き、僕だけが死んだということもできよう。

だが僕の夢がまだこうして続くのなら僕はただその夢を、夢の中の生に流されていようと思うのです。

2009/09/12(土)

みなさんこんばんは。僕です。おひさしぶりですね。

この頃は元気ですか、僕は元気です。

今日休日で、大阪の空はひさしぶりの雨雲に覆われています。

雨は降ったり止んだりといった感じで、

せっかくの休日なのにと言う人もあるかもしれませんが、

僕のほうは休日に降る雨のことが好きだし、その雨にしてもどうもこちらに気があるらしいから、

この静かな午後の雰囲気をいっそう穏やかなものにしてくれるし、

僕はそのなかでずいぶん落ち着いた時間を過ごしています。

それで今、パーラメントを聴いています。マザーシップ・コネクションです。

1976年地球征服を企む宇宙人ジョージ・クリントン本名不明)が

小型宇宙船NY路地裏に降り立つとき、

この音楽を人々の脳に直接流し込むことで

街を一瞬のうちにP-FUNKと呼ばれる興奮状態に陥れたという話ですが、

その威力は本当に凄まじく、

いまこうしてスピーカーから流れるボリュームを極力抑えた旋律ですら

その快楽への欲望を限界まで引き出す恐ろしいリズムによって

僕の下腹部の奥に熱を与えそこからごりごりとした欲望が膨らむのを感じます。

アンニュイ休日の午後にはすこし強すぎるスパイスでありました。

2009/09/27(日)

痛みがある。随分苦しい気分でいる僕です。恥かしい気持ちだけが脳を満たしていて

独りでいないとどうしようもない気がするので僕は今日もそうしています。もしもそばに誰かいたら

やっぱり駄目になりそうです。気付いたら誰もいない生活が当たり前なので、人の声がうるさくて仕方ないし

それで怒りみたいな感情がどんどん溢れてきたときには、それがもしもこぼれ出したりしたらと思うと

やっぱり恐ろしくて仕方ないです。わからない間にとんでもないことをしていたりするんじゃないかといった不安

あることと、もうイロイロなことが前とは違う風に見え始めていること。

良くなることが有るような気もしますが、それは記憶が褪せるのと同じように

ただ痛みを忘れているだけの気もします。忘れているのは自分だけでそれは決して許されること

ではないのかもしない。最初からわからないことが多すぎるし、

僕の知らないところで僕が撒き散らした破壊によって今おびえる僕はもうとても苦しい気分でいるのです。

2009/10/06(火)

すいぶん時間の進み方が変わっている。と俺は考える。

朝、と思っていたらもうすっかり夜になっているし、

秋だ、と感じたそばから冬だったりする。

そもそも俺は、過去未来がこの瞬間とどういう具合に組み合わさっていくのだか知らんが、

こうやって生きていくにつれ、過去というのが次第にその体積を増加させ、

徐々に未来侵食しながら進んでいるのだけは分かる。

そして過去は、いずれ俺の現在未来に与えられた全ての時間を少しも残らずに覆い尽くしてしまうのだろう。

それは始め、とてもゆっくりだったのに、今ではもう決して追いつけない速度になっているし、

そのせいでこの現在は、この瞬間はただ過ぎ去っていき、そこに自分が生きたという実感も無く

ただ過去という巨大な闇に飲み込まれていく。

とても速い。と俺は思う。それから、もう遅すぎる。と思う。

俺が歪んでいるのか、時間の方がそうなのか、

どちらにしても俺の精神は既にこの時間の速度を認めることが出来ないでいる。

2009/10/07(水)

精神の悪化が著しい。

このところずっと俺の背後に立っている男が俺の精神の自発的な破壊をもって

俺の完全な抹殺を開始する算段を企んでいることなどもあって、

俺はすこしも心を落ち着ける時がなく、

そうして最近では風呂場の隅の暗いような所からなども、

何者かがこちらの精神の崩壊の瞬間を窺っている様子もある。

そして俺は今日もこうして睡眠などに身を任せるような危険な状態を避け、

俺の抹殺を企てるもの、現在も俺の後ろに立っている男などを筆頭に

俺の精神を一刻も早く破壊せしめ、俺の存在と俺の時間の完全な抹殺を遂行しようとする輩から、

すくなくともまだ、こうしてかろうじて日常生活をぎりぎりで保てる段階に留まっている限りは

その手に安易に落ちることを拒否し続けることにしている。

しかしそれももう長くは続かないだろうことは、俺もそして俺を抹殺しようとする奴らにも

既に大方は了解されていることではある。

問題は、俺がその瞬間においてどの程度人間であるかという点にあり、

そのことが今の俺の最大の関心事となっているのである。

2009/10/07(水)

たしかいつだったかに俺は雨が好きだ好きだというようなことを言った覚えがある。

そのことは今も変わらない。俺は今も雨が好きで好きでそうしてその雨量は多ければ多いだけ好きで、

その時間は長ければ長く降り続くだけ俺の精神を安らかな状態に満たしてくれるから

俺は一層に雨を好きになるという按配なわけだ。

そしたらさっき、台風なんぞが来たる。なんつう声が耳に入ってきよったもんで俺、にたにたしたっきり外を眺めとった。

俺は雨が好きで好きだというようなことが、そのまま台風にも通じるんであって、

俺はベランダに静かに立って、そこから見える景色、家の前を流れる小さな川とその川の向こうにある小さな公園

その向こうにある人家とマンションそれから小学校の校庭と、もっとむこうの山々とに、

今も降り続く雨をこのベランダにも降りかかる雨にしとしととこの身を濡れそぼらせながら見とるわけだ。

そうして俺が恍惚とした表情で見とれておる間にもその雨は、次第に風を増し

雨量を増し、その一粒一粒の重量は益々に肥え、

俺のこの目の前に広がる人の気配のない空間に降り続ける雨の質感が

より重厚によりドラマティックに揺れるのを俺はもう、俺はもうここに俺の時間がただこの瞬間にだけはっきりと

流れその流れが雨の時間と混ざり合っていくのを感じているということなんよ。

つまり今夜だけは俺もこの精神に静かな安らぎを与えられるということなんよ。誰も俺を抹殺にかかるようなことはないんよ。

今日だけは、深く沈む闇の中から俺を監視する視線は消えるんよ。目を閉じてそして狂ったように振りつける雨の呻きも

ふいに静かになる雨の押し引きにもそのどこにも俺の精神に痛みを与える気配はないということなんよ。

2009/10/08(木)

休日のこと

朝、目が覚めて

たしか9時くらいだったと思います。

まず洗濯機を回して、

そのあいだとりとめもない空想に浸りながらストレッチをして、

洗濯物を干して、それからご飯を食べに行きました。

帰りにミネラルウォーターと、電球を3つ買いました。

部屋の電球を交換して、セロニアス・モンクを聴きなが小説を読みました。

しばらくして眠くなったので、本を閉じて眠りました。

目が覚めて、夜ご飯を食べにいって、戻ってきてお風呂に入ってから眠りました。

一体人生とはなんでしょうか。

2009/10/09(金)

Jっちこんばんは。

僕はニンテンドーじゃなくて時給780円の弁当工場に勤務していますけど、

まあ焼肉弁当ラインに立っているので工場内では勝ち組ですね。

高収入?なんすかそれ。幕の内とどっちが美味いの?みたいな世界ですね。

なんつって、来る日も来る日も目の前を過ぎ去っていく焼肉筑前煮見てて

ああ、もうこんなに筑前煮ばっかりで人生うんざりだなってこともある俺だけど、

そこは俺、プロなわけで、なんだかんだ、すんげえ良い感じに盛り付けちゃったりするわけですわ。

だからこその焼肉弁当ラインなわけです。そこは俺の領域なわけね。俺の場所。超クール

とかなんとか、この俺の人生だけど、まあそれ以外にも楽しみはいっぱいあるよ。

一体何に喜べばいいの?

ってそんなもん自分で見つけないといけねえにきまっとるだろが。

生きるっていうことは考えることだし、学び続けることだろが。

昨日より明日、明日より明後日焼肉弁当がもっと美味い。それが人生だし、

今日筑前煮、その煮汁が完璧な旨みを含むまで何回でも煮込む。

それが生きるってことなんちゃうかなあ。と思うけど、

たまにはやっぱり人生ってなんですか。って思う俺です。

2009/10/12(月)

昨日も、朝起きて、やっぱり、何かむなしいような気持ちでいた僕は、

小さな部屋に独り、掃除洗濯などをすませて、

お昼ごろになってご飯を食べて、

それから電車に乗って京都に向かいました。

五条くらいで降りたって、鴨川沿いを歩き始めました。

静かに流れていく川。それを眺めている間だけ、このむなしさも僕から離れていく。

と、そんな風に思いながら僕は歩きました。

しばらくしてベンチを見つけて、そこに座って本を読みはじめました。

堀辰雄風立ちぬでした。ずいぶん綺麗な言葉たちが鴨川の水面に浮かび僕の心をさらさらと流れました。

原っぱには白人家族がいて楽しそうにボール遊びをしていました。

その向こうのベンチには若いカップルが、そんな家族の様子を眺めて幸せそうに笑いあっていました。

空は気持ちよく晴れ、そこにうすい雲が流れています。ゆるい風の中には秋のぴりとする冷気を認めますが、

ふりそそぐ陽光の暖かさがそれを心地よい肌触りに感じさせます。

僕はベンチに寝転がって、本を読みながら、ときどき空を見上げ、うすい雲のそばに淡い空想をゆらしたりもしました。

そんな風にしている僕はいつのまにか眠ってしまったのだと思います。

ふと気付くと、すっかり陽は傾き、辺りは秋の気配に包まれ、周りにはもう誰もいませんでした。

ふらと起き上がった僕は、帰ろうと思いました。そしてまた歩き始めました。

近くのジュンク堂に立ち寄って文庫本を何冊か買いました。

途中のうどん屋さんで夜ご飯を食べました。そうしてまた電車に乗って帰っていきました。

家について、お風呂に入ってからからチューハイを飲みました。やっぱりいろいろ恥かしい気がして、

まだ誰にも会えない、と思いました。それはすっかり冷たくなった夜の風のせいかもしれません。

いろんなことが、駄目になり始めてから、もうずいぶんの時間が過ぎたようです。

2009/10/13(火)

告白します。

8月、私は毎夜モンスターハンター3ばかりやっておりました。

それは真夏の世の夢、日暮れを待っては無法残虐の限りを尽くす暴君と化した私、

気が付いた時にはカーテンの向こうが白々と輝き、

すっかり日が昇っていたというようなことも何度かあったほどです。

そんな風にして過ぎた9月のある日に、私はふと思い立ち

コントローラーを静かに床において、普通サラリーマンに戻りました。

そして今、なにかがふいに私の内を過ぎたのです。

ああ、我が燃ゆる夏、灼熱の鉄槌を再びこの腕に。

誰か、一緒に狩りに行きませんか?HRはたしか30か40くらいだったと思います。

ハンマーを背負っております。テクニックはございません。ただ破壊

振りかぶったハンマーが獣の脳髄を揺らします。

よろしくおねがいいたします。

2009/10/14(水)

僕にはさっぱりわかりません。

破壊したい、あるいは破壊されたい。

僕は日々その間を、あっちこっちに振れている人間です。

2009/10/14(水)

相対性理論パクリ。その指摘が私を酷く苦しめました。

昨夜、私はこの苦しみから逃れるため酒に溺れ、そして苦しみの底でこの世界を強く呪いました。

バーモンド・キッス。いかにも私は、是をパクったことを認めます。

しかし今になって、私はその事実に対してただ一片の後悔もこの心に認めてはいません。

それは相対性理論という楽団こそが、

言わずもがな「地獄先生ぬ~べ~」の周到なパロディに過ぎないという事実を私が知るからです。

その楽曲の全ては、「鬼の手」を持つ小学校教師「ぬ~べ~」こと鵺野鳴介が生徒を守る為に、

妖怪悪霊を退治する学園コメディーを、一話一話、楽譜の上に置き変えただけのものなのです。

であれば今、私がこうして、相対性理論をパクったという一つの現象は

はたして私をこうまで苦しめる理由になるでしょうか。

あなた達がいかに厳しく私を断罪したところで、私の心には今も清涼な風が吹き抜けるばかりなのです。

2009/10/14(水)

言わずもがな私は今夜、言わずもがなという言葉を多様しています。

これは言わずもがな、私の精神記憶の欠落を示しています。

繰り返す時間が私を言わずもがなの罠に誘います。

言わずもがな、私はこの罠を、罠と認めることなく、一度、そしてもう一度、

言わずもがな二度三度とその失態を繰り返します。

私はこの痛みをもったまま言わずもがな次の言わずもがなへと進みます。

すこし度が過ぎたようでう。今夜はすこし酔いすぎたでしょうか。

秋の風が頬の熱を奪い、私は風の王に嫉妬します。

これは現実時間です。そして私の精神は今、確実にその強度を失っています。

2009/10/15(木)

本当のことを言うと、僕は文通がしたいのです。

こうして、誰とも無く世界の果てに向けて自分精神を拡散させるのではなく、

確とした誰かに、己が胸のうちをひっそりと告白したい。

そうして僕は彼方にあるその存在に思いを馳せ、

ただじっと待ちたい。私はその時間を愛し、その距離を空想したい。

文はその遥かなる旅路の内に芳醇な感動を携えて私の心を狂おしく酔わすであろう。

2009/10/15(木)

矢野くんの勝利マンのキーホルダーええなあ。

わし今から自分の住所と名前を念じるから感じ取ったら着払いで送ってください。

替わりに高校のときに使ってた数Bの教科書送ります。

もし数Ⅲの方がいいとかだったら相談に乗ります。念じてください。

よろしくおねがいいたします。

しかしモンハンやろ言うても誰も乗ってくれへんし、

わしも寂しい男やなあ実際。

まあ、こうやって毎晩、部屋で独りビールのんで、絶命しかけた肝臓に毒の油塗り込むような人間なんぞ

そりゃ誰も相手にせんやろってなもんやけど、せやかてまだわしも人間の姿はしとるで。

徐々にやけどまあ顔は獣じみとるけどな。実際狂うように美しいで今のわし。

鏡にもずいぶんはっきりと狂気が写りこんできとるしな。そやしそもそも人の美しさなんつうもんは

ひっくり返してみたらこんなもんや。やっぱり腐りかけがうまいんやな。健康的なもんの美しさには

わしなんぞも興味ないわい。それはしかし生きとらんわな。なんの歪みもない美からは

人を狂わす色気はでえへんで。わし自分の妖気に酔いそうや。そやからまだ誰にも会うわけにはいかん。

人がおったらたまらんで、会うたら畢竟まぐわうことになるのはわかりきっとるからの。くわばらくわばら。

絶望や。なんか知ったかぶりの絶望が攻めてくるんや。

恐ろしいのう。生きることはずいぶん辛いことやのう。

徐々に言葉が離れていくようになった。

脳のしわ。一つ一つアイロンかけて明日の朝には

元通りにしなくちゃ。生きるんだもの私。

無理だ。もう本当に無理だよ。

駄目になるのがはっきりとわかる。

もうすぐだよ。一度は超えたヒューマンの境界線。

もう2度と見たくないあの地獄。いやだ。助けてよ。

酔ってしまったような気もするし、

かといって時間が歪むのを確かに判別できる程の理性は

確保されているような気もする。

すこしの間忘れていたことを思い出す瞬間が訪れる。

しかしアルコールが人を破壊する様はまさに地獄です。

それは、最もおそろしい闇を見るのが溺れていく私だけではないからです。

私の周りにある人々をも同様に捉えて離さない深く濃い闇がそこにあります。

必死で手を伸ばすもの、私を捉えてその暗黒から救い出そうととするものそれら全て飲み込む

闇がそこにはあるのです。今、その闇の中に沈んでいく私にできることは限られています。

選択肢は、そこにある結末は。

2009-06-21

たとえば「巨乳好き」は十分不謹慎ではないのか?

属性萌える、というのは、本来『十分不謹慎なこと』だと思うんだけど、違うのか?

障害者が好きと言ったらなぜ不謹慎になるのか?

http://anond.hatelabo.jp/20090619153745




あなたが男性だとして、新入社員として入った職場でちょっと格好いい女性の先輩とつきあい始めて、

そんでおきまり通り「オレのどこが良かったんすか」みたいな話をしたときにその先輩が

「いやー、アタシ若い子が好きでさあ」

…って言ったら?

どう思う。

オレなら引く。

全力で引く。


次に、巨乳の女子とつきあい始めたときに、「アタシのどこが良かったんですか」って聞かれて彼氏として

「いやー、オレおっぱい星人だからさあ」

って答はどうか。

NGだよね。

たとえ

いや、違うんだ、オレは巨乳という物質でなく、巨乳という『女子からはうらやまれ男子からは性的欲望の

まなざしで見られ、自分の中の女性性と否応なしに向き合わされながら思春期を過ごしてきた女性の独特の

悩みの中で育てた性格』を愛好しているのであって、単なる巨乳・奇乳愛好家と一緒にされたくないんだ。

とか力説しても、なんの意味もない。

まあ引くよね。普通

大抵の人は「わたしがわたしであることを肯定して欲しい」という思いを持っている。

私の「属性」でなく私の「全人間性」を。部分でなく全体を。

それが人権思想の出発点であり、そこを離れた言説は今日社会では「反社会的言説」として排斥される。

つまり、まあそういうことなわけで。

「好きな人が、障害があるんですよね」

…は問題ないし、

「障害持った人のこと好きになること多いですね」

…も全然問題無いと思う。

けど、

「障害を持った人が好きですね」

…は、上の先輩や彼氏の例と同じく、相手への人権的配慮を欠いた表現だ。

その発言が不謹慎である理由は、それだけだ。

趣味嗜好というのは、個人の内面に留め、一変態紳士としての社会的な振るまいにさえ問題なければ、

鞭でしばきまわす行為を好もうが、死体との性行為を愛好しようが、靴底を偏愛しようが、自由であると思う。

思想良心の自由、という奴だ。

だが、「趣味が自由」であることと、「それを公言して社会から排斥されない権利」を同一視してはならない。

思想良心の自由は、「表現の自由」の前提規定である。言い換えれば

思想するだけなら自由だが、表現することは自由ではない

という一定領域は常に存在するということだ。

属性萌えフェティシズム)」というのは、そこに属する、本来非常に不謹慎な行為であると私は考えている。


いや違うんだ! オレは人の持つ障害にフェティッシュな欲望を抱くと言いたかったのではなくて、障害者の多くが持っている

ある種の美しさについて語りたかっただけなのだ

…とあなたは言いたいかもしれない(というか、たぶんそうなのであろう)。

「カタワ少女」のテーマもそうではないかと思うし、それはたとえば「死が身近な病人との恋愛テーマにした小説」とかにも似たものは想定できると思う。堀辰雄とか、あるいは三田誠弘の「いちご同盟」とかね。


だとすると、つまりあなたは表現の仕方を間違えているのだ。

あなたは、「障害者好き」でなく「障害者好きになる(ことが多い)」というべきだった。

無意味な一般化によって、誤解を生むべきではない。最初の言い方では、不謹慎の誹りを免れることはできない。

2008-10-27

http://anond.hatelabo.jp/20081026212332

ハインラインは確かに『悪女ベルに対して書き方が冷たくて、かつ軍隊とかハードSF好きの変態だからどう罵られようが知ったことじゃないが、夏への扉主人公はどちらかといえば単なるヒッキーの猫ヲタであって少女愛好家ではないのではないか?少なくとも子供のときの彼女に対する恋愛感情をほのめかす記述は無かったと思うのだけど(少女主人公、があることをもってハインラインロリなんだよ!と言いたいのかもしれないが、思春期少年少女が身近な年上異性に憧れるのは普通では?)。

どちらかと言うとそれはたとえば「腐女子EYE」みたいなもので、あなたには何見ても「ロリコン妄想きめぇ!」と思うような変な色眼鏡がかかってんじゃないのか? なんか「夏への扉」を熱く語る男にトラウマが? そうじゃないとすると、そのうちあなたがブラッドベリの一連の少年もの(「たんぽぽお酒」とか)読んで「ホモショタきめえ!」とか言い出すんじゃないかと思って心配だ。

あと引用元の某氏は多分「『夏への扉』なんてロクなSFじゃないぜ、センスもなければワンダーも無えよ。」って言いたいんだと思う。まあ個人的には「宇宙の孤児」、「メトセラの子ら」とか確かに好きなんだけど、でもそういうのを崇拝するSFオタが「『夏への扉』なんてSFとしてはランク低いぜ」とか吹いてると、少し苦笑いしてしまう。小説は読んで面白ければそれでいいわけで、別にSFとして』評価されるかどうかなんハインラインさんは知ったこっちゃないんじゃないかな。そんな「評価」なんてそれこそSFオタの自己満足にすぎないしね。

ちなみに「ロリコン知識人代表」とされるルイス・キャロルは、人妻になって子供もできたアリスリデルとも大変仲良くしていた。そういった事例を踏まえて「ロリータと年齢は無関係である」とする理念学会には存在している。そういう立場から、「夏への扉」という小説ロリ属性がある、とあなたが主張するなら、それはそれで理解しなくもない。

ただそうすると、日本近代小説でもたとえば鴎外なんて確実にロリ気があるし(エリスは17歳設定)、二葉亭だって怪しい(成長拒否的)。谷崎は確実にそうだ(源氏物語訳)し、堀辰雄幼年時代)、太宰(女生徒)や安吾白痴)なんかも多分そう。大丈夫なのは三島ぐらいではないか(三島は別の意味大丈夫ではないが)。というわけで、そういう人・小説はたぶんゾロゾロ出てくんじゃないかなとも思う。

 
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