はてなキーワード: 八重洲ブックセンターとは
八重洲ブックセンター以外にそういうやつで大きなのあったっけ?
「天皇陛下に「お疲れ様」を使って炎上した山田優」に対して杉村喜光さんや飯間浩明さんが「誤用ではない」と解説 - Togetter
上記まとめにもある通り、杉村喜光という人は、以下のような発言をしている。
山田優さんの「天皇皇后両陛下 お疲れ様でした」発言が炎上中らしい。
この「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」は平成になってからマナー本などに登場した新ルールだよね。本来は上下関係なし。
それ以前に記事の「違和感を感じる」が…。 pic.twitter.com/axgcAGrS2c— 杉村喜光:知泉(三省堂辞典発売中 (@tisensugimura) 2019年5月5日
しかし、これまで「『ご苦労様』を目上の人に使うのはNG」というマナーは、(そのよしあしはともあれ)聞いたことがあるものの、「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」という言説は、少なくともマナー(マナー講師)関連において見聞きしたことがなかった。
※ただし、マナー講師ではなく芸能人(タモリ氏)や言語学者(園田博文氏)は、「お疲れ様」という言葉について以下のように述べているようである。
タモリが「お疲れ様です」は目上の者に使ってはいけないと指摘 波紋呼ぶ - ライブドアニュース
「子役が誰彼かまわず『お疲れ様です』といって回るのはおかしい」(タモリ氏)
「『ご苦労様です』『お疲れ様です』というのは、本来、人をねぎらう言葉。目上の人が使うのが伝統的で、目下の人が目上の人に使うのは失礼にあたります」(園田氏)
ならば、本当にマナー本は、「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」と主張しているのだろうか?
このことを検証するため、八重洲ブックセンター八重洲本店2Fの「ビジネスマナー」コーナーにあったマナー本を片端から当たってみた
……かったのだが、1段・56冊あり、全部を立ち読みするのは時間的にも労力的にも足りず、かつ、売り物の書籍を使って調べ物をするのが申し訳なかったので、20冊だけ抽出した。
(八重洲ブックセンターを選んだのは、会社から近く、また今日の仕事の関係で立ち寄りやすかったというだけであり、他意はない。図書館を選ばなかった理由は3つある。近隣の図書館が思いつかなかったこと、冊数としては八重洲ブックセンターの方が豊富だと判断したこと、古い、昭和の本も交じっていそうで、そうすると有効な冊数はさらに少なくなると考えたことからだ。八重洲ブックセンターさんには申し訳なかったが、普段も毎月1万円程度は購入しており、今日も本を買ったので、許してもらえたらうれしい)
なお、書籍はスミからスミまで見たわけではなく、「あいさつ」「言葉づかい」といった項目のところだけざっと流し読みしているので、漏れがあるとは思う。この件についてはご容赦願いたい。
さて、その20冊の中で、「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」と書いてある書籍は何冊あったか?
答えは0冊だ。
調べた限りでは見つからなかった。
ただし、「ご苦労様を目上の人に使うのはNG。お疲れ様を使いましょう」と推奨する書籍は、5冊発見した。もっと多いと予想していたので、案外少なかったが、精査していないため見落としもあるのだろう。
(個人的には、杉村と同じく、ご苦労様だろうがお疲れ様だろうが、目上の人に使っても、まあいいんじゃないのかな、とは思っている)
念のため、その書籍名を記しておく。
○新人の「?」を解決する ビジネスマナー100 または 社会人としての常識とマナーQ&A(メモのミスで、どちらか分からなくなってしまった。申し訳ない)
以上のことから、
○「『ご苦労様』を目上の人に使うのはNG」とするマナーは、確かに複数の著者が主張している
○「『お疲れ様』を目上の人に使うのはNG」というマナーを主張する著者(マナー講師)は、少なくとも「『ご苦労様』NG」以下だろう
ということが確認および推測できた。
杉村は、どのような根拠をもって「この「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」は平成になってからマナー本などに登場した新ルールだよね。」などと断じているのか、また、そのようなマナー本がどこにあるのかを示してほしい。
加えるならば、「新ルール」とまで言うからには、1人のマナー講師・1冊の著書の主張では足りない。最低でも3冊は「お疲れ様はNG」と述べているマナー本を、杉村に限らないので提示してほしいところだが、どうだろうか。
※言っちゃあ悪いが、マナー本なんて、よくも悪くも似たり寄ったりだ。二重敬語のNG例など、同じ表現を何度見たことか…。だが、それは当たり前で、マナー本ごとに言っていることが違ったら、プロトコルとしてのマナーが機能しないからである。逆説的に言うと、本当に「お疲れ様はNG」というマナーが新たにできたというならば、上記の通りタモリ氏・園田氏の事例もあるし、20冊も拾い読みすれば、2~3冊は目に引っかかっておかしくないのであるが…。
改めて、杉村のtweetを見てみる。スクリーンショットだが、元ネタをたどると、
山田優、「両陛下お疲れ様でした」という投稿に批判殺到「皇室をなんだと…」(1ページ目) - デイリーニュースオンラインが出てくる。
デイリーニュースオンラインという段階で、取り上げるのもあほらしくなるのだが、ひとまずそこは置いておこう。
「会社の上司にすらお疲れ様と言うのは失礼と言われるのに。。」
と引用されているだけであり、どのような根拠、つまり、マナー本を読んだりマナー講師に教わったりしたのか、上司にそう注意されたのか、はたまた、自分個人の思い込みなのかは一言も書いていない。
(個人的には、元の発言者は「ご苦労様」と勘違いしているのではないか、という第一印象を持ったのだが、もちろん、定かではない)
それをいきなり、マナー本が~と言い出しているのは杉村である(だからこそ、典拠となるマナー本を提示してほしいのだ)。
実は最初、杉村も「ご苦労様」と勘違いしたんじゃないか、と思ったのだけど、その後別のtweetで、
ついでに「ご苦労様は目下からはダメ」も80年代後半ぐらいに登場したルールのハズ。バブル期の就職ガイドとかで最初読んだような記憶。それがついに「お疲れ様」までという感じ。
90年代初頭は謎マナーが多く登場し「徳利の注ぎ口から注いじゃダメ」「結婚式の引き出物にお茶はダメ」とかもそう。— 杉村喜光:知泉(三省堂辞典発売中 (@tisensugimura) 2019年5月6日
と述べているので、「お疲れ様は目上にNG」と主張するマナー本を数冊は読んでいるのだろう。ぜひ教えてほしい。本当にそう思う。
これまで述べた通り、一個人としては、
○「ご苦労様は目上にNG」というマナーは聞いたことがあっても、「お疲れ様は目上にNG」は見聞きしたことがない
○書店に並んでいるマナー本を抽出調査したが、「お疲れ様は目上にNG」とするマナー本が見つからなかった
ことから、
○「お疲れ様は目上にNG」だと主張する平成のマナー本は、あったとしても本当にごく一部で、「ご苦労様NG」ほどには広まっていない
○「平成のマナー本が『お疲れ様は目上にNG』だと広めた」という杉村の主張には根拠が薄い
と考えているが、はてなブックマーク
[B! 日本語] 「天皇陛下に「お疲れ様」を使って炎上した山田優」に対して杉村喜光さんや飯間浩明さんが「誤用ではない」と解説 - Togetter
において、「『お疲れ様は目上にNG』という謎マナーをマナー本(マナー講師)が広めた」というベースのもとでマナー本やマナー講師をののしっているブックマーカーは、
○実際に「お疲れ様は目上にNG」というマナー本を読んだか、マナー講師の指導を受けたことがある
のか、
○「平成のマナー本が『お疲れ様は目上にNG』だと広めた」という杉村の主張を鵜呑みにした
のかは、せめて教えてほしい。
と、あたかも、言葉遣いのマナーを追及している者も言葉遣いがなっていない、という含みを持たせた書き方をしている。
が、これは釈迦に説法だが、「違和感を感じる」は、話し言葉(引用したコメントの言葉)ならば別におかしな表現ではないし、書き言葉としても、許容範囲内だと考える。
その破堤基準を一つ挙げると、「○○感を感じる」の前半の「感」を取ったときの表現に違和感があるかどうかである。
※一種のジョークとして「○○を感じる、と表現しても(すると)違和感がない(ある)」という書き方をしている。読みづらくしていることは謝りたい。
それなのに、
Twitterアカウントは実名になりアイコンは本人画像になった。
八重洲ブックセンターで開かれるイベントに参加するようになった。
noteを書き始めた。オンラインサロンとかにも参加しているんだろう。
そういうこともあるだろう。
いわゆるインフルエンサーに憧れて,新しい生き方を標榜する人びとは腐るほどいる。
後ろのソファに置いてあるiPhoneを手に取ってTwitterで「お金2.0」とか「hogehogeをアップデート」とかで検索したら5秒で見つかるはずだ。
知らんけど。
でも,僕の大切な友人が,かけがえのない人たちが,そんな腐るほどいるであろう人びとのコピーアンドペーストみたいな発言をし続けることはどうにも耐え難い。
もちろん,彼らの生き方だし,彼らの考えることなのだから僕の口をはさむ余地はない。
分かっている。でもどうにも耐え難い。そんな気持ちで今文章を書き殴っている。
彼らは(僕らは),偏差値が高くも低くもない地方の国立大学で同じサークルに在籍していた。
みなさらなる地方から出てきて下宿をしていたので,口実を見つけては(あるいは口実などなくとも),酒を飲んだり,タバコを吸ったり,深夜アニメを観ながら麻雀を打ったりした。
彼らはみな何かを考えていたし,自身の哲学を持っているように見えた。
僕はあまり友人が多くなかったし,地元にあまりいい思い出もないので,彼らとの時間こそが僕にとっての青春時代だったのだと思う。
願わくば,彼らにとってもそうであって欲しい。
彼らはみな優秀だったし,特に就職活動で苦労することもなく大企業に内定した。
僕は就職活動をしなかったので詳しいことは分からないが,当然の結果だと思う。
魅力的な人間が正当に評価されたことは自分のことのように嬉しかった。
そして,僕らはそろって卒業し,僕は別の地方へ,彼らは東京へと転居した。
卒業後も出張や帰省やその他もろもろの用事で近くに行ったときには連絡を取るし,酒を飲みながら,コーヒーを飲みながら色々な話をする。
彼らは相変わらず魅力的な人間だったし,仕事の話も僕にとっては新鮮で興味深い。
僕は彼らのことが本当に好きだし,匿名のこの場では,恥ずかしげもなく親友であると言いたい(もちろん実際にあって確かめ合うようなことはしないので実際のところは分からないが)。
繰り返すが,彼らの生き方に僕が直接何かを言う権利などありはしない。
SNSの使い方というのは非常に難しい。
僕は母親とTwitter上で相互フォローなのだが,ある時を境に母は政権批判のリツイート以外をしなくなってしまった。
彼女には彼女なりの思想があるのだろう。何かを言うことはできない。
彼女のTwitterアカウントは数年前から僕のミュートリストの中にある。
思うに,誰もが言いたいことや考えていることがある。
しかし,咀嚼して,飲み込んで,消化してしまう前に色々なものが燃え尽きてしまうのだ。
一瞬で燃え上がり,そして燃え尽きてしまう情報について考える時,僕は大気圏で煌々と輝くスペースデブリを想像せずにはいられない。
そんな時に目に飛び込んでくるキャッチーなフレーズはあたかも答えを与えてくれるように思えるのだろう。
僕自身にも思いあたる節がある。
話が逸れてしまった。
大学時代の彼らの話は未消化で,拙く,青臭かった。
でも,決して誰かのコピーアンドペーストではなかった。
一切の出典のない話はこの世に存在しない。
でも彼らの話は本物だったし,彼ら自身だった。
そんな彼らの話が僕は好きだったし,僕自身もずいぶん恥ずかしい話をしたような気がする。
変わらない人なんていないのだろうが,そう思える。
だとしたら,僕の感じる嫌悪感の正体はアウトプットの方法にあるのだろう。
情報を噛み砕いて,飲み込んで,消化する。そして何らかの形で放出する(あるいは排泄する)。
この一連の作業に必要なものは枠組みだろう。フレームワークなしで人間は論理だった話をすることはできない(もっと言えば論理的思考も)。
いわゆるインフルエンサーは,旧来のフレームワークを貶しながら「新た」な,「多様性」の名の下に画一的なフレームワークを提供する。
では、そのグローバルな新しい世界を受け入れたビジネス書に何が書かれているかというと、究極的には自己啓発的に「がんばれ」としか言っていない。
しかし、現在の東京は、シリコンバレーでも深圳でもない、世界の中で2周遅れた街になっています。
東京にはグローバルな情報産業のプレーヤーとして誇りを持てる環境は全くなくて、そこで生まれる言葉は非常に貧しい。
もちろん、東京にもポジティブにもがいている個人はたくさんいますけど。やはりこの現状では「がんばれ」くらいしか言うことがないのだと思うんです。
(https://www.asahi.com/and\_M/articles/SDI2018071041031.html])
ビジネス本批判なのだが,いわゆるインフルエンサーの発言もこれに近いものだと思う。
絶望的な現状を(現在の枠組みを)冷笑的に貶め,インターネットとSNS,テクノロジーが新しい生き方を生み出す!と声高々に宣言する。
ではどうしたらいいのか?がんばれ。動け。ポエムを大さじ2杯ほど。
結局のところ,枠組み「っぽいもの」以上が与えられないままアウトプットのフェーズにたどり着いてしまう。
インフルエンサーの人びとは「がんばって 」それなりの成功を納めたからインフルエンサーたり得るんだろう。
ただ,彼らの何百倍もの人びとが同じように失敗し続けている。
結局のところ,誰も何も分かりはしないんだろう。
僕はウィナー・テイク・オールでばらまかれ続ける虚無を嫌悪し続ける。そして、僕の好きな人びとに薄っぺらな言葉を吐かせたことを悲しく思う。
僕の友人たちは成功するかもしれない。
あるいは失敗するかもしれない。
私たちはどうつながっていけばいいのか<広く弱くつながって生きる>佐々木俊尚/小野美由紀 - 幻冬舎plus
佐々木 それはね、ポリティカル・コレクトネスの議論ってすごくあるんだけど、たとえばLGBT、たとえばゲイを「気持ち悪い」と内心で思ってしまう自由はあるのです。。ただ、それを口に出すのはまた別。ただし内面にあるその気持ち悪いと思う気持ちは許容する。そしてゲイの人がいることは絶対に否定しない。そこの両立をさせることがたぶん一番大事で、そこで無理矢理、いやいや、ゲイは気持ち悪くないだろ。ちゃんと理解しろよというのはやりすぎだよねというね。マイノリティに対する違和感というのはみんな持っているわけです。その違和感をなかったことにするのも、それはそれで人間の本質的には無理があるかなという、そういう話ですよね。
最前列にいたお客さん ゲイなんか普通の人間関係だったらつき合えるけど、俺に恋愛感情を抱かれたら、気持ち悪いってことですよね。
佐々木 まあ、そうでしょうね。それは個人の自由。ただ、それを口に出すのは良くないということと、そういう気持ちがあることを逆に否定するのも良くないというね。そういうことだと思います。
確かにゲイにいい印象はもっていないのかもしれませんが、発言そのものは単に佐々木氏の言ってることを確認してるだけでしょう。
「ゲイを気持ち悪いと思ってしまう理由は、俺に恋愛感情を抱かれたらと考えてしまうからですよね」と。
この場合の「俺」というのはおじさん本人ではなく、たとえ話に出てきた「ゲイを気持ち悪いと思ってしまう人」を指しているので、このおじさんが自意識過剰というわけでもありません。
そしてこれが「ゲイがいてもいいけど、好かれたらキモい」発言にキレた話(小野 美由紀) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)では、
「ゲイがいるのは勝手だけど、俺のことを好きになられたら気持ち悪いって話だよ」
目の前の初老の男性がそう叫んだのは、佐々木俊尚さんとの八重洲ブックセンターでのトークイベント終了2分前、話題が「多様性」に及んだ時のことだった。
こうなっています。
https://note.mu/hyamaguchi/n/n22cc66180983
先日代官山蔦屋の隣を歩いた時、外国人女子二人が写真を撮り合っていた。
確かに過剰にオシャレだ。
あの『T』のモノグラムでできた外壁なんて最初見た時は掃除大変そう!と思った。
どこに何があるのかも初見ではわかりづらい。八重洲ブックセンターや新宿紀伊國屋に慣れてしまうとそうだろう。
でも僕は、あのお店は、「小売」という商売形態の今あるべき姿だと思う。
洋服にせよ家電製品にせよ本にせよ、正直実店舗なんか必要ない時代だ。
ZOZOTOWNやヨドバシ・ドット・コムやAmazonでなんでも買える。
実店舗は雇用を産み、交流を促し、ブランド価値を高める、そういう店でないと構える必要がない。
ではこれから若い世代を中心に人が集まる店を作っていこうと思うと、どういう店を作るべきか。
車が売れない、服が売れない、CDが売れないという意見はよく聞くが、今20歳くらいの若者に何に興味があるか聞いてみたことはあるだろうか。
TwitterやFacebookやインスタグラムで自己を顕示することに一番興味がある。
ディズニーランドは内容もさることながらロケーションに価値がある。
訪れる人はみな一様に写真を撮り、webにUPし「イイね!」を貰う。
いかにオシャレに映るか。いかに可愛く映るか。いかにイイねを沢山貰うか。
英語がマスト?違う。写真こそが世界共通の言語だ。価値観の微妙な差こそあれど、写真は一番簡単に世界中で通じる言語になった。
誰よりもいい写真を撮って注目を集めたいのだ。
小売を生業にする者達は、これからどんどん店舗運営は厳しい時代になるだろう。
店舗を作る際はよく考えなければならない。
少なくとも僕は代官山に本屋を作る時に、八重洲ブックセンターや新宿紀伊國屋のようなお店を作ってはいけないと思う。
買いたい、読みたいという本がなくなってしまった。
八重洲ブックセンターにいたら昔はいくらでも時間が潰せたのだが。
学生時代から本を買いすぎていたのだが、親が死んだり会社を辞めてフリーランス→請負→派遣と
貧乏になってきたので自分にぎりぎり理解できるレベルの本だけを買うように心がけていたら
・うちにあるから買わないでいいよ、な本(大体同じことが書いてある本を含む)
・自分には無縁な本(レベルが高すぎる、専門家しか必要としない細かい情報を含むなど)
・実用的に意味のある本(だがもうほとんどない)
・ポルノを含む純然たる娯楽
の5種類に分類されるようになり、ちょうどその頃見合いした相手と1年半後に結婚した。
不思議なのはかつて山ほど買っては職場を去るときに寄贈したりもした
「実用書」という分類に属する本がこの数年で極端に縮小したことだ。
たぶん仕事(IT系、非プログラマ)で新しい知識を求められることがなくなったせい。
そして背伸びをやめたので無縁な本が増えた。
最近は最後の分類に属するものを見ては、うーん、ブックオフでなんとかしようか、
でも衝動的に欲しいなあ、とか逡巡するようになった。
性欲が亢進するときは、お守りがわりにお気に入りのエロ小説を持ち歩いている。
どうせ中身は同じだから、と買いたがる自分を止めるためだ。
亡母や弟と違って小説好きでないのが幸いした。最後に買ったのは
川端の『掌の小説』か、買いなおしとわかっていた『ジャッカルの日』か。
家内にしてみれば私はまだ本を買いすぎると思うけど。
最近は趣味で学術論文を読んでいる(学問のトレーニングを受けていないので
あくまで趣味の範囲)。IT 系なので IEEE Computer Society に
まずは入ってすぐ辞めて、ACM Professional Membership で
Knuth の昔の投書とか、入手して読んだ。そのうち Google Scholar で
ネットサーフィンをしては、arXiv や著者本人の公開している
プレプリントをこっそり会社でプリントアウトしては読むという悪癖に染まった。
英語力はないので論文は眺めても洋書はきつい。とりあえず 200 ページ以上ある
本は買わない、ということにしたら、以後増えなくなった。基本的には Dover。
ACM の会員資格は最近あんまり使ってないけどお布施的に更新している。
MSDN とか OTN とか RHN に個人でお金を払うことを考えたらぜんぜんお得だと
思うことにしているが、あまり役に立ってない。来年はやめるかも。
それでも読めないものがあるので、ScienceDirect とか JSTOR にアクセスするために
国立国会図書館新館地下まで足を運ぶ稀な機会を心待ちにするようになった。
そんな日々に NK-EXA の安藤さんのこの記事をみてちょっと心穏やかでない。
http://www.atmarkit.co.jp/fjava/column/andoh/andoh47.html
同じことをする人が増えるとなにか自分が不利益を受けそうな気がするのだ。
何がいいたいのか自分でもよくわからない。たぶん、くだらない本を思い切り
買えないことが少し寂しいのだと思う。
最近やけに盛り上がっている東浩紀批判では、「歴史については実証的に捉えるべきだ」「歴史を“実感”で語るな」という方向性をよく見る。もちろんそれはそうだろう。
でも、実証するなら、もう一つ方向性があるよね。そもそも東の論では歴史をあんまり知らない大衆というのが視点の核になっているんだから、「歴史に接する可能性のある大衆について実証的に捉えるべきだ」という方向もある。
何で実証するかというと、大きな本屋やAmazonなんかが公表しているベストセラーリストだ。リストの上位50冊くらいの中で歴史を取り扱っている本はあるか、あるとすればそれはどんな内容か、というのを追っていけば、大衆の歴史観を知るだいたいの目安にはなるだろう。傍証として、テレビの視聴率番付やDVDの売上ランキング(またはツタヤの貸出ランキング)から「歴史モノ」をピックアップしていくのもいい。
もうちょっとテクストクリティーク(笑)的方向を加味するのであれば、上位10冊の中に“歴史”チックなモチーフは含まれているか、もし含まれていればそれはどのようなものか、といったあたりを探るのもいいだろう。大衆への影響力を強く持っていそうな“歴史”イメージはどんなものか、何となく手がかりになるかもしれない。
「正しい歴史とは何ぞや」にこだわる人にとって、こういった統計やランキングは何の「実証」にもならないだろう。
しかし、「大衆に広く受容されている“歴史”はどんなものか」という観点から見れば、こういうデータも立派に役に立つ。
東が言っていたのは、こういう方向性の話だと俺は思っているんだけどね。