はてなキーワード: 信仰告白とは
男らしく、なんて言葉が有るのは、自然に任せるとナヨナヨするから。
女らしく、なんて言葉が有るのは、自然に任せるとガサツになるから。
日本で忠義を重んじる武士道が発達したのは、自然に任せると下剋上とか平気でするから。
欧州で礼節を重んじる騎士道が発達したのは、自然に任せると下品で無礼なことを平気でするから。
中国で仁義を重んじる論語が受けたのは、自然に任せると不義な行いを平気でするから。
米国でスポーツマンシップが受けたのは、自然に任せると卑怯な行いを平気でするから。
朝日はまとめてしまってるけど。こんなやりとりだったそうで。
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20091117-OHT1T00036.htm
小沢氏「君は何教だ」 キリスト教発言への質問に逆ギレ
「キリスト教は排他的で独善的」との発言が波紋を呼んでいる民主党の小沢一郎幹事長(67)が、16日の記者会見で「私は宗教論と文明論を言った」とし、撤回する意思がないことを明らかにした。小沢氏は記者に「君は何教だ」と逆質問するなどキレ気味にヒートアップ。人の煩悩の数やエベレスト登頂の意義にまで言及するなど珍妙な会見となった。
小沢氏(以下小)「私は宗教論と文明論を言ったんだ。君は何教だ」
小「仏教ちゅうの、どういうの?」
記「浄土真宗です」。
これ、記者が応じてるからいいものの、無理矢理言わせてたら消極的信仰告白の自由(告白しない自由)の侵害だよ。
そもそも、専門的知識を持たないド素人であり単なる思想オタクであるところの「知識人」が、己が「知識人」であるという理由のみで何かについて権威的に意見を述べることのできる時代はとっくに過ぎ去った、というのは東が何年も前から歴史学に限らず様々な分野について繰り返し言っていることで今に始まったことではない。ちなみに、思想オタク云々までは東は言ってないと思うが、早い話がそういうことだろう。
もちろん、歴史修正主義者の主張の誤りを専門的見地から批判すること自体は今でも十分可能だ。しかし、「知識人」であるというだけで歴史学について専門的能力を持たないデブのおっさんに、何かしらの「義務」があるという主張には同意しかねる。それは歴史家(や能力ある有志)の仕事だ。そうでない東が何事かを「権威的に」述べても、思想家としての倫理的にも現実問題としても単なる信仰告白以上の意味を持たない、というのがネットを舞台に言論を戦わせてきた思想家の至ったとりあえずの結論なのだろう。
そのような風見鶏的態度は許されない、という批判の傲慢さについては既に批判を加えたので繰り返さない。東の態度は、正否はともかく「公共圏」という概念に対する真摯な取り組みの一つの帰結であることは確かなわけで、そこに取り組まずにいくら「知識人の責任」なるものを振りかざしても、議論はすれ違うだけのように思える。なお異論がある向きは、近々刊行されると思われる「思想地図」のvol.2をあたってみるのも良いのではないか。目次を見る限り、おそらく引き続き公共性問題が話題の中心になると思われるので。
「どれだけ絶望しようと対話の中から公共性を見出していこうとする」態度は、個人的には肯定する。しかし、それはやはり自明ではないし、まさに自明であるとすることが「公共圏」の範囲に恣意的な境界線を引くことである、というのが東の議論なわけで。
追記:
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20081207
焦ることなくちゃんとした意見をまとまった形でネットに掲載すれば、人はいつか読むのだから。情報の断片化に対して、あきらめの態度をとるのはいかがなものかと思う。断片化する世界を工学的に乗り越える(政治!)、のではなく普通にテキストを機関銃のごとく書きつづけるのがホンモノのポストモダニストではなかろうか。
東はしばしば「知識人としての自分」と「個人としての自分」を区別して語っているので、後者としては同意するんじゃないかなぁという気がする。しかし、書籍というパブリックな場における「知識人としての自分」はこういうことを言わないのが思想家の倫理である、と思っているフシがある。
繰り返すけど、歴史学に関する専門的な能力のない東が機関銃を手にテキストを撃ち続ける義務がある、とする主張は誤りだと思う。それは、あなたや私や志ある人ややりたい人がやればよくて、そしてそのことには意味があると私も信じる。そのこととは別に、「歴史修正主義者も自分では確固としてそう信じており、その信念を否定するのは難しい」という東の議論は基本的に正しいし、きちんと取り組む必要のある課題だと思う。
というか、「東は正統なポストモダニストか」という論点はあんまり意味がないと思うんですけどね。「東はデリダの教えを受け継いでいない」という主張が真だとして、東の公共性に関する議論を否定できるわけではないし(東が至った絶望というのは東個人がこれまで出会ったものに強く関係しているのだろうし)。もちろん、デリダがどう言っていたかを調べることで、新しい視点が出てくるということはあるかもしれないけど。
「自分の信頼している人がその宗教を信じている」というのが、宗教を信じはじめるきっかけの一つだと思う。
カルトっぽくない宗教で世襲以外だと、このタイプが多いんじゃないかな、と思ってる。
↓みたいな感じ。
信仰告白と浸礼という形でとても緊張致しましたが、
すごく神聖な、一生忘れ得ぬ日となりそうです。
自分の教会との出会いは、ひたすら「助けて欲しい」という私の思いに、
神様が哀れみを下さったものと思っています。
まだ教会に通い始めて3ヶ月と早い洗礼でした
が、バプテスマを受けるという決心に至るには、
「祈りの心がけ」、「聖書を読みたい・教会へ行きたい」を始め、
そして、私にとって、何より結城さんがクリスチャンだという事実が私を勇気付けて
くれました(変な言い方ですが・・・)。